2011年5月14日土曜日

心のケア


NHKの「クローズアップ東北」を見て、また泣いた。心療内科医が子どもや若い男女の内面に向き合い、心の傷をほぐしていく。子どもや若い人だけではないだろうが、言葉を引き出すことで「封印」していた悲しみを吐き出させ、次の場所へと送り出す。それがドクターの役割だ。泣いていいんだよ――ドクターも手を握り、肩をたたき、ときに涙ぐむ。

心療内科医がそのときにいたら……。昭和31(1956)年4月17日夜。阿武隈高地のわが町が大火事になった。小学2年生になって半月もたっていなかった。自転車やアルバムが灰になった。私はだから、小学1年生までの写真は一枚もない。で、「思い出」は写真じゃないよ、心にあるんだよ」と言っても、あったらよかったなという思いはある。

地震・津波は「思い出」を海に流した。が、ガレキに残ったものもあるだろう=写真(永崎)。がれきの合間から「思い出」が回収できるなら、これは生きる心の支えになる。60歳を過ぎてなお、7歳のときまでの写真を恋しく思う。

それよりもっと大変なのは、子どもたちは大人のようには泣けないことだ。言葉に出せない分、心を封印してしまうのだ。ときには本心と違うことを言う。私の「新聞記者」像の原点がそこにある。

大火事の翌朝、同級生と二人で避難していた近くの段々畑から下りて焼け野原の通りに出た。父親が焼け跡で何やらやっていた。父親がそこにいるからには、そこがわが家なのだ。急に、大人の人に声をかけられた。「坊やたちのおうちはどこ?」。父親がそこにいるから、「あそこ」と言えばすむのだが、なぜだか「知らない」と答えた。

すると、「動かないで」。その人が言った。写真に撮られた。あとで小名浜の叔父から、写真が「お家を探す子ら」というタイトルで産経新聞に載っていた、と教えられた。私はウソをついたのかと、今でもときおり自問する。

いや、たぶんこうなのだ。大震災以後、テレビで流れるようになった宮沢章二の詩<「こころ」は/だれにも見えないけれど/「こころづかい」は見える/……>。それを聞くたびに、大人はそうかもしれないが、子どもは逆だ。まわりに気をつかって「こころ」を見せないのだと、胸の中で反論してきた。

7歳では泣かなかった「こころ」も、54歳のときの「阪神・淡路大震災」では泣いた。泣くのに47年間かかったと思った。

(12日付の「知人が東電に電話した」にコメントを寄せてくれた方、申し訳ありません。きのう、トラブルが発生し、コメントが消えてしまいました。追記=22日にコメントが復活していました)

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