2011年7月26日火曜日

薄磯で人に会う


3・11の大津波でいわき市の沿岸部は甚大な被害を受けた。特に、灯台のある塩屋埼の南に湾曲する豊間と、北の薄磯はじゅうたん爆撃に遭ったようだ。

豊間に仕事場のある旧知の大工さんを訪ねたら、留守だった(彼は間一髪、津波から逃れた)。その足で灯台のふもとを巡り、薄磯に出た。海に面した防波堤のそばにポツンと1軒、1階部分の壁は抜けながらもしっかり立っている家がある=写真。もちろん住める状態ではないが、柱は一本も折れていない。カミサンの知人が家の中にいた。

前は、その家から海側にせり出した建物があった。1階は車庫、2階は喫茶店。ママさんはパッチワークをやる。カミサンからよく「古裂れ」を調達していた。しばらく二人で話している。そのうち、たがいの夫も話の輪に加わった。

大津波が押し寄せてきた当時の様子を生々しく語ってくれた。ママさんたちは近くの小学校へ逃げて無事だった。私たち内陸部の人間はテレビが伝える岩手や宮城の映像で承知しているが、薄磯でも津波によって家が押し流されるときに土煙りが舞い上がった。

防波堤で津波の来るのを眺めていた住民はそのままさらわれた。いったんは孫をおぶって逃げた人は、孫が「寒い、寒い」というので、はおるものを取りに戻ったところを孫とともに津波にのまれた。自分たちも、義理の弟夫婦など身内を6人いっぺんに失ったという。

今は内郷の雇用促進住宅に仮入居している。被災当初、原発事故もあって東京に避難した。3カ月間は気が張っていたせいか、なんということなく過ぎた。が、そのあと感情的な波が激しくなった。親族で争い事が起きかねない事態にもなった。「これではダメだ」と思った。

前に進んでいかないといけない。「腹が立つので、この家でパッチワークの個展をやろうかと思っている」。その意気である。負けない・へこたれない・あきらめない――「3ない」精神でいくしかないのだ。そのとき、津波に流されずに残った家は、自分たちの再生のシンボルになる。いや、シンボルにしなくてはならない。

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