2011年9月30日金曜日

民具救出作戦


3・11に津波被害を受けたいわき市平豊間地区では、今も家屋の解体作業が続いている。きのう(9月29日)夕方、解体の迫っているある家を訪ねた=写真

旧家で、大谷石の蔵は無事だった。中に民具がいっぱいある。所有者の許可を得て、豊間の知人が市暮らしの伝承郷に連絡した。伝承郷の事業懇談会委員をしているカミサンにも声がかかった。伝承郷に必要な民具を救出しよう、というわけだ。所有者は首都圏に避難していていない。

知人は大工さんだ。宮大工だった父親がその家の神棚を製作した。長さが2間。とてつもなく大きい。それだけの財力があり、家の造りにも贅を尽くした、ということだろう。

文化財級の神棚だが、家もろとも解体されれば一巻の終わり。知人は早々と父親の技が凝縮された神棚を救出していた。津波被害に遭って、住めないけれども自宅兼作業場に保管してある。

伝承郷の面々とカミサンは蔵から必要な民具を取り出したあと、母屋をチェックした。同じころ、庭木を始末するためにバックホーが庭に入ってきた。小型ダンプカーも入ってきた。バックホーのオペレーターが言った。「あした(9月30日)は家を解体するから」。<物を取り出すのは今日が最後だよ>ということだろう。

西側隣地との境にイブキその他の木が植えてある。それを、バックホーの鋼鉄のツメがバキバキ折ってはがしていく。たちまち根っこが引っこ抜かれる。木が悲鳴を上げている、そんな印象を受けた。

そのうち、子どもが幼稚園で一緒だった旧知の女性がやって来た。女性の夫はカミサンの同級生。その姉さん(所有者)が嫁いだ家だった。奇遇だ。姉さんは私らがよく知っている女性たちの同級生であることもわかった。

雨戸の戸袋は銅板葺きだった。屋根の一部もそうだった。とっくに消えていたという。誰かがはぎとって換金したに違いない。

家具があり、食器がそろっていて、寝具やアルバムが残っている。ほとんど暮らしていたままの状態で解体される。3・11を境にして日常が壊れ、日常を営んでいた家が永遠に消えてなくなる。

家の前はあらかた更地になっている。海が近い。波しぶきが散っている。家並みに隠れて見えなかった海がすぐそこに見える不安、恐怖。それが解体に拍車をかけている、ということもあろう。

東側の隣地の境をふと見ると、ハクモクレンと思われる庭木が狂い咲きをしていた。この木もきょう、根こそぎ折られることになる。

2011年9月29日木曜日

交流スペース


いわきで復興支援活動を展開しているNGO「シャプラニール=市民による海外協力の会」が先日、いわき駅前再開発ビル「ラトブ」のいわき産業創造館に行政、経済団体、市内NPOなどの代表を招いて意見交換会を開いた=写真

いわき市(市民協働課、復興支援室)、富岡町、広野町の関係者のほか、いわき市社会福祉協議会、いわき商工会議所、平商連、いわき市民コミュニティ放送、いわきNPOセンター、ザ・ピープル、勿来まちづくりサポートセンターが参加した。

シャプラニールがいわき市で行ってきた支援活動を報告するとともに、今後予定している活動、たとえば「被災者向け交流スペースの設置・運営」といったことについて説明し、意見を聴いた。

シャプラは来年で設立40周年を迎える。市民によるNGOとしては日本で最も古い組織だ。いわき出身の私の友人が創立メンバーの一人のため、個人的に前からシャプラとかかわっている。

もともとはバングラデシュとネパールで「取り残された人々」の支援活動を続けているNGOである。それが、東日本大震災の惨状に急きょ、国内でも支援活動を展開することにした。

宮城、岩手両県と違って、福島県の浜通り、北茨城市を含むいわき市には原発事故もあってNGOが入っていない。そこで3・11のあと、北茨城から支援を開始していわきに移り、以後、いわきを拠点に被災者に向き合った活動を続けている。

救援物資の運搬、災害ボランティアセンター運営の支援、一時借り上げ住宅入居者などへの生活支援プロジェクト(調理器具セットを配布=約950件)、久之浜、豊間両中生徒のための夏休みスクールバス運行と、時間の経過とともに変わるニーズにこたえてきた。

生活支援プロジェクトでは調理器具セットを届けながら、聞き取り調査をした。そこから①コミュニティの分裂②土地勘もなく、知り合いも少ない不安③高齢者、要介護者、病気を抱える人がいる世帯の多さ④買い物・通院・通学の不便さ⑤情報不足⑥仮設住宅・雇用促進住宅への支援の集中⑦先の見えない不安――が見えてきた。

なかでも、被災した自宅に残る世帯に支援が届いていないこと、民間住宅入居者にとって不公平感があることがわかったという。

同じ被災者ながら「見捨てられている」という思いを抱いている人々がいる。そういう人たちを取り残してはならない――これが、シャプラの基本的な姿勢と言ってもいいだろう。

そこで、そういう人たちのために①交流スペースを設置・運営する(常駐スタッフの配置・情報コーナーの設置)②情報紙を発行する③「声を聴く会」を開催する―などのプランを、意見交換会の席で提案した。

これに対して、シャプラへの期待・アドバイス・注文、その他行政への要望といったものが出された。広野町、富岡町の関係者の意見は傾聴に値するものだった。

「仮設住宅からバス停まで遠い。仮設の前にバス停を移せないか」(広野町)「いわきには4000人がいる。県外にいる6000人も、ほとんどがいわきに来るのではないか。(シャプラが町より)先行して交流スペースを運営してくれるとありがたい」(富岡町)

シャプラの交流スペースは10月9日、「ラトブ」2階にオープンする。落語やキルトなど、被災者の息抜きになるような催しも企画されている。

2011年9月28日水曜日

ミニホットスポット


毎年10月10日を目安に三春ネギの種をまく。その苗床をつくらなければならない。生ごみもたまった。きのう(9月27日)早朝、夏井川渓谷の無量庵へ車を走らせた。

先日の台風15号でがけ崩れが発生し、溪谷は通行止めになった。それから1週間、いくらなんでも復旧しているだろう、とみて直行した。正解だった。

平野部をかけのぼってすぐ出合うロックシェッドから上流側に、何カ所か崩落の跡があった。3・11以後は特に揺すられ続けている。落石危険地帯でもある。台風が来て、それこそゆるんでいた表層の土石が簡単に崩れたのではないか。そんな印象が強い。

溪谷の集落に暮らす人間には、今度の通行止めはいつもの自然現象だったはず。ここは崩れるだろう――毎日、その道を往来している人たちにはわかる場所があって、今度もそういうところで土石が崩落した。

無量庵は、庭の草刈りが半端だった。あとをプロに頼んだら、土曜日(9月17日)にやってくれた=写真。頭の中まですっきりした。

ネギの苗床を菜園の一角に設ける。それに合わせて庭と建物の周りの放射線量を測った。堆肥枠のシートから去年の刈り草がのぞいている。思ったより線量は低かった。菜園は0,28マイクロシーベルト/時、前にけずりとって菜園のそばのヤブに置いた表土は0.35と、6月に測ったときとあまり変わらない。

前に未計測だった坪庭の雨樋の排水口と、雨樋からじかに雨が零れ落ちる庭木の中の地面を測る。雨樋は高い数値が出る――聞いていた通りになった。坪庭1.44、庭木の中の地面1.19。わが無量庵のなかではミニホットスポットだ。敷地内の17カ所を測って、線量の高い場所がわかっただけでも収穫だ。

ミニホットスポットは当然、土の入れ替えをしなければならない。としても、汚染土壌を外には持ち出せない。人の近づかない敷地内のヤブの土を深く掘り、そこに埋めるしかないのか。そんなことまで強いる原子力とは何なんだと、またまた怒りがよみがえる。

2011年9月27日火曜日

交通安全カラオケ大会


旧神谷(かべや)村を指す「神谷地区」は八つの区内会からなる。その区内会をつなぐ組織が種々ある。いわき中央地区交通安全協会神谷支部はその一つ。日曜日(9月25日)午後、神谷公民館で支部主催の「交通安全カラオケ大会」が開かれた=写真。交通指導員を兼ねるわが区の区長さんが「来てみたら」というので、会場をのぞいた。

会場は長方形の和室66平方メートル。ざっと40畳か。奥にカラオケの機械、手前に折りたたみ式座卓が連なる。参加者兼聴衆がすきまなく座っている。

高齢ドライバー向けチラシと飲酒運転根絶チラシとともに、出場者の一覧表が配られた。一覧表を見て驚いた。ざっと40人がエントリーしている。男女の比率は男性1に対して女性3といったところか。熟年世代のなかに例外的に一人、20代の女性がいた。

40人もいれば曲は2番まで、終わればすぐ次の曲がかかるというあわただしさだ。素人には違いないが、カラオケ愛好会で鍛えているのだろうか。マイクの扱い方も堂に入っている。歌詞がすっかり頭に入っている人もいる。おかげで、2時間どっぷりとナツメロの世界に沈んで浮きあがれなかった。

熟年世代はカラオケが好きなのか、神谷地区の人たちだけが特に好きなのか。そのへんはよくわからない。が、神谷では毎年、交通安全カラオケ大会が開かれる。カラオケの好きな熟年が多いのは確かだろう。支部長さんも、交通指導員さんもいいのどをしている。

新聞でいえば、「ニュース」ではなく「地区だより」に類する催しだった。知る人ぞ知る行事で、同じ地域に住む私もいつ開かれているのか全く知らなかった。

建前は熟年世代を対象にした「交通安全」啓発の集まり。が、次のような面も期待できる。カラオケを通して地域住民のきずなを深める機会になっている。生きがい対策の一つと言ってもいいかもしれない。

限定されてはいても、趣味を同じくする人々がマイクを握る、あるいはPTAが集まりを持つ、ゲートボールを楽しむグループがいる――そうしたさまざまな寄り合いがコミュニティを支えているのだろう。

NHKののど自慢が終わった直後の大会スタートだった。審査員になったつもりでチェックする。合格の鐘を鳴らしたい人が数人いた。なかでも、わが区の役員をしている女性はセリフ入りで「瞼の母」を歌い、大きな拍手を受けた。思わず「『瞼の母』を歌わせたらいわき一」というギネス的一行が頭をよぎった。

2011年9月26日月曜日

秋の墓参


日曜日(9月25日)に墓参りをした。秋分の日は金曜日で、カミサンは米屋(支店)の仕事をしなくてはならない。私も細かい用事を抱えていた。カミサンは、最初から墓参は日曜日にと決めていたようだった。あとで雲が出てきたものの、朝からまずまずの天気になった。寺を2カ所回った。やはり日曜墓参組がいた。

春分の日には福島第一原発からざっと90キロ離れたところに避難中で、はるか西からいわきに向かって手を合わせるほかなかった。3月23日に帰宅した。春の墓参りをしたのは4月中旬、義父の命日に合わせてだった。墓地の墓石があらかた倒れていた。カミサンの実家の墓も同じだった。

それからほぼ半年。実家の墓はそのまま=写真=だったが、旧に復した墓が増えている。石専用の接着剤をのぞかせたものもある。

カミサンの先祖の墓をはじめ、昵懇にしていた老彫刻家の墓などに線香を手向けた。若くして死んだ詩人(磯貝彌)にも手向けた。天田家の墓の一角に天田愚庵の歌碑があるのを見つけたので、それにも手向けた。このところ、磯貝彌について調べたり、愚庵について調べたりしている。お礼の意味もある。

天田家の戸籍は旧草野村にあった。戦後、草野村の助役をしたのが民俗研究家の高木誠一。高木家から、誠一が書き写した天田家の戸籍が出てきた。そのコピーを入手した。誠一は愚庵の何を調べたかったのか。そんなことが頭から離れない。

秋彼岸にはなぜだか気持ちが落ち着かない。9月22日は草野比佐男さんの命日、つまりわが母の命日でもある。それを心のどこかに刻んでいるからだろう。今年は雑用に追われて命日を振り返る余裕がなかった。土曜日になって「ああ、そうだった」と思いだした。

2011年9月25日日曜日

市民講座再開


手前みそながら、いわき地域学會が活動を再開した。3・11以来、春の巡検を中止し、市民講座を延期していたが、区切りの半年が過ぎたことから、会としての「日常」を再構築することにした。9月24日にはいわき駅前再開発ビル「ラトブ」で7カ月ぶりに市民講座を開いた=写真。およそ40人が参加した。

受講者は常連さんが多い。2月19日に市文化センターで市民講座を開いて以来だから、ほんとに久しぶりの再会だ。市民講座復活にあたって、「二つのサイカイを喜びたい。皆さんに再会できたことと、市民講座が再開できたことを」とあいさつした。

大なり小なり全員が被災者だ。その人たちが地域学會の活動再開を待ち望んでいた。あいさつを交わし合う姿からも、そのことを感じ取ることができた。

地域学會にはさまざまな分野の専門家がいる。市民講座は放射線の話から再開しようとなった。会員の工学博士小野双葉さんが講師を引き受けた。「日常生活と放射線」と題して話した。

放射性物質が始末に負えないのは、やって来ても目に見えるわけではなく、においがするわけでもないことだ。金子みすゞの「星とたんぽぽ」ではないが、「見えぬけれどもあるんだよ。/見えぬものでもあるんだよ。」だから、無防備な市民は怯え、不安になる。小野さんの話を聞いて、少しは気持ちが穏やかになったような感じがした。

市民講座はこれまで、毎年2~11月の第3土曜日に市文化センターで開いてきた。ティーワンビルの生涯学習プラザが会場になることもあった。それが3・11以後、市の災害対策本部になったり、震災の影響で使えなくなったりした。ラトブを会場に選んだのはそういった事情による。10月もラトブが会場になる。

2011年9月24日土曜日

光の鳥


いわき市立美術館で「いま。つくりたいもの。伝えたいこと。」展が開かれている。いわきの作家25人が震災後に制作した作品約60点と、全国から公募した平面作品約200点が展示されている。

津波で家がなくなったり、震災で自宅が「全壊」になったり、個展中にテラコッタの作品が宙に舞い、粉々になったり……と、いわきの美術家もまた3・11に過酷な体験を強いられた。

被災した作家たちの祈りや問い、怒り、希望、願い、鎮魂、哀悼といったものが作品ににじみ出ている。不思議なことに、いや不思議ではなく当然なことかもしれないが、それらの思いがストレートに伝わってくる。同じ場所、同じ時間を生き、同じ体験をしたことによる「共振作用」だろうか。

吉田重信さんの「心ノ虹2011」はコーナーを利用した立体作品=写真。床に幼い子らの靴が並ぶ。それだけで考えさせられるものがある。天井近くには花。その間に「光の鳥」と名づけられた絵はがきがはばたくようにつるされている。あとで知人(女性)が言った。「子どもの靴を見て近づけなかった」

「心ノ虹2011」は「光の鳥」プロジェクトの一環だ。同プロジェクトは2004年、トルコのイスタンブールで始まった。今回は新たに組織された「FUKUSHIMA ART プロジェクト実行委員会」が主催者になっている。

「光の鳥」が描かれた絵はがきに、自分へ、あるいは肉親へ、友人へあてて自由にメッセージや絵を書き込む。幼児はただ色を塗るだけでもいい。それらを展覧会で展示したあと、実行委が切手を張って「飛ばす」(投函する)、という仕組みになっている。

先日、「光の鳥」プロジェクトの中身を吉田さん本人から聞いた。9月から11月にかけて、5000枚を目標に、最低でも3000枚の「光の鳥」を飛ばす計画だという。

話を聞いた以上は協力しないわけにいかない。カミサンとは旧知の校長さんがいる小学校へお願いに行ったら、快諾してくれたうえに、別の小学校を紹介してくれた。こういうつながりは心強い。一気に1300人くらいは「光の鳥」に加わった。

美術館の展示と合わせて、いわき芸術交流館「アリオス」でも「光の鳥」プロジェクトが展開されている。10月には福島県立博物館「会津漆の芸術祭2011」の一環として喜多方市の夢想館(旧岩月中学校)でも開かれる。

切手代がばかにならない。実行委の一人から募金も頼みます――と、お願いされた。東京でも11月あたりに国際協力NGOとのコラボレーションで「光の鳥」が飛ぶ。協力の輪が広がることを期待したい。

2011年9月23日金曜日

シマヘビ


わが家を出て旧国道を進み、「ロッコク(6号国道)」を渡って夏井川の堤防へ出る。堤防の天端をしばらく進んだあとはロッコク」を渡り、旧国道へ出てわが家に戻る。一周40分ほどの散歩コースだが、いつもなにかしら「発見」がある。

この9月は、シマヘビが堤防天端でとぐろを巻いていた。最初に遭遇したのは7日の夕方だった。ほっとけば車にひかれる。足で草むらの方へ追いやった。

シマヘビは日光浴を好み、地表を素早く動くといっても、今年の残暑はきつかったのではないか。夕方になってスファルトの天端に姿を現した。ここは車道にもなっている。天端でとぐろを巻いていれば、交通事故にも遭いやすい。

それからしばらく姿を見なかった。次に遭遇したのはおよそ10日後。天端からざっと20メートル下った、国道バイパス終点にかかる夏井川橋のガード内だった。堤防天端に合わせてガードが設けられている。ガードの中はひんやりとして過ごしやすい。そのでっぱり(橋脚)の隅でとぐろを巻いていた=写真

薄暗い。薄暗いからひんやりしている。早朝でも歩くと汗が出る。そんな環境の中で、日光浴が好きなシマヘビも残暑にネをあげたか。何日かはそこにじっとしていた。写真を拡大すると、なにか口から楊枝のようなものが出ている。食事をしたあとか? ただの枯れ草か?

21日の台風15号は大雨をもたらしたが、堤防天端近くまで増水するほどではなかった。シマヘビも避難なんかしなかったのではないか。

2011年9月22日木曜日

台風襲来


台風15号が東海地方に上陸し、北東へ進んで福島県の浜通りを直撃した。いわきへはきのう(9月21日)の宵には到達したらしい。やがて南相馬市あたりで海へ抜け、今朝は北海道の東沖に位置しているようだ。

きのうは朝から大雨になった。土砂降りになったかと思うと小やみになり、またドッと降る。その繰り返しだった。

午後4時前、土砂降りの道路を見ていたカミサンが「何か変な音がする」と、気になることを言う。言われた場所を見ると、歩道側溝だ。側溝の中で「ゴボッ、ゴボッ」という音がしている。側溝ぶたのすき間から、雨水が猛烈な勢いで流れているのが見えた。

わかった! 道路中央に埋設されている下水道管に側溝から雨水が流れ込んでいる、その音だ。

昨年6月16日朝、局地的な豪雨に見舞われて家の前の歩道が冠水した。たまたまこれを目撃した前区長さんが区の役員会に諮り、冠水防止のための雨水マス設置を市に要望した。市が現地調査をし、業者とも工法を話し合った結果、今年1月、松が明けるとすぐ工事が行われた。工事は一日で終わった。

車道だけ掘り返したところをみると、側溝の壁に穴をあけ、車道中央の下にある下水道管と直結する方法が取られたようだ。それでも十分対応できるとみたのだろう。

昨年6月16日の雨量は平で計51.5ミリ、1時間当たり最大25.5ミリだった。きのうは次第に雨脚が強まり、午後5時の1時間あたりの雨量は冠水した6月の最大雨量と同じ25.5ミリだった。歩道はそれでも冠水することはなかった=写真

わが家の前の歩道は車道より低い。冠水すると水深は15センチくらいになる。こうなると水の流れは速い。大人でも踏ん張らないと歩けない。通学路でもある。小学校の低学年生では足を取られてしまうだろう。側溝から下水道管に直結した効果は大――と思ったのは、しかしそこまで。

午後6時近くになると、側溝から雨水が歩道にあふれ始めた。雨脚も一段と強まった。

これがピークだったらしい。午後6時の1時間あたり雨量は32ミリと最大になったあとは、雨がやみ、風だけになった(このころ、台風の目に入ったか)。7時前には庭木のアオマツムシが鳴きだした。

午後9時前。再び側溝から下水道管へと雨水の吸い込まれる音が聞こえるようになった。「ゴボッ、ゴボッ」ではなく「ゴゴゴゴ」である。落下するような音だ。側溝の水位が下がったのがわかる。床下浸水の懸念は消えた。ホッと一息ついた午後10時半過ぎ、今度はグラグラッと来た。日立市で震度5弱、いわきで震度3.茨城県北部が震源地だった。
         ×     ×     ×     ×
今朝、いつものコースを散歩した。夏井川の水かさは増していたが、思ったほどではなかった。高水敷まで冠水したものの、堤防天端ギリギリまで迫るような大水ではなかった。ただし、流木、ササダケ類、発泡スチロール、プラスチック……と、置き土産の量はすごい。

2011年9月21日水曜日

山を越える霧


ひとしきり雨が降ったあとの夕方。平の街へ出かけたら、西に横たわっている阿武隈の山のふもとから霧が次々にわいていた=写真。水平に筋となって延びるもの、尾根を越えていくものと、久しぶりに水墨画的な興趣を味わった。

連日の残暑で大地が熱を持っていた。そこへ、秋雨前線が停滞して雨が降った。そんなことが関係して、雨上がり、霧がわいたのか。最初は、川の水が堰をオーバーフローするように、山の向こうから霧が降りてきているのかと思ったが、逆だった。北の風の影響か、それとはわからないスピードで南へ、山の向こうへと流れているようだった。

ある年の初冬、赤井岳の中腹から下界を振り返ったとき、阿武隈の山々、というより夏井川へと延びる“山の舌先”が、同じようにわきだした霧で絶妙なハーモニーを繰り広げていたのを思い出す。同行のカメラマンが写真に収め、勤務していた新聞の元日付紙面を飾ったものだった。

あさって(9月23日)は秋分の日。「暑さ寒さも彼岸まで」のころあいになった。連休までは半袖でよかったが、きのう(9月20日)はとうとう長袖に腕を通した。

寒暖の波が急にくると、風邪をひきやすい。ひけば年のせいで治るのが遅くなる。自衛の意味もある。やせ我慢をしても始まらない。晩酌は「チェイサー」を、水ではなくお湯にした。

2011年9月20日火曜日

復興エイサー


いわきの「じゃんがら念仏踊り」と沖縄の「エイサー」が響き合う「復興エイサー in いわき」が日曜日(9月18日)、いわき市の薄磯、常磐、平などで行われた。フラオンパクの里見喜生さんから案内があったので、午後4時からの平・小太郎町公園でのイベントに参加した。

「じゃんがら」も「エイサー」も月遅れ盆に欠かせない伝統芸能。「エイサー」はいわき出身の袋中上人が始祖とされる。上人は琉球に渡って浄土宗を布教した。「琉球神道記」も著した。

いわきとの縁は、それだけではない。いわきにやって来た沖縄市の久保田青年会は、磐城平藩内藤家お抱えの八橋検校作「瀧落し」を演舞の一つにしているという。それもあって、検校の碑がある小太郎町公園でのイベントが実現した。

残暑のほてりがこもるなか、続々と市民が公園に詰めかけた。若柳社中の「女性じゃんがら」で始まり、湯本若連が同じく「じゃんがら」を披露した。常磐湯けむり太鼓が登場したあと、本場の「エイサー」が演じられた=写真

独特のずきんと衣装の大太鼓、締太鼓のあとに手踊りの男女が続く。歌と三線の演奏に合わせて、足を高くかかげ、手をかかげながら、すぐ目の前を踊り巡る。空手の動きも取り入れてある。左手に持った締太鼓をすくいあげるように動かしたときには、ギャラリーに空気の波動が伝わった。

いわきで沖縄文化に触れるのは、7月17日に高倉町の高蔵寺で開かれた「なこそ復興ライブ」以来だ。沖縄の歌手古謝美佐子さんが出演した。東北を思う沖縄の心が十分に感じられるライブだった。

その前、6月26日に小名浜一中体育館で開かれた「福島沖縄ゆいまーる 喜納昌吉&チャンプルーズライブ」は、関野豊さんから案内が来たのだが、都合がつかずに行けなかった。

なぜか沖縄には親近感がわく。40年以上前、パスポートを持って旅したとき、いろんな人たちに世話になった。思いやりの深い世界に身を置いた、という実感がある。

今度の「エイサー」にも東北を、いわきを思う気持ちがこもっていた。芸能としても楽しめた。

沖縄といわきをつないだ人、沖縄からいわきへ来てくれた人、いわきから沖縄へ行って里帰りをしたという人……、そういう人たちの思いがつながり、ふくらんで、一大イベントが実現した。

2011年9月19日月曜日

屋内運動会


孫の通っている保育園の運動会が土曜日(9月17日)、近くの小学校の体育館を借りて行われた=写真。前日、孫の父親から電話が入った。「敬老玉入れに出てほしい」。承知した。スニーカーの底をよく洗い、上履きにした。

去年は別の幼稚園に通っていた。2人目の産休が終わり、母親が職場復帰をしたので、親たちは通うのに便利な元の保育園に2人をあずけた。

去年、運動会は幼稚園の園庭で行われた。そのとき、長男3歳。団体生活になじめないのか、めそめそ泣くこともあった。4歳になった今年は? マイペースなところは変わらないが、すっかりまわりに溶け込んでいる。1年間でずいぶん成長するものだ。次男2歳は、心もまだよちよち歩き。母親と一緒にゲームをしたあとは、母親の胸でコアラになった。

敬老玉入れは、孫組とジイバア組に分かれて入れた玉の数を競うゲームだ。孫たちに勝つわけにはいかないのだろう。数える段になったら、ジイバア組のかごからいくつか玉が除かれた。

ギリギリのところでジイバア組が負けた。勝って喜ぶのも、負けてがっかりするのも、発達段階の幼子にはいい経験になるのに。いや、その前に孫と真剣勝負をするつもりで玉入れをしたのに。それはだめか。

放射能問題がなければ、運動会は保育園の園庭で行われたはずだ。体育館だから空気が動かない。相変わらずの残暑である。背中から汗が垂れる。南側の出入り口に立つと、時折、水田を渡ってくる涼風に包まれる。心地よかった。

発見があった。先生に引率されて、グループでトイレに来た4歳の孫と目が合った。すましている。手を振るわけでも、ニコッとするわけでもない。声も発さない。幼いながらに集団行動に徹している。

その前に、物を取って、途中に置いてゴールを目指す競走が行われた。孫は、足は速いようだ。が、物を置いたらそこで走るのをやめてしまった。ゴールはその先だ。当然、あとの子に追い抜かれる。詰めが甘い。

「家族」という単位を離れて、「保育園」という集団のなかで過ごす孫の姿から、社会性の芽生えのようなものを感じ取ることができた。その証拠に、運動会が終わり、父親と一緒に戻ってくると、やっとニコッとして抱きついてきた。

2011年9月18日日曜日

赤井焼


いわき市暮らしの伝承郷で「伝承郷収蔵品展~震災と民具」が開かれている。10月23日まで。

平成11(1999)年の開園以来、市民から伝承郷に寄贈された民具は約5500点にのぼる。移築された古民家の中などに、調度品としてそれらの民具が配置されている。そして今回、東日本大震災で被災した民家から多くの民具が伝承郷に寄贈された。

企画展には主にこれらの“被災民具”が展示された。民具寄贈者は16人に及ぶ。カメラマンが撮った震災写真も併せて展示されている。

泉地区から寄贈された泉藩関係の陣羽織やかみしも、着物などとともに、平赤井地区から寄贈された赤井焼関係の陶器類が目を引いた。特に、赤井焼の数々が興味をそそる=写真。旧窯元の家から出た。震災で庭に打ち捨てられていたものだという。

赤井焼については『いわき市史 文化編』(第6巻)に詳しい。相馬焼、なかでも浪江・大堀焼の影響を強く受けた民窯で、松の木を薪にして登り窯で日用雑器を焼いた。のちには益子焼(栃木)との結びつきが深まり、各種釉薬などの原料を益子町から調達するようになったという。

高原窯が隆盛を極め、やがて鈴木窯も興る。伝承郷に寄贈されたのは鈴木窯で焼いた水瓶・擂り鉢・片口・徳利・皿・火鉢・土管などで、明治時代の初めから昭和27年にかけてつくられた「赤井焼の全容を知るうえで大変貴重なもの」だ。

震災がなければ埋もれ、朽ち果て、あるいは流出して、地元いわきから姿を消す運命にあったかもしれないモノたち。それが、言葉は悪いが震災による「ダンシャリ」でよみがえった。

ひびが入ったために素焼きのままで打ち捨てられた水瓶がある。羽釡がある(陶製の羽釜を初めて見た)。土管などはそれこそ埋められるためにあるわけだから、残っていること自体が珍しい。震災がもたらした貴重なモノたちというほかない。

いわきの焼き物研究は、これによってより深く、より豊かなものになっていくだろう。

2011年9月17日土曜日

冷泉寺コンサート


小名浜の冷泉寺で9月14日午後6時から、インド音楽と舞踊のミニコンサートが開かれた。副住職が自分のブログ「しんぼっちの徒然日記」で告知していたので、国際協力NGOの女性スタッフを案内しながら、夫婦で駆けつけた。タブラとシタールの高速演奏がすばらしかった。

「しんぼっち」を先頭に、真言宗のお坊さんたちが津波被災者や双葉郡から避難している人たちの支援活動を展開している。その流れのなかで、国際識字文化センターのスタッフが避難所を訪れ、紙芝居とインド舞踊を披露した。今回の本堂コンサートは、インド舞踊家でもある同センターの事務局長さんの骨折りで実現した。

タブラ奏者は、インドで850年続くタブラ奏者の家系、ファルカーバード派の第34代、アリフ・カーンさん、25歳だ。

「しんぼっち」からもらったチラシによれば、古典と現代音楽を取り入れた演奏スタイルが特長で、バングラデシュやアメリカ、ドイツなどでもコンサートを開いている。2009年9月に初来日して以来、日本には多くの友人ができ、日本を「第二の故郷」のように思っているという。インドでも名だたる青年奏者ではないか。

本人の希望で被災地でのコンサートが実現した。9月14日は冷泉寺に先立ち、楢葉町の一次避難所になっている内郷「中の湯」でコンサートが開かれた。15日には、江名小でタミルフォークダンスを加えたコンサートが開かれた。

カーンさんと協演したのはヨシダダイキチさん。「即興・高速のシタール奏者」として知られているという。カーンさんの指さばきも高速だ。二人は目と目でコンタクトしながら演奏を続け=写真、これに聴衆が拍手と歓声でこたえた。まるでロックコンサートのようなノリだった。

といっても、聴衆の大多数は冷泉寺の檀家さんだ。歩いて寺へやって来た。これにクチコミで開催を知った人、私たちのように「しんぼっち」のブログで開催を知った人間が加わった。みごとな指さばきにおばさんたちも共鳴せずにはいられなかった。

冷泉寺の建物は3年前の秋に新築された。国際的に知られる建築家隈研吾さんの設計で、本堂ではイスにすわってお経を聴けるようになっている。「21世紀の新しい寺院」だ。そのイスが埋まった。ざっと100人はいただろう。

コンサートのあとは、山元彩子さんら3人によるインド舞踊が披露された。汗を滴らせる熱演に拍手が鳴りやまなかった。

演奏者も、聴く側・見る側もおたがいにエネルギーを放射し、吸収し合う関係になったようだった。

2011年9月16日金曜日

オニの攪乱


火曜日(9月13日)、カミサンが「頭が痛い」と言って、一日中カウチに横になっていた。“アイス鉢巻き”をしている。初めてのことだ。なにかの兆候? ありえる年齢だから、気にしながらも「激痛」ではないのでほうっておいた。前日の午後から、そんなことを言っていたのだった。結論から言うと、軽い熱中症だった。

9月も中旬に入って、かえって残暑が厳しくなった。夕方には憤怒の相をした老人のような黒雲=写真=がわき上がる。が、雨が降るまでには至らない。日曜日(9月11日)朝、夏井川渓谷の無量庵で草刈りをした。あまりに暑くてすぐ中止した――そんな話を、さきおとといの小欄に書いた。本能的に熱中症を避けたのかもしれない。

月曜日、カミサンがアルミ製の伸縮刈り込みバサミを使ってわが家の生け垣の剪定をした。私は午前中、仕事をしていた。朝、こんなやりとりをした。「高いところの枝を切って」「オレは腕が無力だから、剪定バサミがすぐ重くなる」「箸しか持ったことがないのね。『無力』じゃなくて『非力』というんじゃないの」

朝からカッと照りつけている。風がない。家の西側、生け垣がつくる日陰の中での作業だったとしても、空気はすでに熱せられている。作業に熱中したばかりに、体に熱がこもったのではないか――なんて、家の中で過ごした人間は勝手に想像する。

熱中症とわかったのは、広野町からいわき市に避難して来て、ときどきカミサンに会いに来る、ガンバル奥さんがやはり同じような症状になったことがあるからだった。昔は「鬼の攪乱」といった。

私も、無量庵の畑で真夏の暑い盛り、気分が悪くなったことがある。家の中に入って休んでも、気持ち悪さは治まらない。翌日まで症状が尾を引いた。それも「鬼の攪乱」だったのだろう。暑い日には、オニも攪乱する。お年を召した人はとにかく、ネコのように体を投げ出して何もしないで過ごすことである。

2011年9月15日木曜日

「復興ビジョン」市民集会


「いわき市復興ビジョンへの提言(素案)」について考える市民集会が9月13日夜、いわき明星大で開かれた=写真。いわき地区NPOネットワークが主催した。

8月下旬に、市復旧・復興計画検討委員会が5回の会議を経て提言をまとめた。地元のいわき明星大、東日本国際大、福島高専と、郡山市の日大工学部、県外の筑波大から各1人、それにいわき商工会議所会頭、市立総合磐城共立病院事業管理者(東北大名誉教授)の計7人が委員を務めた。

市民集会にはスタッフも含めておよそ40人が参加した。まず、検討委員会の委員を務めた遠藤寿海東日本国際大教授が会議の経過を踏まえて提言(素案)の目的・理念などを説明し、事務局が細かく内容を紹介した。このあと、参加者が意見を述べた。

素案の内容を確認し、市民の目線で見たときにどんな課題があるのかをみんなで考えよう、というのが市民集会の目的で、ケチをつけるための集まりではない。よりよい復興ビジョンとするために、市民の意見(パブリックコメント)を出していこう――これが狙いでもある。パブリックコメントはきょう締め切られる。

事前に寄せられた意見がまず紹介された。①「新しい公共」という概念に関する言及がない②高齢者や障がい者に関する言及がほとんどない③観光と一次産業を切り離して考えるのではなく、むしろ一体となって復旧・振興を進めるべき。いわきの食品が完全に安全にならないと観光にもつながらない――。

目的・理念は良いことづくめだから、「その通り」「異存はない」となりがちだが、それぞれの専門の目を通すと足りないところだらけ、ということがわかる。パブリックコメントは、骨格の否定ではなく筋肉の増強・追加だ。

検討委員は知識人かもしれないが、全員がいわき市に根を張って暮らしているわけではない。住んでいるとしても、いわきを知り尽くしているわけではない。市民の目線からみれば、これを加えたい、あれを加えたいとなるのは自然の成り行きだろう。

では、次に会場から意見を――となって、司会が突然「目が合ったものですから」と、目が合いもしないのに私に振ってきた。

事前に寄せられた意見の感想として、素案には足りないところがあることを述べ、一例として理念4、「本市は、日本ひいては世界のために、収束を目指す原子力災害対応の拠点地域……」のくだりについて、原発は何のためにあったのか、東京のためにあった、そういうことを明記すべき、ということを述べた。

いわきは、いうならば「東京の“北のトリデ”」である。そういう役割を果たしていることを、東京は果たしてわかっているのか。わかっていないという思いが、原発は何のためにあったのか発言になった。

それはさておき、会場からは「スピードを上げて復旧・復興を。中でも学校の再開など、優先順位をつけてやってほしい」(豊間)「築200年、300年といった家が解体撤去される運命にある。文化財として残すような対応はできないものか。沿岸部に温かい手を差し伸べてほしい」(江名)といった意見が出された。

とにもかくにも「復興ビジョン」づくりに向けて市民集会が開かれた。そのこと自体に意義があった、と私は思う。

2011年9月14日水曜日

お月見飾り


一昨夜(9月12日)は「八月十五夜」。いわゆる「中秋の名月」だった。カミサンが小さな文机を出してお月見飾りをした。その飾りをながめながら客人と晩酌をした。

日曜日に夏井川渓谷でススキとミズヒキソウ、キンミズヒキ、野菊、アザミを摘んだ。それらを入れた花瓶を飾り、虫と虫かごをかたどったわら細工を飾り、川前のブドウ園から買ってきたフジミノリとコンビニのだんごを供えた。簡略ながら、毎年、お月見飾りをしては晩酌の楽しみとしている。

その日の夕方、知人のおふくろさんの通夜へ出かけた。6時前には帰宅した。東の空に大きな月が見えた。昇り始めたばかりだった。写真だ、写真だ! 家の2階に上がるが、隣家の屋根に邪魔されて月は見えない。道路向かいの駐車場へ出る。やはり屋根に隠れて見えない。

車を飛ばして夏井川の堤防へ出たら、ここではもうかなり高いところまで昇っていた。岸辺林と家も収めようとすると、月は小さくなる。シャッターを切ったものの、なんとなく構図が面白くない。

家に戻って、2階のベランダから隣家の屋根の上に現れたところを狙ってシャッターを切った=写真。お月見飾りができ、客人が来て晩酌を始めたのは、それから1時間後。

3・11以来、なにかと省略する癖がついた。5月の端午の節句には、孫のために兜を飾るようなこともなかった。半年がたって、少しでも日常を取り戻そうという気持ちが強くなってきたのかもしれない。その日常においては節目のお月見である。

客人とあれこれ話しているうちに、フジミノリを凍らせて食べてみよう、ということになった。大粒で種なし。凍ると黒い皮がつるりとむける。小一時間あとに半分凍りかけたのを食べたら、やはりつるりと皮がむけ、果肉も冷たく、シャリシャリしてうまかった。「月見だんご」ならぬ「月見ぶどう」だ。にしても、心おきなく月見ができる日はくるのか。

2011年9月13日火曜日

背中が焼ける


日曜日(9月11日)は久しぶりに夏井川渓谷の無量庵で過ごした。庭の草が生い茂っている。草を刈ろうと決めて出かけたのだが……。

木陰から作業を始める。草刈り機がないので手鎌を振るうしかない。車つき座いすを持ち出し、できるだけ汗をかかないようにゆっくりしたペースで草を刈る。全体を見渡すとうんざりするので、目の前の1メートル四方だけを当面の目標にする。その繰り返しで前に進んでゆく。

1時間ほどで木陰の草刈りは済んだ。スペースも思った以上に消化できた。それでも庭全体の5分の1ていど。

さあ、今度は朝日を浴びながら、だ――気合を入れて、庭にはびこるクズを刈り始めたら=写真、背中が焼けるように暑い。汗がふきだす。10分ほどでギブアップした。梅雨どきにそうしたように、やはりプロに頼むのが一番だ。せっかくその気になって始めた草刈りだが、やけどをするような残暑には勝てない。

草刈りを中止したら、あとは風呂に入って昼寝をするだけ。しばらくぶりに無為の時間を過ごした。

午後3時過ぎ。カミサンが月見用のススキを刈り、庭の野菊とアザミ、ミズヒキソウ、キンミズヒキを摘んだのを潮に、川前町の「夏井川渓谷葡萄の里」を訪ねる。おととし、黒系大粒のフジミノリを凍らせて食べることを教えられた。それを今年もやってみたくなった。

ブドウ園の掲示板に「福島県によるサンプル検査で放射能は検出されませんでした。安心してお召し上がりください」という「お知らせ」が張ってあった。ハウス栽培だから問題がないことは先刻承知。

ご主人に今年の入りを尋ねる。「県道を車が走ってないですからねえ」が答えだった。フジミノリともう一種の二房を買ったら、おまけをいただいた。こういうサービスがうれしい。

2011年9月12日月曜日

復興ビジョン


いわき市の復興ビジョン(素案)ができたことは新聞で承知していたが、さてどんな中身か。素案を手に入れてじっくり読むなんてこともなく過ぎた。なんだか川の向こうのできごとのような感じだった。

市外から支援活動に入っているNGOのスタッフから、パブリックコメントを出す必要はないのかと言われて、ハッとした。これからも住み続けるいわき市の将来を決めるビジョンだ。インターネットを通じて素案をダウンロードした。

「いわき市 復興ビジョンへの提言(素案)」は①市民の安全・安心の最大限の確保②震災前にも増して活力に満ち溢れたまちの創造―の2点を目標に、5つの理念を掲げる。

「理念1」は<「オールいわき」「オールジャパン」による復旧・復興(連携)>。異存はない。「理念2」は<災害に強く、安全で、安心できるまちを目指す復興(安心)>。その通りだろう。

以下、<前例のない複合災害からの再生モデルを世界に示す復興(活力)>(理念3)、<住む人も住む場所も世界から愛されるまちを目指す復興(魅力)>(理念4)、<原子力災害を克服するとともに、再生可能エネルギーの導入を推進し、原子力発電に依存しない社会を目指す復興(挑戦)>(理念5)と続く。

「世界の中のいわき」という視点で貫かれている。なかでもわかりやすかったのが「理念4」だ。

――本市は、地震や津波など自然災害の脅威にさらされ、原子力災害が発生した「フク シマ」の一地域として世界中に認識されています。

このことから、本市は、日本ひいては世界のため、収束を目指す原子力災害対応の拠点地域として重要な役割を果たしていることを積極的に発信するとともに、地域の絆や自然などの魅力を磨き上げ、「人」も「場所」も世界中から愛され、受け入れられるようなまちを目指します。――

いわき市は久之浜=写真=で「フクシマ」と対峙していると思っていたが、そうではない。世界の中で物事を考えれば、いわきは「フクシマ」の一地域であり、原発事故収束のための拠点なのだという。なるほどそうか。

復興ビジョンを考える市民集会が9月13日午後6時から、いわき明星大で開かれる。いわき地区NPOネットワークが主催する。関係者から連絡がきたので参加しようと思っている。

2011年9月11日日曜日

新しい隣人


9・11から10年、そして3・11から半年。いやがおうでもその日のことを思い出す。9・11は夜、ミニミニリレー講演会があって、お寺の奥さんの話を聴いたあと、帰宅してテレビをつけたら、旅客機が超高層ビルに突っ込むところが映し出されて目がくぎづけになった。3・11のあの揺れは今も生々しい。大地をのみこむ大津波の映像も。

いわき市の北隣、双葉郡に立地する東電福島第一原発が震災の影響で過酷事故を起こした。広範囲にわたって放射性物質をばらまいた。「福島」は「フクシマ」になった。これによって多くの人の生活が、人生が変わった。

わが家は、海岸からは5キロほど内陸の住宅街にある=写真。さいわい津波の被害とは無縁だった。戸建て住宅のほかに、県営住宅や民間のアパートが散在する。前にも書いたが、この半年の間に双葉郡から避難して来た人がアパートなどに入居した。近所でお好み焼き屋を始めた人もいる。

カミサンが実家の米屋の支店を任されている。米のほかに塩を売り、醤油を売る。おばあさんが米を買いに来る。塩を買いに来る。初めて見る顔だ。3・11までは双葉郡に住んでいた。そんな人がほとんど。

大熊町の夫88歳、妻80歳。避難先の会津ではアパートに入っていた。うるさかった。夏は背中が焼けるほど暑かった。冬は1メートルも雪が積もると聞いた。それで、不動産業者に頼んで家を見つけ、いわきに引っ越してきた。先日、一時帰宅をした。線量計がピッピッとなっておっかなかったという。近所の戸建て住宅に住む。

楢葉町から避難して来た老夫婦は夏井川に近い親類の家の納屋に住む。米を運ぶついでに、余っていた布団を届けた。広野町から避難し、四倉町にアパートを借りた夫婦もいる。奥さんがときどき、カミサンのところへ話をしにやって来る。毎週卵を届ける緊急時避難準備区域の川内村民も、近所の県営住宅に部屋を借りた。

わが家の後ろのアパートには、広野町の若い家族が住む。市内久之浜町から避難した人も同じアパートに入っている。

「広報いわき」9月号に、いわき市長と双葉郡8町村長の意見交換会が行われた、という記事が載った。7月28日現在で双葉郡からいわき市に避難している人の一覧表もついている。

楢葉町3762人、富岡町3442人、広野町3145人、浪江町1526人、大熊町1446人、双葉町658人、川内村339人、葛尾村38人、計1万4256人がいわき市民の新しい隣人になった。今はもっと増えているのではないか。

浜通り南部のいわき市と双葉郡は同じ文化圏に属する。ごみの出し方などの違いはあっても、親類がいる、気候・風土・気質・生活習慣が同じと、自然的・社会的条件が共通する。交通の便もいい。同じ浜通り南部の被災者として共に生きていく、そばにいることを忘れない――「3・11から半年」のきょう、そんなことを再確認するのだった。

2011年9月10日土曜日

大正の女性記者


いわき総合図書館に「三猿文庫」(諸橋元三郎収蔵資料)のコーナーがある。なんとはなしに本の背表紙をながめていたら、磐城民報社発行の『御家庭を訪れて』=写真(コピー)=が目に留まった。本の大きさはA5よりやや大きい菊判。筆者は比佐邦子(比佐クニ)。いわきの詩風土に種をまいた詩人山村暮鳥の取り巻きの一人だ。

いわき地域学會の初代代表幹事・故里見庫男さんが調査し、まとめた資料によると、比佐邦子は明治30(1897)年、湯本町に生まれた。磐城高女第2回卒という才媛で、短歌などを手がける文学少女でもあった。進取の気性に富んだ女性だったらしい。

暮鳥の詩集や同人誌の表紙絵を担当した広川松五郎(のちの東京芸大教授)と親しくなり、上京後、広川の紹介で出版社の雑誌記者となった。別の出版社の男性と結婚したものの、関東大震災で夫と家を亡くし、子どももいないことから帰郷した。

このあと、平の磐城新聞社に入社したのだろう。おそらくいわき地方での女性記者第一号だ。のちに福島民報社に転じ、年下の同僚長谷川幸太郎と結婚し、昭和12(1937)年、40歳でこの世を去った。

「御家庭を訪れて」は半年ほど磐城新聞に連載された。それを別会社の磐城民報社が本にして出すからには、相当の摩擦があったと思われる。

本の奥付には①大正14(1925)年5月20日印刷、同25日発行②非売品③編纂者・磐城民報社編輯部、発行者・蓮沼龍輔、発行所・磐城民報社④印刷者・福島市大町、山口保治――とある。発行所と発行人の住所は、「福島縣石城郡平町田町卅六番地」で同じだ。蓮沼の自宅に磐城民報社の看板を掲げたのだろう。

いわきの同人誌「詩季」第48号(2003年7月発行)に菊地キヨ子さんの論考「『常磐毎日新聞』紙上からみる郷土文学録 一」が載る。当時の蓮沼、比佐らの動静が紹介されている。

それによると、大正14年3月3日付常磐毎日新聞は、磐城新聞で現・旧社長の間が円滑を欠き、現社長の知遇を得た副社長蓮沼龍輔、編集長坂本茂雄、編集部員永久保照雄、比佐邦子が連袂辞職をした、と報じた。

翌4日付の常磐毎日新聞に蓮沼の転居通知と、次のようなあいさつが載る。「私共今回事情により磐城新聞社を連袂辭退する事と相成申候/就ては来る三月十五日より日刊磐城新報を發刊する事と致し目下準備中に之有候につき前同様將来とも御聲援と御指導を御願申上度略儀紙上を以て御通知旁々御願まで如斯に御座候 早々/三月一日」

磐城民報社から『御家庭を訪れて』が発行されるのは、わずか2カ月余あとだ。随分手回しがいい。菊地さんではないが、すでに磐城新聞で発行する段取りになっていたのを、「私が書いたのだから」とそのまま企画を持ち出したか。著作権は当然、磐城新聞にある。が、そのへんの自覚と認識はあったかなかったか。

創刊の予告をした「磐城新報」が「磐城民報」に化けたのか。蓮沼は磐城新聞を辞めるとすぐ磐城民報社を旗揚げし、比佐はその編輯部員になった。ただし、磐城新報ないし磐城民報が発行されたかどうかはわからない。

さて、そんな状況の中で発行された『御家庭を訪れて』である。いわき地方の知名人の妻・母・お嬢さんら女性だけ161人が登場する。

比佐邦子の磐城高女の同級生の金成きみ子様(金成医院長金成忠義氏夫人)。詩人中野勇雄・大次郎兄弟の母、中野きよ子様(中野洋品店主夫人)。のちに数奇な運命をたどる新田目まつ子様(新田目善次郎氏令嬢)……。

大正ロマンとデモクラシーの空気が86年の時空を超えて伝わってくる。女性だけという視点が、現代からみても新鮮だ。

2011年9月9日金曜日

秋の虫たち


エンマコオロギで始まった虫の音楽は、今やアオマツムシが主役になった。かぼそいエンマの「コロロ」が、やがて歯ぎしりをするような「ギギギ」に変わった。日が暮れると、庭の木の上から音が降ってくる。一匹や二匹ではない。「斉唱」、いや耳をふさぎたくなるような「大乱唱」だ。

在宅ワークで気づいたのだが、一日、セミの声にさらされていると頭がおかしくなる。仕事ができない。うんざりして昼寝をするだけ。でも、眠れない。それが8月。

次に9月の夜になると、今度はアオマツムシの「大乱唱」だ。ますます仕事ができない。焼酎をやるしかないではないか。それが、9月の初めのわが家の常態。

9月8日、夜9時40分。客人が来て、酒を飲んで帰った。アオマツムシもちょっと前に沈黙した。すると、次にはチチチイ、チチチイと鳴いている虫が一匹いる。深夜になると、今度はカンタンが鋭くキリリ、キリリと鳴きだす。

わが家は低気密の開放系住宅。放射性物質が室内の至るところに付着しているという自覚がある。だから、孫は来てもすぐ帰る。代わって、虫たちは好き勝手に出没する。コオロギが飛んで来る。ゴキブリが走り回る。

ある日の日中は、アブまでやって来た。アブは清流の産物だ。なぜ汚れた水しかない神谷あたりに現れたのか。いや、神谷の山裾を縫う小川江筋、ここはまだ清流的な環境が残っていて、アブも発生するのか。そこから来たのか――と思いつつ、それはないだろうなと別の私がいう。

とぼけた三角顏がなつかしくなった。カマキリ=写真=だ。夏井川渓谷の無量庵に濡れ縁がある。そこに座って対岸をながめているうちに、同じ濡れ縁でじっとしているカマキリに気がついた。獲物を待つ狩人・カマキリ、その顔がなんともいえず気に入っている。

2011年9月8日木曜日

車が歩道を暴走


きのう(9月7日)の午後1時ちょっと前、家で休んでいると2軒ほど先の方から聞き慣れない音が飛び込んできた。なにかがぶつかってはずんだような感じ。プロパンガスのボンベを積んだトラックがバウンドしてよくそんな音を立てるが、それとは少し違う。

はてなんだろう。2階の窓を開けて道路を見たら、120メートルほど先のコンビニの前に人だかりができていた。民家からも、事務所からも人が出てコンビニの方を見ている。異音がして20秒もたっていない。「救急車を呼べ」という声が聞こえた。

これは行ってみないと――。四つ葉のクローバーマークをつけた青い車が電柱にぶつかって止まっていた。運転していたお年寄りが白い顔をして、車の中でじっとしている。ハザードランプが点滅している。

車は、前部がベッコリへこんでいた。左前輪にはタイヤがない。タイヤははずれて道路の反対側に転がっていた。右前輪はパンクしている。両サイド前部にこすれたあとがある。目撃した人の話と、縁石・歩道の痕跡を総合すると、こういうことだったらしい。

コンビニからおよそ100メートル手前、わが家の斜め前の神谷郵便局あたりで車は対向車線にはみ出し、歩道の縁石(ちょうど斜めに切られてある)=写真=に乗り上げたあと、異音を発して縁石をこすり、歩道にすっぽりはまってしまった。

そこで止まるかと思いきや、車は歩道を暴走し、左側の街路灯をこすり、タイヤのはずれた左前輪が縁石に乗り上げると同時に右側面で民家の石塀をこすり、コンビニの駐車場角の電柱に激突して止まった。

道路は郵便局のあたりから左にカーブしている。なにか体調が急変して反対車線に直進してしまったのだろうか。縁石に乗り上げたころから、アクセルペダルからブレーキペダルに足を動かせなくなっていたのかもしれない。アクセルとブレーキを踏み間違えたというより、アクセルペダルを踏んだまま走り続けた――そんな印象を受けた。

でないと、あの狭い歩道を道なりに100メートルも突っ走るなんて不可能だ。幸い残暑の厳しい昼下がり、歩道に人影はなかった。

やがて救急車がやって来た。ポンプ車も、警察の事故処理車も到着した。ますます人だかりが膨らんだ。すると、さらに救急車が1台やって来て、現場の交差点を左折した。そちらは急病か。一帯はしばらく騒然とした空気に包まれた。

自損事故ではある。が、考えれば考えるほどぞっとする。その1時間前、私はカミサンと近所の中華料理店へ歩いて出かけた。事故のあった歩道を行って、ほんの20分前、帰って来た。その2時間後といえば、小学校の低学年生が現場の歩道をわいわい言いながら帰って来る時間帯だ。

「下校時間でなくてよかった」。歩道に集まった人たちは、時間によっては大惨事になったかもしれない事故を振り返って、「ほんと、ほんと」と大きくうなずいた。私はさらに「1時間前、あるいは20分前でなくてよかった」と胸の中でつぶやく。事故は、災害はいつ、どこで起きるかわからない。

2011年9月7日水曜日

キノコのこと


「キノコを食べるな」。そんな状況らしい。福島県の阿武隈高地南部の町で採取された野生キノコの一部が、放射性物質に汚染されていた。

新聞報道によれば、問題のキノコはチチタケ。食品衛生法の暫定基準値を超える放射性セシウムが検出された。原子力災害対策特別措置法に基づいて、6日、棚倉町と古殿町のチチタケ、マツタケ、ホンシメジなどの「菌根性」のキノコの出荷が停止されたという。

ホンシメジは採ったことがない。マツタケも採ったことはない。チチタケ=写真、これは夏井川渓谷でも普通に採れる。毎年採って、うどんのダシにしている。いわゆる「チダケうどん」だ。

キノコは一年中発生している。冬のエノキタケから始まって、アラゲキクラゲ、ハルシメジ、アミガサタケ、ウスヒラタケ、マメダンゴ(ツチグリ幼菌)、アイタケ、タマゴタケ、アカヤマドリ、チチタケ、ウラベニホテイシメジ、アミタケ、ナラタケ、クリタケ、ムラサキシメジ、そして晩秋のハイイロシメジまで、森に通っていれば普通にお目にかかる。

今年は梅雨どきに、無量庵(夏井川渓谷)の庭の地中に眠るマメダンゴを採って食べた。地表にはセシウムが付着しているとわかっていても、食べたい気持ちを抑えることができなかった。放射線の専門家からは「キノコもおいしく食べられるお年ですから秋はキノコ狩りですか?」などという、半分からかいのコメントが入った。

3・11以来、森に入ったことはない。行っても無量庵の対岸の「木守の滝」どまりだ。その時期になると、キノコの姿が頭の中に投影される。9月上旬の今なら、タマゴタケ、チチタケだが、マメダンゴのときのような食欲はわかない。セシウムが濃縮されているとわかっているからだ。

昔、チェルノブイリを扱ったテレビ番組のなかで、ムラに戻ったお年寄りが放射性物質に汚染されたキノコを採取して食べているのを見たことがある。キノコに関しては同じ状況になった。

2011年9月6日火曜日

「なすかしの森」からの便り


「なすかしの森」から便りが届いた。栃木県と接する西郷村にある国立那須甲子青少年自然の家だ。今年3月15日深夜から同23日午前まで、わが夫婦、長男一家でお世話になった(短期的には義妹とその娘を含めて8人)。

3・11の直後に福島第一原発の事故が連続し、4日後、不安に駆られていわき市を脱出した。11時間近くかけてたどりついた避難所が「なすかしの森」だった。

9月23~24日に「なすかしの森ファミリーフェスティバル」を開催する。毎年恒例の施設開放事業だ。職員一同、参加を待っています――というのが便りの中身だった。チラシが同封されていた。「なすかし」だけになつかしい。ありがたい便りだ。

もう半年も前のことになる。国道49号も、同4号も避難する車で渋滞していた。とにかく白河方面へ――それだけを決めて避難を始めたのだった。なすかしの森は、標高が1000メートル級。白河市の県南保健福祉事務所でスクリーニングを受けたあと、道路に雪がないことを確認して駆け込んだ。目覚めると雪が積もっていた。

ピーク時には、避難民が700人(3月17日)に達した。「いわき」ナンバーの車が大半だった。職員の献身と親切が今も忘れられない。避難民も救援物資の搬送や雪かきなど、ボランティア募集の呼びかけ=写真=にすぐ反応した。

足かけ9日間の滞在のあと、ぎりぎりのガソリンで帰路に就いた。途中、阿武隈川源流域の名勝「雪割橋」の案内標識を見て、寄りたくなったが、カミサンにたしなめられた。

で、今回、雪割橋を見に行くのもいいかなと思ったものの、9月23日は宿泊客対象、一般参加の9月24日にはいわきで行事がある。残念ながら今回は参加を見送った。

2011年9月5日月曜日

ふるさとだより


いわき市の沿岸部の“今”を伝える「ふるさとだより」が創刊された。FMいわきを運営するいわき市民コミュニティ放送がいわき市から編集を受託した。いわき地域情報総合サイト「いわきあいあい」で中身を見ることができる。それをプリントアウトして読んだ=写真

いわき市の沿岸部は3・11に発生した東日本大震災で甚大な被害に遭った。一瞬にして人々の暮らしが奪われ、日常の風景が失われた。そのふるさとへの思いをみんなで持ち寄り、つながっていくことを願いながら、毎月1回、沿岸部の地区ごとに「たより」を発行していくという。

創刊号はA3二つ折り、第2号も同じボリュームで平、小名浜、勿来、四倉、久之浜・大久の5地区版が発行された。沿岸部の被災者とその関係者に送られる。「〇×に被災者がいるから、そこにも送ってほしい」といったクチコミによる広がりが期待されている。一種のコミュニティペーパーだろう。

第2号の中身を見ると――。平地区版は、沼ノ内で獅子舞の練習に汗を流す小中学生3人と師匠の写真が表紙を飾る。中面は津波被災地の復興計画へ向けた取り組み状況や、ボランティアの活動が紹介されている。いわゆる「マチだね」を載せている地区版もある。

地区版にはそれぞれ取材担当者がいる。編集後記から、見知った人間が何人かかかわっているのを知る。緊急雇用対策の意味もあるらしい。

地区版の分量と1カ月単位の取材量を測れば、地区版に載せきれないものがあるはずだ。その手当てをどうするか。ある人はチラシにして「ふるさとだより」と一緒に配ってはどうかという。要するに「新聞折り込み」だ。できるだけ情報を多く届ける、という意味では有効な手段かもしれない。

2011年9月4日日曜日

原子力ムラ


「文藝春秋」6月特別号をいわき総合図書館から借りて読んだ。総力特集「国難・東日本大震災と闘う」のなかに、「フクシマ」論の著者開沼博さんが「原発と生きる12人の証言」と題する避難所ルポを寄せている。

借りる人が多くて、雑誌コーナーに現物がない。そういう状態がしばらく続いた。ちょくちょくチェックしていたら、やっとあった。1カ月以上はたっていた。

開沼さんは8月上旬、ふるさとのいわきで講演をした(8月11日付小欄「『フクシマ』論を聴く」参照)。3・11を経験してもなお、地元・原子力ムラの原子力依存症は変わらない。言い換えれば、中央と電力会社への、地方の側の自動的・自発的な服従――そういう構造ができあがっていることを強調したのだった。

原子力ムラはいわきに舞台を移しつつある。「ひさしを貸したら母屋を取られた」式の現象が見え隠れしている。原発で作業している人たちの弁当の話がわかりやすい。

東電の協力会社に頼まれて従業員の弁当を1個500円でつくっていた店がある。あとからいわきのよその地区の業者が安売り攻勢をかけてきた。350円ではやってられないので、「どうぞ、そちらから取ってください」と弁当の提供をやめた。

話は、それで終わらない。東電のかつての取引業者がいわきで営業を再開した。すると、東電従業員の弁当(こちらは600円だそうだ)はそこに集約・一本化されるようになった。カップラーメンさえも、だという。いわきの業者はそこまでの“つなぎ”にすぎなかったわけだ。

開沼さんの文春のルポにこうある。バス会社で働くハヤノの話。「今、彼の会社がどうにかしてとろうとしている仕事があるという。それは原発復旧のための作業員をJヴィレッジに運ぶという東電の仕事だ。(略)東電のせいで陥った危機の中で、東電の仕事を必死に取りにいかなければならない現実がある」

あるいは、協力会社で働くオサダの話。「私はもうすぐ仕事に戻ります。会社の事務所がいわき市に移転したんで、とりあえず単身赴任で、そこから1F、2Fに行くことになります」。そうした会社の一つだろう。わが家の近所に、社長が従業員のアパートを確保した。「家賃の半額は会社が出してくれる」といった家族の話が伝わる。

1F、2Fとは福島第一原発、同第二原発の略称だ。実際、早朝の国道6号を1Fだか、2Fだかに向かってバス=写真=が何台も通っていく。散歩の折、これらのバスに遭遇すると、心の中で「早く原発を鎮めてくれ、頼むよ」と祈るのが常になった。いわきも原子力ムラの色に染まりつつあるのか。

2011年9月3日土曜日

スポット展示河林満


「河林満のスポット展示が始まりました。ぜひ見に来てください」。いわき市立草野心平記念文学館の学芸員氏から電話がかかってきたのは、8月上旬だったか。雑事に追われて気がついたら、もう9月だ。8月30日、夏井川渓谷の無量庵へ行くのに合わせて文学館を訪ねた。

河林満は昭和25(1950)年12月、いわき市植田町に生まれた。立川市役所に勤めるかたわら、創作活動に取り組み、平成2(1990)年、「渇水」で文學界新人賞を受賞した。同作品は芥川賞候補にもなった。

それに先立つ昭和61(1986)年には、「海からの光」で吉野せい賞奨励賞を受賞している。平成3(1991)年には同賞選考委員になり、その4年後、同人誌「文藝いわき」を立ち上げた。私が河林さんと知り合ったのは、たぶんこのころ。

平成10(1998)年には立川市役所を退職し、以後、ヘルパーやガードマンの仕事をしながら小説を書き続けた。平成20(2008)年1月、脳出血のため急逝。享年57――の報に接して、晩年は苦闘の連続ではなかったか、という思いを禁じ得なかった。

文学館のスポット展示は8~9月の2カ月間で、今がちょうど折り返しの時期。単行本の『渇水』をはじめ、作品掲載雑誌・同人誌、創作ノート、若いときの詩集『風景その呪縛』などが展示されている=写真

朝日新聞出版のPR誌「一冊の本」は見当たらなかった。河林さんは同誌の平成11(1999)年1月号に小説「ある護岸」を発表している。その年、たぶん吉野せい賞の選考委員会が終わったあと、「ちょっと時間がたちましたが」と雑誌を携えてわが職場にやって来た。ここからは古巣の新聞に書いた文章の抜粋・要約。

「ある護岸」は、河林さんの生まれ故郷でもある、いわき市佐糠町を舞台にした「鮫川物語」だ。鮫川で溺れ死んだいとこの33回忌に佐糠町を訪れた「わたし」は、鮫川べりに立つ水難供養塔に出合う。そこには廃仏毀釈によって「墓地の墓石のことごとくを川岸に沈め、もって護岸の強化を念じた。断腸の功あってか、鎮魂力宿って川は鎮まり……」とある。

妙にこの碑文が気になった「わたし」は歴史に詳しい市役所の職員と鮫川の源流を訪ね、職員から廃仏毀釈の実態を聴いたり、明治初期の文書のコピーをもらったりする。コピーには「父祖代々ノ霊ノ眠ル墓石ナレド 止ムナシ 鮫川ノ左岸ニ沈メテ コレ 護岸トナサント……」とあった。

だが、鮫川は戦前まで氾濫を繰り返した。それを知って「わたし」は驚く。「あの供養塔は、いったい何を伝えようとしているのか」と――

河林さんから「墓石護岸」の話を聞いたのは、小説になる何年か前のことだった。その作品化のために、いわき地域学會が発行した『鮫川流域紀行』などをひもときながら、長らく想を練ったのだろう。

作品の末尾に「参考文献」として、『鮫川流域紀行』が紹介されている。本の編集者としては望外の喜びというほかない。スポット展示をながめながら、そんなことを思い出した。

私が読んだ作品は、「ある護岸」のほかには「渇水」「穀雨」「海からの光」と少ない。いわき出身の明治の歌僧天田愚庵を取り上げた短編「我が眉の」はぜひ読んでみたいのだが、今のままでは無理だろう。『河林満全集』があったらいいな、とも思った。

そうそう、文学館の企画展にも触れておこう。「長野ヒデ子絵本原画展 ぶんがくかんにいきタイ」が9月11日まで開かれている。会場には「金魚」のようなタイがあふれていた。その連想からか、ドジョウのように泥臭い政治をするという野田さんの顔が思い浮かんでしかたがなかった。

2011年9月2日金曜日

電流遮断


月遅れ盆の8月15日以来、半月ぶりに夏井川溪谷の無量庵へ出かけた。三春ネギに追肥をし、土を寄せた。

庭は、草が伸びて文字通りの“草庵”になっていた。今年は草の生長が早い。カリウムに似たセシウムを吸収しているからだろう――といった悪い冗談があちこちで聞かれる。

カミサンが部屋に入って電灯のひもを引っ張ったら、ン? あかりがつかない。台所のブレーカが落ちていた。お盆のときにはなんでもなかった。そのあとに “なにか”が起きた。雷が横に走って過電流になったか。もし、お盆直後に「雷(らい)さま」が暴れたとしたら、最長で半月は停電状態だったことになる。

冷凍庫の氷はとっくに融けてなくなっていた。床に水が漏れていた。マットが水を吸ってびしょびしょになっていた。水は? 井戸の電源がオフ状態になっていたから、ポンプに空気がたまってしまったのか、一滴も出ない。隣の「錦展望台」に設けられた流し場から沢水をやかんにくんで“呼び水”にしたら、復活した。

電話までウンともスンとも言わなくなった。ブレーカをオンにしても沈黙したまま。なにか受話器本体に支障が生じたのか。今年の2月、溪谷でもケータイ(ドコモ)がかかるようになった。固定電話はなくてもいいか――というわけで持ち帰った。後日、若い友人が来てチェックしたら、内蔵の乾電池が腐っていた。こちらは、雷とは関係がない。

今度初めて気づいたのだが、無量庵の台所の天井が一部、黒ずんでいた=写真。雨が漏っているのだろうか。道路に出て屋根の様子を見たが、外からは異常は見られない。カビだろうか。イスに乗って天井に触れる。雨漏りなら水を吸ってブヨブヨしたような感じになるはずだが、乾いて硬い。

いっぺんにおかしな症状があらわれた。無量庵へ通う回数が減って、「メンテナンス力」が落ちたこともある。毎週、きちんと通っていれば、冷蔵庫も氷がすべて解けるような事態にはならなかったかもしれない。

トラブルの芽は小さいうちに摘む――そうとわかっていても、8月後半は雑務が集中して、三春ネギの土寄せどころではなかった。

2011年9月1日木曜日

断層だらけ


いわき地域学會の仲間から、立て続けにいわきの断層の話を聴いた。相手はいわきの鉱物や地質・化石などの研究者だ。日ごろからいわきの大地に関心をいだき、現場を巡り歩いている。

3・11の巨大地震の影響で、4・11にいわき市の「井戸沢断層」近く(田人)でマグニチュード(M)7.1の地震が発生し、それまでは「動かない」とされていた東隣の「湯ノ岳断層」(遠野~常磐)が動いた。田人・遠野・常磐には「地表地震断層」と呼ばれるものが出現し、各地で崩落事故が発生した。

翌4・12には井戸沢断層の北側、同じ東経線上でM6.3の地震が発生した。行政区としては、田人でなく三和が震源地ではなかったか。

以来、震源地が「福島県沖」でなく「福島県浜通り」だと、いわき市南部という前提でチェックする癖がついた。気象台のHPをのぞけば、震源地の緯度・経度がわかる。いわき市の場合は田人・遠野・三和などの南西部に集中している。当然、そちらの震度も大きい。

内陸部で地震が頻発している以上、いわきの大地を研究対象にしている人たちは、断層についての意識を研ぎ澄まさないではいられない。

いわきの代表的な断層ともいうべき「二ツ箭断層」=写真(二ツ箭山中「奥の院」近く。花崗岩にはさまれて破砕帯が見える)=も動いているようだ――震源地をマップに落とせば、容易に想像できることだ、というのが話の結論だった。

きのう(8月31日)の新聞は、電力会社が原発周辺の活断層を評価し直したが、耐震安全性に問題はないとする見解を発表した、という小さな記事を載せた。福島第一・第二原発の場合は、五つの断層が動く可能性を否定できない、という。

これは大変なことではないか。動かないはずの断層が動き、近接する断層も押し合いへし合いのバランスが崩れて連鎖的に動いている。いわきに住む人間としての反応だが、マスメディアにはその危機感が欠落している。こちらはその五つを具体的に知りたい。なのに、記事は「『湯ノ岳断層』を含め五カ所」とそっけない。東京発だから、だな。

しかたない。東電の資料をネットで検索した。その結果、東電は①畑川断層②二ツ箭断層③八茎断層④湯ノ岳断層⑤敷地南東海域の断層――の五つについて、「耐震設計上考慮する活断層に該当する可能性が否定できない」としていることがわかった。ただし、「いずれも基準値震動を超過しないことを確認した」。耐震安全性に問題がない、というのはこのことだったか。

むかし編集した『夏井川流域紀行』(1989年、いわき地域学會出版部発行)に高橋紀信さん(現いわき地域学會相談役)の「断層と段丘」が載る。

「夏井川に沿う断層では、二ツ箭断層が最もよく知られている。この断層を境にして南側が沈降し、北側が隆起する運動が数百万年前に始まり、現在もその動きを止めていない。/二ツ箭とそれに連なる峰々は、このような運動によってつくりあげられた。/(略)夏井川の深い谷は、断層線に沿って浸食が進んだ結果できたとみるのが自然である」

この谷の延長方向、阿武隈の山を越えたところに「小町温泉」(田村郡小野町)がある。高橋さんは「小町温泉はこの断層線に沿って地下深いところから湧き出たものであろう」と推測する。

さて、その断層群だ。いわきの南から北へと断層が動きだし、「二ツ箭断層」の東隣の「八茎断層」も、相双地区の阿武隈高地東縁を南北に走る「畑川断層」も動いている。原発に最も近い「双葉断層」は「畑川断層」に並行するようにして走っている。近接する断層が動いている以上、ここだけ不動のはずがない。

いわき市は、いや浜通りはそれこそ「大地動乱の時代」に入った。

わが家は、茶の間や床の間、玄関の壁が土を主成分にしたものでできている。移り住んだとき、知り合いの左官屋に頼んで表面だけ塗りなおした。大きな余震があるたびに、壁の隅がぽろぽろこぼれ、縦に入った亀裂も明瞭になる。家も、ボデーブローを食らったように、少しずつ疲弊しているようだ。