2011年10月31日月曜日

記念品


「シャプラニール=市民による海外協力の会」から、ゆうメールが届いた。小さな手提げバッグが入っていた。送り状に、マンスリーサポーター歴が10年になった、感謝の気持ちを込めて記念品を送る、とあった。

マンスリーサポーターとは毎月1000円をシャプラに寄付(口座から自動引き落とし)する人間のことだ。シャプラの前身、「ヘルプ・バングラデシュ・コミテイ」創設メンバーの一人がいわき出身の友人だった縁で、会員のカミサンとは別に、10年前、マンスリーサポーターになった。シャプラはヘルプ・バングラデシュ・コミテイから数えると40年の歴史をもつ。

記念品は、バングラデシュの女性がつくったジュートバッグだ。ジュートは黄麻(こうま)。ジュートで織られ、つくられたバッグということになる。「男が持って歩くのはどうかなぁ」というので、カミサンにあげることにした。

シャプラがいわき駅前再開発ビル「ラトブ」2階に設けた被災者のための交流スペースで先日、バングラデシュの伝統的な刺繍ノクシカタの教室が開かれた=写真。先生はシャプラのいわき駐在スタッフ(男性)で、小さな花の刺繍をつくった。およそ20人が参加した。なかなかの盛況だった。知人がいた。およそ十年ぶりに会う人もいた。

十年ぶりの人は、布を通じてカミサンと知り会った。そのころ、シャプラのイベントをいわきで何回か開いた。それで、シャプラを覚えていた。3・11を機に、シャプらがいわきへ支援に入ったことを知って、カミサンに会えるかもと、交流スペースにやって来たのだ。

若い人もいた。運針しながらおしゃべりを楽しむ、男にはちょっとわからない楽しみが展開されたようだった。

記念品のジュートバッグといい、刺繍のノクシカタといい、具体的な物、かたちを通してバングラの文化を知るいい機会になった。

2011年10月30日日曜日

ハクチョウ飛来


ハクチョウがきのう(10月29日)、夏井川にやって来た。早朝、散歩の途次、上流に白く大きなかたまりが浮いているのを発見、近づくとハクチョウだった。右岸、いわき市平山崎地内。最初は2羽、やがて3羽が合流し、40分後には27羽になった。早速、上陸したハクチョウもいる=写真

左岸の中神谷地内に住む女性に話を聞く。女性はトンビと仲がいい。河川敷のサイクリングロードで、女性がえさを空中に投げる。トンビが急降下してパッとくわえる。みごとなダイビングキャッチだ。ハクチョウは前に一度姿を見せたという。しかし、「このハクチョウたちは朝、来たばかりじゃないのかな」。

3月11日の大地震と同時に、ハクチョウたちは一斉に夏井川から姿を消した。以来、7カ月半ぶりの再会だ。去年までと違うのは、川も、山も、野も、放射性物質に見舞われたこと。そんな厳しい環境の中でハクチョウたちは冬を越すことになる。

散歩中に、下流へと向かう一団があった。家に戻って河口へ車を飛ばす。ハクチョウの姿はなかった。四倉の仁井田浦にもいなかった。河口にかかる磐城舞子橋が復旧したので、黒松林を貫く海岸道路を南下し、滑津川まで足を延ばした。そこにもハクチョウはいなかった。

下流へ向かった一団は、たぶんUターンしてきたのだ。5羽のハクチョウが27羽に増えたのはそのためだろう。午後1時半ごろ、車で堤防の上を通ったら、ハクチョウは2羽だけになっていた。まだまだ落ち着かないようだ。

夏井川は中平窪(平)が第一の越冬地、次いで山崎・塩・中神谷(平)、三島(小川)にもハクチョウたちがやって来る。そちらにももう姿を見せているのではないか。

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今朝、ハクチョウにえさをやっているMさん夫妻と会った。軽トラで自宅へ戻る途中だった。しばらくぶりに言葉を交わす。「今朝は5羽だけ。まだ落ち着かない。3月11日に姿を消したのは、川をさかのぼってきた津波に驚いたから」。地震そのものより津波が理由だった、というのは“発見”だった。

2011年10月29日土曜日

スズメが台所に


昼前、台所で水を飲もうとしたら、かすかな羽ばたき音がする。天井を仰ぐと、スズメがいた。出口を探して、何度も行ったり来たりしている。

いい天気になったので、茶の間のガラス戸を開けておいた。そこから家の中に入り込んだのだろう。台所まで進入したのはいいが、ただただ北側の食器棚から南側のガラス戸へと、飛んでは舞い戻る。あわてふためいているのか、隣の茶の間から外へ飛び出す余裕はない。天井を見上げて思案中のところをカメラに収めた=写真

台所のカーテンとガラス戸を開けて逃げ道を用意してやる。ところが、そばに人間が立っているものだから、怖くて近寄らない。そのうち、やっと茶の間に気づいてそちらから大空へと消えた。

大震災以後、出てきた本に室生犀星の『動物詩集』がある。戦時下の昭和18年に発行された。義父か伯父かが持っていたか、あるいはどこからかめぐりめぐってやってきたものに違いない。買った記憶はない。序文にこうある。

「いろいろな動物の生活を見てゐると、どういふ生きものにも私たち自身の生きてゐる有様が、ところどころに見られる。/動物がびっくりする時や喜ぶ時にも、私たちのびっくりしたり喜んだりする、こまかい有様を見ることが出来る。いのちといふものを動物のなかに見てゐると、どういふ下等な動物でもいのちを大切にまもるために、飛んだり逃げたりすることが分ります。」

「飛んだり逃げたりする」ために、天井を見上げて思案中のスズメは、まさに腕組みをし、天を仰いで考えごとをしている人間と同じではないか。

『動物詩集』には「夏の雀のうた」が入っている。<あつくなると/雀のあたまも黒くなる。/雀もきつと/あつい日にやけるのでせう。/雀はあんまりあついと/からだがかゆくなつて/水で羽根をさうぢをする。/雀のあしはあかだらけで/おうちで/あしがきたないといつて/しかられてゐるのだらう。>

スズメの写真を拡大したら、脚に綿ごみがいっぱいついていた。「あかだらけ」どころか綿ごみだらけだ。家に帰ればしかられるに違いない。

2011年10月28日金曜日

メジマグロ


いつもの魚屋さんにカツオの刺し身を買いに行ったら、「ないんです、代わりにホンマグロの子どものメジマグロがあります。前に食べて『うまかった』っていったやつ」。マグロの刺し身はほとんど食べない。が、メジはだまされたと思って食べたところ、確かにうまかった。“トロガツオ”に引けを取らない。サンマの刺し身も一匹、加えてもらった=写真

いわきではまだまだカツオの刺し身が食べられる。脂ののった戻りガツオが入る。たまたま脂のないものが続いたので、様子を見ることにしたのだという。

サンマのミリン干しも始めた。今年はどうしようか迷っていた。が、食べたいからつくってほしい――常連の声に背中を押された。

去年までは、いわきの海の幸を遠くにいる親類・友人・知人に宅配便で送って喜ばれた。今年はすっかり様子が変わった。受け取りを拒否されるときがあるという。家庭によっては、人によってはありがた迷惑になってしまうのだ。これも一種の風評被害、いや過剰反応だろう。

いわきでは、漁は行われていない。サンマは安全な北からやって来る。サンマのミリン干しも、そういう意味では心配ない。

魚屋さんは客の依頼を受けて宅配業者を呼ぶ。先方に届けたのはいいが、持って帰れと言われたら、業者だってどうしたらいいかわからなくなってしまう。「宅配便で送るのもいいけど、先方にちゃんと確認してからにしてください」。魚屋さんは念を押すのだという。

賢く恐れてほしいといっても、先入観に支配された人間は聞く耳を持たない。道理が通らない。こうしてひとつ、またひとつ、腹が立つことが増えていく。そうではない人もいっぱいいることを承知しながらも、だ。

2011年10月27日木曜日

700円ランチ


会津に住む後輩がいわきにやって来た。一緒に吉野せい賞選考委員会に出たあと、彼を久之浜の「あみ屋」=写真=へ案内した。後輩の父親と、「あみ屋」の経営者の父親は仲がよかった。双葉郡内で学校の先生をしていたという。

3・11以後、経営者夫妻と連絡が取れず、安否が気になっていた。6月になってようやく電話がつながった。後輩は夫妻と顔を合わせてホッとした様子だった。

「あみ屋」は5月中旬に店を再開した。新聞記事になったので、知っていた。昼11時から2時まで、ランチは天丼も、てんぷら定食も、刺し身定食もオール700円だ。年内はこの震災限定メニューで営業するという。700円ランチが受けて、結構にぎわっているようだ。北に過酷な仕事場をかかえる人たちも胃袋を満たしに来る。

「あみ屋」は波立(はったち)海岸の北はずれにある。波立海岸の先は久之浜海岸。いわば両海岸の境に位置している。大津波が久之浜海岸と波立海岸を襲った3月11日、「あみ屋」は奇跡的に助かった。海からではなく、国道6号から水が押し寄せ、駐車場に家電製品などが流れ着いた。しかし、建物は床が水につかる程度で済んだ。

久之浜も波立も、沿岸部の建物はあらかた津波にやられた。「『あみ屋』だけ無事だった」。そんな声が聞こえる。みんなに申し訳ない気持ちだという。

いわき民報社が発行した写真集『3・11あの日を忘れない いわきの記憶』がカウンターに置いてあった。久之浜の住宅地を襲う津波の写真を指し示して、「どこかで見たことがあると思ったら、父のアトリエだった」。

それからざっと2週間後。きのう(10月26日)昼前、せい賞の発表の場に出たあと、「あみ屋」へ車を飛ばした。カミサンは刺し身定食、私はカキフライ定食を食べた。

座敷の隅の壁に6号ほどの油絵が飾ってあった。果物らしきものを手前に配して貝殻を組み合わせた写実画だ。細密描写にうなった。おかみさんに聞く。「お父さんの絵?」「そうです」。久之浜にアトリエを構えた画家らしい作品だと思った。

2011年10月26日水曜日

「川前屋」再オープン


日曜日(10月23日)、無量庵のある夏井川渓谷(牛小川)へ出かけたついでに、上流の川前へ足を運んだ。同じ溪谷にある「山の食。川前屋」が店を開いていた。10月1日に再オープンした。

品ぞろえはいまいちだが、漬物がある。赤く色づいた唐辛子がある。ニンジン、チンゲンサイ、いなりずしがある。腕カバーもある。それらを買うと、しめて3300円になった。ここでの買い物にしては少々張り込んだ。どこかで再開を祝う気持ちがはたらいたようだ。

恒例の「紅葉ライトアップ」が今年も11月4~6日、「川前屋」を会場に開かれるという。初日は午後5時半に点灯式が行われる。日中は「川前屋感謝祭」で、2日目と最終日には太鼓や歌などのイベントが繰り広げられる。人気の川前手打ちそばは3日間とも限定販売だ。

通常であれば、「川前屋」は冬場を休んだあと、4月に再開される。それが、今年は原発震災の影響で半年ずれこんだ。川前屋は震災に負けない、再びごひいきに――紅葉ライトアップと川前屋感謝祭にはそんな意味合いもあるのだろう。

さて、わが無量庵の三春ネギはどうなったか。「川前屋」から帰って苗床を見ると、緑色の芽が列をなしていた=写真。発芽率はかなりいい。ひとまずこれで冬を迎える準備はできた。次にいのち(種)をつなぐめどは立った。

栽培中の三春ネギがやせ衰えて収穫もままならず、春にネギ坊主を形成するまでに至らなかったとしても、なんとかしのげる。1年間、三春ネギを食べなければよい。

代わりに、これからスーパーで売り出される阿久津曲がりネギか、溪谷の紅葉に合わせて江田駅近くに直売所を設ける小野町のNさんの曲がりネギを買って食べる。いっぱい買って仮植えしながら消費するという手もある。

話はまた変わって、夏井川渓谷のカエデの紅葉だが、NHKの情報では「色づきはじめ」。しかし、すでにツツジ類を中心に山全体がかなり色づいている。

川前だけでなく、小川分のわが牛小川でも11月13日、小川町商工会主催による「夏井川渓谷紅葉ウオーキングフェスタ2011」が開かれる。それを忘れていた。集合場所は無量庵の隣、錦展望台だ。去年までは案内人の一人だったが、今年は会津へ行く用事があってパスするしかない。

紅葉ライトアップ会場周辺の放射線量(9月25日現在)は、チラシによれば0.12~0.16マイクロシーベルト/時だ。アカヤシオの花が満開の春は、行楽客は皆無に等しかった。紅葉の秋にはにぎわいが戻ってほしい。

2011年10月25日火曜日

ふるさと体験交流


日曜日(10月23日)に川前町のブドウ園を訪ねたら、近くの川前公民館でマチの子どもたちがブドウのジャムづくりをしていると教えらえた。公民館をのぞくと、知人がいた。知人に用があって訪ねたものの、留守。で、空振りで戻るのもなんだから、ブドウ園に寄ったのだった。

あとで川前町商工会のHPをのぞくと――。小学4~6年生を対象に「ぶどう狩り・飾り炭体験」の参加者を募集した。

ブドウ園でブドウ狩りをしたあと、ブドウジャムとブドウジュースをつくる。パンも自分たちでつくり、ドラム缶オーブンで焼いて食べる。昼食後は同じドラム缶で松ぼっくりやドングリなどの飾り炭をつくる、つまり炭焼きを体験する。参加費無料でそんなメニューが用意されていた。

いわきの里川前ふるさと体験交流委員会が主催し、同商工会が後援した。川前の交流人口を増やすのが目的で、知人はその中心メンバーだ。放射線量を測定し、公表したうえで、教育委員会を通じて参加者を募集し、事業を実施したという。

私らが行ったのは昼前。子どもたちはジャムとパンづくりに奮闘していた=写真。子どもたちからは平の小学校の名前が次々と上がる。わが地域の小学校からも、いかにも元気そうな3人組が参加していた。

いわきは広い。バスでやって来た子どもたちは、マチとは異なる夏井川渓谷の秋と静かな山里のたたずまいのなかで、共につくり、味わい、楽しんだことだろう。ストレスも少しは減ったことだろう。

2011年10月24日月曜日

総ぐるみ運動


秋のいわきのまちをきれいにする市民総ぐるみ運動が10月21~23日に行われた。最終日(日曜日)は早朝、住民が出て家の周辺を清掃した。わが区内会は開始時間が6時半。パラついた雨はすぐにやみ、予定通り作業が進められた。

東日本大震災に伴う原発災害の影響で、市は春の総ぐるみ運動を中止した。秋の総ぐるみ運動も例年と異なる展開になった。側溝の泥上げが事実上、中止された。

側溝土砂はこれまで、市が回収して埋め立て処分をしてきた。それが、放射性物質のために市は回収できません、というお触れが回った。せいぜい草を引っこ抜いたり、ごみを拾い集めたりするていどの「清掃デー」だ。

ふだんから家の周りをきれいにしているところは、「清掃デー」だからといって特段することがない。

今年度から区内会の保健委員を仰せつかったので、指定のごみ集積所を見て回った。ごみ袋がないところもある。集合住宅の住民が出て草むしりをしたところは、2カ所でおのおの30袋前後=写真。あとは燃えないごみが数袋。思ったより少なかった。

清掃作業を終えたあと、夏井川渓谷へ出かけた。沿道にはあまりごみ袋が見当たらなかった。よその地区もごみに関しては似たような状況だったらしい。

途中、道路沿いの集会所でバーベキューの準備をしている人たちがいた。総ぐるみ運動のあとはバーベキューなどをしてコミュニケーションを図るところがある、と聞いた。その一つだろう。

あるところでは、清掃作業をしたあと、通学路などの放射線量を減らすための「生活空間環境改善事業」(県補助)に取り組むため、区内の放射線量をチェックしたという。

なんとなく中途半端な総ぐるみ運動だったな、という感じをぬぐえなかった。

2011年10月23日日曜日

本との再会


きのうとは逆の話です。その本は、刊行物は確かにある。あるのはわかっているが、すぐには出てこない。どこかにまぎれこんでいる。たぶん離れだと見当はつけても、本が乱雑に積み上げられてある。足の踏み場もない。

今すぐ調べたい、読んで確かめたい。が、探しだすまで時間がかかる。その手間暇を考えれば、文庫本ていどなら買いに行った方が早い。店頭にないいわき関係の資料なら、いわき総合図書館の郷土資料コーナーへかけつければよい。このところ、そんなことを繰り返している。

たとえば、いわき地域学會の会報「潮流」第6報(高木誠一没後30年特集号=昭和60年)、広沢栄太郎著『シベリヤ抑留記 ある捕虜の記録』(昭和48年)。常磐湯本温泉の古滝屋が発行していた「かわら版」、いわきの総合雑誌「6号線」「うえいぶ」、同人誌「詩季」など。それらが離れからごそっと出てきた。

新書の『神戸発阪神大震災以後』『中学生大震災作文集』『阪神大震災を詠む』、堀川正美詩集『枯れる瑠璃玉』などとも久しぶりに“再会”した=写真

とりわけ『枯れる瑠璃玉』だ。鮎川信夫、田村隆一ら「荒地」派とは異なった、新しい言葉群に引かれ、しばらくその世界をさまよった。40年前のことだ。以来、「瑠璃玉」という植物が気になっていたが、それがルリタマアザミだと知ったのは、たしか去年の夏。

今度の大震災を機に廃業した輸入雑貨店「オルドナンス」に飾ってあった。径3~4センチほどの青紫色の涼しげな花だ。そのとき初めて、『枯れる瑠璃玉』の表紙の絵と現物が一致した。「枯れる瑠璃玉」とはつまり、ルリタマアザミのドライフラワーだったのだ。

離れから同時に出現した思潮社の現代詩文庫『堀川正美詩集』をぱらぱらやる。金井美恵子の最初のエッセー集の題名にもなった、有名な詩句がある。<明日があるとおもえなければ/子供ら夜になっても遊びつづけろ!>(「経験」)。この「夜になっても遊びつづけろ」なんてことばを真に受けていたときもあった。

阪神淡路大震災からわずか16年余。浜通りは東日本大震災とそれに伴う原発事故に襲われた。昭和55(1980)年、当時の朝日新聞いわき支局長氏から献本の栄に浴した同支局編『原発の現場――東電福島第一原発とその周辺』(朝日ソノラマ)も出てきた。阪神淡路大震災関連の本と合わせて読み直さなければ、と思っている。
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10月19日付「瓦が割れていた」にコメントを寄せてくださった匿名さん、ありがとうございます。背中を押してもらった思いです。その通りにします。

2011年10月22日土曜日

本との別れ


庭の一角に一間半四方の離れがある。畳に換算すれば4畳半だ。方丈(5畳半)よりは一回り小さい。老朽化が進み、南西の角にすきまができた。いつのまにやら野良猫が出入りするようになった。若いころは書斎兼昼寝、あるいは独酌の場だった。解体するしか手がない。

前は整然と本箱に本が並んでいたが、東京から帰った息子が母屋の2階を占拠する段になって、私の本をどんどん離れに持ち込んだ。どこに何があるかわからなくなった。ドアを開けるとほんの少ししかスペースがない。変に触ると本がなだれを打って落ちる。十年以上もそんな状態が続いている。こんどの大地震で中がさらにごちゃごちゃになった。

解体するためにカミサンが動き出した。毎日、離れから母屋の縁側に本を持ち出してくる=写真。「要る本、要らない本をよりわけて!」。こちらはすべて「要る」と思っているが、それでは前に進まない。単に楽しみとして読んできた本がある。いわきを知るために取っておいた本や資料がある。

まず詩集、阪神淡路大震災関連本、いわきの出版物などがドンと並んだ。それらは残す。一般の文学関係、江戸関係の本、専門書などは思い切って処分する。いつか読むに違いないと、買って“積ん読”したままの本がかなりある。

これからの時間を考えると――。本に囲まれた生活は理想だが、本を眺めて暮らすわけにはいかない。やることがいろいろある。本のために割ける時間はそうないのだ。

つい思い出にふける。ぱらぱらやる。十代の終わりに読んで感銘を受けた本、たとえばポール・ニザンの『アデン・アラビア』は、青春の記念碑として手元に置く。『岩波講座 文学』(全12巻)は処分する。こちらは買っただけに終わった。宮沢賢治に関するあまたの本は疑似孫が大きくなったら譲ろう。

というわけで、ここしばらくは「本との別れ」を繰り返すことになりそうだ。

2011年10月21日金曜日

瓦が割れていた


2階の物干し場に出たカミサンが言う。「瓦が割れてる!」。物干し場の南側、平屋部分(下は風呂場と台所)の屋根を見ると、真ん中あたりで瓦が1枚割れて、すきまができていた。3・11以来、気がつかずにきた。てっぺんのグシが壊れたわけでも、瓦が落ちたわけでもない。それで見過ごしていたのだ。

先日、客人が来た。度重なる余震で部屋の壁のひびが目立つようになった。その話をすると、罹災証明を取ったら、という。高速道を利用するための被災証明は取ったが、罹災証明は被害が軽微なので見送った。

物干し場の空き容器にたまった雨水を南側の排水口に流したら、北側にあるもう一つの排水口に向かって水が流れ出した。ん? 北側に物干し場が傾いている。なにか土台部分に異変が起きたのではないか。客人の来た翌々日、瓦の割れと物干し場の傾斜に気づいて、遅まきながら家の内外を見回した。

家の北側1階、店(米屋)と文庫(地域図書館)のコンクリートのたたきに微妙な段差ができている。カバーをはぐと東西に亀裂が入っていた。反対側、南の縁側の下のコンクリートたたきは南北に亀裂が入っている=写真。これはむき出しだから前から承知していた。

物干し場が北に傾斜していること、その下にあるトイレのドアがきちんと閉まらなくなったこと、西側と店の前の犬走りに亀裂が入っていることなどからして、わが家は3・11以後、かすかではあるがミリ単位で西と北にかしいだのではないか。震災から半年以上たって、ようやくそんな事態に思いが至った。

考えていた以上に家はダメージを受けたようだ。カミサンは、罹災証明をもらわなくてはと、眉間にしわを寄せている。

2011年10月20日木曜日

秋の花粉症


見た目は元気そうなのに鼻声だ。花粉症だという。秋の花粉症にかかった若い人間を初めて身近に見た。

とっさに思い浮かんだ植物がある。セイタカアワダチソウだ。土手に、空き地に、河川敷に群生している。冷気が忍び寄ってくるころ、次々に黄色い花を咲かせる。今がそうだ=写真。花粉症の原因植物ではないが、なぜか秋の花粉症の話になると、この帰化植物が脳裏に浮かぶ。ほんとうは、ブタクサやヨモギなどが秋の花粉症の“犯人”だそうだ。

双葉郡と近隣地区は今年、「雑草天国」になった。大震災に伴う原発災害さえなければ、里は、山里は美しい景観を保っていられたはずである。水田には稲穂が整然と並び、畔道の草もきれいに刈り払われていたはずである。農村や山村の景観は、住民が絶えず行う「草刈り」によって保たれているからだ。

その里や山里に人がいないということは、「草刈り」が行われないということだ。田畑の、畔の、庭の雑草は茂りに茂り、育ちに育った。そして、ヨモギたちが夏から秋の開花期を迎えた。

こんな話を聞いた。原発事故を収束するために作業員がJヴィレッジを拠点にして集散する。この時期、花粉症にかかっている作業員が少なくない、というのだ。

双葉郡と近隣地区が、「草刈り」という文化を失って荒れた自然に戻りつつある。1年の、四季のサイクルのなかで、去年までは開花する前に刈り取っていた草が至る所に残っている。草にとっては勢力を広げる絶好のチャンスだ。そんな荒れた自然環境が秋の花粉症の増加の一因になっていないだろうか。

2011年10月19日水曜日

街なかコン


いわき市の中心市街地でもある平で10月15、16日、街なかコンサートが開かれた。初日は日中、あいにくの雨。2日目の日曜日は天気も回復し、美術館と画廊をめぐったあと、街の中をぶらついた。

いわき駅前再開発ビル「ラトブ」2階に被災者のための交流スペースができた。NGOのシャプラニールが運営している。常駐スタッフが所属するロックバンド「ザ・ストライプス」が街なかコンに名乗りを上げた。初日の午後4時すぎから「バー クイーン」で演奏するというので、出かけた=写真

バンド紹介欄にこうあった。「西東京市の学童倶楽部の保護者を中心に集まったロックバンドです。オリジナル曲を、作った本人が歌うという自己責任制がウリ。子供たちへの想いや社会へのメッセージなどを熱く歌い上げます」

メンバーの話では、4年前に結成された。当日、家族ともどもやって来て、常駐スタッフと合流した。

シャプラの常駐スタッフはドラムをたたき、ストリートチルドレンをテーマにしたオリジナル曲「冷たい雨」などを歌った。かつて駐在したネパールでの体験がもとになっている。女性はわが子への愛を切々と歌った。私小説ならぬ「私ソング」という言葉が思い浮かんだ。アットホームな雰囲気ながら、言うべきことは言う社会派ロックバンド、といったところか。

学童倶楽部という、限られた世界のなかに、それなりのウデとノドを持った保護者がいてロックバンドを組む――人間のるつぼの東京ならではの出会いか。本職のほかに、エネルギーを注入できる余技があって、仲間がいる。すてきなことだ。

2011年10月18日火曜日

横転事故


いわき市内の国道6号で重大事故が発生しやすいところは、と言ったら、真っ先に平中神谷地内が挙げられるのではないだろうか。

片側2車線の直線道路だから、飛ばしやすい。通行量も多い。中神谷近辺には、車にはねられて死亡した歩行者が少なくない。4車線の道路を横断するには時間がかかる。車はすっとんでくる。で、車にやられる。やられる、としかいいようがない。ほとんどお年寄りが犠牲になっている。

きのう(10月17日)夕方の帰宅ラッシュが始まった5時半前、知り合いから電話がかかってきた。「(中神谷の)中華料理店の前の国道6号で車がひっくり返っている」。仕事で出かけた帰りに現場を通ったのだろう。様子を見に行った。

近所の人の話に、ぶつかってひっくり返った車の状況を重ねると――。平市街地へ向かう上り線沿いの事業所付近から四倉方面へ進む下り線に向かって出てきた車に、内側の追い越し車線を直進してきた車が側面衝突をし、事業所付近から出てきた車がはずみでひっくり返ったということらしい=写真。さいわいけが人はいなかった。

事故現場は国道6号の常磐バイパス終点付近だ。平方面に向かう車が合流するところで、ときどき四倉方面へ向かう車が間違って降りてきて、いきなり上り線を横断する様子が目撃されるという。

年を重ねるとともに視力が衰え、判断力が鈍る。安全な距離感が狭くなっている。「信号のないところでは横断しないで」。このごろ、助手席から厳しい声が飛ぶ。そんなことと、今度の事故は関係がなかったか。

当事者と思われる熟年男性と若い女性が警察官と話していた。横転したのは男性の車らしい。もしかしてバイパスを下りてきた? 見通しがいいのに、車に歩行者がはねられる、車と車がぶつかる――要注意区間が中神谷だということをあらためて胸に刻む。

2011年10月17日月曜日

二つの「梨花」


いわき市立草野心平記念文学館の学芸員嬢に、スポット展示の「吉野せいと三野混沌」をぜひ見てください、と念を押された。10月8日に始まった「新収蔵品展2011」を見たついでに、夫婦の作品を紹介するスポット展示コーナーをちらりと見た。

後日、学芸員嬢から電話がかかってきた。ちゃんと見たのかと言われれば、口をもごもごするしかない。<わかった、ちゃんと見る>。用事があったついでに、再度、文学館へ足を運び、約束を果たすことにした。

自筆資料、書籍(混沌詩集『百姓』)『開墾者』『或る品評会』『ここの主人は誰なのか解らない』『阿武隈の雲』、せい著書『暮鳥と混沌』『洟をたらした神』『道』)、雑誌「海岸線」2(昭和6年2月発行)などが展示されている=写真

夫婦は好間の菊竹山で開墾生活を続けた。4人の男の子と2人の女の子に恵まれた。が、次女の梨花は急性肺炎のためにわずか9カ月余のいのちを生きただけでこの世を去る。その日は昭和5(1930)年12月30日。このとき、混沌36歳、せい31歳だった。

「梨花」をテーマにした肉筆原稿(混沌:詩、せい:散文)を読み比べられる、いや父として、母として梨花とどう向き合ったか――がスポット展示のポイントだろう。

『洟をたらした神』で、せいの「梨花」は広く知られるようになった。が、混沌の「梨花」はどうか。

平成12(2000)年秋に開かれた「三野混沌展」の図録に写真版が収録された以外は、活字になったかどうか、寡聞にして知らない。父親としての情愛のこもった作品を初めて読んだ。梨花の死後、10日あまりたって書かれた。

混沌の「梨花」は、400字詰め原稿用紙を半分にちぎり、それを横にして、マス目を無視して書いた短詩だ。

梨花(リーコ)よ/梨の実のような顔の/エクボを/高い天上のエクボを/私は忘れない//両手に捧げられて/あらしのよろこびをちらした梨花(リーコ)/みんなでお前をあたため/お前の病めつくまておぶうて/かあいがつてあげたよ/ 六・一・一〇

『吉野せい作品集』(弥生書房、1994年刊)に、梨花の死の1カ月後、1月30日に書き起こされ、4月28日まで書き続けられたせいの日記が、「梨花鎮魂」と題して載る。2月13日の記述が胸に刺さる。

「梨花を思ふとき創作を思ふ。梨花を失ふたことに大きな罪悪を感じてゐる自分は、よりよき創作を以て梨花の成長としよう。創作は梨花だ。書くことが即ち梨花を抱いてゐることだ」

混沌の詩には、せいのような決意と直截性はない。代わりに、梨花を抱き上げたときの笑顔を「あらしのよろこびをちらした」と表現する詩人の温かみと包容力がある。せいはその後、現実に足を踏ん張って生き、混沌はその後も詩に生きた。

2011年10月16日日曜日

紙工芸教室


いわき駅前再開発ビル「ラトブ」2階に開設された被災者のための交流スペース(NGOのシャプラニールが運営している)で先日、紙工芸教室が開かれた=写真。佐久間静子さんが講師を引きうけた。まったく受講生がいないのもさびしいものだ。紹介した手前、サクラになるつもりで出かけた。

硬い色紙を二つに折って、型紙に合わせてはさみを入れる。すると、たちどころに「怪獣」ができあがる。孫へのいいプレゼントになる。やる気がわいてきた。

たった一人の受講生を相手に教室が始まった。交流スペース前をブラブラ歩いていたおばさんたちにスタッフが声をかけると、4人が興味を持って入ってきた。5人になった。

女の子を連れた夫婦がやって来た。「あれっ、Sさんじゃないですか!」「あのときの!」。思わず握手をした。仕事を辞めると同時に、ある会社の記念誌の取材・編集を頼まれた。そのとき、自宅へ赴いてインタビューをした一人がSさんだった。久之浜に住んでいた。女の子は孫だ。

津波に何もかも持っていかれた。記念誌も。あの日(3・11)は娘と孫が来ていた。いつもだと目の前の海岸を散歩する時間。孫を連れて散歩していたら、二人とも流されていた。娘に恨まれていたに違いない。虫の知らせというのか、家にいて、車で目の前のバイパスに上がり、山の上の寺に逃げた。命と車だけだ、残ったのは――。

取材で一度会っただけだが、氏素性は互いにわかっている。Sさんは堰を切ったようにあの日のことを語り続けた。

今は平の借り上げ住宅に住んでいる。シャプラニールから交流スペース開設の手紙が来たので、様子を見にやって来たという。奥さんと孫は紙工芸を楽しんだ。

交流スペースにはこういう再会もある。

2011年10月15日土曜日

三春ネギの種をまく


三春ネギは秋に種をまく。阿武隈高地の向こう、中通りからいわきの山里へ、夏井川沿いの道に沿って牛小川(夏井川渓谷)へ三春ネギがやって来た。

春まきの平地のネギ、これは南の東京・千住方面から来た。いわきの「ネギの道」は一つではない。

夏井川溪谷での、三春ネギの種まきは10月10日が目安。先の3連休初日(10月8日)、いわき市立草野心平記念文学館で「新収蔵品展2011」がスタートした。午前10時からの内覧会に参加したあと、夏井川渓谷の無量庵へ足を延ばして三春ネギの種をまいた。

カミサンの小川の親類からもらったもみがらが少し残っていた。苗床をもみがらで覆った=写真。もみがらは苗床の乾燥と雑草の発生を抑える。厳冬期の畑の防寒にもなる。人間が手伝ってやれることは、ひとまずそこまで。

最近は週末、いわき地域学會の市民講座やシャプラニール=市民による海外協力の会のイベントなどで街にいることが多い。3連休中の9、10日もそうだった。

でも、種をまく時期は決まっている。こちらの都合ではなく、むこう(自然)の都合に合わせなくてはならない。8日にうまく時間ができた。

秋に苗床をつくる。種をまく。越冬したあとの初夏、ネギ坊主を摘みとり、乾かして種を採る。冷蔵庫に種を保管する。自家採種は足かけ3年がかりだ。

そのサイクルが今年は怪しくなった。夏に伏せ込んだ三春ネギの具合がよくない。通常だと溝に刈り草を敷いて土をかぶせるのだが、それをしなかった。草にセシウムが付着しているからだ。水はけはともかく、空気はけが悪い。

最悪の場合を考えて、種を三分の一ほど残した。冷蔵庫に入れておけば、2年目でも発芽する。やはり、「非常時」の種まきになってしまった。

2011年10月14日金曜日

「パリの秋」


いわき市平の小野美術で「阿部幸洋展」が開かれている=写真。10月6日に始まった。17日が最終日だ。ほんとうは4月に予定されていたのが、「3・11」のためにずれこんだ。それから半年余、絵を通していわきに活力を与えたい――作品にそういう視点が加わった。

阿部はスペインに住んでいる。いわき出身で、19歳(20歳だったか)のときに平・草野美術ホールで初個展を開いた。そのとき取材したこちらは22歳(23歳だったかもしれない)。以来、40年余のつきあいだ。

2日目の7日、金曜日に出かけた。いわきでの個展にはいつも帰国する。ほんの少し、それこそ二言、三言だけ話した。3・11のことは前にメールで伝えてある。

3月15日、阿部が息子のようにかわいがっているラサロ君から、こちらの状況を心配するメールが入った。その日、原発事故のために白河市の奥へ避難したため、返信できたのは帰宅後の3月25日。こちらも切迫していたが、スペインでもテレビを前に切迫していたのだろう。連絡が取れるまで気をもませたようだ。

さて、作品は油絵とパステル画と合わせて35点。油絵はスペインの風景、パステル画はパリの秋を描く。エッフェル塔やセーヌ川や橋や街並みを素材にした、半抽象の風景画といってもいい小品が大半を占める。油絵もパステルの質感に合わせるように、光沢を抑えたものになっている。

彩りが豊かだ。長い時間をかけて少しずつ、少しずつ色を増やしてきた。そんな色に対するつつましさ、禁欲性がうかがえる。光、空気、風物、そして色彩。阿部絵画の楽しみ方が年を追って多様になっている。

原発震災の影響で怯えや不安が心にわだかまっているなか、西欧の静かな大地と街を切り取った阿部の絵にホッとした、という女性がいる。絵の力だろう。

2011年10月13日木曜日

54年前の雨の記憶


小学校3年生か、4年生だった。

アメリカ、ソ連、イギリスが大気圏内で核実験を続け、日本にもめぐりめぐって「死の灰」が降った。「雨には当たらないように」と先生に言われ、親からも言われたような記憶がある。

ところが、その雨に当たってかけっこをしているうちに頭が痛くなってきた。「放射能のせい?」。幼稚な頭で本気になって悩んだことがある。

半世紀も前の、道路がまだ子どもの遊び場だった時代。東西に延びる一筋町が大火事になったあと、家並みの南側に、幹線道路に並行して新しい道路ができた。そこを通る車はほとんどない。子どもたちは道路で鬼ごっこをやり、相撲を取り、かくれんぼをした。かけっこのコースにもなった。

上級生が号令をかけたのだと思う。下級生が勢ぞろいし、学年ごとに「よーい、ドン」をした。そのうち小雨が降ってきた。何回かかけっこを繰り返しているうちに酸欠状態になったのだろう、少しずつ頭が痛くなってきた。帰宅して畳の上に横になった。

記憶を整理するためにいわき総合図書館へ行って、当時の新聞(縮刷版)をチェックした。小3のときだとしたら、昭和32(1957)年だ。梅雨の前という見当をつけて朝日新聞をめくったら、あった。

イギリスがクリスマス島で水爆実験(5月16日付)、アメリカがネバダで核実験(5月29日付)、イギリスが再び水爆実験(6月1日付)=写真。「早くも東京の雨に…/クリスマス島実験の放射能」(6月11日付)という記事もあった。

「セシウム137 人体や植物から検出」(6月18日付)「子孫に伝わる放射能害」(6月26日付)。ストロンチウム90、あるいはセシウム137などという名前は、そのころ一度しっかり胸に刻まれたのだ。今の子どもたちもそうに違いない。

昭和30年代に空から降って来た放射性物質でいまだに残っているものもあるだろう。半減期の長い放射性物質は半世紀という時間など物ともしない。

核実験が生んだ映画「ゴジラ」は昭和29(1954)年が第1作。第2作の「ゴジラの逆襲」(昭和30年)もずいぶん遅れて田舎の映画館にやって来た。見たのはやはり、そのころだった。怖かった。

3・11に伴う原発事故の、それこそ人類初と言ってもいい災厄が、子どものころの不安と恐怖をよみがえらせた。この災厄は東電と国がもたらした。そのことを、ゴジラになって胸に刻み直す。

2011年10月12日水曜日

キノコよ、キノコ


6月にマメダンゴ(ツチグリ幼菌)を食べた話を書いた。先週(10月8日)、50歳を過ぎたというKazeさんから、それに関してコメントをいただいた。

「川前ではマンマイダンゴとよぶ。新ジャガとマンマイダンゴとキヌサヤ。この味噌汁を食べないと、その年の、その季節が来たような気がしない」

もうずいぶん昔のことだが、川前発のゆうパックを取り寄せたことがある。マメダンゴと新ジャガと絹サヤのセットだった。当然、味噌汁にして食べた。同じ阿武隈高地のわがふるさと・田村市常葉町でも同じようにして食べるので。

マメダンゴご飯にする手もある。放射性物質が降りそそいだのを承知で、夏井川渓谷の無量庵の庭に埋もれていたマメダンゴを掘り出し、よく洗って炊き込みご飯にした。食べたくて、食べたくて、どうにも我慢できなかった。後日、実家に帰ったら、兄夫婦も、その知り合いも我慢できずに一度だけマメダンゴご飯を食べたという。

夏井川渓谷は、磐城森林管理署の測定で籠場の滝の向かい山=写真=の空間線量率(地上100センチ)が平均0・35マイクロシーベルト/時。わが無量庵の庭は雨樋のミニホットスポットを除いて0・28~0・45マイクロシーベルト/時。マメダンゴはその庭の、苔むした地面の下で成長しつつあるものだった。

Kazeさんはチチタケについても伝える。「チチタケとナスの炒め物。あれを食べないと、その年の夏が来たような気がしない。でも、それは、思い出の世界になってしまいました」。チチタケの分析結果が出たという。セシウム134が1520ベクレル、同137が1970ベクレル、合計3490ベクレル/㎏。暫定基準値の5~6倍だ。

月遅れ盆の前にチチタケを採ってナスと炒め、濃い目の醤油味にする。これに水を加えて加熱すると、得も言われぬスープになる。ダシはいらない。チチタケ自身がいいダシを出す。わが家に来た外国人女性にチチタケうどんをふるまったら、絶賛した。チチタケうどんは最高の「ジャパニーズヌードル」だ。

マメダンゴを一度食べたほかは、今年は野生キノコを口にしていない。開き直って食べてもかまわない年齢だが、わざわざそこまでする気にもなれない。マメダンゴ以外は我慢、我慢――とはいっても、いつまで? 何十年も? 山里の菌食文化は破壊され、マチ場の愛菌家の楽しみは奪われた。

2011年10月11日火曜日

「交流スペース」開所


NGOの「シャプラニール=市民による海外協力の会」が運営する、被災者のための「交流スペース」がおととい(10月9日)、いわき駅前再開発ビル「ラトブ」2階にオープンした=写真

午後1時から開所式が行われた。被災者をはじめ、市、市社協、双葉郡内の自治体関係者など、ざっと40人が参加した。

市の佐藤隆市民協働部長と、被災者のすずきとみこさんがあいさつした。シャプラニールのスタッフは、バングラデシュとネパールで活動しているシャプラが、東日本大震災を機に初めて国内支援に入った経緯と、いわきでの取り組みを報告した。

オープニングイベントとして、いわき芸能倶楽部に所属する2人組「のん☆ぴー」さんがパントマイムを披露した。風船アート教室の講師も務めた。パントマイムをじっくり見るのは初めてだ。時折、マジックも取り入れ、アッと驚かせる。ややなまりのあるところがご当地芸人らしくていい。久しぶりに腹の底から笑った。

交流スペースの開所に合わせて情報紙の「創刊準備号」(A3二つ折り4ページ)が発行された。オープン前から交流スペースを訪ねてくるようになった被災者の元漁師さんの声が載る。

「薄磯にいた頃は、毎日防波堤に行けば仲間がいて、話し相手には事欠かなかったねぇ。今は周りに知り合いもいないから、一日をどう過ごせばよいかわからないんだ。この交流スペースが出来てスタッフが話し相手になってくれるから、これからも利用するよ。俺のように独りで暮らしている人がいたら、是非ここを利用して欲しいな」

被災者を代表してあいさつしたすずきさんは、薄磯海岸でカフェを開きながらパッチワークを楽しんできた。元漁師さんも客の一人だった。元漁師さんはラトブ近くの借り上げ住宅に住む。知り合いが入った内郷の雇用促進住宅を訪ねた際、すずきさんと再会し、互いに生きていることを喜びあってハグしたという。開所式でも二人は顔を合わせた。

すずきさんは多くのキルト作品を津波にさらわれた。が、まだ手元に残っている作品がある。届けられた作品も、砂の中から見つかった作品もある。客やファンとの再会を期して10月29、30日、鹿島ショッピングセンター「エブリア」で「カフェサーフィン すずきとみこの手仕事展」を開く。みんなの力を借りて一歩、一歩前に進んでいくつもり――それがすずきさんの決意だ。

きのう(10月10日)はオープニングイベント第二弾、古扇亭唐変木さんとの落語と、宮内真佐子さんのハーブのミニブーケづくりが行われた。

ミニブーケづくりが行われているところに息子一家がやって来た。交流スペースにはキッズコーナーがある。そこで2人の孫としばらく遊んだ。被災者のための交流スペースは、祖父母と孫たちの交流スペースでもあった。

2011年10月10日月曜日

西日本からの便り


稲刈りが行われている。場所によっては天日干しのわらぼっちが立つ。兵隊さんの隊列のようなわらぼっちがあった=写真。秋が深まりつつある。そんなある日――。

年賀状でいわき市からの引っ越し予告をしていた知人夫妻からはがきが来た。「島根県益田市という日本海の町に引っ越しました」。知人は建築士。2人の子どもが広島県と山口県にいる。孫とかかわりを持った暮らしがしたいと、数年前から計画を練ってきた。3・11とは関係がない。が、拍車はかかったろう。

先祖伝来の田畑と家があれば、子どもが同居するか、やがて戻ってくる。そういう可能性は高い。しかし、土地を買いマイホームを建てて、そこで一家が暮らしたとしても、子どもは社会へ出たら、その地にマイホームを建てるか、マンションを求めるかして根づいてしまう。古い住宅団地が過疎化・高齢化していることがそれを物語る。

核家族化と高学歴化が人間の移動と拡散を促した。遠くの大学に入る。全国展開の企業に勤める。転勤が当たり前になる。親の元へは帰らない、帰れない。ならば、親が孫のためにそちらへ近づこう――という一大作戦に出た。孫のための祖父母のIターンはおそらく例がない。

島根県の西部に位置する益田市は、山口県萩市・岩国市、広島県廿日市市・北広島市などと隣接する。益田市から中国山地の向こうの山口市とはJR山口線で結ばれている。途中に津和野がある。SLが走る。長門峡もある。山口県長門市の金子みすゞも、湯田温泉の中原中也も視界に入っていることだろう。

「築60年の古民家を借りて住んでいます」「健康に気をつけ、人との交わりを大切に生活しております」。ネットで探したら、それらしい物件に出合った。畑もある。週末の一家だんらんが目に浮かぶ。

2011年10月9日日曜日

新収蔵品展


いわき市立草野心平記念文学館できのう(10月8日)、「新収蔵品展2011」が始まった。午前10時からの内覧会の案内が来たので、出かけた。ボランティアの会のメンバーが草刈り奉仕などをしたあと、学芸員の説明を聞いた=写真

「東日本大震災」でいわき市の沿岸部(ハマ)は大津波に襲われた。内陸部(マチ)は強震に見舞われ、山間部(ヤマ)ではがけ崩れなどが発生した。その激変と、企画展は無関係ではない。

ハマ・マチ・ヤマ――。私はいわきを考えるときの目安としてこの三つを尺度にする。それぞれに自然とのかかわり方が違う、つまり、風土・生活文化が違う。同じいわきかもしれないが、いっしょくたにはできない。ハマの漁業がある。マチの商工業とムラの農業がある。ヤマの林業と農業がある。良くも悪くも多彩、かつ多様なのがいわきの特性だ。

マチの中心地、平・本町通りのナカノ洋品店が3・11に被災し、その後、解体されて更地になった。平七夕まつりでは、そこに双葉郡の町村のテント村が立った。戦国時代の岩城公以来の、現いわきと双葉郡のきずなを再確認したようなもので、違和感はなかった。

ナカノ洋品店は大正・相和初期、いわきの文学サロンだった。旧制中学生の草野心平(1903~88年)も小川からの通学のかたわら出入りしていた。

中野家当主の父親は詩人の中野勇雄(1905~71年)。叔父の大次郎(1908~34年)も詩人だ。中野家には勇雄の詩集その他、大次郎の旧制水戸高校時代のノート、東京帝国大学時代の日記その他、相当数の資料が保管されていた。

それらの資料2500点を当主がいわき市教委に寄贈した。「新収蔵品」展はその資料が主体になっている。勇雄たちの手書きの回覧雑誌「すやき」、大次郎のノート・日記。そして、中野家が所蔵していた高瀬勝男の一連の仏画――。大正ロマン・昭和モダンの時代を探索するうえでゾクゾクするような資料が展示された。

ほかに、寄贈された四倉町出身の詩人上田令人(1912~88年)の資料、心平と親しく付き合っていたフランス文学者で詩人の渋沢孝輔(1930~98年)の資料も展示されている。戦時中の心平の心情を伝える資料、たとえば中国で発行された詩誌「亜細亜」創刊号、国威発揚の戦争詩集もある。避けては通れない課題にちゃんと対応した。

未発表資料が多い。研究者には興味深い企画展だ。

2011年10月8日土曜日

交流スペース、あす開所


東日本大震災の被災者のための交流スペースがあす(10月9日)、いわき駅前再開発ビル「ラトブ」2階にオープンする。NGOの「シャプラニール=市民による海外協力の会」が行政や社協、地元NPOなどの協力を得て運営する。

ラトブ2階の南側はハニーズその他、10代、20代の女性、あるいは若い男性のファッションをあつかう店が集まっている。色でいえばピンク系のゾーン。

その一角に交流スペースが設けられた。場違いの空間に迷い出たというおもはゆさはあるが、シャプラに関係しているので、毎日カミサンと様子を見に行く。おとといから、東京本部のスタッフ2人が手伝いに入った。一日ごとにそれらしい空間になっていく=写真

このスペースは①生活情報・支援情報・イベント情報の提供の場②友達とのおしゃべりの場③編み物・刺繍などの教室、ミニ講演会などの開催の場④困っている人の相談の場――として活用される。

9日には、午後1時からオープニング記念イベントが開かれる。シャプラのスタッフがあいさつし、市と被災者代表があいさつしたあと、パントマイム(のん☆ぴーさん)と風船アート体験が行われる。

翌10日にも、午後1時半から落語(古扇亭唐変木さん)、ミニブーケづくり(宮内真佐子さん)が行われる。その後もデッサンその他の教室が開催される予定になっている。

シャプラのスタッフを身近に見て思うのは、被災者のニーズに合わせて支援の中身を変えていく柔軟性と創造性、つまりは“実現力“の高さだ。交流スペースもそこから生まれた。

実現力の高さは各種教室の企画・開催にも言える。私らが旧知の人間を紹介すると、すぐ連絡を取って話をまとめる。感心するほど仕事が早い。きょうは仕上げの日。夕方にはカミサンの運転手として様子を見に行く。

2011年10月7日金曜日

吉田礼次郎と川崎文治


きのう(10月6日)の「いわきの地域新聞と新聞人」の続きです。

いわき地方初の民間新聞「いはき」は明治40(1907)年5月に創刊される。発行人は平の吉田新聞店主吉田礼次郎(1870~1933年)。創刊号には平町長弾劾の遊郭設置反対論が載る。クリスチャンとしての思想がそうさせたのだろう。

礼次郎はいわきの新聞史上、特筆されるべき人物と言ってよい。「いはき」を創刊しただけでなく、明治中期から新聞販売業を営み、「関東北にその人あり」と称されるほどの影響力を持っていた。昭和8年6月25日未明、脳溢血で急逝する。享年63。

彼の死を悼んで各紙・誌が死亡記事を載せた。いわき総合図書館の今年度後期常設展示「いわきの地域新聞と新聞人」に、礼次郎の死亡記事と死亡広告の切り抜きを張った吉田家のアルバムが展示されている=写真。月刊雑誌「ジャーナリズム」7月号。口語文に意訳・抄訳すると――。

氏は旧磐城平藩士の子として生まれ、苦学力行して一家をなした。早くから政治に奔走し、郡会議員・郡会議長を務めたあと、新聞販売業に専心。特に、東京日日新聞(現毎日)の主義方針に共鳴して同紙の増紙拡張に力を入れ、関東・東北新聞販売会の革新運動に奮闘した。新聞販売界に尽くした一生だったと言っても過言ではない。

業界では大久保彦左衛門として信頼され、尊敬されていた。半面、非常な陰徳家で、歳末には年末貧困者救済のため、匿名で100円を平町役場に寄付した。これを4年続けた。

――礼次郎が亡くなるとすぐ、町長が匿名寄付の事実を公表した。それで陰徳がわかった。当時の100円は米価換算で15万~20万円の間か。

地域紙・常磐毎日新聞の死亡記事から補完する。礼次郎と同じ日に孫娘が亡くなった。「柴田靜嬢はマルトモ書店主柴田徳二氏の令嬢で吉田氏の令孫に當(あた)り然(し)かも同時に両家の不幸は非常に気の毒がられてゐる」。同じ地域紙・磐城新聞には死亡広告が並んで掲載された。今読んでも胸が痛む。

販売業者としての吉田礼次郎に対して、編集発行人としての人物で興味深いのが川崎文治(1895~1967年)だ。日本児童文学大事典などによって略歴を記す。平生まれ。中央大中退。巌谷小波に師事して童話を書いた。いはらき新聞平支局に勤務後、常磐毎日新聞を創刊した。いはらき平支局時代には山村暮鳥と交流があった。

地域新聞は読者の文芸作品の発表の場でもあった。常磐毎日新聞は創刊号で作品投稿を呼びかけ、さっそく第2号から1面右肩に「常磐文藝」欄を創設、投稿作品を掲載している。

詩を書き、短歌や俳句をつくる若者が、当時勃興しつつあった地域新聞の記者になる。あるいは有力な投稿者になる。石川啄木や野口雨情がそうだったように、文治もまた文筆に生きるべく新聞界に飛び込んだ。読者の文芸作品掲載に力を入れたのも自然の成り行きだったろう。

たとえば寄稿家の一人、すでに著名な存在だった歌人・童謡詩人・天田愚庵研究家島田忠夫(1904~45年)は、常磐毎日新聞に短歌や童謡詩、随想などを寄せ、磐城新聞には愚庵に関する論稿をたびたび発表している。新聞によって中身を分別していたフシがある。一種のすみわけだが、それも複数ある地域新聞活用法のひとつには違いない。

常磐毎日新聞はほかの日刊紙4紙とともに、昭和15年10月31日をもって廃刊する。文治は「本紙を国家に奉献す」といった一文を載せて廃刊の辞とした。戦前のいわきの文化振興に果たした功績は小さくない。

2011年10月6日木曜日

いわきの地域新聞と新聞人


いわき総合図書館は毎年度、前期と後期で常設展示の中身を変える。10月1日からの今年度後期は「いわきの地域新聞と新聞人」だ。

いわき地方の民間新聞として初めて、明治40(1907)年に発行された「いはき」から、戦後に産声を上げ、唯一現在も発行が続くいわき民報までの、いわきの新聞史をコンパクトに概観している。

いわき総合図書館が収蔵する地域新聞は相当の数にのぼる。明治・大正・昭和の新聞などを個人で収集した諸橋元三郎の「三猿文庫」資料が市に寄託されたことが大きい。草野心平記念文学館が新聞・雑誌など3万点余の三猿文庫資料を整理し、目録を作成して、平成13(2001)年に企画展「三猿文庫――諸橋元三郎と文庫の歩み」を開いた。

いわきの新聞史はこれによってくっきりとした骨格を与えられた。三猿文庫の資料はその後、総合図書館が力を入れる郷土資料の目玉として、オープン以来、広く市民に活用されている。常設展示の解説文も、文学館の企画展段階より精緻になった。

個人的に興味・関心があるのは、大正ロマン・昭和モダンの時代。新聞はその時代の空気を反映するから、大正から昭和初期の地域新聞には特に注意を払うようにしている。

戦時体制下の昭和15(1940)年10月31日、「国論統一と同一職種の集約化」という国策にしたがって、いわき地方の日刊紙5紙が廃刊の共同声明を出す=写真。当時、磐城時報、磐城新聞、常磐毎日新聞、新いわき、常磐新聞の5紙が、日刊紙として競り合っていた。地域新聞繚乱の時代に戦争がとどめを刺した。

磐城時報は大正4(1915)年5月、磐城新聞は前身の磐城興信日報を含めると大正10(1921)年3月、常磐毎日新聞は大正12(1923)年11月、新いわきは昭和5(1930)年3月、常磐新聞は前身の磐城水産新聞を含めると昭和3(1928)年6月の創刊だ。

磐城新聞がブランケット判のほかはタブロイド判、常磐新聞が小名浜のほかは平で発行された。最初に日刊紙へと踏み切ったのは磐城時報で、大正8(1919)年3月のことである。

県紙と呼ばれる福島民報、福島民友新聞は本社が福島市にある。交通事情のよくなかった大正・昭和初期、いわき地方では県紙よりも隣県茨城のいはらき、東京の各紙が多く読まれた(今も基本的にこの構図は変わっていない)。

そこに地域新聞が割拠する。商業の中心地としての平を軸に、ハマの水産業、ヤマの石炭業の興隆が背景にあった、つまり5紙もの日刊紙の発行を支えるだけの地域経済力があった、ということだろう。

そのころの地域新聞と文芸の関係を追っている。山村暮鳥のまいた文学の種がいわきの詩風土に芽を出し、花が開いた時代と重なる。道を歩けば詩人に当たる、そんな平のマチで発行される新聞に地元の詩人たちが盛んに寄稿する。

そういった点は、今度の常設展示からははずされた。スペースが限られているから仕方がないが、いわきの地域新聞を語るとき、忘れてはならない役割の一つだ。

というわけで、きょう(10月6日)はここまでにして、あすは興味をそそられる新聞人2人(吉田礼次郎と川崎文治)を紹介する。

2011年10月5日水曜日

山で迷う


キノコ採りに夢中になるあまり、オレはどこにいるのだろう――山の中で戻る方角を見失い、不安に陥ることがある。これまでに二度あった。平市街地の郊外、石森山での経験だ。里山でさえそうだから、奥山ではますますパニックになる。

尾根から沢へ下りる。沢から尾根へ上がる。別の尾根へ、別の沢へ――となると、よほど東西南北を頭に入れておかないと、自分の位置がわからなくなる。行きと帰りの景観がまるで違うからだ。迷ったら冷静ではいられない。

キノコ観察会が閼伽井嶽で行われた。20分ほど迷ってしまった。道路から混交林に入り、仲間とつかず離れずしているうちはよかったが、だんだんばらばらになる。ある人は棒で木をたたき、ここにいるよというサインを送っている。ある人は声を掛け合っている。それが、途中から聞こえなくなった。たまにカケスが鳴くほかはコソリともしない。

さて帰るか――。“キノコ屋”の習性で単独行動をとり、キノコの少なさに見切りをつけて来た道を戻ったら、まるで知らないところに出た。閼伽井嶽の頂上だ。標高604.9メートル。標識があるので分かった=写真

あらかじめ観察場所の地図を渡されていた。それによると、北側の道路から林内に入り、尾根付近を南へ、南西へと林床をなめまわしたが、成果は少なかった。とぼとぼ“そま道”を戻る。道なりに進んだら、北東へ、途中から下って北へとなるところが、東にある頂上へ着いたのだった。地図を見て迷ったことを知った。ずいぶん逸脱していた。

さあ、どうするか。たまたま磁石を持っていたので、地図と方位を組み合わせて歩く方角を修正する。

磁石を持っていたのはほんの偶然だった。夏に骨董店で売っていたのを、軽い気持ちで買った。山に入ることがあれば方角を確認するために使いたい――初めて胸ポケットにひそませたら、たちまち役に立った。

あとで集合場所に参加者が戻ってきた。一人がつぶやいた。「道に迷って閼伽井嶽の頂上まで行っちゃった」。同じではないか。途中で左に下りなければならないところが、道なりにまっすぐ進んでしまったのだ。北へ――。それが東へ、になった。たかだか1キロ四方程度なのに、同じ尾根筋で迷ってしまう。キノコ採りの怖さをあらためて知った。

2011年10月4日火曜日

青い目の白馬


閼伽井嶽で行われたキノコ観察会のついでに、目の前にそびえる水石山(標高735メートル)へ足を延ばした。

平地から見ると牛が寝そべっているような山容だが、山頂は広大な芝生と草原だ。見晴らしが利く。眼下には好間、平の市街地が広がる。四倉も、小名浜も見える。その先には太平洋が展開する。船まで見える。何年ぶりだろう、水石山からのパノラマを楽しむのは。

平地がまだ暑い盛りに水石山へ来ると、ススキの穂が揺れている。一足早く秋が来るのだ。今回もススキの穂が「おいで、おいで」をしていた。草むらに散在するワレモコウも赤黒い萼(がく)をつけていた。

山頂へと続く道の途中で白毛(しろげ)の仔馬に出合った。ある人は放牧馬だと言い、ある人は野生馬だと言う。何頭かいるらしく、いわきキノコ同好会の仲間は私よりちょっと前に、同じ道で親子に遭遇した。仔馬は私が見た白毛。親馬は体がグレーだったという。

仔馬が道端にじっとしていたのでパチリとやった=写真。アップしたら、たてがみに草の実がついていた。黒目の周りが青い。肌はピンク色だ。アルビノ(白化現象)ではないかと思ったが、アルビノなら目は赤い。青いのは白毛の証拠だそうだ。

季節限定の放牧馬であれ、野生馬であれ、かれらは一日中放射線にさらされている。山頂近くにある駐車場わきの草むらを測ったら、0.35マイクロシーベルト/時だった。野生馬だとしたら、年間3ミリシーベルト強を被曝することになる。鳥・獣・虫・魚・植物・菌類、土壌その他、地中の微生物も含めて放射性物質の被害者には違いない。

地震の影響もある。9月29日夜7時すぎ、福島県沖を震源地とする震度5強(三和)の地震が起きた。そのあとに、水石山・閼伽井嶽エリアを震源地とする地震が発生したと、同好会の仲間から現地で教えられた。

赤井断層、水石山断層、どっちが動いた? わからない。が、このへんで動いたのは確か――震源地がだんだんそばまできている、震源地が個別・具体的になりつつある、という感じをぬぐえない。

2011年10月3日月曜日

キノコ観察会


いわきキノコ同好会のキノコ観察会がきのう(10月2日)、閼伽井嶽で開かれた。

国は9月中旬、県を通じて福島県内の浜通り、中通りの全42市町村と会津地方の猪苗代町で野生キノコの摂取・出荷停止を指示した。

中通り南部で採取されたチチタケから暫定基準値を超える放射性セシウムが検出されたことから、まず2町で野生キノコの出荷が停止された。同時に、県は野生キノコの採取を控えるよう呼びかけた。それが、浜通りと中通り全域、そして会津地方では唯一、猪苗代町にまで拡大された、というわけだ。

東日本大震災に伴う原発事故以来、ウミも、マチも、ヤマもあまねく放射性物質の影響を受けている。そのために活動を休止したキノコの会があるという。

いわきキノコ同好会は食菌採取だけを目的にしているわけではない。キノコの学術研究も大きな柱だ。その観点から観察会を実施した。

場所は、国道49号・三和町合戸からの閼伽井嶽登山道と平赤井からの登山道が合流し、水石山へと延びる三差路付近の混交林。モミや赤松などの針葉樹とクリ、コナラなどの広葉樹が交じり合った、なだらかな林だ。11人が参加した。

薄曇りの朝で、緑の葉が屋根になっている林内はほの暗い。「花眼」になった年寄りには、林床の落ち葉も、キノコも区別がつかない。「暗くてキノコが見えない」。そんな声が飛びかった。

キノコ観察とは別に、林内の放射線量をところどころで測定する。閼伽井嶽は標高604.9メートル。そう高い山ではない。

関東森林管理局が実施した国有林内の環境放射線モニタリング調査結果によると、磐域森林管理署管内では、相馬市、南相馬市でやや高く、いわき市はそれほどでもない。小川の上戸渡で唯一、1マイクロシーベルト/時を超える国有林があった。

私が測定したところでは、閼伽井嶽は0.35前後だった。山の高さ、原発からの方角、そんなものが関係しているのだろう。

夏キノコが終わって秋キノコに移る端境期のうえ、台風15号以来、雨がないためにキノコは期待できなかった。結果的にはその通りになったが、不明菌もいくつか採取された。いわきキノコ同好会では、こういうキノコが研究対象になる。会長の富田武子さんが詳しく調べる。

寒かった。この秋初めて寒さを感じた。タオルを首に巻くとようやく首筋のひんやり感がとれた。林内を歩き回れば温かくなる――と思ったが、そう変わらなかった。

少ないキノコに代わってイノシシのフンを見つけた。乾きかけていた。何時間か前に排出されたのだろう。吻(ふん)で土壌をラッセルしたあともあった。林から出て道路を歩いていたら、急斜面のササヤブが切れているところがあった。“シシ道”だ。イノシシたちはこの道を行き来しているのだ。

さて、観察された菌は――。マンネンタケ、ヒラタケ、ホコリタケ=写真(幼菌)、カノシタ、シャカシメジ、オオゴムタケなどで、これらは周知のキノコ。モミタケ、キウロコテングタケ、ミヤマトンビマイタケは初めて見た。初めて名前を聞くキノコ(たとえばヤブレベニタケ)も含めて30種弱のキノコが確認された。今までで一番少なかった。

去年までなら種類を鑑別したあとは、食菌であれば持ち帰り、ありがたく胃袋におさめたものだが、今年は手ぶらでの帰還となった。それでもかまわない。森に入り、森を感じ、森に抱かれたのだから。

2011年10月2日日曜日

砂に埋もれた車


3・11以後、初めていわきの砂浜を歩いた。

平豊間の合磯(かっつぉ)、いや海水浴場でいうと豊間分、あるいはその境あたりか。北に湾曲した先、断崖のてっぺんに塩屋埼灯台が見える。断崖の向こう側・薄磯も、手前・豊間も津波で壊滅的な被害を受けた。防波堤が破壊され、堤防のすぐそばまで密集していた民家が押し流された。

9月30日付小欄に書いた「民具救出作戦」、それが始まる前のちょっとした時間。知人(大工)の家の庭から、道路と病院の駐車場をはさんですぐそこに海が見える。水平線が異常に高い。膨らんで押し寄せてくるのではないか、そんな不安が募る。家並みが消えたのと、地盤が沈下したのとで、そうなったのだろう。

その海を見に行った。一部残っている防波堤の高さに合わせて黒い土嚢が南に、北にびっしり並んでいる。コンクリートの堤防をすぐに――そんな余裕も、計画もない。当座の波よけだ。

防波堤の海側、すぐ近くに波消しブロックが並ぶ。並ぶ? 並んでいたのかもしれない。が、並んでしまったのかもしれない。そんな集まり具合だ。

防波堤の階段からブロックのすき間を縫って砂浜に下りる。貝殻がいっぱい打ち上げられていた。砂浜は黒みがかっていて、狭く小さくなっていた。目の前で波が寄せては引いていく。住民ではないが、住民の気持ちがなんとなくわかる。陸地と海が接近しすぎている。

ざっと30年前、この海岸の南、二ツ島の近くに仲間が集い、海水浴を楽しんだことがある。わが子2人は小学校の低学年だった。2人とも浅い磯で遊んでいた。と、突然、上の子が駆けこんできて下の子がおぼれていることを告げた。見ると、磯で浮いたり沈んだりしている。走って行って引き上げた。さいわい無事だった。

そんなことも起きるくらいに、多くの人が海水浴に来ていた砂浜が、今はどうだ、渚まで歩くと足の裏がやけどしそう、というほどではなかったが、歩けばすぐ海水につかる。

波消しブロックのそば――。白い車が砂に埋まって赤さびていた=写真。引き波で流されたか。渚には漁船と思われる船も埋まっている。とすると、砂の中にすっぽり埋まってしまったものたちもあるのではないか。そう考えると、だんだん気持ちが重くなってくるのだった。

2011年10月1日土曜日

ヒガンバナ満開


朝晩散歩する夏井川の堤防がところどころ、真っ赤に染まっている=写真。ヒガンバナが満開になったのだ。

去年、今年と残暑が厳しかった。そのせいか、ヒガンバナは咲きだすのが遅かった。一昨年は逆に夏の天候不順から、9月の声を聞くとヒガンバナの花が見られるようになった。

堤防近くの農家の人が時々、土手の草刈りをする。きれいに刈り上げられた土手に野生化したニラの花が咲き、スルボが咲く。夏井川の秋の植物図鑑がこうして始まる。

草を刈るとき、ヒガンバナの花茎も刈られてしまうのかどうか。花茎が地上に現れる前に草刈りが行われるため、きれいに刈り上げられた土手にヒガンバナの花茎が群れ生えるのかどうか。前者だとしたら、ほどなく花茎が再生するのだ。そんなに丈の高くないヒガンバナがあることが、それを物語る。

いずれにせよ、葉をもたない真っ赤な花のかたまりが点々と、延々と緑の土手に燃えているさまは圧巻だ。胸の血が騒ぐような感じさえ受ける。

タマスダレと思われる白い花も1カ所に群れ咲いている。アマナの花に似るが、アマナは春の花。なんだろうと毎年、ネットで調べているうちにタマスダレにたどり着く。ニラは花を終え、実を熟しつつある。

そばの夏井川では先日、鮭増殖組合の手で遡上するサケを捕獲するためのやな場が設けられた。きのう(9月30日)はわが家の近所で、今年初めて、キンモクセイの香りをかいだ。

秋が少しずつ深まっている。汚染された春が過ぎ、夏が過ぎて、暦は9月から10月に変わった。