2011年10月6日木曜日

いわきの地域新聞と新聞人


いわき総合図書館は毎年度、前期と後期で常設展示の中身を変える。10月1日からの今年度後期は「いわきの地域新聞と新聞人」だ。

いわき地方の民間新聞として初めて、明治40(1907)年に発行された「いはき」から、戦後に産声を上げ、唯一現在も発行が続くいわき民報までの、いわきの新聞史をコンパクトに概観している。

いわき総合図書館が収蔵する地域新聞は相当の数にのぼる。明治・大正・昭和の新聞などを個人で収集した諸橋元三郎の「三猿文庫」資料が市に寄託されたことが大きい。草野心平記念文学館が新聞・雑誌など3万点余の三猿文庫資料を整理し、目録を作成して、平成13(2001)年に企画展「三猿文庫――諸橋元三郎と文庫の歩み」を開いた。

いわきの新聞史はこれによってくっきりとした骨格を与えられた。三猿文庫の資料はその後、総合図書館が力を入れる郷土資料の目玉として、オープン以来、広く市民に活用されている。常設展示の解説文も、文学館の企画展段階より精緻になった。

個人的に興味・関心があるのは、大正ロマン・昭和モダンの時代。新聞はその時代の空気を反映するから、大正から昭和初期の地域新聞には特に注意を払うようにしている。

戦時体制下の昭和15(1940)年10月31日、「国論統一と同一職種の集約化」という国策にしたがって、いわき地方の日刊紙5紙が廃刊の共同声明を出す=写真。当時、磐城時報、磐城新聞、常磐毎日新聞、新いわき、常磐新聞の5紙が、日刊紙として競り合っていた。地域新聞繚乱の時代に戦争がとどめを刺した。

磐城時報は大正4(1915)年5月、磐城新聞は前身の磐城興信日報を含めると大正10(1921)年3月、常磐毎日新聞は大正12(1923)年11月、新いわきは昭和5(1930)年3月、常磐新聞は前身の磐城水産新聞を含めると昭和3(1928)年6月の創刊だ。

磐城新聞がブランケット判のほかはタブロイド判、常磐新聞が小名浜のほかは平で発行された。最初に日刊紙へと踏み切ったのは磐城時報で、大正8(1919)年3月のことである。

県紙と呼ばれる福島民報、福島民友新聞は本社が福島市にある。交通事情のよくなかった大正・昭和初期、いわき地方では県紙よりも隣県茨城のいはらき、東京の各紙が多く読まれた(今も基本的にこの構図は変わっていない)。

そこに地域新聞が割拠する。商業の中心地としての平を軸に、ハマの水産業、ヤマの石炭業の興隆が背景にあった、つまり5紙もの日刊紙の発行を支えるだけの地域経済力があった、ということだろう。

そのころの地域新聞と文芸の関係を追っている。山村暮鳥のまいた文学の種がいわきの詩風土に芽を出し、花が開いた時代と重なる。道を歩けば詩人に当たる、そんな平のマチで発行される新聞に地元の詩人たちが盛んに寄稿する。

そういった点は、今度の常設展示からははずされた。スペースが限られているから仕方がないが、いわきの地域新聞を語るとき、忘れてはならない役割の一つだ。

というわけで、きょう(10月6日)はここまでにして、あすは興味をそそられる新聞人2人(吉田礼次郎と川崎文治)を紹介する。

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