2011年11月30日水曜日

日本のスイス


わがふるさとの阿武隈の山に、同じ名前をもつ古殿町の山より高い鎌倉岳(967メートル)=写真=がある。鷲が今にも羽ばたかんとするような形をした、三つの頂きをもつ岩山だ。古殿町の鎌倉岳は標高669メートル。頂上はやはり鋭い。

小学校の高学年になってだったと記憶する。鎌倉岳への登山遠足があった。きついものだった。頂上からは、東に浪江~双葉町の海が遠望できる。西には遠く安達太良山がそびえている。山里の子どもは、海が見えるというだけでときめく。そのための山登りでもあった。

夏井川渓谷の無量庵には自然に関する本、自然と人間の関係を論じた本、家庭菜園に関する本などが置いてある。田中澄江さんの『花の百名山』『続・花の百名山』はこたつの上に置きっぱなしだ。『花の百名山』の鎌倉岳に関する文章を読んで、いろいろ思い出した。小学校の遠足はその一つだった。

巨岩の頂上に立った田中さんは瞠目する。「素晴らしい眺望である。大滝根山、殿上山、五十人山などが東西南北の眺めの中心になり、その間を丘陵がうずめていて、スイスの山村さながらである」。いわゆる「残丘」。海を大地にたとえれば、大海に浮かぶ島だ。

文章は続く。「スイスという言葉から、私たちの抱く心の映像は、山の自然と人間の生活が、長い歴史の中に積み重ねられて来たということである」

「私の旅をしたスイスも、心に描いた映像を裏切らなかった。人間は、山というきびしい自然の中で、それを利用する知恵をみがき、それとたたかう強靭な意志を育てる。スイスは牧畜がさかんであり、勇武な兵たちを生み、常葉町や三春町は、かつては軍馬の産地だった」

なぜこんなことを書くかというと、ちょうど20年前の今ごろ、正月からスタートするいわき民報の新企画「あぶくま紀行」の取材のために同僚のカメラマンと登山し、あらためて阿武隈高地が「日本のスイス」であることを実感したからだった。「ありんこの会」という山歩き好きのグループに加わっての登山だった。

凛とした大気、たおやかな山並み、静かな山里……。それはしかし、2011年3月、東からの海風によって汚染された。鎌倉岳へは追憶だけで登るしかなくなった、という思いが膨らんでくるのを止めようがない。

2011年11月29日火曜日

カメムシの宿


会津・東山温泉の旅館に泊まったときのこと。部屋のテーブルに、カメムシがいたらフロントまで連絡を――というチラシが置いてあった。たまにまぎれこんでいて、客(特に女性?)が大騒ぎするのだろう。夏井川渓谷の無量庵で忘年会を経験している同級生たちは、チラシを見て鼻で笑った。無量庵に比べたら……。

無量庵は、冬には「カメムシの宿」に変わる。雨戸のすき間、座布団と座布団の間、畳んだゴザのすき間と、至る所にカメムシがもぐりこんでいる。そこへ人間が現れ、石油ストーブで部屋を暖めると、いつのまにか一匹、また一匹とカメムシが現れる。独特の臭気に支配されることもある。

夏井川渓谷で虹=写真=を見た日のあと、草野のマルㇳへ買い物に行った。レジで、バングラデシュのジュートでできた折り畳み式のマイバッグを開いたら、底にカメムシがいるではないか。生鮮食品を扱うスーパーである。カメムシを飛ばしたら大変なことになる。あわててティッシュペーパーで押さえこみ、まるめて上着のポケットにしまい込んだ。

その翌日だったか、いわき駅前再開発ビル「ラトブ」の2階にある、被災者のための交流スペース「ぶらっと」を訪ねた。しばらくすると、スタッフが天井の方を見て叫んだ。「カメムシが飛んでる!」。「オレが連れてきたんだな」。間違いない。バシッとやってごみ箱に入れた。

無量庵の庭に車を止めて、荷物を出し入れしていたすきに入り込んだのか。それとも人間に付着していたのが、「ここなら」と後部座席に置いておいたマイバッグにしのびこんだか。「ラトブ」のカメムシは、帽子のつばにでも止まっていたのが飛んだものらしい。

カメムシは、福島県では「ヘクサムシ」と呼ばれる。さいわい臭気噴射に至らず、白い目で見られることもなかった。人間が植物を含む生きものの移動に、知らぬ間に手を貸している、しかも簡単に――うかつにも、それを実行してしまった。

2011年11月28日月曜日

「敗戦の弁」を聴く


川内村議選に出馬して落選した風見正博さんが金曜日(11月25日)、いつものように卵を持ってやって来た。自宅の「獏原人村」で飼っている鶏の卵を、わが家と近辺の何人かが定期購入をしている。その窓口のようなことをカミサンがしている。わが家の方は毎週金曜日、別ルートは火曜日。

「風見さんが来たよ」というので、ここは「敗戦の弁」を聴かなくちゃ――となった。風見さんの奥さんを加えて、4人でコーヒーを飲みながら、だべった。

「川内村から世界に発信を! 私は今立ち上がろうとおもいます!」。彼は敢然と立ちあがった。その心意気がいい、落選したっていいではないか――。ところが本人は、出る以上は勝ちたい、そう思って戦ったのだという。

公約の第一に「国道399号の整備」をかかげた。彼にとっては、川内の中心部、あるいはいわきとつながる大切な生活・経済道路だ。次が「みんなで考えみんなでつくる村の再生と復興」「「エネルギーの自給」「東電の責任追及」「月一回の議会報告」「議員報酬の削減」だ。

逆の順序でみるとわかりやすい、最も重きをおいたのは「議員報酬の削減」だと。3・11以後、議員は何をやってきたのか。その不信感が彼にはある。しかし、挑戦状をたたきつけたのはいいが、地縁・血縁には勝てなかった。新しい関係を切り結ぶまでにはいかなかった。

そして、土曜日。「報道特集」を見ていたら……。風見さんが出てきた=写真。<元東電社員の告白>。福島第一原発の原子炉運転員だったキムラトシオさんが在職中、「獏原人村」へ遊びに行き、風見さんの生き方に影響を受ける。風見さんは当時、キムラさんを東電社員とは知らなかった。

キムラサンは、原発で非常用発電機の浸水事故に遭遇する。津波がきたら、電源は……と上司に訴えると、そのとおりだがタブー、という答えがかえってきた。原子力に未来はない――キムラさんは退職する。

風見さんが持参するミニコミ誌に「小さなくらし」がある。不定期だ。知り合いが編集している。スマトラ沖地震が起きたあと、キムラさんが津波と原発に絡めて今度のような過酷事故を危惧していた。その文章を、再録された最新号で読んだ。「小さなくらし」は「報道特集」でも紹介された。いや、それが取材の端緒になったか。

一寸の虫のようなミニコミ誌にも五分の魂がこもっている。風見さんは風見さんで、次の日放送の「報道特集」のことはひとことも言わなかった。そのへんの抜け方が、らしくていい。

2011年11月27日日曜日

除染作業


きょう(11月27日)は午前8時から、平・中神谷南区内の通学路などで「生活空間環境改善事業」が行われる。福島県の補助事業で、区内会が子供を守る会の協力を得て実施する。

事業を行うには、窓口のいわき市に事業計画書や収支予算書を提出して、補助金の決定通知をもらわなくてはならない。それと並行して放射線量の事前調査をし、汚染マップを作成する。終われば、市に実施報告書、補助事業完了届、補助金等実績報告書、作業報告書などを提出する。慣れない事務に頭が三角になりそうだ。

補助金は上限50万円。これを活用して線量計と高圧洗浄機を購入し、カッパや長靴その他の消耗品を調達した。通学路は高圧洗浄機で除染し、子どもたちが多く住む県営住宅では集会所・公園周辺の灌木の剪定・草刈りをする。各棟の駐車場のへりにはりついているコケも除去する。

高圧洗浄機はきのう届いた。早速、集会所前の道路で試運転が行われた=写真。集会所・公園周辺の剪定と草刈りも近所の業者に委託して、きのうのうちにあらかた済ませた。一日がかりの作業となった。きょうはこれを片づけるだけでも大仕事になる。コケ除去に必要な立鎌は未購入だったので、きのう、ホームセンターに駆けつけて5本を手に入れた。

洗浄隊は軽トラに水タンクを積んでの作業だ。草刈り隊は鎌で細かいところを除草する。片づけ隊は剪定枝を束ね、刈り草を袋に詰めるといった作業が中心になる。放射線量の事後調査もしないといけない。午前中に終わればいうことなしである。

2011年11月26日土曜日

森の奥へ


夏井川渓谷では幹線道路の県道がそのまま遊歩道になる。それともう一つ、対岸にも遊歩に適した小道がある。水力発電所の導水路に沿って巡視路が伸びている。無量庵へ行けば、決まってこの道を籠場の滝付近まで歩く。往復ざっと40分の散策コースだ。とはいえ、3・11以後、すっかり足が遠のいた。

無量庵へ出かけて対岸へ渡ってもすぐ引き返す。地震による落石と、森に降った放射性物質が心理的なブレーキになっていたのは間違いない。先日、それこそ8カ月ぶりにいつもの散策コースを往復した。

夏井川渓谷には小集落が点在する。無量庵のある牛小川から下流側には椚平、江田。これは小川町分。上流は川前町だ。

江田で水力発電所がらみの災害復旧工事が行われた。対岸の森の中に「夏井川第一発電所2号沈砂地」がある。その排砂路側壁復旧工事だった。工事をするために県道から川岸まで仮設道路をつくり、さらに対岸へと吊り橋を架ける=写真。こちらの工事の方が大変だったのではないか。

災害復旧工事を告げる標識から、森の中は3・11の東日本大震災でかなりダメージを受けたのではないか、という認識はあった。

沈砂地とつながっている導水路のそばを奥へ、下流と進む。二つほど異変に気がついた。立ち枯れた赤松の巨木がある。こずえから幹へとだんだんに欠け落ちていたのが、さらにくずおれて“背丈”が短くなっていた。3・11に揺すられて折れたか。

最初に出合う沢は交差する導水路の上から本流へと滑り台のようにコンクリートで固められている。のり面がえぐられ、土嚢が積み重ねられていた。こちらは9月の台風による大雨の影響か。

森の中の異変は、木々にさえぎられた対岸からはわからない。森に分け入って初めて変化を知るということになる。尾根から続く緑の斜面にところどころ白っぽい剥離跡が見られる。3・11に小規模な落石がかなりあったことをうかがわせる。

足元のキノコは、倒木にヌメリツバタケと思われるものが少し出ていただけだった。毎年今ごろ、ヒラタケが発生する倒木がある。とろけたあとはない。チェックが早すぎたようだ。

2011年11月25日金曜日

出会いの場②


「ラトブ」の2階にある被災者のための交流スペース「ぶらっと」は月に1回、情報紙「ぶらっと通信」を出す。これまでに2回、創刊準備号、創刊準備第2号を出した。いよいよ今度は創刊号だ。主に民間借り上げ住宅で避難生活を送っている人たちに郵送される。その発送準備作業が勤労感謝の日の夕方、「ぶらっと」で行われた=写真

「独りでいるからやることがない」。大津波に襲われた平・薄磯の男性や、大熊町から避難して来た女性(転々とすること5回目だという)は、すっかり「ぶらっと」の常連になった。この人たちと編集ボランティア、スタッフが分担して、封筒にあて名ラベルを張った。それこそ、ぶらっとやって来た人も手伝いの輪に加わった。

人数が少ないと作業時間は長くなる。今度は逆で、あっというまに作業が終わった。終わって簡単な自己紹介が行われた。編集ボランティアのなかには高校生が2人いる。1人は将来、海外協力関係の仕事に就きたいという。もう1人は放送部に属していて、映像番組制作を企画している。

10代後半に大人と力を合わせて何ごとかをなす――。2人の女の子は「ぶらっと通信」の編集を手伝うためにやって来た。校内にとどまらない、社会参加への意欲が、体験が、やがて本人を大きく成長させる糧となるだろう。そんな期待がふくらむ。(10代後半に大人と一緒になって同人雑誌をつくったことがある。その経験は得難いものだった)

こうして、NGOのシャプラニールが運営する「ぶらっと」は被災者のためだけではなく、ボランティアや市民(多かれ少なかれ被災者には変わりがない)の交流スペースにもなっている。

新しく「ぶらっと」のスタッフに加わった女性は、家が全壊したという。原発避難、全壊・半壊・一部損壊……。私が知っている範囲では、無傷な家はない。心に傷を負った人も多い。

「原発震災」は一瞬にして被災者から大事な人や大事なものを奪った。その大災厄が、一方では新しいつながりをもたらした。地域を超え、世代を超えて、人と人とがつながっていく。「ぶらっと」を介して、その原形を見たような思いがする。

いわきに志摩みどりさんという俳人がいた。20年余前にこの世を去った、忘れられない句がある。「花すすき誰も悲しみもち笑顔」。季節によっては上五の「花すすき」を、「花つつじ」とか「花八つ手」などと、勝手に言い換える。3・11以来、この句を口ずさむ回数が増えた。

2011年11月24日木曜日

出会いの場①


いわき駅前再開発ビル「ラトブ」の2階に、シャプラニールが運営している被災者のための交流スペース「ぶらっと」がある。そこでいろんな人と出会う。いつも行っているわけではない。4・5階に図書館がある。帰りに寄る。カミサンがそこへ行くというので、運転手になって寄る。

きのう(11月23日)は「ラトブ」2階のペデストリアンデッキで、シャプラが「ぶらっとライブ」を主催した。聴きに行った。

出演したのは、ウクレレの芦田ちえみさん、平商フラダンス部=写真、ギター弾き語りのサカモトトシユキさん、女性3人組TONE(演奏は男性3人、つまり計6人)。高校生を除けば仕事をしながら、アフタファイブや休日に音楽を楽しむ、そういう人たちなのだろう。

そこに飛び入りがあった。福島高専の1年生、とあとで聞いた。写真を撮らなかったのを後悔している。

「ぶらっと」の若いスタッフに聞いたら、ヒューマン・ビート・ボックス、あるいはボイスパーカッションというジャンルらしい。口で打楽器、あるいはテクノっぽい楽器を表現する。テレビで見たことはあるが、生で見て、聴いて、心が躍った、やってくれるじゃないか、と。

はっきりいって、聴きに行ったのは「サクラ」としてだ。だれもいないとかわいそう。そんな老婆心、いや老爺心はいらなかった。通りすがりの人が立ち止まって手をたたく。体を揺する。音楽の直截性を感じないではいれられなかった。

2011年11月23日水曜日

地響き


これは偶然だが、夏井川溪谷の無量庵にいるときに、よく地震に遭う。3・11の前兆と思われる3月9日昼の地震がそうだった。7月10日朝の地震も、日曜日(11月20日)に日立市で震度5強を記録した地震も、無量庵で体感した。平成16(2004)年10月23日午後5時56分に発生した新潟県中越地震も無量庵で感じた。

7月10日のときも、11月20日のときも、私は庭に、カミサンは無量庵の中にいた。最初、小さな地響きがして、やがてドドドドと大きな揺れに変わった。無量庵の方を見やると、家が小刻みに震えている。カミサンが濡れ縁に飛び出して「地震!」と叫ぶ。7月のときと同じ光景が再現された。

3月11日は、そんなものではなかったろう。落石で溪谷が通行止めになった。後日、迂回路を使って無量庵へ行くと、庭の石垣の一部が崩れていた。屋内は幸い、置き時計などが落下しただけですんだ。対岸の岩盤がかなり崩落した=写真。今はかけらが巡視路のそばに積み上げられている。

11月20日の地震の震源地は「茨城県北部」。いわき市南部を震源地とする4月11、12日の巨大余震も「福島県浜通り」と、漠然としている。

前にも書いたが、こういう場合には震源地の経・緯度をみるに限る。東経はいずれも140度台、北緯は36~37度。そこにいわき市南部の「井戸沢断層」がある。「湯ノ岳断層」がある。ともに4・11に動いた。茨城県北部にあるのは「高萩断層」で、県境をはさんで、狭い範囲内にこれらの断層がひしめいている。

東電はおととい、「湯ノ岳断層」が活断層だったとの見方を明らかにした。今さら何だい――だが、常陸・磐城の「常磐」地区はまだまだ要注意ということだろう。

同じ日の夜、広島県三次市で震度5弱の地震が発生した。甥がそちらの方に住んでいる。妹である姪が電話をしたら、無事だった。阪神・淡路大震災以来、私たちは東西南北、どこでも揺れる時代に生きている。

2011年11月22日火曜日

シイタケ発生


日曜日(11月20日)は、久しぶりに夏井川渓谷の無量庵で過ごした。谷のカエデがだいぶ色づいていた。あちこちにアマチュアカメラマンがいた。ほとんどが中高年だった。カエデ狙いである。とはいえ、人数は去年より少ない。行楽客はもっと少ない。

アマチュアカメラマンを吸い寄せるカエデの木がある。決まって三脚の列ができている。鮮やかな赤、光の当たり具合、背景の渓流……。フォトコンテスト向きのカエデらしい。

こちらはしかし、カエデどころではない。冬に向かってやらなければならいことがある。梅の木の枝の剪定だ。梅の木は2年ほど手をかけなかったので、徒長枝が櫛の歯のごとく空に向かって伸びている。

今年は原発事故の影響で、実がなってももぎらなかった。来年も実を取るのをあきらめる――そう決めたら、思いきりばっさり切ることができた。来年は、花は咲かない。再来年に花が咲いたら、身の丈の高さで実を収穫できるだろう。

菜園の草も引いた。手をかけないと、菜園も庭もたちまち草に覆われる。今年は菜園と向き合う時間が減った分、つる性植物が侵出してきた。ちっちゃな菜園でさえそうだから、相双地区の田畑は荒れ地と化しただろう。無量庵の猫の額の菜園といえども、草引きが欠かせない。

うれしい発見もあった。庭木の下にシイタケ菌を打ち込んだ原木が3本置いてある。菌がまだ残っているが、ここ何年か子実体(シイタケ)は発生していない。打ち捨てておいた。その原木になんとシイタケが出ていた=写真。2個。採りごろだが、我慢する。そこがつらい。

菌類はより放射性物質を取り込みやすい。ならば、土中の微生物は、虫はどうなのか。動物、鳥、山菜、木の実は? 山里の人間の暮らしは、自然の営みを生かすことで成り立っている。自然と人間の共生関係が一瞬にして断ち切られた。山で暮らす生きものもまた被害者になった。

相双地区では、これに野生化した牛、飼われていたダチョウ、犬猫などが加わる。それこそ、生きものたちも人間と一緒に、東電に対して損害賠償を請求していいのだ。

2011年11月21日月曜日

県議選終わる


東日本大震災と原発事故のために4月実施の予定が延期されていた、福島県議選がきのう(11月20日)、投・開票された。驚きの結果は? 出なかった。いわき市選挙区では民主が沈没し、共産が復活した。双葉郡選挙区は現状維持だった。

福島民報のアンケートによると、立候補者の7割強が「原子力から撤退すべき」とし、9割近くが冷温停止中の福島第二原発について「廃炉にすべき」と答えていた。おおむね「脱原発」で一致していた。人類史上例のない「原発震災」を体験した以上は、当然と言えば当然の流れだろう。既存の路線で再生を――などという愚論は吐きようがない。

わがいわき市選挙区以外に、「原子力ムラ」である双葉郡選挙区はどうなったか。わが家の周辺に双葉郡から避難して来た人たちが少なからずいる。応急仮設住宅もいわき市内に建てられた=写真。そういった人たちと交流が生まれたことが、原発を抱える選挙区への関心につながった。

告示日の朝、いわき市選挙区の候補者よりも早く、双葉郡選挙区の選挙カーが候補者の名前を連呼してわが家の前を通過していった。最初は事情が飲みこめなかった。急きょ、いわき市選挙区に立候補した女性がいたのかと思ったほどだ。彼女は落選した。

県議選のほかに注目していた選挙がある。川内村議選だ。毎週、わが家に卵を持ってくる風見正博さんが敢然と立候補した。新聞でそれを知ったあと、卵をもってきた本人に“インタビュー”した。「3・11」後は「3・11」前と同じであってはいけない。チェルノブイリの事故以来、「脱原発」の活動を展開してきた人らしい挑戦だった。

立候補の弁をつづったチラシを置いていった。「私は三十数年前に理想郷を求めて24歳で川内村に入植しました。25年前のチェルノブイリの事故をきっかけに原発のいらない暮らしをめざして脱原発ネットワークに参加しました」という書き出しのあと、こう訴える。

「被災した現地の人にしかわからないことも多いです。国からの指示待ちでなく現地から現状、要望、怒り、想い、そして希望を国、そして世界に発信していかなくてはならないと思います。原発のように取り返しのつかない危険なものをやめるために私たちは一人ひとりが生活を見直すとともに政治も変えていかなくてはならないと思います」

川内村議会は定数10。当日の有効投票数は2107で、326票を取った候補がトップ当選を果たした。最下位当選は122票。「ジバン・カンバン・カバン」とは無縁の彼は57票で次点、法定得票数は獲得した。大事なのはアンガージュマン(政治参加)。川内で初めて街頭演説をした、とか。そのことも含めて、変革への挑戦に拍手を送る。

2011年11月20日日曜日

チェロ独奏会


バッハの無伴奏チェロ組曲は若いころからよく聴いている。学生時代に先輩たちと「無伴奏」という名前の同人雑誌を出した。その延長線上でバッハのチェロ組曲に引き寄せられた。宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシュ」に癒されていたことも大きい。レコード時代はロストロポーヴィチのLPを、今はミッシャ・マイスキーのCDを聴く。

先日、いわき駅前再開発ビル「ラトブ」1階でチェロ奏者丸山泰雄さんの独奏会が開かれた=写真。「ラトブ」2階に被災者のための交流スペース「ぶらっと」を開設しているNPO法人シャプラニールが主催した。丸山さんが展開している「いわき慰問演奏」の一環で、FMいわきが協力した。

「ラトブ」1階は、東の駅前大通りと西の銀座通りの行き来が自由な「いわき横丁」。エスカレーター前のスペースが演奏会場になった。いすに座って聴く人たちの脇を、買い物客や通り抜けの市民が往来する。プロムナードコンサートといった趣だ。

コンサート終了後、FMいわきのホームページで演目を知った。最初はバッハの無伴奏チェロ組曲第三番。これは耳になじんでいる。2曲目は現代作曲家でチェロ奏者ソッリマの「アローン」。ノイズや打撃音が入る激しい曲だ。3曲目、ハンガリー民謡に材を取ったコダーイの「無伴奏チェロ・ソナタより第3楽章フィナーレ」。共に初めて聴く。

4曲目はよく知られている「アメイジング・グレイス」、そして5曲目「鳥の歌」。故郷カタルーニャの民謡をカザルスが編曲した。「私の故郷カタロニアでは、鳥は『ピース、ピース』と鳴きながら飛ぶのです」。94歳、国連本部で「鳥の歌」を演奏したときの有名なことばだ。

「ピース、ピース」は比喩にしても、そう思わせる迫力がある。平和を求めるカザルスの魂がよく伝わるエピソードだ。それを思い出すたびに、日本には比喩ではなく、ほんとうに「ピース、ピース」と鳴く鳥がいる、ヒヨドリだが、と言いたくなる。

最後は「故郷」の演奏に合わせて斉唱するという、私の苦手なパターン。それはともかく、同時代を生きるチェロ奏者の新しい演奏思想に触れ得た至福の45分だった。

2011年11月19日土曜日

灯油を買いにSSへ


この冬初めて、行きつけのガソリンスタンドへ出かけて灯油を買った。寒気がしのびよってきた。あのときも寒かったなあ――そんな連想がはたらいて、急に震災当時のことを思い出した。

3・11の大震災発生直後に原発が相次いで爆発事故を起こした。そこへ至るまでのテレビ速報に、今までにない胸騒ぎを覚えた。

デジカメのデータをチェックした。3月11日午後9時55分。「福島第一原発/半径3km~10km屋内で待機を」。次のデータは35分後。「近隣住民に避難指示」=写真。そんな文字がテレビに表示された。実際、近所の小学校の校庭は、13日朝には双葉郡から避難して来た住民の車で満パイになった。

ふだん、原発は意識の外にある。原発が暴走したらどうなるか、なんてことは考えたこともない。刻々と状況が悪化していく様子に、いわきにいられないのではないか――得体の知れない恐怖と不安に襲われ、心が震えた。

物資は入らない。ガソリンはない。情報はわが家の場合、テレビとラジオ頼み(電気がきているだけまだましだった)。避難するにしてもガソリンを補給しないことには始まらない、という状況だった。義弟が確保した携帯缶のガソリンを入れると、車の燃料計の針が半分に戻った。孫2人を連れて、身内3家族で3月15日にいわきを離れた。

9日後に避難所から戻ると、車のガソリンはほぼゼロだった。翌3月24日早朝、行きつけのガソリンスタンドで2時間余り待って、車のガソリンを満タンにした。

それ以来、車の燃料が半分になるとすぐガソリンを補給する癖がついた。「私もそうしている」という人が少なくない。原発事故がこのまま収束してくれることを願うが、そうなる保証はない。避難するための最低の準備はしておけ、と体が命じているといってもよい。

11月も後半である。普通の住宅でも暖房が必要になってきた。仮設住宅の防寒対策は十分か。きのう(11月18日)のように曇って寒い日は、どこでも暖房が欲しくなる。それで灯油を買いに行った。ガソリンも満タンにした。

寒気はやはり体によくない。体が震える。春の災禍の記憶が心を震わせる。

2011年11月18日金曜日

地ネギを買う


遠出した際に道の駅や直売所に寄ると、ネギを探す。その土地のネギがあれば、味をみるために買う。

今度の会津行では、大内宿で一本太ネギを買った。大内宿にはネギを箸代わりにしてそばを食べさせる店がある。それとは別の店の軒先に並んでいた。「甘いか」と聞けば、「甘い」という。10本入りで300円だった。

会津伝統野菜に「会津地ネギ」がある。白根は30センチ足らず、まっすぐで太く、甘みが強いという。会津地域一円で栽培されているそうだから、大内宿の一本太ネギも「会津地ネギ」に違いない。

ネットで検索すると、箸代わりのネギはまっすぐなものばかりではない。「曲がりネギ」もある。大内宿は「一本太ネギ」と「曲がりネギ」の栽培文化が交差する地域に位置しているのだろうか。大内宿の「ネギロード」が気になる。

田村市船引町の磐越道阿武隈高原サービスエリアでは、船引で栽培された「曲がりネギ」を買った。郡山市の「阿久津曲がりネギ」と親戚、いやたぶんルーツを同じくする「三春ネギ」そのものと言ってもよい。

冬になると、いわきのヨークベニマルにも「阿久津曲がりネギ」が入荷する。ときどき買いに行く。甘く、やわらかく、とろみがある。このへんが地ネギ度をはかる物差しになる。

さて、「会津地ネギ」と船引の「曲がりネギ」=写真=の味は? まずは味噌汁だ。どちらも加熱すると甘くなる。やわらかい。とろみは、そんなには感じられなかった。同じ味噌汁でも、豆腐よりジャガイモとの相性がいい。「三春ネギ」もジャガイモとよく合う。

土は大丈夫だったのだろうか。農業に誇りと愛情を持って取り組んでいる人ほど、原発事故に強い怒りと不安を抱いている。週末だけの、ままごとのような家庭菜園でも事情は同じ。家庭菜園の楽しみは奪われた。

「三春ネギ」は自家採種をして栽培してきた。「自産自消」である。種を絶やしたら「自産自消」のサイクルは断ち切られる。

「食べる」のは、買えばできる。しかし、地ネギだから種は売っていない。「三春ネギ」の種を採る(残す)ためだけに、今年は栽培を続けている。原発事故に負けてはいられない“あかし”として。そんな思いと怒りがまたわいてきた。

2011年11月17日木曜日

はずむ磐越道


いわきからミニ同級会が開かれた会津への往復には、磐越道を利用した。同学年の知り合いのワゴン車で出かけた。往復とも助手席で沿線の景色を楽しんだ。運転者は罹災証明書を持参した。被災地の人間なので、通行券と一緒に証明書を提示すれば、高速道料金は無料になる。

猪苗代磐梯高原インターチェンジから一般道に出てすぐだったと思うが、交差点の信号が横ではなく縦になっているのに驚いた。会津へは何回か足を運んでいる。自分で車を運転したわけではないので、縦型の信号機には気づかなかった。着雪量を減らす雪国仕様だろう。

助手席の効用はこうして、ときどき“発見”があることだ。路面の状況もそれでよくわかった。

行きは最初からはずんでいたせいかなんとも思わなかったが、帰りはいわきへ近づくにつれて路面が波うっているのがわかった。郡山あたりから、3・11の影響が目立つようになった。一番はっきりしているのは橋の継ぎ目だ。往路でもそれは感じていた。至る所でアスファルトが盛られていた。路肩も歪んでいた。

常磐道は、いわき中央インターではなくいわき四倉インターで降りた。私を降ろすのにはその方が近い。ほかの人は「エッ、『中央』で降りないの」とびっくりしていた。

常磐道は磐越道より路面が波うっていた。いわきの特徴かもしれないが、「イノシシ注意」の標識が立っていた。近くの電光表示板には「広野・常磐富岡災害通行止」の文字が浮き出ていた=写真。四倉の次の広野インターチェンジまでは利用できるが、その先は福島第一原発に近い。常磐道の北端まで近づいた、ということでもある。

四倉の集落に入ると、屋根にブルーシートのかかった家が目につくようになった。会津では、屋根にブルーシートのかかっている家は見なかった。いわきに戻ったことを実感した瞬間だった。

2011年11月16日水曜日

会津の夢二


会津・東山温泉の「新滝」は竹久夢二ゆかりの旅館として知られる。そこでミニ同級会が開かれた。

ロビーの一角に「竹久夢二ギャラリー」がある。旅館に残された作品のなかから、いかにも夢二らしい、憂い顔の美人画など数点が展示されている=写真

夢二は、明治44(1911)年、大正10(1921)年、昭和5(1930)年の3回、新滝に逗留した。

なかでも大正10年には、8~11月にかけて福島県内を転々とした。三春と船引で画会を開き、郡山、福島、会津などにも長期にわたって滞在した。途中、いわき湯本温泉の山形屋旅館にも泊まっている。(いわき市立美術館編集・発行『竹久夢二展図録』)

山形屋では、旅館特製の黄八丈の丹前を気に入り、譲り受けている。夢二には連れがいた。いわき市立美術館の学芸員氏は、山形屋関係者がいう「非常に美しく、背のスラリとした和服姿の女性」について、「おそらくお葉であろう」としている。

夢二の代表作に黄八丈を着た若い女性(お葉)が黒猫を抱いている「黒船屋」がある。山形屋から譲り受けた黄八丈なら面白かったのに、作品はその2年前に完成している。夢二はとにかく黄八丈が好きだった、ということだろう。

東山温泉街はV字谷に形成された。細い道をはさんで山側にも、谷側にも旅館が建っている。対岸にも旅館が張りついている。その間を湯川が白く泡立ちながら流れている。谷底がすぐそこに見える。この温泉と渓流の近さが魅力のひとつに違いない。

新滝では宴会のあと、館内のクラブを貸し切って2次会が行われた。要はカラオケ大会だ。クラブの名前は「くろねこ」。夢二の「黒船屋」を連想させる名前ではある。

2011年11月15日火曜日

会津観光


「震災復興支援の集い」という名目で、会津若松市の奥座敷・東山温泉でミニ同級会を開いたのが11月12日。宴会に先立ち、鶴ヶ城と白虎隊の隊員が眠る飯盛山を見学して、会津の戊辰戦争に触れた。翌13日には南会津へ足を延ばし、大内宿=写真=と、近くの「塔のへつり」を見た。どこも観光客でごった返していた。

喜多方に親戚がいるので、会津へは何度か足を運んでいる。とはいえ、土地勘も、観光歴も乏しいから、東山温泉や大内宿の地理的位置はほとんど頭に入っていない。福島県の中通りで生まれ育ち、浜通りで暮らしてきた人間には、山また山の向こうの会津は、はるかに遠い「雪国」だ。

小学校の修学旅行で会津へ行き、猪苗代湖畔で記念写真を撮ったり、古い野口英世記念館を見学したりした記憶がある。3年前、県立博物館を訪ねた折には会津若松市内を歩いた。わが会津体験はその程度だ。あとで水系を確かめることで、やっと三次元での位置関係が明瞭になった。

会津は、大きくは阿賀川(阿賀野川)流域に入る。阿賀川は会津若松の南方、福島・栃木県境の荒海山に発する。会津盆地へ向かって反時計回りに北西へ進み、新潟県で阿賀野川となって日本海に注ぐ。日光へ抜ける下野街道が「南山(みなみやま)通り」と呼ばれるわけがわかった。

山間地の大内宿は上流左岸側の支流域、「塔のへつり」は本流の大川(阿賀川)にあり、東山温泉を流れる湯川は会津若松の北、阿賀川から見れば右岸の一支流になる。(このへんの説明が間違っていたらごめんなさい)

われわれが訪ねた観光地はどこもごった返していた、と書いた。東山温泉のホテルのロビーでいわきの若い知人と遭遇した。家族旅行だった。大内宿ではいわき市の水道局職員氏と顔を合わせた。課内旅行だったか。高速道が無料の「いわき」「福島」ナンバーの車が多かったということだろう。無論、県外ナンバーもいっぱい目についた。

風評被害がずいぶん言われてきたが、それはまだ続いているのかもしれないが、11月12、13日に関しては「さすがは会津」という感想を抱いた。

2011年11月14日月曜日

震災復興支援の集い


還暦になったからこそ1年に一度、旅をしよう――。10代後半を一緒に過ごした同級・同学年の人間の小さな集まりがある。一晩の飲み会だけでは、ちょっと足りない。旅をする、それは大人の修学旅行だと、私は思っている。その3年目だ。一泊ながら会津へ出かけた。

誰かが大病を経験したり、小病をかかえたりしている。私を含めてほとんどが薬を飲んでいる。そういう年になった。いつ彼岸の住人になってもおかしくない。此岸にいるうちに、会って、話して、「じゃあなあ」と別れる。

ときおり、夏井川渓谷の無量庵に集結して飲んだ。忘年会が多かった。還暦を迎えた年には、5月の連休に集まった。スウェーデンにいる同級生に電話をかけた。病気になったという。その場で北欧へ行くことを決めて、秋に出かけた。それが癖になった。去年は台湾へ出かけた。今年は東南アジアへ行く――と決めていた。

そこに、3・11が襲った。原発事故に見舞われた。しばらくたって、幹事から連絡が入った。放射性物質とともに暮らすしかなくなったいわきの人間としては、海外旅行はパスしたい、国内旅行ならなんとかなるか――ということで決まったのが、「震災復興支援の集い」という名目の会津・東山温泉行だった。

11月12,13日の一泊二日の旅で、同級・同学年10人と、1人の飲み屋仲間5人が加わった。おととい朝、そのグループも含めていわき組7人が飲み屋のワゴン車で出発した。

宴会は宵の6時すぎ。三春大神宮を訪ねたあと、郡山市熱海町の磐越道五百川パーキングエリアで、宵に到着する人間一人をのぞいて全員が合流した。雲をかぶった磐梯山=写真=を見ながら、野口英世記念館の近くで昼食をとり、鶴ヶ城などを見て時間を調整してから、東山温泉へ向かった。

どこにも観光客がいた。やっとそういう状況になったのかどうか。昼食をとろうとのぞいた店は満席、次の店も同じ。3店目でようやく15分待ちとなって食事にありつけた、という土曜日の昼どきの様子を、まず伝えておきたい。

2011年11月13日日曜日

「青鞜」創刊100周年記念講演


いわき駅前再開発ビル「ラトブ」の中にあるいわき市立総合図書館5階展示コーナーで、「雑誌『青鞜』と『新しい女』たちの肖像」展が開かれている。「青鞜」創刊100年を記念した企画展示だ。

「青鞜」と、それにかかわった「新しい女」たちに光を当てた。発起人・平塚らいてう、賛助員・与謝野晶子、社員でのちの発行人・伊藤野枝、社員・田村俊子、そして現二本松市出身の高村智恵子(創刊号ほか表紙絵を提供)、須賀川市出身の水野仙子(社員)の6人が紹介されている。

この企画展を記念する講演会が先日、同図書館4階学習室で開かれた。明治学院大非常勤講師岩田ななつさんが「『青鞜』と福島の女性」と題して話した=写真。「大正ロマン・昭和モダン」に興味があり、図書館の担当者からも声がかかったので、聴講した。

江戸時代には共同の文芸だった<俳諧>が、明治時代には西洋の近代合理主義の影響を受けて個人の文学の<俳句>に変わる。

それと同じように、男性につき従う「良妻賢母」の殻を破り、自我の確立を主張する女性が出現する。先陣を切ったのは、いいところのお嬢さんたち。高等教育を受けていて、物おじをしない。ときに、世間が眉をひそめるようなこともする。明治44(1911)年9月に創刊された女流文芸雑誌「青鞜」が、その牙城だった。

岩田さんは、福島高女で学んだ小笠原貞(父親は福島民報初代社長小笠原貞信)と、水野仙子、高村智恵子の3人を取り上げた。

貞は「青鞜」第2巻9号に小説「泥水」を発表する。岩田さんの解説によれば、「泥水」は父が死んでから家に出入りする青年と関係する母をみて煩悶する、思春期の娘おすみを描く。同じ性を持つ母を通して自分を嫌悪してしまう心理を表現している。

あとで、岩田さん編集の『青鞜文学集』(不二出版)を図書館から借りた。「泥水」のほか、姦通を描いて最初の発禁を食らった荒木郁の「手紙」などが収録されている。子育てに参加しないサラリーマンの夫との確執を描いた岩野清の「枯草」は、現代の家族にも通じる問題をはらむ。

地方にあって、「青鞜」を読むような「新しい女」はいなかったのだろうか。大正14(1925)年にいわきで発行された比佐邦子著『御家庭を訪れて』が、良くも悪くも参考になる。いわき地方の知名人の妻・母・お嬢さんなど女性だけ161人が紹介されている。

比佐邦子はどうやら「新しい女」には否定的だったようである。あるお嬢さんを評してこう書いている。「現代ある一部の女性達が心の深奥な要求を拒み生命そのものに背を向けてゐるやうな婦人解放論者等には見出せない尊さがある」。婦人解放論者とは「青鞜」一派のことに違いない。

どんな本を読んでいるのかという質問に対するお嬢さんの答えは、「婦人雑誌は二三種読んで居りますが新らしいものはむづかしくて読んでもわかりませんからとって居りません」。

「終始つつましやか」なお嬢さんが、やがて歴史に名を残す左翼氏の妻になる。それこそ「新しい女」になる。口で語らず、行動で示さずとも、お嬢さんの内面には「新しい女」の時代の波が届いていたことだろう。

2011年11月12日土曜日

紅葉ウオーキングフェスタ


このところ、夏井川渓谷の無量庵へ出かける回数が減っている。週末ごとに通っていたのが、10日に一度、半月に一度といった具合に間遠くなってきた。街中でのイベントに顔を出したり、かかわったりするようになったのが大きい。

あした(11月13日)、小川町商工会主催による「夏井川渓谷紅葉ウオーキングフェスタ」が無量庵の隣、錦展望台を集合場所にして開かれる。一昨年、去年と集落(牛小川)の人と一緒に案内人を務めたが、今年は会津・東山温泉で開かれるミニ同級会と日程が重なったため、辞退した。

三春ネギに追肥をしないといけない。生ごみも埋めないといけない。急に思いたって、きのう、それこそ20日ぶりに無量庵へ出かけた。

ときどき小雨がぱらつく曇天下、溪谷はツツジを中心に赤く染まり、葉もかなり落ちていた。それで、急斜面の林床がちらほら見えるほど紅葉の色があせた。行楽客お目当てのカエデは一部色づき始めた程度だから、こちらはまだ当分楽しめるだろう。

錦展望台の所有者は一角にコンテナハウス店舗を持っている。春のアカヤシオと秋の紅葉時に店を開く。

今年の春は、店は閉めたままだった。4月にアカヤシオの花が満開になっても、原発事故の影響で足を運ぶ行楽客はいなかった。そして、紅葉の秋。11月に入ってから店を開けるようになった。「(行楽客は)少ないですよ、『いわき』か『福島』ナンバーばかりで」

そこへ、「品川」ナンバーの大型観光バスが2台来て止まった。大手重機メーカーのOB会一行らしかった。錦展望台に、瞬間ではあってもにぎわいが戻った=写真。せめてこの秋は行楽客でにぎわってほしい。

錦展望台から下流、磐越東線江田駅前にテント張りの飲食店がオープンした。地元の人たちも土日は露地売りをするのだろうか。野生キノコは、ほんとうは貴重な地場産品になるのだが、売るわけにはいくまい。

なにはともあれ「紅葉の夏井川渓谷へいらっしゃい」である。人がいっぱいいてこそカエデも喜んで赤く染まる。

2011年11月11日金曜日

手配書


おととい(11月9日)、山形県警の天童署刑事課から店(米店)に電話がかかってきた。天童市内で玄米600キロが盗まれた。飛び込みで売りに来た人間がいたり、「買ってくれないか」といった不審な電話があったりしたら、ご一報を――というものだった。ファクスで手配書が送られてきた=写真

それによると、11月5日(土)から翌6日朝にかけて、天童市の輸送会社に保管されていた、検査済みの玄米(米沢市の農家が生産したコシヒカリ一等米)30キロ入り紙袋計20袋が盗まれた。

6日と7日には天童市内の米屋に「病院に行くのに金が必要だから、コシヒカリ20袋買ってくれないか」などといった、不審な電話があった。声の調子からすると30~40歳の男で、この男が犯人と思われる、としている。

山形がダメなら福島がある、福島はフクシマだからいくらでもコメが売れる――などと犯人は悪知恵をはたらかせるかもしれない。というわけで、警察が福島県内の米屋に捜査への協力を求めてきたのだろう。

ネットで山形新聞の記事を読む。玄米はトラックのコンテナに積んであった。日曜日朝、運転手が出発前に点検したところ、盗難に気づいた。たまたま運転手がコンテナにかぎをかけ忘れたすきをつかれた。刑事ではなくて泥棒が張り込んでいたか。

被害額は約16万円。10キロ換算では2670円ほどになる。わが店で売っている新米は、会津産コシヒカリが5キロで2470円。10キロだと、ざっと5000円だ。同じコシヒカリでも産地によって値段が異なる。

おてんとさまと、水と、農家の技と心がはぐくんだ実りをかすめとればバチ(罰)があたる。あたらないわけがない。夏井川渓谷の無量庵でタラの芽を盗みとられたことがある。そのときの怒りがよみがえる。生産者の思いを共有しないといけない。

2011年11月10日木曜日

「が・ん・ば・つ・ぺ」


週末、孫2人をあずかった。3・11の大震災とそれに伴う原発事故以来、父親は孫を連れて来なくなった。連れて来てもすぐ帰る。その父親が、急にこちらの力を借りないといけなくなった。

母親の出勤時間に合わせて2人を迎えに行く。4歳半と2歳4カ月の男の子。長時間、2人を同時にあずかるのは初めてだ。

原発事故以来、親は祖父母が食べる物を孫に食べさせないようにしている。というより、祖父母の鈍感を警戒している。家庭菜園の野菜はだめ、野生キノコはだめ。土いじりはだめ。よかれと思ってやってきたものほど、若い親は拒む。

で、唯一、冷凍の焼きおにぎり・うどんを用意する。孫たちがそういうものを食べているのを見知っていたので。単に孫をあずかる、なんてことはできなくなった。

朝7時半ごろ。わが家に着くと、上の子はカミサンの指示で店の雨戸を開けた。孫は喜々としてやっている。道路向かいの家のおばさんが、口元をゆるめてそれを眺めている。父親が小学生のころ、同じことをやっていた(やらせていた)。「孫」なのに「せがれ」のような感覚に襲われる。

それが済むと、さっさと2階に上がる。ガンダムのプラモデルの箱が棚の上に積んである。父親が子どものころつくったり、買ったままにしたりしておいたものだ。催促されて15箱ほど取り出した=写真。いろいろ名前がついているらしいが、こちらはさっぱりわからない。

下の子は、というと、やっと母親がいなくても泣かなくなった。上の子があまり興味を示さなくなった三輪車で遊んでいる。

朝から晩まで孫と遊び、孫を観察するのは、「原発難民」として西郷村の那須甲子青少年自然の家で過ごした3月中旬以来だ。7カ月余がたっている。4歳児の成長の速さに驚いた。

数の数え方がまともになった。「1、2、3、5、4、6、……」と適当だったのが、「1、2、3、4、5、6、……、20、21、……」と続く。平仮名も一つひとつ追う。「がんばっぺ いわき」のステッカーを見て、「が・ん・ば・つ・ぺ……」と発語する。

保育園の指導もあるのだろうが、「アカチャン」を超えて小さな、いや手ごわい「ニンゲン」になってきた。その証拠に、こんなことも言った。「ジイジ、〇×のおしりはでかいよ」

2011年11月9日水曜日

応急仮設住宅


双葉郡楢葉町の老夫婦が、いわき市平中神谷の親類の家で借り暮らしをしている。町は福島第一原発から20キロ圏内に入るため、警戒区域に指定された。中神谷に避難後、わが家(米店)に顔を出したり、こちらから注文の品を届けたりする関係になった。平市街にできた楢葉町の応急仮設住宅に入居したというので、カミサンと様子を見に行った。

奥さんと娘さんがいた。ご主人は一度、仮設住宅を見に来たが、すぐ気分が悪くなったとかで、中神谷の家にとどまっている。ペットは、犬も、猫もご法度。中神谷の家に愛犬を置いたままだ。当分は行ったり来たりの生活になるという。

1棟2世帯、ないし4世帯が入る木造住宅が連なる=写真。57世帯が入居できる。室内を見せてもらった。南側に4畳半が2室、玄関のある北側に台所とトイレ・風呂。ざっと四つの空間からなっている。

場所は平作町。東北電力いわき営業所の東隣だ。住宅密集地で、マルト(スーパー)がある。飲食店がある。暮らすには便利だが、田園の風趣からはほど遠い。ご主人にはそれが耐えられないのかもしれない。中神谷の家は農家の離れ。目の前に畑があり、堤防があり、夏井川がある。

ご主人は自宅への帰還を切望している。が、現時点ではかなわない。楢葉町の環境放射線モニタリング結果をチェックしたら、最も高いところが地上1メートルで上繁岡集会所(駐車場)の毎時2.55マイクロシーベルト、地上1センチメートルでは県道35号(楢葉町・富岡町境)の3.49マイクロシーベルトだった(9月15日現在)。

上繁岡集会所? 地図を見る。ハクチョウの飛来地・大堤のそばだ。わがふるさとの田村市常葉町への行き帰りに、「山麓線」(県道いわき浪江線)と国道288号を利用することがある。冬は大堤に寄ってハクチョウをウオッチングする。そのためだけに出かけたこともある。そこが一番高いとは、なにやら象徴的ではないか。

作町応急仮設住宅には集会所もある。入り口に県議選のポスター掲示板が設けられていた。いわき市選挙区にしては張れるポスターの数が少ない。双葉郡選挙区だと合点がいく。定数2に5人が立候補を予定しているようだ。その県議選があす(11月10日)告示される。

期日前投票も、開票作業も今までのようなわけにはいかない。楢葉町民のいわきの投票所はいわき明星大、全体の開票作業も同大で行われるとか。

2011年11月8日火曜日

秋の消息


11月の声を聞いたとたんに来信が相次いだ。日曜日(6日)の吉野せい賞表彰式までは、なにやかやと用事が続いた。手紙も、はがきもちらりと見ただけ。11月第2週に入って少し自分の時間がもてるようになった。じっくり読み返した。

時期外れの異動あいさつ状があった。財団法人いわき市教育文化事業団職員として、いわき市立草野心平記念文学館に勤務していた知人が福島県いわき海浜自然の家に配置替えになった。

県いわき海浜自然の家は市教育文化事業団が指定管理者になり、今年4月から管理・運営を受託する予定になっていたが、3・11の大震災の影響で11月1日にずれこんだ。市暮らしの伝承郷に勤務していた知人も内示を受けていたようだから、新しい職場で合流したことだろう。

しばらく年賀状のやりとりが途絶えていた先輩からは、喪中による年末年始欠礼のはがきが届いた。別の先輩から消息は聞いて知っていた。年賀欠礼あいさつであっても、ポッとひとつ明かりがついたような秋の消息だった。3・11が引き寄せた(にちがいない)、古くて新しいきずなだ。

いわき市文化センター=写真=からは、待望の利用再開通知が届いた。同センターは市の災害対策本部になり、震災関連の相談窓口が設置されたことから、大ホールとプラネタリウム以外は利用ができなくなっていた。11月16日から料理実習室、大展示室1・2、創作室、大会議室1・2、第1・第2多目的室を使うことができる。

同センターを例会場、発表会場などに利用してきた文化団体はやっと愁眉を開いた。いわき地域学會も落ち着きを取り戻せそうだ。

いわき地域学會は毎年2~11月の第3土曜日、同センターで市民講座を開催してきた。今年は2月に一度開いたきりで、活動を再開した9月以降はいわき駅前再開発ビル「ラトブ」6階の産業創造館を代替会場にしている。活動休止期間をカバーすべく、2月まで市民講座を延長した。11、12月もラトブが会場となる。

年明け1月からは文化センターに戻って市民講座を開くつもりだ。9日午前9時に受け付けが開始される。地域学會の事務局長が出向くことになっている。

ほかに磐城平城史跡公園の会の震災がらみのあいさつ状、希望の杜福祉会の会報も届いた。おしなべて3・11と原発災害の影が差していた。

2011年11月7日月曜日

第34回吉野せい賞表彰式


第34回吉野せい賞表彰式がきのう(11月6日)午後、いわき芸術文化交流館「アリオス」大リハーサル室で開かれた。例年、草野心平記念文学館で開かれているが、今年初めてアリオスが会場になった。今回限りの変則開催かどうかは確かめていない。

今年の受賞者は、せい賞・青柳千穂さん「執着」、選考委員会特別賞・根本由希子さん「また、晴れた空の下で」、奨励賞・小林叶奈さん「宮戸診療所」の3人=写真。青柳さんは高校3年生。高校生として初めて、頂点のせい賞を受賞した。むろん、せい賞としては最年少受賞者ということになる。

毎回、表彰式の前に選考委員と受賞者が昼食をともにする。作者の声を聞き、選考委員の声を伝える、貴重な機会になっている。根本、小林さんのほか、選考委員3人が出席した。青柳さんは午前中、模擬試験があるということで欠席した。

作品と作者は別、作品だけを論じればよいという考え方がある。が、作者の意図なり、思いなりを知ることで、より正確に感想を述べたり、アドバイスをしたりすることができる場合もある。食事をともにしながら、というのが、重くなくていい。選考委員などということでなく、書き手と読み手が語り合う、そういう場でもあると思って出席している。

表彰式では選考結果を報告した。応募36編のうち、10編は3・11をテーマにしているか、触発されて書かれた作品だ。根本、小林さんの作品がそれに当たる。今年の一大特徴でもある。

なぜそうなったのだろう。3・11がもたらした、身も心も押しつぶされそうな現実に、かえって生きよう、生きて何かを残そう、伝えようとする力が、心の深いところではたらいたのではないか。それはつまり、生きる力、文学の力でもある、というようなことを述べた。書くことによって人は救われるのだ。

受賞者の一人がやはり、作品を書くことで救われた思いがした、と吐露した。生きる原理に根ざした文学の力を、今年のせい賞応募作品を通じて再認識させられたのだった。

2011年11月6日日曜日

合同役員会


区内会と子供を守る会の合同役員会が先日、開かれた。11月下旬に区内の通学路を中心にした除染・清掃作業を予定している。区内会の役員だけでできることではない。住民にも、子供を守る会の保護者にも加わってもらいたい――と呼びかけて実現した、合同役員会だった。

県の補助事業に生活空間環境改善事業がある。市が窓口になっている。区内会などが通学路や公園の除染作業をするとき、最大50万円を補助するというものだ。9月下旬に説明会が行われ、わが区も10月下旬に補助金の交付を申請して受理された。

除染・清掃活動を実施するまでには、計画づくり、事前の線量測定、マップ作りなどが欠かせない。補助金を使って線量計や高圧洗浄機などの備品を買い、カッパや長靴などの消耗品を買う。事前の線量測定は線量計を購入しての実施となる。

当日の作業も役割分担をして進めなければならない。洗浄隊、草刈り隊、ごみ回収隊……。実務的な書類などはめったにつくらないから、区長さんと詰めながらの作業となる。

子供を守る会の保護者・子どもは区内の県営住宅に住む。その住宅の一角にケヤキが植わってある=写真。そばには公園。ケヤキの根元の線量は、6月には毎時1マイクロシーベルト。数値を示して近寄らないように回覧で伝えた。

それが最近の測定では、そこだけ倍の2マイクロシーベルトになった。ケヤキのそばが集団登校の待ち合わせ場所になっていたため、保護者が待ち合わせ場所を変更した。

そういえば、東隣に位置する草野地区に線量の高い児童遊園がある。市が公表した都市公園などの空間放射線量モニタリング調査結果によると、地表1センチメートルで毎時1.46マイクロシーベルト、1.18マイクロシーベルトといった具合だ。市はこれらの児童遊園を含む9公園について表土除去・遊具洗浄を実施するという。

県営住宅の公園の数値はそこまでいかないが、ケヤキがすぐそばにあることを考えると、「取り残された公園」になりかねない。

住宅を管理する県のいわき建設事務所には6月に対策を陳情したが、あいまいな返事だった。保護者も直接、建設事務所に善処方を要望したという。建設事務所にしっかり、早く処置してもらわないと困る。区内会と子供を守る会の合同役員会でも、この「ケヤキ情報」が共有された。

2011年11月5日土曜日

1963年の報知新聞


見た目はしっかりしているようでも、解体しなくてはならない家や物置がある。すると、いやがおうでも「断捨離(ダンシャリ)」が行われる。眠っていた本や着物が世間に出てくる。

カミサンが古着のリサイクルを手がけているザ・ピープルに関係しているので、ときどき古着が持ち込まれる。着物の間に昭和38(1963)年9月14日付の報知新聞がまぎれこんでいた=写真

1面トップは報知らしく巨人軍の記事。「長島、きょうから出場?/巨人、後楽園で最後の阪神戦」。大相撲秋場所6日目の記事も載る。「“柏鵬”白星街道を突進」

48年前といえば、中学3年生。夏休みが終わって受験勉強に拍車がかかりはじめたころだ。世はまさに<巨人・大鵬・卵焼き>の時代。プロ野球は長島・王が活躍し、大相撲は大鵬・柏戸がしのぎを削っていた。右肩上がりの高度経済成長が始まっていた。

記事は、右手くすり指負傷でベンチを温めていた長島が、「14日からの阪神戦に代打ならいつでも出場できるまでになった」と、左手だけで元気に打ちまくる姿を伝えている。巨人はこの年リーグ優勝をし、日本シリーズも制覇した。いわゆるV9が始まるのは翌々年から。

大鵬と柏戸は2年前の昭和36(1961)年11月場所、同時に横綱に昇進した。記事にある場所はともに全勝で千秋楽を迎え、結びの一番で柏戸に軍配が上がった。十両に、のちにこれまた同時に横綱昇進を果たす玉乃島(玉の海)、北の富士の名が見える。玉の海は横綱在位中に急死した。

田村隆一の詩句にこういうのがある。「<昨日>の新聞はすこしも面白くないが/三十年前の新聞なら読物になる」。48年前の「読物」から、そのころの世相と、プロスポーツと、「15の心」が、もやもやっと立ちあらわれてきた。

2011年11月4日金曜日

道路の段差


車が通るたびに、ドスンと音がして家が揺れる。わが家の前の道路にできた“へこみ”が原因だ。車がもたらす“有感地震”とでもいおうか、絶えず「ドスン・グラッ」に見舞われる。車で出かけるとわかるが、ときどき車がバウンドする。路面が切られ、新しくアスファルトを盛ったところがある。マンホールがある。そうしたところで車が弾む。
 
歩道の冠水防止対策として、1月上旬に側溝と道路中央に埋設されている下水道管をつなぐ工事が、わが家の前で行われた。土を盛り、つき固め、アスファルトで覆ったのはいいが、時がたつにつれて車に踏み固められ、へこんで軽い段差ができた。大地が鳴動した3・11以後、特に顕著になった。

3・11を境に、被災地の道路は波うち、亀裂が入り、段差ができるなどした。とりわけ橋に接続する道路の段差が目立つ。夏井川河口に架かる磐城舞子橋=写真=は、それでしばらく通行止めになっていた。

区内会でも毎年、「箇所検分」をする。今年は道路中心の検分になった。地震によるへこみが3カ所あった。市の担当課に連絡したら、後日、へこみに黄色いスプレーで輪が描かれた。先日、その一つにアスファルトが盛られた。応急措置をするまで半年がかかった。それだけ道路は傷めつけられたということだろう。

沿岸部、たとえば沼ノ内から豊間に抜ける道路は、それこそ車がロデオの馬に化けたように弾む。上神谷から中塩へ抜ける道路は陥没がひどく、対向車が来ないときなどは真ん中を走ることになる。いずれにしても飛ばすのは禁物だ。

2011年11月3日木曜日

ミサゴ


早朝、夏井川の堤防を歩いていると、大きな鳥がこちらに向かってやって来た。アオサギ? 違う。顔が白い。胸も、腹も白い。ミサゴだ。ちょうど頭上に来たとき、カメラを向けた。が、ピントが合わない。通過しかけたところを一枚だけ撮った。いや、それしか撮れなかった。

河川敷にキジが姿を現す。チョウゲンボウがホバリングをしている。アオサギが水辺に舞い降りる。すかさず堤防の上から試し撮りをする。距離があるので、たいてい米粒程度にしか写らない。ミサゴもそうしてシャッターを押した。

ミサゴの写真を拡大する。と、やや中型の魚(口の形がコイに似ている。が、ボラかもしれない)をかかえていた=真。右脚でえらのところを、左脚で腹のあたりをがっちりとつかんでいる。まるで爆弾を装着した戦闘機のようだ。少し上流で漁をしたあと、食事のためにお気に入りの場所へ飛んで行く途中だったのだろう。

2年前のちょうど今ごろ、やはりミサゴに遭遇した。河川敷のサイクリングロードを歩いていると、「バシャッ」という音がした。ミサゴが着水して魚をつかもうとしているところだった。魚が姿を現すまでには少し時間があったが、飛び上がるとあとは一気に上空へと舞い上がり、大きく旋回して山の陰に消えた。漁はそれだけで終わらなかった。

しばらくすると、また同じ場所にミサゴが現れた。同じ個体かどうかはわからない。が、同じように着水すると、魚をわしづかみにして飛び立った。

ミサゴは主に海で漁をする。たまに内陸部に現れる。夏井川では、ハクチョウの飛来する山崎(右岸)・塩(左岸)あたりがギリギリのところだろうか。

ミサゴを見て思い出した。同じ散歩コース内、国道6号常磐バイパス終点部、夏井川に架かる夏井川橋にはチョウゲンボウがすんでいて、橋げたによく止まっていたものだが、このごろはまったく姿を見ない。

3・11以後、河原でホバリングするチョウゲンボウを一、二度は見た。が、それは夏井川橋の“主”とは別の個体だったかもしれない。鳥といえども見慣れた“隣人”がいなくなるのは寂しいものだ。

2011年11月2日水曜日

屋根瓦取り換え


平屋から一部2階建てに増築したときの瓦屋さんが、先日、顔を見せた。平屋部分の瓦が一枚割れているのに気づく前だった。大震災で傷んだ瓦屋根を修繕する仕事が一段落ついたのだろうか。かつての顧客の家を回って状況を確かめているようだった。連絡先の書かれたチラシを置いて行った。

「雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ、大切な住まいの静かなガンバリ屋、屋根。屋根のこと考えたことありますか。小さな悲鳴をあげているかもしれません。その声に気づいてあげて下さい」。瓦屋さんが来て、何日もたたなかった。「小さな悲鳴」に気づき、チラシに書かれていた電話番号を押した。

きのう(11月1日)午後、瓦屋さんがやって来た。増築時に屋根瓦をふいたあと、瓦屋さんが何枚か同じ瓦をもってきた。なにかあったときの予備として保管しておくように、という配慮だった。離れの軒下に置いておいた。それが生きた。

瓦屋さんは2階の物干し場から屋根に移ると、割れた瓦をいとも簡単にはがし、上の瓦をすこし持ち上げて予備の瓦をはめ込んだ。わずか1分ほどの作業だ。

2階部分はそこからではよくわからない。瓦屋さんはヘルメット、地下足袋、折り畳み式はしごを携えて物干し場に戻り、2階屋根の瓦のチェックにかかった=写真。瓦の損傷はなかった。ぐし(棟瓦)も無事だった。白く見える漆喰(しっくい)部分を塗り直したら補強効果が上がるという。見積もりを出してもらうことにした。

前日は、市の職員など2人が罹災証明の調査にやって来た。家の内外を見て回った。一部損壊か半壊のいずれかだろう。その翌日の瓦の交換になった。不思議なタイミングだった。

2011年11月1日火曜日

甦えってきたキルトたち


土曜日(10月29日)は昼ごろ、カミサンと鹿島ショッピングセンター「エブリア」へ出かけ、「甦(か)えってきたキルトたち――カフェサーフィン すずきとみこの手仕事展」をのぞいた=写真

午後は、市立美術館を会場に開かれた映画「アレクセイと泉」の試写会に足を運んだ。市民有志が上映する会を組織し、来年1月14日、いわき芸術文化交流館「アリオス」で上映会を開くという。終わって、いわき駅前再開発ビル「ラトブ」に設けられた被災者のための交流スペースに駆けつけ、情報紙制作のためのミーティングに参加した。

この週末、珍しく予定が立て込んだ。翌日曜日はラトブを会場に、いわき地域学會の市民講座が開かれた。「『草野心平とセドガロ』考」と題して1時間ほど話した。

さて、10月29、30日の二日間開かれた「すずきとみこの手仕事展」だ。

すずきさんは、薄磯海岸の目の前でカフェ「サーフィン」を営みながら、パッチワークその他の手仕事を楽しんできた。それが、3・11の大震災で一変した。店は大津波をかぶって跡形もなく消え、隣接する2階建ての自宅は1階部分が破壊されてがらんどうになった。

手仕事展には、タンスに入っていて海水につかった作品、流され、砂の中から見つかった作品のほか、カフェで使っていた看板、食器など、すずきさんの思い出の詰まったものたちが所狭しと並べられた。

海水につかったキルトはコインランドリーで洗い、乾かした。一刺し一刺し縫い込み、つないでいった糸の力だろう。色が染みだしたものもあるが、作品はしっかりしている。

布団のようなものは、一度水につかるとダメになるという。キルトは、違う。布と、糸と、両方が相まって、全体をつなぐ。男ながら、大津波にも負けない布と糸の力に胸が熱くなった。

すずきさんのパッチワークの仲間や、同級生などが会場に駆け付けた。「今度は人間をパッチワークする(つなぐ)の」。つなぐのは人を思いやる心だ。