2011年12月31日土曜日

被災ピアノ


津波被害に遭った豊間中のグランドピアノが今夜、NHKの紅白歌合戦に登場する。25日、TBSが展開した「報道の日」特番でも披露された=写真。そのまま東京で調律作業が進められているという。

3月11日、卒業式を終えたばかりの豊間中が津波に襲われた。5月22日、前PTA会長らが「校舎を清掃しよう」と呼びかけると、OB・在校生ら300人が集まった。世代を超えて校舎内のがれきや砂を片づけた。体育館の片隅におかれたピアノを誰かが弾くと、音が鳴った。ピアノは生きていた。みんなで校歌をうたった。

昔の若い記者仲間らがいわき市海岸保全を考える会から『HOPE2』を出した。最初は写真集。第2弾は「東日本大震災いわき130人の証言」。被災時の手記と聞き書きからなる。10月下旬に発行された。直接、本人がわが家に届けてくれたのだが、紹介が遅れて今になった。上記のピアノの話も、『HOPE2』に載った前PTA会長の聞き書きから引用した。

震災以後、ときどきわが家にやって来るようになった豊間の旧知の大工さんが、その前PTA会長だ。校舎やピアノのことは早い段階から聞いていた。心を一つにするための清掃作業にしたい――やると決めたら、早い。大工さんらしくあっという間に段取りを決めて実施した。

話は変わって――。今年後半、『HOPE』のように寄贈を受けた雑誌・書籍がある。農文協からは「現代農業」10月号と、カメラマン大西暢夫さんが岐阜新聞に連載した「東北沿岸600キロ震災報告」をいただいた。大西さんは農文協の雑誌の仕事もしている。

「現代農業」10月号に、いわきの「ineいーねいわき農商工連携の会」の北瀬幹哉さんが、放射線量低減のための「草とり土とりプロジェクト」を始めたことを書いている。そのことは伝えておかないといけない。

12月11日に東京で行われた「Listen!いわき」では、中野民夫さんから自著の『ワークショップ――新しい学びと創造の場』(岩波新書)、子島進さんから編著の『館林発フェアトレード』(上毛新聞社刊)の恵贈にあずかった。この場を借りてお礼を申し上げる。

さて、紅白歌合戦だ。今年は豊間中の被災ピアノが紅白歌合戦に出るというので、水面下では11月から盛り上がっていた。同じ福島は郡山出身の西田敏行さんが出る。持ち歌の「もしもピアノが弾けたなら」のときに使われるのではないか(歌はあとで「あの街に生まれて」と発表された)……と。実際には白組司会・嵐の桜井翔クンが弾く。

よみがえったピアノの音色に鎮魂と希望を重ね、別れと再会と新しく出会った人々に感謝しながら、今年最後の夜を静かに過ごそうと思う。

2011年12月30日金曜日

国内初支援


バングラデシュとネパールで支援活動を展開しているシャプラニール=市民による海外協力の会の事務局長氏からメールが届いた。

シャプラは東日本大震災直後、北茨城市から国内で初めての緊急支援活動に入った。現在はニーズの変化に合わせて、いわき駅前再開発ビル「ラトブ」の2階に被災者のための交流スペース「ぶらっと」を開設・運営している=写真

月に1回、情報紙「ぶらっと通信」も発行する。主に民間借り上げ住宅で避難生活を続けている人々に送られる。仮設住宅と違って、民間借り上げ住宅に入っている人たちは「情報が入ってこない、取り残されている」という思いが強い。シャプラは「取り残さない」ことを信条として活動しているNGOだ。

事務局長氏はメールでこの1年間を振り返っている。「これまでの震災対応活動は国内の助成金を一切使わず、日本国内や海外の市民の皆様からの寄付のみで活動ができている」「アメリカの2団体から大口の助成をいただきましたが、これもアメリカ国民からの寄付によるもの」

いかにもシャプラらしい、個人(市民)をベースにした寄付で活動がなされているところに、あらためて共感をおぼえる。「ぶらっと通信」も国際医療NGO「インターナショナル・メディカル・コープス」の助成を受けて発行していることを第2号で明記した。シャプラを評価する尺度の一つが、寄付に対する透明な使途報告だろう。

そもそもシャプラの前身のヘルプ・バングラデシュ・コミティは、市民の寄付がこれこれこういうところに使われましたと、きちんと報告することを活動の柱として誕生した。その愚直さを踏襲しているのがうれしい。市民の善意がちゃんと生かされている。それを実感できるメールだった。

2011年12月29日木曜日

寒波到来


夏場は農業用水の排水路として機能する、近所の「三夜川」がクリスマス寒波で凍結した。三面舗装の底が見えるまで水量が減り、ほとんど流れていないのと同じ状態になった。そこからの連想――。

私が住む地域はいわきの平地、海抜でいえばせいぜい5メートルほどのところだろう。そんな地域でもたまり水が凍るのだから、山間部ではもっと深く、広く凍結しているに違いない。ハマ・マチ・ヤマ――いわきをそう区分する癖があるので、冬の凍結状況はその三層区分によって、ヤマに行けばいくほど厳しいことが容易にわかる。

海抜200メートルほどの夏井川渓谷も、夜は外気が氷点を下回る。10日ほど前、無量庵の濡れ縁にある雨だれ受けの浅鉢が凍結していた=写真。生ごみを埋めようと畑にスコップを入れたら、10センチ近く土が凍っていた。毎年そうだが、今年は凍り方がちょっと早い。

1週間前の新聞(朝日・福島浜通り版)に「庭土凍り木立も/線量低減難しく/先行着手川前地区」という記事が載った。いわきのなかでも放射線量が高い川前町下桶売の荻・志田名地区で市が「モデル事業」として除染作業をしている。ここは海抜500~600メートルといったところか。冬は大地が凍る。

記事にこうあった。「21日、地元業者の作業員に市職員計15人が、山間部にある民家の庭土をはがしていた。深さ20センチほどまで凍り付いているため、パワーショベルもなかなか歯が立たない」

夏井川渓谷の先、一段も二段も山に分け入った先の阿武隈高地だ。溪谷は常緑のヤブツバキが自生するような照葉樹林地帯のはじっこ、荻や志田名はもうブナ林地帯。植生からいってもいわきの平地とは異なる。

記事は除染作業の担当者の声として「凍土がやっかいで、本格的な作業は春を待たなくてはならないだろう」ということを伝えている。

冬の寒波が除染にも、原発の収束作業にも影響を与える――という想像力を持たないといけない。

2011年12月28日水曜日

キノコ2011年


いわきキノコ同好会の総会・勉強会・懇親会が日曜日(12月25日)夜、田町平安(旧大貞)で開かれた。3・11の東日本大震災とそれに伴う原発事故の影響で、キノコとキノコを愛する人々には、今年は最悪の年になった。そのしめくくりの集まりだ。

春に1回、秋に2回、計3回予定していた観察会は秋の2回だけにとどまった。10月2日・閼伽井嶽(平)で、同9日・雨降山(三和)で実施された。私は1回目だけ参加した。地区公民館などを会場に、参加者が採集したキノコを会長の冨田武子さんが同定する=写真。そうやってキノコの鑑識眼を鍛えるのがこの同好会の特徴だ。

今年は「キノコが私たちの生活から遠くかけ離れたところに行ってしまった」(冨田会長)。発生そのものも少なかった。懇親会では、それでも森のキノコと向き合い、食べるべきか食べざるべきか、逡巡した思いが吐露された。

マツタケのシロを持ちながら、「今年は食べない」と決めた人がいる。他人にシロを知られたくないので、せっせとマツタケを採っては捨てたという。シロを持つ人に懇願したら、シロを教えてくれた。一緒に行って何本かマツタケを採った。家族は食べるのを敬遠したため、本人だけ食べた。そんな報告もあった。

12月にフユヤマタケを採った人が多かった。松林に発生するヌメリガサ科の食菌で、放射線量を測ってもらったら、「絶対に食べないように」と注意された。ところが、水で洗い、ゆでこぼした同じものを持ち込んだら、ほとんど数値は計測されなかった。水で洗い、ゆでると、線量低減の効果があることがわかった。

人はキノコを食べるためにいろいろと工夫をする。放射能の影響を受けやすい菌類だけになおさら真剣だ。よく水で洗う、ゆでる。来年はこれでいこう――希望の光がともった感じがする。

2011年12月27日火曜日

じいじサンタ


先週の土曜日はクリスマスイブ。夜は家で、あるいは飲食店で盛り上がったことだろう。忙しい一日だった。

一時提供住宅などに住んでいる被災者を対象に、午前11時から午後2時まで中央台公民館でクリスマスパーティーが開かれた。車のない人には送迎バスが運行された。パルシステム福島、シャプラニール、市社協からなる実行委員会が主催した。

体育館では大熊町相馬流山保存会による郷土芸能「相馬流山踊り」、プロの「Holly Bell」によるハンドベルやマリンバ、ビブラフォン演奏が行われ、3B体操協会指導士のリードで参加者が体を動かした=写真。手づくりのクリスマス料理に郷土料理、ケーキが振る舞われたほか、クリスマスプレゼントが配られた。

会費500円、小学生以下は無料で、100人近く集まった。午後からいわき地域学會の市民講座に顔を出さなくてはならないため、午前中だけおじゃました。豊間で津波被害に遭い、被災後初めて顔を合わせる女性がいた。握手をして再会を喜んだ。3B体操の指導士も旧知の女性だった。名刺をもらった。

地域学會の市民講座から帰るとすぐ、車で5分ぐらいのところに住む長男一家を訪ねた。4歳と2歳の孫にクリスマスプレゼントをした。4歳の孫はゴーカイジャーを所望していた。2歳の孫については、母親が「なんでもいいです」というので、おもちゃの車を買った。

ゴーカイジャーのことはよくわからない。おもちゃ屋に「ゴーカイガレオンバスター」(エネルギー砲)とかいうものがあった。それを買った。「じいじサンタ」に目を輝かせたのは一瞬だけ。エネルギー砲が出てくると「イマイチだなぁ」ときた。孫といえども、頭をコツンとやりたくなった。ほしいものはちゃんと父親が用意していたらしい。

夜は大人のクリスマスパーティーだ。疑似孫と親がやって来た。疑似孫2人のうち1人はほかの福島の子らとともに、「富山SAVEふくしまチルドレン」を介して福岡で冬休みを楽しんでいる。

同じ時間帯、福岡でクリスマス会が開かれた。それをインターネットで生中継した。疑似孫が登場して親に語りかける。「心配しないで待ってて」。父親と一緒に見た。こうしたネットの技術にはうなってしまうほかない。

間もなく画家の阿部幸洋が現れた。豊間の大工さんもやって来た。大人6人と子ども1人のにぎやかなイブになった。

2011年12月26日月曜日

麦の芽会例会


いわき長寿学園「麦の芽会」の第166回例会が12月22日午前、市文化センターで開かれた=写真

大震災直前の3月5日、12月例会の講師依頼を受けた。すっかり忘れていたのを、手帳を見て思いだし、何を話そうかと考えめぐらせていた矢先の11月、確認の電話が入った。

例会は年に10回ほど開かれる。この1年は12月例会を含めてわずか4回だ。いわき地域学會も「原発震災」の影響で半年ほど活動を休止した。「麦の芽会」も似たような経過を経て活動を再開したものと思われる。「いわきの大正ロマン・昭和モダン」というテーマで話した。

例会用に特別に調べたということはない。頼まれて浜通り俳句協会の季刊誌「浜通り」に連載している<いわきの大正ロマン・昭和モダン――書物の森をめぐる旅>のコピーを並べて解説しただけだ。あとで知ったのだが、ちょうどその時代に多くの会員が生まれている。結果として、会員が産声を上げたころのいわきの話になった。

昨年は急きょ、7月例会に呼ばれて話をした。歴史家の佐藤孝徳さんが急死したことによるピンチヒッターだった。恩師の奥さんがいた。地域学會の市民講座を受講している人がいた。新聞社時代に交流のあった読者氏がいた。警察回りをしていたころの元警察官氏がいた。旧交を温めたり、再会を喜んだりした。

それから1年5カ月。会場の大会議室は人で埋まっていた。組織としては再出発したそうだが、盛況ぶりは以前と変わらない。本拠地の文化センターに戻って来た安堵感もあったのか、あちこちで話に花が咲いていた。再び元警察官氏らとあいさつを交わし、互いの無事を喜んだ。恩師の奥さんの姿はなかった。

会長さんの話では、会員は「後期高齢者」が大半。それでも「生涯現役・生涯学習」をモットーに、知的好奇心を抱いて活動している。こちらもまた人生の先輩たちから「生涯学習」の刺激を受けた。

2011年12月25日日曜日

クリスマスフラ


クリスマスフラダンスショーが12月23日夕方、ラトブ1階の「いわき横丁」で開かれた。ラトブ2階に入居している被災者のための交流スペース「ぶらっと」が主催した。

前日、「ぶらっと」利用者やスタッフ、「ぶらっと通信」編集ボランティアらが集まって忘年会を開いた。その席で、スタッフの一人が所属するフラグループのショーを知った。ちょうど買い物もあったので、出かけた。忘年会に参加したメンバーも何人か顔を見せた。

スパリゾートハワイアンズのあるいわきでは、ご当地映画「フラガール」以来、フラダンサーを「フラガール」と呼ぶことが多くなった。プロ・アマを問わない、フラを踊る人は「フラガール」だ。小学女子が「いわき横丁」を通り抜けながら、「フラガールだ」と反応したのは、そのあらわれ。広く認知されているというべきだろう。

南太平洋の踊りの文化が温泉と融合して定着し、クリスマスにまで披露されるようになった。「クリスマス寒波」がやって来るというのに、通り抜けの「いわき横丁」では、踊っていても寒いのではないか。そんな心配は無用だった。ギャラリーがいっぱいになった。寒いどころか燃えた、はずだ。

タヒチアンダンスを踊ったときの頭の飾りが面白かった=写真。鳥の羽でできている。それからの連想だが、ある種の踊りは鳥の求愛ダンスをヒントにしていないか。

フラダンスも、タヒチアンダンスも知らない門外漢だ。が、たとえばニューギニアには色彩豊かなフウチョウ科の鳥(極楽鳥)がいて、それぞれに独特の求愛ダンスをする。それらを観察してきた人間が、自分たちの踊りにその動きを取り入れる、というようなことはないのか。

自然とともに生きる人間たちが、鳥獣や虫魚の動きを、台風や津波といった自然の猛威を、民族の気持ちとして踊りに表現して伝える……。そういうことはあるのかないのか、フラやタヒチアンにはそれが反映されているのかいないのか。「ぶらっと」スタッフのYさんに今度、じっくり聞いてみよう。

2011年12月24日土曜日

送電鉄塔


いわき市小川町の草野心平記念文学館は夏井川右岸の高台にある。館内のアトリウムロビーからはガラス壁面越しに、空高くそびえる二ツ箭山を望むことができる。駐車場からも阿武隈の山並みを従えた二ツ箭山が目に飛び込んでくる。そのゴツゴツとした山容が途切れるあたり、向かって左側の山の裏から駆け下るように送電鉄塔が立っている=写真

今までは、景観を破壊する人工物、二ツ箭山にはふさわしくない、そんな気持ちでできるだけ見ないようにしてきた。その気持ちに変わりはない。が、これは東電の送電線だ、どこから来てどこへ行くのか――。急に気になって、グーグルアースと国土地理院の2万5000分の1地図(送電線が書き込まれている)で追ってみた。

東電広野火力発電所から送電線が来ていた。送電線は火発のある広野町の海岸部から西へ、浅見川の源流部である阿武隈高地へと延び、いわき市北部の猫鳴山南方をかすったあと、隣の二ツ箭山の背中をこするようにして南西へ進み、肩口から夏井川支流・加路川へとなだれる山腹を駆け下りながら、さらに西へと向かっていく。

文学館から見える送電線と鉄塔は、この加路川流域の尾根筋を延びるものだった。広野火発の電気はこのあと、磐越東線と隣り合う「地獄坂」付近で夏井川渓谷を横切り、三和町上永井を通過して、同・中寺「新いわき開閉所」に着く。

同開閉所は、福島第1、第2原発からの2本の送電線ともつながっていた。両原発から富岡町上手岡の「新福島変電所」へと送られてきた電気は、そこから並行して西の阿武隈高地、川内村へ向かい、いわき市川前町の神楽山のふもと(外門)を経由して、「新いわき開閉所」に届く。

3本の送電線はこのあと2本になり、一路、首都圏へと向かう。地図で福島県内から栃木、埼玉県へと追ったが、関東平野のだだっぴろい市街地にまぎれてわからなくなった。いや、疲れて追いかけるのをやめた。

送電鉄塔に限らない。自衛隊のレーダー基地(大滝根山頂上)、水石山の航空灯台……。スカイライン(稜線)を人工物が犯しすぎる。風力発電もそうだ。わがふるさとの阿武隈高地は、スカイラインが人工の突起物にまみれている。

自然エネルギーを利用しようという流れには賛成だが、こと自然景観の観点からは、もっと悩みを深めた政策にしてくれ、自然エネルギーだからいい、などと単純に考えてくれるな、と言いたくなる

広野火発の送電線は生きている。が、福島第一、第二原発の送電線と鉄塔は今や仮死状態だ。やがて「無用の長物」になる。そのあかつきには自然景観回復のための解体・撤去が求められるのではないか。

2011年12月23日金曜日

解体撤去申請


被災者の生活再建を支援する制度の一つに「損壊家屋等解体撤去事業」がある。「半壊」以上の判定を受けた家屋などについて、いわき市が所有者の申請に基づき解体・撤去を行う。自ら業者を頼んで解体・撤去しても、基準額の範囲内で業者から払い戻しを受けられる。

わが家の離れの物置が「半壊」の判定を受けたので、解体撤去申請書を市役所に提出した。知り合いの職員の話では、業者が来て取り壊すのはざっと1年先になりそう。それだけ解体・撤去待ちの損壊家屋が多いということだろう。

前にも書いたが、近所でもすでに何軒かが取り壊された。向かいの土蔵、旧家の大きな家、ハクチョウが越冬地に選んだ夏井川の堤防そばの家……。津波被害の甚だしかった沿岸部から、地震で半壊以上の判定を受けた内陸部へと、解体・撤去の“主戦場”が移ってきたようだ。近ごろは住宅密集地での解体作業が目立つ。

文化財的建築物だった平・本町通りの「ナカノ洋品店」はもうない。いわき駅の西方、揚土の坂の途中にあったカミサンの同級生の家=写真=も解体・撤去されて更地になった。小名浜の先輩の家はどうか。もう姿を消しただろうか。

市のホームページを開き、災害対策本部がまとめた「住家被害」の数の変化を見た。4月18日までは「被害戸数等詳細については不明」とあり、翌19日になって初めて7129棟という数字が明記される。

それからは日ごとに数が膨らみ、8カ月余がたった12月20日現在では、「住家被害」7万8835棟に達した。内訳は①全壊7608棟②大規模半壊6787棟③半壊2万2633棟④一部損壊4万1807棟である。きのう(12月22日)現在では合計7万9000棟台を突破した。まだまだ罹災証明申請が続いているということだろう。

離れには本箱が並ぶ。本はあらかたリサイクルに回した。それでもなお整理のつかないものがある。物置とはいっても、もとは書斎代わりだった。土足で上がりおりをするようになったのがつらい。

2011年12月22日木曜日

無料上映会


先週の金曜日(12月16日)夜、いわき明星大講義館でドキュメンタリー映画「無人地帯」の無料上映会が開かれた。ラトブ2階にある被災者のための交流スペース「ぶらっと」のスタッフから、声がかかった。夫婦で見に行った。

東日本大震災とそれに伴う原発事故で、4月22日、福島第一原発から半径20キロ圏内の立ち入りが禁止された。圏外の飯舘村も、のちに住民が避難して「無人地帯」となる。

上映後の質疑応答=写真=の中でわかったことだが、藤原敏史監督とカメラマンは警戒区域に指定される直前の双葉郡に入り、地震と津波でがれきの野と化した請戸の浜などをカメラにとらえた。カメラはさらに、飯舘村に暮らす人々の肉声を伝え、めぐってきた山里の美しい春景を写し取った。

3・11以後、ビデオジャーナリストらが20キロ圏内に入って映像を撮った。その映像に不満が募った。きちんとした映像を取らなくては――カメラマンと三脚を持って現地に入ったのだという。三脚が、このドキュメンタリー映画の功労者といってもいいだろう。初めてじっくりと20キロ圏内を見つめ、飯舘村の人々の心に触れた思いがする。

さて、ところで――。「ぶらっと」のスタッフに無料上映会に至るまでの過程を聞いてみた。始まりはツイッターだという。つぶやきから監督や、主催の「錦つなみ基金」の女性、「ぶらっと」スタッフがつながった。上映会のためのボランティアもまた、「ぶらっと」のスタッフだったり、「ぶらっと通信」の編集ボランティアだったりした。

アナログの世界で生きてきた人間には、インターネットを介した新しいつながりのかたちをイメージしにくい。が、こうして身近なところにいる人間から実例を聞かされると、アナログとデジタルの組み合わせによっては、今までにない交流と動きを生み出すことができるのだということを知った。

翌日夕方、「ぶらっと」へ行くと、藤原監督がいた。上映会にボランティアとしてかかわった「ぶらっと」スタッフと談笑していた。「ぶらっと」って面白い。

2011年12月21日水曜日

いわき昔野菜図譜


いわき市農業振興課が今年前半、『いわき昔野菜図譜』を発行した。東日本大震災が発生したために公表の機会もなく、ほとんど人の目に触れることはなかった。事業を受託したいわきリエゾンオフィス企業組合が編集し、頼まれて私が序文のようなものを書いた。「三春ネギ」の聞き取り調査を受けた縁による。

きのう(12月20日)、朝日新聞第2福島版「みちのくワイド」に伝統野菜の記事が載った。いわき市の「伝統農産物アーカイブ事業」も取り上げられた。

『いわき昔野菜図譜』は、その初年度事業の成果の一つ。同組合は事業2年目の今年、「昔キュウリ」や「千住一本ネギ(いわき一本太ネギ)」など「いわきの昔野菜」約20種を栽培している。「自産自消」から「地産地消」へ、つまり過去を大事にしつつ未来へ発展させる道筋を描けないか、という思いがそこにはこめられている。

朝日の記事には「震災でこの事業が大いに役立つことになった。西洋ワサビに属するワサビダイコンは山間部の農家1軒だけが栽培していた。原発事故後、その農家が自主避難したため栽培が途絶えかけたが、昨年収穫した株を同組合が育てていたのだ」とあった。

同組合のプロジェクトマネジャーが記者の質問にこたえている。「在来作物は、人がかかわらないと育てられない。自主避難した農家が農業を再開する時まで大事に育てたい」。その意気やよしである。

『いわき昔野菜図譜』のなかの「ワサビダイコン」のページを開く=写真。主な産地、生産の歴史的由来・特徴、代表的な栽培方法が載っている。

産地はいわき市川前町下桶売地区。外来種のホースラディッシュを、先代から自家消費用に栽培し続けて40年、下桶売の風土に合った「昔野菜」にならした。すりおろして刺し身やそば、肉料理の薬味にする。その地はしかし今、放射線量のホットスポットと化した。

ワサビダイコンは、基本的には種ではなく種根(分枝根)で増やすという。根茎を5cmずつに切り分け、上下をまちがえないようにして株間40cmに植え付ける――あとは省略するが、これをリエゾンオフィス企業組合が特別に設けた農園で栽培している、というわけだ。

今年1月28日、「いわき昔野菜フェスティバル」が開かれた。招待されて出かけた。2年目、再びフェスティバルを開くという情報が入った。「香辛料」には昔から興味があるので、今回は特にワサビダイコンと向き合いたい。

2011年12月20日火曜日

買い出しツアー


日曜日(12月18日)に牛小川の無量庵経由で田村郡小野町の直売所へ行ってきた。去年暮れにも足を延ばした。曲がりネギを売っている。郡山の阿久津系かと思ったら、須賀川の源吾系だった。今年は、ネギではなく白菜を買った。

ついでに梅干しと白菜漬けを買う。白菜漬けは自前の白菜漬けができるまでのつなぎ。カミサンは一升漬けと「扇屋の砂糖パン」、なにやら味がしみこんで茶黒くなったゆで卵を買った。小野町への買い出しツアーになった。

「砂糖パン」はなつかしい味がした。練りあんが入った生地に砂糖をまぶしたお菓子だというが、包丁を入れると、あん・皮・砂糖の三層になっていた。昔の田舎のまんじゅうをゲル状の砂糖につけて固めたような感じ。菅原文太さんが絶賛したというのも、一種の郷愁からではなかったか。

白菜は2玉。1玉150円だ。根元から包丁を入れ、八つ割りにして干した=写真。糠床を冬眠させてから半月がたつ。そろそろ自前の白菜漬けがほしくなって、買う直売所を決めていたのだが、そこは12月になると店を閉める。それで、きのうも書いたように小野町まで足を延ばしたのだった。

きょうは朝食のあと、甕を出して白菜を漬け込む。香り漬けのユズは、東京・新宿の「ラ・ケヤキ」という、庭の広い家に泊まったとき、オーナーがどうぞというので、白菜漬け用に採ってきたものだ。

東京のユズに小野町の白菜、いわきは川前産の唐辛子と、材料は“多国籍”。新聞・テレビは北朝鮮のことを大々的に報じているが、わが家ではそれより白菜を漬けることの方が大事になる。今週末にはしんなりして食べられるだろう。

2011年12月19日月曜日

きょうは何の日?


半月ぶり、いや20日ぶりかもしれない、夏井川渓谷の無量庵へ行くのは。きのう(12月18日)朝、出かけた。菜園に生ごみを生める。三春ネギに追肥をする。来年のカレンダーを張る。要するに、年末の備えをする。それが目的。

無量庵があるのは、牛小川という小集落。家は10戸あるかないか、だ。1週間前の日曜日に放射線量の除染作業が行われた。連絡はきたのだが、東京に用事があって参加できなかった。区長さんに様子を聴きに行こうと県道を歩いていたら、その区長さんが後ろから車でやって来た。磐越東線牛小川踏切そばで話をする。「このへんでやったの?」「そう」

踏切を渡った先に掲示板がある。除染作業とは別に、市が行った牛小川の放射線量モニタリング結果が掲示されていた。住まいのあるところで毎時0.18マイクロシーベルト(地上10センチ)程度だった。わが無量庵の庭は0.35くらい。コンクリートと芝地の違いだろう。

無量庵で予定していたことをやると、もうヒマで仕方がない。少し昼寝をする。カミサンはその間も熱心に庭仕事を続けている。昼寝のあと、対岸の森へ出かけた。地上1メートルの空間線量を測る。やはり0.37くらい。森の中も、原っぱもそんなものだ。

いつも言っているのだが、いわきはハマ・マチ・ヤマの三層構造だ。今度の大震災では、ハマが大津波で壊滅的な被害を受けた。ヤマはどうか。マチに住む人間としては、気になるところだ。

川前の「山の食。川前屋」は冬の休業期間に入った。白菜を手に入れるために、そのまま道をさかのぼって田村郡小野町の直売所へ行った。途中、土砂崩れや路肩崩落、屋根のブルーシートなどを見た。ヤマはヤマで被災している。それをあらためて胸に刻む。

帰りは高速道を利用した=写真。磐越道の小野インターから常磐道の四倉インターまで飛ばした。一般公道だと帰宅まで1時間強かかるのが、40分ちょっとですんだ。料金はゼロ円だった。罹災証明も、運転免許証の提示もいらなかった。

帰宅前に、日曜日、いつもそうするように魚屋さんに寄って刺し身を買った。晩酌を始めたら、突然、カミサンが言った。「きょうは何の日?」。本人も忘れていたのに、ふと気づいたのだという。<きょうは日曜日だが>。カレンダーを見て、思わずカラ拍手をした。「誕生日おめでとう」なんていう年ではないし、そんなことをいう習慣もないので。

2011年12月18日日曜日

自分の長い影


間もなく冬至だ。朝6時ちょっと過ぎ、いつもより早めに散歩すると、東の空はうっすら赤みがかっているのだが、家並みにはまだ闇が残っている。夏井川の堤防に出るころ、やっと東の空が明るくなる。やがて朝日が海の方から現れて、光が水平に体を射抜く。自分の長い影ができる=写真

3・11直後のことを思い出す。さすがに早朝散歩は自粛した。いや、自粛したと思う。そのへんの記憶があいまいだ。3月15日の朝までは自宅にいた。息子一家が来た。15日午後には一緒にいわきから西へ、一時避難した。

日常を割と詳細にメモする方だが、そのメモに散歩の記述がない。しているのでわざわざ書かないのだが、「しなかった」とも書かない。それどころではなかったか。

そのころ、ハクチョウを見るために散歩し、車で堤防を行き来する――それが日常になっていた。すでに3・11の午後には、ハクチョウは姿を消していた。地震よりも、夏井川をさかのぼって来た津波に危険を感じて去ったのだと、あとでえさをやっていたMさんから聞いた。

3月23日に戻って来たあとも、散歩をする気にはなれなかった。車で堤防を行き来するだけだった。そんなときに、マスクをして散歩をする人がいた。<ああ、こういうときにも日課の散歩をする人がいるんだ>。そう感じた記憶がある。そのあと、私も散歩を再開したが。

先月下旬、県から「問診票」が届いた。まったく書きこむ気になれないでいる。いつどこで何をどうした? 記録と記憶をフル動員して記入しないといけないのは分かっているが、なにやかにやとやることがある。年内にはけりをつけたい――そう思いながら、ほったらしかしにしている。

早朝の自分の長い影も、冬至が来れば「一陽来復」でだんだん短くなる。農家はもちろん、家庭菜園をやっている人は分かると思うが、春に向かってそろりそろりと準備を始める――冬至にはそういう向日的なものが胸の中に宿るのだ。その気持ちを、今年は特に大事にしたい。

2011年12月17日土曜日

ハクチョウ問答


平塩地内の夏井川は河川拡幅工事が終了し、水辺の景観が一変した。灌木の茂る中洲が消え、河川敷の畑が姿を消して、岸辺は広々とした砂原になった。ここでハクチョウたちが羽を休めている。

去年までは中洲の下流が休み場だった。今は上流に移動し、新川との合流点付近で休んでいる。毎朝、ハクチョウにえさ(くず米やパンくず)を与えているMさんと堤防で出会う。軽トラを必ず止める。で、短くハクチョウ問答を繰り返す。

きのう(12月16日)は――。「いやー、200羽は越えたかな」「日中は数が少ないように思えるんですけど」「うん、高久の方に行ってるんだわ。ウヂ(自分の家)はあそこ(対岸)にあるんだけど、上を飛んでくとき、『コー、コー』っていうと、『コー、コー』って鳴くんだ。分がんのがな」

確かに、朝日を浴びながら太平洋の方へ向かって飛んで行くハクチョウ=写真=がいる。7羽、6羽といった小グループが多い。飛来数がピークに達しつつあるらしく、日中は各地に分散して過ごしているのだろう。夕方になると、平塩地内、字名で言うと「土手原」の夏井川へ戻ってくる。

ハクチョウのほかにマガモがいる。留鳥のカルガモがいる。カルガモはどのくらい被曝しているだろう。カラスは、ハクセキレイは、ヒヨドリは……。屋内退避もなし、えさの摂取制限もなしと、野生の生きものは放射線にさらされたままだ。Mさんとの話を受けて、転がり出した想念はいつかそこまで行ってしまう。

それで思うのは、文明は人間と自然に対して取り返しがつかないほど罪深いことをしてしまった、ということだ。哲学者の内山節さんは、それを「文明の敗北」と言っている。「孫が生きる時間」のためにそのへんのことをじっくり考えることにしたい。

ところで、けさの新聞は1面で首相の「原発事故収束」宣言を伝えている。はっきりしているのは、これは東京にとっての収束宣言だということ。東京にはこれ以上影響はありませんよ――それだけのことだ。「フクシマ」の人間は誰も原発事故が収束したなどとは思っていない。

2011年12月16日金曜日

新聞公正取引協議会


平にある楢葉町の作町応急仮設住宅を訪ねたときのことだ。集会所前の掲示板に「新聞購読申し込み」の案内チラシが張ってあった=写真。販売店ごとに勧誘すると混乱を招きかねないため、新聞公正取引協議会福島県支部が一括して申し込みを受け付けることになった――というのが内容だ。業界にとっては新ルールである。

チラシにはさらにこうあった。「津波被害や福島第一原発事故により、皆様の地元でご愛顧いただいております新聞販売店スタッフも避難生活を余儀なくされています。連絡が取れないなど、ご不便をお掛けしておりますが、ご理解下さいます様お願いいたします」。新聞を届ける側も同じ被災者。そのことを私は忘れないようにしよう。

新ルールは、阪神・淡路大震災に乗じて行われた過当販売競争の反省から生まれた、と言ってもいいのではないか。神戸新聞社編『神戸新聞の100日』(プレジデント社刊)によれば、あのとき、神戸新聞読者を狙い撃ちにした販売拡張が行われ、週刊誌などで取り上げられたことから、過当販売競争が社会問題化した。

このため、日本新聞協会は販売正常化を呼びかけると同時に、被災地域全域を「正常化モデル地区」に指定した、という。

仮設住宅の入居者は、ただでさえ心が穏やかではいられない。それは「普通の生活」ができなくなった、ということだ。

農を業とする人たちばかりでなく、農を暮らしの一部に取り込んでいる人たちがいる。「自産自消」の家庭菜園をイメージするといい。土と向き合って野菜をつくることができなくなった人たちの精神的な苦痛は深い。それが胸底に沈潜している。

そんな状態のところへ新聞勧誘員が入れば、ますます落ち着かなくなる。「一括申し込み」は仮設住宅の平穏を保つための大人の対応だったと、私は評価する。

被災直後は情報が入らず、避難所などに配られた新聞がむさぼり読まれた。が、購読となるとどうか。岩手県の事例では、仮設住宅での新聞購読は期待したほど伸びていない。経済的な問題も含めて「仮の生活」が新聞購読をためらわせているのだろうか。

私は、それだけではないと思う。新聞が被災者に寄り添い切れていないのだ。時の経過とともに変わるニーズがある。それを新聞記者は気づいているだろうか。もっと被災者一人ひとりに向き合え――そんなことを、最近の新聞紙面を通して考えたりする。

2011年12月15日木曜日

「光の鳥」が舞う


いわきの美術家吉田重信さんの「光の鳥」プロジェクトが、きょう、いわき駅前再開発ビル「ラトブ」2階の、被災者のための交流スペース「ぶらっと」でスタートする。きのう、その飾り付けが行われた=写真

夏に「いわきの農林水産業を応援しよう!がんばっぺいわきプロジェクト」の一環として、全世帯に3種類の絵はがきが配布された。その1種が吉田さんのデザインした「光の鳥」だった。「いわき市民のガンバル元気とありがとうからつながる未来へのメッセージ『光の鳥』を、皆で世界に飛ばしましょう!!」。そのときの吉田さんのメッセージである。

「光の鳥」は青い鳥と赤い鳥からなる。幼稚園や学校に絵はがきを持参し、子どもたちに自由に色やメッセージをかきこんでもらった。それらを回収し、展示したあとは郵便切手を張って投函する。自分あてでもかまわない。やがて知人や友人にメッセージをくわえた「光の鳥」が舞い込むという仕組みだ。

いわき市立美術館で開かれた「いま。つくりたいもの。つたえたいこと。」展でこの絵はがきを使った作品を見た。先日、東京で開かれた「Listen!いわき」にも「光の鳥」が展示された。が、展示するまでの過程がもっとも創造的な時間ではないのか――そう思って、「ぶらっと」に駆けつけた。一度彼の「創作過程」をのぞいてみたかったのだ。

吉田さんと「光の鳥」プロジェクト仲間2人のほか、「ぶらっと」のスタッフが休日返上で手伝った。絵はがきを壁に張る。あるいは天井からつるす。郵便切手を張る作業も並行して行われた。こちらを少し手伝った。きょうは1000枚余の「光の鳥」が「ぶらっと」の空間を飛びかっていることだろう。

「ぶらっと」を運営するのは「シャプラニール=市民による海外協力の会」。もともとバングラデシュとネパールで支援活動を展開している。その活動先の一つであるネパールからもおよそ50枚の「光の鳥」が届いた。福島県内のほか、東京などでも広くメッセージを募った結果、絵はがきは総計で4000枚に達したのではないか。

「ぶらっと」が最終展示になるという。21日までで、22日には投函される。ということは、「光の鳥」はクリスマスカードだったわけだ。

2011年12月14日水曜日

再会


「Listen!いわき」は、<いわきを「見る」><いわきを「聴く」>の二本立てで行われた。「見る」のなかの一つが、いわきの美術家吉田重信さんが展開している「光の鳥」プロジェクトの開催だった。12月9日から3日間、東京・新宿の「ラ・ケヤキ」に吉田さんのデザインした赤い鳥と青い鳥の絵はがきが展示された=写真

絵はがきには、福島の子どもたちが思い思いに描いた絵や言葉が添えられている。すべての展示会が終わったあと、「光の鳥」は郵便切手を張られてそれぞれのあて先に飛んで行く。「ラ・ケヤキ」でも新しい「光の鳥」に色や言葉が添えられた。これら東京の「光の鳥」はあす(12月15日)からいわきの交流スペース「ぶらっと」に展示される。

さて、<いわきを「聴く」>が始まるときの、驚き。受付スタッフから「吉田さんのお知り合いが見えられました」と告げられた。<ん? 誰だろう。誰にも知らせてないけど>。カミサンの親友だった。

カミサンを呼ぶ。カミサンが大声を発して再会を喜ぶ。電話やはがきではつながっていても、じかに会うのは約20年ぶり。私のブログを読んで、日曜日に「Listen!いわき」に参加することを知った。会場の「ラ・ケヤキ」をネットで検索して、わざわざ東京の西のマチから訪ねてきてくれたのだった。

3月の「原発震災」のあと、私のブログ(10日間ほど休止)の再開と合わせて、カミサンに電話がかかってきた。それが、大震災から半月近くたったとき。そして、今度の東京行だ。たまらず会いに来た。(私の方はこの秋、同級生が会津・東山温泉に集まって酒を飲んだ)

「Listen!いわき」にキャンセルがあった。なくても、飛び入りで話を聴いてもらわなくては――。カミサンには「Listen!いわき」が親友に「生声(なまごえ)」を伝える格好の機会になった。人と人とをつなぐ「光の鳥」が胸の中で飛びかった。

2011年12月13日火曜日

東京あたり


東京新宿区内藤町の「ラ・ケヤキ」という瀟洒な家=写真=で12月11日、ワークショップ「いわきを聴く」が開かれた。Listenいわき実行委員会が主催するイベントの一環で、カミサンと豊間の旧知の大工志賀秀範さんの3人で参加した。実行委の主体はシャプラニールのスタッフだ。

「ラ・ケヤキ」の外観は洋風だが、中は「和」に満ちていた。食堂のいすは、足の長い人には低すぎる。テーブルの脚が短い。

とにかく型破りな家である。そこでワークショップのほかに、9~11日にはいわきの美術家吉田重信さんが手がける「光の鳥」の展示、いわき民報社提供の被災写真展示、被災前のいわきの海岸線の空撮映像上映といった「いわきを見る」も行われた。

志賀さんの車で出かけた。「首都高」では「次、左折」「間もなく右折」などと、ナビを見ながらナビをやった。会場は新宿御苑の隣接地で、広い庭にケヤキの大木がそびえる、まさに邸宅だ。映画「男と女」の作曲家で主役を演じた仏人男性が日本人の奥さん、子どもと住んでいたという。今はイベントや撮影会場に利用されている。

前夜は「ラ・ケヤキ」に泊まった。2階が宿泊施設になっている。食事は出ない。普通はそれを「素泊まり」という。ワークショップのスタッフと街へ繰り出し、韓国料理を楽しんだあと、「ラ・ケヤキ」で二次会をやった。皆既月食が始まると庭へ出て天を仰いだ。ビルが林立する東京のど真ん中で天体ショーを見るとは思いもよらなかった。

イベント当日、散歩を兼ねて表通りのコンビニへみそ汁を買いに行った。よくよく見たら、一帯は高級住宅街らしかった。マンションの駐車場には国内外の高級車がずらりと並んでいた。ある家の表札には「四谷區内藤町壱番地」とあった。なんともすごいところに泊まったものだ。

ワークショップは午後1時半から5時まで行われた。集まった人は40人、スタッフを含めるとおよそ50人。大学教員、会社役員、コンサルタント、会社員、自営業、主婦、大学生、いわき出身者などさまざま。会場には被災者の声に耳を傾けようという気持ちが充満していた。その真剣さに圧倒された。

東京は、「首都高」でも一般公道でも車がせかせか先を急ぐ。道行く人も歩きが早い。なにより人が多い。その多さがあるからこそ、絶えずなにか「ハレの行事」が行われている。質の高いイベントも可能になる。そんな印象を持った。

にしても、ゆっくりした「いわきの時間」に身を置いている人間には、「東京の時間」はなかなか厄介だ。「邸宅」に泊まったせいでもあるが、すっかり「東京あたり」をしてしまった。

それを治す手は一つしかない。意識して「いわきの時間」に戻ることだ。早朝散歩をする。総合図書館へ行く。ついでに、被災者のための交流スペース「ぶらっと」に顔を出す。帰りには夏井川堤防へ出てハクチョウをウオッチングする。そうして夕方には「東京あたり」が治った。

2011年12月12日月曜日

早朝ラッシュ


旧国道から国道6号を横断して夏井川の堤防に出る。およそ40分の散歩コースだ。行きは常磐バイパス終点部交差点の横断歩道を渡り、帰りはわが家近くの歩道橋で6号をまたぐ。春から夏、秋、冬へと季節が巡るごとに、この国道の早朝の情景が変わってきた。

東電の福島第一原発は国道6号下り線の先、いわき市の北隣の双葉郡にある。原発事故の収束、大地震・大津波による災害支援、行方不明者捜索などのために、春から夏にかけては自衛隊の車両がひんぱんに行き来した。原発へ向かう大型バスも、何台も通った。

やがて自衛隊の車両が消え、大型バスが相変わらず行き来していると思っていたのが、秋が更けるにつれて変わってきた。この時間帯、バスの数が減ってマイカーが増えたのだ=写真

原発事故の収束作業に向かう車とは限らない。が、おおかたはそちらへ向かっているのではないか。そうでもないと、なぜ早朝、マイカーでラッシュ状態になるのかが説明できない。上り線の車も多い。なかには「災害支援車両」のステッカーをかかげたマイクロバスが交じる。作業員を送り届けた帰りだろう。

バスが減ったのにはわけがありそうだ。飲み屋街の田町に店を出している知人が「やっと田町は平穏になってきた」という。巷間言われるように、市街地にあった作業員の宿舎がより北へ移動したためではないか。「北のトリデ」へ行き来する車から、そんなことが類推される。

それはそれとして、作業員のみなさん、頼みますよ――祈りながら、きょうも横断歩道を渡る。

2011年12月10日土曜日

石油ストーブ配付


いわきで被災地支援活動を展開しているNGOの「シャプラニール=市民による海外協力の会」スタッフから声がかかった。津波被災者限定で石油ストーブを配るのだが、品物を手渡しするボランティアがいない――応援要請である。

楽天から提供された石油ストーブの一部、100個をシャプラが引き受けた。支援活動を共にしたことのあるパルシステム福島いわきセンター(常磐西郷町)に品物が届いた=写真。そこで、車でやって来た被災者に手渡すのだという。初日の12月9日、夫婦で手伝いに行った。

シャプラは3月中旬からいわきで支援活動を続けている。震災直後の救援物資配付にはじまり、①勿来、小名浜地区災害ボランティアセンターの運営支援②生活支援プロジェクトの実施③物資無料配付会の開催④被災者のための交流スペース「ぶらっと」の開設――と、被災者のニーズに合わせた事業を展開している。

生活支援プロジェクトは民間借り上げ住宅に入居した被災者に調理器具セットを配るというものだった。その際、ただ提供するだけでなく聴き取り調査も行った。そのときのデータに基づき、津波被災者に限定して電話で石油ストーブの必要の有無を聴いた。

豊間を中心に薄磯、久之浜に住んでいた人たちがやって来た。なにもかも津波に持っていかれたという人が少なくない。スタッフがそれとなく近況を聴く。南相馬市で被災したという人は「とにかく情報が入って来ない」。そういう人が多いようだ。「ありがとうございます」という言葉に、ハマで生活していた人たちの厳しい現実が重なる。胸が痛んだ。

さて、きょうも石油ストーブの配布が行われる。私ら夫婦は用事があって手伝えない。午前中、孫の保育園でお遊戯会が開かれる。先日、電話がかかってきた。「見に来てね」。孫が息せき切って話す。お遊戯会をのぞいたあとは、東京へ行く。一泊二日で「Listen!いわき」というイベントに参加するためだ。

きょう午後にはいわきの椿山荘で「小野一雄先生 平成23年度市政功労賞受賞を祝う会」が開かれる。いわき地域学會の敬愛する先輩の一人だ。東京へ向かう車中から盛会を祈ることにする。

2011年12月9日金曜日

正断層


おととしの秋、北欧3カ国を駆け足で巡った。とりわけノルウェーのフィヨルドには感動した。現地に住む日本人がガイドをしてくれた(もちろん有料)。フィヨルドがらみで今も忘れられないことが2つある。

海岸部に架かる橋の脚の細さが1つ。ノルウェーは地震が少ない。橋脚の耐震性をそんなに考慮しなくてもいいということだった。若い人は分からないかもしれないが、「ミニスカートの女王」といわれたツイッギーの足を思い浮かべた。

もう1つは、国土が毎年少しずつ隆起していること。分厚い氷河の重みで圧縮されていた大地が、氷河がなくなり、つまり重しが取れたことで、元に戻ろうとしているのだという。<ああ、せいせいした>といった感じで岩盤がふくらんでいるわけだ。

U字谷=写真=が隆起を続けているという、地質学的時間を想像してみる。ついでに、地球の地殻の動きに思いをはせてみる――なんてことは、去年まではなかった。

4月11日にいわき市で最大震度6弱の直下型地震が起きた。翌日も最大6弱の余震が発生した。いわき市南部にある塩ノ平断層(井戸沢断層の最も西側)と東隣の湯ノ岳断層がほぼ同時に動いたとされる。「正断層」地震だった。

3・11の地殻変動で東北地方の大地が海の方へずれこんだ。海側からの圧力がそがれただけでなく、海側へと引っ張られる力がはたらいて、4・11にいわきの2つの断層が動いた、ということになる。

相撲にたとえれば、力士ががっぷり四つにくんでいた(逆断層)のが、東の土俵のへりが一気に崩れたために、互いに一歩すさった状態(正断層)になった――というイメージか。

ノルウェーの大地の隆起を地質学的時間で想像するのと同じく、いわきの直下型地震を地質学的空間で想像すると、そのメカニズムがなんとなくわかってくる。いわきの東にある双葉断層が動いたら? 考えただけでこころが凍りつく。

2011年12月8日木曜日

北欧クロスステッチ


先月下旬、いわき駅前再開発ビル「ラトブ」2階にある被災者のための交流スペース「ぶらっと」で<聖夜の北欧クロスステッチ>教室が開かれた。男なのでよくはわからないが、緑色の糸をクロスさせながら針を進め、手のひらに入るようなモミの木をつくるデンマーク刺繍の一種で、小さな額縁に入れて飾る。

講師は須賀川市の女性だった。アンデルセンの住んだニューハウンを図案化した紙ナプキンがあった。デンマークを訪れたときの話をしたら、「私はまだ行ってないんですけどね」。ぐっと話の距離が縮まった。にしてもなぜ、須賀川から?

話は4月に開所した勿来地区災害ボランティアセンター(5月下旬に閉所)までさかのぼる。そこでボランティアをしていた女性と私のカミサンが顔見知りになった。刺繍教室が終わったところへ、私ら夫婦が顔を出した。勿来ボラセンで知り合った女性もやって来た。講師は勿来の女性の知り合いで、女性の口利きでクロスステッチ教室が実現した。

須賀川には姪の嫁いだ家がある。中華料理の「トン珍」という。その話をすると、「同じ町内会です。よく知ってます。うちはだんご屋です」。人の縁というのは不思議なものだ。災害ボランティア同士がつながり、それがまた別のつながりを生む。「ぶらっと」を介して、私の中ではいわきと須賀川が強く結ばれた。

原発事故が恐怖のピークを迎えた3月15日午後、とにかく白河市の方へ避難しようと決めて、国道49号から須賀川=写真=へ入り、国道4号を南下した。須賀川市街に入ると、震災の跡が生々しかった。「トン珍」が右手に見えた。見た目には被害はさほどでもないようだった。

そのことを思い出したので、講師の女性に聞いたら「うちは大規模半壊でした」。なんということだ。地震に関しては、浜通りより中通りの被害がひどかったのではないか。

2011年12月7日水曜日

お休み、糠床


やや硬めになったモチに包丁を入れて食べやすい大きさにする。モチはおよそ1キロずつナイロン袋に詰められてある。少し長方形だ。袋ごと長辺に沿って真ん中で2つに割り、次に長辺に対して直角に9~10回包丁を入れる。これで18~20個のモチ片ができる。

日曜日(12月4日)、カミサンの実家(米屋)でモチをつくった。マキ釡でモチ米をふかす「釜じい」をした。初日、モチはやわらかいまま。2日目、まだやわらかさの残るモチをお得意さんなどに配った。わが家の分もある。包丁を入れたら、まだやわらかすぎてモチがうまく切れない。包丁にねばりつく。

3日目、つまりきのう(12月6日)、朝からまな板に板状のモチをのせて包丁を入れた。ちょうどいい硬さになっていた。

モチを持参したが、留守の家がある。4日目以降では硬くなりすぎて切れないだろう。贈答用のモチにも包丁を入れた。それらを再ラッピングして届ければいい。結構な数になった。包丁の峰を押さえ続けたので、左手のひらにしばらく痛みが残った。今も指で押すと痛い。

厨房の仕事を始めたついでだ、モチを切ったあと糠床を冬眠させた。甕の糠床に食塩を5センチほどの厚さで敷き詰めた=写真。来年4月末までおよそ5カ月、家の片隅でお休み、である。

去年初めて、冬も白菜漬けと並行して糠漬けを続けた。3・11のあと、「原発難民」になったために10日ほど糠床の手入れができなかった。帰宅して糠床を見たら、表面が緑色のアオカビに覆われていた。アオカビは1ミリほどの層にとどまっていたので、胞子を飛ばさないよう慎重に5センチほど糠床をカットした。糠床は生き延びた。

そんな“事件”があったので、この冬は静かに眠らせることにした。漬物は白菜漬けで十分だ。つなぎの漬物は直売所から買えばいい。漬物にする白菜もそこで手に入れる。

2011年12月6日火曜日

信号復活


先週の土曜日(12月3日)、カミサンが小名浜へ行くというので、車で送り届けた。海岸寄りの県道小名浜四倉線を通ったら、平豊間の信号が復活していた=写真。沿線に鋼鉄製の電柱が立っている。沼ノ内のボンコボンコの道路も応急措置がなされたのか、少しデコボコが収まったような感じ。仮復旧といったところか。

きのうは内郷へ、その帰りに常陽銀行平支店へ寄った。平長橋の国道6号と駅前大通りの亜理茶ビル前の歩道でタイルを敷き詰め直す工事が行われていた。いわき駅前のペデストリアンデッキ下の歩道でも、工事が行われた。生活行動圏内だけでも修繕・修復が目に見えるかたちで行われるようになった。

同時に、古い家が解体されて更地になる例が散見される。わが中神谷でも「郷宿(ごうしゅく)」といわれる旧家が取り壊された。カミサンの実家(平・久保町)の隣の家も姿を消した。見慣れてきた街並みの景観が、櫛の歯が欠けるように壊れていく――それも復旧への一過程だが、幼いころから景観を記憶に刻んできた人間には、寂しいものがあるようだ。

身近な場所での修繕・修復が進めば進むほど、つまり世の中が前進しつつあるようにみえればみえるほど、まわりから「取り残されていく」と感じる人がこれから増えるのではないか。

「仮設住宅から一歩も外へ出ようとしない人がいる」。双葉郡の同じ町から避難して来た人が仲間を心配する。その状態が解消されるような支援、つまり心のケアを考える時期にきたような気がする。それが一つ。

もう一つ。ボランティアにも心的疲労が蓄積されつつあるのではないか。「取り残された」と感じる人にも、「取り残さない」と考えて活動している人にも、心のケアが必要になった。このごろ、そんな感じがする。

2011年12月5日月曜日

釜じい


今年もきのうの日曜日、カミサンの実家(米屋)へ行ってもちづくりの「釜じい」をやった。もちはお得意さんや親類に贈る早めの「歳暮」だ。冬特有の暴風が吹き荒れる中、私が関係するいわき地域学會は東京への巡検を実施し、夏井川渓谷の牛小川では放射線量の除染作業が行われた。(これは一種の追記=8日夜、連絡がきた、牛小川の作業は強風で1週間延期になった、と)。それを頭におきながらの「火の番」だ。

まき釡である。ドラム缶を半分に切って釜をかけ、その上に蒸籠を二段ないし三段に重ねる=写真。蒸籠のなかにはもち米が入っている。釜の水を沸騰させ、蒸気を蒸籠に通してもち米をふかす。いいあんばいになったもち米を電気もちつき器にかける。白もち、豆もち、のりもち、ごまもちをつくった。

廃材をかまどに突っ込みながら、つらつら思った。原発も原理は同じ。蒸気機関車もそう。要するに、蒸気を利用してなにごとかをするための「やかん」。産業革命の原動力となった蒸気機関を最大化・最強化(最恐化)したのが原発だったのではないか。去年までは持ち得ようもなかった発想だ。

哲学者内山節さんの『文明の災禍』(新潮新書)を読んだことが大きい。カバーの惹句。「産業革命以来、『発展』のため進歩させてきた末の技術が、いま暴走している。(略)私たちが暮らしたかったのは、システムをコントロールできない恐ろしい社会ではない。『新しい時代』は、二百年余り続いた歴史の敗北を認めることから始めることができるのである」

まき釜は私でもコントロールできる。絶えずまきを補給する。釜の水量を確認する。それでも、ヒヤッとすることが起きる。

釜の水が減って「空焚き」になりかけた。「メルトダウンだな」と私。「ほんとうに釜の底がとろけて落ちるところだった」と義弟。身の丈の技術であっても注意を怠ると痛い目に遭う。

2011年12月4日日曜日

自由への脱走


早朝7時前のことだ。散歩コースの夏井川堤防を下り、国道6号を渡ろうかというあたりで、前方から三本足の白い犬がやって来た。見覚えがある。近くの動物病院に飼われている何匹かのうちの一匹だ。

ワン公は横道に入ったかと思うと、また戻ってきては国道6号を四倉の方へ遠ざかって行った=写真。歩き方も、駆け方も四本足とそう変わらない。

このワン公には思い出がある。2年前の初夏、暑い日が続いたためか、顔とかかと、背中の一部をのぞいて、きれいに毛が刈られた。背中の毛はハート状に残され、かかとは白い長靴ないしは靴下をはいているようなあんばい。格好の被写体になった。(2009年5月29日付小欄「長靴をはいた犬」に写真があります)

その後、手術で左の後ろ足を切断したのだろう。三本足になってつながれていた。犬は犬なりの運命を受容して生きてきた。

動物病院に飼われている犬は、ある意味では幸せな境遇にある。飼い主が飼育を放棄したため、やむなく獣医さんが世話をしているのだと聞いた。その幸運を振り払って白いワン公は脱走した。自由の身になった。

が、長続きはしないぞ、腹が減ったら戻るしかないではないか――その思いが現実になった。

動物病院は夏井川の堤防のそばにある。車で街へ出かけた折、堤防からワン公の小屋を見た。ワン公が戻っていた。ほんのひとときの「自由への脱走」だった。

でも、でも、と二回も「でも」を言いたくなるほど感情移入が過ぎるかもしれないが、ワン公は十分に満ち足りたようなやさしい表情をしていた。

2011年12月3日土曜日

「ぶらっと通信」創刊号


いわき市で暮らす被災者のための情報紙「ぶらっと通信」創刊号=写真=が出た。いわき駅前再発ビル「ラトブ」2階に交流スペース「ぶらっと」を開設した、NPO法人シャプラニール=市民による海外協力の会が月1回のペースで発行する。これまでに創刊準備号、創刊準備第2号を出した。

交流スペースの活動報告(1面)、被災自治体の各種情報(2面)、子どもの遊び場情報、健康コラム(3面)、12月の交流スペースのスケジュール(4面)などが載る。A4判4ページで、利用者の声、被災者を支援する店の紹介コーナーもある。シャプラのスタッフと編集ボランティアが取材・執筆した。

先日、その発送準備作業が行われた。ボランティアのほかに「ぶらっと」利用者も加わり、封筒へのあて名ラベル張り作業が短時間で終わった。主に民間借り上げ住宅で暮らす被災者約1200人に郵送された。ほかに、施設や店舗などに置いてもらう分を手分けして配布する。

カミサンが久之浜の「あみ屋」へ届けるというので車を出した。ちょうどお昼の時間。ボリューム満点のてんぷら定食が頭にちらついたが、火曜「定休日」だった。裏に回って奥さんに「ぶらっと通信」を渡したという。そのまま久之浜一小校庭の一角にある「浜風商店街」へ直行してラーメンを食べた。

帰ったら、次は平作町にできた楢葉町の応急仮設住宅だという。集会所に「ぶらっと通信」を置いてもらう。新聞販売店に新聞を届ける輸送車の運転手といった趣である。

きょうは夕方、交流スペース「ぶらっと」で編集ミーティングがある。顔を出すつもりでいる。

2011年12月2日金曜日

除染作業完了


わが中神谷南区内で日曜日(11月27日)、除染作業が行われた。区の役員と子供を守る会の役員、住民など40人近くが参加した。通学路を高圧洗浄機で除染し=写真、県営住宅集会所・公園周辺の清掃を行った。集会所・公園周辺では前日、業者に委託して剪定・草刈りを実施した。その片付けが主な作業になった。

翌日には、保健委員(私)が事後の線量調査をした。併せて、区長さんの協力を得ながら、マニュアルにしたがって「補助事業完了届」「補助金等実績報告書」「生活空間環境改善事業実施報告書」「生活空間環境改善事業作業報告書」をつくった。基本的には数字を記入するだけだが、計算にうとい人間にはそれがスイスイとはいかない。

二日くらいかけて書類をととのえ、きのう(12月1日)、市役所に提出して全作業を終えた。訂正を指摘されたところがある。2カ所、二本線を引き、数字を書き直した。やはり、事務は苦手だ、である。住民には同じ日、事後調査と10月に行った事前調査の数値を回覧した。

区の新米保健委員として8月に平地区の総会に出席し、県が補助する「線量低減化支援事業」の説明を聴いて以来、4カ月弱。長い取り組みに一区切りがついた。

「傍観者」の記者から「当事者」の市民になって学んだことは、当たり前のことながら住民の考えは一つではない、ということだ。作業中にごみを一カ所に集めすぎるという苦情が出た。自然災害と異なる放射能被害の、底なしの恐ろしさ。その場所を一時立ち入らないようにし、翌日朝、区長さんが役所に電話を入れて、即日、ごみを撤去してもらった。

朝、子どもが集団登校をするための集合場所へ向かうのに、ごみの集積場所のそばを通る。どうしてくれるのだ――保護者の苦情はもっともだ。すぐ撤去するよう役所に連絡する、それまで自衛してほしい、という以外に「解」はなかった。

その延長で思うのだが――。高圧洗浄・剪定・草刈り・コケ除去でそれなりの効果はあった。が、薄く散らばっていたのを集めてしまったり、かたまっていたのを散らしたりしたのではないか、という疑問がぬぐいきれない。

なによりかにより洗浄に使った水は側溝を伝って川へ流れ、やがて海へ至る。「除染」とは言いながら、放射性物質を「移動」させたにすぎないのだ。下流の人間と自然に対してすまない思いを抱きながらの作業となった。

2011年12月1日木曜日

白鳥おじさん


平・塩地内で行われていた夏井川の河川拡幅工事が終わった。中洲が消え、ヤブや畑が消えて、見晴らしのいい空間が広がる。昼は主にここでハクチョウやカモたちが羽を休めている。

そのハクチョウたちに毎朝、「白鳥おじさん」ことMさんがえさをやる。自宅は対岸の山崎。奥さん同伴で軽トラでやって来る。

朝7時前、私が夏井川の堤防天端を歩いていると、向こうからえさやりを終えたMさんが戻って来る。すれ違う段になって軽トラを止め、Mさんが“報告”する。「まだ落ち着かない」「呼ぶと寄って来るんだ」「100羽ぐらいかな」「多くなってきた」。短いフレーズながら、ハクチョウたちの様子がよくわかる。

Mさんがハクチョウにえさをやるようになってから10年はたつのではないか。途中からは、翼をけがして飛べなくなったコハクチョウのために、毎日、えさやりに通った。1羽の残留コハクチョウが2羽になり、やがて3羽になって、3羽とも何かに襲われて姿を消すと、また冬場だけのえさやりに戻った。

鳥インフルエンザが取りざたされ、市役所から「ハクチョウにえさをやらないで」と言われたことがある。Mさんは怒った。残留コハクには名前が付けられていた。「左助」「左吉」「左七」。「左助」らに手のひらを返すようなことはできないと、「いのちがけ」でえさやりを続行した。

きのう(11月30日)、用を済ませた帰り、夏井川の堤防に出て、新川との合流地点で休んでいるハクチョウたちをウオッチングした。北からやって来たマガモも、留鳥のカルガモも交じっている。

と、カルガモが悲鳴を上げた。コハクチョウがカルガモの尾羽をくわえて水に引き込もうとしている=写真。カルガモはたたまらず羽をばたつかせ、逃げようとするのだが、コハクは簡単には放さない。気性の荒い個体らしい。そばにいる仲間もつついて追い払おうとする。

これだけ寄り集まっていると、ストレスをためる個体もでてくる。毎日見ているMさんには、どれが荒々しくてどれがやさしいのか、よくわかるのではないか。