2011年12月5日月曜日

釜じい


今年もきのうの日曜日、カミサンの実家(米屋)へ行ってもちづくりの「釜じい」をやった。もちはお得意さんや親類に贈る早めの「歳暮」だ。冬特有の暴風が吹き荒れる中、私が関係するいわき地域学會は東京への巡検を実施し、夏井川渓谷の牛小川では放射線量の除染作業が行われた。(これは一種の追記=8日夜、連絡がきた、牛小川の作業は強風で1週間延期になった、と)。それを頭におきながらの「火の番」だ。

まき釡である。ドラム缶を半分に切って釜をかけ、その上に蒸籠を二段ないし三段に重ねる=写真。蒸籠のなかにはもち米が入っている。釜の水を沸騰させ、蒸気を蒸籠に通してもち米をふかす。いいあんばいになったもち米を電気もちつき器にかける。白もち、豆もち、のりもち、ごまもちをつくった。

廃材をかまどに突っ込みながら、つらつら思った。原発も原理は同じ。蒸気機関車もそう。要するに、蒸気を利用してなにごとかをするための「やかん」。産業革命の原動力となった蒸気機関を最大化・最強化(最恐化)したのが原発だったのではないか。去年までは持ち得ようもなかった発想だ。

哲学者内山節さんの『文明の災禍』(新潮新書)を読んだことが大きい。カバーの惹句。「産業革命以来、『発展』のため進歩させてきた末の技術が、いま暴走している。(略)私たちが暮らしたかったのは、システムをコントロールできない恐ろしい社会ではない。『新しい時代』は、二百年余り続いた歴史の敗北を認めることから始めることができるのである」

まき釜は私でもコントロールできる。絶えずまきを補給する。釜の水量を確認する。それでも、ヒヤッとすることが起きる。

釜の水が減って「空焚き」になりかけた。「メルトダウンだな」と私。「ほんとうに釜の底がとろけて落ちるところだった」と義弟。身の丈の技術であっても注意を怠ると痛い目に遭う。

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