2012年1月31日火曜日

立ち木剪定


日曜日(1月29日)に夏井川渓谷の無量庵へ出かけた。午後2時前には帰宅しなければならない。区内会の役員の新年会が近くの中華料理店で開かれる。お昼までのわずかな時間、堆肥枠に生ごみを埋め、雨戸を開けて空気を入れ替えるだけのあわただしい滞留となった。

平地には、雪はなかった。溪谷へと駆け上がる地獄坂の手前、スポット的に存在する杉林が日陰をつくっている。うっすら雪が残るが、タイヤが滑るほどではない。地獄坂を越えると、道路が白くなっていた。

アスファルトが見えるから積もっているわけではない。吹っかけた雪が、気温が上がらずにそのまま融けないでいる――そんなあんばいだ。

溪谷のど真ん中はすっかり木々が葉を落として林床にまで初春の陽光が降り注いでいる。道路はあらかた乾いている。そこが、地獄坂の近辺とは違う。地形が北向きか、南向きかの違いだろう。ノーマルタイヤで行き来できるのも、しかし無量庵のある牛小川あたりまでではないか。

その先、川前は川沿いのほかに、いちだん高くなった山中に集落がある。そちらは銀世界のはずだ。ノーマルタイヤでは道交法違反になる。その道を利用してふるさとの田村市常葉町へ行くのは、ほんとうの春まで断念するしかない。

いわきはこの時期、春(平地)と冬(山地)とが同居している。その中間にあるのが、南の鮫川、北の夏井川などの渓谷だ。雪の有無・程度からそれがわかる。

さて、無量庵へ出かけたのは家と道路との境にある立ち木がどの程度剪定されたかを見るためでもあった。モミやカエデ、梅、桑の木が育って枝葉が電線に引っかかるようになった。ついては剪定の許可を――。先日、電力会社から作業を受託した事業所の担当者が、わが家に来て説明した。

立ち木が生育しすぎて“いがかり”になっている(屋根にかかっている)ので、「ばっさりやってもらって結構です、切りすぎても文句は言いません」と、承諾書に喜んでサインした。

確かに、ばっさりやってくれた=写真。せいせいした。春のアカヤシオ、秋の紅葉と、列車からの眺めも少しはよくなるだろう。なによりも放射線量が減る。

2012年1月30日月曜日

昔野菜


昨年秋にいわき市川前町のブドウ園で「フジミノリ」を買った。屋根に覆われているから放射能は検出されない。半分を冷凍庫に入れておいた。正月三が日に食べようという魂胆だ。忘れていて、中旬になってから口にした。

冷凍ブドウ=写真=は皮がつるりとむける。果肉はシャーベット状。ひんやりして甘い。「種なし」がみそだ。

川前出身の人が大阪でブドウを栽培し成功した。ふるさとへの恩返しを兼ねて川前にブドウ園をつくった。そのブドウだ。新しい「地産地消」である。

昔からの「地産地消」もある。伝統野菜(在来作物)といわれるものだが、これは個々の家庭で自家採種(あるいは株分け)をし、栽培し、消費をする「自産自消」が大半だろう。いわき市は一昨年、初めて伝統野菜の調査をし、その成果を昨年、『いわき昔野菜図譜』にまとめた。21種の「昔野菜」が紹介されている。

昨年1月下旬に「いわき昔野菜フェスティバル」が開かれた。今年も先日、同じ会場(中央台公民館)で2回目のフェスティバルが開かれた。

3・11で大打撃を受けた農林水産業だが、昔野菜はかろうじて生き延びた。事業2年目。種・株を確保し、栽培・消費を拡大するための施策が行われたからだ。

たとえば、ワサビダイコン。川内村に近い川前町で栽培されている。いわき市内で唯一、高い放射線量が検出された。「自産自消」から「地産地消」へ――という流れのなかで市が事業を展開したために株が残った。結果的に保存のバックアップができた。

昨年のフェスティバルは、とにかく味わってください――だった。今年は種をさしあげます――である。

昨年食べたものはなんだったろう。自分のブログで確かめた。試食に供されたのは、おかごぼう(まぜごはん)・白じゅうねん(ぼたもち)・むすめきたか(小豆=おはぎ)・昔きゅうり(どぶ漬け)・千住一本ねぎ合柄(いわき一本太ねぎ=焼きねぎ)など14品。そのうち9品を口にした。

『いわき昔野菜図譜』に前文を書いたこともあって、今年も昼、生産者と直売所のスタッフが持ち寄ったおかずのお相伴にあずかった。大久・日曜市のおこわ、三和町の昔きゅうりのどぶ漬け、その他。たまたま隣にはメーンの講演会講師、江頭宏昌山形大准教授がいた。学者・生産者と話をしながら食べるという、しあわせな時間をすごすことができた。

2012年1月29日日曜日

気流を読む


いわきフォーラム’90の第359回ミニミニリレー講演会「かもめの視線――いわき沿岸津波被害の記録」が1月26日、いわき市文化センターで開かれた。講師は空撮家の酒井英治さん。塩屋埼灯台の再点灯にからめてその話を27日に紹介した。

酒井さんが3・11前と後に空撮したいわきの沿岸の映像を見ながら、気分はすっかりカモメのジョナサンになっていた。「山飛び」と言われる、上昇気流を利用したパラグライダーの話ではトビの気持ちになった。

パラグライダーがなぜ空を舞えるのか。トビと同じく上昇気流を利用するからだという。上昇気流にのってらせん状に高く舞い上がり、降下が始まると次の上昇気流を見つけてまた、らせん状に舞い上がる。ベテランは、見えないけれどもそこにある上昇気流を次々につかんで、長く飛び続ける。初心者はそれができないからすぐぽしゃる。

酒井さんはパラグライダーから入って、今はモーターパラグライダーを操る。気流を読む――とにかくそれが最も大切なことらしい。

ぽっかり雲が浮かんでいるとする=写真。それは上昇気流のなれの果てだ。雲の下に上昇気流がある。山にぶつかった気流は山の三倍の高さまで上昇して下降する。危険だ。そんな視点で雲を、気流を考えたことがあったろうか。雲底は平ら、といったことも含めて、想像力が刺激された。

美しかったいわきの海、津波で壊滅的な被害を受けた浜、更地と化したその後の浜……。カモメやトビでさえ眼下の風景の激変を悲しみ、嘆いたことだろう。忘れてはならないいわきの海の「原風景」を、ちゃんとした映像として残してくれた。貴重なことだ、ですますレベルではない。それ以上に大切ないわきの財産(記録)になった。

そして、もう一つ忘れてはならないこと。いわきの北端・久之浜の一部は福島第一原発から30キロ圏内に入る。久之浜の上空から見ると、事故の起きた原発はすぐそこにある。「危機感を持ってほしい」。鳥の目が見た空からの警告である。

2012年1月28日土曜日

空の目


10代後半に、「青空のへそ」がどこかにあるはずだ、そんな妄想にとらわれたことがある。青空のどこか、夜空なら北極星のようなもの、肉眼では見えないけれども「へそ」を示すなにかがあるはず――たぶん、地球を包む大気圏を風船、いや子宮にみたてて、外側の母体(宇宙)と内側の胎児(地球)の結びつきを考えていたのかもしれない。

いわきの夏井川でハクチョウたちが越冬する場所は、大きく三つ。飛来した歴史でいえば、平・中平窪、同・塩~中神谷、小川・三島。このごろ、塩の夏井川にやって来たハクチョウやカモ類の動きが活発だ。

早朝、堤防を散歩していると、ハクチョウが数羽、頭上を通過して海の方へ向かう。カモたちがワラワラ飛んできて着水する。撮った写真をパソコンに取り込んでチェックしたら、
遠ざかるオナガガモの後ろ姿が「こけしの目」に見えた=写真。それがいくつも宙に浮かんでいる。「青空のへそ」ならぬ「空の目」だ。

カメラのいたずらでも、そういうふうに見えるところが面白い。消去するわけにはいかない。

塩~中神谷のハクチョウは朝、1月前半までは塩だけだったのが、下流の中神谷でも羽を休めるようになった。ハクチョウとつかず離れずのカモたちも群れをなして飛び交っている。日中もそうかどうかはわからない。が、早朝は壮観だ。

ハクチョウにえさをやっているMさんとの、堤防上での会話。「(ハクチョウが)増えてきた」「小川の三島も(1月18日昼前に)400羽くらいいましたよ」「平窪は田んぼにいるようだ」「冬水田んぼですね」

きのう(1月27日)の朝は台所の水道管が半分凍結した。この冬一番の冷え込みだった。午後には風が強まった。会津と中通りは雪。今朝は、水道管は大丈夫だった。

極寒期に入った。日本の北にとどまっていた冬鳥たちがたまらず南下してきた。それで夏井川でもハクチョウやカモたちの数が増えたのだろう。「空の目」の次にはどんな絵をみせてくれるのか。いよいよカメラが手放せない

2012年1月27日金曜日

豊間の灯台


ら・ら・ミュウ(小名浜)や鹿島ブックセンターからの帰りは、たいがい海岸部の道路を利用する。県道小名浜四倉線と江名常磐線が交差するT字路の先、合磯(かっつぉ)トンネルを抜けるとはるか前方に豊間の海が見えてくる。3・11前は家もあり、地盤ももっと高かったから、見える領域は小さかった。今は水平線が長く、高くなった感じがする。

合磯の坂を下ると兎渡路(とどろ)。大津波の直撃を受けた一角だ。道路から海側がほぼ更地になったため、断崖の上に立つ塩屋埼灯台が丸ごと見える=写真

灯台を管轄する福島海保のHPによれば、灯台の高さはざっと27メートル、海面からの高さは約77メートルだから、ほぼ50メートルの高さの断崖の上に「白い一本指」が立っていることになる。新聞は、大地震でガラスが全壊するなどの被害に遭い、応急的にLED灯器で小さな光を届けていたのが、昨年11月30日夕に復旧したことを伝える。

「白い一本指」の比喩は、山村暮鳥の「岬に立てる一本の指」からの連想。大正初期、磐城平で過ごした詩人がこの灯台をそう見立てたという。ところが、灯台を紹介する海保の文章を読んで少し疑問がわいた。

塩屋埼灯台が点灯したのは明治32(1899)年12月15日。円形のレンガ造りで、昭和3年の写真には「一本指」の真ん中に「黒いバンドエイド」が張ってある。下から色が白・黒・白、だ。この外観から、はたして暮鳥は美的、いや詩的インスピレーションを受けただろうか、わからない――そういう思いがわいてきた

「岬に立てる一本の指」は白一色がいい。と考えると、この詩句のモデルは必ずしも「豊間の灯台」でなくていい。

初代の灯台は昭和13(1938)年11月5日に発生した福島県北方沖を震源とする地震で大破し、爆薬を使って解体された。鉄筋コンクリート造りの2代目は1年半後に完成したが、終戦間際の昭和20年6月5日、爆撃機によりレンズが大破、8月10日には艦載機の攻撃を受けて職員一人が殉職した。完全復旧は昭和22年5月5日だったという。

そして、3・11からの復活。いわきの空撮家酒井英治さんが12月7日宵、点灯を待って旋回しながら撮影した灯台の光に神々しいものを感じた。宵闇の迫る灯台から発せれた一筋の光を上空からとらえた、初めてのカメラアングル。素直に心が打たれた。

きのう(1月26日)の夜、その酒井さんを講師に市文化センターでミニミニリレー講演会が開かれた。演題は「かもめの視線――いわき沿岸津波被害の記録」。通常は聴講者が10人いるかどうか。空撮動画に引かれたか、50人前後が詰めかける盛況ぶりだった。

酒井さんは、もとの光に戻った塩屋埼灯台の撮影秘話も語った。点灯復活の11月30日は風速10メートルで、モーターパラグライダーを飛ばせなかった。それで、12月7日に延期された。講演全体の感想はいずれ整理して紹介したい。

2012年1月26日木曜日

救急車


いわき市南部、もしくは北茨城市へ行くときには国道6号常磐バイパスを利用する。常磐バイパスは全長28キロ。起点が勿来町四沢、終点がわが家の近くの平下神谷で、バイパスを利用すれば一気に目的地へ近づくことができる。

平面交差点は、小名浜と勿来地区に合わせて5カ所くらいか。そこでは信号が待っているが、あとは立体交差なので車の流れはスムーズだ。スムーズすぎて高速道路を走っているような錯覚に襲われる。車の流れに従うと、そうなる。

日曜日(1月22日)、北茨城の茨城県天心記念五浦美術館へ出かけた。帰路もバイパスを利用した。時折、雨がぱらつく中、救急車が後ろから迫って来た。さっと道を譲って救急車のあとにつく=写真(撮影したのは助手席のカミサン)。車の数が多く、流れも速いから、救急車と同じ速度で進んだ。

赤色の警光灯が点滅し、「ピーポー、ピーポー」の電子サイレンを鳴らしながら、段差のあるところではブレーキを踏み、平面交差点ではもちろんスピードを落としてそろりそろり通過する。こちらも青信号だったのでつかず離れず走行する。

一般国道では普通車両を追い越してあっというまに遠ざかる。それで、救急車は速いというイメージがあったが、「準高速」ではみんなが速い、救急車も並みの速度だ。道路状況に応じて慎重に運転している。病人やけが人を乗せて走るのだから、むやみに飛ばせるわけがない。

救急車はこのあと国道49号平バイパスに入り、内郷と平を結ぶ市道内郷駅平線に下りて内郷方面へ左折した。近くの磐城共立病院か福島労災病院へ向かったのだろう。こちらは逆方向、平方面へ右折する。緊急車両といってもパトカーとは違う走りが「追っかけ」をしてわかった。

パトカーも通常の巡邏中はゆっくり走っている。きのう(1月25日)夜の新年会の帰り、乗ったタクシーがパトカーを追い越した。パトカーは追い越してもいいのだ。

2012年1月25日水曜日

萩原朔太郎展


草野心平記念文学館で1月21日、萩原朔太郎展が始まった(3月18日まで)。翌日曜日に、朔太郎の孫の映像作家・多摩美大教授萩原朔美さんが講演するというので、出かけた。萩原さんは小説家萩原葉子の子でもある。「祖母と母から聞いたこと」と題して話した。

祖父は詩人、母は小説家。そういう血系のなかでエッセーを書いている。が、母葉子は詩・小説・評論は認めても、エッセーは「雑文」だとして認めなかった。そのあたりのやりとりがおかしかった。

「66歳になっても自分の仕事が見つからない。エッセーしか書けない。なんにもしないで死ぬのか」。文章表現についてのコンプレックスを語り、小説に挑戦する気概を吐露した。

20歳になるかならぬころ、仲間と語り合ったことの一つに次のような文学の“格付け”がある。一番ランクが上なのは創造(詩や小説を書くこと)、次が分析(評論すること)、3番目は伝達(教えること)。エッセーは範疇外だった。文章表現としては当然のことながら、創造的な営みが尊重される。その気持ちは今も変わらない。

母葉子が朔太郎と三好達治について「世紀の出会い」と書いたら、達治からこっぴどくしかられたという話も面白かった。空疎で、手あかにまみれた言葉だったからだろう。

その延長で「山々」とか「花々」とかも使ってはいけない。「富士山」や「ヒマワリ」といったように固有名詞を使え――という話は、よくわかる。できないから悩み、調べる。いわき総合図書館が自分の書斎であり、本棚であるのはそのためだ。

「鳥が飛んでいる」ではなく、なんという鳥が飛んでいるのか。「花が咲いている」ではなく、なんという花が咲いているのか。文章は個別・具体であれ――言葉に対する厳密な態度はしかし、こういう「雑文」にも言えることだ。

萩原さんは若いころ、寺山修司の主宰する「天井桟敷」で演出家をつとめた。講演の冒頭、朔太郎展についての文学館の“演出”について触れた。

文学館に入るとすぐ右手、アクリルの窓というか壁というか、透明な仕切り越しに中庭が見える。真ん中に岩と竹が配されている。そのアクリルパネルに朔太郎の9行の詩「竹」が張られた=写真。「ますぐなるもの生え/するどき青きもの地面に生え、/凍れる冬をつらぬきて、/……」。朔太郎と心平の詩の比較も含め、学芸員の発想のよさをほめた。

前も同じような張り出しがあったが、なんの展覧会だったか忘れた。ただニクイ演出だと思った記憶がある。カネのない文学館はチエを出すしかない。

2012年1月24日火曜日

帰還


双葉郡富岡町の知的障がい者施設の入所者と職員が、先日、避難先の千葉県鴨川市からいわき市の県いわき海浜自然の家に移ってきた。

施設に子どもを入所させている親御さんが、わが家(米屋)へ来てカミサンに言った。「帰って来るので迎えに行くんだ」。この人とは顔を合わせればあいさつをし、話もする。区内会の役員になって、そういう関係ができた。区の行事にも率先して協力してくれる。

地元紙に帰って来た記事は載ったのだろうか。寡聞にして知らない。ネットで検索したら、帰還したニュースはなくて、「避難生活の福祉施設利用者176人 第2陣が福島に帰郷 鴨川」という「房日新聞」の記事が目に留まった。「房日新聞」は房総半島南部をエリアにする地域紙だ。館山市に本社、鴨川市に支局がある。

「東日本大震災と原発事故に伴い、鴨川市の県立鴨川青年の家に避難していた福島県福祉事業協会に所属する知的障害者3施設の利用者と職員合わせて176人が福島県へ戻ることになり、18日に同所でお別れ会が開かれた」

どこへ戻るのか。「地元への帰還第2陣として、11月23日の2施設95人に続き、東洋学園児童部、同成人部、東洋育成園の3施設、利用者131人、職員45人が、仮設施設ができるまでの間、福島県いわき海浜自然の家で、避難生活をすることになった」

県いわき海浜自然の家=写真=は、いわき市教育文化事業団が指定管理者だ。昨年4月から管理・運営を受託する予定だったのが、3・11の影響で11月にずれ込んだ。季節外れの秋に、旧知の事業団職員数人が自然の家へ異動した。HPには176人を受け入れたような情報はアップされていない。

鴨川に避難直後、入所児童が一人、海で溺死する事故が起きた。遠く離れた鴨川よりいわきの方が保護者にとっては安心だろう。帰還の報に接すれば、市民も「お帰りなさい」と向き合えるのだが、メディアは情報をつかめなかったか。

それはさておき、鴨川の亀田総合病院の骨折りで福島県内の施設利用者の避難が実現したようである。いわきの、ある特別養護老人施設も同病院のはからいで一時、鴨川へ集団避難をした。医療・福祉ネットワークのなかで同病院の存在が“灯台”になった。震災からしばらくして、いわきの医療・福祉畑に身を置いている知人の話でわかった。

近所の人のつぶやきをきっかけに、福島県民として、いわき市民として鴨川には足を向けて寝られない――そんな思いになっている。
  
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きのう(1月23日)夜、またドドドときた。ネコがびっくりして走り出した。震度はいわきで4、川内で5弱。

震源地は福島県沖なのに、海岸部のいわき市を通り越して阿武隈高地の川内村でなぜ5弱なのか。内陸の湯ノ岳断層その他の動きと関連づけて考えてしまう。家が少しずつ緩んできているのではないか――という実感の延長として、原発もまた余震に損傷度合いがひどくなっているのではないか、という不安がある。心は穏やかではいられない。

2012年1月23日月曜日

北茨城からの海景


カミサンが北茨城市の茨城県天心記念五浦美術館へ行きたいという。「遠き道展――伝統からの飛躍 日本画のゆくえ」が開かれている。気分転換なのだろう。ここは言うことを聞いておかないと。

日曜日(1月22日)。山はうっすら冠雪していた。平地は雨あがりのような、まだ降り足りないような。一日、空は鉛色の雲に覆われ、時折、雨が車のウインドーを濡らした。

美術館に入る。エントランスロビーから常設展示の岡倉天心記念室を過ぎて企画展示室に向かう途中、ガラス張りの通路越しに勿来の海が見えた。一番右側に張り出しているのは小名浜の三崎か、その北にある塩屋埼灯台の豊間か。霧のような雲が稜線と平地の間にたなびいていた=写真

常磐共同火力勿来発電所に向かって海岸が湾曲している。小名浜、豊間はその右奥、断崖が海に屹立している。この陸地に向かって大津波が押しよせたのか――急に胸底からわき上がるものがあった。鳥の目で見る怖さだ。

美術館のある北茨城市そのものが大津波に襲われた。美術館の近く、崖下の六角堂は津波で流失した。隣接するいわきは、南部だけでも錦須賀が津波に襲われ、火発が襲われ、その先の岩間、小浜が壊滅的な被害を受けた。火発は昨年末、やっと震災前の供給体制に戻った。

美術館は崖の上にあるから津波被害には遭わなかったが、大地震でダメージを受けた。津波が崖にぶち当たったときにはものすごい音がしたと、誰かが言っていた。昨年11月1日に再開した。3・11以来、およそ8カ月ぶり。私たちが足を運んだのは……、調べたらおととしの12月以来だった。

2012年1月22日日曜日

新基準


夏井川渓谷に住む知人がひょっこり顔を見せた。「待ち合わせの時間までちょっとあるから」という。街で事業所を営んでおり、わが家の近くに用事があってやって来た。髪の毛は白いけれども突っ立っている。オニグルミの葉痕=写真=を連想させる(というのは言いすぎだが)。

知人の家は字牛小川の隣の小集落にある。森の中の一軒家である。休日にわれら夫婦が無量庵にいると、夫妻でたまに現れる。「最近、(無量庵に)来てないね。いつ行ってもいないものね」。このごろは日曜日に行けず、行っても平日、しかも行く間隔がのびている。一昨年あたりからそんな傾向にあったが、3・11後はそれが顕著になった。

溪谷の放射線量に話が及んだ。知人の家のウッドデッキは能舞台になるくらい広い。飲料水は井戸水。ウッドデッキを直すという。古くなったのと放射性物質が付着しているのが理由だ。

口に入るものは? 小名浜に開設された放射能市民測定室でいろいろ測ったらしい。柑橘類とキノコの数値が高いそうだ。ナメコは1キロ当たり500ベクレルを超える。井戸水は17ベクレル。「新基準では飲めない」という。

年末、厚生労働省の審議会で食品に含まれる放射性物質の新基準が了承された。4月から適用される。①一般食品は1キロ当たり500ベクレルから100ベクレルに②飲料水は200ベクレルから10ベクレルに③乳児用食品は50ベクレルに――といった具合。

知人は自前で井戸を掘った。無量庵の飲料水は隣の東北電力社宅跡の井戸から引水して利用している。洗面台の水道管が凍結・破損したため、ポンプの電源をオフにした。春に修理するまで水は飲めない。水道管がなおったら一度、水を測定にかけてみようと思う。「アレクセイの泉」であってほしいが、そううまくいくかどうか。

広大な森の木々の枝葉に放射性物質が付着し、それが雨とともに落下し、地上にたまり、あるいは地中に浸透して地下水に影響を与えるようになった。浪江の砕石ではないが、どこになにがあってどうなるか、それがわからないのだ。知人は自宅そばの竹林の伐採を決めた。

2012年1月21日土曜日

ネギすき焼き


先日、NHKの「あさイチ」でネギが主役の料理を特集した。ネギのかき揚げ、グラタン、ラッキョウ酢漬け・しょうゆ漬け・梅酢漬け、そして埼玉・深谷の「煮ぼうとう」……。ネギ料理のオンパレードだ。

ネギを甘くする裏技も知った。料理の前にネギをたたく。新聞紙にネギを包んでレジ袋に入れ、冷蔵庫のチルド室に3日ほど置く。すると、ネギが甘くなる。

今、いわきの平地の畑にあるネギは寒くてかじかんで、凍るまいとして内部に糖分をためこんでいるはずだ。冷蔵庫に入れる必要はない。といっても、F1品種のネギではなく、在来作物のネギの話。私のネギの師匠がつくっている千住系の「いわき一本太ネギ」のことだ。

夏井川渓谷の牛小川には中通りから入った「三春ネギ」がある。冬場はとらずに寝かせておくので、スーパーで「阿久津曲がりネギ」その他を買って食べる。

「あさイチ」ではまた、北大路魯山人好みの「ネギすき焼き」というものをやった。次の日の晩、試してみた。が、曲がりネギを使ったためにネギが立たない。すぐ倒れる。

旬日後、同じスーパーから曲がりネギと埼玉の一本ネギを買った。まっすぐのネギを立てよう――。カミサンはしかし、私のイメージより長く、しかもやや斜めに切った。これでは立ちにくい=写真。文句を言うと「自分で鍋奉行をやったら」。

それはさておき、カミサンは「山盛りネギもち」というのを覚えて、きのう(1月20日)を含めて昼食にもう2回出た。刻んだネギともちをフライパンで蒸し焼きにしてしょうゆとかつお節をかけて食べる――というものだが、かつお節は省略されている。

この「ネギもち」のいいところは、ネギのとろみがもちののど越しをよくすることだ。もちがつかえて窒息するなんてことはないだろう。高齢者にはお奨めの食べ物だが、腹が早くすくのが難点。

2012年1月20日金曜日

「四ツ倉町全景」図


1週間前(1月13日)、四倉町の若い知人から昔の同町を俯瞰する絵地図などのコピ―をもらった=写真。少年時代の一時期を四倉で過ごした作家・演劇評論家三島霜川(1876~1907年)について尋ねたところ、「昨秋から調査を進めています」という。その資料ともなる俯瞰図だ。さすがにアンテナは高い。

富山の「かぐら川」さんの調べでは、霜川の作品「ひとつ岩」は四倉が舞台、「埋れ井戸」は相馬地方が舞台らしい。霜川は、今は歴史に埋もれてしまったが、福島県の浜通りと縁の深い明治の作家だ。

その人間を、若い知人が大津波の襲った年に、町内にある自宅が浸水被害に遭いながらも調べ始めた。その意気に感じて、私も伴走することにした。

知人からもらったコピーの一つは、明治38(1905)年11月に作成された「磐城國石城郡四ツ倉町全景」図。左端、杉木立に囲まれた諏訪神社をPRしたもので、右隅に「明神磯」の名が見える。そこに描かれた岩礁のどれかが「ひとつ岩」のモデルになったのだろうか。

彼は「ひとつ岩」の作品コピーを手に調査を試みたが、それと特定できる岩礁は見つけられなかった。いや、飛び抜けて大きい岩礁がないため、「わからない」のが現時点での答えだという。

「明神磯」を離れて明治後期の四倉町に舞い降りてみる。海岸部に「四ツ倉町漁業組合事務所」「四ツ倉町々立改良鰹節製造傳習所」「海水浴旅館海気館支館」がある。町内には「役場」「平警察四ツ倉分署」「四ツ倉尋常高等小学校設計中」、離れた山裾に「四ツ倉町避病院」が立つ。

大正8(1919)年4月作成の「福嶋縣四倉町案内俯瞰図」は、旅館を中心に四倉の主だった事業所を載せる。海水浴場は今の「蟹洗温泉」(津波被害を受けて休業中)あたり、久之浜寄りにあった。常磐線沿いでただ一つの海水浴場であることを強調している。

「四倉漁港平面図」には、漁港の工事期間が昭和6~10年までの5年間と記されている。ざっと75年前の図面だ。この青焼きコピーからは磯の名前がわかる。大ヌマ磯・メジロナカセ・大ナカ磯・小ナカ磯・ニゴリウラなどだが、やはり「ひとつ岩」を特定できるものではなかったという。

若い知人は四倉について精力的に、多角的に調べている。「かぐら川さん」と協働すれば、霜川像がより確かなものになるのではないか。橋渡しをしたい。

2012年1月19日木曜日

瞬間電圧低下


東電の「南いわき開閉所」でトラブルが発生し、瞬間電圧低下によって福島第一、第二原発の使用済み燃料プールの冷却装置などが一時停止した。関東など広範囲で瞬間的に停電が発生し、工場では機械の稼働に問題が生じた――おととい(1月17日)のニュースに、いささか寒気を感じた。不整脈から瞬間的に意識が途切れたようなものではないか。

原発事故は収束のためのステップ2(第一発電所の冷温停止状態の達成)が完了したとはいえ、まだまだなにが起こるかわからないことをニュースは教える。政府がいうほど壊れた原発はおとなしくしているわけではないのだ。血(電気)の巡りが悪くなったら、また暴走を始める。開閉所、変電所が“不整脈”から“心筋こうそく”になったら……。

国土地理院の2万5000分の1地図から、トラブルが発生した「南いわき開閉所」と福島第一、第二原発の位置関係を確かめる。そこから思考を組み立てるしかない。

「南いわき開閉所」は田村市都路町古道地内の国道399号沿いにあった。そのことは前にも地図をチェックしていて、だいたい頭に入っていた。

いわき市内からわがふるさと・田村市常葉町へ向かうには4ルートがある。阿武隈高地に入れば道は細分化される。生活道路も含めて頭に入っているのはおおむね9ルート。このところ利用するのは、往路が平~川前(荻)~川内村(国道399号)~都路(国道288号)、復路が常葉~船引~小野~夏井川渓谷というルートだ。

これまでは、「南いわき開閉所」が古道にあるなどと知らずに通過していたが、まさにわがふるさとの市の一角に原発事故を収束するのに欠かせない施設が稼働していた。それどころか、宮城県にある東北電力の女川原発の使用済み燃料プールの冷却ポンプも一時停止した。送電網で「南いわき開閉所」とつながっていたからだという。

送電線は一方通行かと思っていたが、開閉所で送り先をコントロールすることができるらしい。原発は電気をつくって送る源だが、その源が過酷事故を起こし、収束作業のための電気を逆ルートでもらわなければならなくなった。阿武隈の山中でそのためのシビアな送電作業が行われていた。

同じ東電・広野火発からの送電線がいわきの山中を南へと延びている話を前に書いた。夏井川渓谷の入り口、地獄坂をまたぐ=写真=ことも紹介した。地図に書き込まれた送電線をを見るかぎり、広野火発でつくられた電気がいったん、いわき市三和町にある「新いわき開閉所」に送られ、そこから「南いわき開閉所」へと“逆送”されて、原発事故を収束するための電源になっていたのだ、という推測が成り立つ。

きのう(1月18日)、客人を伴って夏井川渓谷の無量庵へ出かけた。広野火発の送電線を見上げながら思った。送電線は単にそこにあるものではなく、原発事故の収束に欠かせない“生命線”にもなる。送電線も、鉄塔も、中継施設もきちんと機能してくれよ、と願わずにはおれなかった。

2012年1月18日水曜日

大地震の名前


阪神・淡路大震災から17年。きのう(1月17日)も朝5時過ぎには起きた。5時46分、神戸からのテレビ映像に合わせて黙祷をする。「1月17日午前5時46分」、そして昨年の「3月11日午後2時46分」。奇しくも同じ「46分」ではないか。そんな感慨にふけりながら、未明に届いた新聞を開く。

ん? 前にも経験した違和感がよみがえる。3・11の直後以来かもしれない。NHKは「阪神・淡路大震災」で通している。が、新聞は「阪神大震災」だ。全国紙の朝日も、共同通信のニュース配信を受ける地方紙の福島民報も。

なぜ「淡路」を省略するのか。「阪神大震災」では淡路島に被害がなかったことになってしまう。それで、政府は「阪神・淡路大震災」としたはずではないか。

インターネットでそのへんのことを探ってみる。気象庁は地震名として「兵庫県南部地震」と名づけた。政府は災害名として「阪神・淡路大震災」という呼称を決めた。明石市は、阪神でも淡路でもないから「兵庫県南部地震」を使用している、ということも知った。明石市のHPを開いたら、そうだった。

では、マスメディアは? 全国紙は押しなべて「阪神大震災」だ。地方紙は共同配信だから推して知るべし。こうなったら、神戸新聞の呼称に従おう。HPをのぞくと、ちゃんと「阪神・淡路大震災」でやっている。神戸新聞も、明石市も被災地の新聞であり、自治体だ。その判断を大事にしたい。

「阪神大震災」を使うマスメディアは、簡単にいえば本社機能が被災現場から遠いことを反映している。その遠さは、東日本大震災=写真=でも顕著になってきた。

被災者に寄り添うといいながらも、言論は空中を行き交い、「地上戦」も縮小する――被災地がだんだんしぼんで消えつつある紙面展開になってきた。全国紙では毎日の<希望新聞>だけだ、被災者と実質的につながっている、と感じられるのは。

変な「メディア考」になってしまったが、これはマスメディアへの期待の反映でもある。膨大なカネと人間を投入してニュースを取りに行っているのは、マスメディア以外にないのだ。ああ、つまらない――ではなく、いいぞ、いいぞ、と拍手をおくりたくなるような記事を読みたいものだ。

2012年1月17日火曜日

「千人塚」と「潮来村」


本多徳次さんが昭和61(1986)年に著した『四倉の歴史と伝説』という本に「千人塚」の話が載っている。本を読むまで知らなかった。伝説をかみくだいて言うと、ざっと500年前の永正年間、四倉の大浦全域に津波が来襲し、家屋が流失した。死者が続出したため、仁井田浦に遺骸を合葬して「千人塚」を築いた。今は跡形もないという。

永正年間に津波が押し寄せたのは事実なのだろうか。「四倉・千人塚」で検索すると、小名浜・浄光院のHPに行き着いた。歴史が専門の、いわき地域学會の先輩が住職の依頼で「歴史年表」を書いている。千人塚ができたのは永正年間から下ること100年余、元禄9(1696)年の大津波のときだった。

その年、「大津波来襲、磐城七浜で死者2400名余。四倉、小名浜に千人塚を築く」。そのわずか19年前の延宝5(1677)年にも、磐城の浜に「大津波来襲、死者800名余」の大惨事になった。

永正年間の大津波は、四倉町塩木にある耕田寺の縁起に由来するようだ。総合図書館で明治の学者・大須賀筠軒の著した「塩木村誌」を読む。「耕田寺縁起を按スルニ永正年間海嘯アリ近隣諸村併セ民家悉(コトゴト)ク流滅ス。天文ノ頃海嘯猶ホ来る故ニ潮来(シホキ)村ト名ツク後轉ジテ塩木村ニ作(ナ?)ルト云フ」

翌朝、たまたま仁井田川下流部に実家のある知人がわが家へ来た。4年ぶりの再会である。塩木地区の位置関係を聞いた。塩木は仁井田川河口(仁井田浦=写真)から1キロくらい上流に入った内陸部にあるという。

昔、そこまで大津波が押し寄せた、つまり潮が来たので「潮来村」と名づけた。寺も流された――塩木が津波由来の地名だったことを、しっかりと胸に刻む。(にしても、永正、天文の大津波は、江戸時代の延宝、元禄の大津波だったらつじつま、いや史実に合うのだが……)

知人の実家は塩木の下流、国道6号から海側の上仁井田地区にある。3・11では大津波で床下が浸水した。家を解体することに決めたという。

「千人塚」といい、「潮来村」といい、震災の歴史が語る重い教訓には違いない。四倉地区の災害教育に取り入れられていたら、3・11の被害はどうだったか。救われる人命もあったのではないか――阪神・淡路大震災から17年のきょう(1月17日)、後知恵ながらそんなことを思う。

2012年1月16日月曜日

いやな予感


夏井川渓谷の無量庵にも少しは本を置いてある。その中の1冊(思潮社の日本現代詩文庫『天野忠詩集』)を無性に読みたくなった。

水曜日(1月11日)に生ごみを埋めに行った。その翌日だ、本を読みたくなったのは。「13日の金曜日」を避けて、土曜日に出かけた。無量庵へ向かう途中でコンビニに寄り、乾電池(単1を2個)を買う。

無量庵の石油ストーブが燃料切れになった。灯油18リットル入りのポリタンクは運んだばかり。11日に給油しようとしたら、ポンプの乾電池がない。電気ごたつはある。足はあったまっても、上半身は冷え冷えとしたまま。室温、氷点下2度だ。生ごみを堆肥枠に埋めて、早々に退散した。

いつものペースだと、早くて1週間後、遅くて半月後の無量庵行だが、3・11から10カ月後、そしてその3日後に再び出かけた。それがよかった。

谷から尾根まで群生する溪谷の木々は、常緑の松・モミを除くと、みんな葉を落とした。見通しがよくなった。で、3・11の傷跡があちこちにみられる。岩肌がむきだしになっているのだ。土壌の少ない急斜面である。小規模の落石が、パッと見ただけでも数カ所、全体では数十カ所に及ぶのではないか。

いやはやすごい破壊力だ――なんて考えながら、無量庵の隣の錦展望台に近づく。と、道路わきの排水路に「しぶき氷」ができているのが目に入った=写真。いやな予感がする。

無量庵に入ってすぐ水回りをチェックした。台所は? OK。洗面台は? 下のボックスを開けたら、プラスチックのたらいが満々と水をたたえていた。3日前には、水はなかった。やっぱり今年も凍結・破損した。昨年春、直したときに防寒テープを巻いておくべきだった。

その場で水道のホームドクター(同級生)に電話する。「水道(井戸)の電源をオフにした方がいいのだろうな」「そうしろ」「(去年と同じく)春までダメか」「そうだな」

ならば、水なしで3・11が来るのを待つしかないのか。そんな“一周忌”はおもしろくないぞ――と思いながらも、誰にも八つ当たりすることができない。水道のホームドクターは震災復旧工事に追われている、のだろう?

2012年1月15日日曜日

飛行機雲


年が明けて半月がたった今も、ぽつりぽつりと年賀状が届く。昨年までのようにドッと来て終わり、ということがない。師走中には出す気になれない――逡巡しながら年を越した人が少なくなかったのだろう。私もそうだった。といっても、毎年のことだが。今年は特に年賀状を書こうという気持ちが薄かった。

3・11後、連絡がとれなくなった川内村の陶芸家夫妻から、先日、年賀状が届いた。半年ほど鎌倉に避難していたという。川内村は緊急時避難準備区域(だった)。「ほぼ川内に帰ってきました。道路も店もなく不便ですが何とかやっています」。「ほぼ」というあたりが完全帰還ではないことを示している。気がかりだった知人の便りにへなへなとなった。

年賀状のほかに、ブログやフエイスブックで知り合った人も少なくない。元日に、なにかより直截的につながることができそうだ、と感じた人がいる。顔を見たこともなければ、どんなことをしている人なのかもわからない。が、年賀状代わりのコメントと、ご本人のブログからそう判断できた。「文は人なり」だ。

富山の「かぐら川」さんの情報に基づき、四倉を舞台にした三島霜川の小説「ひとつ岩」を読むことができた。実はそれより前、「かぐら川」さんに刺激されて2日から総合図書館にある霜川の作品を読み続けている。

霜川は明治後期の小説家。富山で生まれた。14、5歳のころ、父、妹と3人で、四倉に住んだ。「かぐら川」さんの言葉を受けて、私なりに言い換えればこうなる。富山で生を受けた霜川の肉体に魂が入ったのは四倉時代である、と。

大正以後は演劇評論(歌舞伎)で鳴らした。その前から「演藝画報」の常連寄稿家だった。総合図書館に「演藝画報」の復刻版がある。このところ連日、霜川の記事をコピーするために通っている。「ひとつ岩」があったかもしれない四倉・蟹洗海岸へも行ってみた。

その帰り、寄り道をして新舞子海岸から夏井川の堤防へ出た。息抜きだ。車の正面には大景が広がる。山は遠い。青空に飛行機雲が幾筋もできていた。

上空は風が強いのか、飛行機雲は蛇腹状に太く長く延び、交差し、曲がり、先で千切れている=写真。こんなにたくさん飛行機雲が浮かんでいるのも珍しい(この飛行機雲を「地震雲」とみて、いわき民報に連絡した人がいる。きのう、1月14日付1面コラム「片隅抄」に紹介されている。その“判断”を一笑に付す気にはなれない)。

それからの感慨。地上での人の営みだけでなく、大空にも人の行き来する「道」がある。「空の道」はどんどん風に流されていく。人間も目の前に現れては、風に吹かれて去っていく。が、今年の正月は年賀状であれ、ブログであれ、フエイスブックであれ、胸に刻まれるものが少なくなかった。

風に吹き寄せられるように、年賀状で、インターネットで人がやって来た。それを、「原発震災」紀元2年を生きていく励みとしよう。

2012年1月14日土曜日

正月異変


年末年始の“定番報道”がある。仕事納めの12月28日あたりから「正月帰省」が始まる。地方のテレビ・新聞は「帰省ラッシュのピーク」などと報じる。正月三が日のあとは、逆に「帰京ラッシュ」が報じられる。

盆と正月にはふるさとへ帰る――それを前提にしてマスメディアは動く。おおかたはその通りだろう。年末、マスメディアは駅のホームでじいばあが孫を迎える瞬間を待つ。子ども一家が列車から降りてくる。じいばあのところへ孫が小走りに寄って来る。正月は逆だ。列車に乗り込んだ孫たちをじいばあがホームで見送る。

正月はさぞ楽しかったことだろう。とりわけ、食卓はにぎやかだったことだろう。しかし――。家によってはすしをとって食べる、というのが恒例だが、今年は様子が違っていた。

近所の料理屋の話では、すしの出前注文が少なかった。理由は? 放射能のせいで帰省する子供一家が減ったのだ。ならばこちらから孫に会いに行こうと、首都圏へ向かうじいばあがいたという。高速バスを利用したじいばあは車窓に映るスカイツリー=写真=に目を丸くしたことだろう。

田舎の家が正月に無人になるなんてことは、皆無ではないがあまり考えられない。昨年までと今年の違いはただ一つ。繰り返すが放射能だ。放射能が家族を、盆と正月の里帰りを分断した。

隣の行政区では正月恒例の「鳥小屋」行事を取りやめた。松の明けた7日早朝、孟宗竹と稲わらで方形につくった「鳥小屋」に家々の正月飾りを入れて燃やす、いわき地方独特の正月行事である。”お焚き上げ“をすれば放射能をまき散らすという自粛がはたらいた。

どこを切っても、なにをしても放射能の影響が立ちあらわれる。放射能のタチの悪さ、始末の悪さだ。

これからまだまだいろんな場面で放射能の問題が露出するだろう。想像力を超える、人的・物的破壊をもたらすのが放射能なのだということを思い知らされるだろう。地域の片隅に暮らしているだけで、そんな懸念・怒りに時折、支配される。

2012年1月13日金曜日

歌会始


歌会始の儀がきのう(1月12日)、皇居で行われた。茨城大学名誉教授で元福島高専校長の寺門龍一さん(81)が最年長で入選した、というニュースに接していたので、NHKの生中継を見た。

歌は「いわきより北へと向かふ日を待ちて常磐線は海岸を行く」=写真。お題「岸」を踏まえて、かつて利用した常磐線の全面復旧に被災地の復興を重ね合わせた祈りの歌である。

寺門さんは茨大を退官後、平成元(1989)年から9年までの8年間、福島高専の校長を務めた。なかなかしゃれた人で、茶をたしなんでいると聞いたことがある。いわき市の総合計画審議会長も務めた。

報道によれば、寺門さんは昭和60(1985)年から歌会始のためだけに歌づくりをしてきた。応募27回目で入選したというから、福島高専校長時代もせっせと挑戦していたわけだ。工学系ながら、文人的な趣味をもった校長さんだった。

一度、ある学生の親代わりになって校長官舎を訪ねたことがある。理由は伏せるが、そのときのやりとりが忘れられない。「学校は最後まで子どもを生かそうと考えるところです」。その学生は今や40歳間際、立派な起業家として活躍している。

寺門さんは茨城県東海村に住む。東海村でも総合計画審議会の委員長を務め、昨年2月に最新の答申をした。そんなことをインターネットで知った。福島高専校長時代、ふだんは官舎に住み、週末、電車で自宅との間を行き来した。常磐線は思い出深い“足”だった。
                  ◇
歌会始が終わって45分後の午後0時20分ごろ、いきなり大きな縦揺れがきた。震源は福島県沖、いわきで震度4だった。石油ストーブにかかっている平鍋からお湯がはねて畳を濡らした。おとといだったら、「また11日だ!」となったことだろう。

今朝の福島民報によれば、寺門さんは両陛下から被災地の現状を尋ねられ、福島高専の卒業生が東電福島第一原発内で津波に遭って亡くなったことを伝えている。何期生だろう、気になる。

2012年1月12日木曜日

溪谷は雪


きのう(1月11日)は朝食を終えてすぐ、夏井川溪谷へ車を走らせた。年が明けて初めての無量庵行だ。堆肥枠の中に生ごみを埋め、台所や洗面所の水道管を確かめる。毎年、凍結・破損に泣かされているので、様子を見に行かないと落ち着かない。「生ごみ埋め」がいい理由になる。

小雨が車のウインドウを濡らす。山には鉛色の雲がかかっている。平地では雨、一段高い高崎ではみぞれ、さらに高い溪谷では雪かもしれない。

その通りになった。磐越東線の磐城高崎踏切を過ぎると地獄坂。その峠から先が溪谷だ。坂を上りきったら、雨に白いものが交じり始めた。タイヤはノーマル。路面はぬれているが、まだ大丈夫という経験知がはたらく。

江田駅のあたり、V字谷の尾根がうっすら白いものをまとっていた。雪化粧というほどではない。対向車のボンネットに雪のかたまりがのっている。無量庵の隣、錦展望台の広場はと見れば、雪が積もっていた=写真。無量庵の庭も雪をかぶり始めていた。

そうした風景を見ながら、頭はいつの間にか問いを発している。空き地や庭に雪が積もって、アスファルト道路に積もらないのはどうしてか。

車が行き来するせいばかりではないだろう。雨やみぞれで濡れたところに降るから、雪は雪でいられない、すぐ溶けるのだ、きっと――なんて、どうでもいいことを考えるのは、少年のこころに戻っているからだ。大自然の中にポツンと一人でいる効能のひとつである。

無量庵の室温、氷点下2度、畑の土はカチンカチンに凍っている。冬場は、それで生ごみを堆肥枠に埋める。堆肥はなぜか凍らない。スコップで堆肥に穴をあける。丸くなって冬眠しているカブトムシの幼虫が現れる。無事であれば少し堆肥をかぶせてから、バケツの生ごみをあける。

雪はどうだ。降り続くだろうか、やむだろうか。路肩の水が一部シャーベット状になっていた。気温が上がらずに道路が凍結し始めるかもしれない。小一時間で無量庵を離れることにした。昼前に帰宅する。雨は上がり、北の雲の切れ目に青磁色の空がのぞいていた。

夏井川渓谷あたりまでは、冬もノーマルタイヤでなんとか動ける。が、その先、川前の渓谷から山へと駆け上がった高地は厳しい。これからがいわきは極寒期。阿武隈の山行きは当分おあずけだ。

2012年1月11日水曜日

災害ガレキ仮置場


年末に新舞子の“海岸道路”をドライブしてびっくりした。仁井田川の河口をはさんで、無事だった防波堤と道路の間のスペースに災害ガレキが山となっていた=写真。あとでいわき市のHPをのぞき、昨年10月に策定された復旧計画を読んでわかった。そこは「仁井田川河口広場」と呼ばれるところ。災害ガレキの仮置場だ。

市内には災害ガレキの仮置場が18カ所ある。海岸部に9カ所。津波被災地域からの「災害ごみ」を集積し、分別する。その一つが「仁井田川河口広場」だ。同じく内陸部に9カ所。震災で出た家庭からの「災害ごみ」を仮置きしている。

いわきのガレキその他の災害ごみは、福島県の推計に基づき88万トンと試算されているそうだ。昨年11月中旬までに仮置場に搬入された量は約50万トン(57%)。これらを県産業廃棄物協会いわき方部会員で構成する共同企業体に委託して、可能な限りリサイクルすることを基本に分別を進めている。

分別は思ったよりきめが細かい。①家電4品目②小型家電類(一部売却)③金属類(売却)④コンクリート殻・大谷石⑤木くず⑥廃プラスチック類⑥その他(マイカ・冷凍魚類・農薬など)――に及ぶ。大谷石は塀に使われていたものだろう。

問題はリサイクルできずに焼却ないし埋め立て処分をするしかないごみだ。放射能への不安による住民の反対のために処理がストップしている。それもあって、昨年11月段階での処理量は約3万トン、全体の3・5%にとどまる。この点が今までの自然災害と大きく異なる。「文明災」といわれるゆえんだ。

いわきの被災地のガレキ撤去はあらかたすんだように見えるが、それは生活空間から離れたところにガレキを移しただけのこと。処理し終わるには、数年はかかるというのが市の見立てだ。それでも、見えない放射能をにらみながら一歩、一歩前へ行かないと――3・11から10カ月のきょう、そんなことを自分に言い聞かせる。

2012年1月10日火曜日

アクサイ?


師走に漬けた白菜が底をついた。同じく師走の上旬、夏井川渓谷の江田駅近くで紅葉の時期だけ直売所を開く、小野町の農家Nさんから買った曲がりネギもなくなった。

ネギと白菜漬け(切り漬け、糠漬けもそうだが)は私の担当と自分で決めているので、郡山の阿久津曲がりネギを売っているスーパーへ出かけた。ほんとうは山あいの直売所まで足を延ばしたいのだが、ガソリンがもったいない。アイスバーンの心配もある。曲がりネギを3束、小川産の白菜中玉4個を買った=写真

写真のマイバッグはバングラデシュ特産のジュート(黄麻)でできている。バングラデシュで支援活動を展開しているシャプラニールのフェアトレード商品だ。レジかごにすっぽり入るので、レジ係に渡せば買ったものをそのまま持ち帰ることができる。折り畳み式で車に置いておいても邪魔にならない。使い始めて何年になるだろうか。とにかく頑丈だ。

スーパーで用を済ませたあとはいわき駅前のラトブに寄る。総合図書館で本をあさり、被災者のための交流スペース「ぶらっと」(2階)に顔を出した。「ぶらっと」はシャプラニールが開設・運営している。

大熊町からいわきに避難している「ぶらっと」常連の女性Nさんがいた。手先の器用な人で、指だけで編み物ができる。「ぶらっと」の男性スタッフにチラシを利用したかごづくりを伝授していた。楊枝をはさんでチラシを丸め、ストロー状にしたものが、籐かごでいう“つる”になり、細い針金を入れたものが縦芯になる、ということらしい。

Nさんは借り上げ住宅に独りで住んでいる。家にいてもつまらないから、毎日、「ぶらっと」に顔を出すのだという。手先が器用なだけではない。自分でごく少部数の個人情報紙も出している。文章を書くのも好きなようだ。(情報紙の文章がすべてNさんの1次情報だとしたら)多少毒のある替え歌だってつくる。

「奥さんは?」というから、「風邪でダウンした。きょうは買い物をしてきたところ。ハクサイを……」と言ったとたんに、Nさんが反応した。「アクサイ?」「そう、アクサイ。八つに裂いて、干して漬けるとうまいんだ、アクサイが」。こんなバカ話をするだけでも、見えない放射能を忘れて少し気持ちがほぐれる。笑いが広がる。

断っておくが、ハクサイがアクサイに聞こえただけのことで、悪妻について話したわけではない。「妻」が「毒」に見える日があるのと同じだ。ときには悪とか毒とかが心にはいいクスリになる。

2012年1月9日月曜日

今ごろドキドキ


あのとき、2011年3月11日、NHKはテレビ局で唯一、リアルタイムで空から大津波の姿をとらえた。私はかたずをのんでテレビ画面に見入った。見入るしかなかった。大災害が発生したことは画面からわかるのだが、それがなぜか実感をともなわない。想像を絶する破壊が行われている、これは現実か――おそらく思考は凍りついていたはずだ。

ただただテレビに目を注ぐしかなかった。以来、インターネットでは自衛隊機が撮った映像などが繰り返し視聴されている。私もあのあと、ときどき見た。ところが、9カ月がたった年末、なにかの拍子に大津波の映像を見たら、胸がドキドキした。

空からの映像だけではわからなかった惨状が、がれきの野を取材した各メディアの報道によってより具体的になった。これらの報道を逐次、“追体験”することで被災した人々の生と死が頭の中にしみこんだ――それが影響しているのだろうか。

毎日新聞のヘリも青森での別件の空撮を終え、南下中に紙媒体で唯一、大津波が襲う瞬間を撮った。が、どうしてもNHKの動画の方に引っ張られる。「新聞研究」2011年10月号で空撮した福島放送局カメラマン(鉾井喬さん)の文章=写真=を読んだことも、関係しているのかもしれない。

平成23年度新聞協会賞は編集部門が6本、うち5本が東日本大震災関連だった。毎日も、それからNHKもこの「平野を襲う大津波」のスクープ写真・中継で受賞した。受賞者がそれぞれ「新聞研究」に寄稿している。

鉾井さんの文。「その日、私はヘリ取材の当番として、福島放送局から仙台空港に出張し、ヘリポートに待機していた」。NHKのふだんの備えが、これからわかる。仙台市上空から仙台港へ出たあと、リアス式海岸をめざしたヘリは雪雲に行く手を阻まれて南下する。と、名取川の流れを遮るように一筋の白波が河口からさかのぼっていくのが見えた――。

「田園をのみ込みながら、巨大な生き物のようにザーと平野を走る大津波。先端がどす黒くなった大津波は住宅や車、農業用ハウスなどに襲いかかり、あっという間に巻き込んでいく」。このあと、テレビカメラマンらしい自制がはたらく。

「生中継になっていることを思い出し、アップになりすぎてはいけないと、映像をワイドにすると、土煙が上がり、黒く染まった海岸線そのものが平野を飲みこんでいた」。大津波で仙台空港に戻れなくなったへりは午後5時20分、福島空港に着陸する。

テレビで見た、あのどす黒い、高速の大津波は、こうして福島放送局のカメラマンによって撮影されたものだった。そのあたりを書き写すだけで、すでに呼吸が乱れそうになる。3・11以来、眠っていた不整脈が起きだし、4月から飲む薬が一つ増えた。それが、今ごろになってドキドキの悪さをするようだ。

軽微な被災者である私でさえそうなのだから、大津波と原発事故から追われた人たちはもっとドキドキしているのではないか。直観的な物言いだが、この時期だからこそ心のケアを必要とする人が大勢いる、という思いにかられる。

2012年1月8日日曜日

批評社のPR誌


昨年末、角忠(書店)の配達員さんが批評社のPR誌「ニッチ」第27号=写真=を置いていった。松の内が過ぎて新聞その他を整理するのに合わせ、これもとパラパラやったら、「四国遍路のすすめ【第3回】」というタイトルが目に留まった。

筆者はと見ると、蓮澤一朗?――記憶が一気によみがえった。父君とは年賀状のやりとりをする、いわき出身の精神科医(のペンネーム)ではないか。

ちょっと深刻な話を書いている。「この遍路をはじめた2年前は、それほど多くの苦痛があったわけではなかったと思うが、昨年秋、妻が大きな病を患い、この春には、故郷福島県いわき市が、大震災および原子力災害に見舞われた。妻の手術のときには、狭い病院の控室で、ひたすら写経し、無事を祈った。祈るしかなかった」

「昨年」は2010年、「この春」は2011年のことだ。そして今は、「朝早く起き、いつものように心経を唱える。祈りはもはや遍路路ではなく日常にある」。

文は「誰もが生かされて在るありがたみを超え、無数の修羅を、生きねばならない。生き抜かねばならない。取り返しのつかない道は、もうたくさんだ」で終わる。「原発震災」をふまえたものだった。

精神科医が般若心経を唱え、写経する――意外な取り合わせのようだが、尊敬する亡きドクターもまた写経をしていた。科学も宗教も混然一体となった、いやそれ以前の何か心の底からわきあがってくるいのちへの慈しみ、かなしみ、希望といったものが「祈り」を導き出すのだろう。3・11以後、私もまた神仏などに自然と手を合わせるようになった。

蓮澤さんは批評社から本を3冊出している。『深淵から――精神科医物語第一巻』『深淵へ――精神科医物語第二巻』『スピリチュアル・メンタルヘルス』で、3冊目の本の中に精神科医である彼自身が仕事にのめりこみすぎて体調を崩した話がつづられている。

その恢復のために、彼は小笠原へ“逃避”する。印象深いのは、ガイドの案内で巨樹のインドボダイジュにへばりつき、木登りをして、てっぺんから海に沈もうとする夕日を眺める最終部だ。癒しの仕上げとでもいうべき瞬間がそこに描かれる。まるで『家栽の人』のワンシーンのように。

小笠原体験を経て蓮澤さんは「これまでよりいっそう身体と精神の繋がりについて、思いを馳せる」ようになった。

「あくまでも到達不可能な他者同士であることを前提とした、到達可能性――人と人、あるいは人と自然(世界)とが、共振、共感できる瞬間――こうしたかけがえのない瞬間を通して、ともに同じ時間を生きる」ことによって、われわれはヒトという種族をこれまで存続しえた、これからもそうだろう、という認識を、本の最後に示す。

言葉によるコミュニケーションの前に、言葉以前のバイブレーションによるつながりがある――そう考えて生きてきた人間には、心強い専門家のことばだ。

蓮澤さんは師走、ふるさとの平に「いわきたいら心療内科」を開設した。カミサンの実家へ行く道の途中にあるのでわかった。HPによれば、「いわきたいら」は山村暮鳥の短詩<おうい雲よ……ずっと磐城平の方までゆくんか>からとった。

あ、そうだ。PR誌の話の続きを忘れていた。批評社の定期刊行物「精神医療」が東日本大震災と心のケアを特集している。それともうひとつ、別冊「ニッチ」も特集を組んだ。配達員さんがいつやって来るかわからないので、きのう(1月7日)、街へ出かけて角忠にこの2冊を注文した。

2012年1月7日土曜日

宝船


中神谷は、かつては平市街地への野菜供給地だった。今は田畑が住宅地に変わり、新旧の住民が混在するベッドタウンと化した。アパートの隣に農家(だいたい兼業)があったり、畑のそばに新住民の家があったりする。

あぜ道の延長のような細道が縦横に張り巡らされている。わが散歩コースにも細道がある。その一角、昔からの家の入り口に、舟形に剪定された庭木が立つ=写真。以前はさして気にも留めなかったが、先日、不意に言葉が思い浮かんだ。これは、「宝船」ではないか。

「宝船」なら、庭木をそのようなかたちにした意味がわかる。樹種はおそらくカイヅカイブキ。宝船が風に帆をはらませ、今にも湊、つまり家へ入ろうとしている。船には七福神が乗り、金銀宝石などの宝物が満載されている――。

そう考えると、楽しい。間違いなく「宝船」だ。その造形に、わが家に富と幸運が舞い込むように、という願いが込められているのだ、きっと――。リアルなご利益思想だが、抽象ではなく個別・具体を生きる庶民にとっては、それも真剣な祈りのかたちなのかもしれない。

木をいじめる――といって、庭木をいじりすぎるのを嫌う庭師もいる。西欧の庭園はとにかく木をいじめてスキッと仕上げる。円錐・円筒・円柱、果ては鳥のかたちまでつくる。「宝船」も相当、木をいじめてそこまでに仕立てあげた。

それはさておき――。私も自分の心の中に「宝船」を招きよせるようにしよう、カネではないなにか別のタカラを積んだ船をと、妄想をふくらませた松の内が終わった。本格的な「原発震災」紀元2年の始まりだ。

2012年1月6日金曜日

童謡館再オープン


きのう(1月5日)の午後2時過ぎ、再オープンイベントが行われた「野口雨情記念湯本温泉童謡館」を訪ねた。

童謡館は大震災後、傷みがひどく休館を余儀なくされた。が、そのままにしておくわけにはいかない――運営団体の「童謡のまちづくり市民会議」(九頭見淑子会長)が市の補助制度を活用して修繕し、活動を再開した。

ざっと車で湯本の街を巡ったあと、童謡館へ向かった。信号待ちをしていると、2代目館長の矢内忠さんが童謡館から歩いて自宅へ戻る途中だった。歩道を歩いているうちに声をかけられたのだろう、信号待ちの車のドライバーとなにごとか語り合ったあと、すぐ歩き出した。童謡館のイベントが終わったことを、それで知る。

童謡館の駐車場に車を止めて「裏口」から入る。九頭見会長が奥の流しにいた。「“嵐”が去ったところだよ」。イベントがうまくいった証拠だ。ひととおり館内をウオッチングしたあと、その日の担当のYさんら=写真=と茶飲み話をした。

「ちょうど4年前のこの日だね」。私が言う。童謡館がオープンした日だ。会社を辞めて2カ月ちょっと、初代館長の故里見庫男さんに誘われてオープンに立ち会い、その後、童謡に関する宿題を与えられて、月に一回、同館で「文学教室」なるものを開いた。その宿題を今も抱えて自習している。

再オープンの日を5日にしたのはむろん、4年前の初心に帰って再出発しようということだろう。

午前10時にセレモニーが始まった。そのあと、①すずめの学校の歌(童謡)②緑川明日香さんの朗読(雨情や草野心平の詩ほか)③北茨城の雨情の里音楽祭事項委員会の面々の歌――が披露された。プログラムにない打楽器演奏(加藤ちゃぼさん)もあった。

どこにも案内状は出していない。いわき民報に予告記事が載っただけ。それでも副市長らが祝いに駆けつけたという。

観光客がいないために「静かな静かな里の秋」のような湯本の年明けだった。「こんな静かな正月は初めて」と九頭見会長は振り返る。そのにぎわいを取り戻すきっかけのひとつが、童謡館の再オープンだ。

2012年1月5日木曜日

初仕事


2日の「初売り」に合わせて「初仕事」をした。2、3日、4日朝と、いわきで年に1回発行されている雑誌「うえいぶ」の初校に追われた。師走になまけたツケが正月に回ってきただけの話だが。おかげで久しぶりに正月三が日を二日酔いなしで過ごした。

未入稿のものもあるので、どのくらいのボリュームになるのか見当がつかない。が、通常よりは分厚いものになりそうな予感がする。

この雑誌は市民からの投稿を基本にしている。編集作業をしていて面白いのは、思わぬ「発見」があることだ。四倉の知人が「いわきにもいた『坂の上の雲』~菅波政次二等信號兵曹」という探報記事を寄せた。新聞記者ではない。が、新聞記者以上の粘りを発揮した、なかなかの力作だ。

菅波兵曹(四倉出身)は日露戦争に従軍し、第2回旅順港閉塞作戦の際、廣瀬武夫少佐らとともに戦死した。師走、NHKで再放送を含む「坂の上の雲」が放送された。菅波兵曹も登場するというので、注意してスペシャルドラマを見た。

第9回「廣瀬、死す」に菅波兵曹が登場した(らしい)。誰が菅波兵曹なのかわからなかった。ただ、戦死者を東郷平八郎に報告するシーンがあって、名簿がアップされたとき、菅波政次の名が見えた=写真。それだけのことだが、ドラマがぐっと身近なものに感じられた。これも雑誌編集の余得だろう。

四倉がらみでもうひとつ。元日、当欄にコメントを寄せてくださった富山の「かぐら川」さんのブログ「めぐり逢うことばたち」で知ったのだが、明治後半から昭和初期に活躍した作家・演劇評論家の三島霜川(みしまそうせん=1876~1934年)が14、5歳のころ、父(医師)と妹と3人で四倉に住んでいたという。

霜川の作品には四倉および相馬地方を舞台にしたものがある。「福島の地から見る目をもたずして霜川の像をきちんと再現することはできない」「霜川の文学世界の根は富山を超えて広く、深浅はあるものの文学果実も深く豊かなものなのです」と、「かぐら川」さんは言う。偏狭な郷土愛にとらわれない、しごくまっとうな意見だ。

早速、図書館から『ふるさと文学館 富山』と『明治文学全集72』を借りてきて、霜川作品(「埋れ井戸」「村の病院」「青い顔」「孤獨」「虚無」)を読んだ。

たまたまというべきか、霜川はしばらく前にネットで知った。竹久夢二と野口雨情の交遊を探り、夢二と山田順子の線から徳田秋声へとたどり着き、それで秋声の周辺にいる霜川を胸に刻んだ。そのとき、「かぐら川」さんのブログにたどりついていたのかもしれない。

山村暮鳥と交流のあった村田光烈(秋田)が順子の支援者だったこと、秋声が光烈をモデルに「土に癒ゆる」を書いていることも、秋声の年譜から知った。

菅波政次の次は四倉時代の三島霜川を――。四倉の知人にたきつけてみようかな。

2012年1月4日水曜日

いわきを見たか


大みそかに広島から甥が娘を連れて、いわきの母親のもとへ里帰りをした。「いわきを見て、感じてくれ」。その日の午後、父娘を車に乗せていわきのハマを案内した。いわきはハマ・マチ・ヤマに分かれる。マチもヤマも一見、震災の影響は軽微のように映る。が、ハマはそうではない。

豊間から北のハマをめぐった。甥の娘は高校1年生。立派な大人だ。現実をしっかり受け止めてくれるだろう。カミサンが、今はほぼ更地になった津波被災地と以前の様子を語る。娘は沈黙している。長旅の疲れなのか、車の律動に合わせて睡魔に襲われたのかもしれない。

久之浜の臨海部、大久川河口の陰磯橋のたもとに車を止めた。外に出て久之浜の状況を説明する。津波のあとの火災、ガレキの野、きな臭さ。娘は、今度は目を凝らして沈黙している。

帰省してきたと思われるカップルが一輪の花を手にして橋の方へ向かった。別のグループは、更地の中に入っていって合掌した。

更地の真ん中に小さなやしろが立っている=写真。甥がいう。「被災後に建てられたのか」「違う、あそこだけ無事だったんだ」

いったんマチへ戻り、ラトブのカフェで一休みした。孫に近い甥の娘にいう。「高校生だから、しっかり受け止められると思って案内したんだよ」。娘はためいきともとれるようなしぐさでうなずいた。

仕事でもいい、観光でもいい。いわきに来たら、ハマまで足を延ばしてもらいたい。いや、いわきのハマを見るために来てほしい。いわきを見て、いわきを感じてほしい。年末年始の休みを終えた今、痛切にそう思う。

2012年1月3日火曜日

草をはむハクチョウ


そうか、そうなのか――。ハクチョウの生態についての話だ。えさをあげるMさんの話をこの欄でときどき取り上げている。が、ハクチョウもまた自分たちで食べるものを探している。人間に頼りきりではない。それを知ったための「そうか、そうなのか」だ。

外来資本の「元日初売り」とは別に、昔からの「2日初売り」でいわきの経済が動き始めたきのう(1月2日)。いわき駅前再開発ビル「ラトブ」の開店と同時に、いわき総合図書館へ本を借りに行った。その帰り、夏井川の堤防に出てハクチョウを見た。

ハクチョウたちは岸辺から堤防へと集まっていた=写真。なぜ岸辺からここまでやって来たのか。しばらく見ていてわかった。土手の草をついばんでいたのだ。Mさんがパンの耳やクズ米を与えても、200羽近いハクチョウたちの胃袋は満たせない。でも、それでいいのだ。えさの自力調達能力にまかせることが第一なのだから。

人間の与えるえさに頼らない生き方。それが本質。足りないところをMさん夫婦がカバーする。

実はきのう早朝、散歩途中で軽トラのMさん夫婦と会った。7羽のグループが対岸の空を旋回していた。それを一緒に眺めた。

山際に沿ってぐるぐる飛びながら、舞い降りるかと思えば上昇し、上昇したかと思えば舞い降りる――。Mさんが言った。「親が訓練してんだな」。なんとなく納得できる物言いだった。

それからわずか3時間余あとの「草はみ」だ。自分で食っていかないといけない。しかし、原発震災でそれがかなわなくなった人がいる。「翼を持った隣人」から避難生活を余儀なくされている人間へと、どうしても思いが転がっていく。

2012年1月2日月曜日

マユールが移転オープン


インド料理の店「マユール」が、きょう(1月2日)、いわき市平下神谷字御城23地内の坂本商会隣に移転オープンする=写真。営業時間は午前11時から午後9時までで、ランチタイムのあとティータイムに入り、夕方5時からディナータイムに変わる。

前は四倉の新舞子海岸にあった。「海の見えるレストラン」で、日本人向けに味付けをしたカレーが人気だった。3月11日、大津波の直撃を受けた。さいわい人的被害はなかった。外観は変わらないが「全壊」の判定を受けた。それから10カ月弱。以前のようにインド人シェフを雇う余裕はない、夫婦2人だけの再出発となった。

下神谷というより「草野地区」といった方がいわき市民には通りがいい。草野小中の近く、歩道橋のある国道6号交差点から海側へ一本入った通りの交差点角にある。前の店からは車で10分ほど内陸に入った住宅地だ。

「マユール」は、米屋をしているカミサンにはお得意様のひとり。米の注文があると運転手役を命ぜられる。よく新舞子海岸へ通ったものだ。そのまま昼食にカレーを食べることもあった。その店が距離的にだいぶ近くなった場所で再開する。大みそかに米の注文を受けて、夫婦で準備中の店を訪ねた。

通りに面した細長い造りで、ほぼ真ん中にあるドアを開けると、右側に4人用のテーブルが2卓、2人用が2卓の計4卓ある。左側は厨房だ。四倉店の厨房は、海からは一番奥にあった。それがさいわいして主な調理器具は無事だった。旧小名浜店のインテリアなども含めてそれらを再利用したという。

窓ガラスから午後の陽光が差し込んでいた。インテリアのせいもあるが、どこかインドあたりの平原をのんびりと走る、蒸気機関車(厨房)と食堂車の2両連結列車のような空間ではないかと思った。夫婦でやるにはちょうどいいスペースということだろう。原発震災に負けない・へこたれない・あきらめない――。その一例として紹介した。出発進行!

2012年1月1日日曜日

原発震災紀元2年


いつもの年だと、古い年から新しい年に移り変わるときの心象風景はこうだ。大みそかには、多少の波風はあっても無事に1年が過ぎたことを夕日に感謝する。翌元日には、今年も無事に1年をすごせますようにと朝日に祈る。

しかし、今年はだめだ。原発震災紀元2年だ。祈りの奥底に罪障感や悲憤のようなものがわだかまっている。紅白歌合戦を見た。川向こうの專称寺の除夜の鐘を聞いた。でも、切り替えがきかない。(零時半すぎ、庭へ出たら星がさんざめいていた。オリオンが真上からやや西に移っていた。家々には明かりがともっていた。だめな気持ちが少しほぐれた)

昨年3月14日午前11時ごろ、あずかった孫2人を、暖かい南風に誘われて庭で遊ばせた。ちょうどそのころ、福島第一原発3号機の建屋が爆発した。原発からはざっと40キロ。30キロの屋内退避圏外という油断もあった。

以来、その罪障感が頭から離れない。孫たちの顔を見るたびに、3月14日午前の情景が思い浮かぶ。すまないことをしたと、ときどき胸が痛む。

そんな「鈍感じいじ」でも、保育園の運動会やおゆうぎ会があれば「見に来てね」と元気な声が受話器の向こうから届く。おゆうぎ会のオペレッタという出しものでは桃太郎を演じた=写真。下の孫は一休さんに扮した。幼児らしい活発さと向日性に救われている、というところだろうか。

私たちの生きる時間は先がみえている。代わりに考えなくてならないのは、孫たちが生きる未来の時間だ。

小さい人間たちの未来の時間のために何ができるか。行政レベルで、地域レベルで、家庭レベルで、できることを推し進めないといけない――とは言いながらも、具体策は持ち合わせていない。

私にできるのは、そんな屈託を抱いてブログを書き続けることくらいだ。とりあえず、今年も「ミミズのつぶやき」でいこうと思う。