2012年1月8日日曜日

批評社のPR誌


昨年末、角忠(書店)の配達員さんが批評社のPR誌「ニッチ」第27号=写真=を置いていった。松の内が過ぎて新聞その他を整理するのに合わせ、これもとパラパラやったら、「四国遍路のすすめ【第3回】」というタイトルが目に留まった。

筆者はと見ると、蓮澤一朗?――記憶が一気によみがえった。父君とは年賀状のやりとりをする、いわき出身の精神科医(のペンネーム)ではないか。

ちょっと深刻な話を書いている。「この遍路をはじめた2年前は、それほど多くの苦痛があったわけではなかったと思うが、昨年秋、妻が大きな病を患い、この春には、故郷福島県いわき市が、大震災および原子力災害に見舞われた。妻の手術のときには、狭い病院の控室で、ひたすら写経し、無事を祈った。祈るしかなかった」

「昨年」は2010年、「この春」は2011年のことだ。そして今は、「朝早く起き、いつものように心経を唱える。祈りはもはや遍路路ではなく日常にある」。

文は「誰もが生かされて在るありがたみを超え、無数の修羅を、生きねばならない。生き抜かねばならない。取り返しのつかない道は、もうたくさんだ」で終わる。「原発震災」をふまえたものだった。

精神科医が般若心経を唱え、写経する――意外な取り合わせのようだが、尊敬する亡きドクターもまた写経をしていた。科学も宗教も混然一体となった、いやそれ以前の何か心の底からわきあがってくるいのちへの慈しみ、かなしみ、希望といったものが「祈り」を導き出すのだろう。3・11以後、私もまた神仏などに自然と手を合わせるようになった。

蓮澤さんは批評社から本を3冊出している。『深淵から――精神科医物語第一巻』『深淵へ――精神科医物語第二巻』『スピリチュアル・メンタルヘルス』で、3冊目の本の中に精神科医である彼自身が仕事にのめりこみすぎて体調を崩した話がつづられている。

その恢復のために、彼は小笠原へ“逃避”する。印象深いのは、ガイドの案内で巨樹のインドボダイジュにへばりつき、木登りをして、てっぺんから海に沈もうとする夕日を眺める最終部だ。癒しの仕上げとでもいうべき瞬間がそこに描かれる。まるで『家栽の人』のワンシーンのように。

小笠原体験を経て蓮澤さんは「これまでよりいっそう身体と精神の繋がりについて、思いを馳せる」ようになった。

「あくまでも到達不可能な他者同士であることを前提とした、到達可能性――人と人、あるいは人と自然(世界)とが、共振、共感できる瞬間――こうしたかけがえのない瞬間を通して、ともに同じ時間を生きる」ことによって、われわれはヒトという種族をこれまで存続しえた、これからもそうだろう、という認識を、本の最後に示す。

言葉によるコミュニケーションの前に、言葉以前のバイブレーションによるつながりがある――そう考えて生きてきた人間には、心強い専門家のことばだ。

蓮澤さんは師走、ふるさとの平に「いわきたいら心療内科」を開設した。カミサンの実家へ行く道の途中にあるのでわかった。HPによれば、「いわきたいら」は山村暮鳥の短詩<おうい雲よ……ずっと磐城平の方までゆくんか>からとった。

あ、そうだ。PR誌の話の続きを忘れていた。批評社の定期刊行物「精神医療」が東日本大震災と心のケアを特集している。それともうひとつ、別冊「ニッチ」も特集を組んだ。配達員さんがいつやって来るかわからないので、きのう(1月7日)、街へ出かけて角忠にこの2冊を注文した。

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