2012年1月20日金曜日

「四ツ倉町全景」図


1週間前(1月13日)、四倉町の若い知人から昔の同町を俯瞰する絵地図などのコピ―をもらった=写真。少年時代の一時期を四倉で過ごした作家・演劇評論家三島霜川(1876~1907年)について尋ねたところ、「昨秋から調査を進めています」という。その資料ともなる俯瞰図だ。さすがにアンテナは高い。

富山の「かぐら川」さんの調べでは、霜川の作品「ひとつ岩」は四倉が舞台、「埋れ井戸」は相馬地方が舞台らしい。霜川は、今は歴史に埋もれてしまったが、福島県の浜通りと縁の深い明治の作家だ。

その人間を、若い知人が大津波の襲った年に、町内にある自宅が浸水被害に遭いながらも調べ始めた。その意気に感じて、私も伴走することにした。

知人からもらったコピーの一つは、明治38(1905)年11月に作成された「磐城國石城郡四ツ倉町全景」図。左端、杉木立に囲まれた諏訪神社をPRしたもので、右隅に「明神磯」の名が見える。そこに描かれた岩礁のどれかが「ひとつ岩」のモデルになったのだろうか。

彼は「ひとつ岩」の作品コピーを手に調査を試みたが、それと特定できる岩礁は見つけられなかった。いや、飛び抜けて大きい岩礁がないため、「わからない」のが現時点での答えだという。

「明神磯」を離れて明治後期の四倉町に舞い降りてみる。海岸部に「四ツ倉町漁業組合事務所」「四ツ倉町々立改良鰹節製造傳習所」「海水浴旅館海気館支館」がある。町内には「役場」「平警察四ツ倉分署」「四ツ倉尋常高等小学校設計中」、離れた山裾に「四ツ倉町避病院」が立つ。

大正8(1919)年4月作成の「福嶋縣四倉町案内俯瞰図」は、旅館を中心に四倉の主だった事業所を載せる。海水浴場は今の「蟹洗温泉」(津波被害を受けて休業中)あたり、久之浜寄りにあった。常磐線沿いでただ一つの海水浴場であることを強調している。

「四倉漁港平面図」には、漁港の工事期間が昭和6~10年までの5年間と記されている。ざっと75年前の図面だ。この青焼きコピーからは磯の名前がわかる。大ヌマ磯・メジロナカセ・大ナカ磯・小ナカ磯・ニゴリウラなどだが、やはり「ひとつ岩」を特定できるものではなかったという。

若い知人は四倉について精力的に、多角的に調べている。「かぐら川さん」と協働すれば、霜川像がより確かなものになるのではないか。橋渡しをしたい。

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