2012年1月27日金曜日

豊間の灯台


ら・ら・ミュウ(小名浜)や鹿島ブックセンターからの帰りは、たいがい海岸部の道路を利用する。県道小名浜四倉線と江名常磐線が交差するT字路の先、合磯(かっつぉ)トンネルを抜けるとはるか前方に豊間の海が見えてくる。3・11前は家もあり、地盤ももっと高かったから、見える領域は小さかった。今は水平線が長く、高くなった感じがする。

合磯の坂を下ると兎渡路(とどろ)。大津波の直撃を受けた一角だ。道路から海側がほぼ更地になったため、断崖の上に立つ塩屋埼灯台が丸ごと見える=写真

灯台を管轄する福島海保のHPによれば、灯台の高さはざっと27メートル、海面からの高さは約77メートルだから、ほぼ50メートルの高さの断崖の上に「白い一本指」が立っていることになる。新聞は、大地震でガラスが全壊するなどの被害に遭い、応急的にLED灯器で小さな光を届けていたのが、昨年11月30日夕に復旧したことを伝える。

「白い一本指」の比喩は、山村暮鳥の「岬に立てる一本の指」からの連想。大正初期、磐城平で過ごした詩人がこの灯台をそう見立てたという。ところが、灯台を紹介する海保の文章を読んで少し疑問がわいた。

塩屋埼灯台が点灯したのは明治32(1899)年12月15日。円形のレンガ造りで、昭和3年の写真には「一本指」の真ん中に「黒いバンドエイド」が張ってある。下から色が白・黒・白、だ。この外観から、はたして暮鳥は美的、いや詩的インスピレーションを受けただろうか、わからない――そういう思いがわいてきた

「岬に立てる一本の指」は白一色がいい。と考えると、この詩句のモデルは必ずしも「豊間の灯台」でなくていい。

初代の灯台は昭和13(1938)年11月5日に発生した福島県北方沖を震源とする地震で大破し、爆薬を使って解体された。鉄筋コンクリート造りの2代目は1年半後に完成したが、終戦間際の昭和20年6月5日、爆撃機によりレンズが大破、8月10日には艦載機の攻撃を受けて職員一人が殉職した。完全復旧は昭和22年5月5日だったという。

そして、3・11からの復活。いわきの空撮家酒井英治さんが12月7日宵、点灯を待って旋回しながら撮影した灯台の光に神々しいものを感じた。宵闇の迫る灯台から発せれた一筋の光を上空からとらえた、初めてのカメラアングル。素直に心が打たれた。

きのう(1月26日)の夜、その酒井さんを講師に市文化センターでミニミニリレー講演会が開かれた。演題は「かもめの視線――いわき沿岸津波被害の記録」。通常は聴講者が10人いるかどうか。空撮動画に引かれたか、50人前後が詰めかける盛況ぶりだった。

酒井さんは、もとの光に戻った塩屋埼灯台の撮影秘話も語った。点灯復活の11月30日は風速10メートルで、モーターパラグライダーを飛ばせなかった。それで、12月7日に延期された。講演全体の感想はいずれ整理して紹介したい。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

昨年2月夫と豊間の灯台を見に行ってきました。私の頭はまだ3・11前の風景です。ずるいかも知れませんが、現実を認めたくない思いが強くあります。孫を連れて5月の連休にいわき方面に行く予定ですが、なんとなく恐い気がします。認めざる得ないことが怖いです。