2012年5月31日木曜日

『いわきの味』


知人の三回忌法要のあと、寺から結婚式場へと場所を変えて精進あげが行われた。テーブルに知人ともう一人の知人の共著『ふるさといわきの味あれこれ』=写真=が置いてあった。この日のためにもう一人の知人が編んだ友情の一冊だ。非売品である。

歴史研究家の小野一雄さん(小名浜)と故佐藤孝徳さん(江名)は四十数年来の友。「はしがき」に冊子をまとめた経緯を記す。平成8(1996)年、朝日新聞福島版に佐藤、小野さんが「ふるさとの味 いわききから」を連載した。冊子にはそのときのハマの味37編が収録されている。佐藤さんが28編を、小野さんが9編を担当した。

アンコウの共和(あ)え・マンボウのかす漬け・サンマのぽうぽう焼きなど、ヤマ育ちの人間には想像もつかない食べ物が次々に出てくる。小野さんの佐藤評を紹介した方が手っ取り早い。食材と調理法、味わい方にとどまらず、「その食材にまつわる歴史とエピソードを織り交ぜ、さらに独自の意見を披歴した記述は、正に佐藤氏の得意とするところだった」。

読み進むごとにいわきのハマの豊かな食文化に魅せられていく。いわきの誇る食材と味。佐藤家で仲間とともにマンボウの刺し身その他をふるまわれたこともある。珍味としか言いようがなかった。が、原発事故がこの伝統郷土食を奪った。食材が借り物になった。「無念さが昂ぶってくるのを禁じ得ない」と小野さんは言う。

そのことを胸底に置きつつ、小野さんは佐藤さんと二人だけの共著を霊前にささげることにした。友情と悲憤に裏打ちされた、小さいけれども重い冊子だ。

2012年5月30日水曜日

梨の木が消えた


わが家から夏井川渓谷の無量庵へと出かける道沿いに梨畑が何カ所かある。そのうちのひとつ、徒長枝まで花が咲いた、梨畑ではなくなったのか――ということを書いたのが5月の初め。次に無量庵へ出かけたとき、ざっと2週間後だが、徒長枝はそのままながら梨の木の幹が消えていた=写真。やはり梨畑ではなくなっていたのだ。

車を運転しながら、ちらりと見て“異変”に気づいただけだから、それが梨畑再生のための準備なのか、やめた後始末なのかはわからない。いずれにしても17年間、その梨畑を視野におさめて往来してきた人間には劇的な変化だった。

詩人の田村隆一の影響か、「梨の木」には詩的なイメージをいだいてしまう。「梨の木が裂けた」という1行にとらわれているのだろう。詩のタイトルはとっくに忘れたが、その言葉だけは40年あまりたった今も頭の中に浮遊している。

田村隆一自身も梨の木にはこだわっていたのではないか。亡くなる直前の詩集『1999』の冒頭が<梨の木>だ。

第一連「第一次世界大戦後/新潟小千谷の超自然主義者が呟いた/『梨の木が曲がりくねっている』」。超自然主義者は西脇順三郎。第二連「第二次世界大戦後/痩せた青年が叫んだ/『梨の木が裂けた』」。青年はむろん田村隆一。

<十三秒間隔の光り>という詩では、「新しい家のちいさな土に/また梨の木を植えた/朝 水をやるのがぼくの仕事である/せめて梨の木の内部に/死を育てたいのだ」と書く。

梨の木の幹は根元とワイヤを張った棚の2カ所で切り取られた。残っているのは支柱とワイヤの棚にからまった徒長枝。行きずりのドライバーとしては再生を祈るのみだ。

2012年5月29日火曜日

ネギの花


ネギ坊主をつぶさに見ると、黄色く小さな花がびっしり咲いている。ネギ坊主は小花の集合体だ。チョウが来る。ミツバチが来る。ハナアブが来る。夏井川渓谷の無量庵。三春ネギの花と虫たちの協働作業=写真=のあとに種子が形成される。花が咲いて実がなるゆえんだ。

原発事故に負けて栽培をやめたら、種子が絶えてしまう。人間が介在して初めて種子のリレーが可能になる。去年はその一念で栽培を続けた。

春まき品種と違って三春ネギは秋に種をまく。翌年、定植・栽培・収穫し、さらに次の年に残ったネギから採種する――足かけ3年がかりのサイクルだ。

もっと細かく言うと――。秋に苗床をつくって種をまき、越冬して苗が育つのを待つ。一方で、種を採るためにネギを何本か溝(菜園)に残して越冬させる。定植を終えたあと、越冬した古いネギから採種する。種は秋まで冷蔵庫に入れておく。5月に苗を植える、6月に種を採る、10月に種をまく、というのが夏井川渓谷での“ネギ暦”だ。

地元・牛小川の知人が放射能市民測定室で自家栽培の野菜を測ったら、問題がなかった。別の場所でも自家栽培食材の放射能測定が行われている。関係する知人によれば、市場で出荷停止になっている食材はやはり数値が高い。生のままの野菜よりは洗ってゆでた野菜の方が数値は低い、ともいう。

近々、ネギ苗を溝に植え、6月に入って自家採種をすませたら、一度、三春ネギの放射能を測ってもらおうと思う。自家消費野菜の放射能については、いわき市も公民館など21カ所で簡易検査を実施している。近所の公民館もその一つ。状況証拠ではなく、数値を知って、さわさわしている心を穏やかにさせたい。

2012年5月28日月曜日

三回忌法要


きのう(5月27日)、いわき市江名の真福寺=写真=で知人の三回忌法要が営まれた。江名は海辺の集落だ。寺からは(急斜面に設けられた墓からもそうだが)、海は見えない。3・11に寺の本堂は「倒壊するかもしれないほど揺れた」(住職)。が、左右からせり出した枝状の小丘が自然の防波堤になって、津波被害は免れたようだ。

江名港周辺ではそのとき――。住宅に車が突っ込み、大型トラックが半分横転しながら道路をさえぎった。崖が崩れた。漁業関連施設も大打撃を受けた。いわき民報社発行の震災写真集『3・11あの日を忘れない いわきの記憶』が伝える惨状だ。

知人の家は港の近くにある。家並みが続き、少し奥まっていたために、家屋への浸水は免れた。「庭に波がサワサワやって来て、沼のようになった。水は黒くて、ブクブクしてね。江名に(嫁いで)来て80年、初めて津波を経験した」と99歳の故人の母上。

寺の本堂は安政元(1854)年=嘉永7年に焼失し、安政4年に再建された。ざっと150年前の古い建物だ。

法要に先立ち、住職が“余震避難”のための心得をのべた。そのときは本人の判断で外へ出てください。でも瓦には気をつけて――。本堂の屋根は独特の勾配をなしている。上部の瓦は滑り台よろしく遠くまで落下するという。確かに一部、屋根瓦が壊れていた。

知人は歴史研究の第一人者だった。野にあって研究を続け、やがていわき市文化財保護審議会の委員になり、晩年は会長を務めた。2年前の5月30日、共通の知人の通夜へ行った深夜、帰宅直後に急死した。本来なら、一回忌の法要に友人・知人を呼ぶところだが、3・11でそれができなかった。

3・11を経験しないでよかった。いや、歴史家だから生きて3・11の惨状を見てほしかった。両方の声がある。

私はこの1年余、何度知人に問いかけたことだろう。歴史上、いわきにはどんな地震・津波があったのか。ちゃんとした「災害史」があれば、犠牲者を減らすことができたのではないか――知人からの答えはむろんない。文字化せずに頭脳にしまわれたままだった膨大な史的知識の喪失をだれもが惜しむ。今もそれは変わらない。

2012年5月27日日曜日

野良ガモ?


野良犬、野良猫。それと同じ野良ガモ?=写真。アイガモだと思う。散歩コースが一部、三面舗装の水田の排水路と並行する。「三夜川」という。田植えどきの今は水がたっぷり流れている。そこを3羽、ときに4羽がガアガアいいながら泳いでいる。人間が姿を見せても飛び立たない。いや、アイガモだから飛べないのだろう。

大きく夏と冬とに分けると、冬場は姿を見ない。三夜川は底が見えるほど水量が下がる。アイガモはそんなところではよたよた歩くしかない。水のない冬場はいったいどこで過ごしているのか。誰かが飼っていて夏場だけ放す? ないわけではないが、そういう人は寡聞にして知らない。

昨年の7月早朝、陸の上で彼らを目撃した。マンションと三夜川の間の草むらで夜を過ごしたのだろう。マガモの雄の羽毛をしたのが3羽、地味な雌の色合いをしたのが1羽、計4羽が座り込んでいた。

両岸には金網、マンションの敷地境界にも金網が張られ、すぐそばの小さな橋には鉄柵が設けられている。いわば屋根のないケージの中で休んでいるようなものだ。橋の下へと空堀がもぐりこんでいる。そこを利用して川へ降りたり、陸へ上がったりしているのだろう。脇を車が通る。たまに人が通る。灯台下暗し。人間は4羽に気づかない。

4羽はこの1年近くを無事に生き延びた。にしても、三夜川は三面舗装の大きな側溝のようなものだ。上がって来られる石段があるわけではない。夜は陸の上で休むとすると、少しは飛べるのだろう。

彼らの移動範囲は相当広いようだ。この二、三日は川をのぞいても、どこにも姿がない。ともあれ、昨年会い、今年また会って、少し愛着がわいてきた。この4羽もわが区内の「隣人」にはちがいない。

2012年5月26日土曜日

宮沢賢治展


いわき市立美術館で「宮沢賢治・詩と絵の宇宙――理想郷イーハトーブを夢みて」展が開かれている。6月17日まで。ついつい図録=写真=を買ってしまった。絵本作家や画家が賢治ワールドに挑んだアンソロジーだ。

20歳前後から賢治にとりつかれ、「雨ニモマケズ」に共感と反発を抱き続けてきた。反発しながらも、賢治を“卒業“できない。「雨ニモマケズ」は自分の生き方を考えるときに、真っ先にわきにおきたいフレーズだった。<「ジブンヲカンジョウニ入レズニ>生きられるのか。生きられない、と。

それよりもっと反発したのは、<農民芸術概論・序論>にある「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」。いよいよダメだな、オレは賢治についていけないな。

賢治の全集を二回買った。『校本宮沢賢治全集』がそろったときに、古い全集を友人の娘にプレゼントした。中学生になるかならないかだったか。娘は大学と大学院で賢治をテーマにした。

で、今度は『校本宮沢賢治全集』だ。息子・娘の世代は父・母になった。つまり、その次の世代、孫たちに賢治を伝えよう。今年中学生になった疑似孫がいる。小学5年か6年生のときに全集の1冊をあげた。読みこなしているようだ。

賢治について書かれた評論・エッセーなどのたぐいも手元にかなりある。“卒業“ではなく、“バトンタッチ“をしたい。少しずつ疑似孫にあげよう――と思っていたときに、東日本大震災がおきた。原発が事故を起こした。

世界がガラリと変わった。賢治の言葉が理想ではなく、現実になった。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」。私は時折、この言葉を思い出しながら、非常な1年を過ごした。

「雨ニモマケズ」は、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」からきているのだろう。病の床に就いた賢治の、死への自覚がもたらした「雨ニモマケズ」の根源に、圧倒的な死をもたらした大災害を経験してやっと触れ得た、という思いがする。

2012年5月25日金曜日

水稲苗


5月はいわきの田植えどき。大型連休後半に始まった田植えは、5月下旬になってようやくピークを過ぎたようだ。で、あの稲苗はなんだったのか、なぜそこにあったのか、という思いが募る。早朝の散歩ルートに育苗箱が落ちていたのだ=写真

私の住む中神谷と隣接する下神谷(いわゆる草野)はもともと田園地帯だ。田畑が広がっていた。今は宅地開発が進み、住宅と田畑が混在するようになった。

歩道に水稲の育苗箱が置かれていたところは下神谷分だ。中神谷であれば、知り合いが軽トラに稲苗を積んで田んぼにむかう――それをしばしば目撃している。隣の地区も軽トラで運搬というのは変わるまい。が、どこの家が農家なのかなどということはさっぱりわからない。

高速バスの駐車場がある。目の前は国道6号常磐バイパスの終点。土手が半円状になって本線に接続する。つまり駐車場の前の道路は急カーブだ。とにかく、その急カーブで苗箱のひとつが落っこちたのだ。

そのあとの散歩者の動きを想像する。ある人が車道から苗箱を歩道に寄せた。そのあと、苗箱は歩道から草むらの方へ移された。誰かがやはりそうした。歩道の上では見るにしのびなかったのだろう。

秋の実りを約束する稲苗だ。なぜそこにあるのか、なぜ取りに来ないのか。あれこれ考えたものの、結論は出なかった。苗は余分につくっている。田んぼの一角ががらんとしている、なんてことはないだろう。想像を超える不思議な落とし物ではあった。

2012年5月24日木曜日

石森山へ


物心づいたころから、町(現田村市常葉町)の裏山の雑木林で遊び回っていた小学校に入学するより早く山学校に入学した、と思っている。10代後半からは意識して雑木林の中へまぎれ込むようになった。いわきで職を得たあとは休みの日(後年は昼休みも)、職場と自宅から近い石森山=写真=へ車を走らせた。

20代後半からおよそ20年間、石森山を丸かじりするように歩き回った。わが子をたたきおこして野鳥観察に連れだすこともあった。

で、石森山の野鳥・野草・菌類については少し語れるようになったかもしれない。が、地質・地形、あるいは花・鳥・キノコ以外の生物は、となるとよくわからない。いずれにせよ、石森山は平のマチの人間の里山だ。アウトドア派を引き付ける。生活環境保全林として遊歩道などが整備されていることが大きい。

ほぼ1年前の早朝、夏井川渓谷にある無量庵へ行った帰り、石森山の林道を通った。キジとリスがいた。先月も同じように石森山を経由したら、山菜を採りに来たと思われるおばさんたちがいた。里山ゆえの光景だ。

3・11後、夏井川渓谷であろうと、石森山であろうと、まともに森を巡ったことがない。フラストレーションがたまっている。森の中に身を置きたい――という気持ちが抑えきれなくなって、先日、石森山へ出かけた。

石森山の遊歩道は10コース、計11キロ。軸になるのは「せせらぎの道」だ。おわんで言えば、へりから底へとゆるゆる下っていく。底で「さえずりの道」が、次いで「マンサクの道」が合流する。「せせらぎの道」を歩いた。鳥のさえずりに慰められた。

新緑の「野鳥の森」だ。原発事故がなかったら、5歳の孫に遊歩道めぐりを体験させていたかもしれない。が、今はそれが難しい。雑木林の価値・意義をどう孫たちに伝えたらいいのか。これだけは口で言ってもわからない。

2012年5月23日水曜日

ちりめんふくろう


携帯のストラップに「ちりめんふくろう」をちょうだいした=写真。会津の「起き上がり小法師」よりはちょっと大きい。製作者は富岡町の93歳のおばあさんだ。

日曜日(5月20日)、イトーヨーカドー平店2階にある被災者のための交流スペース「ぶらっと」で、「富岡町民の集い」が開かれた。20人余が参加した。その中におばあさんがいた。娘さんと一緒だった。

おばあさんはちりめん細工が得意だ。富岡町の夜ノ森に住み、ストラップをつくってはみんなに配って喜ばれていた。

3・11後は避難を余儀なくされ、今はいわきで借り上げ住宅に住む。話し相手もいない日々。

娘さんがたまたま旧「ぶらっと」(いわき駅前再開発ビル「ラトブ」)を訪ね、母親のつくった「ちりめんふくろう」を飾ってもらうことになった。欲しい人はどうぞ――飾ると、すぐなくなった。たまっては「ぶらっと」に飾る。すぐなくなる。張り合いがまた出てきた。

おばあさんは一度、娘さんと「ぶらっと」を訪ねた。偶然、夜ノ森の近所に住む人と再会した。「福」を呼ぶ「ちりめんふくろう」とはこのこと。いよいよ、おばあさんは「ちりめんふくろう」づくりに精を出した。

「集い」が終わって、娘さんとおばあさんがスタッフ・ボランティアのテーブルにやって来た。茶飲み話第二ラウンドだ。つくりためたストラップをいくつかテーブルに出す。その一つをいただいた。

おばあさんのきめの細かい仕事ぶりに質問が集中した。「ふくろうは一つひとつ違うの」「(ふくろうを)つくっていると肩がこらないの」「つくってプレゼントするのが楽しみ」。やせて小柄な人だが、ことばは骨太だ。

6月5日には「ぶらっと」で「ちりめんふくろう作り」教室の先生を務める。「ぶらっと」で開かれる教室のなかでは最高齢の先生ではないだろうか。

2012年5月22日火曜日

暗くならなかった


「金環日食」というからには、朝なのに一時的に「たそがれ」になるのかなと思ったが、そうではなかった。空気はひんやりとしたものの、なんとなく光が弱まったかな、という程度だった。

「日食グラス」を買い忘れた人間は、空を見上げるわけにはいかない。ならば、地上の鳥たちの様子を見てみよう――オオヨシキリが鳴き交わしている夏井川の堤防で7時台を過ごした。が、これといった変化はみられなかった。帰ってトイレに入ったら、窓から差し込んだ木漏れ日がいくつも「三日月」になっていた=写真

いわきで金環日食が観測されたのは、7時30分台後半。そのころ――。①7時7分、オオヨシキリ盛んに鳴く②7時23分、やや光が減衰する。オオヨシキリの鳴き声に変化はない③7時40分、オオヨシキリは鳴きやまない。しきりにキジが鳴く④7時50分、光の量が戻りつつある。オオヨシキリ鳴き続ける――。

実は7時前、いつものように夏井川の堤防を散歩した。わが家の近くで、日食グラスを手にする人とすれ違った。最近、同じ場所で会うのであいさつをするようになった。「始まりましたか」。思わず声をかける。「リンゴをガブッとかじったような感じ」と言いながら、日食グラスを貸してくれた。<おお、アップル社のマークだ!>

出遅れて、日食グラスを買い忘れて、おてんとさまを見られないとあきらめていた身には、思いもよらない「眼福」だった。3・11以来、これほど夢中になれる時間はあっただろうか、なかった。「リング」まではいかなかったが、「リンゴ」を見た。それで十分だった。

2012年5月21日月曜日

富岡町民の集い


被災者のための交流スペース「ぶらっと」(イトーヨーカドー平店2階)で日曜日(5月20日)午前、「富岡町民の集い」が開かれた=写真。お茶でも飲みながら近況を報告し合いませんか――個人の発案による、小さなちいさな集まりだ。20人余の富岡町民が参加した。

朝一番で夏井川渓谷の江田(小川町)の知人宅へ車を走らせた。その上流、無量庵へ足を延ばす時間はない。トンボ返りで市役所本庁舎へ行った。区内会で使用する一斉清掃(6月3日)のためのごみ袋をもらったあと、「ぶらっと」へ。

「ぶらっと」では、10時半から「富岡町民の集い」が開かれる。間に合うかどうか。着いたらちょうどスタッフが開会のあいさつをし、参加した富岡町民が自己紹介を始めるところだった。テーブルにはお茶・ジュース、お菓子が用意されていた。

集いの主役は富岡町民。「ぶらっと」はお膳立てをしただけで、あとはそちらにおまかせだ。常連も、スタッフ・ボランティアも少し離れて富岡町民の集いを見守っている。同じ被災者、同じ避難者。どんな気持ちかよくわかる“当事者”だ。

富岡の人が来る。座っていた人がパッと目を輝かせ、握手する。久しぶりの再会だ(もしかしたら3・11以来か)。それが繰り返される。同じ町の人間といっても、全員が顔見知りというわけではない。知っている人同士が話を始める。笑みがこぼれる。見ているこちらも次第に口元がゆるむ。

富岡といわきは、距離的には車で1時間くらいだろう。が、原発がおかしくなると富岡町民は、南のいわきではなく西の中通りへ避難した。人によっては、そこから転々として、自分の町に近いいわきで仮暮らしをするようになった。でも、家族も、コミュニティもばらばら。話し相手がいない。借り上げ住宅に住む人は孤独感を募らせいる。

それを少しでもほぐそうと、「町民の集い」が企画された。集いをきっかけにつながりが復活し、広がればいい。ケータイの番号を知らせ合う姿が見られた。名残を惜しむ姿が見られた。「また(「ぶらっと」に)寄らせてもらいます」。スタッフ・ボランティアには最高のねぎらいの言葉だ。

「ぶらっと」ボランティアに、いわきにアパートを借りて移り住んだ富岡町のYさんがいる。その人がスタッフとともに尽力したのだろう。終わって「よかったね」と声をかけると、「みなさんのおかげです」。拍手を贈りたくなるような集まりだった。

2012年5月20日日曜日

長寿遺伝子


いわき地域学會の市民講座がきのう(5月19日)午後、いわき市文化センターで開かれた。会員の馬目太一さん(内郷)が「長寿遺伝子についての話」と題して話した=写真。馬目さんは製薬会社を退職後、いわき明星大薬学部で教鞭をとっている。

日本人の平均寿命は世界一。平成22年の試算では女性86.4歳、男性79.6歳になる。つまり、この年に生まれた赤ちゃんの平均余命がそれだけある、ということだ。人口が1億人を超える国でこれほどの長寿を保っているのは大変なこと――そのへんから話が始まった。

薬学部の学生が聴く講義だ。中高年には難しいかなと思ったが、意外と頭に入ったらしい。長生き遺伝子である「サーチュイン遺伝子」とか、カロリー抑制効果を持つ抗酸化物質の「レスベラトロール」とかいう言葉をていねいに説明してくれたからだろう。講話が終わって受講していたお年寄りから質問が相次いだ。

歴史的な平均寿命の確認、縄文時代の寿命、ニンニクの効用……。なかでも「カロリー制限」が関心を集めた。炭水化物・タンパク質・脂肪を今より30%カットすると、長寿化が始まるという。メタボな日本人が増えてきた。「一日三食」を「一日二食」にするといい、ということか。

わが身を振り返ると、確かに飽食気味ではある。脂肪をとりすぎのようでもある。バランスのとれた、昔の日本の食生活に回帰するのが一番らしい。

受講者の最高齢は95歳のSさん。小柄でやせている。事務局から紹介されると、馬目さんが逆質問を始めた。カロリー制限をしてきたのか? 本人にはそんな意識はなかったろう。が、間違いなく長寿遺伝子を持っている。そのおかげで生涯学習の意欲は少しも衰えていない。長寿遺伝子の話を長寿の人たちが聴く――論より証拠の講座だった。

2012年5月19日土曜日

心平の愛した動物たち展


いわき市立草野心平記念文学館で開かれている企画展「草野心平の愛した動物たち」を見に行った=写真。開幕直後だったから、もう1カ月がたつ。だいたい、見たらすぐブログに書く方だが、この「動物たち」展は(市立美術館で開かれている「宮沢賢治・詩と絵の宇宙――雨ニモマケズの心」展もそうだが)、どうも簡単にはいかない。

前橋で、南京で、小川で、新宿で、国立で……。心平が飼っていた動物は犬・キジ・コイ・ウナギ・雷魚・川エビ・ガチョウ・野バト・ヤギ・シャモ・金魚・琉金・メダカ・タナゴ・トビと、枚挙にいとまがない。学芸員がいわき民報に書いている文章から抽出したが、天山文庫のある川内でも心平は動物と縁が切れなかった。

心平とペットとの関係は、私たちが考えるペットとの関係、距離感とはまるで異なる。「飼う」ではなく「同棲する」ところまでいってしまうのだ。その感覚がつかみきれないために、なんと書いたものかと逡巡してしまう。

ここは文芸評論家の粟津則雄さん(市立草野心平記念文学館長)の文章にすがるしかない。「草野心平のもっとも本質的な特質のひとつは、ひとりひとりの具体的な生への直視である」。この直視力は動物・植物・鉱物・風景にも及ぶ。

心平は人も、人以外も「あいまいで抽象的な観念にとらわれることなく、弱々しい感傷に溺れることなく、その視力の限りをつくして直視した。彼とそれらの対象とのかかわりをつらぬいているのは、ある深く生き生きとした共生感とでもいうべきものだ」

魚だって人間だ。植物だって、動物だって。「雨に濡れて。/独り。/石がいた。/億年を蔵して。/にぶいひかりの。/もやのなかに。」。心平の手にかかると、鉱物もまた人間になる。その逆。写真にある右端のゴリラ「或る肖像」も、左端「ゲリゲといふ蛙」の人物も、私には心平の自画像にみえる。

人と同じようにペットの世話をする。観念ではなく、個別・具体の愛する存在として。ペットとつきあう究極のかたちが生半可な言葉をはじきかえすのだ、きっと。

2012年5月18日金曜日

離れの解体へ一歩


先日の朝、建設会社の社員がやって来て、「半壊」判定の離れ(物置)をチェックした=写真。震災に遭った家屋の解体作業を市から委託されているのだろう。受付番号と「家屋解体」「損壊状況」などと書きこまれた、撮影用の簡易黒板を持参した。いよいよわが家の離れの順番がきたようだ。

師走、離れの解体撤去申請書を市に提出した。それから間もなく半年。解体は1年先と踏んでいたが、「6月中旬以降でしょうかね」。思っていたよりずいぶん早い。時期がきたら電気を止めるために東北電力に連絡を、ということだった。

離れは「書庫」のはずだったのが、どんどんモノが持ち込まれ、積みあげられて、いつの間にか「物置」に変わった。まずはそのモノたちを片づけなくてはいけない。それはカミサンの仕事。本箱の全体が見えるようになってから、時間をかけて本のダンシャリを繰り返した。

もう待ったなしだ。最後に残っていた重厚長大モノの美術全集を運び出す。あとは本箱だが、捨てるにはしのびない。古書店を営んでいる若い仲間にやるか、カミサンの実家の物置に運ぶか。建設会社の社員は、いらないモノは災害ごみの仮置場へ持って行くといいという。その手もあるが、本箱はまだ使える。

母屋は「大規模半壊」に近い「半壊」。こちらは申請期限が迫る3月下旬、市に「災害救助法に基づく住宅の応急修理」を申し込んだ。知り合いの大工さんに必要最小限の工事額を見積もってもらうつもりだが、時間がかかりそうだ。

津波に襲われたハマと違って、内陸部のマチは一見、平穏を取り戻したかのようにみえる。が、個々のレベルではまだまだ震災処理が終わっていない。近所ではまた1軒、あっという間に解体され、新築工事が始まった。

2012年5月17日木曜日

写真家


日曜日(5月13日)の夕方、イトーヨーカドー平店2階にある被災者のための交流スペース「ぶらっと」へ行った。そこへ写真家だというデルフィーヌさんと案内役の若い女性2人がやって来た。雑談=写真=のあと、「ぶらっと」スタッフ・ボランティアと写真に納まるなどした。

デルフィーヌさんはフランス人。日本人と結婚してイギリスに住んでいる。案内役の2人と、わがカミサンも加わって、英語でああだ、こうだとやっていた。こちらはチンプンカンプン。要は取材をしたい、そのヒントがほしい、ということらしかった。

「ぶらっと」は<シャプラニール=市民による海外協力の会>が運営している。現地採用のスタッフが3人。すべて女性だ。

その一人、Rさんは双葉町の臨時職員だった。22歳。彼女の「原発避難」体験が同じ20代のデルフィーヌさんのアンテナにひっかかったらしい。ぜひ自宅(アパート)の前で写真を撮りたい、となった。RさんがOKした。そういう組み合わせの写真をシリーズで撮りつづけているのかもしれない。

Rさんの「そのとき」と「それ以後」、そして「今」を、私は初めて知った。その日は同じ双葉町の親戚の家へ。そして翌日、白い防護服を着た人に「逃げろ」と言われた。で、母親と川俣町へ、栃木へ、東京へ――。今は一人、同じ浜通りのいわきに「戻って」きた。

明るくふるまう心の底に、私らいわき市民には想像もつかないなにかを抱えている。それは「ぶらっと」に来る人すべてにいえることだ。外見はあっけらかん――でも、心をのぞいたら……。あらためて津波に被災した人、原発避難を余儀なくされた人たちの苦悩を思う。

2012年5月16日水曜日

大熊町の後輩と再会


「今、どこにいる」「会津です」。磐梯山=写真=が思い浮かぶ。家族は?関東圏に。バラバラか。学校の陸上競技部の後輩と偶然、いわきで再会した。

後輩は大熊町の職員だ。町の復旧・復興をどうするか。会議が始まる、あるいは答申がなされる――そういった節目のときにテレビカメラが入る。この1年余、夕方のローカルニュースでたまに映る後輩の姿を見て、茶の間からエールを送ってきた。

日曜日(5月13日)朝、いわき市立美術館で開かれている「宮沢賢治展」を見ようと、美術館の駐車場に車を入れたら、環境省の腕章をつけた人から声がかかった。「大熊町の人ですか」「いや、美術館に来たんだけど」。車を止めたあと、少し彼の話を聴いた。大熊町民を対象に、目の前の市文化センターで説明会が開かれるのだという。

前日、大熊町民を対象にした政府主催の説明会が郡山市で開かれた。細野環境相が出席し、政府が中間貯蔵施設の建設などについて説明した。翌日曜日は、いわき市と会津若松市でも――というわけだ。

もしかして後輩がいわきに来ていないか。美術館へ行く前に文化センターへ入り、ロビーから会場の大ホール入り口付近を探ったら、人垣の奥にいた。

黙って近づく。目と目が合う。ほんとはハグしたいのだが、それはできない。左手で背中をたたくと、彼も右手で応えた。手短に情報を交換して別れた。その一部が冒頭のやりとりだった。

大熊町と双葉町にまたがって福島第一原発がある。3・11直後、役場の職員はそれこそ「不眠不休」で非常事態に対処せざるを得なかっただろう。その内実は今も変わっていまい。作業服姿がそのことを物語る。

国・県・市町村の対応の遅さに被災・避難住民は腹を立てている。不信感さえ抱いている。基礎自治体である市町村の職員は住民に罵声を浴びせられても、住民と向き合い、話し合わないといけない。自分たちも同じ被災者だが、公務員ゆえに町と町民の現在と未来に責任を負わないといけない。その意味では忍耐・忍従の1年余だったろう。

後輩と酒を酌み交わしたのはいつだったか。正月3が日の休みに行われる陸上部のOB会での席だったが、だいぶ前のことだ。年賀状も今年は来なかった。「孫のことを書いてましたね」。わがブログを読んでくれているようだ。よし、なにもできないけどいわきの地から応援の念力を送り続けるぞ――と決めた。

2012年5月15日火曜日

東京目線


土曜日(5月12日)に夫婦で東京へ出かけた。夕方、用事がすんで帰路に就いた。地下鉄東西線だったと思う。ドアの上にある、次の駅とニュースの情報板のようなものを見ていたら、福島県の小学校の運動会の写真が表示された。翌朝、全国紙の社会面に同じ写真が載っていた=写真

福島市内の小学校で土曜日に運動会が行われた。プログラムの一つ、玉入れの写真だった。子どもたちは全員マスクをしている。地下鉄でその写真を見たとき、福島県の人間である私はびっくりした。マスクをして運動会をやったのか! 東京の人はもっと驚いたことだろう。

私の住む浜通り南部のいわき市平・神谷地区。平六小でも土曜日、2年ぶりに運動会が行われた。敬老会その他ゲストのプログラムをカットして午前中だけにした、ということだった。朝8時半。私らが東京へ出かける時間と、子どもの親たちが学校へ向かう時間とが一緒になった。マスクをして運動会をするような厳しい雰囲気ではない。

帰宅して当日の夕刊と、翌日曜日の新聞をチェックした。県紙は1面に運動会の写真を載せている。だれもマスクをしていない。本文に「土ぼこりが舞う玉入れ競争では内部被ばくを防ぐため、マスクを着用して競技が行われた」とあった。これに対して、全国紙は写真説明に「玉入れ競技はマスクをして行われた」とあるだけ。

ここからは私の推測。ニュースを構成する元素の一つに「異常性」がある。「マスクをした運動会」はそれに当たる。で、「写真的にはおいしい」となったか。

運動会という事実の「全体」を反映はしていないが、プログラムの「一部」には違いない。しかし、福島県以外の読者は「異常な運動会」という印象を持たないだろうか。写真説明に、玉入れはマスクをして、とあっても、それを読まない人だっている(最初、私がそうだった)。「誤読」されやすい写真ではある。

福島と東京の距離を思う。今までは福島から東京を見るばかりだったが、今回は写真を介して東京から福島を見ることができた。東京に本社がある新聞社の「東京目線」、それを実感できた。

2012年5月14日月曜日

漏水


きのう(5月13日)、夏井川渓谷の無量庵へ出かけた。庭の一角に菜園がある。そろそろ「三春ネギ」の苗を定植しないといけない。そのための溝をつくらなくては――。無量庵の庭に車を入れた。快晴、やや風あり。ん、玄関先の一角が水びたしになっている=写真

真冬に洗面台の水道管が凍結・破損した。4月になって間もなく、管工事業を営む同級生に(いつものように)直してもらった。その時点では、台所の水は出ていた。

水源は隣の旧東北電力社宅の井戸だ。そこから水道管を敷設し、飲み水・風呂水・菜園用水にしている。風呂、洗面所へと管が枝分かれし、最後に台所へと管がつながる。水が復活したのに、なぜ台所は水が出ないのか。晴れているのに、なぜ庭のそこだけ水びたしなのか。

漏水だ! そうと気づくまで、人間が二、三回泊まったり、日中過ごしたりする時間が必要だった。すぐ同級生に電話して対処法を聴く。「電源を切るか」「そうしろ」。凍結・破損したときと同じセリフだ。

今思えば、伏線はあった。すべての蛇口を閉めているのに、井戸のモーターが動いている。蛇口が閉まっていれば、水は流れない。モーターは休む。ところが、動いている。ずっと動き続けている。なぜ? 漏水までは想像力がはたらなかった。

3・11から1年以上たつ。そのせいではない。するとやはり、今年の厳冬が原因か。ここは同級生としてではなく、業者としてすぐ仕事をしてもらうようにしよう。

2012年5月13日日曜日

新型「スーパーひたち」


東京へ用事があって出かけた。常磐線の特急「スーパーひたち」(新型車両)を利用した=写真。孫が乗った(試乗会)、若い仲間が3月のダイヤ改正後に乗った、というので、一度は乗り心地を確かめたかったのだ。

土曜日(5月12日)。朝9時19分いわき発の新型車両に乗り込む。前の座席にはめ込まれたテーブルに車内設備のあれこれが書かれている。

車いす対応座席がある。トイレもそれに対応したものになっている。AED(自動体外式除細動器)も備えた。たばこはだめ、デッキ・トイレを含めてすべて禁煙。車内ブロードバンド環境も整備された。各座席にコンセントがついている。ノートパソコンで仕事をする人にはいい環境だ。

静かに発車した。静粛性が新型車両の特徴の一つだという。が、停車駅が近づくたびに日本語と英語で案内放送が流れる。湯本、泉、大津港、日立、常陸多賀、大甕、勝田、水戸。朝寝をしたい身にはこたえた。

あとで気づいたが、知人(カミサンの先輩)が乗り合わせていた。上野で降りる段になって、カミサンが声をかける。高校の同窓会長をしている。東京での同窓会の集まりに顔を出さなくてはならないのだという。当たり前のことながら、乗客の数だけ目的がある。その人たちのためにひたすら列車は走る。

帰りは午後6時上野発の新型車両に乗った。私ら夫婦もそうだが、わきの席、前の席と、一斉に駅弁を食べ出した。ちょいと面白い光景だった。この時間帯、考えることはみな同じらしい。

それとハプニングが一つ。小一時間も走ったところで急停車した。線路のわきは水田、遠くに家並みが見える。「緊急停止を知らせる信号を受信したため急停車した」という車内放送が流れた。時間から推測すると、停車した場所は土浦あたりだろうか。

第二報。「上り列車が荒川沖―ひたち野うしく間で小動物と衝突した。安全が確認されるまで停車している」。事故現場は前方ではない、後方だ。通り過ぎてしまった列車にも信号が届くのか。その影響で「スーパーひたち」は18分ほどそこに留まった。

ついでながら、この「スーパーひたち」の先頭車両には既視感(デジャヴ)がある。黒い窓のフルフェイスヘルメットをかぶった“四つ目”の「ニュー仮面ライダー」といったところだが、どうだろう。

2012年5月12日土曜日

歌の力


ポピーのこぼれ種が発芽し、至る所で花を咲かせている。電柱のたもと=写真、畑のへりのカラ側溝、空き地……。種の力、いや植物の力だ。その連想で「民草」の力、庶民の「歌の力」を思った。『震災後のことば――8・15からのまなざし』(日本経済新聞出版社刊)を読んだせいかもしれない。

日経の文化部編集委員(宮川匡司さん)が昨年、吉本隆明さんらにインタビューをして記事にした。その単行本だ。

詩人で弁護士の中村稔さんにも話を聴いた。「歌の力」について、聴き手はたずねる。「今回、かなり多くの歌人の方が、震災を取り上げた歌を作っていて、その中にはいい作品が生まれているように思います。(略)詩よりも短歌の方が、見るべき作品があるように思うのですが」

すると、中村さんは答える。「歌の方が、一般庶民の心情に近いレベルで、日常的な心境を表現できるんですね。日記代わり毎日毎日、歌を書きつけてゆく、というところがある。(略)僕のように天変地異に対して、人間はどうあるべきか、なんて考えると、なかなか詩は書けない、ということになる」

で、一つの結論。「歌を書く人は、日記みたいにして日常的な視点から作品を書くから、中にはいいものができる、ということがあり得るともいえると思うのです」。中村さんの見立てが腑に落ちた。

「東日本大震災」のあと、それと向き合った詩人、作家、歌人、俳人の作品を目につく限り読んだ。詩よりも、俳句よりも、そして小説よりも、短歌に感銘を受けた。それも庶民の作品に。小欄の2月27日付「震災歌集」、3月9日付「『冥途のみやげ』だなんて」で紹介した、コスモス短歌会福島支部歌集『災難を越えて――3・11以降』のことだ。

巧拙を越えて胸に迫るものがある――そんな感想をいだいた。ブログに取り上げたところ、支部の代表から「いい『冥途のみやげ』になった」という礼状が届いた。これにはとまどった。「『冥途のみやげ』だなんて」を書いたのはそのため。で、先日「冥途のみやげ」の意味はこうなんですよ、という返事(はがき)が届いた。

コスモス短歌会の会員は高齢者が多い(最近、人づてに若い医師も会員になっていることを知った)。夫が早くに他界し、子育てに苦労しながらも歌を詠み続けた人がいる。その人が言っていたそうだ。亡き夫への「『冥途のみやげ』に歌を大切にしている」のだと。代表も10年ほど前に夫を見送った。歌は「支えてくれた亡き人へ冥途のみやげなのです」。そうだったんですね。

親やきょうだい、友人、知人など、親しい人がだんだん向こうへ移り住めば、こちらにいることがときに寂しくなる。それでも生きなくてはならない。向こうへ行くまでは「歌の力」に支えられて、向こうへ行ったら(まだ行くのは早いですよ)、歌とともにこちらの惨状をしかと伝えてください――そんなことを書けるくらいに心が晴れた。

2012年5月11日金曜日

春シイタケ


夏井川渓谷の無量庵。庭木の下にシイタケ菌を埋め込んだ榾木が2本ある。手に入れたのは10年ほど前。最初の2、3年はシイタケがいっぱいなったが、このごろは秋と春に1、2個出るくらい。要は、放置したままになっている。

5月8日に出かけたら、1個、ホットケーキまではいかないが、それに近い大きさのシイタケが出ていた=写真。大型連休後半は雨に見舞われた。それで、子実体が一気に生長したと思われる。昨年秋にも2個ほど姿を見せた。

日曜日(5月6日)は激しい雷雨になった。茨城県などでは竜巻が発生した。いわきの平地にあるわが家の近辺は停電にならずにすんだ。が、翌日の新聞でいわき市内でも落雷・停電があったことを知る。

無量庵では雷雨一過後、ブレーカが落ちて冷蔵庫の氷や冷凍食品が解けたことがある。平地は無事でも、山地は無事ではないかもしれない。で、火曜日にブレーカが落ちていないか確かめに行った。無事だった。そのあと、家の周りを見て回ってシイタケを確認した。

さて、どうするか。同じ60代の友人2人が趣味でシイタケを栽培している。2人もまたシイタケを前に逡巡した。食べてもいいが、と言いながら、食べるのをよしたらしい。キノコはベクレルが高い。去年秋と同様、写真を撮るだけにして帰って来た。

2012年5月10日木曜日

「小事」が大事


私の住む地域で大型連休の最終日(5月6日)、区内会の役員が出て「箇所検分」を実施した。区内を歩いて、危険個所はないか、道路の要補修個所はないか――そういったことをチェックする。

側溝蓋が破損している=写真、マンホールの周りのアスファルトが欠けている。毎年、チェックしているので、市に改善を要望するのはその程度だが、地域の安全を保つためには欠かせない点検作業だ。

それが終わってホッとした翌日、カミサンから声がかかった。わが家の生け垣の剪定を、という。家の東西にマサキの生け垣がある。剪定を怠っていたので、2階に届くまで枝が伸びた。

剪定の前にチェックしないといけないことがある。晩秋、ミノウスバ(ガの一種)がマサキに産卵し、大型連休前後に孵化する。暖冬だとか厳冬だとかはあまり関係ない。退治する時期をはずすと、幼虫が木全体に展開して葉があらかた食害される。あげくに幼虫が葉を求めて隣家に移動し、苦情がくる。

実は、大型連休前にマサキをチェックして、まだ展開せずにかたまっている幼虫を枝ごと取り除いた。が、敵もさるもの。時間差攻撃をしかけてくる。マサキの枝葉を剪定していたら、ぼろぼろ幼虫が糸を引いて垂れ下がってきた。剪定が、結果的にミノウスバの除去を兼ねることになった。夕方にはキュウリやカブを買ってきて浅漬けをつくった。

マサキを剪定し、合わせてミノウスバを退治し、浅漬けをつくったことで、なんだかゆったりした気分になった。日々の暮らしに「大事」が起きたら、むろん困る。「小事」のうちにその芽を摘む。それが、とりあえず今度はできた、という安心感だろう。暮らしていくうえでは、こうした「小事」が大事になる。

2012年5月9日水曜日

高圧線作業


平の街へ出かけると、東日本国際大のある鎌田で夏井川を渡る。行きか帰り、必ず夏井川の堤防を利用する。その起点・終点が大学のふもとにある「平神橋」だ。大型連休谷間の5月2日午前、平神橋から堤防へ折れると、夏井川の上に架かる高圧送電線に黒い塊がいくつかついていた。デジカメの画像を拡大すると人間だった=写真

いわき駅を中心にした市街地から見ると東はずれ、夏井川の上空に東北電力の高圧送電線が張られている。平神橋の両側に鉄塔が立ち並ぶ。ネットにある国土地理院の地図で追ったら、小川町下小川の変電所と平谷川瀬の変電所とがつながっている。要するに、夏井川の上流から下流へと電気が来ているのだろう。

めったにないシャッターチャンスだ。しばらく様子を眺めた。鉄塔に1人、高圧線に3人。さらに、奥の鉄塔にも作業員が張りついている。

足元には半畳くらいのネットが張られてある。作業員は命綱で高圧線とつながっているはずだから、用具の落下防止ネットだろう。

下から見ると作業員はカラスのように小さくて黒い。送電線からの眺めはどうだ。それこそ鳥の目でマッチ箱のような家々を見下ろしている。いや、そんな余裕はないか。

ともあれ、世の中にはいろんな職種・仕事がある。高所作業を仕事に選んだ彼らに敬意を表する――そんな気分になった。

2012年5月8日火曜日

雷の道


きのう(5月7日)の続き――。雷雨による停電(わが家は無事だった)はともかく、竜巻(テレビで見たつくば市その他)の被害はけたが違う。黒々と渦を巻いた空気が大地にあるものを切り裂く。きのうも夕方、晴れていた空がかき曇り、鉛色の雲に覆われた=写真。心配になった。たまたまわが家の近辺は遠雷ですんだ。

つくば市の竜巻被害は局部的・直線的であっても、1軒1軒の被害としては「津波」に匹敵するほどの大きな自然災害だったろう。その被害の大きさに胸が痛む。

無事なところにいた者でさえ、6日午後の雷雨には恐れをなした。車には落雷しないとわかっていても、国道6号を走りながら放電と落雷のなかに閉じ込められた、という気持ちに襲われた。

「雷の道」がある。根本順吉著『江戸晴雨攷』(中公文庫)のなかの「夕立」によると――東電管内、つまり関東圏には7つの「雷の道」がある。東電の人間が落雷事故からルートを解明した。なかでも優勢なのが「赤城・榛名系統」の雷。北西から南東に進む。おおかたはその方向で移動する。で、「世界的に見ても関東地方は雷の多発地帯」なのだという。

夏井川渓谷の無量庵でものすごい雷雨に襲われたときがある。雷が横に走るのを見た。音も光もすぐそばだ。雷雲の真っただ中にいる。地響きがして空気が震える。電気を消して縮こまっているしかなかった。

近くの水力発電所に勤めていた集落の長老によると、夏井川渓谷近辺には二つの「雷の道」がある。一つは、白河あたりで発生した雷雲が久之方面に抜けるルート。もう一つはより北側、会津方面からやってきたのが木戸川(楢葉町)あたりに抜けるルートだ。

怖いのは「白河―久之浜」線だという。直撃を受ける可能性がある。「会津―木戸川」線の場合は、遠雷ですむ。7日の遠雷はそれだったか。

関東の竜巻の話に戻る。竜巻は、関東にある七つの「雷の道」とは進路が異なるようだ。つくば市でも、栃木県でも南西から北東へ突っ走った。「雷の道」のなかに「竜巻の道」が派生するのかどうか、しろうとにはむろんわからない。が、竜巻は「テレビで見るアメリカの話」ではなくなった。大災害を引き起こす「現実」になった。

2012年5月7日月曜日

雷雨


きのう(5月6日)、四倉の食堂で遅い昼食をとって店を出たら、ポツリ、ポツリと落ちてきた。車を動かすと、たちまち雨が道路をぬらす。車をたたく。バケツをひっくり返したような感じ? いやいや、風呂の底が抜けたような感じ。あっという間にあたりは暗くなり、車のライトがともる=写真。雷が鳴る。鉛色の空が光り、稲妻が落ちる。

カミサンが思い出したようにつぶやく。「毛布を2階に干しっぱなしにしてきた」「窓も開けてきた?」「うん」。午前中は、まあまあ天気がよかった。大気の状態が非常に不安定で、東北・北海道は雷を伴う激しい雨になる――新聞を読んだが、気象情報までよく確かめなかった。早く家へと気はあせるが、雨がすだれになってスピードを上げられない。

帰宅して2階に駆け上がる。カミサンが毛布を取り込む。私は窓を閉める。毛布はぽたぽたしずくが垂れていた。重い。朝、隣のコインランドリーで毛布を洗濯したのだという。毛布は大物だから、家の洗濯機ではちょっと無理。洗ったあとは天日乾燥で――が裏目に出た。

コインランドリーは3・11以来、にぎわっている。外に干すと放射性物質が付着するのではないか。ならば、洗濯も乾燥もランドリーで、洗濯はわが家でしても乾燥はランドリーで――そういう家が一時、増えたのはまちがいない。

今はさすがに家やアパートの軒下に洗濯物が並ぶ。そんな連休最後の、突然の雷雨だ。アパートのベランダに干したままの敷布があった。朝のうちに家事をすませて外出したのだろう。

夜のニュースで、つくば市など北関東ではかなり竜巻被害があったのを知る。空からの映像に息をのんだ。雷雨、竜巻――気象が狂暴化していることをあらためて実感した。

2012年5月6日日曜日

立夏


大型連休がきょう(5月6日)で終わる。夏井川渓谷はアカヤシオの花が散り、大型連休とともにヤマザクラの花が満開になった。その花が散り、新緑に染まってシロヤシオ(ゴヨウツツジ)の花が咲きだした=写真

大型連休をどう過ごしたか。毎年、一日は酒を飲みすぎて動きが取れなくなる。それに近い日はあったが、今年はだいたい落ち着いて過ごした。4月28~30日。孫たちと遊び、夏井川渓谷で過ごし、東京からやって来た大学院生たちの質問を受けた。

後半の5月3~5日は、同級生と夏井川渓谷で酒盛りをし、帰宅して調べ物をした。きょうは午前10時から、中神谷南区の役員が参加して区内の「箇所検分」をする。道路の要補修個所はないか、危険個所はないか、防犯灯の状況は――毎年、年度当初に実施する大事な区の仕事だ。

大型連休のしめくくりが「箇所検分」ということで、遊び過ぎた思いが少しは薄まる。日常に戻るきっかけにもなる。

それはそれとして、いわきではこの大型連休中に春から夏へと季節が変わった。夏井川の下流域では夏鳥のオオヨシキリが飛来した。渓谷では初夏を告げるシロヤシオが咲いた。山から下りると、神谷耕土では田植えが始まっていた。夜には雷雨のおまけがついたが、文字通りの立夏(5月5日)になった。

2012年5月5日土曜日

滝ができる


大型連休後半初日は雨にたたられた。5月3日、夏井川渓谷の無量庵で4人だけの同級会をした。夕方出かけると、平の街のはずれを流れる夏井川が増水していた。想像以上に山は大雨になった。渓谷ではあちこちで滝ができていた。

雨が降ると崖に滝ができるノルウェーのベルゲンの街が思い浮かんだ=写真。ベルゲンは「一年に400日雨が降る」といわれるほどの多雨地帯。4人はそこへ旅した仲間でもある。

ベルゲンはU字谷の延長のフィヨルド、夏井川渓谷はV字谷。UとVの違いはあっても、ところどころ岩盤がむき出しになっている点は同じだ。ベルゲンと比べて規模は小さいものの、雨が降ると涸れ沢が滝になる。「白糸の滝」なんていうような、生易しいものではない。そばの道路が冠水するほどの激しさだった。

無量庵へ着くまで気が気でなかった。雨がたたきつける、同じ日の朝、いわき市田人町の国道289号で土砂崩れが起きた。夏井川渓谷を縫う県道小野四倉線は、しょっちゅう落石があるところ。さいわい落石はなかった。

悪天候下の無量庵行はめったにない。そもそも天候が悪ければ出かけない。3日に集まろうと決めたから、車を走らせた。夏井川渓谷の、豪雨の日の姿、ふだんとは異なったもう一つの顔を、怖さとともに知った。

2012年5月4日金曜日

山菜てんぷら


夏井川渓谷の無量庵の庭に、春の食菌・アミガサタケ=写真=が1個出現した。同じころ、被災者のための交流スペース「ぶらっと」(イトーヨーカドー平店2階)に、山菜がどっさり届いた。原発事故のためにいわき市で仮暮らしをしている大熊町の男性が、山から採ってきたのだという。

キノコは水で洗い、ゆでこぼせば放射線量が下がる。去年暮れのいわきキノコ同好会の総会で得た情報だ。それにならってアミガサタケをしばらく水につけ、油でいためて食べた。こりこりしてうまかった。

山菜は、男性が住んでいる好間の近辺で採ったものだろう。タラの芽、コシアブラ、コゴミ(クサソテツ)、ワラビ、そして好間川のクレソン。2回目に届いたのは「ぶらっと」が定休になる前日で、ほぼ独占的に譲り受けた。

昨年の梅雨どき、無量庵の庭からマメダンゴ(ツチグリ幼菌)を掘って食べた話を書いたら、何度か顔を合わせたことのある徳島大学歯学部の先生から「キノコもおいしく食べられるお年ですから」と半分あきれたコメントをちょうだいした。川前出身の人からはチチタケの線量を知らされた。セシウム134、同137が計3490ベクレル。

測定器でシイタケや山菜の線量を測った友人が来て言うには、葉物は大丈夫、シイタケは数値が高かった。キノコはベクレルが4ケタになると覚悟しておくべきなのかもしれない。

で、発泡スチロールの箱にいっぱい入った山菜だ。てんぷらやおひたしにしても、夫婦2人では食べきれない。ご近所におすそ分けした。食べないでストレスをためこむより、リスクを承知して食べて楽しむ――人には勧められないが、ときには決まりを越えないと、と自分に言い聞かせながら箸をうごかした。

2012年5月3日木曜日

横断幕


カミサンがいわき市暮らしの伝承郷へ行くというので「アッシー君」をした。伝承郷の事務室で、伝承郷がOKならそのまま寄贈する、というモノを見た=写真。なんだこれは、「乃木バー」に関係するものではないか。あわてて車へ戻り、カメラをとりだして写真を撮った。

3・11から1カ月後の4・11に、いわき市の内陸部を直下型地震が襲った。そのとき被災した内郷の知人の家から、ダンシャリで出てきた横断幕だ。木綿の紺地に赤く「のし昆布」と思われるものが描かれ、「せ里ざわ自動車店ゟ(より) 乃木左(さ)ん江」という文字が書きこまれている。

「乃木」は先日(4月14日付小欄)紹介した大正時代創業の「乃木バー」、「せ里ざわ自動車店」は昭和初期、いわきで乗合バスを走らせていたバス会社だ。

いわき総合図書館から『常磐交通三十年のあゆみ』(昭和48=1973年刊)を借りてチェックした。昭和初期に乱立したバス会社は段階的に整理・統合され、太平洋戦争さなかの昭和18(1943)年師走、常磐交通(現・新常磐交通)に一本化される。統合される一つに「合資会社 芹沢自動車」があった。

「芹沢自動車」は昭和3(1928)年に創業した。平市字三町目に本店があった。西洋料理を看板にする「乃木バー」とは同じ町内だ。統合時には自動車(バス)4台を所有し、「平―上小川」「上平(うわだいら)―小川郷駅前」「上小川―高崎」の3路線で営業をしていた。要は、小川町をエリアにしたバス会社だった。

「乃木バー」は、大正10(1921)年にはすでに開業していた。その年の通い帳がある。横断幕は「乃木バー」への、なんらかの祝儀にはちがいない。「芹沢自動車」の創業年のあと、たとえば「乃木バー」の<開店10周年>を記念して贈り、店内の壁にでも張ってもらったものか。

横断幕から、「乃木バー」は昭和3年以降も地域社会に受け入れられていたのだ、ということがわかる。いわきの「大正ロマン」と「昭和モダン」の実態がまた一つ、みえてきた。

2012年5月2日水曜日

田植え


今年はどうしても去年との比較になってしまう。去年。いわきの田植えはいつものときより10日ほど遅れた。稲作をすべきかどうか――時間がたってから、県がゴーサインを出した。今年。いつものように大型連休から田植えが始まるようだ。

いわき市内でも先陣を切る鹿島町上・下蔵持地区。田んぼには水が張られ、機械が入って代かきが行われていた=写真。4月29、30日と鹿島街道沿いの書店に通い、帰りに蔵持の道を通った。田植えは秒読み、5月になるとすぐだな――そう思わせるほど準備が進んでいた。

ひるがえって、わが方は――。毎日が日曜日だったり、月曜日だったりする身だ。「連休」感覚はない。むしろ、世の中が休んでいるうちにたまっている仕事を片づけよう、レジャーよりデスクワークだと、言い聞かせるのだが、イベントと薫風に誘われてしまいそうだ。

きょう(5月2日)から8日まで、平のギャラリー界隈でダビ(本名・緑川雄太郎)クンの個展「サンライズ」が開かれる。いわき地域学會第12回美術賞受賞記念展だ。オープニングパーティーには顔を出さないといけない。酒を飲むことになる。

あしたは夏井川渓谷の無量庵に同級生が3人やって来て泊まる。5人で酒盛りをする予定だったのが、1人減った。急に仕事が入ったのだという。一番会いたい人間だったが仕方がない。ミニ同級会が終わって「男の隠れ家」からマチへ下れば、田んぼはところどころ青田に変わっていることだろう。

2012年5月1日火曜日

梨の花


梨の花が満開になった。支柱を立て、番線を張った「梨棚」が花で埋まった。ところが、この梨畑はどうだ。空に伸びた徒長枝も花で満開になっている=写真。そんな梨畑を初めて見た。

いわき市平から小川町の夏井川渓谷へと車を走らせた。国道399号~県道小野・四倉線(同じ一本道)沿いに数カ所、梨畑がある。この時期、梨の花は棚に沿って水平に咲く。というより、梨農家は冬、枝を整理・誘引して垂直には花が咲かないようにする。養分を集中させるのと、収穫を容易にするためだ。

梨農家の1年をネットでチェックすると――。春の芽かき・摘蕾・摘花・人工受粉作業に始まり、初夏の摘果、そのあとの袋がけ、収穫がすめば晩秋~冬の剪定・粗皮削りと周年、仕事が続く。6月の暑い盛り、来年の花芽を残しながらの徒長枝剪定もある。

「百姓バッパ」を自称した作家吉野せいは、夫の詩人三野混沌(吉野義也)とともに梨を栽培して生計を立てた。「芽の残し方なんか、この芽ならいい花がつくってことはもう冬のうちから見通しです」「果物づくりは面白いので、わたしはよく研究しました」。1歳にも満たずに亡くなった次女には、「梨花(りか)」と名づけた。それほど梨栽培に打ちこんだ。

梨農家はこうして、梨の木をいとおしみながら栽培を続ける。それなのに、なぜ徒長枝でボサボサの棚になったのか。

気になって別の梨畑を見た。花は枝が誘引されて水平に咲いていた。徒長枝はない。梨棚の下では何人かが午後3時の一服中だった。受粉作業に精をだしていたのだろう。徒長枝だらけの梨畑は、やはり梨畑ではなくなったのだ。理由は? 行きずりのドライバーにはむろんわからない。