2012年5月12日土曜日

歌の力


ポピーのこぼれ種が発芽し、至る所で花を咲かせている。電柱のたもと=写真、畑のへりのカラ側溝、空き地……。種の力、いや植物の力だ。その連想で「民草」の力、庶民の「歌の力」を思った。『震災後のことば――8・15からのまなざし』(日本経済新聞出版社刊)を読んだせいかもしれない。

日経の文化部編集委員(宮川匡司さん)が昨年、吉本隆明さんらにインタビューをして記事にした。その単行本だ。

詩人で弁護士の中村稔さんにも話を聴いた。「歌の力」について、聴き手はたずねる。「今回、かなり多くの歌人の方が、震災を取り上げた歌を作っていて、その中にはいい作品が生まれているように思います。(略)詩よりも短歌の方が、見るべき作品があるように思うのですが」

すると、中村さんは答える。「歌の方が、一般庶民の心情に近いレベルで、日常的な心境を表現できるんですね。日記代わり毎日毎日、歌を書きつけてゆく、というところがある。(略)僕のように天変地異に対して、人間はどうあるべきか、なんて考えると、なかなか詩は書けない、ということになる」

で、一つの結論。「歌を書く人は、日記みたいにして日常的な視点から作品を書くから、中にはいいものができる、ということがあり得るともいえると思うのです」。中村さんの見立てが腑に落ちた。

「東日本大震災」のあと、それと向き合った詩人、作家、歌人、俳人の作品を目につく限り読んだ。詩よりも、俳句よりも、そして小説よりも、短歌に感銘を受けた。それも庶民の作品に。小欄の2月27日付「震災歌集」、3月9日付「『冥途のみやげ』だなんて」で紹介した、コスモス短歌会福島支部歌集『災難を越えて――3・11以降』のことだ。

巧拙を越えて胸に迫るものがある――そんな感想をいだいた。ブログに取り上げたところ、支部の代表から「いい『冥途のみやげ』になった」という礼状が届いた。これにはとまどった。「『冥途のみやげ』だなんて」を書いたのはそのため。で、先日「冥途のみやげ」の意味はこうなんですよ、という返事(はがき)が届いた。

コスモス短歌会の会員は高齢者が多い(最近、人づてに若い医師も会員になっていることを知った)。夫が早くに他界し、子育てに苦労しながらも歌を詠み続けた人がいる。その人が言っていたそうだ。亡き夫への「『冥途のみやげ』に歌を大切にしている」のだと。代表も10年ほど前に夫を見送った。歌は「支えてくれた亡き人へ冥途のみやげなのです」。そうだったんですね。

親やきょうだい、友人、知人など、親しい人がだんだん向こうへ移り住めば、こちらにいることがときに寂しくなる。それでも生きなくてはならない。向こうへ行くまでは「歌の力」に支えられて、向こうへ行ったら(まだ行くのは早いですよ)、歌とともにこちらの惨状をしかと伝えてください――そんなことを書けるくらいに心が晴れた。

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