2012年6月30日土曜日

古書通信


3カ月余り前、3月中旬のことだ。ネット古書店を経営する若い友人が「日本古書通信」=写真=の編集者とわが家へやって来た。編集者は福島県出身の女性。東日本大震災からちょうど1年。書物の森をさまよっている人間としてインタビューを受けた。

この1年、ブログに書いてきたこと、つまり見たり聞いたり、かかわったりしたことを話した。それが、「日本古書通信」の今年の5月号、<震災後1年レポート――福島、宮城の古書店界(上)>のなかに挿入された。

編集者は震災後の昨年4月上旬、オートバイを駆って被災地の福島県をめぐった。同誌の昨年5月号に、そのルポ記事<東日本大震災と古書店――被災地 福島を訪ねて>が載る。

同じ5月号に被災地の「読者からのお便り」も載った。いわきの知人2人のコメントが胸に突き刺さった。1人はいわき地域学會の先輩、もう1人は古書店の平読書クラブ。平読書クラブは「地震により本棚倒れ、本が散乱、家屋ひび割れ要修理、加えて原発の不安で心休まらず休業中です」。1年たった今も事情は変わらないようだ。

平読書クラブへは10代後半に通い始めた。最初は読みたい本を探す、やがて金がないから本を売る――。店の奥に鎮座しているオヤジさんと知り合いになり、ときに代役のオバさんとも顔見知りになった。東京へ飛び出し、4年後にJターンをして新聞記者になった。会社は平読書クラブの3軒隣。毎日のように、昼休みに店へ寄った。

<震災後1年レポート>の私の記事に関する最後の部分。「ご夫妻の出会いの場は平読書クラブさんだったそうで、こんなところにも古書店の人を繋ぐ力を感じる」。カミサンはそんなことまでしゃべったのかと、おかんむりだったが。

さて、オヤジさんとは45年のつきあいになる。別の場所にビルを建てて引っ越してからは、足が遠くなった。若い友人によれば、オヤジさんは先日、福島県古書籍商組合の代表を辞した。当たり前のことながら、年は平等に取る。このごろ、ときどき顔を思い浮かべては、売ったり買ったりした本のあれこれを思い出している。

2012年6月29日金曜日

恒丸と素月


「父の日」の少し前、俳諧を研究している勿来工業高校の二村博先生から手紙が届いた。会ったことはない。が、歴史を研究しているいわき地域学會の先輩から、彼のことを聞いてはいた。

わがふるさと・田村市常葉町=写真=出身の、江戸時代の俳諧宗匠今泉恒丸・素月夫婦について本を書いた。8月に会津の歴史春秋社から刊行されるという。思わず「ありがたい」と手紙にむかって頭を下げた。19年前、いわき民報の年間企画「あぶくま紀行」で恒丸と素月についての文章を書いた。以来、うっちゃったままにしてある。

チラシが同封されていた。矢羽勝幸・二村博共編著『鴛鴦(えんおう) 俳人恒丸と素月』というのが、本のタイトルだ。矢羽さんは小林一茶研究の第一人者、二村さんはその教え子。本の値段は3,675円。9年前に出版されたお二人の『俳人塩田冥々―人と作品』(象山社)は本体1万円だったから、安いと言えば安い。

なによりもまず、常葉の人に買ってもらいたい。そこに、これからの常葉のまちおこしの素材が埋まっているかもしれないから。

チラシの文章を紹介する。「俳人、今泉恒丸は、福島県常葉町の生まれ。幕末の俳諧を代表するまでになった。千葉県下総、常陸地方で四千人を超える門下生を従えるに至った大変な俳人である。/そのなぞ多き人生を一茶研究の第一人者矢羽勝幸先生と東北の俳諧研究者二村博先生の師弟コンビが共編著でまとめあげた渾身の力作!!」

「幕末」というよりは「江戸後期」だ。恒丸は宝暦元(1751)年に生まれ、文化7(1810)年に没している。小林一茶とつきあいがあった。一茶よりは一回り年上。そして、妻・素月の、恒丸没後の蝦夷行――。お二人が恒丸と素月をどう解剖したのか、学術書ながら推理小説の発刊を待ち望むような気持ちになっている。

2012年6月28日木曜日

ホタルブクロ


ホタルブクロ=写真=は大好きな花の一つ。阿武隈高地で生まれ育った人間には梅雨を象徴する山野草だ。

小学生のとき、野道でこの花を見た。中学生のとき、やはり野道でこの花を見た。そのあと、ふるさとの山である大滝根山の南面から発する夏井川を下って浜通りの学校に入った。ふるさとのホタルブクロは頭のなかだけの花になった。

代わりに、平市街の裏山である石森山や夏井川渓谷の無量庵の周辺で、ホタルブクロが咲けば写真を撮る。そのつど、ふるさとのホタルブクロが思い浮かぶ。

先週土曜日(6月23日)の午後、無量庵へ出かけた。ネギ坊主の収穫が目的で、その話は6月26日に書いた。ホタルブクロの花が道端に咲いていた。今年も咲いてくれたか――。昨年の3・11以来、そこに再び同じ花が咲いた、同じ鳥がやって来た、というだけでうれしくなる。

県道小野・四倉線でその花を撮っていたときのことだ。下流の平方面から白バイが現れた。こんな田舎道に白バイが? すぐあとにパトカーがついていた。パトカーのあとには黒塗りの乗用車。ちょっとあとから白バイが3、4台。なんだ、この物々しさは!

午後4時ちょっと前の小川町・江田付近。すぐ思い浮かんだのは、いわきに住まいのある新しい復興副大臣でも乗っていたか、ということだった。

いわき市は双葉郡に接している。ⅤPがわざわざ渓谷の道を使うとすれば、原発事故にからんだ用事しか思い浮かばない。川内、あるいは中通りへ?

むろん、副大臣とは関係ない車列だったかもしれない。が、ホタルブクロと阿武隈高地の放射能汚染とが、そのときはつながった。飯舘村でも、浪江町でも人知れずホタルブクロが咲いていることだろう。

2012年6月27日水曜日

ハゲ毛(もう)!


「ハゲ毛(もう)!」。これは疑似孫から疑似ジイへの、「父(ジジ)の日」前日の応援メッセージ=写真。ざっと半月前の話。一日早く一家がやって来て、「父(ジジ)の日」を楽しませてくれた。「いっしょにハゲ毛(もう)!」は少学5年生の妹(右)、「いっしょにはげもう」は中学1年生になったばかりの姉(左)の作品だ。

2人がまだ幼いころ、といってもちょっと前のことだが、私のバーコードのような頭と満月のような腹に興味を持った。指で腹をちょんちょんとつついたこともある。酒盛りをする大人たちのかたわらで、せっせと画用紙に鉛筆を走らせる。で、最新作がこの「ハゲ毛!」。上手なものだ。特徴をよくつかんでいる。

なにに励むのか。やることは三つ。カネをもらってやっている仕事が一つ。これは手を抜けない。区内会、そしていわき地域学會の仕事。それにもう一つ。「シャプラニール=市民による海外協力の会」がいわきで被災者の支援活動をしている。その手伝いを、時々。このごろは、約束をたがわないように手帳を開いて予定を確かめることが多くなった。

毎月、わが家の隣にやって来る移動図書館から借りた本のなかに、正高信男著『団塊のジジババが日本をダメにする』がある。結構、辛辣な本だ。「自分のDNAを受けつぐ者には、金銭も愛情も降る星のように注ぎ込み、それでいて天災で本当に助力を必要としている子どもには目を向けようとしないような心情」の持ち主が団塊の世代なのだとか。

著者は1954年生まれのサル学者。団塊の後発組の一人だ。欧米人は孫育てに熱中するわけではない、養子を育てるのだという。「実際問題として、養子縁組を必要とする子どもがたくさんいるにもかかわらず、彼らはそこに目を向けません。団塊の世代のジジババが、いかに社会的な関心事に無知であり、利己的なのかを物語っています」

いきなり養子問題を突きつける。難くせをつけられているような思いだが、まだ読み始めたばかり。投げ出すのは早い。ここは疑似孫の応援メッセージを胸に読み続ける、と決めた。とにかく一緒に励もう、である。

2012年6月26日火曜日

ネギの黒い種


カラッと晴れた先週末の土曜日(6月23日)午後、夏井川渓谷の無量庵へ車をとばした。菜園にある「三春ネギ」のネギ坊主から黒い種がのぞいていて、収穫が可能になっているはずだ。その通りだった=写真。ネギ坊主を花茎から切り取った。

ネギ坊主の収穫をいつにするか。マチにいながら「そのとき」をいつも計っていた。例年、6月中旬以降にネギ坊主を刈り取る。今年は厳冬のせいで苗の育ちがやや遅かった。ネギ坊主の形成も遅かった。

ネギ苗は遅まきながら6月1日に定植した。次は採種だ――1週間ごとに出かけてはネギ坊主を観察した。20日未明の台風一過後、再びやってきた晴天に体が反応した、黒い種がのぞいているはずだと。

三春ネギは、いわきの平地のネギと違って秋まきだ。採種(6月)~播種(10月)~定植(翌年5月)~伏せ込み(8月=曲がりネギにするための作業)~収穫(秋・冬)~採種(翌々年6月)――。採種用のネギはむろん畑に残しておく。種から次の種が生まれるまでに、足かけ3年はかかる。

3・11、というより原発事故がこのサイクルを断ち切ろうとした。意地でもネギの種を採って「自産自消」を続けてやる。覚悟を決めて昨年6月、ネギ坊主を収穫し、種を採った。冷蔵庫に保存し、秋にまいたのが芽を出し、越冬して育った。それを定植した。

ネギ坊主を形成したネギは分けつして、次の世代の葉が伸びている。古い花茎は硬く、新しい世代と同根ながら根元からぽきりと折れる。新しい方は溝に並べて根元に土をかぶせた。古い花茎はごみ袋に詰めた。みじんにして線量を測るつもりでいる。

2012年6月25日月曜日

冷やし中華


昼食は冷やし中華だという(わが家の話です)。マヨネーズが用意されてある。いわきの人間にとっては、冷やし中華にマヨをかける、というのは当たり前のこと。カミサンが皿に麺を盛り、キュウリその他をトッピングした。そこへマヨを円を描くようにかけた=写真

しばらく前、郡山に本社がある近場のラーメン店へ行って冷やし中華を注文した。お昼どきで、客が次から次に入ってくる。テーブルに届いた冷やし中華を見て思わずうなった。「マヨが付いてない。郡山流か、ここは」

しかたがない、食べたが舌と気持ちがぼそぼそしていけない。麺がするっとのどの奥に入っていかない。いわきの人間には、マヨをからめない冷やし中華は冷やし中華ではないのだ。マヨを添えるいわきバージョンをつくってほしいよ、まったく――食べながらそう思った。

日曜日(6月24日)の昼、わが家の近所の中華料理店で冷やし中華を食べた。マヨが添えられていた。地元の店だから当然だ。マヨがあることで落ち着いて食べられた。

食文化は一律ではない。土地によって異なる。チェーン展開には単一の味が効率的かもしれないが、メニューによってはそれになじまない人・地域もある。「マヨがない」とぶつぶつ言いながら、冷やし中華を食べたくない。

2012年6月24日日曜日

ランドマーク


国道6号沿いにそびえる「塩のケヤキ」=写真=を見ながら、自宅と職場を行き来した。子どもがまだ幼稚園のころ、いわき市平の平窪から神谷へ引っ越した。神谷から平の街にある会社までは車で十数分。旧国道(神谷)から国道6号へ出るとすぐ、「塩のケヤキ」に遭遇する。ざっと35年間、この大ケヤキを見てきた。私のランドマークの一つだ。

3・11と、狂暴化した台風・低気圧、それがもたらす竜巻の危険――が、この大ケヤキの運命を変えた。所有者によれば、今年のうちにこの大ケヤキは切り倒される。

10年前までは大ケヤキが2本あった。その1本がある夜、台風に襲われて国道6号に倒れた。2008年11月25日付のわがブログにその経緯が記されている。読み返してそうだったと思い出した。

その二の舞にならないように、ということもある。が、今回は原発事故が追い撃ちをかけた。

事故発生時からの放射線量の推移をみると、データとして残っている分では昨年3月15日の未明、いわきの線量がピーク(毎時24マイクロシーベルト弱)に達した。

そのころ、落葉樹はまだ葉をつけていなかった。私の家の近くの、あるケヤキは夏よりも秋に根元の線量が高くなっていた。幹と枝に付着した放射性物質が雨のたびに流れ落ちてくるからだろう。

わが区内の線量を定期的に測っている人間としては、樹木の線量はその大きさに比例するのではないかと思われる。若木よりは幹と枝の表面積が多い成木、それよりもっと表面積の多い老木、という順に。枝から幹へ雨とともに根元へ放射性物質が運ばれる。雨樋の吐きだし口の線量が高くなるのと同じメカニズムだ。

大ケヤキは樹齢140年だという。明治維新からわずか5年後だ、なにかを記念して植えられたものだったか。ほんとうなら「保存樹木」にしたいくらいの大木、そして住民にとっては地区のシンボルだ。あと半年の寿命かと思うと、どうしてもここに書き残しておきたくなった。

2012年6月23日土曜日

横断まで時間が


このごろ、<なんだろう、これは>と苦笑してしまうことがある。家の前の道路を横断しようと歩道に立つが、なかなか渡れないのだ。小学生よろしく右を見て左を見る、また右を見る。と、車=写真=が来る。また左を見ないといけない。

車を運転するときも同じだ。家の庭から車を道路へ出そうとすると、左を見て、右を見て、また左を見ても出られない、ということが増えた。

いわき市の人口は、統計上は33万773人(6月1日現在)だ。が、“実人口”は増えた。最新の「いわき市災害対策本部週報」によると、3・11後、いわき市から市外へ避難した人は6月11日現在で7929人。いわき市内に避難して来た人は4月30日現在で2万2681人。双葉郡の人がほとんどだ。差し引き1万4752人が増えたことになる。

いわきは原発事故収束作業に従事する人たちの“ベッドタウン”でもある。その人たちも加えると、“実人口”はさらに増えるのではないか。

来週には「半壊」判定を受けた離れの物置を解体する。中にある本棚の一つを道路向かいの伯父(故人)の家へ運んだ。助っ人と二人、歩道に立ったが、右を見て左を見て、さらに右を見てもまだ渡れない。パラパラながら車が続く。助っ人と目を合わせて苦笑するしかなかった。

お年寄りが道路を横断中にはねられて死傷する理由が、いくらかわかったような気がする。右・左・右(あるいは左・右・左)と車の有無を確認しなければならないのに、右・左(あるいは左・右)で終わって、結果的に右(あるいは左)からの車に気づかず、飛び出したようになってはねられる――そういうことではないだろうか。

道路を横断しようとしてはねられるイメージがわくようになったのは、「黄信号」かもしれない。

2012年6月22日金曜日

あのコイか


きのう(6月21日)早朝、水の引いた夏井川の河川敷にあるサイクリングロードを、下流側から上流へと向かって歩いた。生乾きのドロのにおいがする。国道6号バイパス終点部の夏井川橋下の草むらに、体長およそ60センチのコイが死んでいた=写真。前日、まだ水の残るサイクリングロードで背中を見せながら右往左往していたコイに違いない。

泳ぐコイは“散歩仲間”に教えられた。在宅ワークに疲れて、気分転換を兼ねて夏井川の堤防を歩いた。早朝、名前はわからないが住宅街ですれ違う“散歩仲間”がいる。その人は夕方も散歩をするらしい。私は、朝も夕も背中に太陽を受けて歩く。彼はその逆、太陽に向かって歩く。で、夕方、堤防ですれ違ったのだ。

冠水したサイクリングロードにカモの親子とコイがいる、という。指さす方角を見たら、市の北部浄化センターそばの河川敷だ。私が首からカメラをぶら下げて散歩するものだから、声をかけてくれたのだった。

勇んで「現場」に近づいた。と、ずっと先の草むらからカルガモの親が4羽ほどのヒナを引きつれてヨシ原に消えた。かたわらでコイが水紋をつくっていた。もっと下流部でも、もがくように泳ぎ回っている魚がいた。

一夜明けて再び見に行くと、サイクリングロードの水はあらかた引いていた。コイより下流でうごめいていたのは、ボラでもあったか。30センチほどの魚が死んでいた。目の周りが血に染まっていた。カラスがつついて空洞にしたばかりのようだった。

そのとき、すでにサイクリングロードから堤防の上へ戻っていた女性に、草むらでコイが死んでいることを教えられた。注意しながら上流側へと進むと、橋の下にコイが横たわっていた。

夕方再びサイクリングロードを歩いた。水はすっかりなくなっていた。小魚がいっぱい死んでいた。彼らも大水で流れのゆるやかな岸辺へ避難して来たものの、水が引くとヨシ原にさえぎられて取り残されたのだ。

ヨシ原に消える直前のカルガモ親子を写真に撮ったが、人に見せられるようなものではない。水面からわずかに出ている枯れヨシに止まっているオオヨシキリや、倒木の先っちょに止まっているトビの写真も撮った。データとして残す程度の出来だ。

オオヨシキリはヨシを組み合わせて巣をかける。4月末には渡来して鳴きだした。そのころ、ヨシは十分には伸びていなかった。今は草丈およそ2メートル。子育ては終わっていたかどうか。きのうの夕方はなんとなくオオヨシキリの声が少なく感じられた。

2012年6月21日木曜日

大河になった


きのう(6月20日)早朝、「台風一過」の朝日を浴びながら散歩した。夏井川の堤防に立つと、対岸の堤防まで川の流れが広がっていた=写真。ふだんは目測でざっと40メートルの川幅が、岸辺の木々やヨシを飲み込んで対岸の道路際まで最大200メートルほどに広がっていた。まれに見る「大河」だ。

わが散歩コースである平・塩~中神谷地区では河川改修工事が行われた。流れを阻害するものはない。どんどこどんどこゴミが流れてくる。思ったより山に雨が降ったようだ。夏井川渓谷にある川前町、「山の食。川前屋」(直売所)わきの磐越東線では土砂崩れがあったという。

散歩コースの夏井川の水位については、台風のたびに意識して見てきた。水位が堤防の天端からかなり低いと知れば、大水には違いないが規模としては小さい。台風4号は真夜中、横なぐりに雨を降らせながら大急ぎで福島県内を通過したのだろう。

3・11には津波がさかのぼってきた。見たわけではない。目撃した人がいる。その逆流を撮影した人間もいる。愚息の同級生だ。母親から聞いた。アーカイブとして貴重な記録になる。いつか会ったら見せてもらおうと思う。

台風一過後の夏井川は、その後いかに。夕方にも散歩した。朝とはまた違った表情をしていた。ときどき朝の散歩ですれ違う人と会った。私はいつもカメラを首からぶら下げている。で、おもしろい情報を教えてくれた。水没したサイクリングロードにカルガモ親子とコイがいるという。その話は明日に。

ついでながら、きのう紹介したアリたちは、日中には家の周りの「堂々巡り」を再開していた。今朝見たら、数は減ったがまだ「堂々巡り」をやっていた。

2012年6月20日水曜日

堂々巡り


2、3日前、わが家の庭に「アリの行列」ができているのに気づいた=写真。雨脚が強くなったきのう(6月19日)夕方には,車のタイヤがつくったくぼみに水たまりができた。さすがにそこには、アリはいなかった。

なぜアリたちはそんなことをするのか――理由をあれこれ考えたが当然、わからない。専門家ではない人間には、「わからない」ことがとても大事になる。いや、専門家も「わからない」から研究を進めるのだろう。

アリはどこから来て、どこへ行くのか――。「行くアリ」と「来るアリ」とがぶつかり、すれ違いながらうごめいていた、一方向ではない、双方向だ。

台風4号の影響で雨がポツリ、ポツリときたころ、行列の先がどこにあるのかを探った。南(庭)―東(生け垣)―北(店の前の犬走り)―西(犬走り)。よくわからないが、わが家の周りを一周しているだけではないのか。つまり、「堂々巡り」をしているように思われた。

人間に引き寄せた解釈がある。不吉な前兆だとか、大雨が近づいているためだとか。アリのコミュニティの分割という説もある。大雨ならば、台風4号だ。アリがそれを予知して移動した? 台風一過のけさは快晴。家の周囲を見たら、アリは姿を消していた。玄関の外、濡れたコンクリートの上に数十匹がうろうろしているだけだった。

ほんとうはアリよりも雨、そしてハマの防波堤が気になって仕方がない。大津波でコンクリートの防波堤が破壊されたところがある。そこには黒い土嚢が並んでいる。仮の防波堤だ。低気圧、そして台風による暴風雨がしばしば来襲するようになった。今度も大丈夫だったか。

2012年6月19日火曜日

線量測定


3月末、区内会の総会で要望があった。「区内=写真=の線量を定期的に測って、伝えてほしい」。保健委員の私が線量測定の担当になった。4月から月に一度、定点観測をしている。いうまでもなく地域の子どもたちのためだ。

始まりは昨年秋の「生活空間環境改善事業」だ。市を窓口に福島県の補助金50万円を使って、区の役員や保護者が通学路などの除染作業をした。一時は線量が下がった。今は? 少なくとも私が住む地域では、劇的な変化はない。

が、1カ所だけ要注意個所がある。県営住宅の集会所、雨樋吐きだし口の線量が元に戻った。屋根と、並行している雨樋の枯れ落ち葉や土が元凶だろう。

前月、吐きだし口から少し離れた土を測ったら、高い数値が出た。区内会の役員が出て、試験的に土を入れ替えた。すると、今度の測定では、そこの部分に関しては何度も測り直すほど線量が低くなっていた。手つかずの北側の雨樋下は前回と変わらず、1マイクロシーベルトを超えていた。

早朝の散歩を兼ねての線量測定だ。名前は分からないが、会えばあいさつを交わす“散歩仲間”がいる。前回も、今回も私を見て近づいてきた。「どうですか」「0.2台ですね」「このへんはだいたいそうだよね」。公園や公共施設などにリアルタイム線量計が設置されている。それらを目にしているからこその会話だ。

あるところでは、おばさんが「何してんの?」。「線量を測ってます」「あら、ごくろうさん」。住民は放射能のことを忘れて暮らしている、なんて思い違いをしてはいけない。いちいち口にしないだけだ。そのことが察せられる会話だった。

2012年6月18日月曜日

暮鳥と「巨人の星」


「おうい雲よ――」と、山村暮鳥は茨城の大洗から磐城平の友らに呼びかけた。その雲は綿雲=写真=だった、と思い定めている。この詩に関しては、雲のかたちが大事だ。ぽっかり、ぽっかり浮かんでいる。でないと、暮鳥のことばのリズムに合わない。

「東日本大震災」支援のために、3・11直後から北茨城市へ入り、そのあといわき市に北進し、以来、同市を拠点に活動中のNGOがある。「シャプラニール=市民による海外協力の会」だ。イトーヨーカドー平店2階で被災者のための交流スペース「ぶらっと」を運営している。

私の同級生が前身の組織の創立メンバーだった。その縁でシャプラとは前からかかわっている。で、わが家の近く、カミサンの伯父(故人)の家がベースキャンプになった。先日、東京から本部の事務局長氏がやって来た。わが家でスタッフとともに懇親の時間を持った。

暮鳥は大正元年から5年3カ月、磐城平で過ごした。その思い出が「おうい雲よ/ゆうゆうと/馬鹿にのんきさうぢゃないか/どこまでゆくんだ/ずっと磐城平の方までゆくんか」になった。酒を飲みながら、なにかの拍子にその詩の話をしたら、事務局長氏が「知ってる、アニメの『巨人の星』に出てきた」という。事務局長氏の子ども時代だ。

ネットで調べたら、確かに「おうい雲よ」の詩が引用されている。第100話。星飛雄馬の初恋の相手、山奥の診療所の看護婦見習い・美奈が、夕方「私の友達」と言って、夕空の雲を見ながら、暮鳥の詩をくちずさむ。

飛雄馬はそのあと美奈の手を握り、「君が雲に語りかけてきたその言葉の半分でもいい、この僕に分けてほしい。僕もあの雲のように君の言葉を聞きたい」と口説いたらしい。が、恋は実らない。美奈は不治の病におかされていた。飛雄馬は金田投手とともに2軍行きとなる。

原作者の梶原一騎は、どんな思いを込めて暮鳥の詩を引用したのだろう。梶原より一回り上の詩人谷川雁は、暮鳥の詩を踏まえてこんな詩を書いた。「雲がゆく/おれもゆく/アジヤのうちにどこか/さびしくてにぎやかで/馬車も食堂も/景色もどろくさいが/ゆったりしたところはないか(以下略)」

谷川雁は九州人。アニメの「山奥の診療所」も九州の宮崎。梶原一騎に谷川雁を意識するところはなかったか。

2012年6月17日日曜日

軌陸車


線路を行き来するトラックとバックホーを初めて見た=写真。おととい(6月15日)、夏井川渓谷の無量庵の水道管が直ったというので、午後、生ごみ埋めを兼ねて見に行った。そのとき、そばの磐越東線で「軌陸車」に遭遇した。「水陸両用」の飛行機やバスがあるように、線路・道路両用の車もあるのだ。

水道管の話はきのうの「飲み水復活」を読んでいただけるとありがたい。飲み水が出なくなったのは単純な理由だった。「水道のホームドクター」からみれば、バカバカしい話だ。素人の見立てが狂っていて、それに振り回された、ということになる。

水源は隣の広場の井戸だ。そこからポンプアップをしている。今だから言えることだが、漏水しているとモーターが回りっぱなしになる。冬場にどこかが凍結・破損するとそうなる。それを毎年、繰り返している。春になって漏水は止まった、と思った。が、モーターが回り続けていた。そのうち、台所の水が出なくなった。

「水道のホームドクター」に連絡して、井戸の電源をオフにした。水が復活するまで、時間がかかった。で、水が復活したあと、蛇口を全部閉めてポンプのモーターを確かめに行った。やっと静かになっていた。そのとき、「軌陸車」に出合った。

道路沿いの磐越東線で作業員が草刈りをしていた。別の仕事を担当している人間もいた。少し観察していたら、冒頭のバックホーとトラックが線路に現れた。牛小川踏切を起点に、バックホーでコンクリ―トの枕木をトラックに積み、江田駅方面へ運んでいく。それを何度か繰り返していた。

午後4時前後には列車が牛小川を通過する。その前に仕事を終えたトラックが、踏切を利用してそばの道路に移動した。バックホーも線路から離脱した。単線だから線路にいては列車と衝突してしまう。踏切を起点にして作業をしたのは、そういう理由からだった。

道路や線路だけではない。ビルのエレベーターも、河川も、いや人間の住まいまでも、絶えず維持・管理をしなくてはならない。それぞれの世界にそれぞれのメンテナンスに応じたモノがあるということだろう。

2012年6月16日土曜日

飲み水復活


「日曜日に人が泊まる。ついては水道管を直してほしい」。忙しいのを承知で「水道のホームドクター」に連絡する。

夏井川渓谷の無量庵。台所の水が出なくなったのは凍結・破損のせいだろう、と思っていたら、違っていた。流しの水道管が、U字になっている継ぎ手部分ではずれていたのだという。元に戻したら水が出てきた=写真。井戸水をポンプアップしている。当然、“呼び水”をしたことだろう。

「水道のホームドクター」は同級生だ。3・11以来、仕事が忙しい。たまたまどこかで飲んでいる晩に電話をした。ちゃんと約束を覚えていた。

これまで、言えば「わかった」となって、それを3~4回繰り返してきた。きのう(6月15日)午前、やっと手配がついたのだろう。前日に連絡がきた。無量庵の鍵を取りに来た。よく飲み会をやっている場所なので、どこに何があるかはわかっている。

台所から水が出なくなったあと、しばらくたって玄関前の庭が水びたしになった。漏水を考えた。そのへんに水道管が埋設されているのだろうと思った。しかし、そこを掘っても水道管はない。業を煮やして流しのボックスを開けたら、異常を発見したというわけだ。

こちらの勘違いだったか。にしても、晴れているのに玄関前が水びたしになっていた理由はなんだったのだろう。そこだけ湧くようにぬれていたのだ。流しから漏れた水が地下にしみ込み、玄関前であふれだした?

それはともかく、蛇口を全部閉めてもポンプのモーターが回っていたら、どこかで漏水している証拠だ。今度は、ちゃんとモーターが止まっている。やっと「水のない物置」から「水のある家」に戻った。

2012年6月15日金曜日

オオキンケイギク


この時期、場所によって道端を黄色く埋めつくす花がある。「雑草好き」さんに教えられた、特定外来生物のオオキンケイギク(北アメリカ原産)だ。街への往復に利用する道路沿いにも1カ所、花で黄色く染まる斜面がある=写真。昔、そこで工事が行われた記憶がある。そのあと、黄色い花で覆われるようになった。緑化に利用されたのだろう。

国道6号バイパスにも部分的に“花園”ができる。わが散歩コース、夏井川の河川敷にもピンポイントながら、黄色い花が咲く。

ネットで調べたら、オオキンケイギクは2006年、特定外来生物として栽培・譲渡・販売・輸出入などが原則禁止された。カワラナデシコなどの在来種に悪影響を与える恐れがあるのだという。緑化を急ぐあまり、土地の生態系への配慮が後回しになった。

いつの間にか日本に侵入してきた、同じ北アメリカ原産の特定外来生物にアレチウリがある。秋口に一部、夏井川の堤防を覆い尽くす。河川敷の樹木が2本、このつる性植物にすっぽり覆われたことがある。樹木は、草花もそうだが、光を遮られるとどうなるか。枯れるしかない。

生態系に悪影響を及ぼす外来種はと見ると、わが散歩コースだけでもニセアカシア、ニワウルシ、セイタカアワダチソウ、イタチハギと枚挙にいとまがない。

イタチハギは、上流の夏井川渓谷でのり面緑化に利用されたことから、その存在を知った。名前がわかると、下流の河川敷にもあるは、あるは。名前の知らないものは見えない、見ようともしない。その意味では、私の知らない侵略的な外来生物がまだまだたくさん道路沿いや河川敷にはあるのだろう。

2012年6月14日木曜日

焼き鳥


月曜日と木曜日の週2回、移動販売の焼き鳥屋さんが隣のコインランドリー駐車場にやって来る。香ばしいにおいがわが家に進入してくる。最初は我慢したが、一度買ったらタガがはずれた。人が来たり、カミサンが忙しかったりしたときに、酒のつまみにする=写真

呑み助だから、一日をしめくくる晩酌のためにはたらく――という意識が強い。つまみにはこだわらない。出てくるものをありがたく口にする。日曜日だけは、夏場はカツオの刺し身と決めている。カミサンが手抜きをできるのと、いわきに住む幸せを感じられるからだ。

いわきの人間はとにかくカツオの刺し身をよく食べる。刺し身の消費量は日本一だろう。“原発震災”がなければこの時期、毎日のようにハマにカツオが水揚げされる。が、震災以来、この流れが止まった。

カツオの刺し身は、車で5分ほどの魚屋さんで買う。水曜日が休みだ。その日、急に客人が来たときには、スーパーへ行く。きのう(6月13日)はスーパーに走って一筋(4分の1)を二つ買った。切り方は魚屋さんへ通ううちに覚えた。

そうだ、スズキの刺し身もある。広野町の歯医者さんが沖釣りをし、内臓を取ったものを、ときどき奥さんが届けてくれた。おかげでスズキを三枚におろし、刺し身にするワザを覚えた。あら汁がまたいい。さっぱりしている。

あら汁はカツオが主流だが、ホウボウ、ヒラメはスズキと同様、さっぱりしていて上品な味がする。魚屋さんと仲良くしていると、たまにこうした余禄がある。といっても、今はすべていわき以外に水揚げされたものだ。半分むなしい話ではある。

焼き鳥に戻る。手羽、もも、皮、にんにく、軟骨、ねぎま……。カツオの刺し身と同様、「週一」になりそうな感じがする。食べ慣れる怖さか、これも。

2012年6月13日水曜日

オナガグモ


日曜日(6月10日)、夏井川渓谷の無量庵へ出かけた。庭の畑を見る。家の周りを見る。と、行くたびに“異変”を知る。ワンダーランドだ。

カミサンが、台所の上の屋根の雨樋にたまった「コケ」を取るように、という。見れば「コケ」ではない、カエデの実生だ。物置から三脚を持ち出し、移植ベラで雨樋を埋めていた枯れ落ち葉と泥をすくってごみ袋に入れる。終わって三脚を片づけようとしたら、「変なムシ」がブラブラしていた=写真

無量庵は、義父が隠居用に建てた。が、義父母とも隠居せずに亡くなった。生前、「管理人」を引き受けた。それから17年がたつ。最初の年(1995年)の1月17日に阪神・淡路大震災が起きた。3月20日には地下鉄サリン事件が発生した。5月末、「管理人」になった。そして昨年の東日本大震災、いや原発震災だ。あまねく放射性物質が降り注いだ。

今は6月中旬。無量庵へ出かけるのには理由がある。採種するための、三春ネギのネギ坊主が熟して、黒い種をのぞかせていないか。定植したネギ苗が倒れていないか。まだ黒い種子が見えず、苗も「胴縄」を張ったおかげで倒れていないとわかれば、あとはやることがない。言われた通りに、雨樋の枯れ落ち葉を取った。

帰宅して、気がかりな「変なムシ」をネットで調べた。脚は8本。クモの一種と見当をつけて検索したら、オナガグモとわかった。夏井川江渓谷に通い続けて初めて見るクモの仲間だ。クモを食うクモだとか。

気がかりが、もう一つ。ごみ袋にためた雨樋の枯れ落ち葉と泥の放射線量だ。無量庵の雨樋吐きだし口は、壊れたものも含めて5カ所ほど。線量は毎時1マイクロシーベルト前後。ごみ袋に集めたものはどのくらいになるか。次に行ったとき測って、高い数値が出れば土を掘って埋めるしかない。

2012年6月12日火曜日

津波と神社仏閣


昨年(2011)秋に発行された『HOPE2―東日本大震災いわき130人の証言』(いわき市海岸保全を考える会)から――。海に面してある久之浜第一幼稚園は、3・11に津波に飲みこまれた。園児は避難して無事だった。更地になった園舎あとに、第一回卒園生の贈った小さな記念碑が残る=写真

あの日、80人の園児が残っていた。すぐ保護者が待つ自宅へ園児を帰さないといけない。海側を走るルートを山側に変更してバスを出した。海の近くに住む3人は保育者が送り届けた。あずかり保育の十数人は、駆けつけた父母の会会長がワゴン車で高台の寺へ避難させた、という。

「津波遡上限界ラインには神社仏閣がある」。福島県いわき地方振興局の吉田成志さんがまとめた論考を読んだ。被災者のための交流スペース「ぶらっと」へ行ったら、スタッフから論考を綴(と)じたバインダーを渡された。「ぶらっと」とつながっている被災者が持って来た。

タイトルに覚えがある。昨年8月21日の県民の日に「海道の歴史と文化に学ぶ~シリーズ2」が開催された。仕掛け人は私のよく知る人で、二つある記念講演会の一つが「津波遡上限界ラインには神社仏閣がある」だった。

県税関系の仕事をしている。で、アフタファイブに調べ、まとめたのだろう。たまたま神社仏閣は過去の津波に学んで立地しているのではないか、という仮説を得て、青森・岩手・宮城・福島・茨城・千葉を調べたら、多くが3・11の津波の遡上限界ラインに立地していた。

それからの提言。①避難経路を見直す=近くの神社仏閣を第一次避難所にする②たとえば、久之浜で家を建てる場合、堤防のそばにあって残った稲荷神社と同じ高さに盛り土する③その場合でも、建物が海に向かって直角になるのではなく、45度にする――。③は船と同じで、家の角を船首にみたてて「波切り」をし、津波の圧力を減殺するのだという。

大きく日本を、あるいは世界を見渡した人のことばは傾聴に値する。が、同時に個別・具体のローカルな話も大切だ。吉田さんの提言ではないが、あずかり保育の子どもたちを近くのお寺に避難させたのは大正解だった。これこそ生きた教訓というものだろう。

2012年6月11日月曜日

松田松雄没後11年展


「松田松雄没後11年展」が6月9日、アート・スペース・エリコーナ(いわき市平)=写真=と、ギャラリー創芸工房(同市鹿島町)で始まった。24日まで。

エリコーナによると、1年前の昨年6月、松田松雄展を予定していた。「没後10年展」だろう。それが、東日本大震災・原発事故で延期を余儀なくされた。二つのギャラリーによる異例の共同企画展になったのも、そのへんに理由がありそうだ。

画家の松田松雄と出会ったのは、昭和46(1971)年。画家や書家、美大卒業生、新聞記者らがたむろするギャラリー「草野美術ホール」で、だった。ともに独身。20歳になったばかりの画家阿部幸洋を加えて、毎日のように夜の町に繰り出した。結婚してからは、つきあいが家族ぐるみになった。

およそ20年前、原因不明の病に倒れた。11年前、彼岸に渡った。5月下旬に共同企画展の案内状が届いた。以来、思い出が毎日、わいてきて困った。彼の出身地は岩手・陸前高田市。3・11に壊滅的な被害を受けた。それも理由の一つだろう。

3年半前、同じエリコーナで「松田松雄展――黒の余韻 パート1」が開かれた。そのときの私のブログ(2008年11月8日付)の文章を引用する。

「彼の作品は良くも悪くも彼の内面を反映している。悲しみ、喜び、混乱……。変貌し続ける作品にはすべて(おそらく)『風景〇×』『風景(〇×)』のタイトルが入っている。『風景』とは彼の内面の風景のことでもあった」

「『私にとって表現が変わるというのは、危険をはらんだ最高のドラマと云える。/そして私は、彼岸への道に踏み出す予感に震える』。病に倒れる5年ほど前の、昭和63(1988)年6月に書かれた彼の文章である。今を壊して未来を描く悲しさに、私も恐れを抱いた」。その恐れが、やがて現実のものになった。

30年前、彼に請われて個展の図録に文章を書いたことがある。「彼の故郷、岩手県陸前高田市はリアス式海岸に特有の、急峻な山と津波の危険を孕んだ入江に臨む半農半漁の町である。平坦な道といえば、町の南端を流れる気仙川の堤防に刻まれた細い道が1本あるだけ」。彼から聞いたふるさとの風景だ。その風景が消えた。

彼の複雑な家族関係にも言及した。ひとことで言えば、母性への渇望――そうしたものを私は感じてならなかった。

彼は「技術を売り物にする画家とは異なり、精神の飢餓のようなものに突き動かされて絵を描き続けるタイプ」だ。「人間の悲しい闇の部分を提示しながらも、そこに祈りのような聖性が漂っているのはそのためで、これはきっと彼が見た地獄の深さに私達が慰撫されていることを意味する」。

「没後11年展」では、3・11がかぶさった。上掲の写真の絵を見ていたら、ドキドキしてきて息苦しくなった。30年前に、彼の「作品は変貌しても生と死の黙示劇的構造に変わりはない」と書いたが、3・11を経験して、「黙示劇」がかえって強く胸に刺さってきた。

「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」。3・11後、私の胸中には宮沢賢治の言葉が反響するようになった。同じイーハトブ生まれの画家の作品もまた、3・11後、画面から発する祈りを深めたかのように思える。

★追記:7日付「『くらし随筆』」の中で、道端に咲いている花を「キバナコスモス?」と書いたところ、「特定外来生物オオキンケイギク」と「雑草好き」さんから教えていただきました。ありがとうございます。

2012年6月10日日曜日

梅雨入り


夏井川渓谷は「阿武隈高地森林生物遺伝資源保存林」だ。「緑の宝庫」であると同時に、「虫の王国」でもある。6月1日午後、三春ネギの苗を植え終え、帰宅しようと車に乗り込んだら、アブが入りこんできた=写真。今年初めての出合いだ。

夏場、車の窓を開けておくと、ちょくちょくこんなことが起きる。運転中であれば事故を起こしかねない。助手席の窓も開けて、車内にある冊子などを使って外へ追い出す。渓谷の水は清流、そのあかしがアブ、そしてブヨだ。清流ゆえに厄介な虫がすんでいる。これに蚊が加わるから、夏場はいよいよ虫除け対策が欠かせない。

きのう(6月9日)、東北南部が梅雨入りをした。前日、九州北部から関東甲信まで一気に梅雨入りをしたと思ったら、たちまち東北南部まできた。雨の一日、梅雨だな――思った通りになった。

東北南部の梅雨入りは昨年、べらぼうに遅かった。6月21日だった。それに比べたら今年は平年(6月12日)より3日早いだけ。いつもの梅雨入りといった感じだろうか。

梅雨を前に、無量庵の庭の草を刈ってもらった。タイミングとしてはよかった。漏水していると思われる水道管についても、やっと点検・修理をするめどがついた。ツチグリの幼菌(マメダンゴ)も庭の土中で形成されているだろう。珍味だが、今年は採らない。2年続けて掘り出したから、1年は休んで菌を増殖させることにしようと思う。

夏井川渓谷ではこの時期、アヤメやニッコウキスゲが咲く。アヤメはすでに開花した。ニッコウキスゲは5月末には開花するのだが、今年はまだ見ていない。ホタルブクロやオカトラノオも続いて咲きだすだろう。

今年は、梅雨入りと聞いて雨に濡れた野の花が思い浮かぶ。去年は花どころではなかった。少しは気持ちに余裕ができたか。

2012年6月9日土曜日

ヒゲの殿下


照葉樹は、今が若葉のとき、花開くときなのだろう。タブノキが赤みがかった葉を広げ、クスノキが黄色い粒々の花=写真=をつける。落葉広葉樹とはまた違った、静かで地味ないのちの循環だ。

燃えるような紅葉にはならない。心がときめくような花にもならない。落葉広葉樹林帯で生まれ育った人間は、照葉樹林帯の木々の芽吹きと開花が少し物足りない。

それでも、木々の生きる時間は蓄積されて年輪になる。人間の生きる時間は矢のように過ぎて戻らない。いわき地域学會顧問の鈴木一さん(漢文=92歳)、柳沢一郎さん(地学=93歳)が先日、相次いで亡くなった。同じ日に葬式が行われた。通夜をはしごした。

お二人とは30年の年の差がある。教え子でもない。が、主にアフターファイブでいわき地域学會に関係し、柳沢さんとはさらに恩師の故中柴光泰さんを囲む「中柴塾」で一緒だった。柳沢さんは塾頭、私はしんがりの塾生。

お二人の思い出にひたっていたところへ、テレビが「ヒゲの殿下」こと、三笠宮寬仁さまの逝去を伝えた。

殿下は昭和47(1972)年7月、いわきを訪れ、湯本温泉に一泊したあと、小名浜・三崎公園から小名浜港と工場群を眺め、公害対策センター(現・環境監視センター)を訪ねた。そのあと、内郷の馬場児童館を見学し、平市民会館で青少年団体リーダーと、すぐ近くの勤労青少年ホームで利用者代表と懇談した。殿下は、そのとき26歳。

勤労青少年ホームでの懇談会を取材した。新聞社に入って2年目。その記事を若者向けのページに掲載した。いわき総合図書館できのう(6月8日)、中身を確認した。

「皇族に対するあなた方の考えを聞かせてほしい。皇族には戸籍も、選挙権もない。あなた方がうらやましい」。出席した17~25歳の若者にはいきなりの重い問いだったようだ。懇談は終始、殿下のペースで、若者はすっかり聞く側に回った。

「選挙権を持っている若者があまりにも日本に対して無関心すぎる」「英国人は王室に対して子供のうちからちゃんとした考えを持っているのに比べ、日本人はそうでもない」。殿下の言葉は率直で、真摯だった。その姿勢を貫かれた一生だった、と40年たった今、つくづく思う。

2012年6月8日金曜日

傾聴技法


シャプラニール=市民による海外協力の会が運営する、被災者のための交流スペース「ぶらっと」(イトーヨーカドー平店2階)の勉強会が水曜日(6月6日)、いわき明星大地域交流館=写真=で開かれた。

地域交流館には「心理相談センター」がある。「ぶらっと」のスタッフ・ボランティア十数人が、そこで「災害支援者のための傾聴技法」と題する窪田文子教授の話を聴いた。窪田さんは臨床心理士でもある。遠慮のない友達同士のやりとりではなく、被災者と支援者としてのかかわり方を具体的に伝授した。

傾聴のポイントは①かかわり行動②はげまし・言いかえ技法③質問技法、の三つだという。①は話し手の話題についていく、など。②はあいづち・うなずき、など。③は「調子はどうですか」といったあたりから始める、など。

なぜ傾聴なのか。「取り残された」「忘れられている」「独りっきりだ」――そういう思いにさせないのが目的と言ってよい。言い換えれば、「一緒にいてくれている」と思ってもらえるかどうか。つまり、寄り添うこと・共感すること、それに尽きる。

東日本大震災から間もなく1年3カ月。「これからどうなるのか」「そんなに頑張れない」「行政は何もしてくれない」。とりわけ原発事故が起きた福島では。宮城・岩手より復興への動きが鈍く、被災者・避難者の不安が強い。支援する側にも、そういう心に寄り添うケアの精神が必要になってきた。

2012年6月7日木曜日

「くらし随筆」


道路沿いの花壇が黄色い花で埋め尽くされている。縁石のポールの根元にも同じ花が咲いている=写真。キバナコスモス?(オオキンケイギクだった) 至る所に花園ができ、花のスポットが生まれ、「ど根性花」が咲く。

初秋、道路沿いにタカサゴユリ、あるいはタカサゴユリとテッポウユリの交雑種とみられる新テッポウユリが咲き乱れる。同じようにキバナコスモスがその地を覆い始めたか。とにかくこの時期、黄色い花が道沿いに咲き広がっている。なぜそうなるのだろう。私たちの身の回りには、こうした「はてな」が少なくない。

いわき民報に読者参加の「くらし随筆」欄がある。週一回3カ月間、読者が決まった曜日に文章を書く。5月に入ってメンバーが一新した。木曜日、富原さんという人の随筆が特におもしろい。私たちが「はてな」にさえ思い至らない「新事実」を教えてくれる。

富原さんはアクアマリンの職員らしい。アクアマリンの実験室で野生植物、魚、井戸水などの放射性物質の検査をしている。

タケノコについて。「高血圧の予防に役立つカリウムがたくさん入っています。しかし、一方で、放射性カリウムも含まれており、タケノコでは150ベクレルほどあります。以前はこれを普通に食べていたのです」

いわき市内の井戸水の放射性物質を検査したときのこと。「どうせ低い値だろうと高をくくっていました。/しかし結果は1キロ当たり100ベクレルを超える値が出てしまいました。(略)後日、念のためもう一度、同じ試料を測定してみると今度は未検出となっていました」。温泉水に含まれる、半減期が3・8日のラドンが犯人だった。さすが温泉地である。

海の魚のドンコも、富原さんが小名浜港内で夜釣りをして、定期的にモニタリングをしている。「5月の検査では1キロあたり73ベクレルで、震災後初めて100ベクレルを切りました」。ドンコ釣りが大好きな富原さんは翌日、新鮮なドンコのナメロウをほおばった。

こういう客観的・科学的で、トム・ソーヤ―的な文章を久しぶりに読んだような気がする。きょう(木曜日)はその5回目。何を書いているのか。夕刊が待ち遠しい。

2012年6月6日水曜日

17キロ先通行止め


いわき市内の国道6号――。東京から先生と一緒にやって来た大学生6人が、二つの点で事故を起こした原発に対する“臨場感”を抱いたようだ。一つは、南の東京からの距離数。もう一つは、そこから北の双葉郡楢葉町までの距離数。四倉町・コメリあたりでの話だ。

まず一つ。起点である東京・日本橋からの距離が、事細かに歩道わき、車・歩道の境などに表示されている。四倉あたりは210キロメートル+いくらか。二つめは電光表示。キロメートルポストから100メートルも離れていない場所にある。北は楢葉町のJヴィレッジあたりだろう、「17km先/楢葉町以北/通行止」=写真=とあった。

事故を起こした福島第一原発から20キロ圏内は警戒区域、その境界線が四倉のそこから17キロ先だ、つまり、今自分たちが立っているところは問題の原発から37キロの地点、と知ったわけだ。

原発まで近い――。が、「壊された世界」で日常を送る人間には、福島第一原発から37キロ(四倉)も、250キロ弱(東京)もそう変わらないように映る。

250キロ離れているから安全だ――そんな意識が過酷事故への認識の甘さ、鈍感さにつながっていないだろうか。いや、もしかしたらそれが過酷事故を引き起こした原因ではないのか。そんな思いさえ抱く。

大学生は国際地域学科の3年生だ。津波被災・原発避難――現地を見て、被災者・避難者から話を聴いた。それで十分感じるものがあるだろう、受け止めきれないものもあるだろう。が、それが現実だ。

案内人の私もまた、原発からの距離を再確認し、被災者・避難者の言葉に触れて認識を新たにした。

2012年6月5日火曜日

地区対抗球技大会


神谷地区対抗球技大会が日曜日(6月3日)、昌平中・高校の施設を借りて開かれた。男性はグラウンドでソフトボール=写真=を、女性は体育館でバレーボールを戦った。同じ日の早朝、春のいわきのまちをきれいにする市民総ぐるみ運動最終日、家の回りの一斉清掃が行われた。

昨年は大震災・原発事故の影響で大会が中止された。春の市民総ぐるみ運動も中止になった。昨年度の前半は事業の延期・中止が相次いだ。区の新米役員としては、2年がかりで行事を初体験しているようなものだ。

球技大会にかかりっきりになったので、市民総ぐるみ運動で出たごみ袋の数(市に報告しなくてはならない)は、ほかの役員が代わってチェックしてくれた。

8地区対抗の球技大会は神谷地区体育協会が主催した。地区体協は区長、小・中学校PTA,婦人会、青年会、地区代表など130人余で構成されている。大会のために理事会を開き、それぞれの区で打ち合わせをして、本番に臨んだ。

早朝から、体協の理事や選手などが出てテントを張る、ラインを引く、といった作業に精を出した。開会式では地区のプラカードを持って選手の前に立った。試合が始まれば応援をし、弁当が届けばその番をする。閉会式では帰った選手に代わって賞状と参加賞を受け取った。午後3時からは地区に戻っての反省会。祝賀会にならなかったのが、残念だった。

「神谷地区の親睦」が第一の球技大会だ。そのためには多くの地区民が裏方として協力し、選手を盛りたて、無事に大会を終える――周到な準備があって初めて地区の行事が行われることを実感した。

2012年6月4日月曜日

ネギ苗定植


この時期にやらないといけないのは、三春ネギの苗の定植=写真=と糠床の復活だ。5月のうちに、と決めているのに6月に入ってしまった。

先週の金曜日(6月1日)午後、マチで用を済ませたあと夏井川渓谷の無量庵へ直行した。ネギ苗を定植するための溝は前の週(5月26日)、畑の隅っこにつくった。土曜日は東京から大学生が来る、日曜日は神谷の地区対抗球技大会が開かれる。金曜日の午後しかない。ネギ苗を植えるタイミングは意外と限られる。

ネギの苗床にスコップを入れて苗をばらす。「鉛筆」大の苗から「髪の毛」大の苗まで、育ち方は一様ではない。大半は捨て置くことになる。

定植の仕方はおおざっぱだ。がばっとつかんですきまなく植える。今年は初めて“胴縄”を張った。苗を定植したあと、次の週末に様子を見ると、かなりの苗が倒れている。それを防ぐために思いついた、適当なワザだ。絹サヤを栽培するときにこれをやる。それからの発想。

ネギは、湿気には弱いが乾燥には強い。人間が手抜きをしても、勝手に育つ。だから、素人でも栽培を続けることができるのだろう。

ひとまず定植したことで“ネギ暦”は今月中旬の種取りへと移った。月遅れ盆のころには伏せ込み(斜めに植え直す)が待つ。苗を植えたからこそ頭に思い描ける次の仕事だ。

ともかくも6月に入って、ひとつ宿題が済んだ。もうひとつ、冬眠していた糠床を起こさないといけない。新しい糠が届いた。きょう、甕(糠床)から表面に敷き詰めた腐敗防止用の食塩を取りだし、糠を加えながらかき回して酸素を注入してやろうと思う。

2012年6月3日日曜日

道案内


知り合いの大学の先生が、ゼミ生6人を連れていわきへやって来た。きのう(6月2日)の午前11時すぎ。いわき駅前からワゴンタイプのタクシーをチャーターし、途中で私を拾った。

ナビゲーターなのか、ガイドなのかはわからない。結果的にそうなったが、午後4時前まで、久之浜(波立海岸=写真)から平薄磯・豊間へと海岸線を南下しながら、学生は津波被災地の今の様子を見た。

東日本大震災と原発事故。それを国内に向けて発信している人はたくさんいる。国外へ――学生に英語で伝えさせたい、そのための現地調査ということだった。

たとえばアジア。ベトナムだけでなくバングラデシュでも原発を建設する話がある。国民が、原発の何たるかを知ったうえで判断するならともかく、情報がなさすぎる。判断材料を提供したい、という思いがゼミの先生にはある。

学生たちは久之浜で、たまたま夫婦で被災地の様子を見に来たという浪江町の町議夫妻と出会った。二本松で避難生活を余儀なくされている。豊間では、私が電話をしたら「仕事場にいる」というので、知人(大工)の工務所を訪ねた。そのあと、わが家へ戻って、別の知人から原発事故と津波被災者の避難所暮らしの話を聴いた。

かたちの上では道案内になった。が、じっくり現場に立ち、歩き、見るということは、私でさえそうあることではない。大学3年生といえば、20歳そこそこ。若い感性と思惟に触れながら、こちらもゼミの一員になったような気分で過ごした。

2012年6月2日土曜日

学び直し


あれ以来、というしかない。東日本大震災・原発事故を経験して見方・考え方が変わった。3・11をはさんで「ビフォー」「アフター」が画然としてある。同じ食べ物でも「以前」と「以後」とでは取り扱い方が異なる。実業の分野でも、学問の分野でも事情は同じだろう。世界が変わったのだから「学び直し」を始めるしかないのだ。

5月30日、いわき地域学會の新しい事業、「いわき学・筠軒(いんけん)講座」がいわき市生涯学習プラザで始まった=写真。夏井芳徳副代表幹事が担当する“夜学”だ。地域学會会員と同学會市民講座の受講者、新聞で開催を知った一般の人など70人余が受講した。3・11後としては「想定外」の人数と言ってよい。

「筠軒」は、大須賀筠軒(1841~1912年)。いわきが誇る漢学者・漢詩人・歴史家、そして民俗にも詳しい「いわき学」の大先達だ。

テキストは夏井副代表幹事が復刻した筠軒著『磐城誌料歳時民俗記』。漢字、しかも漢学者の筆になる難しい字体と格闘して、草稿を活字化した。まず、素人は漢字、いや熟語が多すぎて前に進めない。「読む」のも、意味を「解釈する」のも難儀する。が、「こうですよ」と解きほぐされれば、そうかと理解はできる。月に1~2回のペースで開催する。

「学び直し」の一つが「磐城」の範囲だ。ひらがな「いわき」ではない。江戸時代前半、譜代の内藤家が支配した「磐城平藩」は、今のいわき市のほかに双葉郡の南半分(旧楢葉郡)を含んでいた。今の富岡・楢葉・広野町と川内村、いわき市の久之浜町・大久町・川前村――それらを含んだ広域行政圏だった。

生活風習、気候風土が一緒。ということは、近世から近代に変わり、異なる領域に住み暮らしているようでも、どこかでつながっている。筠軒もまた、磐城というのは磐城・磐前(いわさき)・菊多=今のいわき市=と楢葉の4郡である、この歳時民俗記はその範囲内にとどまる、ということを凡例に明記する。

浜通りは、南が磐城平藩(譜代)、北が相馬藩(外様)だった。で、その境の北側に第一、南側に第二の原発が立地した。

今、いわき市には双葉郡から避難して来た人がかなりいる。自治体によっては、いわきに「仮の町」をと考えているところもある。歴史をひもとくと必然の流れだろう。浜通りの人間が浜通りを離れて暮らすのは酷だ。同じ「磐城4郡」の人間だから、それがよくわかる。ということも含めて、「筠軒講座」は双葉郡の南部も視野におさめた学び直しの機会になる。

2012年6月1日金曜日

堤防の道路補修


毎朝、夏井川の堤防を歩く。正確には堤防天端(てんぱ)。アスファルトで舗装されている。人が歩き、車が走る。天端が一部、ぼろぼろになった。そこがようやく補修された=写真

昨年の東日本大震災のときに堤防がゆすられた。津波もさかのぼってきた。4月下旬、たまたま3・11前後から休んでいた散歩を復活して、堤防の“緩み”を知った。

アスファルトと土手の境目に砂利が噴いたようにこぼれていた。液状化現象? まさか。はっきりわかるすき間、いや溝ができたところもある。「路肩注意」の杭が立てられ、ロープが張られた。天端のひびは前からで、ところどころ凹みが見られるようになっていた。理由ははっきりしている。

あれから1年余。河川改修による土砂除去、あるいは川砂採取のためにダンプカーが往来し、その重みでアスファルト路面に入ったひびが亀甲模様に広がった。そうなると、いよいよ路面がへこみ、えぐられる。

そこへバラスがまかれた。まかれなかったところもある。雨が降ると水たまりができる。乾くと、車が通るたびに砂ぼこりが上がる。散歩をする人には歩きづらいスポットになった。

バラスではもう間に合わなくなったのだろう。パッチワークでもするように部分的にアスファルトが更新された。見た目はまさしく継ぎはぎだ。やっと災害復旧がなされたのだろう、ここでも。