2012年7月31日火曜日

保存修理工事


必要があって、專称寺の全景をふもとから撮った。專称寺はわが散歩コース・夏井川の対岸、突き出た丘の中腹にある。昨年の大震災で本堂が「危険」、庫裡が「要注意」の判定を受けた。ふもとの総門も被害に遭った。いずれも国の重要文化財に指定されている。

本堂と総門の保存改修工事が始まった。そのための事務所と資材置き場が総門のわきにできていた=写真

本堂を保存・改修するには、いったん重機をあげて解体しなくてはならない。山道拡幅工事が行われた。山道は乗用車一台がやっと通れるくらいの幅しかない。寺側がフエイスブックで公開している文と写真によると、路肩からやや離れた斜面に鉄骨を打ちこみ、擁壁をつくって盛り土をしたようだ。

総門の調査も並行して行われた。こちらもいったん解体される。総門の扁額の裏に屋根に関する文章が書き留められていたという。早速、新しい“史料”が出現した。

專称寺は不思議な寺だ。江戸時代には浄土宗名越(なごえ)派檀林、つまり「大学」として隆盛を極めた。奥羽の各地から若者が修行にやって来た。幕末、江戸で俳諧宗匠として名を成した出羽出身の一具庵一具(1781~1853年)もその一人。この俳人を調べている(といっても、現在は引き出しにしまったままのようなものだが)。

「重要文化財 專称寺(本堂・総門)保存改修工事」は、宗教法人專称寺が発注し、公益財団法人文化財建造物保存技術協会が設計・監理を担当する。事務所と資材置き場を囲む塀に掲げられた標識に、そうある。

先日、近隣3行政区の現・元区長・副区長の懇親会があり、專称寺の檀家だという人にいろいろ聞いてみた。工事の期限も、費用(あらかた公費だが、檀家の負担もある)もかなりのものらしい。が、不思議と負担を苦にするような雰囲気ではなかった。名刹の檀家としての誇りと愛着がそうさせるのだろうか。

不思議な寺という思いの一つは、檀家が夏井川のこちら側、中神谷にいることにも由来する。かつては船で川(参道)を渡った。寺が「梅の寺」として脚光を浴びると、行楽客も渡し船を利用した。

專称寺で学んだ僧たちが各地でさまざまな事績を残している。対岸から寺を仰ぎ見ながら思うのは、そこはかつて「大学」だった、ということだ。その寺史が今度の保存改修工事でさらに読み解かれ、深まることを期待したい。佐藤孝徳著『專称寺史』を繰り返し読んでいる者として、そう願う。

2012年7月30日月曜日

ハチの巣注意


夏井川溪谷の無量庵の近くに東北電力の水力発電所がある。無人だ。そこから100メートルほど下ったあたりに、下流で稼働している発電所の取水堰(ぜき)がある。堰から導水路が川に沿って森の中を延びている。

それも含めて電力社員が定期的に巡回・点検しているのだろう。堰の左岸近くにロープが張られ、「注意! ハチの巣が近くにあります。(スズメ蜂)危険ですので近寄らないで下さい!」の札がさがっていた=写真

無量庵へは、現役のころは週末にしか行けなかった。今は逆に、週末に行けないことが多い。で、ウイークデーに出かけるというケースが増えた。そんな平日に、川岸で“宇宙服”のようないでたちの巡視員ペアを見たことがある。ハチ対策だと容易に想像がついた。

「注意」の札がつるされたスズメバチは、オオスズメバチでもあろうか。民家の軒下に大きな球状の巣をつくるのはキイロスズメバチ。巣の外観は陶芸でいう「練り込み」だ。

その巣が無量庵の風呂場の板壁の中にあったとき――。近くで草むしりをしていたカミサンが手をチクリとやられた。やけどをしたような痛みが治まらないので、いわき市立磐城共立病院の救命救急センターへ連れて行った。「今度刺されたら、すぐ救急車を呼ぶように」。ドクターの言葉が今も頭に残る。

8月から9月にかけて、スズメバチに刺されて死んだ、などというニュースが流れる。きのう(7月29日)は午後1時半ごろ、いわき駅前を通ったら、デジタル表示の気温が「37度」だった。「31度」の間違いではないか。カミサンに確かめたら「37度」に間違いないという。暑い時期の草刈りには熱中症とスズメバチの危険が伴う。怠けるに限る。

2012年7月29日日曜日

4年前の薄磯


パソコンに取り込んだ写真が増えたので、ときどき整理する。2007年11月からほぼ1年間、撮影したものを集約したフォルダがある。ふだんは忘れている。こちらもたまに開いてデータを整理しないといけない。

ハッピーマンデー制度によって7月第三月曜日が「海の日」に定まった。人によっては3連休になる。2008年の海の日(7月21日)、塩屋埼灯台を訪ねた。灯台のてっぺんから北側の薄磯=写真=を、南側の豊間を撮影した。データを整理していて、そのことを思い出した。しばし見入った。

薄磯は、いわき市内では勿来に次いで海水浴客がやって来るところ。海岸に海の家が4棟建っている。海水浴客もいる。なにより住宅が密集している。手前、鉄筋コンクリートの建物は豊間中。やや右手、防波堤のすぐ近くに知り合いの喫茶店がある。

3・11に、この集落が消滅した。地盤沈下によって砂浜も狭くなった。喫茶店は流され、裏の自宅は1階部分の壁が抜けたものの、かろうじて残った。

海水浴は今年、勿来だけ解禁になった。それ以外は今年もダメ。灯台へも上がれない。その現実に、4年前の写真が重なる。

写真を見ながらの感慨。3・11前の薄磯をぼんやりとしか思い出せなくなっていた。目の前の現実に引きずられて、そこに人家が密集し、人間が暮らしていたことを、忘れがちになっていた。記憶じたいが風化する。いや、目の前の現実に代替される。それを補うのが記録、この場合は写真だ。写真があれば、そこへ帰ることができる。

記録がいかに大事かということだろう。3・11前の薄磯をあらためて胸に刻む。人間の暮らしや息遣いとともに。

2012年7月28日土曜日

いわきの気温


梅雨が明けて暑さが戻ってきた。いわき市はハマ=写真・マチ・ヤマの三層構造。福島地方気象台が発表するいわきの気温は、マチとヤマの人間には「ずいぶん体感温度と違っている」となる。測候所があったハマ(小名浜)の気温がいわきの気温になっているからだ。ハマは、日中は海風が吹いて涼しい。

いわきをよく知らない人は、いわきのマチに来て、「思ったより暑い」と驚く。気象台が予報するいわきの気温はハマの気温、マチの気温ではない、と教えてやるしかない。テレビがいわきの気温を伝えるたびに、「いわき(小名浜)」と表示してくれと思う。

小名浜に住んでいる、いわき地域学會の先輩の家へ行った。茶の間の南側が網戸になっている。海風が吹きこんでいた。「家にいるかぎりは涼しい」という。慣れない人間は、半袖では風邪を引いてしまいそうだ。

わが家には、エアコンはない。窓という窓を開け放っても熱気がこもる。糠床も温度が上昇した。連日30度を超えているのではないか。7月に入って小名浜で30度を超えたのは17日(31.7度)だけ。天然のエアコンが作動するハマと無風のマチとでは2~3度、気温が違うようだ。

きのう(7月27日)は土用の丑(うし)の日。例年なら近所の割烹から声がかかり、夕食用に「うな重」をとるのだが、今年は連絡がない。カミサンがわざわざ出かけて聞いたら、高くて予約をとるどころではなかったという。「四千いくら」とくればふだんの3倍ではないか。値段も、気温もうなぎ上りだ

2012年7月27日金曜日

青山椒


サンショウ(山椒)は若芽・若葉、未熟なあおい実=写真、熟したあかい果皮、幹を利用できる、日本の食文化に欠かせない山の木だ。木の芽はあえもの・吸い口・彩り、あるいは山椒味噌にする。あおい実は佃煮・塩漬け(青山椒・実山椒)、あかい果皮はすりつぶして粉山椒に。幹は擂り粉木になる。

夏井川渓谷の無量庵。家と道路(県道小野四倉線)との境に、モミと山椒、梅の木などが植わってある。目隠しのようなものだが、随分大きくなった。山椒だけ若い。実生だろう。

芽吹く寸前の木の芽は赤くふんわりしている。渓谷の住人はこの赤ちゃんのこぶしのような木の芽を好む。かむと舌が軽くしびれる(若葉も、むろんあおい実も、果皮も)。食べ方を教えられ、山椒味噌と佃煮、擂り粉木以外は、摘んで料理に添えたり、加工したりした。粉山椒はウナギのかば焼きに、あるいは七色唐辛子を自分の好みにブレンドするのに使う。

無量庵の庭に小さなネギ畑がある。3・11後、表土を5センチほどはいだ。道路沿いにある立ち木の枝葉が電線に触るので、<剪定していいか>と電力会社から仕事を請け負った事業所の担当者が言ってきた。<ばっさりやってくれ>。それ以外に放射線量対策はしていない。で、山椒は木の芽から熟した果皮まで眺めるだけになった。

若い仲間が「放射線情報共有マッププロジェクト」に参加して、道路の空間線量を移動しながら測定している。その結果がグーグルアースを利用してマップ化されている。わが無量庵の前の道路は0・339マイクロシーベルト/時。色はブルー、青信号だ。だから、そばの山椒もOKとはならない。測定していないから。

数値に支配されるのはイヤだが、数値を大事にするしかない――今はそういう状況にある。その数値とモノの関係について、いわき民報の「くらし随筆」5~7月木曜担当の富原聖一さんから、毎回学ぶものがあった。

富原さんはアクアマリンふくしまの獣医師さんだ。きのう(7月26日)の最終回は、タイトルが「真摯な気持ち」。「くらし随筆」を「専門家と一般市民の狭間に立ち、双方を隔てる壁を取り除くつもりで放射線問題に取り組んできました」という。それによって、こちらの蒙(もう)が啓(ひら)かれた。

12回、全部切り抜いた。初めてのことだ。この3カ月にさまざまな反響があったという。「ラドンの記事はインターネットで紹介され、全国に広まってしまい少し困惑しました」。これは私のしわざ。「ホタルの記事は抗議文までくる事態にもなりました」。数値に一喜一憂する状況だからこそ、科学的知見・事実を大事にしないといけない。

山椒は小粒でもピリリと辛い――そんな富原さんの文章=真摯な気持ちは、こちらにしっかり届いた。どこかで書き続けてほしい。

2012年7月26日木曜日

豊間のゴジラ


大津波に襲われたいわき市平豊間地区。信号機が復活した県道小名浜四倉線の交差点そばにゴジラが鎮座する=写真。「お譲りします」と書かれた紙が張ってある。

ゴジラの出自は、アメリカのビキニ環礁での核実験。そのとき、第五福竜丸の乗組員が被曝した。

ゴジラの映画を見たのは小学校の何年生だったろう。昭和29(1954)年に制作されたが、阿武隈の山の町で見たのは2~3年後だったような気がする。小学校入学前はもちろん、1年生になっても見た記憶はない。2年生か、あるいは3年生のときだったか。

いや、そんなことはどうでもいい。きのう(7月25日)、夜7時からのTUF「キラリふくしま~あの時、災害弱者は」を見て、自分の想像力の弱さを知った。目や耳や口の不自由な人がいる。彼らは3・11をどんな思いで過ごしたか。そこに思いが至らなかった。

「非日常」だからニュースになる――その通りだが、「日常」にひそむ問題を掘り起こすこともマスメディアの仕事だ。それができていないから「大本営発表」などと批判される。TUFの「特番」は、マスメディアのもう一つの仕事である、「日常」=障がい者の3・11とその後=に目を向けたものだった。

3・11の直前、林香里著『<オンナ・コドモ>のジャーナリズム――ケアの倫理とともに』(岩波書店)が発刊された。地域紙に身を置いてきた人間として腑に落ちることがいっぱいあった。

天下国家や正義を論じるメディア・記者がいてもいい。でも、大事なのは社会的弱者を取り残さずに手を差し伸べること、共感・ケアのジャーナリズムの実践だ。3・11後は特に、ジャーナリズムのあるべき姿を示す本に「なってしまった」と思う。

いわき市の震災被害状況を知らせる災害対策本部週報の「人的被害」が7月1日付でガラリと変わった。それまで死者数は310人、行方不明者37人(県警発表)だったのが、県の定めた統一基準に合わせて死亡424人、不明ゼロになった。

424人の内訳は①直接死293人②関連死94人③死亡認定を受けた行方不明者37人だ。関連死の定義は「震災後の負傷の悪化、避難生活による持病の悪化などが原因の死亡で、弔慰金の支給に関する法律に基づき、震災が原因で死亡したと認められるもの」だという。

NGOのシャプラニールが運営する交流スペース「ぶらっと」の利用者第一号で、先日亡くなった薄磯の被災男性も、私は「持病悪化」の関連死だと思っている。

関連死が増えぬよう、「取り残さない」ための心のケアが大切になってきた。マスメディアもそれを視野に入れた「ケアのジャーナリズム」に意を注いでほしい。

2012年7月25日水曜日

水玉模様


散歩しながら、デジカメで花や鳥を撮る。夏井川溪谷の無量庵でも菜園の草を引き、生ごみを埋めたあと、周囲をめぐってパチリとやる。無量庵の庭。地べたに、棚状にクモの巣が張ってあった。雨上がり。細かな水滴がびっしり付いている。パチリとやって拡大すると、面白い水玉模様になった=写真。写真のワナだな、これは。

3・11後もいわきでは普通に郊外をめぐり、花や鳥やキノコをパチリとやることができる。双葉郡との比較でそれを意識したのは、つい最近だ。

被災者の交流スペース「ぶらっと」。津波被害に遭った人や、原発事故から避難してきた人たちが利用する。ボランティアを兼ねる人もいる。

津波で家を失い、原発事故のために家があっても帰れない人たちもまた、日ごろから野草や鳥やキノコに接していたはずだ。家庭菜園を営む人も多かったに違いない。その楽しみが奪われた。普通が普通でなくなった。

カミサンが無量庵の庭に咲くネジバナを摘んで、「ぶらっと」に飾った。「なつかしかった」と双葉郡から避難している人が語った。ヤマユリは阿武隈高地に夏を告げる花。きのう(7月24日)、小欄に書きながら、双葉郡の人たちもふるさとのヤマユリの花を見たいだろうな――ふと、思った。

おとといときのう、ボランティアが参加して被災者に届ける情報紙「ぶらっと通信」第9号(8月1日付)の発送作業をした。<利用者の声>を読みながら、双葉郡の人たちも、いわきの人間も、同じ運命共同体の一員、という思いを深くした。

<利用者の声>は68歳の浪江町の女性。相馬市のスーパーで買い物中に大地震に遭遇した。車で帰宅途中に津波を目撃して、急いで山側へと車の向きを変えた。なんとか自宅にたどりついたものの、家の中はめちゃくちゃ。実家へ避難して車の中で一夜を過ごしたら、避難勧告の無線が入った。

二本松からいわき、柏、そして勿来の娘さんのところで1年を過ごしたあと、今年4月から平の借り上げ住宅に住んでいる。ヨーカドーへ買い物に来て、偶然、「ぶらっと」を知った。今は週に2回ほど通っている。「これからも色々なニーズに応えられるように多様なことをやってもらえれば、私のように生き返れる人がもっと出てくると思います」

「生き返れる」という言葉に胸を打たれた。被災し、避難した人の言葉の深さ。あなたも、私も、同じ時間と空間を生きている“仲間”ですよ、一人じゃないですよ――そう伝えたくなった。

2012年7月24日火曜日

ヤマユリ満開


夏井川渓谷のヤマユリが満開になった=写真。南東北の梅雨明けはまだだが、きのう(7月23日)、4日ぶりに青空が広がった。梅雨も明けずに夏が終わって、秋口のような涼気に包まれた――。そう感じるような、ここ数日の天気だった。けさも一転して曇り空だ。

きのうはさすがに半袖シャツに着替えた。先週末からきのう朝の散歩までは長袖シャツ。でないと、年寄りは気温の変化についていけずに風邪を引く。散歩を終えたあと、なんとなく空気が熱を帯びているように感じられた。で、すぐ半袖に着替えた。曇天だったのが、あっという間に青空に変わっていった。

ヤマユリは、夏井川渓谷を含む阿武隈高地に夏がきたことを告げる花だ。青空に入道雲がわき、大地にヤマユリの花が咲く――これが、私の中で阿武隈高地の梅雨明けを象徴するイメージになった。

季節がひとつ巡ったことを実感する。ヤマユリの花と遭遇したからだけではない。ニイニイゼミがやっと鳴きだした。知人によれば、暑かった日にヒグラシが鳴いて、そのあと沈黙した。気温が急に上がったり、下がったり。いきものたちもとまどっているのだろう。

夏井川の下流、わが散歩ルートの河川敷では先週末(7月21日)、オオヨシキリの声が途絶えた。きのうもオオヨシキリの鳴き声がなかった。南へ去ったのだろう。私の記録では、オオヨシキリは7月下旬にはほぼ「音なし」になる。

行きつけの魚屋さんとの、曇天下、夕方の会話。「暗いのは曇ってるせいですか、日が短くなってるせいですか」「両方だよね、夏至から1カ月だもの」。夏の中に秋がしのびよっている。

2012年7月23日月曜日

放射性物質は検出されず


「お預かりした井戸水を検査した結果、別紙検査成績書のとおり放射性物質は検出されませんでした」=写真

きのう(7月22日)朝、夏井川渓谷の無量庵へ出かけた。10日前に台所の水2リットルをペットボトルに入れて、いわき市小川支所に持参した。その結果が7月20日付小川支所長名で、封書で届いていた。

封書に入っていたのは、A4サイズの紙3枚。通知書(結果の確認を、そして氏名・地番を伏せて公表するので了承を)と、結果(放射性物質は検出されませんでした)と、そのデータ(検査成績書)だ。

結果を告げる紙には、飲料水の放射性セシウムの管理目標は10ベクレル/㎏以下であること、検出限界値は井戸水の場合、ヨウ素で2ベクレル/㎏、セシウム134、同137で各1ベクレル/㎏だという「参考事項」が付されていた。

無量庵の井戸水のデータは①放射性ヨウ素=2.0未満②セシウム134=1.0未満③セシウム137=1.0未満④合算値=2.0未満――。要するに、値が検出されなかったために、検出限界値の「2(ないし1)ベクレル未満/㎏」と記載された。結果を見てすぐ思ったのは、「孫にも飲ませられる」ということだった。

と同時に、夏井川渓谷の隣の集落に移り住んだ知人の井戸水のことを思い出した。暫定基準から新基準に切り替えられるころ、井戸水が新基準の10ベクレルを超えているという話をしていた。今はどうだろう。まだ基準を越えているのか。

2012年7月22日日曜日

こころ通信・桜通信


被災者のための交流スペース「ぶらっと」=イトーヨーカドー平店2階=に情報コーナーがある。行政の広報紙やNPOの情報紙、イベントの告知チラシなどが並ぶ。

双葉郡浪江町と富岡町の広報紙が胸にグサリとくる。離散町民の生の声を伝える情報紙ともいうべき「浪江のこころ通信」(浪江町)、「TOMIOKA桜通信」(富岡町)が併載されている=写真。3・11後、行政が苦心して編み出した町民との新しい“きずな”のかたちといってよい。

「浪江のこころ通信」は、浪江のこころプロジェクト実行委員会・東北圏地域づくりコンソーシアム推進協議会・浪江町の三者が編集・発行している。東北圏……協議会は、新潟を含む東北7県の地域コミュニティ再生や協働のまちづくりの推進を目的に、大学・NPO・企業・経済団体・行政などが連携したコミュニティ支援ネットワークだ。

東日本大震災と原発事故で、浪江町民は福島県内外に分散避難を余儀なくされた。長期化する避難生活、先の見えない不安の中で、町民はどんな思いで暮らし、ふるさとにどんな思いを抱いているのか。その思いをつなげるために“浪江のこころプロジェクト”が立ち上げられた。(「こころ通信」前文から)

町の広報担当だけではなし得ない、スケールの大きなネットワークの中で取材が進められる。たとえば「広報なみえ」7月号併載の「こころ通信」第13号。京都府や長野県、東京都、あるいは沖縄県などに避難した一家を高崎経済大やNPOが取材した。「桜通信」はどうだろう、町の広報担当だけでやっているのだろうか。

「こころ通信」も「桜通信」も、一人称の言葉で構成されている。震災発生当時の様子、原発事故による避難、今何をして、何を思っているのか、などがわかる。マスメディア・ジャーナリズムとは異なった、「もう一つのジャーナリズム」の実践例、いやマスメディアがカバーしきれないからこそ、行政・NPOが“谷間”を埋めているのだ。

被災者の「私」、あるいは「私たち」のナラティブ(物語)が、私には原発震災の罪深さを告発しているように思われてならない。

2012年7月21日土曜日

「弟が町長なんだ」


岩手県大槌町の、この1年を追った朝日新聞・東野真和さんの『駐在記者発 大槌町震災からの365日』(岩波書店)=写真=を読む。あの日、町民の1割近く、そして町長以下、町役場の幹部職員が大津波に命を奪われた。行政機能はマイナスになった。そこからの再出発をつづっている。

7月初旬、いわきのアリオスで<佐藤栄佐久+開沼博 「地方の論理」公開講演会>が開かれた。呼びかけ人は栄佐久元知事の、主にJC(青年会議所)時代の仲間とお見受けした。いわき市内各地から見知った人たちが詰めかけた。

小川からも数人が連れ立ってやって来た。その一人、商工会長の碇川寛さんが私に「大槌情報」を伝えた。「弟が町長なんだ」「エッ、町職員だった人ですよね」「そう」

昨年4月に町長選が予定されていた。が、大津波が襲った。町長不在のままでは再生がおぼつかない。なんとか準備を整え、8月に選挙が行われた。反町長派で3・11前から出馬を決めていた元総務課長の碇川豊さんが当選した。「碇川」という名字がなんとなく頭に引っかかっていた。商工会長の「大槌情報」がピンときたのはそのためだったか。

大槌町のHPをのぞく。町長の顔写真が載っていた。いわきのお兄さんによく似ている。声質も同じかもしれない。

いわきとのつながりは、町長だけではない。町役場は今年1月、人手不足のために前倒しをして職員6人を採用した。最年長の男性(52)はいわき出身だ。IT企業からの転進だという。東野さんの本には、いわき出身であることは書かれていない。が、「震災後、『人生もう一仕事』と志望した」とある。その意気やよし、だ。

大槌の小学校の女性校長さんたちにもエールを送りたくなった。「被災した四小学校は、すべて女性校長。『四姉妹』を自認する。赤浜小学校は『長女』。福島大出身と福島出身という『福島つながり』で、以前から親睦を深めていたという」。安渡小の校長さんは、原発事故の影響で全町避難を余儀なくされた双葉郡大熊町出身だとか。

東野さんの本から、大槌町と福島・浜通り・いわきの、人と人とのつながりを知った。知った以上は忘れないでいよう。いわきでプロの画家になった松田松雄と、出身地の陸前高田市は切り離せない。それと同じように。

2012年7月20日金曜日

カツオ水揚げ


日曜の夜はカツオの刺し身=写真=で晩酌をする。7月1日、カツ刺し。同8日。魚屋さんへ行くと、売り切れ。たまたま、近所の歯科医院の奥さんから日本海のヒラマサをもらっていたので、カツ刺しの代わりにする。同15日。午後から飲み会になり、2次会で数切れ、カツ刺しを口にする。

どうも物足りない。翌16日、海の日。魚屋さんへ行ったら、一人前しかなかった。いつもの三分の一だ。タコとしめサバとの盛り合わせにしてもらった。それでも、やはり物足りない。この半月の間、満足するほどの量を口にしていない、という気持ちが募る。

「あした(7月17日)は小名浜にカツオが水揚げされる」。魚屋さんが言っていたので、火曜日(17日)夕、電話で確認したうえで出かけた。やっといつもの量を手に入れた。

同じ日、いわき民報に小名浜に水揚げされたカツオの記事が載っていた。漁場は那珂湊沖。黒潮に乗ってそこまで北上してきたのだ。放射性物質は不検出。いわき市内のスーパーなどでは、販促キャンペーンが展開されたという。

前に、金曜日は官邸前でデモをしたあと、居酒屋ヘ流れていわきのカツ刺しで一杯やってほしい(いわきのカツオを、と注文すれば風評被害は減る)、ということを書いた。それより、いわきでカツ刺しを食べようツアーの方が早いか――なんて思いながら、カツ刺しをつついた。

いわきの夏祭りが近づいている。8月6~8日は「平七夕まつり」。いわきで被災者のための交流スペース「ぶらっと」を運営しているシャプラニールが、同5~7日の日程で「みんなでいわき! いわき市訪問ツアー」を実施する。

宿泊(ハワイアンズ)、買い物、食事でいわきを経済的に支援する、というのが目的だ。ぜひ、小名浜に水揚げされたカツオの刺し身を食べてほしい。いわきの夏はカツ刺し――が定番なのだから。

2012年7月19日木曜日

お別れの会


戦後、いわきで音楽指導に情熱を注いだ若松紀志子さんの「お別れの会」が先週末(7月14日)、いわきワシントンホテル椿山荘で開かれた=写真。およそ400人が出席した。献奏が続く明るい会だった。「きょうはパリ祭」。そんなことを考えながら、4人の先輩と同じテーブルで過ごした。

どうも「さん」では落ち着かない。抵抗がある。「先生」だったから。昭和37(1962)年、平高専(現福島高専)が開校した。私は3年目に入学した。美術の先生はご主人の若松光一郎先生、音楽は奥様の紀志子先生。先輩4人は合唱部員ではなかったか。

私は、別の先輩たちに誘われて社会人を含めた同人誌に関係した。先輩たちが光一郎先生に表紙のカットをお願いするのにも同行した。以来、若松家にはしょっちゅう出入りするようになった。17、8歳のころだ。

両先生は、私らが社会人になっても私らを「クン」で呼び、私らは当然、「先生」と呼びつづけた。お二人が彼岸に渡った今は、いっそうそういう思いが強い。

先生が先輩たちと会わせてくれたのだと思う。3人は1期生。これまでにも何回か顔を合わせている。残る1人の先輩(2期生)はまるで記憶がない。が、彼は私のことを承知していた。

およそ30分たったころだった。私のそばに座っていた先輩が「I、女川の実家は大丈夫だったのか」と尋ねた。その瞬間、若かりしときのIさんの顔が思い浮かんだ。

「今やっとわかりました。顔も、体も2倍になっちゃったんじゃないですか」。細面の美少年が白髪で丸顔になっていた。こちらも「ハゲ毛(もう)」だから、変貌したことには変わりがない。1期生も、2期生も、私も寮に入っていた。

美術や音楽といったマイナーな授業が楽しかった。「お別れの会」に出席した先輩たちは特にそうだったのだろう。オペラ歌手になってドイツに住んでいる別の先輩もいる。紀志子先生は高専でも「名伯楽」だったと思う。

2012年7月18日水曜日

写真の孫に会う


いわき市の写真集団ZEROの作品展「刻・写真の系譜」があした(19日)まで、北茨城市の茨城県天心記念五浦美術館で開かれている=写真

いわき民報に14日スタートの告知記事が載った。せがれが加わっている。こっそり見に行くことにした。「海の日」の16日正午前、近くの常磐バイパスを利用して北茨城市を目指した。わが家のある平中神谷からはざっと40分。夏井川渓谷の無量庵へ行くのとそう変わらない。

北茨城市は「関東」だが、「東北」のいわき市、特に南部の勿来とはつながりが深い。北茨城を「東北」と思ったことはないが、いわきを「関東」の延長と思うことはある。とりわけ気候だ。いわきの気候は東日本型のうち東海・関東型に入る。夏は温暖多雨、冬は冷涼乾燥が特徴だという。

今年、いわき市で唯一再開された勿来海水浴場のそばを通った。海開きのイベントが行われていた。17日の新聞は、全国紙も1面に勿来海水浴場の海開きの記事を載せた。北関東から勿来の海は近い。来る勿(なか)れではなく、どうぞおいでください、という思いが募る。

さて、写真展だ。写真集団結成の呼びかけ人である上遠野良夫さんを含む43人がおよそ150点の作品を発表した。個展歴のある人がかなりいる。見ごたえがあった。上遠野さんと少し話した。

せがれの作品は――。津波とその後の火事で消滅した久之浜のマチの夕暮れ、幼児が一人歩いている写真と、幼児の顔をアップした2点。幼児はいずれも孫だ。「(写真の)孫に会いに来たようなものだね」。カミサンのつぶやきにうなずいた。入場無料。

2012年7月17日火曜日

夏越大祓


きのう(7月16日)、平六小近くの出羽神社で「夏越大祓」が行われた。「茅(ち)の輪くぐり」である=写真

前から読みが気になっていた。「夏越大祓」は「なごしのおおはらい」なのか、「なごしおおはらい」なのか、あるいは後半の二文字が「おおばらい」なのか「おおばらえ」なのか。そんなことを考えてしまうのは、新聞社に身を置いてきた人間の一種の職業病、いや後遺症か。宮司さんは「なごしのおおばらい」と言った。

出羽神社の「茅の輪くぐり」は2009年に復活した。そのとき(そして今度もだが)、早朝散歩ですれ違う氏子さんから神事の開催日を教えられた。情報をもらった以上は、その日に予定がなければ出かける。神事の前日(日曜日)、飲み会があって、別の氏子さんたちからも「茅の輪くぐり」の話が出た。いよいよ見に行かないといけない。

復活4年目だが、去年は東日本大震災と原発事故の影響で中止された。2年ぶり、3回目の神事だ。急な石段を、息を切らせながら上る。「神の庭」に旧知の氏子さんたちがいた。まずはお茶を、と勧められる。抹茶だった。

よく見たら、社務所らしきところで氏子の男性陣が和菓子を用意し、茶筅でチャカチャカやっていた。こちらの裏方も見知った人たちだ。いざとなると茶もたてる――個々の素養の深さに驚いた。

茅の輪くぐりのあとに行われた「羽黒露沾会展」の表彰式でも、似たようなことを感じた。「家族」という題で氏子から和歌・俳句・川柳、要するに短詩形文学の作品を募った。69点が寄せられた。

江戸時代の前期、磐城平藩を支配した内藤家に俳人として知られる政栄公、俳号露沾がいた。その貴顕が出羽神社を訪れて詠んだ和歌と俳句がある。和歌は「羽黒山 御影も清き みそぎこそ 茅の輪を越ゆる 代々の川波」、俳句は「清祓 千代をむすばん 駒清水」。駒清水は神社の北西の裏手にある井戸だという。

江戸時代の茅の輪くぐりにちなんだ定型作品のコンクールだ。最優秀は「再会の家族に眩(まぶ)し若楓(かえで)」。入賞者はあらかた知った人。選者も先日、ある会合で一緒だった俳人だ。「元気の出る作品をとった」。講評が的確であたたかかった。

2012年7月16日月曜日

牧水の酒


いわき市と延岡市の「兄弟都市」締結15周年を記念する「若山牧水展」がいわき市立草野心平記念文学館で開かれている。歌人の福島の旅、とりわけ三春町での揮毫(きごう)会、三春実科高等女学校の校歌作詞の記事が目に留まった=写真

揮毫会は1926(大正15・昭和元)年、校歌作詞はそれより前の1920(大正9)年、三春実科高等女学校はのちに県立田村高校と合併、とある。

1950(昭和25)年、三春町の山田屋旅館に牧水の歌碑が建つ。「時をおき老木の雫おつるごと静けき酒は朝にこそあれ」。牧水の酒の歌による最初の歌碑だそうだ。

旅と酒の歌人の代表歌は「しらたまの歯にしみとほる秋の夜の酒は静かに飲むべかりけれ」。牧水が愛用した徳利や盃、猪口なども展示された。小ぶりなのが意外だった。いや、静かに、なめるように飲むには小さな盃に限る。「茶碗酒」はいただけない。歌に合わない。

これに対して心平の酒はどうだろう。「静かに飲むべかりけれ」とは対極にあるように思われる。心平の日記にはたびたび「宿酔」の文字が出てくる。「四日酔苦し」(55歳)、あるいは「五日酔也」(61歳)、翌日には「六日酔気分」となれば、読んでいる方が悪酔いしてしまいそうだ。牧水の酒は猫を眠らせ、心平の酒は虎を目覚めさせる。

2012年7月15日日曜日

ヘビの抜け殻


「ヘビの抜け殻がある」。夏井川渓谷の無量庵の庭。用があってやって来た近所の人が指をさす。玄関前の木の枝に抜け殻が引っかかっていた=写真。風で飛ばされて来たものが枝にからまった、なんてことは考えられない。樹上で脱皮したのだろう。

樹上性のヘビといえば、アオダイショウだ。夏だったか、平地の里山を歩いていたとき、頭上からどさりとアオダイショウが落ちてきたことがある。それを思い出した。抜け殻はおよそ1.5メートル。やはりアオダイショウだろう。

アオダイショウは農家や米屋の守り神だ。米を食い荒らすネズミを退治してくれる。カミサンはそういうふうに親から言われ、実際に家でアオダイショウを見ながら育った。

わが家の神棚に「へびのぬけがら」とかかれた紙箱がある。下の子が小学生のころ、どこからか拾ってきたのを入れていた。ありがたがって神棚に供えて置いたのだろう。開けてみたらもぬけの殻、箱の隅に茶色い粉末状のものが少し残っているだけだった。分解してしまったらしい。

なにせ「ヘビの抜け殻を財布に入れておくと金運がよくなる」といわれる。よくなったためしはないが、なんとなく前に向かっていくエネルギーがわくような気がするから不思議だ。

無量庵のヘビの抜け殻はそのままにしておいた。今度行ったときにまだ残っていたら、回収してカミサンの財布に一部を入れてやろうと思う。「イヤだ」と首を振っていたが、ご利益があるかもしれないから。

2012年7月14日土曜日

クモの隠れ家


夏井川の無量庵へ行く。すべきことを終えると、庭の内外をウオッチングする。庭のヘリの木にアラゲキクラゲが発生していた。写真に撮って拡大したら、なんとクモが隠れていた=写真。オニグモではないか。

無量庵ですべきことは二つ。「三春ネギ」を栽培しているので、時期を見計らって溝をつくる、苗を植える、庭の刈り草を敷く、土をかける、追肥をする、草を引っこ抜く――その作業の合間に生ごみを埋める。

農家からみたら、ままごとのような作業とスペースでしかない。が、生ごみ埋めはささやかな資源循環だと思っている。この17年、燃えるごみの収集日に生ごみを出したことはない。

ウオッチングの楽しみは森を巡ることだ。かつては「モリオ・メグル氏」という架空の人物に託して勤務先の新聞に森の話をつづった。そして、ブログを始めてからは「私」の一人称でそれを継続している。が、3・11後はなぜか対岸の森を巡ろうという気持ちがわいてこない。キノコを見る・撮る(採る)楽しみが減衰したからだろう。

それはさておき、クモだ。アラゲキクラゲは人間の耳たぶくらい。クモにとってはいい隠れ家ではないか。雨上がりだった。夜行性のオニグモだとしたら、雨を避けられただけでなく、日中はずっと安心してそこにいられる。

夏井川渓谷へ通うのはこうしていつも発見があるから、といっていい。想像力が刺激される。

人間は、マチ場での人間と人間のつながりだけでなく、人間と自然のつながり(ネギづくり、キノコ・山菜採取など)、そして自然と自然のつながり(クモとアラゲキクラゲの関係など)によって生かされている。そのことを確かめるために溪谷へ行く、ということなのかもしれない。

2012年7月13日金曜日

井戸水2リットル


ときどき、いわき民報にいわき市内の井戸水の放射線量結果が載る。なんとなく気になっていた。夏井川渓谷(小川町上小川字牛小川)の無量庵では井戸水を使っているから。

火曜日(7月10日)夜、牛小川の区長さんから電話がかかってきた。――井戸水の放射性物質を市が測定する。ついては、水2リットル=写真=を用意するように。いよいよきたか。7月12日の午前中に採水して正午までに市の小川支所へ届ける「期日指定」だ。

きのう、朝食をとるとすぐ、牛小川へ出かけた。9時前、無量庵に着いた。区長さんが待っていた。手渡されたチラシ(表題「放射性物質の測定を行う井戸水等のとり方について」)を急いで読む。

「お気をつけいただくこと」「「用意するもの」「水のとり方」「提出について」の4項目について、事細かに書かれている。

「水のとり方」は次の通り。①水をとる直前に、蛇口から水を3分間ほど強く出しつづけてください②手指を水でよく洗ってください③ペットボトルの中を水で3回以上すすぎ洗いしてください④ペットボトルに水をとります。空気が残らないように満杯にします⑤とり終わったら、ペットボトルのふたをしっかりと閉めてください――。

残る二つ。⑥水をとった時刻を覚えておいてください⑦水を入れたペットボトルは、いわき市指定ごみ袋に入れて、空気を抜いて軽く口をしばってください。

とんぼ返りで支所へ寄る。住所・氏名・電話番号・採水時刻などを書きこんだ調査票とともに水を提出する。区長さんから託されたもう1軒の水も一緒に。

結果は、来週には出る。郵送されるという。後日、測定値・地区名(小字名)・採水日時・水源の種類(浅井戸・深井戸・湧水・沢水)が公表される。望むところだ。こうして少しずつ身の回りのデータが蓄積されていく。汚染の濃淡が数字となって頭に刻まれる。

そういえば、若い仲間は道路の空間線量を移動しながら測定する「放射線情報共有マッププロジェクト」というものに参加している。海岸部、市街地、山間部と、休日にはいわき市内を走り回っているらしい。これもまた市民レベルの「見える化」事業の一つだろう。

2012年7月12日木曜日

土入れ替え


わが区内に4階建ての県営住宅が立ち並ぶ。その建物に囲まれて入居者のための公園と集会所がある。集会所の雨樋吐きだし口が最近修繕され、そばの土も入れ替えられた=写真

区内会の総会で定期的に放射線量を測ってほしい、という要望が出された。副区長が保健委員を兼ねるために、保健委員である私が月に一度、区内の放射線量を測っている。結果を回覧板で知らせる。

昨年11月下旬、区内会の役員と子どもを守る会の役員その他40人ほどが出て、県の補助金50万円を使い、「生活空間環境改善事業」を実施した。主に高圧洗浄機を使って通学路を“除染”した。でも、ただ側溝に洗浄したものを垂れ流すだけ。じくじたるものがあった。

集会所の雨樋吐きだし口(南と北の二つ)の放射線量が高いので、そこも高圧洗浄機とブラシでごしごしやった。線量がかなり下がった。

ところが、定期的に測定を始めたら――。そこだけ元の高い数値になっている。周りの土は? 南の方は、雨樋の吐きだし口が露出していることと、それがだれかに壊されて、雨水が四方にしぶいていたのだろう。びっくりするほど高かった。ミニミニホットスポットだ。

区の役員が出て、試験的に南の雨樋わきの土を入れ替えた。効果はあった。が、せいぜい1メートル四方だ。それをやるだけで大変な時間がかかった。区内会の役員レベルでできる作業ではない。

区長さんから行政に要望してもらうことにした。が、市に言えば「県の管轄だから」、県に言えば「市の除染プログラムでやるから」。らちがあかない。が、結果的には県が雨樋を修繕し、周辺の土を入れ替えた。

「前」と「後」では――。地上1センチで毎時1マイクロシーベルトを超えるミニミニホットスポットは1カ所だけに減った。

最大4マイクロシーベルトを越えていたところが0.88になり、2.04のところが0.43、1.90のところが0.90に下がった。1を超えていたのはコンクリートの床の角。雨とともに落ちてきた放射性物質が側面にこびりついているのかもしれない。要注意個所にはちがいないが、線量は下がった。

2012年7月11日水曜日

ネジバナ


7月になると、いわきではネムの花が咲く。平から夏井川溪谷へと向かう道沿い。何本かネムの木がある。今年はまだ花を見ていない。遅い。代わりに、というわけではないが、溪谷の無量庵の庭でネジバナの花が咲きだした=写真。ニワゼキショウも咲いている。

梅雨になると一度、人に頼んで草を刈ってもらう。前はカミサンの知り合いの農家の女性、今はわが家の斜め向かいの造園業の知人にお願いする。そうやって庭の草を刈ってきたからだと思う。ニワゼキショウが増え、最近はネジバナが目立つようになった。

カミサンがネジバナを摘んで、被災者のための交流スペース「ぶらっと」に飾った。富岡町から避難し、「ぶらっと」でボランティアをしているYさんが、ネジバナを見て「なつかしかった」と言う。

いわきにいる双葉・相馬郡の人たちにとっては、ネジバナは「なつかしい花」になってしまったのだ。わけもわからず、着の身着のままで避難した日から、ふるさとに、わが家に帰れない。一時立ち入りが行われるようになっても、庭は、周囲は草ぼうぼうだ。咲いている花に目をやる余裕もない。

私がそうなのだが、ある程度年がいくと、土いじりが楽しみになる。花を、野菜を栽培する。山菜も、キノコも採る。少なくとも地方に暮らす人間には、自然と交流し、自然から恵みをいただく――その恩恵がたまらなくありがたい。いや、だからこそ地方で暮らすのだ。それが、原発事故で断ち切られた。

いわきのネジバナに触れて、家と生活と土地の記憶に結びついていた、ふるさとの山野草を想起する。Yさんの、「なつかしかった」という言葉には万感の思いが込められている。胸の中で私は泣くしかなかった。

2012年7月10日火曜日

箱入りネコ


ネコは飼うなら1匹――。そう思い定めている。が、カミサンと息子たちどころか、最近は保育所へ行っている孫たちもネコかわいがりを覚えたようだ。

ネコは野性を秘めている。人間の想像力を越えた行動をとる。庭に積んだ箱の中で寝る=写真。車の窓が開いていれば、そこから入って後部座席で涼む。車を運転する段になって、突然、後ろから「ニャー」とやられたときには、びっくりする。

疑似孫の父親から電話が入った。子ネコを拾ったという。見るに見かねて助けた気持ちはわかる。が、わが家には1匹減って2匹がいる。えさをやっている野良を加えると3匹だ。これ以上増やすわけにはいかない。カミサンが私の顔色をうかがいながら、別の里親を探すように言った。

日曜日(7月8日)の午後、いわき駅に近いダイユー8へ行った。偶然、長男一家と出会った。駐車場は満パイ。うろうろしたあと、長男の車に近づく。車を出したらそこへ入れる――。と、長男がボンネットを開けた。バッテリーでも上がったか。

ちょうど目の前の車が発進した。車を入れて長男一家に合流する。ヨメサンが子ネコを抱いていた。エンジンルームでミャーミャー鳴いていたのだという。なんで?

子ネコが3匹、捨てられていた。長男がそれを拾った。2匹はだれかにひきとってもらった。残りの1匹だった。家族で出かける段になって後を追い、エンジンルームの下から飛びこんだ。人間は知る由もない。

たまたま近くに車を止めていた人が、ペットのエサ皿を出して水をついでくれた。都合6人が子ネコをのぞき込みながら、ああだ、こうだと話している。さいわい脱水症状にはなっていなかった。

水を分けてくれたのは、いわき市の仮設住宅に入居している楢葉町の人だった。ペット好きなのはすぐ分かった。車に犬がいる。ペットの飼える仮設があって、そこに入ったのだという。

双葉郡などから避難している人はおよそ2万3千人。日常的にいわき市民と接触している。とすれば、仮設住宅だろうが、借り上げ住宅だろうが、いわき市民とは助け、助けられる関係の「隣人」だ。一緒になって子ネコを気遣ってくれた人から、そのことを教えられた。

2012年7月9日月曜日

日本海のヒラマサ


土曜日(7月7日)、私は知らなかったが近所の歯科医院の奥さんがヒラマサを持ってきた。三枚におろした一部で、刺し身になるという。その日の夜、いわき駅前で飲み会があった。翌日曜日、カミサンからヒラマサがあることを告げられた。でも、夏~秋の日曜日の夜は「カツ刺しで一杯」がわが家の定番。ヒラマサは月曜日、塩焼きにすることにした。

「マイ皿」を持っていつもの魚屋さんへ出かけたら――。「かつお」と書かれた立て看が店の前にない。シャッターも右半分が下りている。目が合った瞬間に若旦那から「すみません」と拝まれた。アハハハ、である(ヒラマサを食べろ、ということだ)。帰って、柳葉包丁でヒラマサの皮をそぎ、刺し身にした=写真

ヒラマサは、歯医者さんの友人が日本海で釣った。友人って、もしかして歯医者さん? その人が友人かどうかはわからないが、広野町で開業していた歯医者さんは海釣りが大好き。奥さんが年に一、二度、釣果のスズキを持ってきてくれた。三枚におろすワザを覚えたのはそのおかげだ。

広野の歯医者さんは3・11で自宅が大規模半壊になり、加えて原発事故で避難を余儀なくされた。奥さんと娘さんは東京に住み、ご主人は福島市で再開業した。“単身赴任”だ。「太平洋ではもう釣りができないのかなあ」と言っていたそうだ。日本海産の魚と聞いて、この広野の歯医者さんを思い出したのだった。

ヒラマサは夏が旬。白身で、スズキに似る。歯ごたえがあってさっぱりしている。が、こってりした赤身のカツオに慣れた人間には、いささか物足りない。やはり、いわきの夏はカツ刺しに限る。

小名浜にカツオが揚がるようになった。3度目の水揚げを報じるいわき民報の記事(6月30日)によれば、漁場は八丈島の北東沖。放射性物質検査で限界値未満だった。なんら問題はない。平年を越える高値で取引され、即日、県内のスーパー、小売店で販売された。

築地市場には卸さなかったという。同じ八丈島沖で漁をしながら、千葉で水揚げされたものはなんでもなくて、小名浜に水揚げされたものはがくんと安くなる。消費者ではなく、市場関係者や流通業者が「人々は不安に思って買わないだろう」と想定してしまうところから、価格暴落が起きる(関谷直也『風評被害』=光文新書)。理不尽な話だ。

野田首相が土曜日にいわきを訪れ、カツオの刺し身を食べたそうだ。風評被害が減るなら結構だが、どうなることやら。官邸前でデモをしたあと、いわきのカツ刺しで一杯、というふうに、風評被害に遭っている福島県を応援してくれないか。応援してくれるとさらに連帯感が増す――などと本気になって考える。

ついでながら、半月前、夏井川渓谷で白バイ・パトカー・黒塗り乗用車・白バイの一行を目撃した。そのことを6月28日付の小欄で紹介した。野田首相はいわきを訪問したあと、川内村を訪れたという。いわきから川内の中心地へ行くには、夏井川渓谷の県道小野・四倉線を利用するのが一番。あれは、してみると首相の川内行きの予行演習だったか。

2012年7月8日日曜日

斜め堰


夏井川渓谷へ向かう途中、平野部の小川町三島地内で水面が鏡のように滑らかな川に出合う。磐城小川江筋の取水堰(ぜき)がある。今からざっと350年前の江戸時代前期に築造された。夏井川のカーブを利用した多段式、木工沈床の斜め堰で、七段の白い水の調べが美しい=写真

被災者向けのある情報紙(月1回発行)に、いわき市内の名所・旧跡や公共施設などを紹介するコーナーを与えられた。野口雨情記念湯本温泉童謡館、市フラワーセンターの次にこの「斜め堰」を取り上げることにした。

ふだんは川に沿う国道399号を往来するだけだが、“取材”のために車を止め、そばの三島橋の上からしばらく斜め堰の水の調べを眺めた。目が喜び、次に心が穏やかになっていく。それがわかる。昔から好きないわきの景観の一つである。

この堰を研究した専門家は論文で「約300年以上にわたり大規模な改築もせずに、その機能を十分に果たし、自然景観と調和した美しいたたずまいを醸している」と高く評価している。

この堰から学ぶべきことは、と専門家はいう。「河川横断構造物の設計にあたり、その位置での河川の流れの特性を見極め、洪水という流れのエネルギーに立ち向かうのでなく、流れに逆らわないやさしい流れを作る視点であるように思われる」。<身の丈の技術>という言葉が思い浮かぶ。

ここを起点にした用水路は終点の四倉まで全長30キロ。いわき市北部の夏井川左岸の水田約970ヘクタールを潤している。堰のすぐ上流には冬、ハクチョウやカモたちが飛来する。冬もときどき、ここに立ち止まる。

2012年7月7日土曜日

磐城平城跡の石垣


先日、「磐城平城史跡公園の会」の総会が平の生涯学習プラザで開かれた。昨年度は東日本大震災・原発事故のために6月の総会を含め、1年間、会の活動が中止になった。

いわき地域学會として参加を要請され、会に加わった。設立総会以来、2年ぶりの総会だ。記念シンポジウムも開かれた。テーマは「磐城平城の石垣」。東日本大震災でいわき市の指定史跡になっている「磐城平城跡塗師櫓石垣」=写真=が崩落した。鉱物を研究している地域学會の仲間が石垣の材質について基調講演をした。

いわき駅裏の物見ケ岡は磐城平城のあったところ。すっかり宅地化され、城の痕跡(遺構)は石垣くらいしかない。本丸跡には柵が設けられて入れない。市民から寄付を募って本丸を復元しようとしたときがあり、その痕跡(基礎工事)が残っている。計画は頓挫した。

石垣は、3・11に上半分が崩落したという。撤去された石材は常磐藤原町斑堂の収蔵施設に仮保管されている。

残存する石垣には、上部だけ一つひとつに番号が付されている。撤去された石にも番号が付されているという。いつの日か復元するときに忠実に石を積み上げる――そのための深慮なのだろう。

門外漢には、どんな石が使われたのかが気になるところ。使用岩石を多い順に挙げると、①角閃片岩、斑糲岩などの塩基性岩②花崗岩③砂岩――だとか。で、①の採取地は城から近い好間川流域だろう、という。②は夏井川流域の小川から好間にかけて広く分布ずる。砂岩は軟らかくて石垣に向かない。あとから置かれたと推測される、のだそうだ。

石垣のある「塗師櫓」の前の坂道は急峻だ。そのことを併せ考えると、本丸が一番東側にあったのは、徳川譜代として北の伊達藩に対峙する城だったためではないか――という。いわきは、江戸時代には伊達藩に対する江戸の北のトリデであり、現在は原発事故収束作業にあたる、東京のための北のトリデだ。

2012年7月6日金曜日

学生からの礼状


東洋大の国際地域学科に学ぶ3年生6人がゼミの先生とともに6月初旬、いわき市を訪れた=写真。いわきは東日本大震災の被災地であると同時に、原発事故収束作業のためのトリデになった。「原発震災」の現状を海外に発信するための現地調査だった。彼らから礼状が届いた。

「シャプラニール=市民による海外協力の会」を介して、昨年、ゼミの先生と知り合った。で、現地ガイド、聴き取り調査の相手の選定などを頼まれた。こちらでスケジュール案をたて、調整した。

「想定外」のこともあった。久之浜の大久川河口付近にタクシー(ワゴンタイプ)を止めたら、浪江町の町議夫妻がいた。個人的に被災地を見て回っているらしい。避難先の二本松市から車でやって来た。学生にとってはまたとないインタビュー相手だ。調査に厚みが増した。

デジカメのほかに、デジビデオで撮る。学生が英語でレポートするシーンも撮る。後日、インターネットの動画共有サービスを利用して発信するための“現地取材”だ。若者の「発信力」の高さを目の当たりにした。

礼状には、「初稿」段階の英文レポートが同封されていた。辞書を引きながらなら、いわきのことだ、なんとか読める。数字の間違いも指摘できる。

それで思い出した。別の大学の学生からも前に礼状が届いていた。昨年暮れ、東京で「リッスンいわき」というイベントが行われた。呼ばれて話をした。早稲田大の大学院生が話を聴きに来ていた。その縁でゴールデンウイークを含めて二度、院生が指導教授やほかの学生とともにいわきへ調査にやって来た。

院生は2月にいわきで開かれた「フィールいわき」を含めると3度目の来市だ。「地域社会と危機管理」というテーマでフィールドワークを進めているらしい。6月には社会学4学会合同でいわき市、広野町を訪問した。8月には「フィールいわき」の第2弾にも参加する。そのほかにも「いわき出張」を予定しているという。

学生にいわきの今を話す。話を聴いた学生が海外へ、国内へ、次の世代へそれを伝える。自分の役割が少しずつ見えてきたかな、という思いになっている。

2012年7月5日木曜日

亡くなった?


被災者のための交流スペース「ぶらっと」に、真っ先にやってきた人が7月1日に亡くなったという。いわき駅前の「ラトブ」に「ぶらっと」がオープンしたのは昨年10月。開所式=写真=に彼も出席していた。私より1歳年下、62歳だ。津波被害に遭った元漁師。「ぶらっと」は、今はイトーヨーカドー平店2階にある。常連としては唯一の男性だった。

交流スペースを運営するNGOとかかわっているので、交流スペースのオープン前後から彼と知り合った。やがて情報紙を出すことになり、創刊準備号で利用者第一号の彼の声を伝えた。

「薄磯にいた頃は、毎日防波堤に行けば仲間がいて、話し相手に事欠かなかったねえ。今は周りに知り合いもいないから、一日どう過ごせばよいかわからないんだ。この交流スペースが出来てスタッフが話し相手になってくれるから、これからも利用するよ。俺のように独りで暮らしている人がいたら、是非ここを利用して欲しいな」

知りあって10カ月。いわき駅近くの借り上げ住宅(民間アパート)に入っていた。ときどき仲間と応急仮設住宅へ行ってボランティアもやっている、と聞いた。

なぜ、急に彼岸へ行ってしまったのか。本人が自分の体の急変に気づいて救急車を呼んだ。病院へ運ばれた。でも、だめだったらしい。

昨晩(7月4日)、NGOのスタッフが来宅し、飲んでいるうちに彼の死を語った。生きるための支援をしているのに救えなかった……。へこんでいた。やがて、豊間の大工から電話が入った。こちらもいろいろとあってへこんでいた。私もへこんだ。

あれから1年余。被災者にも、地域の被災者を引っ張るリーダーやNGOスタッフにも、心の疲れがみえるようになった。これからだ、それぞれの心が大変なのは、きっと。

2012年7月4日水曜日

不法侵入


なんだ、これは。すぐツチグリ幼菌(マメダンゴ)の採取跡だと了解する=写真。イノシシがつつましくラッセルするはずはない。人間だ。コケがはがされ、500円玉大に土が露出している。

夏井川渓谷の無量庵。庭の一角にマメダンゴが発生する。地表に出たら、もう食べられない。まだ地中にある幼菌のうちに手探りで採る。

そこにはコケが生えている。てのひらでコケを圧(お)す。硬さを感じたら、苔をはがしてみる。ほぼ1センチ前後の幼菌が現れる。幼菌を採ったら、コケをもとに戻す。何ごともなかったように。小穴だらけなのは、人間がコケを戻すのを忘れたからだ。

今年は庭のマメダンゴを採取しない――。ブログでそう書いた。それが裏目に出たか。そうだとしても、犯人は庭に不法侵入をして、まっすぐマメダンゴにたどり着いた。トリュフをかぎ当てるブタか犬並みの嗅覚だ。

犯人が無量庵をよく知る人間だとしたら、気持ちは信頼より不信に傾く。タラボがとられる。葉ワサビが、ジンチョウゲがとられる。そして、今度はマメダンゴが。「とられる」を漢字で書けば「採られる」より「盗られる」だ。

3・11後も、それ以前と考えや品性の変わらない人間がいる。あれだけの天変地異と文明の災禍があっても、「オレはオレ」なのだろう。マメダンゴのセシウムはどのくらいあったか、気になるところだ。

2012年7月3日火曜日

1年以上たったけど

早朝の夏井川堤防。カタツムリがアスファルト路面を歩いていた=写真。<おい、車にひかれるなよ>。カメラのシャッターを押しながら胸の中でつぶやく。歩みはのろい。でも、<おまえは家ごと移動できるんだよな>。津波で家を失い、家があっても原発事故で避難した人たちがいる。思いはそちらへ転がる。

雇用促進住宅や民間アパートなど、応急仮設住宅とは別の一時借り上げ住宅に入居している被災者が今、何を思い、何を考えているのか――。3・11後、いわき市で支援活動を続けている「シャプラニール=市民による海外協力の会」が今年3~5月、いわき駅前賑わい創出協議会とともにアンケートをした。

シャプラは、被災者のニーズに即して支援の内容を変えてきた。2011年10月9日、いわき駅前再開発ビル「ラトブ」に被災者のための交流スペース「ぶらっと」を開設した。「ぶらっと」は2012年4月からイトーヨーカドー平店に移転した。併せて昨年12月から毎月、情報紙「ぶらっと通信」を発行している。

「ぶらっと通信」を発送している1000世帯強に質問用紙、回答用紙、返信用封筒を同封したところ、313世帯(29.2%)から回答があった。その結果は(シャプラのHPから)――。

全体の2割弱が一人暮らし世帯。うち約7割が60代以上。見回りなどによる生活支援の必要性が高い。回答者のうち約半数が就労している一方で、働きたくとも働けない人が3割弱いる。特に、相双地区からの避難者の中で何らかの理由により就労できていない割合が高い。

「精神的に不安定」「自殺を考える」といった回答もあり、先が見えないことへの不安や家族離散による喪失感などを含め、精神的な問題が大きい。避難生活の長期化に伴い、居住環境に関する不満が高まっている、という。

行政をはじめ、企業・個人ともに復興へと向かう流れは当然だろう。と同時に、その流れのよどみに沈んだままの被災者もいる。

「ぶらっと」のスタッフ・ボランティアは先日、いわき明星大へ出向き、臨床心理士の窪田文子教授から「災害被災者のための傾聴技法」と題する話を聴いた。被災者の声に耳を傾ける。それにもワザがいる。少しでもそのワザを吸収しようというわけだ。

あなたは一人じゃない、あなたを忘れない――一緒にいてくれているんだ、と思ってもらえることが大切なのだという。「心のケア」が大切になってきた。