2012年8月31日金曜日

庭仕事


「半壊」判定の庭の物置を業者が来て解体した。密生する庭木も造園業の知人に頼んで剪定した=写真。一挙に庭が明るくなった。春ならば陽光が躍って喜ばしいが、残暑がいっこうに収まらない今はきつい。直射日光と照り返しで、庭に面した茶の間により熱がこもるようになった。

庭木の下生えはスミレ、スイセン、シラン、ミョウガ、ヤツデなど。へりにはホトトギス、イカリソウ、エビネ、アジサイなど。もらったり、買ったりしたものを地植えにしたら、増殖した。若いエノキは鳥の贈り物だ。フンとともに種が落ち、芽を出した。無量庵(夏井川渓谷)の実生のカエデも、仮植えしたら大きくなった。

移植して失敗したものもある。柿の木とナンテン、ニシキギ、マサキ程度だったところに、ワンポイントのつもりでササを移植した。囲いをつくらなかったのでどんどん増殖し、年に一度はササ刈りをしなければならない羽目になった。

夏は庭木が茂るから目立たない。が、バッサリやった今は下生えに日光が降り注ぐ。ササが息を吹き返して地下茎を伸ばしかねない。そうなるとコトだ。この際、始末をつけないと――。

日中は熱中症になる。ならば、夜明けと同時に動けばいい。おととい(8月29日)、きのうと、早朝、散歩を休んで庭仕事をした。

近所に2階建ての物置があった。同じ「半壊」判定を受けて解体された。同じ業者が解体を請け負った。捨てられるものがあるというので、唐鍬や三本鍬、草削りなどを“救出”した。

その三本鍬を使ってササの地下茎を切断し、引っこ抜く。小一時間もすると、汗みずくになる。朝日も当たるようになる。熱中するのはそこまで。早朝、二日かけてあらかたササを退治した。

およそ30年間、のどにひっかかっていた骨のようなものが庭から取れた。この日の茶の間の温度は34度超。切断され、集められた地下茎は、太陽に焼かれて枯れたことだろう。

2012年8月30日木曜日

「川前村」だったら


日曜日(8月26日)、久しぶりに夏井川渓谷の無量庵=写真=で過ごした。8月最初の週末は田村市の実家に帰った。次の日曜日(8月12日)は、カミサンが自分の実家でお盆の準備を手伝った。一週間後の19日は地球市民フェスティバル。8月最後の日曜日になって、やっと用事や行事から解放された。

早朝7時半ごろ、無量庵に着いた。小一時間、外で作業をしたあとは、なにもしない。熱中症の予防もあるが、「無為」の時間を楽しむ。朝食をとり、朝風呂に入り、朝寝をする。なによりの“ごちそう”は昼前から吹き始めた谷風だ。屋内にいる限りでは天然のエアコンが作動している。谷風のおかげでわが家では体験できない涼気を味わうことができた。

無量庵に車が止まっていたのを見たのか、川前の知人がやって来た。よもやま話になった。昨年5月6日付小欄「川前・荻の放射線量」で、双葉郡川内村に隣接する荻地区の線量が高いことを書いた。今回と同じように無量庵にやって来てよもやま話になった。そのなかでいわきのホットスポットを知ったのだった。

1年半近くたった今はどうか。またまた「合併の功罪」の話になった。川前村が合併していわき市の一部にならず、川内村のように独立した自治体のままだったら、村長の指揮下、もっとスピード感をもって除染作業が進められていたはずだ、それが村の最大の課題になるからだ、と。

46年前、14市町村が合併していわき市が誕生した。合併の「功」は財政の効率化、「罪」は地域の課題の潜在化だ。過疎化・高齢化といった問題は、「川前村」なら最大の課題になるが、「いわき市川前地区」では市の一部の課題でしかない。市の周縁部になるほど問題は潜在化・矮小化して見えなくなる。

川内村は昨年3月16日全村避難をし、今年4月1日帰村が始まった。民間住宅の除染作業も進められている。隣の村が目に見えるかたちで前へ進んでいるのを見るにつけ、歯がゆい思いが募る。それでも、前に進むしかない――知人の言葉から、あらためて山里の厳しい「今」を知る。

2012年8月29日水曜日

雨量13ミリ


夏井川の堤防そばにある民家の畑。サトイモのうねの間に水がたまっていた=写真。うねも濡れて黒い。畑の一角にある水道栓からホースが伸びていた。雨は期待できない。水道を使って灌水したのだろう。

野菜には、土壌の乾燥に強いものと弱いものがある。裏を返せば、湿潤に強いものと弱いもの、ということになる。

サトイモは高温多湿を好む。乾燥には弱い。キュウリやナスもそうだ。うねの乾燥を防ぐために敷き草をする。それでも足りないときには灌水してやる。ネギは逆に湿潤に弱い。根腐れを起こす。川の下流域にネギの産地が多いのは、土壌が砂質で水はけがよいからだ。

その民家の庭先の畑は自家消費用だろう。通路をはさんだサトイモのうねの反対側にネギのうねがある。水やりの有無がはっきりしている。

夏井川渓谷の無量庵で家庭菜園を始めたころは、面白がっていろんな作物を育てた。たいがい2株、多くて4株程度の少量多品種栽培だ。サトイモ、キュウリ、ナス、サヤエンドウ、ソラマメ、オクラ……。トマトは見事に失敗した。週末だけの手抜き栽培では無理。二度とやらないと決めた。生ごみを埋めるとミニトマトが芽生える。それは育てる。

話がそれた。野菜によって乾湿に強い・弱いがあるのは、出自(原産地)が影響しているのではないか。ネギは中国奥地の乾燥地帯、サトイモは逆にインド東部~インドシナ半島あたりの高温多湿地帯がふるさと。強い・弱いがDNAに組み込まれているのだろう。

今年8月のいわき(小名浜)の総雨量はきのう(28日)現在、13ミリ。平年値135ミリのおよそ10分の1だ。サトイモは悲鳴を上げている。ネギもいつまで持ちこたえていられるやら。

2012年8月28日火曜日

スイカ被害


朝の散歩時の、近所の畑での“できごと”。8月24日、スイカが何者かによって細長く裂かれ、真っ赤な果肉がのぞいていた。翌日早朝、穴は大きくなっていた=写真。きのう(8月27日)見たら、もう皮が太陽に焼かれてへなへなになっていた。散歩コースの終点近く、わが家の裏手に畑がある。そこの一角で起きた“異変”だ。

畑は国道6号と旧国道の家並みにはさまれている。建物の奥に畑があるなどということは、住民以外にはわからない。

旧国道は、江戸時代には「浜街道」と呼ばれていた。私の住む平・中神谷地区は、かつては一筋町だった。背後には田畑が広がっていた。家並みに囲まれた「中庭」に畑が存在しているのは、その名残だ。

散歩の途次だから、意識して畑をウオッチングしてきたわけではない。記憶はあいまいだ。が、その畑では毎年、ネギが栽培されていた。今年はネギのほかにジャガイモが栽培された。ジャガイモの収穫がすんだ今、裸地の奥にスイカの玉が二つ横たわっている。それが、やられた。犯人はだれか。ヒヨドリ? カラス?

夏井川渓谷の無量庵に生ごみ埋めると、必ずほじくり返される。タヌキかハクビシンか、はたまたイノシシか――ということを書いたばかりだが、平地の神谷地区ではおのずと犯人は絞られる。

きのうの散歩時、その畑に近づいたらカラスが2~3羽いた。1羽は、別のスイカにのっかって表面をつついていた。とっさにカメラを向けたが、間に合わなかった。カラスがせっせとスイカをつつき、赤く、甘く熟した果肉をほじくり、食べていたのだ。今朝見たら、第二のスイカも果肉がほじくり返されて半分になっていた。

2012年8月27日月曜日

雨がほしい


河口から4~5キロさかのぼった夏井川で、河川拡幅工事が行われた。河川敷や川の土砂が除去された。岸辺の竹林や樹木も伐採された。わが散歩コースの水辺の光景が一変した。その川が一部、底をさらしている=写真。雨が降らないからだ。

土砂除去によって川幅が広げられた結果、何カ所かに「中島」ができた。流灯花火大会が行われる平・鎌田地区がそうだ。「中島」の半分は前に除去されたが、残りはそのままだ。「中島」が小山になりつつある。

絶えず流動している川や海は、手を加えれば加えるほどどこかに変化があらわれる。夏井川の場合は、今までなかったところに砂がたまる。それが中洲になる、さらに木が繁茂して中島に成長する、というのを見てきた。自然相手の工事はいつも「途中経過」でしかない。

この夏は、猛暑がこれに輪をかけた。雨の降らない日が続いて、わが散歩コースのあちこちで川床がのぞくようになった。田植え後、夏井川の水量が減って川床がのぞくことはある。その水稲がこの時期、暑さ対策から水を必要としているのかもしれない。であれば、よけい川の水量は低下する。山も乾いているのだろう。渓谷の水量もずいぶん減った。

福島の桃農家が雨乞いの儀式をしたというニュースを見た。しばらく雨が降らないために桃が小粒の状態なのだという。甘いのはいいが、小さいままでは売り物にならない。

庭の草木もなんだか元気がない。先日から夕方、打ち水を兼ねて散水をしている。雨がほしい。

2012年8月26日日曜日

ぶらっとライブ


きのう(8月25日)午後、「ぶらっとライブ」が開かれた=写真。「ぶらっと」はNGOのシャプラニールが運営する被災者のための交流スペース。イトーヨーカドー平店2階にある。

「ぶらっと」では毎日のように催しがある。8月第4週は休みの水曜日を除いて、日曜日:富岡町民の集い、月曜日:ちりめん細工の朝顔作り(午前)・中国語と中国茶(午後)、木曜日:エコクラフトミニ帽子作り(午前)・無料健康チェック(午後)、金曜日:健康運動教室。そして、シメが土曜日の「ぶらっとライブ」だ。

「ぶらっと」は、今年3月末まではいわき駅前の「ラトブ」にあった。昨年10月9日に開設して以来、人が集い、交流するための各種教室を開催してきた。その合間にライブを企画し、アマチュアミュージシャンなどが2階のペディストリアンデッキ、あるいは1階の「いわき横丁」で演奏を披露した。

「ぶらっとライブ」は、いわきシンフォニックウインドアンサンブルのクラリネット4人組がオープニングを飾った。次いで、ヒューマン・ビート・ボックスの高専生ら2人組、クラシックギター、オカリナと続き、ギターとパーカッションの「こまさと」がトリを務めた。

クラリネットの4人は女性。そのうちの一人が「ぶらっと」スタッフだ。「こまさと」の「こま」も同じく「ぶらっと」を運営するシャプラのスタッフだ。人に聞かせるだけのウデを持っている。そうした“余技”がライブを開催する原動力になっているのだろう。

カーペンターズ「イエスタデイ・ワンスモア」、ユーミン、松山千春「空と大地の中で」、吉田拓郎「襟裳岬」、美空ひばり「川の流れのように」……。ほかにクラシックギターの名曲「アルハンブラの想い出」など。団塊世代にはなつかしい曲が続いた。ホームコンサートのような、一体感のあるライブだった。

2012年8月25日土曜日

朝めし前


ところは夏井川渓谷の無量庵。小さな菜園に生ごみを埋める。と、必ずほじくり返される。ドーベルマンがいるのだが、ハリボテであることを見透かされている=写真

おととい(8月23日)早朝、生ごみ入りのバケツを車に積んで無量庵へ出かけた。生ごみを埋めるのと同時に、三春ネギに追肥し、土寄せをしないといけない。渓谷の尾根から朝日が差し込まないうちに両方の作業をする――それなら熱中症になることはあるまい、という計算だ。それはそれで正解だった。

案の定、前回埋めた生ごみがほじくり返されていた。ネギのうねは2列。草が生え、つる性植物がしのび寄っていた。半月以上ほっといていたら、そうなる。で、まず草引きをした。

生ごみをあさったのはハクビシンか、タヌキか。イノシシならば、ドーベルマンを動かし、土を深くえぐって生ごみを広範囲にまき散らす。そんな激しさではない。つつましい。

草引きを終えたあと、ネギに追肥をし、土寄せをした。曲がりネギにするには、新たに溝をつくり、伏せ込みをしないといけない。

が、今年は手を抜くことにした。まっすぐの三春ネギにする。3分の1は去年の曲がりネギから「分けつ」したネギ。そのまま曲がりネギになっている。

草引き・追肥・土寄せ、そして生ごみ埋め。小一時間の作業を終えるころ、7時前だが、朝日が無量庵を照らしはじめた。汗をかく前、いや朝めし前に“仕事”を終えることができた。

「天日燦(さん)として焼くがごとし いでて働かざる可(べ)からず」と、いわきの詩人三野混沌はうたった。熱中症予防のために私はそれを実践しない。「天日燦として焼くがごとし」になる前に畑仕事を終えよ、でなければ家で寝ていよ、である。

2012年8月24日金曜日

テーブルの脚が届く


朝6時、夏井川渓谷の無量庵に着く。玄関前に高さ60センチほどの丸太が5本置いてあった=写真。テーブルの脚だ。生ごみを埋めに行ったら、“発注品”が届いていた

川内村の陶芸家志賀敏広さんは木工家でもある。彼の工房の庭に自作のテーブルとベンチがあった。丸太が脚、その上に角材を置き、板材3枚を並べただけのテーブルは、簡単にばらしたり、組み立てたりできる。ベンチもまた板材に径7センチほどの丸太をはめこんで脚としただけ。

シンプルな作りが気に入り、テーブルとベンチを発注して無量庵の庭に置いた。もう十数年前のことだ。以来、日に焼かれ、雨に濡れ、雪をかぶりながらも、テーブルはデンとそこにある。

とはいえ、地面に接している丸太の脚だけは、いつからか菌にむしばまれるようになった。今では内部がボロボロになっている。で、志賀夫人(彼女も陶芸家)がわが家に来たとき、二代目の脚を発注したのだった。

彼らの工房へ行くには、二つのルートがある。アップダウンの激しい国道399号を利用するか、無量庵のある夏井川渓谷から“スーパー林道”(広域基幹林道上高部線)を駆け上がり、終点T字路を右折して川内に入るか、のどちらかだ。

「急がば回れ」で、後者のルートがゆるやかで早く着く。無量庵へ来るには、なおさらその道が最短だ。つい最近まで、彼らには未知のルートだったようだが。

ところで、脚が5本ということは、1本は予備? そういうことなのだろう。

2012年8月23日木曜日

庭木剪定


おととい(8月21日)、道路向かいの知人(造園業)が来て庭木を剪定した=写真。庭にはプレハブの離れが立ち、庭木が密集する。先日、離れを解体したのに併せ、隣地に枝葉がはみ出さないよう、剪定を頼んだのだった。親子で作業をした。

早朝から太陽が照りつける。剪定が始まるころには、もう30度前後になっていただろう。庭師なりの熱中症対策があるに違いないと思っていたが、基本は同じ。水分補給以外にない。

剪定作業をちらちら見てわかったのは、ゆっくり、静かにやる。一気に仕上げようと熱中したら、たちまち“熱中症”にかかる。剪定のプロに限らない。農家の畑仕事や草引きも同じだ。近所のお年寄りが先日、草引きに熱中して救急車の世話になった。

夏井川渓谷の無量庵に小さな菜園がある。週末に通っていたのが、このごろは10日ごと、あるいは半月ごとになりつつある。いずれにしても、毎日少しずつ――はできない。で、行ったときに熱中しすぎて、体がほてり、気分が悪くなることのないように注意している。

庭木の剪定が終わるころ、親方がカミサンに教えていた。「この木はエノキで、国蝶(オオムラサキ)が寄って来る」。エノキの若木が庭にあるとは知らなかった。鳥が種を落としたのだろう。

ビワの種を投げ捨てたら芽生えた。無量庵から土ごとキノコをもってきて、土だけ捨てたら、アケビとフジが芽生えた。実生のカエデを移植したら大きくなった。プラムも長男の小学校卒業記念に苗木を買って植えたのが大きくなった。それらも枝葉をばっさりやる。夕方には、庭全体がすっきりした。

一夜明けたきのうは、一日、雲一つない青空だった。風もなかった。庭の照り返しがきつかった。テレビが伝えるいわき市(小名浜)の最高気温は28.3度。わが家の室温は34度。一時的とはいえ、庭の緑が減ったのが影響したようだ。

2012年8月22日水曜日

浅漬けで、なぜ?


夏はぬか漬け、冬は白菜漬け=写真=をつくる。漬物がないと食事をする気になれない。で、いつからかわが家では、私が漬物をつくるようになった。

毎日、ぬか床をかきまわす。食材は、今はキュウリが主体だ。夏場は酸味の濃い古漬けにする。それで食欲が増進される、と思っていたが、別の理由もあるのかもしれない。

北海道で市販の浅漬けによる食中毒事故が起きた。現時点で5人が亡くなっている。白菜の切り漬けになぜO157がひそんでいいたのか。可能性として①野菜の泥についた菌が消毒されなかった②牛ふんでつくる堆肥の熟成が不十分だと菌が生きている――きのう(8月21日)の読売「スキャナー」が、食中毒発生のメカニズムについて触れていた。

併せて、①ぬか漬けはPH(水素イオン濃度)が3.5程度と酸性が強く、雑菌の繁殖を抑える②が、近年は減塩ブームで、酸味の強い漬物も敬遠される傾向がある。浅漬けは塩分濃度2~3%、PH5程度と酸性度が低く、菌が入ると増殖を防ぐのが難しいとみられる――ことも紹介していた。

ぬか床をかき回すことで乳酸菌の好きな空気を補給できる。乳酸菌による「発酵」が続いているかぎりは、「腐敗」は起きない。雑菌の繁殖も抑えられる。夏場、体が酸味の強いものを求めるのは食中毒予防のためでもあったか。

食品メーカーによる「漬物」は、私には「漬物もどき」、あるいは「工業製品」にしかみえない。自分でつくるぬか漬け、白菜漬けとは、味や歯ざわりがかなり違う。やむを得ず買うのは、次のような場合だ。

漬物にも“端境期”がある。ぬか漬けから白菜漬けへ切り替える晩秋と、白菜漬けからぬか漬けへバトンタッチをする晩春、自家製の漬物が欠ける。パック入りの浅漬けを買う。その場合でもほとんど、「発酵食品」と明記されたキムチにする。「キムチもどき」は避ける。

こんどの浅漬け食中毒は看過できないほどの衝撃をもたらした。家庭という小さな空間に息づいていた漬物文化が溶解し、それを代行するメーカーの製造システムも完全ではなかった。リスク覚悟で浅漬けを食べる、なんてことは、あってはならないことだ。消費者は自衛しようがないのだから。

2012年8月21日火曜日

ジャンベをたたく


「いわき地球市民フェスティバル」(8月19日・平中央公園)では、参加団体のテントとは別に、二張りのテントをつないで「ステージ」が設けられた。ドラムカフェジャパンの3人組がアフリカ起源の太鼓「ジャンベ」を演奏した=写真。久しぶりに体が反応した。

公園の南側、いわき芸術文化交流館「アリオス」では、「フラガールズ甲子園」が行われた。同じステージにセットされた2台のテレビが、高校野球よろしく開会式からリアルタイムで彼女たちの動きを映し出す。野外にいながら、映像を通して「同時開催」を共有できたのはよかった。

ドラムカフェのステージは、「聴く」ことと「加わる」ことの二つからなっていた。客席に小さなジャンベが用意されていた。いすに座った人をそのまま演奏に加える――「たたく」という原初的な行為のためか、老若男女がすぐ溶け込めた。

ちょうど「孫」(中1と小5の姉妹)と母親が、私らシャプラニールのブースにやってきたばかり。下の子と母親はステージの最前列へ、私と上の子は後ろの席へ。ドラムカフェのリーダーの指示にしたがってジャンベをたたいた。

ジャンベは、川内村の獏原人・風見正博さんが愛用している。地球市民フェスティバルは、おととしまで小名浜港のアクアマリンパークが開催場所だった。そのイベントの一つとして、彼のグループが出演したことがある。それで、ジャンベを知った。

太鼓の皮はヤギ、胴体は木をくりぬいたもの。樹種はなんだろう。ひっくり返して中をのぞいたら、コルクのような質感だった。

「おいらはドラマー」ではないが、ドラムカフェの3人と一緒に、何十人かが手のひらを使って「タタタン」「タンタタ」「タタタタタン」などとやる。テントの外では、若者が「エアジャンベ」をたたいていた。この一体感は、太鼓ならではのものだろう。体の中からリズムを刻む喜び=元気がわき上がってきた。

2012年8月20日月曜日

地球市民フェスティバル


「いわき地球市民フェスティバル」がきのう(8月19日)、いわき市役所東隣の平中央公園で開かれた=写真。そばの芸術文化交流館「アリオス」では、「フラガールズ甲子園」が開かれた。連動したイベントだ。

地球市民フェスは今年で11回目。今までは小名浜港のアクアマリンパークが会場だった。昨年は大震災のためにほかのイベントと同様、開催が中止された。会場を平中央公園に移して、2年ぶりに再開した。市民間国際交流・協力団体連絡会が主催し、市が共催した。

「シャプラニール=市民による海外協力の会」のいわき連絡会として、初回から参加している。私は運転手兼荷物運搬人。朝の準備作業と夕方の撤収作業のほかは家に戻って過ごす。今回は久しぶりに最初から最後まで会場にいた。

アリオス側、つまり公園の南側から西側にかけてテント村ができた。シャプラのブースはそのはじっこ。そばにケヤキの木があって日陰ができていた。地面は芝生。時折、強い風が吹いた。チラシなどが飛ばされることはあったものの、直射日光と輻射熱は避けられた。ひさしぶりに「緑陰」の感触を味わった。

シャプラは、バングラデシュやネパールで日本人向けに開発したフェアトレード商品を取り扱っている。そのPRと販売を兼ねた参加だ。今年はバングラに駐在したことのある元スタッフ、今はいわき市に移住して「福島支援」の活動を展開しているUさんが手伝ってくれた。

フェアトレードのコーヒーを販売している個人事業所も同じブースに参加した。こちらはインターンシップ制度によって実習中の福島高専生2人が担当した。

被災地の子どもたちが描いた絵をデザインした包装紙やポストカードを販売し、収益金を子どもたちの施設や団体に贈る「アイデツツモウ」プロジェクトを知人が展開している。その委託販売もした。いわきで避難生活を送る富岡町の女性がつくった布バッグなども同じく紹介を兼ねて販売した。

大震災後、国内外から寄せられた支援へのお礼の気持ちと、「いわきの元気」をフェスティバルから発信するというのが、今回のフェスの趣旨。負けない・へこたれない・あきらめない――そういうことだろう。なによりも出会いと再会の場になった。

2012年8月19日日曜日

チチタケ


阿武隈高地の実家(田村市常葉町)へ帰ると、義姉の手料理=写真=が食卓に並ぶ。兄が招集をかけた弟(郡山市)を交えて、きょうだい3人で飲み、かつ食べる。年に一回ほどのささやかな飲み会ができることを、だれかに感謝しないといけない、そんな気持ちになる。

弟も、私も、年をとるにつれて野菜を中心にした家庭料理に引かれるようになった。それを心得ているので、焼き肉などは出ない。今年はキュウリとキャベツ、ニンジンなどの浅漬け、インゲンのごまよごしとおひたし、ゴボウのから揚げなどが並んだ。“地料理”だ。

親から受け継いだ家庭料理がある。義姉はさらに創意と工夫を重ねる。必ず一品は新しい料理が出る。ゴボウのから揚げがそうだった。

郡山市近辺に住む娘たちには、ダンナがいて子どもがいる。娘たちは母である義姉の料理を食べたくて、ときどき実家に帰る。メイたちも同じようにして帰省するとやって来る。

3・11直後までは、保存しておいた山菜・キノコが食卓にのぼった。フキの油いため、チチタケのけんちん汁、マメダンゴ(ツチグリの幼菌)ご飯……。いつもなら一品くらいは出てくるのだが、それがなかった。

たとえば、チチタケ。相変わらずベクレルが高い。「チタケうどん」の本場、栃木県では各地で出荷自粛の憂き目に遭っているらしい。福島県内でも事情は同じだ。

われら福島県人からみると、栃木県人の「チタケ狂い」は異様にみえるが、汁の実程度ではぼそぼそしてうまくないチチタケが、炒めると独特のダシをだす。で、栃木県内ではうどん・そばのつゆとして好まれ、夏にはチチタケ採りがヒートアップする。

福島県内で夏にキノコ採りの遭難死がニュースになるが、それはチチタケ採りとみて間違いない。栃木県内ではもう十分にチチタケが採れなくなったのだろう。7~8月、いわき市の山へ、中通り、あるいは会津の山へ、栃木ナンバーの車がやって来る。最初は、遠征してくる理由がわからなかった。

キノコはどうも、カリウムと間違って放射性セシウムを取り込んでしまうらしい。チチタケばかりか、野生キノコすべてについて出荷自粛のお触れが出た。キノコ好きにとってはおもしろくない日々が続く。

2012年8月18日土曜日

いわき応援ツアー


前に書いたことだが、いわきで被災者のための交流スペース「ぶらっと」を運営しているシャプラニールが、平七夕まつりに合わせて「みんなでいわき! いわき市訪問ツアー」を主催した。首都圏を中心に20人ほどが参加した。8月5~7日、いわきに滞在して、いわきを感じ、知り、味わい、学び、楽しんだことだろう。

2日目の夜は七夕を見たあと、2時間の予定で平の音楽バーを貸し切って交流会が開かれた。地元の人間として、私ら夫婦のほかに何人かが加わった。別ルートでいわき入りした知人も合流した。総勢35人くらいにはなったか。

昨年12月に東京で「リッスン!いわき」が開かれた。今年2月には「フィール!いわき」がいわきで開かれた。その第3弾だ。二つのイベントを通じて知りあった人が何人も加わっていた。

クラリネット持参のツアー参加者がいた。別ルートの参加者はサクソフォンを車に積んでいた。歌が得意な人もいた。音楽バーでの交流会ということ自体、歌と演奏を楽しむ余興が用意されていたのだろう。急にセッションをやるようなこともあった=写真

中締めのあと、1時間延長にする(追加料金を徴収)ほど、みんながいわきの夜を楽しんだ。趣味のレベルにしては高度な技量の持ち主が多かった。

お盆にも、同じシャプラニール関係者が二組、個々にいわき入りした。いずれも「いわき応援ツアー」を兼ねる。一組は関西から、一組は東京から。関西組は母親と子どもの3人連れ。いわき市と田村市を訪ねた。東京組はカップルで、いわき市~南相馬市~伊達市~いわき市と巡った。5泊6日の福島の旅(夏休み)だった。

東京組とはおととい(8月16日)の夜、平の街で会食した。男性はアボリジニの楽器「ディジュリドウ」を演奏する。

交流スペース「ぶらっと」の男性利用者第一号が7月初めに急逝した。薄磯で津波被害に遭った元漁師だった。その霊を慰めるために海岸でディジュリドウを演奏したという。きょう(8月18日)は彼の四十九日。いい供養になったことだろう。

男性の祖母は田村郡三春町出身、パートナーの女性の親戚はいわきのハマの出身とか。そのつながりを大切にしていわき、浜通り、阿武隈高地を巡る。「現場」に立ち、被災者の声に耳を傾ける。そうして初めて被災者の悲しみと怒りが見えてくる。「福島」に寄り添うとはそういうことなのではないだろうか。

2012年8月17日金曜日

精霊送り


きのう(8月16日)早朝、精霊送りが行われた。といっても、いわき市の場合は決められた場所に盆の供物を納めてもらい、決められた時間に収集車が回収に来る、という方法を取っている。環境保全対策のためで、わが区内会も県営住宅集会所前に斎場を設けた=写真

段取りがある。あらかじめ役員会で6時台はだれ、7時台はだれ、8時台はだれと、立ち会う役員を割り振っておく。前日夕方には、斎場をつくる。周囲の草を刈り、四隅に竹を立て、縄を張り巡らせて、杉の葉とホオズキを交互にはさむ。その中に細長い座卓を三つ並べてブルーシートをかぶせ、供物の置き場とする。

当日は焼香台をととのえ、ロウソクに火をともし、線香を用意して住民が納めに来るのを待つ――はずが、受付開始時間の6時にはもう供物が納められていた。夜が明けて間もなく、涼しいうちに、とやって来たのだろう。

実際、容赦なく朝日が照りつけた。風はない。たちまち汗だくになる。そばの木でミンミンゼミが鳴く。7時台担当の役員が来て「よけい暑く感じるね」。早朝だというのに、熱中症を警戒しながらの立ち会いになった。

昨年は前日、周囲の草を刈っているうちにアシナガバチに刺された。おととしは別の人が同じく草刈り中に刺されてひどい目に遭った。今年は、幸いハチの巣はなかった。

7時台の役員さんに立ち会いを託し、自宅で朝食をとったあと集会所へ戻ると、斎場はきれいに片づけられていた。収集車が予定より早くやって来たのだという。集会所の中で「精進あげ」が行われた。収集車は年によって回る順序を変えるのか、それとも供物の数が少なかったのか――しばらく茶飲み話をしてから散会した。

2012年8月16日木曜日

阿武隈のセミ


残暑が続く。夜も家の中に熱がこもっている。エアコンなどはない。窓と戸は寝るまで開けたまま。扇風機をかけてはいるものの、家の中でも熱中症に注意しないといけない――今年は特にそのことを意識している。

そんなある夜、アブラゼミが茶の間に飛び込んできた。電灯を消したりつけたりするひもの先に、逆さに止まった=写真。夜のセミだ。こんなことがときどき起きる。

わが家は開放系だから、蚊取り線香が欠かせない。緑色ではなく、茶色に近いものを使っている。気管支の弱い孫が夏場、わが家に来ないのは(つまり、親が連れて来ない)のは、蚊と蚊取り線香のためでもあろうか。

来ると、たちまち蚊に刺される。きのう(8月15日)がそうだった。緑色の蚊取り線香は孫ののどによくない。茶色の蚊取り線香は、「蚊取り」というより蚊を寄せつけない「蚊やり」だ。

おっと話がそれた。蚊ではなく、セミの話だ。いわきのわが家は、西に阿武隈の山々を仰ぐ平地にある。庭のカキの木でニイニイゼミが鳴き、アブラゼミが、ミンミンゼミが鳴く。そのうちツクツクボウシも鳴きだすだろう。

エゾゼミは、いわきの平地にはいない。阿武隈越えのルートで田村市常葉町の実家へ帰った折、カーラジオを消して車窓から飛び込んでくるセミの鳴き声に注意した。往路は川前~川内~都路ルート。夕方だった。行けども行けどもヒグラシが鳴いていた。

帰路は大滝根山を越えるルート。ふもとから山を越え、川内からいわきへ入っても、「ギー、ギー、ギー、ギ―」というエゾゼミの鳴き声が続いた。川前で夏井川渓谷へ出た瞬間に、セミの鳴き声はアブラゼミに変わった。

エゾゼミは幹に逆さに止まる習性がある。幹をけるとポトリと落ちる。小学生のころ、そうしてエゾゼミを捕まえた。今度の阿武隈往復でエゾゼミの生息範囲がなんとなくわかった。

2012年8月15日水曜日

子どもじゃんがら


きのう(8月14日)も新盆回りをした。午前中は小川町へ。カミサンの義理のオバが今年3月、亡くなった。そのときはまだ白壁の土蔵が立っていた。巾着と、米俵に白鼠の「こて絵」は、保存するためにはがされていた。土蔵そのものは6月に解体されて駐車場になった。なにか庭から“重し“がなくなったような感じだった。

施主と話しているところに、「子どもじゃんがら」で知られる上平子ども会の保護者がやって来た。新盆家庭を回るために小学生のわが子二人が出かけたばかりだという。わが家に帰った夕方、近所から「チャンカ、チャンカ」の鉦(かね)の音が聞こえてきた。行くと、その子どもじゃんがらの一行だった=写真

施主の子どもが上平に住んでいる。その子ども、つまり孫が子どもじゃんがらをやっていた。孫からみたら、亡くなったのは曾祖母だ。その供養に子どもじゃんがらが呼ばれた。

じゃんがらはいわき地方独特の念仏踊りだ。普通は3人の太鼓に私服の“大人”が加わっていた。施主の孫だった。保護者の配慮で太鼓をたたいた。見る側も参加する、こういうかたちのじゃんがらは、いわきでは最高の供養になる。

小川で会った保護者の話だと、子どもじゃんがらは小学生だけのチームだ。総勢21人。女の子15人、男の子6人。青年会同様、浴衣に鉢巻きのいでたちで3人が太鼓を、残りがその周りで鉦をチャンカチャンカやる。

今年はなぜかタイミングが悪くてじゃんがらを見られない――あきらめていたが、午前中に偶然、話を聞いた子どもじゃんがらを、夕方には見ることができた。なぜ子どもじゃんがらがその家に来たか、もわかった。少し気持ちがほっかりした。

2012年8月14日火曜日

新盆回り


およそ3年ぶりに現れた残留コハクチョウの「左助」が、早くも姿を消した。左助は前からそうだった。姿を消しては突然現れ、現れたと思ったらまたすぐ消える。10年近く、羽をケガして飛べない左助を夏井川でウオッチングしてきた。で、その結果として、左助は気まぐれでわがまま、孤独を好む――と、私には映る。

早朝の散歩と平の街への行き帰り、堤防から夏井川を眺める目的が一つ増えた。「左助」が生きているとわかったから。が、実際にはアオサギ=写真=がフワリと飛んだり、着水したりするだけ。「左助」が夏井川河口のヨシ原にまぎれこんだら、ウオッチングするのは難しい。

きのう(8月13日)の夕方、新盆(カミサンのいとこ)の家へ行って線香をあげた。海風の届く家で、建った当時は、まわりは農地だった。松林もあった。

遺影の飾られた盆棚を前に、故人の思い出話になった。ヒグラシが遠くの森で鳴いていた。と、庭からツクツクボウシの鳴き声が聞こえた。「ツクツクボウシですね」というと、奥さんも耳を澄ませる。今年初めて聞くのだろう。

家の周りの環境や、耳に飛び込んできたセミの声から、奥さんの実家の男性も加わって生きものの話になった。

キジがよく目撃されるという。そこは民家が散在しているから当然、禁猟区だろう。奥さんの実家は丘を一つ越えたところにあって、そこでもキジの数が増えている。たぶん、阿武隈の山里でイノシシが増えているのと同じ理由だ。猟をしても、放射性物質のせいで食べられない。だから、猟をしない。キジやイノシシはおかげで安心して子育てができる。

人間は、逆だ。屋根瓦が壊れたままになっている家がある。なぜ放置しているのだろう。今も遠くに避難したままなのだという。「赤ん坊がいるから。20年後、30年後のことを考えると心配なんだろうね」。その家の隣家も同じような理由で遠くに避難している。これもまた、いわきの現実の一面には違いない。

帰りは「左助」を探すために、夏井川河口から左岸堤防へと回った。「左助」はいなかったが、若い人たちが何人も岸辺で釣りをしていた。「釣って食べるのかな」「キャッチ・アンド・リリースだって」。人はそれぞれに現実と向き合い、苦しんだり楽しんだりしている。新盆回りをして見えてきた「点景」だ。

2012年8月13日月曜日

割りばしのような人


田村市常葉町のメーンストリート(というほどのものでもないが)は国道288号。いわゆる「一筋町」で、道の両側に家が張りついているだけ。山を抱えた通りの北には畑、反対側の南には田んぼが広がる。田んぼの先に大滝根川が流れる。

国道は郡山市と双葉町を東西に結ぶ。町の一角にある道路標識=写真=が、田村市から原発が近いことを物語る。

わが実家はこの道路沿いにある床屋。着いたらすぐ、兄が私の散髪を始めた。隣のいすに80歳を超えたおばあさんが座っていた。義姉がおばあさんの染髪、顔そりを終えるところだった。終わって、待合コーナーに戻ったあとのおばあさんの言葉がおもしろかった。

義姉と雑談になり、ざっと60年前の結婚のいきさつを語った。「たあだ結婚させられたんだ」(聞いてニヤリとするしかない)。わが実家の隣の家から出た大工さんがいて、縁談をまとめたのだという。で、親と親とが合意した。本人は結婚披露宴の後に、初めてご主人の顔を見た。「割りばしのような人だった」(巧みな比喩に爆笑)。やせていたのだろう。

おばあさんが店に来るようになったのは、3・11後だという。自宅は都路町の、双葉郡との境にある。原発事故のせいで常葉町の雇用促進住宅に避難した。最上階の5階だった。エレベーターがないから、上がり下りがこたえた。で、常葉の西隣の船引町の仮設住宅に移った。ご主人はそこで亡くなった。

船引に移っても、息子さんの車でわが実家へ散髪にやって来る。義姉は同じ都路町出身。同郷のために話が合うのかもしれない。

息子さんが線量計を買って自宅の内外を測定した。「線量があって(高くて)住めねぞっていうんだ」。きょう(8月13日)は盆の入り。おばあさんのご主人の新盆は、都路の自宅ではなく、仮設住宅で行われる。

2012年8月12日日曜日

除染作業をしております


阿武隈の山里では、場所によって「民間住宅」の除染作業が行われている。田村市常葉町の実家に帰った翌朝、阿武隈の主峰・大滝根山(1193メートル)を越えるルートを利用していわき市に戻った。阿武隈で一番高い峠を下りかけたら、「除染作業をしております」という立て看に出合った=写真。そこは川内村だ。

立て看には、村が川内村復興事業組合に「民間住宅等除染作業」を委託したことが記されている。9月28日までの期限ということは、対象民家が複数あるということだろう。

下りきった道路沿いの田んぼの隅に青い土嚢が並んでいた。反対側の山裾。民家の除染が行われたようだ。すっかりなじみになった、大きめの土嚢だ。

いわき市では海岸線に黒い土嚢が並ぶ。壊れた海岸堤防の代用だ。災害がれきを入れたのか、肌色の袋が積まれたところもある。青い土嚢には除染で出た土が入っているのだろう。

荻(いわき市川前町)~川内村~田村市都路町および常葉町の一部では、今年も稲作が中止された。田んぼは乾き、草で覆われている。その草を刈り、あるいは耕起して「次」に備えているところもある。草だらけの田んぼもある。

手をかけなければ、あっという間に農地は「原野」に帰る。人間が自然にはたらきかけることで農村景観は維持されてきた。草刈りが原点だ。その景観が荒れて淋しいものになりつつある――今度の帰郷でもまたそんな印象を受けた。

2012年8月11日土曜日

「左助」が生きていた


わが目を疑った。ダイサギ? 違う、ハクチョウだ=写真。今は8月前半、ハクチョウが北から飛来するはずはない。もしかすると――。左の羽が折れて垂れさがり、すり切れている。てっきり天国に旅立ったと思っていた、残留コハクチョウの「左助」ではないか。この3年間、どこでどうやって生きていたのだ、おまえは。

きのう(8月10日)早朝、3日ぶりに夏井川の堤防を散歩した。冬はハクチョウの越冬地になる平・中神谷地内だ。

上流の越冬地・平中平窪地内で羽にケガをした。やがて大水に流されるようにして、中神谷に下ってきた。その「左助」に誘われてハクチョウが飛来し、夏井川第二の越冬地になったのが、およそ12年前。ピーク時には200羽ほどが羽を休める。カモ類も安心して舞い降りる。

そこに、季節外れの今、白く大きな水鳥が現れた。対岸で草を食べ、水を飲んでいた。

中神谷の夏井川には羽をケガして飛べなくなったコハクが、一時、4羽もいた。1羽は傷がいえて1年後には北へ帰った。最古参の「左助」と若い「左吉」「左七」の3羽が、夏井川を下ったり上ったりしながら、人間の視界のなかにとどまっていた。

それが、消えた。2009年秋のことだ。毎日えさをやっていたMさんの話では、「左助」は夏井川河口から横川でつながっている仁井田浦のあたりに移動したあと、消息を絶った。ほかの2羽も前後して姿を消した。同年10月30日付小欄「『左助』も天に帰ったか」が、何度も「左助」をテーマにして書いてきた最後だった。

生きていれば、情報が入ってくる。早朝、冬のえさやりを欠かさないMさんが、散歩時に教えてくれる。3羽とも獣に襲われたのではないか――Mさんが思い、私も納得して3年弱が過ぎた。

その「左助」が人知れず生きていた。大津波にのまれることもなかった。なにか熱いものが胸にこみ上げてきてしかたがなかった。

2012年8月10日金曜日

峠の線量


いわき市の自宅から田村市常葉町の実家へ帰る以上は、ルート(阿武隈高地)の主な峠三つの放射線量をチェックしよう――そう決めて出かけた。その一つが阿武隈の最高峰、航空自衛隊のレーダー基地がある大滝根山の峠=写真=だ。

昨年6月に実家へ帰ったときには、同じ阿武隈越えのルートで細かく空間線量を測った。で、今回、実家からの帰りに未測定だった大滝根山越えのルートを利用した。峠としては事故を起こした原発からおよそ30キロ圏内で最も高い。

ざっと1年前の放射線量については、2011年6月11~17日の小欄に記した。参照していただけるとありがたい。

今回チェックした三つの峠の最初は、いわき市から川内村へと越える川前町下桶売字荻地内。夕方4時前で、ヒグラシがさかんに鳴いていた。ヤマユリが道の両側に咲き誇っていた。線量は0.625マイクロシーベルト/時。

次は国道288号、田村市都路町と常葉町の境の峠、通称「サカイノクキ」だ。昨年は1マイクロシーベルトを超えていた。0.640マイクロシーベルト/時と、ほぼ半減していた。大滝根山を越える峠の数値は0.799マイクロシーベルト/時だった。

峠から自衛隊のレーダー基地に向かう道路の一角に「残土仮置場」の立て看があって、土が山になっていた。「汚染土」と違うのか、シートはかぶされていない。

大滝根山のふもと、道路沿いに「残土処理」の看板が立っていた。「舗装の下の路盤材・盛土材を残土処理しています 線量は0.15マイクロシーベルト/時です」。「残土」とはそういうものなのか。だから、むきだしなのか。ともあれ、三つの峠で心拍数が急増するようなことはなかった。

2012年8月9日木曜日

「離れ」解体


書庫兼物置の、わが家の「離れ」がきのう(8月8日)、解体された=写真。広さ6畳ほどのプレハブ小屋だ。朝、作業が始まり、夕方には更地になった。

月曜日(8月6日)、市から解体を委託された建設会社の現場監督が顔を出した。「水曜か木曜(8日か9日)には解体します」。1カ月半前に「来週にはやります」と言っていたのにずいぶん遅れたね、といってもしかたがない。近所の倉庫と抱き合わせだから、そちらの都合もあって日程が大幅にずれこんだのだろう。

東日本大震災でわが家も、離れも「半壊」の判定を受けた。去年暮れ、離れの解体撤去申請書を市に出した。「解体まで1年はかかりますよ」。わが家に来る事情通の話だった。1年にはならないが、8カ月はかかった。

庭に小型のパワーショベルが入る。作業員は現場監督のほかに4人。重機を使ってガラガラポン、ではない。仮置場に集約された「災害がれき」同様、①木くず②金属類③コンクリート類――などに分別しながらの解体だ。

3・11前は、パワーショベルが力まかせに家を壊していくのを見てきた。それに比べたら、解体の手順・技術が進化している。ほとんどホコリもたたない。

跡地は思ったより広い。「菜園にでも」と思っていたら、カミサンが「駐車場に」という。早速、車を入れてみたが、感覚がよくつかめない。そばに電柱が立っている。慣れるまでに少し時間がかかりそうだ。ともかくも、これですっきりと月遅れ盆を迎えられる。

2012年8月8日水曜日

七夕まつり特別賞


きょう(8月8日)は「平七夕まつり」の最終日。イトーヨーカドー平店2階で被災者のための交流スペース「ぶらっと」を運営しているNPO法人「シャプラニール」も、いわき駅前大通り、「ミスタードーナッツ」そばに笹飾りを立てた=写真。飾りの少ない一角が、それでちょっぴりはなやかになった。

初日6日に七夕まつりを見に行った。シャプラの笹飾りに触れている人たちは、シャプラが主催した“いわき応援ツアー”参加者の一部と、別ルートでやって来たシャプラつながりの人たちだ。遠くは関西からやって来た人も。

笹飾りは上に四つの「ぼんぼり」と「輪」。そこからタコの脚のようにたくさんの「吹き流し」が垂れる。吹き流しには「ぶらっと」を訪れた人たちの願い事がいっぱい張られてある。

ぼんぼりは何枚かの色紙を細かく折りたたみ、真ん中でくくって一枚一枚つまみ上げた花をびっしりまとっている。小さな花がぼんぼりを覆って大きな花になった。大きな花は200個余の小さな花からなっているという。「ぶらっと」のスタッフ、ボランティアが何日もかけて花をつくった。準備の大変さがわかった。

初日にコンクールが行われ、特賞にはワタナベ時計店が選ばれた。特別賞は双葉郡の大熊、富岡、浪江、楢葉、広野、双葉各町、いわき市社協、およびシャプラニールの8団体。特別賞組はシャプラの呼びかけに応じて、いわき市の一大イベントに参加した。

双葉郡の住民は原発事故のために、いわき市などで避難生活を余儀なくされている。その人たちが、一日も早い帰還を願って花をつくり、笹飾りを立てた。昨年に引き続き、復興屋台村には富岡、浪江町の住民が参加した。今年は笹飾りに挑んだことでいわきとの一体感がさらに強まったことだろう。

2012年8月7日火曜日

灯まつり


田村市常葉町へ――。いわき市平から夏井川渓谷(小川)を経由して川前の山里へ駆け上がるルートをとる。やがて川内村を抜け、田村市都路町古道(ふるみち)=写真=に入れば、国道288号を西進するだけ。20分も行けば実家に着く。

郡山市と双葉郡双葉町を東西に結ぶ「288(ニーパーパー)」は、私には幼いころからなじみの街道だ。原発事故が起きてからは、マスメディアやフリーの記者たちが利用する“原発ロード”になった。原発震災本にはこの3ケタ国道がちょくちょく出てくる。すっかり有名になった。

この山越えルートを利用すると、国道288号とは古道のメーンストリートの交差点を右折したところで出合う。交差点に交通誘導員らしい人が二人立っていた。反対側に小学生もいる。いつもは人っ子一人いない道路だけに、なんとなくざわめいた感じがする。なにかイベントがあるに違いない。

あとで知ったが、集落の一角でその夜、2年ぶりに「都路灯(ひ)まつり」が行われた。1万本の竹筒にロウソクの灯をともす、新しいイベントだ。本来の開催場所は集落からかなり西の山に入ったアウトドア施設だが、原発事故がそこでの開催を困難にした。

都路町は、福島第一原発からほぼ20~30キロ圏の緊急時避難準備区域に当たる。今はそれが解除されたが、除染が進んでいない。で、除染の済んだ都路運動場(メーンストリートの近くにある)に会場を変えて「灯まつり」が行われた、というわけだ。

点灯に先立ち、キッズダンスや大泉逸郎特別公演、お楽しみ抽選会などが行われたようだ。私が車でメーンストリートにさしかかったころには、大泉さんが「孫」の歌でもうたっていたのではないだろうか。

わが父母の、その父母の、そのまた父母たちの墳墓の地、阿武隈。そこに、くじけない心の燠(おき)がともされた。

2012年8月6日月曜日

「クマにご注意」


田村市常葉町の実家へ行ってきた。実家は床屋。兄夫婦がやっている。要するに、散髪目的の帰省だ。昨年6月以来だから1年2カ月ぶりか。

途中、いわき市の夏井川渓谷にある無量庵へ寄り、谷風の通る部屋で少し涼んだあと、菜園に生ごみを埋めて実家へ向かった。除染作業を告げる立て看、仮置きされた残土……。1年余前にはなかった新しい光景に、放射性物質と苦闘する住民の思いが重なった。

道行きの出発点となった無量庵に、8月1日付いわき市小川支所発の回覧チラシ「クマにご注意」=写真=が差し込まれていた。その話から始めたい。

おとといの小欄「ミンミンゼミ」で、溪谷の上流、川前町でツキノワグマの足跡が確認されたことを書いた。川前町に隣接する小川町も当然、要注意地区になった。それを頭に入れての帰省、いやチラシを手にしてからはもっと具体的に注意をしながらのドライブになった。

チラシは当然ながら、2日付いわき民報の記事より詳細だ。月31日に足跡目撃情報が寄せられ、翌8月1日に現地を調査してクマの足跡であることが確認された。で、チラシには①出合わないようにするための心構え②出合ったときの対処法――が書かれている。

なかで注意を引いたのが、「クマは夜間や朝夕など活発に行動するため、特に注意が必要。朝早くの農作業等は、必ず音のするものを身につける」というくだりだ。出没時間はイノシシと変わらないではないか。クマは、イノシシよりは気楽に人里に現れる、ということを頭に入れておかないといけない。

3・11後、福島県内でイノシシを捕る人が減った。肉から放射性物質が検出されるようになったからだ。クマについても同様だろう。もともと阿武隈高地にはクマは生息していない、というのが定説だった。それが、ずいぶん前から目撃情報が増え、周回しているらしいことがわかった。

この数年の間に、山間部の三和や田人にクマが現れたという情報が寄せられている。原発事故以来、場所によっては山から人の姿が消えた。山離れ現象も起きていた。イノシシが山の王者になりつつある。クマもおずおずと阿武隈に入りつつある、ということか。