2012年10月31日水曜日

バングラデシュ・原発計画


国際協力NGOセンター(JANIC)は、日本の国際協力NGOの最大のネットワーク団体だ。シャプラニール副代表の大橋正明さん(恵泉女学園大学教授)が代表を務める。東京・増上寺で10月27、28日、シャプラニールフエスティバルが開かれた。

日曜日(28日)、会場で「原発・福島・バングラデシュとわれわれ」と題する大橋さんのミニ講演を聴いた=写真

日本のNGOの歴史、JANICの震災対応活動、シャプラのいわき市での支援活動などに触れたあと、シャプラが40年にわたって活動を展開しているバングラデシュの原発計画問題を取り上げた。こちらが本題だ。

東日本大震災の前後から、ロシアがバングラデシュの原発建設を支援する話がしばしば報道されるようになった。大橋さんは今年3月、福島の経験と原発問題についてバングラデシュで講演した。反応は弱かった。

あまりにも悪すぎる現地の電力事情(計画的な地域停電の日々)と、原子力に対する理解の浅さがその背景にあるのではないかと、大橋さんは考える。

先進国では既に原発を建設できるような状況にはない。そこで、途上国への「原発輸出」を競うようになった。途上国の事情と先進国の思惑とが絡み合う――大橋さんの話を聴いて、ことは単純ではないことを知る。

福島の人間にできることははっきりしている。「福島の経験」を発信し続けることだ。国内へ、国外へ、そうしてバングラの市民と情報を共有するしかない、という大橋さんの話が胸にしみた。

2012年10月30日火曜日

ビードロを吹く娘


小学高学年から中学にかけて記念切手収集に夢中になった。カタログで「未使用」「使用済み」の値段をみては“資産”を計算する。垂涎の的は切手趣味週間の記念切手だった。「ビードロを吹く娘」や「見返り美人」は、持っていれば自慢の種。その切手が最近、惜しげもなく使われたのを知って驚いた=写真

シャプラニールは海外協力の一環として、地球環境と連動した活動「ステナイ生活」を展開している。本あり、はがきあり、外貨紙幣あり、切手あり……。使用済み切手は1キロが約600円になる。ネパールでは、3人がハザードマップ(防災地図)のつくり方を学ぶ2日間の研修を受けられる額だという。

自宅に届く手紙の切手を台紙ごと切り取り、たまったらわが家に届けてくれる知人がいる。そのなかに切手7枚を張った台紙があった。

80円のヤマセミ3枚のほかは、1955年発行の「ビードロを吹く娘」10円、再発行「見返り美人」80円、竹久夢二の「黒船屋」50円、1958年発行の国際胸部医学会議・同気管科学会議記念切手10円、計390円分だ。

57年前に発行された切手がなぜ今ごろ? こんなことを想像してみる。夫がかつて切手マニアだった、あるいは父親が。遺品を整理していたら、未使用切手がいっぱい出てきた。妻あるいは子どもにとっては、「ビードロ」だろうが「見返り」だろうが、家に“死蔵”されていた、単なる切手にすぎない――。

夫婦でも、親子でも価値観は異なる、というのが世の習いだ。かつての切手小僧はただの10円切手として「ビードロ」が使われたことにため息をつく。「ビードロ」は未使用なら評価2500円、使用済みでも2000円くらいとか。しばらく手元に仮置きして眺め暮らすことにした。

2012年10月29日月曜日

増上寺といえば


東京・芝の増上寺といえば、江戸時代前期、いわき出身の名僧祐天上人が住職を務めた寺だ。徳川将軍家の菩提(ぼだい)寺でもある。その増上寺で10月27、28日、創立40周年を記念するシャプラニールのフエスティバルが開かれた。寺の写真を撮るにはいい機会だ。日曜日(28日)に夫婦で出かけた。

フエスティバル会場は大殿(本堂)の地下にある三縁ホール。そこへもぐりこむ前に撮影したい建物があった。安国殿=写真=だ。私は撮影、カミサンは中の受付で孫のために「お守り」を買った。

祐天上人ゆかりの名刹ではあるが、私にはプラス、いわきの專称寺で修行した江戸時代後期の坊さん、そしてやがて俳諧宗匠になる一具庵一具(1781~1853年)が拝観して句を詠んだところ、という思いがある。

「蝋月(12月)17日、安国殿拝瞻(はいせん)。風邪を引きければ、」と前書きをして<湯をひかぬ身にこたへけり雪の梅>と詠んだ。「湯をひかぬ身」とは坊さんだから、沐浴しても風呂には入らない、ということだろう。旧暦12月は今の1月中旬~2月初旬あたり。江戸(東京)ではその時期、梅が開花する。春の雪も降る。

一具俳句を理解するために、前書きをヒントにして足跡を訪ねる、ということをしているが、ここ十数年は中断したまま。そこへ、いわきで震災・原発事故の支援活動をしているシャプラニールがフエスティバルを開くという連絡がきた。行く以上は安国殿(当時の建物ではないとしても)を必ず撮る、と決めたのだった。

「スーパーひたち」で上野駅に着いたあと、同じJRで浜松町駅まで行った。北口から増上寺に向かう途中に世界貿易センタービルがあった。20歳前後に、建設中のこのビルでアルバイトをしたことがある。それと、東京タワー。シャプラのフエスティバルの前に、ちょっぴり懐かしさにひたった。

2012年10月28日日曜日

足場が組み上がる


朝、夏井川の堤防を散歩する。何度も書いていることだが、“定線観測”をしていると“変化”がわかる。対岸、平山崎の名刹・專称寺の本堂がパイプで囲われた=写真。解体作業のための足場が組まれたのだ。遠目には屋根の解体が始まったかと思われた。デジカメで撮影し、拡大したら、屋根の足場だった。

專称寺は東日本大震災で大きな被害を受けた。本堂は「危険」、庫裡は「要注意」、ふもとの総門もダメージを受けた。いずれも国の重要文化財に指定されている。

今年の初夏、保存・改修のための事業が目に見えるかたちで始まった。保存・改修するためには一度解体しないといけない。まずは重機を入れるための参道拡幅工事が行われた。季節が一つ巡った今は、すでに総門の解体が終わり、本堂の解体に移りつつあるところらしい。

庫裡はどうするのか、そこまで保存・改修をしないと意味がない。やるとすれば当然、かなりの年数がかかる。復旧・復興といっても、すぐできるもの、少し時間がかかるもの、何年かかかるものと、いろいろだ。

專称寺は、私にとっては近世俳諧をひもとくうえで欠かせない場所だ。この寺へ修行に来た学生の一人が、江戸時代後期、ひとかどの俳諧宗匠になる。総門・本堂はおろか、庫裡の保存・改修がなされてこそ、そこで学んだ人間の自己形成期を探ることもできる。そんな勝手な思いをいだきながら、本堂の変貌を対岸から見続けることにする。

2012年10月27日土曜日

キノコを追憶するだけ


秋キノコが終わりに近づいている。とはいえ、去年同様、今年も森には入っていない。森の奥であのキノコが、このキノコが生えているに違いない――時折、そう想像するだけだ。

マツタケとコウタケに縁のない人間には、秋キノコの王様はウラベニホテイシメジだろう=写真。「匂い松茸味しめじ」の言葉があるように、シメジの味と歯ざわりはなかなかのものだ。細かく裂いて炊き込みご飯にするのが一番、と書くだけでよだれが出る。

8月、9月と秋キノコには厳しい天気だった。酷暑と少雨(8月)、記録的な残暑(9月)でキノコは不作に違いない。そう思ったが、10月に入ってからは結構豊作らしい、という話も伝わる。

が、現場を踏まないから情報がほとんど入らない。すると、キノコが意識から遠ざかる。きのう(10月26日)、夏井川渓谷の無量庵へ行ったついでに、キノコの採取日が書き込んである『フィールド日記』を持ち帰った。

正確には、水野仲彦著『山菜・きのこ・木の実フィールド日記』(山と渓谷社、1992年刊)だ。図鑑(写真)になっており、写真のわきのメモ欄に採取日と場所が書き込んである。

9~10月のメモからそれぞれ一例だけ紹介すると、ハエトリシメジ(9/20)、ウラベニホテイシメジ(10/10)、アカモミタケ(10/11)、ナラタケ(10/23)、ヒラタケ、ハナビラニカワタケ、クリタケ(10/24)……と、いろんなキノコを採取している。場所は夏井川渓谷、石森山(平)が主だ。

いつもの年だと、今ごろはシロに出向いてクリタケを採取し、汁の実にしたり、おろしあえにしたりして食べているはずだが、その楽しみが奪われた。

キノコの「旬」は「瞬」でもある。人知れず森の中に現れ、消えていく。だからこそ足繁く森へ通っていたのだが、それにブレーキがかかった。図鑑をめくってキノコを追憶するだけになった。東電は「自然享受権」をどうしてくれるのだ、という思いが膨らむ。

2012年10月26日金曜日

カラスめ!


わが家の前の歩道にごみ集積所がある。そばの電信柱に、ごみネットのひもを使ってボードをくくりつけた。「カラスが狙ってます! ルールを守って出して下さい!」。写真を添えて注意を喚起する紙を張った=写真

「10月15日以降、カラスが生ごみをあさり、毎回写真のような状態になっています。/生ごみは外から見えないようにして出して下さい(例えば新聞紙に包むなどして――)/分別されていないものもあります。分別表にしたがって出して下さい」

わが地区の燃えるごみの回収は週に2回(月・木)、容器包装プラスティックは週に1回(水)だが、この出し方が現場ではときどき崩れる。今まではよその事例だと思っていた「カラスとごみの問題」に遭遇した。

わが家のそばのごみ集積所では、今までカラスの被害はなかった。それが、目ざとくカラスがごみ袋をつついて歩道に生ごみを散らかすようになった。

いわき市外から移ってきた人か、と憶測するのは簡単だ。いわき市民であってもごみの出し方を守らない(守れない)人がいる。その証拠に、別のごみ集積所には前から「隣組の人以外のごみ捨てはお断り」という趣旨の札が立っている。

でも、今度のはやはり透明な袋の「ごみ出しルール」とは違う。出したあとにカラスが舞い降りる、つつく、あさる、ちらかす――“惨状”を知らないから、同じ出し方をするのだ。

出し方が変わることを期待して、きのう(10月25日)、ボードを電柱にくくりつけたのだが、気づいてくれただろうか。いや、気づいてくれないと困る。

2012年10月25日木曜日

「震災を忘れない」


いわき市の北部、久之浜、平・薄磯、豊間と、津波被災地を訪ねる機会がある。3・11の午後3時過ぎまでは密集していた家が大津波に飲まれ、ガレキと化した。ガレキが除去されたあとは、コンクリートの土台を除いて“更地”になった。1年7カ月たった今、ところどころに花が飾られてある=写真。思わず心の中で合掌する。

いわきの犠牲者は、4・11の土砂崩れによる4人を含めて死者が310人、行方不明者が37人。これが、今年7月1日に県の定めた統一基準に合わせ、①直接死293人②死亡認定(行方不明)37人③関連死94人、の計424人(現在は6人増えて430人)に達した。

亡くなった人の無念、遺族の悲しみを忘れない――ハマの津波、ヤマの土砂崩れを免れたマチの人間である私は、被災地を訪ねるたびにそう思う。同じように、いわき出身者もまた、ふるさとを離れている身では「震災を忘れないこと」くらいしかできない、と言ってきた。それこそふるさととのまっとうな向き合い方だ。

福島高専の創立50周年記念式典が先日開かれた。それに合わせて仲間内の飲み会が企画された。幹事による通知、仲間から別の仲間へのメール転送による出欠返事から、部活(陸上競技)を共にした人間と何十年ぶりかで連絡が取れた。

だれからか聞いて知ったのか、いわきの震災の状況は私のブログで「手に取るように理解できました」という。だれにあてるわけでもないが、私は個人への手紙のつもりでブログをつづる。それが、しばらく連絡の途絶えていた旧友に届いていた。

陸上部の後輩に大熊町の幹部職員がいる。大熊町は原発事故で全町避難を強いられた。今は「町外コミュニティー」(仮の町)をどこにどう構築するのか、役場ごと避難した会津若松市で苦闘の日々を送っている。5月にはいわきに避難している町民を対象に国が説明会を開いた。会場をのぞいたら、後輩がいた。

学業とは別に、部活を共にした人間のつながりは、よく言えば純粋、悪くいえば単純。なにもできないが、気持ちだけは寄り添うことができる。それこそ「震災を忘れない」ように「お前を忘れない」と。あらためて同輩を思い浮かべ、後輩を思い浮かべて胸が熱くなった。

2012年10月24日水曜日

街なかコン交流広場


いわき復興支援プロジェクトと銘打った「いわき街なかコンサート」が10月20~21日、いわき市の中心市街地(平)で開かれた。いわき駅南口駅前広場をはじめ、平の目抜き通り一帯でライブ演奏が繰り広げられた。

駅前広場には「街なか『絆ジョイント』交流広場」が設けられた。テント村だ。そこに被災者のための交流スペース「ぶらっと」が出店した=写真

「ぶらっと」の利用者は津波被災者、原発避難者が主。利用者の中にはストラップなどの小物を手づくりしている人がいる。その腕を生かして、何人かは「ぶらっと」で定期的に教室を開いている。「だれでも先生」だ。

借り上げ住宅には情報が届かない。孤独感だけが募る。その欠を補うのが「ぶらっと」であり、毎月発行される「ぶらっと通信」だ。

趣味でもなんでもいい、自分にあるものを介して人とつながっていく。「ぶらっと」はそのための交差点でもある。「交流広場」のブースでは、「ぶらっと」の利用者であり、教室の先生でもある人たちの作品が展示・即売された。

押し花ストラップ・しおり(富岡町・大和田さん作)、ちりめんふくろうストラップ・貝殻金魚ストラップ(富岡町・長谷川さん作)、ティッシュケース・巾着(富岡町・山口さん作)、コースター・チラシかご(大熊町・西さん作)、エコクラフトかご(ぶらっとボランティア・佐々木さん作)などが並んだ。小物の値段は100円とか200円だ。

21日には「ぶらっと」を運営するシャプラニール=市民による海外協力の会のフェアトレード商品も販売した。カミサンが担当した。朝、荷物と一緒に駅前広場へ送り届けた。

この時期、あちこちでイベントが開かれる。震災復興祈念が主だが、小学校の学習発表会や公民館まつり、あるいは展覧会、秋の一斉清掃と、恒例の催しがこれに加わる。

こうなると、「ハレの日・ケの日」どころか、一日を「ハレの時間・ケの時間」に分けて、「ケの時間」に自分の仕事をする、という仕儀になる。教会のバザーへカミサンを送り届ける、夜は飲み会、翌朝一斉清掃、そのあと街なかコンへ、合間に帰宅して資料の整理を――と、この週末がそうだった。これからもしばらくはそうなりそうだ。

2012年10月23日火曜日

「平高専」


福島高専の創立50周年記念式典に合わせ、工業化学科(略してC=現・物質工学科)3期生が式典前日(10月19日)、いわき市遠野町の「中根の湯」=写真=で同級会を開いた。機械工学科(略してM)のわれら3人が合流した。14年前に四倉・海気館(今はない)でもCの同級会が開かれ、われらMの人間が加わった。

キーパーソンはC出身の現・同窓会長だ。彼の親戚が平駅(現・いわき駅)近くで喫茶店を開いていた。Cに限らずMの人間も何人か入りびたりになった。地元出身の学生は通学し、通うには遠い中通りや会津、浜通りの北部の人間は学生寮に入った。寮生活もまた、学科を越えた交流を濃密なものにした。

中根の湯の歓迎札に「平高専」とあった。幹事があえて「15の心」に帰るためにそうしたのか、それとも宿の方が「高専」イコール「平」の記憶にとどまっているのか。14市町村合併による「いわき市」の誕生で「平高専」から「福島高専」に改称したのが45年前――。一気に時計が逆回りした。

飲むほどに酔うほどに、「15の心」に刻まれた記憶がよみがえる。矢祭町出身のK。再会するのは海気館での同級会以来だろうか。会った瞬間、名前を呼び交わし合った。今は喜多市と合併した町出身のTも同じ。福島や郡山、会津若松といった市部と違って町村部が出自だ。「〇×出身」といっても分かってもらえなかった。

ところが、町村部出身者は違った。意外と市町村名に通じていた。Kとは中学校の体育の先生(女性)を介して知りあった。わが町の常葉からKの町(矢祭)に先生が転任になった。すらりとした美人だった。高専に入学後、寮で知りあってその話になった、とKがいう。こちらはすっかり忘れていた。

Mだけの飲み会ではこうはならない。壊れたれレコードのように同じことを繰り返す。Cに合流したからこそ、別の視点から「15の心」に触れることができた。隣町の出身者Yにも40年余ぶりに会った。彼らを介してすっかり置き忘れてきた自分に再会したような錯覚におちいった。

2012年10月22日月曜日

神谷公民館まつり


前年度(2011年度)は、東日本大震災と原発事故の影響で開催時期が10月から年度末に近い2月に延期された。わが地元の神谷(かべや)公民館まつりのことだ。今年度はいつものように10月の20、21日に開催された。特別企画として「地域再発見 かべや百景」展=写真=が開かれた。

2月のときには駐車場誘導係をした。その記憶がよどんでいたのかもしれない。受付によその区の区長さんが2人いた。あれっ?と思った。<おれは区長ではないけど、役割を忘れているのか>。そうではなかった。2月は、喪に服している区長さんの代役だった。そのことを思い出した。

公民館まつりだから、公民館を利用しているサークルの人たち、あるいは市民講座の受講生の作品展示、芸能発表が主だ。併せて模擬店やバザーが開かれる。

「かべや百景」に興味があった。9月にわが区の区長さんから話があった。毎日、首からカメラをぶらさげて散歩しているのだから、出品したら――。その経緯は10月6日付「ヒガンバナ、やっと満開」に書いたが、なぜかブログからそれが欠落している。パソコンの操作を間違ったのだろうか(間違った意識はない)。

規格(2L判)の用紙がなかったので若い仲間に連絡し、データを送ってプリントアウトしてもらった3点を出品した。春雪の中を飛ぶハクチョウ、春の野焼き、墓地の桜。散歩の途中でパチリとやったものばかりだから、「芸術写真」とは縁遠い。自分のブログ用の「報道写真」だ。

展示写真は私のものも含めてざっと百景の5分の1か。それでもいいではないか。小学校の学区とイコールの世界だ、狭い地域で一気に百景なんて無理がある。5年がかりでやればいい。

足元を掘る、掘りつづける、すると地域を越えて広がる地下水脈に触れる。それこそ「地域再発見」の本質ではないだろうか。実際、よその区の“隠れた名木”を初めて知った。

2012年10月21日日曜日

清掃デー


秋のいわきのまちをきれいにする市民総ぐるみ運動初日の10月19日、小学生が家の前の歩道を、ごみを拾いながら通り過ぎた=写真

一斉清掃は3日間にわたって繰り広げられる。初日は「清潔な環境づくりの日」(学校・社会福祉施設・事業所・商店・飲食店街周辺の清掃)、二日目「自然を美しくする日/みんなの利用する施設をきれいにする日」(海岸・河川の清掃、樹木の手入れ、公園・観光地・道路・公共施設の清掃)、そして最終日が「清掃デー」(家庭周辺の清掃)だ。

初日に二日目の清掃をしたり、家庭で早々と清掃を済ませたりと、そのへんはゆるやかだ。地域の環境美化が保たれればいいのだから。小学生が歩道(通学路)でごみ拾いをしたのも、総ぐるみ運動二日目が土曜日で学校が休みになるからだろう。区の保健委員としてはありがたいことだ。

きょうの清掃デーは、わが区内では午前6時半に一斉に清掃が開始される。1時間もあれば作業は終了するだろう。ざっと様子を見て回ったあとは決められた集積所に燃えるごみ、燃えないごみが何袋出たかチェックし、市に実績報告書(はがき)を出す。

金耀、土曜と二晩続けて学校の同窓生が集まり、泊まり込み(初日・いわき市遠野町、二日目・わが家の近くの家)で飲み会が開かれた。次の日、何も用事がなければ痛飲する、結果的に二日酔いになるところだが、土曜朝には車を運転しないといけない、日曜朝には一斉清掃がある、ときては、おのずとブレーキがかかる。

おかげでアルコールにどっぷりつからなくとも旧交を温めることはできた。記憶もしっかりしている。それぞれの人生のあゆみがみえた。

清掃デーの見回りが終わるころ、帰路に就く同級生がいる。見送ることができるかどうかはわからない。が、そのへんは了解済みだ。まずはきょうの務めを果たすこととしよう。

2012年10月20日土曜日

ホバリングする蛾


一見、スズメバチに似る。が、蛾の一種だ。ホバリングをしながら、長い口吻(こうふん)をアザミの花に差し込み、吸密する=写真。ホウジャクという。昼間に飛び回っているのでよく目立つ。

夏井川渓谷の無量庵へ出かけ、庭の一角にある菜園の草引きをした。一休みしていると、花から花へせわしく飛び回るハチがいた。よく見たら、ホウジャクだった。急いで車からカメラを取り出し、ファインダーものぞかずに何枚か撮った。偶然、1枚だけピントが合っていた。

ホウジャクはスズメガ科の蛾だ。漢字で「蜂雀」、音読みで「ホウジャク」。中南米のハチドリ(蜂鳥)のように高速ではばたき、ホバリングをしながら吸密する。

同じ仲間に翅の透明なオオスカシバがいる。こちらも昼行性で、ずいぶん前の夏、やはり無量庵の菜園で見たことがある。初めて見たそのときの、蛾とは思えない印象が今も鮮やかだ。

被写体としてはもってこいの虫だろう。ホバリングをする。長い口吻を持つ。体の模様が面白い。それだけのことで、ついカメラを向けてしまう。

無量庵の周辺には絵になる、ちっちゃな自然がいっぱいある。性能だけは優れたデジカメだが、使いこなす腕がない。接写や望遠、焦点深度、シャッター速度などを自在に調整できれば、豊かな写真世界に分け入ることができるのだろうが……。ま、これくらいでよしとするしかない。

2012年10月19日金曜日

酔いどれレリーフ


アンコールトムだったと思う。壁面に展開する精緻なレリーフを、若いカンボジア人の観光ガイドが日本語で説明するのを聴きながら見て回った。庶民の生活を描いたもののなかに、酔っ払いの図があった。一人がラッパ飲みをし、一人が嘔吐している=写真

これはいい。思わずカメラを向けた。アンコールトムは11世紀後半につくられたと、物の本にある。人間と酒の関係は900年前も、いやその前、人類が現れたときから全く変わっていない、と思う。

なにかの神事に飲み、うれしいことがあれば飲み、いやなことがあれば飲み、悲しければさらに飲み、それ以外のときにもやはり飲む。要するに、人類は飲まないではいられない存在なのだ――というのは、呑兵衛の言い訳だが。

酒を飲んでいっとき、いい気分になったつもりになる。いい気分になり過ぎると吐いたり、二日酔いになったりする。「快楽のあとの頭痛の朝」は誰もが経験する“現実”だ。そのたびに、サルでもできる反省をしてきた。年に数回、それを半世紀近く……。レリーフはきっとそんな人間の弱さを戒めているのだろう。

世界遺産を見てきてからほぼ1カ月しかたたないのに、何度かレリーフと同じような状態になった。ラッパ飲みも、嘔吐もしないのに、人と飲むと翌日まで酔いが残る。『酔いどれレリーフ』を思い浮かべながらも、しかし、いややはり晩酌なしでは一日を締めくくれない。

2012年10月18日木曜日

炊飯器が壊れた


わが家の炊飯器が壊れた=写真。内蓋が外蓋からパカッとはがれた。国内メーカーの製品だが、2002年にマレーシアでつくられたものだとカミサンがいう。ご飯をどうする?となったが、どこからか新しい炊飯器が出てきた。別の国内メーカーの製品だ。

日々、なにごともなく過ぎていくかぎりでは、家電は家電でしかない。電気ごたつは中を温める。電灯は部屋を明るくする。炊飯器はご飯を炊く。3・11を経験する前まではそうだった。「でしかないもの」が3・11後、「大事なもの」「必要なもの」になった。

3・11で断水した。電気はかろうじて通じていた。津波に襲われたハマ(沿岸部)に比べたら、少し内陸に入ったマチ(平野部)は、それこそハマの人には申し訳ないが、地震の被害だけで済んだ。が、そのあとに原発事故のパニックがきた。モノがさっぱり手に入らなくなった

カミサンが近くのコンビニへ出かけた。食料品や飲料水は品切れ。氷袋が残っていたので、それを買ってきて解凍し、水にした。

とにかく洗い物を少なくする。茶碗にラップをしてご飯を盛る。おかずも同じ、ラップをした上に盛る。ラップのおかげで茶碗も、皿も洗う必要はない。苦肉の策がクチコミで一気に広まった。

そのころを支えてくれた炊飯器だ。ただの家電ではない。戦友とはいわないまでも、よく機能してくれたな、とは思う。

2012年10月17日水曜日

鳴き砂フェスティバル


「鳴き砂フェスティバルin豊間」というイベントが11月4日に予定されている。いわき地域学會に実行委員会への参加要請があった。呼びかけ人はいわき地域環境科学会の橋本孝一会長、いわき鳴き砂を守る会の佐藤孝平会長だ。

昨年2月下旬に開かれた「いわき鳴き砂展」を後援している。その延長で話がきた。断る理由がないので実行委員に加わった。先日、豊間公民館で初の実行委員会が開かれた。そのときの話から――。

3・11に遭遇したいわきの海岸の鳴き砂は、巨大津波に耐えてよみがえった。その象徴が豊間海岸だろう=写真。鳴き砂は地元の誇り、でもある。鳴き砂を守る会が地元の豊間区に相談し、フェスティバルの話が具体化した。

海岸の「鳴き砂」の定点観測実証検査をし、併せて放射線検査をする。放射線量は波打ち際で毎時0.05~0.06マイクロシーベルトと、自然線量と同じレベルに戻っている。海水も問題ない。参加者に線量計で数値を確認してもらうことを考えているという。

地元から、津波で“更地”になった住宅跡での転落事故を防ぐように、という注意喚起があった。

“更地”には井戸や浄化槽、ふたのない側溝がある。それが草に隠れている。豊間海岸とやや内陸の豊間公民館が会場になる。その間を行き来する際、道路ではなく“更地”を突っ切る人がいないとは限らない。事故防止のためにちゃんと道路を歩くよう呼びかけないと、ということだった。

「よそ者」には見えない“落とし穴“だ。イベントでは「安全」(リスク管理)がもう一つの目的になることを、あらためて知る。

2012年10月16日火曜日

前国王の死


同級生たちとカンボジアのアンコール遺跡群を訪ねたのは9月中旬。雨季のなかでも降雨がピークになる時期だった。アンコールワットに近いシェムリアップの「ソカ アンコール リゾート」というホテルに二泊した。ロビーの一角にシハヌーク前国王夫妻の大きな肖像が掲げられていた=写真

フランスが統治した影響で、昔はフランス語風に「シアヌーク」と表記された。今はウィキメディアなど「シハヌーク」と表記する例が多い。メディアはこれまでの慣例で「シアヌーク」で通している。きのう(10月15日)朝、シハヌーク前国王の死去を報じるNHKがそうだった。ネットで検索すると、共同通信、時事通信も「シアヌーク」だった。

ホテルのロビーで肖像を見たとき、不思議な感覚に襲われた。ベトナム戦争、戦火の拡大、クーデター、内戦、和平……。10代のころから「シアヌーク殿下」はたびたびメディアに登場する、アジアのキーパーソンの一人だった。

そのメディアから姿を消してしばらくたつ。で、日本人からみれば歴史上の人物と化していた。カンボジアではそうではなくて、ずっと君臨、いや崇拝されていたのだ。

首相をやめては復活し、またやめる、また復活する。追放され、幽閉される。そのたびによみがえる。カンボジアは和平後、立憲君主制を採択し、「シアヌーク殿下」が国王に復位した。死亡記事には、中国・北京の病院で死去した、89歳、「独立の父」と敬愛された、小国カンボジアの現代史を体現するような人生だった、とある。

猫ひろしがカンボジア国籍を取得してマラソンの代表選手になったものの、結果的に五輪出場はならなかった――その程度の情報しか持っていなかったなかで、前国王夫妻の肖像はまさに「小国カンボジアの現代史」をよみがえらせた。それからおよそ1カ月後の訃報だった。

2012年10月15日月曜日

金澤翔子美術館


いわき市遠野町に金澤翔子美術館がある。金澤さんはダウン症の書家だ。建物に入るとすぐ正面に「希望光」の大作が飾ってあった=写真

リーフレットによれば、津波被災地を訪ねた彼女が瓦礫の間に小さな赤い花を見つけ、「希望の光だ」とつぶやいた。被災者に寄り添う思いを「共に生きる」に表し、希望があることを伝えたくて「希望光」を書いた。そもそも美術館がいわき市に開設されたのも、東日本の復興を願ってのことだという。

同美術館は2011年12月1日、「きもの乃館 丸三」の協力を得て、その建物のなかにオープンした。知人がスタッフとしてかかわっている。すぐにでも訪ねたかったが、ずるずると日が過ぎて、きのう(10月14日)、ようやくカミサンと訪ねた。作品を見るのが主。それは当然だが、同時に知人の陣中見舞いを兼ねる。

館内に入った瞬間に目が合った。「あっ!」となって、まずは観覧料1人800円を払う。知人に案内されて金澤さんの書を見て回った。

「空」の字がいくつか展示されているコーナーで、不覚にもこみ上げてきそうになった。「空」の字を見た子どもたちがさまざまな反応を示すのだという。「空」が笑っている・泣いている・パンダに似ている・疲れている……。金澤翔子さんのストレートな思いが字に反映され、子どもたちがまたそれを見てストレートに反応する。

NHKの大河ドラマ「平清盛」の題字は彼女が書いた。テレビでは縦3文字だが、美術館に展示されているのは横3文字だ。さすがに縦と横とでは雰囲気が異なる。が、「平清盛」も含めて彼女の作品には、一般のプロにはない豊かな造形性がある。

プロでもアマでもない、なにか別の――そう「天与の役目」(母親の泰子さん)を与えられた書体。私たちが使う「心」だとか「夢」だとかは、すっかり手あかにまみれてしまった。それをまっすぐ見つめて書くから、こちらにぐさりとくるのだ。そこが違う。久しぶりにゆったり、ふんわりした時間をもてた。

2012年10月14日日曜日

わがふるさとで休憩された


天皇・皇后両陛下がきのう(10月13日)、阿武隈高地の川内村を訪問された。東北新幹線で郡山駅に着いたあとは、車で国道288号=写真=を東進し、田村市都路町から国道399号に折れて川内村へ入られた。

東日本大震災に伴う福島第一原発の事故を受けて「全村避難」を強いられたが、今年に入って村長が「帰村宣言」をし、4月に役場機能が村に戻った。村民が帰村するための除染作業が行われている。仮設住宅も建てられた。その視察と激励が目的だ。

私はすっかりいわきの人間になったが、生まれも育ちも川内村の隣、同じ阿武隈高地の田村市常葉町だ。阿武隈をふるさととする人間として、両陛下の来訪が、川内村民のみならず両国道沿いに住むわが身内を、親戚を、知人・友人を元気づけた――と容易に想像できる。

両陛下が利用されたルートは、いわきから川内経由で田村市常葉町の実家へ帰るときのルートでもある。常葉町の先、船引、三春、郡山へと続く道も、子どものころ、バスで行き来したのでなじみがある。

3・11後、「ニーパーパー」(国道288号)は原発事故の避難ルートになり、記者たちの取材ルートになった。8月に帰ったときには、警視庁から派遣されているパトカーとすれ違った。そして今度は、両陛下がそのルートを往復された。

住民は沿道のあちこちで、小旗を振りながら両陛下の車が通られるのを見守ったことだろう。けさの福島民報によれば、両陛下は行きと帰り、田村市常葉行政局(旧常葉町役場)で休憩された。わがふるさとで休まれた、通過しただけではなかったのだと、胸のなかでもう一人の自分がつぶやいていた。

2012年10月13日土曜日

除染講習会


放射線・除染講習会が8月25日(いわき市総合保健福祉センター)と、9月29日・10月11日(市文化センター)に開かれた。8月の講習会に参加した=写真。10月11日には、区長さんと一緒に受講した。

最初の案内文書に、放射線や除染の知識を持つ人材を確保し、放射線に関する正しい理解や、生活圏の除染を推進するため、地域で放射線測定や除染活動を実施する団体のリーダー等――が対象とあった。

区内会の一員として定期的に区内の放射線を測定している。昨年11月下旬には、子供を守る会の保護者の協力を得て、通学路の高圧洗浄や公園の生け垣の剪定、草刈りなどの除染作業を実施した。今さら講習会もないものだと思いながらも、放射線への理解を深めることにした。

1回目と3回目とで講座の内容に違いはない。①放射線測定と除染活動の推進について②放射線の基礎③除染の基礎――だ。題目は同じでも回を追って話の中身が深まるのだろうか。そんな期待があったが、最初の話のおさらい、あるいは講師が異なることによる情報の追加、といった程度だった。

区内10地点の線量(地上5センチ、1メートル)を1人で測定している。測定機器はサーベイメーター(ラディ)で、電源をオンにして35秒がたつと数値が表示される。数値は10秒ごとに変化する。65秒から測定を開始するのだという。そんなことを今度の講習会で知った。

つまり、最初の3回の数値は無視する。1分以上たったあとの4回目から8回目まで、計5回の数値を記録して平均を出すのが「正しいやり方」だという。自分の体が遮蔽物にならぬよう、ラディから体を離すことも学んだ。

これまでは、「平均」よりは高くなって下がる「頂点」の数値を記録してきた。平均すればたぶんそれより低い値になる。1人で測定する以上は、「目安」としてのデータしか出せない。としても、一度平均値を出す必要はある。

2012年10月12日金曜日

溪谷のセイタカアワダチソウ


夏井川渓谷の秋にそぐわない色がある。十何年か前に帰化植物のセイタカアワダチソウが咲いた。ヨシ原が一度刈られ、放置されたあと、瞬間的に根づき、花開いたのだ。それ以来だろう、セイタカアワダチソウの黄色い花に気づいたのは=写真

自分の記録に当たったら、無量庵の下、岸辺のヨシ原が刈り払われたのは1998年だった。無量庵の対岸に水力発電所を持つ東北電力が、尾根筋の送電鉄塔を高くする工事をした。川をはさんだこちら側、ヨシ原が資材置き場になった。ヘリコプターが現れ、ホバリングをして資材を運ぶのを、無量庵から眺めた。V字谷ゆえの、曲芸的な作業だった。

工事が終わった翌年、資材置き場はススキが伸び、ヨシもちらほら生えて「ボサ」(灌木などが生えた草むら)になった。さらに次の年には元のようにヨシが優先し、間にセイタカアワダチソウが黄色い花を点々とつけた。セイタカアワダチソウは翌年、ヨシに埋没して姿を消した。

無量庵の隣に「錦展望台」がある。所有者が古い家を解体し、谷側の杉林を切り払って行楽客のビューポイントにした。道路をはさんだ山側の杉も伐採した。そのあたりに、セイタカアワダチソウが生え、花をつけた。去年も咲いたかどうか、ちょっと記憶にない。

よくよく見たら、少し下流、洪水でえぐられ、復旧工事が行われた路肩にもセイタカアワダチソウが咲いていた。いったん裸地化したところは、セイタカアワダチソウの絶好のゆりかごなのだろう。

それからの連想――。耕作が行われなくなった双葉郡の田畑は、セイタカアワダチソウにとっては天国だ。「季節外れの菜の花畑のようだった」と新聞記事にあった。原発避難者は美しかったふるさとの風景の変貌に心を痛めているに違いない。

2012年10月11日木曜日

ハクチョウ飛来


国道399号はいわき市小川町・三島地内で夏井川と出合う。きのう(10月10日)、国道と並行する川に成鳥2羽、幼鳥3羽、計5羽のコハクチョウが羽を休めていた=写真。夏井川渓谷の無量庵へ行く途中、「もしや」と思いながら近づいた。川が見えた瞬間、「もしや」が現実になった。

急に冷え込んできたので、ハクチョウの飛来が早まりそうな予感はしていた。猪苗代湖に飛来したというニュースに接していたのが大きい。にしても、まだ10月上旬から中旬に移るところだ。いわきへの飛来は最も早い部類に入るのではないか。

私がフィールドにしている夏井川の下流、平・塩~中神谷地内では、コハクチョウの飛来はだいたい10月下旬だ。昨年は10月29日、おととしは10月23日だった。主な越冬地の平中平窪は、中神谷から4~5キロは上流だろうか。そこに現れたあと、下流の塩~中神谷へ、上流の三島へハクチョウたちが分散する。

三島でコハクを見た以上は、中平窪も、塩~中神谷もチェックしておこう、となるのは当然だ。無量庵からの帰り、三島でウオッチングすると、コハクと一緒にいたオナガガモが4羽になっていた。いよいよ中平窪に飛来しているのを確信する。

中平窪は、少し上流の久太夫橋から眺めた。思ったより多くのハクチョウがいた。間違いない、第一陣がやって来たのだ。その足で塩~中神谷へ行く。ハクチョウたちの姿はなかった。が、ここへやってくるのも時間の問題だろう。

今年は夏に、死んだと思っていた残留コハクの「左助」が現れた。まるまる3年ぶりの再会だった。現れたと思ったらすぐ姿を消した。少したってまた現れ、すぐまた姿を消した。どうやって3・11をしのいだのか、インタビューしたいくらいだが、「左助」は声をかけても応じない。今年は2009年以来、4年ぶりに仲間と再会する。そんな期待が膨らむ。

2012年10月10日水曜日

シャプラニール40周年


いわきで被災者のための交流スペース「ぶらっと」を運営している、シャプラニール=市民による海外協力の会が今年、設立40年の節目を迎えた。会報「南の風」40周年記念号に、強口暢子いわき市社会福祉協議会長が寄稿している=写真

社協は3・11後、全国から駆け付けた社協職員やNPO、ボランティアなどの受け入れ窓口になった。「この1年以上にも及ぶ取り組みの中で、多くの支援団体に支援を頂いたが、シャプラニールの存在とその活動は群を抜いている。(中略)私ども社協にとっても欠くことの出来ない心強い存在になっている」。強口会長の実感だろう。

シャプラの前身「ヘルプ・バングラデシュ・コミティ」を立ち上げた一人が、いわき市出身の親友だったので、そのころからシャプラの活動を視野に入れてきた。シャプラは3・11後、いわきを拠点に支援活動を展開している。いわきのDNAをもった組織だからこそと、私は勝手に解釈している。

10月27、28日には東京・芝の増上寺三縁ホールで40周年記念のフエスティバルが開かれる。被災地支援の一環としていわきの民工芸品や野菜が販売される。出店するのはスカイストア(野菜)・クラフト夢現(木工芸品)・木地処さとう(伝統こけし)・いわき絵のぼり吉田(絵手ぬぐい)・磐城高箸(割箸セット)。関東の人はぜひおでかけを。

シャプラは今年、沖縄県が主催する「沖縄平和賞」を受賞した。沖縄県が評価したということが、なによりもうれしい。ついでにいえば、「ぶらっと」もきのう(10月9日)、開設満1周年を迎えた。

2012年10月9日火曜日

津波は南から来た


先日、いわき地域学會の巡検が行われ、4・11で被災したヤマ(田人)と、3・11で津波に襲われたハマ(久之浜・四倉・薄磯)を訪ねた。ハマでは、防波堤のそばに仮の祭壇が設けられたり、コンクリートの基礎だけになった住家のあとに花が供えられたりしているのを見た=写真

巡検参加者におととい(10月7日)、いわき自然史研究会編『証言 2011年3月11日 いわき~伝え継ぎたい東日本大地震の記憶~』(2012年3月11日発行)を発送した。デジタル技術にかけてはピカ一の事務局次長・巡検担当のW君が来宅し、10、11月の地域学會市民講座の案内はがきも印刷し、投函した。

自然史研の冊子は①証言(60人余が3・11と4・11の体験記を寄稿)②地震被害③津波被害――の三本立てだ。体験記を投稿したので、春に冊子が届いた。今回、巡検の資料として冊子を調達し、発送したあと、遅ればせながら熟読した。

自然史研は地質学がベースの民間調査研究団体だ。地震・津波に関する考察に合点がいった。

久之浜の波立海岸にある弁天島は大地震にも姿を変えず、大津波に襲われても鳥居は無事だった。弁天島と連なる陸側の岬も変化はなかった。ほかの岬が崩落したのに無事だったのは、島も岬も硬い岩でできているからだとか。

「津波は南から来た」。体験者が口々にいう。なぜそうなのかわからなかったが、冊子を読んで納得した。

「2011年3月11日午後2時46分、岩手県三陸沖で起こった地震により津波が起こる。この津波はその後約15分(午後3時頃)で第一波がいわき市に到達する」。第一波はさほど大きな津波ではなかった。

「いわき市を通過した津波は、その後に茨城県沖で起こった地震の津波といわき市より南でぶつかり津波が増幅したと考えられる。これが第二波以降となり、第二波はいわき市に3時30分頃に到達した」

この第二波と第三波がいわき市に大きな被害をもたらした。津波が南から来たメカニズム、地形による被害の大小がようやく頭に入った。これも巡検のおかげだろう。

2012年10月8日月曜日

阿部幸洋新作絵画展


いわき市平字堂根町のギャラリー界隈で10月6日、いわき市出身の阿部幸洋新作絵画展が始まった=写真。15日まで。

23歳の駆け出し記者が、3歳年下の駆け出し画家の個展を取材した。以来、阿部とは40年余のつきあいになる。阿部は、わが子にとっては小さいころ、最も身近な“叔父さん”だった。

阿部は、結婚と同時にスペインへ渡った。1980年のことだ。奥さん(すみえちゃん)に支えられて制作に没頭した。その人生のパートナーが3年前の9月30日、急逝した。

妻亡きあとの暮らし、仕事について、彼は多くを語らない。が、1人でなにもかもしなくてはならなくなった。それで、絵は変わったか。たぶん、変わっていない。変わったとしたらむしろ、3・11を経験したこちら側だ。

ラ・マンチャ地方の風景(建物・平原)を描いている。すみえちゃんが存命のころからのシリーズと言っていいだろう。作品のタイトルは時候に関するものが多い。午後の陽・春風・暮れどき・春めく日・春・春の午後・夕暮れ近く・秋の日・西風・西の空……。「朝」の1点をのぞいて夕暮れを描いたという。

3年前の個展でも感じたことだが、建物の背後、平原にかかる雲が灰色がかっていて、大気が湿り気を帯びている。それで見る側の心が潤ってくる、なんてことを思った。こちらが3・11以来、ラ・マンチャ(乾いた大地)になっているからだろう。

10月20日からは東京・銀座のギャラリーヤマトで「阿部幸洋展 版のしごとvol.2」が開かれる。最終日の27日にもしかしたら東京へ行くかもしれない。そのとき、時間があれば寄ってみよう。

2012年10月7日日曜日

小白井きゅうり


おととい(10月5日)、いわき市生涯学習プラザでヒューマンカレッジ(市民大学)いわき学部の講座が開かれた。「大正101年 暮鳥圏の人々――一粒の種子が芽生えるとき」と題して話した。休憩時間に旧知のMさん(内郷)から「小白井(おじろい)きゅうり」を2本いただいた=写真

「小白井きゅうり」はいわき市の北部、川前町小白井地区で栽培されている自家採種の昔野菜(伝統野菜)だ。見た目はずんぐりむっくり。でも、『いわき昔野菜図譜』(2011年3月、いわき市発行)によると、肉質はシャキシャキとして歯切れがよく、香りが高い。漬物やサラダの生食のほか、皮をむいて種を取り、炒め物やみそ汁の具に加熱して食する。

今年1月末、中央台公民館で2回目の「いわき昔野菜フェスティバル」が開かれた。去年の初回は「味わってください」、今年は「種をさしあげます」がポイントだったろうか。いわきの昔野菜の種をもらって帰る人がいっぱいいた。

Mさんのブログによれば、Mさんは友人が育てた「昔きゅうり」(いわき市三和町上三坂)と「小白井きゅうり」の苗を3本もらって栽培した。友人が昔野菜フェスに参加したのだろう。

そういえば、辛み大根の種をくれた知人も、この夏は「小白井きゅうり」に元気をもらいましたと、手紙に書いていた。やはり、昔野菜フェスで種をもらったのだった。

思いもよらない大震災・原発事故を経験しからこそだろうか、一粒の種が芽生え、育ち、実るのを見るのはうれしいものだ。ちっぽけな動きが希望につながる。「メソメソしてはいられません」「被災者の私でさえ百姓をしているのに、畑を荒らしてはダメだっぺ」としかられた。詩も、野菜も、一粒の種から、だな。