2012年10月25日木曜日

「震災を忘れない」


いわき市の北部、久之浜、平・薄磯、豊間と、津波被災地を訪ねる機会がある。3・11の午後3時過ぎまでは密集していた家が大津波に飲まれ、ガレキと化した。ガレキが除去されたあとは、コンクリートの土台を除いて“更地”になった。1年7カ月たった今、ところどころに花が飾られてある=写真。思わず心の中で合掌する。

いわきの犠牲者は、4・11の土砂崩れによる4人を含めて死者が310人、行方不明者が37人。これが、今年7月1日に県の定めた統一基準に合わせ、①直接死293人②死亡認定(行方不明)37人③関連死94人、の計424人(現在は6人増えて430人)に達した。

亡くなった人の無念、遺族の悲しみを忘れない――ハマの津波、ヤマの土砂崩れを免れたマチの人間である私は、被災地を訪ねるたびにそう思う。同じように、いわき出身者もまた、ふるさとを離れている身では「震災を忘れないこと」くらいしかできない、と言ってきた。それこそふるさととのまっとうな向き合い方だ。

福島高専の創立50周年記念式典が先日開かれた。それに合わせて仲間内の飲み会が企画された。幹事による通知、仲間から別の仲間へのメール転送による出欠返事から、部活(陸上競技)を共にした人間と何十年ぶりかで連絡が取れた。

だれからか聞いて知ったのか、いわきの震災の状況は私のブログで「手に取るように理解できました」という。だれにあてるわけでもないが、私は個人への手紙のつもりでブログをつづる。それが、しばらく連絡の途絶えていた旧友に届いていた。

陸上部の後輩に大熊町の幹部職員がいる。大熊町は原発事故で全町避難を強いられた。今は「町外コミュニティー」(仮の町)をどこにどう構築するのか、役場ごと避難した会津若松市で苦闘の日々を送っている。5月にはいわきに避難している町民を対象に国が説明会を開いた。会場をのぞいたら、後輩がいた。

学業とは別に、部活を共にした人間のつながりは、よく言えば純粋、悪くいえば単純。なにもできないが、気持ちだけは寄り添うことができる。それこそ「震災を忘れない」ように「お前を忘れない」と。あらためて同輩を思い浮かべ、後輩を思い浮かべて胸が熱くなった。

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