2012年12月31日月曜日

シルバーカー


スーパーの駐車場でカートを押すお年寄りを見た=写真。荷物は手提げバッグにほんの少し。バッグをカートに載せている。カートは「シルバーカー」代わりだった。

検査のために病院で「車いす」を体験した。買い物に行ったスーパーでカートが杖代わりの「シルバーカー」になることを知った。その体験が車いすやカートを見る目を変えた。

これまでずっと二足歩行が当たり前と思っていた。が、体調次第で車いすやシルバーカーの世話になる――そんな領域に踏み込んだことを自覚する。ならば、その領域を探検してやろう、記録してやろう、とも思う。

昨年の大震災で「当たり前の暮らし」がかけがえのないものだったことを教えられた。今年は持病の亢進で「普通に歩ける」ことのありがたさを痛感した。

人を思いやる心が大切といっても、車いすの人や、シルバーカーの人の内面にどこまで触れ得たか。ましてや、家や肉親を失った津波被災者と、住む土地を追われた原発避難者の心に――。体験がすべてではない。が、体験は想像力を広げるきっかけになる。弱って少し、つらい思いをして暮らしている人たちに近づいたかと思う。

2012年12月29日土曜日

決死の行動


福島第一原発の西方約30キロ、大滝根山=写真=の頂上に航空自衛隊のレーダー基地がある。3・11に福島第一原発が津波に襲われ、原子力災害現地対策本部が設置された際、本部長(経済産業副大臣)は市ヶ谷の防衛省からヘリで大滝根山へ飛び、レーダー基地の車で現地に入った。

門田隆将著『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』(PHP研究所刊)を読んで知った。取るに足らない事実かもしれないが、わがふるさとの山が原発事故の最初期になにがしかの役目を果たした――そのことを胸に刻まないではいられない。

その山の西方約30キロ、郡山市に陸上自衛隊が駐屯している。駐屯地には消防車が配備されている。3・11の夕刻、原発側からの要請で福島市の駐屯地にある消防車と合わせて2台に出動命令が下った。翌3月12日朝にはもう、東電の消防車と連結して1号機への注水・冷却活動を始めている。建屋爆発にも遭遇した。これまた門田本で知った事実だ。

郡山に駐屯している特科連隊は「浜通りはもちろん、福島全体から隊員が集まった“郷土部隊”」だ。なかでも阿武隈高地の町村出身者が多いのではないかと思う。私のいとこがそうだったし、別のいとこの子がそうだ。自衛隊で技術を習得して独立する――そういう夢を語る人間も少なくなかった。

吉田所長以下、東電社員などが命がけで原子炉の暴走を止めようと奮闘した。その最前線に立ったのは、やはり地元出身の人間だった。その最前線に同じ地元出身の自衛隊員が加わっていた。

「入れつづけた水が、最後の最後でついに原子炉の暴走を止めた――福島県とその周辺の人々に多大な被害をもたらしながら、現場の愚直なまでの活動が、最後にそれ以上の犠牲が払われることを回避させたのかもしれない」。福島というふるさとに住むわが“隣人”たちの、決死の行動もまた胸に刻まないではいられない。

2012年12月27日木曜日

本のお見舞い


知人がわざわざ書店から本を買って持って来てくれた=写真。向田邦子著『眠る盃』(講談社文庫)は持病が亢進する前に、一志治夫著『宮脇昭、果てなき闘い』(集英社)は亢進した後に。

『眠る盃』には、草野心平が開いたバー「学校」にからむエッセー「新宿のライオン」が収められている。知人は心平研究家でもある。私も、周辺の人々の話題を含めて心平には興味がある。

『宮脇昭、――』は旧著『魂の森を行け 3000万本の木を植えた男の物語』の新版だ。こちらは病気見舞いだという。著者が大幅に増補・加筆して新版としたのは、84歳の宮脇さんが東日本大震災後、「森の防潮堤」構想を提唱し、「これが自分の最後の仕事」と多くの時間を割いているからだろう。

同構想は「大量に発生した瓦礫をマウンド(盛土)の中に沈め、その上に照葉樹の森をつくろう」というアイデアだ。照葉樹はタブノキやスダジイ、アラカシ、シラカシなどで、タブノキは東北の海岸部にも自生する。宮脇さんのいう「ふるさとの木」(潜在自然植生)だ。

わが家の近く、国道6号常磐バイパス終点に「草野の森」がある。2000年3月、宮脇さんの指導でタブノキなどのポット苗が植えられた。「ふるさとの木によるふるさとの森」再生事業だ。その12年後の、若く元気な姿を目の当たりにしているので、「森の防潮堤」構想には関心がある。瓦礫を処理する、いや生かす名案ではないか。

が、環境省は「一般廃棄物」の瓦礫をマウンドに埋めることをよしとしない。林野庁の管理する国有林での実施も難しい。そうしたなかで、液状化被害に見舞われた浦安市では「森の防潮堤」づくりがスタートした。岩沼市でも「千年希望の丘」プロジェクトが始動し、岩手県大槌町では「千年の杜」植樹会が行われたという。

「いまや宮脇の提唱する『瓦礫を活かす森の長城プロジェクト』には実に多くの心ある人々が共感し、あるいは関心を示している。実際9000万本必要とされる幼苗のために、東北地方でタブノキの種やカシ、シイのドングリを拾い、植え、苗を育てているボランティアは何百人もいるのだ」

この市民の力こそが「縦割り行政の壁を乗り越えて、前へ前へ突き進む」(本の帯)復興の真のエンジンになる。

2012年12月25日火曜日

クリスマスカード


師走に入って、大小2通のクリスマスカードが届いた=写真。ちょうど1年前、東京で「リッスン!いわき」が開かれた。その延長で、2月にはいわきで「フィール!いわき」、8月には平七夕祭りに合わせて「みんなでいわき!いわき市訪問ツアー」が開かれた。それに参加した首都圏その他の人たちの寄せ書きだ。

国際NGOの「シャプラニール=市民による海外協力の会」が3・11後、いわきで緊急支援活動を展開した。それが始まり。シャプラは現在、イトーヨ-カドー平店2階で被災者のための交流スペース「ぶらっと」を運営している。主に借り上げ住宅に入居する津波被災者や原発避難者が利用している。

そのシャプラのスタッフによる、いわきと首都圏をつなぐ企画が「リッスン!いわき」などだった。旧知の豊間の大工とともに、東京といわきで3回、首都圏の人たちと顔を合わせ、言葉を交わした。以来、絆を深め、「いわきに思いを寄せる人たち」の動きをフエイスブックなどでつぶさに知ることができるようになった。

クリスマスカードは二重の意味で望外の喜びとなった。「いわきに思いを寄せる人たち」は「いわきの人間の親戚」のように思えること。そして、極私的なことだが持病が亢進して自宅静養を余儀なくされている人間には、精神的な酸素吸入になったということ。頭に血が戻る滋味豊かなクリスマスプレゼントになった。

2012年12月12日水曜日

地域医療連携室


いわき市立総合磐城共立病院の「地域医療連携室」=写真はリーフレット=の世話になった。かかりつけ医を通じて、スムーズに受診できる予約システムだ。

入院するほどではないが、解放されたわけでもない。アルコールについて聞くと、「アルコールで病気が悪くなってもよくなることはない」。体調がととのうまでアルコール(とブログ)を控えなくちゃ、という心境です。

にしても、共立は込んでいた。巷間いわれるとおりで、ドクターも、看護師も、患者も大変。次回も時間がかかると予告された。

2012年12月11日火曜日

ふくしまNGO協働スペース


カミサンが関係する国際NGO(シャプラニール)の北日本連絡会の集いが日曜日(12月9日)、福島市で開かれた。JR福島駅東口真向かいのビルの3階に「ふくしまNGO協働スペース」がある=写真。NGOを応援するNGO、国際協力NGOセンター(JANIC=ジャニック)が今年6月に開設した。そのスペースが集いの場になった。

JANICについてはシャプラニールが昨年3月、いわき市で支援活動を始めた直後に知った。シャプラの副代表理事大橋正明さんがJANICの理事長を務める。以来、いわきと東京で何度かお会いした。JANICはまた、県内外のNGO・NPOを支援するため、福島市に事務所を開設した。その所長竹内俊之さんともいわきで二、三度お会いしている。

JANICが運営する「ふくしまNGO協働スペース」については、遅まきながら今回初めて知った。竹内所長によれば、同スペースは①県内外の福島の人々を支援するNGO・NPOにとって、活動に関する情報収集・出会いの場となっている②震災支援にかかわるNGO・NPOであれば、シェアオフィスとしても無料で利用できる。

エレベーターで3階に上がれば、そこはもう協働スペースの入り口、というより「家」の中。カーペット敷きの広い事務スペースにはこたつまである。くつろぎやすい空間づくりを心がけていることがわかる。その奥、テーブルといすのある会議スペースだけがスリッパ着用だ。早起きしてやって来たのでこたつに入って昼寝を、と思わないでもなかった。

この「ふくしまNGO協働スペース」=JANICと、いわきのさまざまなNPOはつながっている。たとえば、交流スペース「ぶらっと」はシャプラニールが単体で運営する。JANICはそうしたNGO・NPOを支援する。いわきの視点、福島の視点、東京の視点――支援にもいろんな仕組みがあることを再認識させられた。

2012年12月10日月曜日

ほっかぶり白菜


夏井川の堤防沿い、農家の庭の畑に自家消費用の白菜がある。大きく結球している。あるとき、外葉がはがされ、ポリ袋のようなもので“ほっかぶり”をしていた=写真

いわきの山里では、師走に入ると白菜の先端部を稲わらやテープで縛る。結球した白菜は、外側の葉の先端が霜に焼けてチリチリになる。外葉に“鉢巻き”をして中の葉を寒さから守る農家の知恵だ。

鉢巻きをしないと、どうなるか。極寒期が過ぎるころから“葉ボタン”状になる。防寒のほかに、葉の展開を防ぐ役目もあるようだ。さらにはヒヨドリ対策。ヒヨドリは、1月後半には鉢巻きをした白菜をつつき始める。鉢巻きをしないと簡単につつかれる。被害を減らす工夫も兼ねているのだろう。

下流部の散歩コースの畑では、極寒期から春にかけて、白菜やキャベツがヒヨドリにやられる。でも、外葉をむいて“ほっかぶり”をした白菜は記憶にない。まあ、見た目はほっかぶりというよりは、“マント”を着たような感じのものもあるが。

先日、わが家に白菜が2株届いた。この冬、2回目の白菜漬けをする。小玉だから四つ割り、あるいは六つ割りにして干し、夕方には塩を振って重しをのせる。香り漬けにはユズの皮が欠かせない。買って来るかどうか、使うかどうか、悩ましいところだ。

2012年12月8日土曜日

「津波!避難!」


きのう(12月7日)夕方、5時18分ごろ。静かに揺れが始まった。夫婦で茶の間にいた。だんだん揺れが大きくなる。カミサンがそばの石油ストーブを消す。似ている、3・11の揺れに――そう思った瞬間、揺れが最大になった。玄関の戸を開ける。そのまま揺れ続ける家の様子をうかがう。さいわい倒れるものはなかった。

揺れが収まったあと、NHKのテレビを見る=写真。宮城県に津波警報、それ以外の太平洋沿岸に津波注意報が発令された。画面には赤い字で「津波!避難!」の文字が表示されている。

3・11を教訓に、呼びかける内容と口調も変わっていた。「東日本大震災を思い出してください」「命を守るために急いで高台に逃げてください」「今すぐ逃げてください」。叫びに近い、切迫感のある呼びかけだった。

いわきに住む人間(ばかりではないだろうが)は、大きな余震がくると、事故を起こした福島第一原発が気になる。津波が来るとなると、なおさらだ。「これまでのところ異常は報告されていない」というアナウンスがあっても、どこかで不安をぬぐいきれないでいる。ふだんでも100%安心できていないのだから当然だろう。

ところで、福島県の最大震度は4だった。震源地は三陸沖。青森、岩手、宮城県は最大5弱、栃木、茨城県もそうだった。なぜ福島は4なのか。

いわきでは、体感は5弱に近かった。カミサンは石油ストーブを消したあと、風呂に水があることを確かめ、すぐご飯を炊いた。心の底の底には3・11の不安と恐怖がわだかまっている。私もすぐ、車のガソリンのことが頭に浮かんだ。

2012年12月7日金曜日

室温0度


きのう(12月6日)早朝、夏井川渓谷の無量庵へ車を走らせた。生ごみがバケツにいっぱいになった。無量庵の堆肥枠に生ごみをあける。同時に、菜園から三春ネギを何本か収穫する。冬がきて、甘く、やわらかく、香りのあるネギを食べたくなった。

雨上がりで、地面がぬれている。家を出るころには暗く、ライトをつけての運転だった。小川町・三島の夏井川にハクチョウたちがかたまって休んでいるのがぼんやり見えた。渓谷に入ると、夜が明けた。山霧がたなびいていた=写真

無量庵の対岸の落葉樹はあらかた裸になっていた。カエデが色あせ、葉を落としながらも、なおところどころに残っている。

無量庵の寒暖計は、室温0度。ちょっと早いかなと思いながらも、台所の温水器の水を抜き、洗面台のボックスの中の栓を締めた。繰り返し凍結・破損しているので、今シーズンは早めに手を打った。あとは堆肥枠に生ごみをあけ、三春ネギを5本ばかり掘り起こして、わが家へ直行するだけ――。

玄関から差し込まれていた回覧チラシ(各戸配付)=放射能検査結果=を見る。野菜や米、果物のほかに、野生キノコの線量が載っていた。クロカワ303、コウタケ1019ないし278、ハツタケ1432、マツタケ129ないし48ベクレル。ついでにイノシシ肉は3540ベクレル。

そういえば、前に地元の人と話したとき、マツタケは口にしなかったと言っていた。マツタケとコウタケは高級食菌。料亭などに卸すため、秋にマツタケ採りに専念する人がいる、という話を聞いている。結果的に経済的損失を受けた人もいたに違いない。――渓谷に身を置くと、考え方がたちまち「自然と人間の関係」に切り替わる。

2012年12月6日木曜日

「静かな家」に


家の前の市道の“へこみ”にきのう(12月5日)朝、アスファルトが盛られた=写真。区内会からいわき市に要望を出してからほぼ7カ月。昨年から続いていた家の振動がやっと収まった。

“へこみ”には理由がある。3・11前の正月、松の内が明けると、わが家の前の側溝と車道中央の下水管を直結する工事が行われた。集中豪雨になると歩道が冠水する。冠水防止対策を区内会として要望したら、年が明けて工事が行われた。

道路のアスファルトを切り、土を掘り起こして、側溝と下水管を直結した。工事が終われば土を埋め戻して、アスファルトを盛る。そのやり方が結果的に甘かったのだろう。アスファルトが時間を追うごとに沈む。乗用車程度ならいいが、トラックが通るとズン、グラッとなる。3・11では家の基礎にひびが入った。それも影響しているのかもしれない。

わが家に来た客人がドキッとする。われわれも、このごろはン?となる。一日に何十回と家が揺れ、「ズン」が「ズーン」と尾を引くようになった。我慢の限界だ。区長さんを通して市に応急処置を促した。

きのう朝、たまたま家の斜め前にある郵便局にはがきを出しに行ったら、市の道路パトロール車が止まっていた。2人が“へこみ”にアスファルトの盛り付け作業を始めるところだった。つぶさに作業を眺めた。

あとからもう1台、道路パト車が来た。なかにベテランがいて盛り付け具合をチェックする。その彼の話に納得した。

道路の土を掘り返して戻す段になったら、何回か細かく土を固めてやらないといけない。下水工事では一気に土を戻して上から一回固めただけだろう。地中にすき間が残っているから、車の往来ごとに沈むという仕儀になる。

要望して7カ月。「揺れる家」が「静かな家」になるのに1時間。「やっと順番がきたので」。それほど道路補修の要望が多いということなのだろう。

2012年12月5日水曜日

福島から始まる選挙


師走に入ったとたん、霜が降り=写真、昼には雪が降った。霜はともかく、いわきにしては珍しい12月1日の雪の洗礼だった。それから3日後のきのう(4日)、衆院選が公示された。

日本は昨年、大震災と原発事故に見舞われた。原発事故は福島県の浜通りで起きた。いわきはその事故を収束するための前線基地でもある。

野田首相は党としての第一声をいわき駅前で発した。「福島の再生なくして日本の再生はない」。昨秋の首相就任時につかったフレーズを再び強調したという(夕刊いわき民報)。

野田首相の来市は、3日・夕刊の折り込みチラシで知った。ほかの3党首もまた福島県内で第一声を上げることを4日の朝刊で知った。なるほど、「福島から始まる選挙」なのだ。

きのうの朝、街に用事ができたので、第一声の様子を見るべく行き帰りにいわき駅前を車で通った。急に雨がぱらついたり、やんだりする天気のなか――帰りに首相がマイクを握っていた。さすがに歩道は人で埋まっていた。

福島5区は浜通り南部のいわき市と双葉郡が選挙区域。双葉郡の有権者は各地で避難生活を送っている。6人の立候補者はいわきだけで遊説をすませるわけにはいくまい。いちだんと冷え込んだ師走に大変な選挙が始まった。

2012年12月4日火曜日

元気をくれるはがき


いわきの海岸部(豊間=写真)で津波に襲われ、今は内陸部で避難生活をしている知人がいる。私のブログを介して、息子さん(タイにいる)と、知人と、私とがつながっている――そういう実感を持てるのは、知人からときどき、タイ経由の感想をふまえたはがきが舞い込むからだ。

きのう(12月3日)届いたはがきには、家庭菜園で栽培している辛み大根・白菜・普通の大根のこと、タイの息子さんとの電話のやりとり、豊間の私の知人(大工)のことなどがつづられていた。

なかに厳しい体験がつづられてある。いつも魚をぶらさげて届けてくれる隣のおっちゃんがいた。津波が来襲した3・11の翌日。その「おっちゃんは私のすぐ近くで毛布に包まれており、そのそばに二人の警官が。私は遺体の名前をつげて」その場を離れるしかなかった。生き残った知人が身元確認をしたのだ。

それから1年8カ月、そのおっちゃんの奥さんが亡くなり、葬式が12月2日に行われた。はがきには「明日(2日)……葬式です」とあった。読み返すうちに文面がぼやけそうになった。

津波に遭遇した人の心には、今も3・11のできごとが映っている。だから、残った者はちゃんと生きるのだ――不思議なことだが、知人のはがきはいつも私に元気をくれる。

2012年12月3日月曜日

カブトガニ


うまいでも、まずいでもない。ベトナムのハロン湾で食べたカブトガニ=写真=のことだ。それに、日本のカブトガニのことを思い出して、少し罪悪感がはたらく。

9月に仲間と連れ立ってベトナムとカンボジアを旅した。そのことを、何回か書いている。最初の観光地はベトナム北部のハロン湾。「海の桂林」だ。観光船の中でシーフードの昼食になった。

ハロン湾に暮らす水上生活者(漁民)が、魚介類を売るべく小舟で観光船に近づいてきた。カブトガニがあるという。西日本のいくつかの市で天然記念物になっている「生きた化石」だ。日本人の感覚では、食べるのはなぁ――となる。

が、ベトナム、いや東南アジアでは食材の一つなのだろう。仲間が興味を示して、1匹買った。8ドル。1ドル80円だから640円だ。それを船のシェフが調理してくれる。

ゆでたか、いためたかしたのだろう。細かく刻まれたものが出てきた。うーむ、殻ばかりで身が少ない。あとでネットで調べたら、タイでは雌の卵を食べる。すると、これは雄か。

身が少ないから、味もよくわからない。残ったのは「話のタネ」だけだ。カブトガニはどうも日本人の口にはなじまないのではないか、と思った。

「話のタネ」のついで――。ガイドの青年の物言いがおもしろかった。われわれがアルコールを口にする。「飲み放題、払い放題です」。ユーモアのわかるガイドだった。

2012年12月1日土曜日

霜の降りる季節


おととい(11月29日)の早朝、散歩に出たら、北向きの駐車場の車に霜が降りていた。夏井川堤防のシロツメクサも白く霜に覆われていた=写真

6時半過ぎ。海からのぼったばかりの朝日が、橋や家や堤防を水平に照らす。堤防の南側の土手はすでに霜が解けて、草たちがきらきら光っている。日陰の北向きの土手は畑のへりの方が部分的に白い。空気が温められると、こちらの霜も解けて水滴になるのだろう。

散歩の効用はなんだろう。体にいいだけではない。空や山や川や畑や家々を眺めながらも、頭の中ではいろんなことを考えている。考えが整理されること、されなくても道筋が見えてきたりすること。それが大きな効用ではないだろうか。

ルソーの「孤独な散歩者の夢想」ではないが、今、しなくてはならないこと、たとえば年一回、3月発行の雑誌のことなどを考えながら歩く。こうして、ああして。ああして、こうして――そんなときに“初霜”に出合うと、冬の寒さを実感する。「不思議の国のアリス」に登場する白ウサギが思い浮かぶ。

きょうから師走。かつてこの時期、夕刊の正月版づくりに忙殺されたことがある。それを思い出すこのごろ。気ぜわしい。