2012年2月29日水曜日

ナツミカンの木


散歩コースを短縮していつもと違う道を通った。近所は近所だが、散歩道からはずれているために、ふだんはほとんど利用しない。たまに車で通るだけだ。道に沿って兼業農家の家があり、庭先に菜園が広がる。その菜園のへりにナツミカンの木の枝が積み重ねられていた=写真。最近、ご主人が剪定したのだろう。

「ナツミカンの木のある家」である。門のそばにその木が立っている。3年前の初夏、門前にナツミカンの入ったポリバケツが置かれた。わきには「どうぞ自由にお持ち下さい」という札が立てられていた。低気圧でも通過した際に落果したのではなかったか。

ご主人とはPTAで知りあった。聞けば、昔のタイプのナツミカンだ。皮が厚く、酸味が強い。門前にバケツが置かれたとき、何個かもらって食べた。苦く、すっぱかった。

柑橘類は一部を除いて常緑だ。東日本大震災に伴う原発事故では、芽吹き前だった落葉樹は枝・幹と落ち葉に、常緑樹は枝・葉に放射性物質が付着した。

夏井川渓谷の無量庵には道路沿いに立ち木が並ぶ。すぐ上の電線に枝葉が引っかかるので、先日、電力会社から作業を受託した会社の人が剪定の許可を――とやって来た。二つ返事で了承した。常緑のモミのほかはカエデ・梅・クワなどで、きれいに剪定してくれた。放射線量もその分減ったことだろう。

とはいっても、たとえば県営住宅団地にあるケヤキについては、枝・幹に付着した放射性物質が雨のたびに樹皮を伝って根元に流れ落ちるため、だんだん線量が高くなるということが起きている。春に葉っぱをつけていなかったからいい、というものではない。ナツミカンの木の剪定も、枝葉に付着した放射性物質を減らす自衛策でもあったか。

2012年2月28日火曜日

災害復旧作業実施中


朝7時前。車体に「災害復旧作業実施中」と書かれた大型バスが、散歩コースの国道6号・バス停付近に止まっている=写真。運転手のほかに人は乗っていない、原発事故の収束に当たっている人間を送り届けた帰りなのか、それとも迎えに行く途中なのか――ともかくも上り線に止まって時間を調整している、そんな感じだ。

下り線はいわきの北、わが中神谷からざっと40キロ先に福島第一原発がある。そこから半径20キロ圏内は飛行が禁止されていたが、土曜日(2月25日)、これが3キロ圏内に縮小された。そこで早速、テレビ局や新聞・通信社が空撮を試みた。その空撮映像から少し北の状況がわかってきた。

双葉郡、たとえば浪江町の、共同通信による空撮写真(福島民報)。がれきと化した建物、打ち上げられた漁船……。

浪江は原発事故の影響でたちまち「無人地帯」となった。それで、3・11の爪痕がそのまま残っている。3・11からちっとも時間がたっていない。変わっていない。浪江の人は、いや双葉郡の人は胸が張り裂けるような思いでテレビや新聞の空撮映像を見たことだろう。

中間貯蔵施設などを協議する政府と双葉郡内8町村長との意見交換会が中止になった。双葉町長が、報道が先行するようなやり方に政府への強い不信感を募らせ、欠席した。東京新聞によると(フエイスブックでは東京新聞が高い評価を得ている)、こんなことだったらしい。

「中間貯蔵施設建設用地を事故前の地価で取得する方針などの会議内容が事前に報道されたことを欠席理由に挙げ『先祖代々の土地に住めなくなるのは大変重い問題であり、丁寧な話し合いを求めたが、食い違いが出た。信頼関係に問題が生じた』」。なにかおかしな方向に向かいつつあるのだろうか。足並みの乱れは修正されるのだろうか。

そんなあれやこれやに気をもんだりしているうちに、もう3月を迎える。「3・11」が胸の中で点滅し始めたらしい。少し心がざわつくようになった。

2012年2月27日月曜日

震災歌集


コスモス短歌会福島支部の高橋安子さんから、コスモス福島支部歌集『災難を越えて 3・11以降』をいただいた=真。

高橋さんとは前に知人と3人で会食したことがある。その知人とは別の、共通の小名浜の知人の勧めがあって、こちらにまで恵送いただいた。

俳句の震災詠は、浜通り俳句協会が俳誌「浜通り」で特集を続けているので、なじみがある。短歌は新聞歌壇をたまにのぞく程度だから、震災詠を集中して読むのは今度が初めてだ。

「東日本大震災・福島原発事故の人災に遭遇し、身内を、友人を失い、今なお避難生活をしている身内、障害により不自由な生活を送っている友も」いるという。そうした歌友がそれぞれの思いを歌に託し、歌集にまとめた。一読、巧拙を越えて胸に迫るものがある。尋常ならざる体験を、その後の生活の激変を率直に、正直に歌にしているからだろう。

大震災といっても、体験は「一人ひとり」だ。一人ひとりまったく違う。俳句と短歌もまた違う。俳句は17音、世界を詠みきるには短すぎると感じる場合がある。短歌は17音プラス14音の分、内面にまで降り立つことができる。両方を読み比べてそんな感想をいだいた。

1人10首、22人の220首が収められている。A5判50ページ余の小冊子ながら、中身は濃い。粛然として首を垂れる。

津波ゆえ仕事解かれしわが夫よその先その先見えない闇夜(加藤雅江)
桜咲きあんずが咲きて花海棠咲きても気持ちは三月のまま(金成敬子)
いささかはあらむ放射能気にするか 唐黍送らむと子らに訊きたり(齋藤英子)
大震災起きしことなどつゆ知らぬ母の痴呆ぞいとほしむべし(佐々木勢津子)

夕空に虹を見てさえあそこにも放射能少しあるかと思う(高橋節子)
桜に会へず牡丹に友の死に会へず原発の惨われに及びて(高橋安子)
二時間の自宅滞在する中で何よりも先づ位牌を探す(峯岸令子)
父母ねむる故郷に向ひ手を合はす立入禁止の柵の外より(渡部軍治)

2012年2月26日日曜日

あわや孤独死


「いわき市あんしん見守りネットワーク活動事業」の事例発表会で話を聴いた直後に飛び込んできたニュースだ。さいたま市の60代夫婦と長男が餓死?したという。なんてことだ。

そういえば――。東日本大震災の前の昨年1月、豊中市で60代の元資産家姉妹が孤独死をしているのが見つかった。今年1月には札幌市で40代の姉と知的障害の妹が、釧路市で70代の妻と80代の認知症の夫が亡くなっているのが発見された。2月13日には立川市で40代の母親と知的障害のある4歳の子の遺体が見つかった。

わが行政区=写真の奥の方=は?――独り暮らしのお年寄り、あるいは高齢者夫婦がどこにいるかは、区としてもだいたいはわかっている。が、東日本大震災で民生委員が安否確認をし、緊急支援物資を配達するなかで、把握しきれていないお年寄りが何人かいることもわかった。

お年寄りに限らないが、家族、たとえば子どもたちが独立し、パートナーが亡くなって一人になる(孤独)、あるいは周りと接触を拒んで暮らす(孤立)――後者もまた隣人の一人ではあるのだ。

あるところで、大みそかにこんなことがあった。4階建てのアパート1階。ドアに新聞がたまり、回覧板が置いてあった。住んでいるのはお年寄り一人。心配した階上の人が民生委員に連絡した。民生委員からの連絡で少し離れたところに住む子どもさんが来た。合鍵は持っていない。警察を呼んだ。警察の人とは万一「死んでいたとき」の話になった。

入り口とは反対側、部屋のガラス戸にはたまたま鍵がかかっていなかった。警察がそこから部屋に入った。お年寄りは布団の中で、高熱を出してふるえていた。階上の人がピンポンをやっても応答がない。民生委員が行っても同じ。子どもさんが来ても変わらない。応答できる状態ではなかったのだ。

警察はお年寄りが生きていることを確認して去り、代わって子どもさんが救急車を呼んだ。

新聞がたまっていることに気づいた階上の人がいたからこそ、お年寄りは一命を取りとめたといえないか。あのまま高熱を出してふるえていたとしたら……。新聞に「孤独死」の見出しがおどったかもしれない。

2012年2月25日土曜日

リアルタイム線量計


大きさで似ているものはなんだろう、丸ポストか。白い円筒形の「リアルタイム線量計」が福島県内各地に設置された。わが散歩コースにも、最近、夏井川堤防そばの「中神谷公園」にセットされた=写真。常時、数値が表示されている。

文科省のHPや新聞記事などによると、この線量計は太陽光パネルの電力で作動する。保育所・幼稚園・小学校は地上50センチ、中学校・高校・公共施設などは同じく1メートルの放射線量を測定し、内蔵された携帯電話端末で10分ごとに文科省のサーバに送信される。

国の第1次補正予算で600台、第2次補正で2100台、計2700台(25億6千万円)が認められた。いわきには、うち420台が設置された。

文科省のHPを開き、「放射線量モニタリング情報」の<リアルタイム線量測定システム>をクリックすると、すべての測定データが見られる。

まず、いわきのデータを確かめる。孫の通っている保育所0.131マイクロシーベルト/時。次いで、この目で「リアルタイム線量計」を見た草野心平記念文学館0.180、身近な「中神谷公園」0.259。その公園は字名から「前河原公園」とでも言うのかと思っていたが、大字名の公園だった。

ついでだから、わがふるさとの田村市、近辺の小野町、三春町、郡山市、須賀川市、その他県内の全データを見る。

田村市常葉町で最も数値が高いのは、殿上山の頂部にある殿上観光牧場(ムシムシランド)の0.498。その向かい山、鎌倉岳の東に位置する同都路町は平地でも数値が高めに推移している。小野町は低い。会津地方はそれよりさらに低い。

数値に支配されない生き方を選んできたはずが、今は数値を気にしながら暮らす日々。私だけではない。福島県民みんながそうだろう。そうした福島の日常に突如、出現したのが「リアルタイム線量計」だ。あるのが当たり前のような感覚にはなりたくない「異形」の存在ではある。

2012年2月24日金曜日

2月の霧


きのう(2月23日)は天気がゆるやかに変化した。未明にはチッタンチッタンだった雨が、次第にリズミカルになった。朝の散歩は「やめ」にする。傘をさしてまで歩きたくないから。

昼前、夫婦でいわき駅前の「ラトブ」に出かけた。雨は降り続いている。午後1時に東京からやって来る女性とカミサンが会う。こちらは運転手。会う前に昼食をとった。

会う約束をした場所は、「ラトブ」2階にある被災者のための交流スペース「ぶらっと」。女性は大学教員だが、かつてシャプラニールの職員だった。イベントでいわきに来たことがある。カミサンにとっては旧知の人だ。

きょう午後、郡山市で「第3回東日本大震災支援全国ネットワーク(JCN)現地会議in福島」が開かれる。それに参加する前に、カミサンの話を聴きたいということだった。「ラトブ」のコーヒー店でのヒアリングが始まった。窓の外を眺めていると、傘をさしていた人がだんだん少なくなる。3時間のやりとりが終わるころには青空がのぞくようになった。

帰宅してすぐ散歩へ出た。明るい夕空ながら川沿いの丘や建物は霧に包まれていた=写真。風はない。

夜になると風が吹き始めた。山(高気圧)から平地(低気圧)へと流れ下る「天空の川」を思い浮かべる。「激流」というほどではないが、ときどき戸を揺らす。風はきょう未明にも、時折、思い出したようにうなり声をあげた。朝6時すぎ、空は薄青色。雲が急ぎ足で東に向かっている。地上では、風はそよりともしない。これから散歩に出て朝日を浴びる。

2012年2月23日木曜日

テレビドラマ


3・11まで3週間。メディアはこの1年をどう伝えたか――。地域紙に身を置いてきた人間として、全国紙、県紙の表裏2枚、つまり1~4面と裏1~4面の8ページを、そのほかの面は必要なものを切り抜いて――というやり方で保存している。

3・11直後から1カ月間は丸ごと保存した。が、図書館ではないからたちまち場所ふさぎになる。時間の経過とともに保存する量をしぼっている。研究者ではないが、40年近くそこでメシを食ってきた人間の“習い”だ。メディアの今が絶えず気になる。ネットその他でウオッチングもしている。

業界紙に「文化通信」がある。ときどき、いわき民報のHP経由でチェックする。3・11を前に、新聞社を舞台にしたテレビドラマが二つ放送される。「文化通信」によると、こうだ。

3月4日午後7時54分~9時48分、テレビ東京系「明日をあきらめない…がれきの中の新聞社~河北新報のいちばん長い日」が、まず一つ。単行本の『河北新報のいちばん長い日』=写真=が基になっている。

もう一つが、3月6日午後9時~10時48分、日本テレビ系列「3・11その日、石巻で何が起きたのか~6枚の壁新聞」。石巻日日新聞社は停電と浸水で新聞の編集も、印刷もできなくなった。それを手書きの号外に切り替え、「壁新聞」として避難所などに掲示した。地元密着の地域紙として、ともかく新聞発行を続けた。

阪神・淡路大震災から15年の平成22(2010)年1月17日前夜、フジテレビ系列でドラマ「神戸新聞の7日間」が放送された。そのことを思い出した(2010年1月24日付小欄参照)。放送5日前にはハイチ地震が発生した。

新聞社がテレビドラマになる。結構なことだ。が、メディア自身は自分たちの「この1年」をどう総括するのだろう。原発事故が起きたら、記者がいなくなった――福島県・浜通りの大地震・大津波被害はそれでさっぱり報道されなかった、という批判にどうこたえるのだろう。知り合いの元全国紙記者が小さな講演会で痛烈にメディアを批判した。

彼に言われて、3・11にともなう自社の取り組みを自賛する全国紙の社長あいさつをネットで読んだ。末端、いや読者のそばにいるということでは最先端の販売店だが、社長がいうほど機能したか。3・12にわが家に配達されたのは、事前に販売店に届いていた2種類の土曜版だけ。そのあと、しばらく不配が続いた。違和感が残る。

2012年2月22日水曜日

訪れてくれてありがとう


2月11~12日に実施された「Feel!いわき」参加者の一人から、主催者に感想文(詩)が寄せられた。そのコピーが届いた。11日夜の交流会に参加した=写真。そこに、その人が写っているかどうかはわからない。

詩は「画面をとおして見ていた『あの』場所へ行く」という1行から始まる。「第三者意識の僕」はある日、「自分で行っていわきを感じよう」という、ネットのツアー呼びかけを見て即座に手を挙げる。

で、いわきに来る。「海岸そばで初めて僕は『あの』町に降り立った」。コンクリートの基礎の残骸しかないそこで「まぼろしの家族が僕の頭に浮かんできた」。そこにあっただろう家族の日常、つまり当たり前の「そんな人々が暮らしている情景が一気にいくつも立ち上がり、/笑い声や話し声、生活する町の音まで聞こえてきた」。

「ほどなくすると/突然それらの風景はグニャリとゆがみ/想像上の風景が流され始めた」。風景を構成しているいっさいが猛烈な勢いで山の方へ流され、次に引き戻されて「海に深く沈んでいった」。

そのあと意識は「今」に戻る。「僕はたくさんの『この』町に住む人たちの話を聞いた」。3・11に起きたことを歴史の証人として語り続けることを使命と感じる人間、肉親を亡くしたことをさらりと話す人間、結婚が白紙になったことを語る人間……。「もはや『悲しみ』『涙』なんて言葉は軽すぎてみえてくる」

「どの人も僕に同じ言葉をくれた/『この町を訪れてくれてありがとう』/『よかったら、またいらしてください』//あなたたちが大好きな『この』町/僕もそう思えるようになったかというと、それは疑わしい/ただ、そんな『この』町を大好きなあなたたちを好きになったかもしれない」

誰であれ、3・11には全身で向き合わないとはじきかえされる。全霊を傾けないと押しつぶされる。いわきを深く感じたあなたはもう「傍観者」ではない。

2012年2月21日火曜日

ロルカのポスター


日曜日(2月19日)、ポレポレいわきでドキュメンタリー映画「子どもたちの夏 チェルノブイリと福島」を見た。

福島の「子どもたちの夏」は、いわきが舞台。一組の若い母娘を追った。母娘とはラトブ2階にある交流スペース「ぶらっと」で知り合った。生身の母娘と接していたこともあって、子どもを放射能から守ろうとする母親たちの苦悩、行政への不信、模索がよくわかった。5歳の「はるちゃん」の無邪気なふるまいには、時折、笑みがこぼれた。

母親に感想を言うとすれば一つ。子どもは群れて遊びながら育つ。同じ年ごろの子どもと一緒に遊ぶ機会を増やす。いや、それはちゃんとやっていて、映画では紹介されなかっただけかもしれないが――老婆心ながら「たかじい」はそんな思いを抱いた。

映画を見終わったあと、「ぶらっと」に寄ると、スペインのグラナダにすむ草野弥生さん(内郷出身)がご主人のフェデリコさんとやって来た。1月下旬に里帰りをした。前にも「ぶらっと」に寄ってくれたが、そのときはすれ違いだった。

フェデリコさんからスペインの詩人フェデリコ・ガルシア・ロルカ(1898~1936年)のポスターをもらった=写真。昨年の里帰りの際、草野さんとお会いして、ロルカが滞在した家に住んでいることを知った。そのことをブログに書いた(2011年1月21日付)。

ポスターにはロルカと、同じく詩人でノーベル文学賞を受賞したビセンテ・アレクサンドレ(1898~1984年)が写っている。

どんなことが書かれているのだろう。ネットで適当に意味を探ったら、「友情の肖像:ビセンテ・アレクサンドレとフェデリコ・ガルシア・ロルカ」展とでもいうものが、フェンテバケーロスのフデェリコ・ガルシア・ロルカ生家記念館で開かれる――そんな内容の告知ポスターでもあったか。

映画からチェルノブイリと福島(いわき)の子どもの希望が立ち上がり、ポスターから乾いたアンダルシアの風が吹き渡った休日のひととき――。「ぶらっと」はいつにもましてにぎわっていた。

2012年2月20日月曜日

見守りネット


いわき市が進めている「あんしん見守りネットワーク活動事業」の事例発表会が土曜日(2月18日)午前、市文化センターで開かれた。区長さんから声がかかったので、ほかの役員さんとともに参加した。

資料によると――。少子高齢化や地域コミュニティの希薄化に伴い、地域で孤立する高齢者が増えている。このため、高齢者が地域の中で孤立することなく安心して住み続けられるよう地域住民による見守り活動を展開し、高齢者の自立した生活を支えるとともに、地域における助け合いの心を育み、住みよいまちづくりを進める、のが目的だ。

要するに、地域の“見守り力”で高齢者の孤独死を防ごう、ということだろう。平成21年度から23年度までの3年間はモデル事業として実施しており、新年度からは市内全域に事業を拡大することにしている。そのための勉強会でもある。

先行3地区の高齢者見守り隊長が事例を発表した。見守り隊のメンバーは区長(行政嘱託員)、区の役員、老人会代表、婦人会代表、民生委員などで、声かけ活動を通して関係を深め、成果をあげている。3・11後、高齢者への支援物資配付や給水活動などを展開した隊もある。

地域包括支援センターが窓口になる。同センターは、NPO法人地域福祉ネットワークいわきが市から委託を受けて運営している。区の役員として福祉分野の話を初めて聴き、地域包括センターとのかかわりも初めてわかった。「地域ケア」という言葉が少し身近なものになった。

事例発表会を終えて外に出ると、陽光がまぶしかった。美術館のガラス窓に青空が映っていた=写真。宿題の大きさ・重さを思った。

“見守り力”はどうしたら鍛えられるか。まずは高齢者がどこに住んでいるかを把握する。次に高齢者との関係づくりを進める。それとなく声をかけていくには「地区のたより」を発行してじかに手渡すのも有効だとか。自治会による「ケアのジャーナリズム」を実践するときがきたようだ。

2012年2月19日日曜日

春のきざし


「ケンケーン」。きのう(2月18日)の朝、夏井川の堤防を歩いていると、河川敷からキジの鳴き声が聞こえてきた。冬の間は姿を見せても沈黙し、時折、枯れヨシ原の奥で「ゲゴッ」とか「ググッ」とかいった地鳴きを発するだけだったのが、縄張りを宣言する「ケンケーン」に変わった。春がきざしたのだ。

少し行くと、モズが電線に止まっているのが目に留まった。近くにもう1羽。1羽が飛び立つと、もう1羽が後を追った。渡った対岸からさえずりが聞こえる。「キチキチキチ」、合間に「チュチュチュチュチュチュ」。こちらも繁殖行動を開始したのだろうか。

最近、堤防のそばの遊園地に無人式固定型放射線量計(リアルタイム線量計)が設置された。きのうも数値を確かめて歩き出すと、カラスが白い布のようなものを加えてそばの電線に止まった=写真。遊び戯れているだけなのか、それとも巣の材料に使うのにどこからか失敬してきたのか。

鳥たちは早春の光を受けて春機を発動させ始めたようだ。寒暖の波は続いても、季節は一歩前へと向かっている。堤防のへりの梅の木も、例年よりは遅いが一輪、また一輪と花を開き始めた。ずっと上流の夏井川渓谷でもハンノキが赤黒い花穂を垂らしていることだろう。もう春がきたことは、人間以外の生きものはわかっているのだ。

2012年2月18日土曜日

雪だ!


きのう(2月17日)の朝、いわきの平地の人たちは目を見張ったことだろう。向かいの家の屋根に、庭に、車に雪が積もっている=写真。フエイスブックには市内各地の雪の写真が続々とアップされた。リアルタイムでいわきの雪情報が入った。

雪が積もると、決まって思い出すことがある。岩手県出身の男がいわきで画家になった。いわきは、冬は青空続き。雪はめったに降らない。そんないわきになじんだ男が雪の降った日、坂道ですってんころりんとなった。風土に培われた身体感覚を、つまり自分の内にあった雪の文化を失った。そういう意味のことを述懐したものだ。

冬はそんなに雪が積もらないものの、霜焼けができるほど寒い阿武隈高地で生まれ育った人間には、なんとなくわかるつぶやきだった。画家はそのあと病にたおれ、64歳で鬼籍に入った。

今年はこちらがその年齢になる。風土の違いによるすってんころりんが、年齢の違いによるすってんころりんに変わりつつある。そういうイメージが脳裏に浮かぶ。身体が加齢に伴う注意信号を発しているのかもしれない。

水を飲む。むせる。のどの筋肉が衰えたことを自覚する。こたつから立ち上がったときに座布団を踏み外さないように注意する。転んで頭や背・肩・胸をぶったらことだ。サンダルを履くときにもちゃんと足が入るように意識する。転んだら足の指を骨折しかねない。2階から降りるときには必ず手すりをつかむ。前にはなかった注意行動だ。

さて、雪の話に戻れば――。いわきの平地の雪は、春が近づいているシグナルでもある。雪に覆われると放射線量の数値が下がる、といわれている。日が照って車の屋根から雪が消えた昼前、線量計を持って夏井川へ出かけた。

堤防と河川敷のヨシ原で2月5日、野焼きが行われた(これには屈託がある)。雪のない焦げた地面と、うっすら雪の残る地面を測る。雪なし0・67~雪あり0・50マイクロシーベルト/時。はっきりした違いはみられなかった。そばの岸でダンプカーが川砂を運んでいる。そこの川砂は、前に測ったら0・19程度だった。

2012年2月17日金曜日

鎮魂の演奏


アボリジニの楽器で「イダキ」(ディジュリドゥ)という。演奏を聴くのは2度目だ。

12月に東京で「Listen!いわき」が開かれた。前夜、会場設営を終えたあと、ボランティアで参加したTさんが「イダキ」を演奏した。初めて見聞きする楽器だった。スタッフとわれらいわきからの3人だけが聴くぜいたくな演奏会になった。夜更けにはそろって中天の皆既月食を見た。

2度目はいわきで聴いた。「Feel!いわき」が2月11~12日に開かれた。薄磯の民宿「鈴亀」での交流会の席で、Tさんが津波で犠牲になった人たちのために鎮魂の演奏をした=写真

「イダキ」はシロアリが食い散らして中空になったユーカリの木の管楽器だ。唇の振動を管内に反響させ、独特の低音を発生させるという。太鼓のようなリズムを刻んだり、ゆるやかに長く音をのばしたり……と、循環呼吸で絶え間なく演奏を続ける。とにかく腹にずしりと響く。いわきの自然界で一番似ているのはウシガエルの鳴き声(だが、たとえが悪いか)。

Tさんは薬剤師だ。歌手グループ「ケツメイシ」とかかわりがあった。そもそも「ケツメイシ」の名からして薬草の「決明子」に由来する。東京薬科大学出身者がいるということも、Tさんを介して知った。「ケツメイシ」のCDを聴いている者にとっては、うれしい出会いだった。

「鈴亀」から薄磯の海までは、豊間中の体育館と校庭をはさんですぐだ。鎮魂の調べは波紋となって、時折、灯台の光が旋回するほかは闇に塗り込まれた薄磯の地に広がったことだろう。

2012年2月16日木曜日

Feel!いわき


いわきの今をこの目で見て、感じよう――昨年暮れ、東京で開かれた「Listen!いわき」の発展形として2月11~12日、「Feel!いわき」が開かれた。シャプラニールのスタッフを中心とするListenいわき実行委員会が主催した。初日早朝、21人が東京に集結し、午前10時にはいわき入りした。遠くは大阪から参加した人もいるという。

東京でいわきに暮らす人の声を聴いた。次は、いわきに出向いていわきを感じよう、という企画だ。Listenいわきのブログによると、初日は津波に襲われた豊間・薄磯・久之浜などの沿岸部を視察し、2日目は中央台でトチギ環境未来基地主催のプランターづくりに加わり、仮設住宅に住む広野町の人たちと交流した。ラトブの交流スペース「ぶらっと」も訪ねた。

「Listen!いわき」に呼ばれた縁で、夜の交流会にお邪魔した。地元いわきからは元豊間中PTA会長で防犯協会長の鈴木さん、前会長で大工の志賀さんのほか、「ぶらっと」ボランティアで、除染ネットワーク「あいでつつもうプロジェクト」を立ち上げた田中さん、同じボランティアで浪江からいわきに避難している永橋さんも参加した。

一行は薄磯の豊間中体育館裏手にある民宿「鈴亀」に泊まった。そこが交流会の会場。「鈴亀」も津波被害に遭った。災害ボランティアの応援を得て再開にこぎつけたという。

夜の薄磯を訪ねるのは初めてだ。暗い。「鈴亀」には明かりがともっている。その明かりを頼りに進めばいいのだが、道路か家の土台かわからず、なかなかたどり着けない。行ったり来たりしてやっと駐車場に着いた。

「Listen!いわき」に参加した人も何人かいた。真摯に耳を傾ける人たち、という印象があったが、今回もそうだった。話していて心地よくなってくる。慎み深く、考え深い。少数だからこそ濃密な交流ができる。

なかに新聞小説を配信している会社の人がいた。初対面だが、かつていわき民報もその会社から小説を買ったことがある。その人を介して、送られてくるいわき民報を読んでいるという大学院生と話すことができた。東京で話したときには、そんなことまではわからなかった。めぐりめぐって人がつながる妙味を感じた。

地元の鈴木さん、「鈴亀」のご主人のあいさつからは、あらためて津波の過酷さを知った。同じいわき市民でも、津波被災者からじかに話を聴く機会はそうない。地盤が沈下して砂浜が狭くなった。防波堤代わりの土嚢のすぐそばまで波が打ち寄せている=写真。そういうことは見てわかっても、生身の人間が体験したことにはなかなか思いが至らない。

東京の人たちとともに、いわきの人間であるわたしもまた、学ぶことの多い交流会だった。

2012年2月15日水曜日

文芸講演会


このところ催しがめじろ押しだ。公民館まつりが開かれる。ミニミニリレー講演会で知人が話す。若い人から映画会の誘いがくる。地域学會の市民講座と役員会がある。年度末、いや3・11に近づいているからだろう。なんとなくあわただしい日々を送っているところへ、文芸講演会の案内がきた。

いわき市立草野心平記念文学館で日曜日(2月12日)、詩人・映画監督の福間健二さんが「詩を書くことと生きること」と題して講演した。福間さんは1949年生まれの団塊世代だ。同じ時代の空気を吸った人間の話を聴いているうちに、オレにもセイシュンというものがあったっけ、なんて感傷的な気分になった。

福間さんは現代詩との出合いや、専門のイギリス現代詩のこと、1960年代から現在までのことを、さまざまな詩人に言及しながら語った。

1960年代は音楽・映画・文学などに新しい動きがみられた。生きること、考えることとつながったビートルズやローリングストーンズのような音楽があらわれる。それまでの映画の語り方とは違った映画も生まれる。そしてそのころ、現代詩に出合うことは思想に出合うことでもあった――という話に、1960年代の極私的な記憶がよみがえった。

理解しえたかどうかはさておき、20歳前後に手にした詩集・思想書・評論集は少なくない。映画もよく見た。楽器もいじった。福間さんが挙げた詩人の作品はあらかた目を通した。吉本隆明、ロラン・バルトも歯が立たなかったが、かじった。

そこへいく前、17歳のころにフィリップ・ソレルス、ナタリー・サロート、ロブ・グリエといったフランスのアンチロマン(反小説)をゾクゾクしながら読んだ。「現実に堪えられない思想はだめである」。三木卓の詩の1行を信条としているのも、そのころのセイシュンの結果にほかならない。

そんなセイシュンはおいといて、今は――。「詩はつらい境遇にある者を支えるためだけにあるのではない。楽しい日常の一歩先にも詩がある。他者と生きるからこそ言葉が大事になる」。3・11後の現在に重ねて、福間さんはそうしめくくった。

半世紀近く詩を読んできた、読むことを捨てずにきてよかったと、セイシュンの余韻にひたって文学館をあとにしたら、園庭に無人式固定型放射線量計(リアルタイム線量計)がセットされているのが目に入った=写真

セイシュンに酔う内部の現実のほかに、放射能を浴びる外部の現実がある。それを数値化したのが線量計だ。福島の人間はこの現実に向き合って日常を“再構築”しているのだ、という思いに立ち戻った。

2012年2月14日火曜日

餓鬼堂横穴群


平・薄磯地区は3・11の大津波で壊滅的な被害を受けた。死者・行方不明者も126人と、いわきで一番多い。その海岸の北端、字北ノ作の海食崖に「餓鬼堂横穴群」=写真=がある。近くには小さなやしろの「安波(あんば)大杉神社」も鎮座する。やしろは無事だった。

いわきの浜は、崖と砂浜が連続している。「いわき七浜」はそういう地形的な特色を伝える呼び名で、浜がたくさん(七つ以上)あることを意味する。

「餓鬼堂横穴群」は今も発掘調査の過程にあって、3・11のときには6次調査が終わったばかりだった。第7次の平成23年度も12月5日から今年の1月18日まで調査が行われた。その発掘速報展がいわき市考古資料館で開かれている。

これまでに調べた横穴は31基で、①鉄製武具や馬具・工具、勾玉(まがたま)・ガラス製小玉などの副葬品②土器・人骨③家形構造を持つ装飾横穴――などが発見された。

この崖では県営の治山事業が行われている。調査は記録保存が目的だ。調査が終わったところから型枠をつないだ防壁工事が行われる。

3・11のときに「横穴に駆け上がって助かった人がいる」という話を聞いた。あの急斜面を? 事情をよく知る薄磯の人が教えてくれた。

3・11にはまだ発掘調査のための仮設階段・足場が残っていたらしい。そこへ孫を抱えた男性が駆け上がった。津波が押し寄せた。人が流されていく。右腕に孫を抱え、左手は手すりを握っているので、助けようにも助けられなかった――そういう話だった。

とっさの判断が生死を分けた。これからぽっかり穴のあいた崖を眺めるたびに、そのことを思い起こすのだろう。

2012年2月13日月曜日

3極3層


2月10日夜、いわきの街(平)に雪が降った。山も、と思った。が翌朝、いつものコースを散歩したら、遠く見える水石山の山頂に雪がなかった。

11日付小欄に夏井川渓谷も雪に見舞われただろう、ということを書いた。きのう(2月12日)、無量庵へ出かけたら、道路に雪はない。道端の残雪もあらかたとけていた。どうやら10日夜には、雪は降らなかったようだ。

「広域都市」いわきのわかりにくさがここにある。雪が降ったとしても、いわきのすべてが銀世界になるわけではない。

何度も言っていることだが、いわきはハマ・マチ・ヤマの三層構造だ。大震災の影響もハマ・マチ・ヤマで異なる。プラス流域。いわきは北から夏井川(北部)・藤原川(中部)・鮫川(南部)の三つの流域に分かれる。そこに人口が密集した平・小名浜・勿来の三極がある。

いわきは「3極3層」。そう見るとわかりやすい(久之浜の大久川流域をないがしろにしているわけではないが)。

3・11にハマは大津波で壊滅的な被害に遭った。4・11には南部のヤマが動いて大きな打撃を受けた。マチだけ見れば、大震災といっても軽微ではないか――そういう印象を受ける旅人もいるだろう。

その南部のヤマに住む知人の話によると、南部のヤマは場所によって5~2メートルの段差が生じた。3・11の巨大地震が、「せめぎ合う」関係(逆断層)を「引っ張り合う」関係(正断層)に変えた。要は、3・11で地盤が沈下したことによる“後遺症”が大きな段差・亀裂を生んだ。

地下水脈がずれた、井戸水が枯れた――という話は、南部のヤマに多い。北部のヤマも無縁ではない。たとえば、二ツ箭山の中腹。それまであった湧水が枯れ、その下部から水が出るようになった、という話を3・11後に聞いた。無量庵は同じ北部にあるが、水脈がずれることはなかった。

2月10日夜の雪の話に戻る。春になると、いわきの平地はときどき雪に見舞われる。南岸低気圧が本州を通過するとき、オホーツク海の方から寒気が吹き込んで雪になる。春の雪だった。

雪を警戒しながら出かけた夏井川渓谷だが、籠場の滝のしぶき氷はうっすらとあるだけ。無量庵の対岸の木守の滝もずいぶん氷がとけていた=写真。「寒さの冬」はピークを過ぎたようだ。

2012年2月12日日曜日

どこへ飛んでいく?


新舞子海岸からの帰り、夏井川右岸の堤防で前方上空を渡るハクチョウを見た=写真。等間隔に5羽、少し離れて1羽、計6羽の群れだ。朝8時。どこへ行くのだろう。楢葉の大堤だろうか。

毎朝7時前、Mさん夫妻が平・塩地内の夏井川でハクチョウにえさをやる。そのころからしばらくの時間、ハクチョウたちが神谷の上空を行き来する。日中は河口部その他にちらばって休むグループが多いのだ。

その一群だろう。大きな風景のなかを群れ飛んでいく――偶然めぐってきたシャッターチャンスだった。後ろにそびえる三角形の山は三森山(みつもりやま=大久)。

ハクチョウは体が大きいから目につきやすい。人間に慣れているので、写真にも撮りやすい。冬鳥の代表格だ。が、ほんとうは庭に来る冬鳥を写真に撮りたい。たとえば、ジョウビタキ、ツグミ。

鳥の姿を頭のスクリーンに映しながら、はたと思った。この冬はまだツグミを見ていないぞ。その翌日だった、夏井川の堤防でツグミと出合ったのは。

ある新聞記事が目に留まった。「鳥の数が減少 第一原発周辺/放射性物質影響調査 寿命短く、生殖能力低下」。2月3日付の英紙インディペンデントに載った記事の要約を、共同通信がロンドン発で伝えている。

「日米などの研究チーム」の調査によって、チェルノブイリ原発周辺より「福島の方が生息数への影響が大きく、寿命が短くなったり、オスの生殖能力が低下したりしていることが確認されたほか、脳の小さい個体が発見された」。DNAの変異の割合が上昇、昆虫の生存期間が大きく減少するなどの影響も見られた、という。

いつ、どういうふうに調べたのかは書かれていない。が、3・11からまだ11カ月。鳥の交尾・産卵・孵化は基本的に一回きりだろう。なのに、随分詳細な知見が得られたものだ。寿命が短くなった? 昆虫の生存期間が大きく減少した? 調査が始まったばかりでそこまでわかるものなのか。ネット上にも疑問の声が上がっている。

長年調査が続けられているチェルノブイリ原発の周辺なら、ほかの地区と比較してそういうふうになるかと納得もするが、福島での初の調査にしてはいろんなことがわかりすぎる。それほど急激に甚大な影響がおきた、ということなのか。誤報、いや特派員が英紙を誤読した可能性はないのか。しばらく頭の隅において探り続けようと思う。

2012年2月11日土曜日

街にも雪が


昨夜(2月10日)は驚いた。いわき芸術文化交流館「アリオス」を出ると、ぼたん雪が降っていた。山間部はともかく、いわきの街に雪が降るのは珍しい。あわててあしたの予定を思い浮かべた。

プロジェクトHUKUSHIMA!IWAKI!!が上映会とトークショーを開いた。ハワイに住む日系人が、福島出身の曽祖父が運んだ太鼓を受け継ぎ、マウイ太鼓クラブを結成した。その活動を追ったドキュメンタリー映画だ。タイトルは「100年の鼓動――ハワイに渡った福島太鼓」。

ラトブ2階にある交流スペース「ぶらっと」のスタッフ・ボランティアが受付の手伝いをした。プロジェクトHUKUSHIMA!IWAKI!!のメンバーとも先日会って、新しいつながりができた。見ることでプロジェクトの活動を支援することになる、と思って出かけた。

トークショーではハワイのこと、「ボンダンス」(盆踊り)のこと、福島・いわき・ハワイアンズのことなどが語られた。

ハワイの日系人社会では7~8月の週末、場所を変えながら「ボンダンス」が行われる。太鼓クラブはマウイの「ボンダンス」に欠かせない存在だ。福島では失われてしまった「盆踊り」の“古形”が、先祖への敬愛が望郷とともにハワイに残り、ハワイのフラダンスがいわきに根づいたという不思議な因縁を思った。

昨年の夏、福島の高校生がマウイに招待され、ホームステイをして心身をいやした。映画に出てきた太鼓クラブとも交流した。そんな話が客席から出た。

トークショーが終わったのは午後9時前。雪がいつ降り出したかはわからないが、公園の芝生はすっかり白くなっていた。夜更けにはやんだ。とはいえ、山間部へは車を出せない。夏井川渓谷も銀世界だろう。雪上の足跡(たぶんタヌキ)=写真=も雪に埋まり、しかし今朝は新しい足跡ができたことだろう。

2012年2月10日金曜日

「予約済」


わが家から国道6号をはさんで広がる住宅地の先に夏井川がある。堤防に出て、ただただ川を眺め、空を仰ぐために散歩する。メタボ対策を兼ねる。昨年の3月こそ中断したものの、今も続く日課だ。

一周ざっと40分。旧国道に沿って商店街と県営住宅団地をかすめ、戸建て住宅地を抜けて国道6号を渡ると、すぐ堤防だ。ここを15分ほど歩いて住宅地に入り、国道を渡って家に戻る。

毎日、“定線観測”をしていると見えることがある。双葉郡から避難して来た人が増えた。わが家(米屋)にそういう人が来る。散歩コース沿いの戸建て空き住宅やアパートがふさがり、双葉郡の人が経営するお好み焼き屋がオープンした。

もう既存のアパートは空きがないのだろう。道路沿いの駐車場で工事が始まったと思ったら、たちまちアパートが建った。各部屋のガラス窓にはすべて「予約済」のステッカーが張られてある=真。

被災家屋の解体と建て替え、そしてアパートの新築と、いわきでは宅建業界が大忙し、なのではないか。住宅に関して言えば、解体と建設が同時進行的に行われている。

道路向かいの家並みの裏に水田がある。一部が埋め立てられ、アパート建築が行われているというので、見に行った。2棟とも「満室御礼」の看板が立っていた。

2012年2月9日木曜日

猫3+1匹


猫が3匹、石油ストーブと石油ヒーターの前にいる=写真。ストーブもヒーターも火がついている。ふすまを取り払った6畳プラス4畳半の居間は、電気ごたつだけでは間に合わない。

正確にいうと、電気ごたつは使っていない。やぐらの裏全体に電熱線が張り巡らされている。この熱が人間の足を、中にしのびこんだ猫を温める、だけならいい。上のテーブルにまで熱が伝わる。冬でも刺し身を食べたい人間には、「なんだい、このこたつは」となる。アイスクリームもすぐとける。

安物買いの銭失いとはこのことだった。で、こたつはオフにしたまま、床に電気カーペットを敷いてこたつの中を温めている。こたつそのものは昼の仕事机、夜の食卓だ。

そんなこたつにもぐりこんでいるからか、猫どもはときどきこたつの外に出る。出れば今度はストーブかヒーターの前で暖をとる。3匹がそろってそうしているのは珍しい。

(いわきは今が寒さのピークだ。屋外にある水道管は、朝のうち水が出ないときがある。2月4日にはお湯が出なくて朝風呂をあきらめた。例年になく寒い。だからだが、灯油の減り方が早い。仮設住宅や民間借り上げ住宅ではどうだろう。事情はもっと厳しいかもしれない)

猫は、写真の奥の茶トラが最古参の雄。老衰が進行している。右目が白くなった。真ん中はターキッシュアンゴラ系の雌。どういうわけか、食べては吐く、を繰り返している。手前が若い茶トラの雄。あちこちににおいづけをする。おかしな猫ばかりだ。

猫の雄同士の関係は――。おととしまでは、若い茶トラが古株茶トラに威嚇され、小さくなっていた。今は対等の関係だ。それでスリーショットが実現した。このほかに、縁側で日向ぼっこをするノラがいる。カミサンと義弟がえさをやる。家猫以上に太っている。

私は、「猫は飼っても1匹だけ」派。それ以外、カミサン、カミサンのきょうだい、わがせがれたちは猫かわいがりをするほうなので、際限がない。内にも外にも猫がいるという状況では、ときにかんしゃくを起こさないことには心のバランスが保てない。

このくそ寒いときに若い茶トラが居間のガラス戸を開けて外へ行く。寒気が入り込む。「ケツヌケめ、開けたら閉めろ」と怒ってもしようがないのだが、やはり腹が立つ。

で、お仕置きのためにときどき、かぎをかけて入って来られないようにする。と、猫がガラス戸をカリカリやる。カミサンが気づく。猫になりかわって逆襲が始まる。「あんたも酒を飲みに行って遅くなったときに、かぎをかけて入れないようにしてやるから」

きのう(2月8日)は縁側で日向ぼっこをしていたノラを追っ払い、白菜を干した。夕方にはカメに漬け込んだ。なにがあってもきょうは白菜を漬ける――朝の決心が夕方には安心に変わった。そんなときには猫もかわいいい生きものに見える。

2012年2月8日水曜日

孫との会話


土曜日(2月4日)の午後に上の孫をあずかった。カミサンは出かけていない。4歳10カ月。それなりに会話ができるようになった。「ジイジのちんちん」はともかく、「バアバのちんちん」などとわかったような、わからないようなことも口にする。そういう下ネタっぽいことまでいえるほど、脳みそがそだってきたのだろう。

2階に父親が子どものころつくったガンダムのプラモデルが置いてある。父親から教えられてすっかりガンダムにはまった孫は、わが家に来るとすぐ私の手を引っ張って2階に上がる。押し入れや天袋、本棚の上と、次々に場所を変えて、ガンダムの入った箱を取ってくれとせがむ。――はいはい、わかった、わかった。

7箱ぐらいずつテープでしばってある。それを取りだし、テープをはずしてやると、次から次に箱をあけてひっくり返す。それをまた箱に戻して片づけるのがこちらの仕事だ。賽の河原の石積みと同じで、まったくいやになる。

箱の中には完成して壊れかけたもの、途中までつくったもの、まだつくってないもの……と、いろいろな姿のガンダムが入っている。結局、自分の気に入ったガンダムはない。わかっているはずだが、わが家に来れば「ガンダムあさり」を必ずする。やめてくれ!

久之浜にもう一組のジイバアがいる。久之浜は3・11に、地震・津波・火災に見舞われた=写真。一部、原発から30キロ圏内に入るため、自主避難も余儀なくされた。すぐには安否がわからなかった。

ガンダムをいじりながらの、孫の問わず語り。「ツナミが来てカジになったけど、久之浜ジイジのおうちはダイジョウブだったの」

幼い子の口から「ツナミ」「カジ」ということばが出たことにハッとする。津波の実体も、火事の実体も、見てないからイメージできるはずはない。が、周りの人間、あるいはテレビから、「ツナミ」というものが来た、「カジ」というものが発生した、それで家々がなくなった、ということはわかるのだろう。

更地になった被災地をちょくちょく見ていれば、その光景がほぼ5歳児の“原風景”になっていく。“原風景”をつくったものは「ツナミ」であり、「カジ」である。もう少し大きくなって、写真集や動画を見るようになると、被災状況が頭に入る。するとそれがまた“原風景”に刷り込まれて、直接体験したような“幻風景”になる。

「ゲンパツ」だとか「ホウシャノウ」だとかいうことばも、そのうち使うようになるに違いない。すると、やはり”幻風景”のなかに福島第一原発の建屋爆発のテレビ映像が加わり、ほんとうに見たような記憶が形成されるだろう。

「原発震災」はおとなだってイメージできない。でも、孫たちは空前絶後の体験を記憶化せざるを得ないのだ。ガンダムだったら何とかしてくれるかもしれないが、こちらは人間、できることは限られている。そこがつらい。

2012年2月7日火曜日

三角倉庫


小名浜の寺の観音祭でシャプラニールの「お出かけバザー」をやったカミサンを拾い、いわき市観光物産センター「いわき・ら・ら・ミュウ」でラーメンを食べた。3・11で被災し、11月下旬に再オープンしてから初めて立ち寄った。

1月中旬のことだ。結構、人が出ていた。なかでも東北最大級というこどもの室内遊び場は、時間待ちが必要なほどの人気だった。

3・11に「アクアマリンふくしま」も、「ら・ら・ミュウ」も、その間にある三角倉庫の「小名浜美食ホテル」も、大津波に襲われた。立ち入り禁止になっている別の三角倉庫の壁面を見て驚いた=写真。ひさしの下まで“棒グラフ”ができている。そこまで津波がきたのか――あとで『いわきの記憶』で確かめなくては。

『いわきの記憶』は、正確には<東日本大震災特別報道写真集『3・11あの日を忘れない いわきの記憶』(いわき民報社発行)である。増刷に増刷を重ねたいわきのベストセラーだ。

写真集の表紙には、小名浜港のアクアマリンパークに駐車していた車が津波に翻弄される写真が使われた。立ち入り禁止になった三角倉庫が写っている。本文中の写真、大震災を告げる3月12日付の紙面(1面)に写る「小名浜美食ホテル」の写真をチェックしても、壁面に津波の痕跡は認められない。

となると、津波の痕跡かどうかはわからない。長年の雨だれによるシミかもしれないし、ただのごみやほこりかもしれない。誰かに聞けばわかることだが、ここは早とちりをしないで、あるがままに見ておくだけにしよう。情報に対しては皮膚で反応せず、骨に届くまで待つ。発信も、受信も慎重であれ――という戒めの声にしたがって。

2012年2月6日月曜日

公民館まつり


神谷公民館まつりがきのう(2月5日)開かれた。実行委員会を構成する組織の一員(代役だったが)なので、役割を与えられた。駐車場誘導係である。快晴無風。朝から昼まで外にいたが、寒さは気にならなかった。

例年、公民館まつりは10月に開催される。今年度は東日本大震災と原発事故の影響で2月にずれ込み、内容も縮小して2日間から1日だけの開催となった。

1階和室では俳句・生け花・絵画・ちぎり絵のサークル、「三原色で絵を描こう~秋冬編~」の後期市民講座受講生の水彩画が展示された。2階講堂では大正琴・ハーモニカ・歌謡舞踊・スポーツ民踊・カラオケ・日舞・フラダンス・コーラス・ジャズハワイアンといったサークルの芸能発表が行われた。

玄関フロアと階段壁面では管内にある幼稚園児の絵、養護学校生徒の切り絵、住民が撮影した写真「自然の中で見つけたおもしろ顔、珍しい雲形」などが展示された。

車の誘導が一段落した正午前、芸能発表が行われている講堂をのぞいた。最後のグループ「ジャズハワイアン愛好会」が華麗な演奏を繰り広げていた=写真

演奏する人、演奏を聴く人。作品を発表する人、見る人。いずれも地域の住民である。地域の住民でなくても、公民館の利用者である。

「うまい・へた」はもちろんあるだろう。でも、それを越えて“隣人”の表現を知り、感心し、拍手をおくる。公民館まつりとはそういう機会・場なのだ。なんであれ、趣味を楽しむシルバー世代がたくさんいるというだけで気持ちが明るくなる。そのカルチャーセンターが公民館なのだということを、あらためて知る。

車を2列に駐車させたスペースがあり、前にするか後にするかでオジサンが若い女性に激高する場面があったが、それも含めて得難い経験となった。

2012年2月5日日曜日

「半壊」判定


昨秋、屋根の瓦が1枚割れ、コンクリートの基礎に亀裂が入っている話を書いたら、匿名さんから「被災申請を出して判定を受けてください」というありがたいコメントをいただいた。

それにしたがって「り災照明」の申請をしたら、いわき市から人が調査に来た。母屋は「一部損壊」、離れは「半壊」の判定だった。その後、わが家に遊びに来た建築のプロたちに話すと、「再申請をしたら」という。不服申し立てである。先日、東京から応援に来ている公務員氏と判定員の建築士2人の計3人が再調査にやって来た。

水平・垂直を測る道具を使い、家の内外をこまかく見たあと、目の前でマニュアル化されたチェック項目に点数を書きこんだ。「半壊」の判定だった。匿名さんからいただいたコメント通りになった。匿名さんのアドバイスがなかったら、そのままにしておいたことだろう。あらためて感謝申し上げる。

判定した建築士さんの話では、基礎のコンクリートが割れて家の北西側が少し沈んだ。それで2階北側の床が2センチ近く下がったために、壁と梁との間にすきまができた=写真。道路に面した北側1階の床にボールを置くと、コロコロ転がっていく。推測していたとおりの結果になった。

台所の外壁、戸のすきまなど、専門家に指摘されるまで知らなかった亀裂、ひずみもある。「土台は50万円くらいで直るんですかね」の問いに、建築士さんは首を横に振った。いやはやである。

「半壊」の証明書が出るのはざっと3週間後。応援の公務員氏は支援・減免など利用できる制度の説明をする一方で、「一部損壊」の証明書を持ち帰った。ここはありがたく制度を利用させていただくことにする。夜、疑似孫の父親に電話で点数を告げたら「大規模半壊に近い半壊ですよ、それは」ということだった。思っていた以上に家は傷んでいた。

2012年2月4日土曜日

立春


冬至からおよそ1カ月半。朝6時すぎには空がしらみはじめるようになった。ちょうど散歩の時間に太陽が顔を出す=写真。日が暮れるのも、ひところよりはずいぶん遅い。きょう(2月4日)は立春。きのうは節分で「福は内、鬼は外」をやった。まさに「一陽来復」を実感できる季節を迎えた

昨夜、いわきの人間は「なぜ恵方巻きを食べなくちゃならないの」と言いながら、予約先から家人が買って来た「のり巻き」を食べたことだろう。いわきで節分に恵方巻きを食べるのは最近の現象にすぎない。

「恵方巻き」を食べてわかったことがある。「恵方巻き」は、仕かける側があったにしても、仕かけられる側の主婦がそれにのったのだ。節分にかこつけて手抜きができる――そういうことだというと、そばにいる人間が怒る。手抜きが、やがて家の、周りの、地域の習慣になる。

ま、それはおいといて。この時期、いわきの人間が気になってしかたがないことがある。田中直紀参院議員が防衛大臣になってから、国会中継を見るようになった。失言・妄言を期待してのことではない。そうならないよう、いわきの人間として祈り、応援したいからだ。

田中大臣は、今でこそ新潟選挙区選出の参院議員だが、前はいわき市を主な票田とする旧福島3区選出の自民党衆院議員だった。中選挙区時代で、1983年から1996年までの13年間、福島の浜通りを選挙区として国政に携わった。落選したらいつの間にかいわきから姿を消し、参院選に新潟選挙区から出馬して当選し、夫婦で民主党に入った。

実父は相馬出身の内務官僚・衆院議員鈴木直人、岳父は田中角栄。「親の七光」を生かして国会議員になる。「七光」は有力な武器だ。それを使って、親と違う自分を生きればいい。が、それができなかったのだろう。

かつての支持者の反応は? 大臣就任を喜んでいる? ハラハラしながら見守っている? たぶん後者にちがいない。その表情、言葉、動作、とにかく心配させるキャラクターではある。

私は支持者でもなんでもないが、かつて浜通りの人間が田中さんを代議士に選んだ、その結果として今の田中さんがある、そういう田中さんを育ててしまった、と自分を責めないわけにはいかない。田中さんは今、国会という修羅の場にいる。立春どころではない。辞めないでね

2012年2月3日金曜日

常陽藝文


企業が出している、要チェックの文化情報誌がある。身近なところでは、東北電力の「白い国の詩」、常陽銀行の「常陽藝文」だ。「白い国の詩」は3・11後、発行が休止された。雑誌を出すどころではなくなったのだろうが、月刊誌時代から愛読していた身としてはいささかさびしいものがある。

一方の「常陽藝文」は健在だ。年金が振り込まれるわが家の“メーンバンク”なので、平支店へ行くたびにロビーにある「見本」を手に取る。

2012年1月号=写真=は、巻頭特集の<藝文風土記>が「詩人・大関五郎の足跡をたどる 水戸市、大洗町、鉾田市ほか」。大関五郎は山村暮鳥の有力な支援者の一人。野口雨情ともつながりがある。少しでも人となりを知りたい人間には、のどから手が出る「資料」だ。

手元に置きたい。1月中旬、窓口の女子行員を介して1月号が余っていないか聞いた。「余分にはない」という答えだった。

2月1日。どうしても我慢ができなくて、再度申し出た。「コピーだけでもいい。すぐ戻すので、借りることはできないか」。後ろのデスクにいる先輩行員となにやら相談していると、1人が奥へ行って「1冊ありました」と持って来てくれた。

受け取るやいなや、「ありがとうございます」と言って銀行をあとにした。それから、はたと気がついた。当然のようにもらってきたが、それでよかったのかどうか。

すでに2月号が出たとはいえ、「定価250円」のバックナンバーであることに変わりはない。うれしくなって我を忘れてしまった――といえばその通りだが、ここは常陽さんにググッとさがって、おすわりして感謝するしかない。きちんといわきから大関五郎を読み解きますから、と。

2012年2月2日木曜日

不法投棄


「ここにガレキ・ゴミを捨てないでください 福島県」=写真。新舞子海岸(夏井川河口付近)の黒松林の中を走る道路に看板が立っている。いつから立っているのだろう。昨年8月中旬、夏井川河口にかかる磐城舞子橋を見に行ったときには、橋はまだ通れず、立て看もなかった(「昨年」と書かなくてはならないことがちょっと切ない)。

3・11の大地震で地盤が沈下し、磐城舞子橋と道路の間に段差ができた。8月中旬以降、応急工事がなされ、通行が再開された。9月早々には橋を通ったという話がネット上にあらわれたから、立て看が設けられたのはそのあとだろう。

新舞子の黒松林は防風と防潮を兼ねる。3・11に大津波をかぶりながらも、その勢いをそいでくれた。海水をかぶって根腐れをおこしたのか、茶髪になった木もあるが、おおかたはまだ原状を維持している。

3・11でいったんは抜けた夏井川の河口も、再び砂で閉塞した。横川を逆流して仁井田川から太平洋へ注いでいる。河口を開こうという県いわき建設事務所の試みは、今のところすべて無効だ。

それはさておき――。黒松林に放射線量の高いところがあるという話を聞いた。県が設置した立て看と関連があるのではないか。しばらく気になっていたので、きのう(2月1日)朝、思い切って河口へ出かけた。

車で夏井川の堤防を行く。ラジコン飛行場の手前で川面が凍っていた。ガラスのように透明だから、さわれば割れるだろう。でも、随分久しぶりに両岸まで氷が張っているのを見た。その下流、ハクチョウが6羽、8羽、9羽と小グループになって羽を休めている。マガモたちも寄り集まっている。ウミウがその間でさかんに潜水を繰り返していた。

河口左岸の一角に足を運び、不法投棄された「ガレキ・ゴミ」を見る。焼却灰、空き瓶、コンクリートがら、テレビ、廃材……。家庭から出たと思われるもの、業者が捨てたと思われるものが交じっている。焼却灰は毎時1・16マイクロシーベルトだった。これだけが群を抜いて高かった。

東日本大震災時に騒動も略奪もおきなかった。日本人の我慢強さ、忍耐力、助け合い・思いやりの精神に敬意を表する――といった称賛の声が世界から寄せられた。光と陰で言えば、日本人の光の部分が際立った。

しかし、光が際立てば闇もまた際立つ。住民が原発避難を余儀なくされた双葉郡内での空き巣の発生件数。報道によれば、2010年は1年間でわずか20件だったのが、2011年には594件と約30倍に急増した。広野町の知人も被害に遭った。

大災害だからこそ人々が助け合う一方で、人の不幸につけこむ人間も、散っていたクモの子が元に戻るように現れた、ということをこの数字は示す。海岸林の不法投棄も「自分さえよければ」の風潮が広がっていることを浮き彫りにする。光だけ見ているわけにはいかない。

2012年2月1日水曜日

木守の滝の氷


夏井川渓谷の右岸、北向き斜面に「木守の滝」がある。渓谷の野草を調べた知人が命名した。なるほどその通りなので、この滝を語る際には「木守の滝」と言うことにしている。

木々が葉を落とした今、無量庵の庭からでも滝の様子がわかる。全面凍結をするところまではまだいっていない。しかし、しぶき氷が成長しつつあるようだ。無量庵の室温、氷点下5度。外気温は推して知るべし(北にある原発も厳しい寒気にさらされている)。

水力発電所のつり橋を渡って「木守の滝」と対面する。高さはざっと10メートル。両側にしぶき氷が張りつき、氷柱が伸びて、下部ではこぶ状のかたまりがいくつもできていた=写真。しぶきを浴びながらアイスピックでこぶ状の氷をかちわり、ポリ袋に詰める。これを6月末まで5カ月間、無量庵の冷蔵庫に眠らせておくのだ。

夏井川渓谷は今が極寒期。北向きの斜面と巡視路に雪が残っている。畑の表土が凍り、霜柱が立っている。雪上にはけものの足跡。タヌキだろうか、テンだろうか。霜柱を踏み、足跡をウオッチングする。

極寒期には極寒期の楽しみがある。しぶき氷の採取もその一つ。夏、「氷室開き」に合わせて冷凍室からしぶき氷を取り出し、オンザロックにして自然の恵みに感謝する――。昨年までは単純にこれを楽しむことができた。

今年も極寒期の習いでしぶき氷を取ったが、心から喜べないものがある。岩に張りついてふくらんだ氷にコケがついている。コケはけずり落とす。要するに、放射能問題が頭から離れない。

でも、オンザロックはやりたい。少々複雑な気持ちになってしぶき氷を持ち帰ったのだった。どんな状況にあっても楽しみを見いだせ――先人の教えが前へ進む力になる。