2012年9月30日日曜日

かべや百景


散歩には必ずデジカメを携帯する。車で移動するときにもカメラを忘れない。「へたなカメラも数撮りゃ当たる」と思っている。が、問屋はそう簡単には卸してくれない。

散歩は、神谷(かべや)の夏井川が主だ。日ごと、月ごと、季節ごと、もっといえば一日の朝夕で変化する自然の表情、人間の営みに反応してシャッターを押す。押したなかで気に入った一枚を選べと言われたら、対岸の專称寺をバックに春雪のなかを飛ぶハクチョウだろう=写真

大きく引き伸ばしたらピンボケがあらわになる。が、「記録写真」としてなら許される大きさがあるはずだ――なんてことを考えたのは、区長さんから電話があったからだ。

地元の公民館のまつりが間もなく開かれる。写真による「かべや百景」(あるいは「神谷百景」)展のようなものを企画したらしい。直近の回覧に作品募集のチラシが入ったが、見すごした。これに何点か出品してはどうか、ということだった。

小学校でいえば一学区にすっぽり収まる、限られた地域の百景展だ。地元のいいところを再発見しよう――そういう趣旨だろう。いいところ、いいものは人によって異なる、時間や季節によっても異なる。自然と人間の営みを写しとった「神谷歳時記」のような写真展になると面白い。

2012年9月29日土曜日

イノシシ出没


夏井川渓谷の牛小川は戸数10軒ほどの小集落だ。JR磐越東線に沿って幹線道路兼生活道路の県道小野四倉線が集落を貫く。無量庵はその県道沿いにある。木曜日(9月27日)に出かけたら、道路をはさんだ真向かいの土手が穴だらけになっていた=写真。丸い足跡があった。イノシシだ。

もともとイノシシが生息している山里ではある。森を巡れば、黒い碁石を大きくしたようなイノシシの糞に出合う。ミミズを求めて腐葉土をラッセルしたあともよく見かける。が、これだけ大きなラッセル痕は、春に江田の踏切近くで見て以来だ。もっとも江田の方は道路ののり面全体が穴だらけになっていた。被害範囲としては牛小川の4~5倍はあったろう。

イノシシは無量庵の庭に現れることもある。4年前には菜園の隅の土手がかなりほじくりかえされた。作物に被害はなかったが、近所ではジャガイモ畑が荒らされた。それで、侵入防止用のネットを高く張ったが、効果はどうだったか。

9月上旬に、牛小川から山を越えて三和町の直売所を訪ねた。店のオバサンとのやりとりを思い出した。「トラクターを動かしているそばで、イノシシが稲の穂を食べていんだって。そのうち、田んぼの真ん中でのたばり出したもんだから、トウチャン、頭にきた」

そこまでイノシシが人を恐れなくなったのにはわけがある。放射性セシウムが検出されるのでイノシシ狩りをする人が減った。里山が手入れされずに“奥山”化した。山にえさがなくなった――というのがオバサンたちの“診断”だ。クマが人里に現れるのも理由は同じだろう。会津地方ではとうとう死者が出た。イノシシも牙が凶器になる。要注意だ。

2012年9月28日金曜日

メロン収穫


無量庵(夏井川渓谷)の菜園に生ごみを埋めたら、ウリ科の植物が芽を出した。三春ネギ以外は栽培を休んでいる。勝手に出てきたのだ。そのまま育つのを見守ることにして、ほったらかしにしておいた。ひと夏を過ごすうちに実がなった。メロンだった=写真

これまでにも勝手に芽を出す果菜はあった。カボチャ、ミニトマト。とりわけミニトマトは毎年、生ゴミをゆりかごにして芽を出し、茎を伸ばし、花を咲かせて実をつける。皮が硬いのが難だが、芽を出せば一つだけ支柱を立て、茎をしばって、追肥をする。

メロンもずいぶん前に芽を出したことがある。これも放置していたら実がなった。食べたはずだが、「うまかった」という記憶はない。

雑草を引き抜くついでに“収穫”した。大小3個、翌日また畑仕事に出かけて草むらから大きいのを1個回収した。

一番小さいものを割ったら、いかにもメロンの特質を示していた。未熟で甘いはずがないから、まよわず糠漬けにする。次に大きいものを切って食べたら、メロンには違いないが、味が薄い。これも残りは糠床行きだ。

残り二つはソフトボウル大。しばらく放置しておくことにした。カミサンは、どういうわけかバナナを買ってきて、皮が黒ずむまで置いておく。それと同じ要領で腐熟メロンになるのを待つ。それでも甘くならなかったら、あきらめて糠床に入れる。キュウリよりやわらかい糠漬けになるかもしれない。

2012年9月27日木曜日

辛み大根


自宅が津波被害に遭い、今は内陸の借り上げ住宅で暮らす知人から、辛み大根の種が届いた=写真。借り上げ住宅の近所にある空き地を借りて“百姓生活”をしているという。種は一昨年、会津の人からもらったものだ。こぶ状のさやの内部は天然の発砲スチロールのようになっており、そのなかに直径1ミリ余の“赤玉”が眠っている。

知人は一時、ご主人と横浜の息子さん(次男)のところに避難していた。そこで、私のブログを読むようになった。こちらが連絡したせいもある。その息子さんが今はタイにいる。ブログのアクセス解析をすると、なぜかタイが上位にくるようになった。知人の手紙で理由がわかった。知人もまたタイ経由でブログの中身を把握しているのだとか。

知人もそうだが、私も暮らしのなかに趣味としての農の営みを組み込んでいる。偉そうに言えば、「存在の耐えられない軽さ」に抗って土と向き合ってきた。

そこに天変地異、加えて原発事故が起きた。すると、素人ながら土と向き合うことに葛藤が生まれた。葛藤を深めた末の、家庭菜園再開だったのだろう。「メソメソしてなんかいられません」。私はまだその葛藤にゆれたままだ。恐らくそれを知って、種が届いたのだ。

私は夏井川渓谷の無量庵で三春ネギを栽培している。一種の地ネギだ。辛み大根も地大根だ。その種をみて、むっくりやる気が起きた。小川産自家消費用野菜(キュウリ、ジャガイモ、大根、ナス、ピーマン、タマネギ、ニンニク、ネギなど)からセシウムが検出されなかったことも背中を押した。

半分以上草に覆われた小さな菜園に草引きと耕起を兼ねてクワを入れ、辛み大根用の小さなうねをつくった。9月下旬だが、大根だからぎりぎり発芽には間に合うだろう。

三春ネギ以外の野菜の栽培はやめるか、続けるか。逡巡していたときに、会津の辛み大根の種が届き、よしニューディール(新規まき直し)だと、元気が出た。

2012年9月26日水曜日

調査研究員


3・11後、主にいわき市をフィールドに調査を進めている早稲田大学の院生がきのう(9月25日)、指導教授とともにヒアリングにやって来た。2月29日に教授2人、院生と学部生6人の計8人=写真=が来訪し、ゴールデンウイークの4月30日にも院生と教授など3人が再訪した。

院生は昨年12月に東京で開かれた「リッスン!いわき」と、今年2月にいわきで開かれた「フィール!いわき」にも参加している。

店(米屋)をやっているために被災者と接する機会の多いカミサンが具体的な話をし、私が見たり聞いたりしたことを踏まえて、5月以降のいわきの動き、津波で家をなくし、原発事故で避難を余儀なくされた双葉郡の人たちの葛藤・変化などを語った。私のブログを読んでいる院生には、先刻承知の話が大半だったろう。

シャプラニールが運営している被災者のための交流スペース「ぶらっと」の利用者第一号は、薄磯で津波被害に遭った元漁師。住み慣れたハマから内陸のいわき駅近くのアパートに入ったものの、毎日することがない、で「ぶらっと」がオープンすると常連になった。その彼が7月に急死した。私は震災関連死だと思っている。そんなことを話した。

院生は日本都市学会年報(2012年5月)に、「原発災害の影響と復興への課題――いわき市にみる地域特性と被害状況の多様性への対応」を発表した。その抜き刷りと一緒に、新しい名刺をくれた。ン?ン! いわき明星大の名前がある。この9月に同大復興事業センター震災資料室の調査研究員に就いたという。

いわき市内の二つの大学が行政などと連携して「いわき地域復興センター」を立ち上げた。いわき明星大には復興事業センターが、東日本国際大には地域復興プロジェクトチームが設けられ、たがいに連携しながら得意とする分野で事業を展開していく。その一員に院生が加わった。つまり、本腰を入れていわきのためにはたらくことになった。

となればなおさら、彼女(院生)をバックアップしないといけない。アパートは?まだ決まっていない。「家賃3万円くらいのところは?」「ない、ない」。できるだけ相談にはのろうと思っている。

2012年9月25日火曜日

免税店


還暦を機に、同級生有志で海外旅行をするようになって4年。夜はホテルの一室に集まって二次会をする。一種の“学生飲み”だが、若いころと違うのは、飲んだこともないウイスキーが出ることだ。

搭乗前にリーダーが空港内の免税店=写真=に寄る。ウイスキーを何本か買う。お土産にするためではない。毎夜、夕食を終えただけでは飲み足りない。で、部屋に戻って飲み直し、語り直す。

昨年こそ中止したものの、病気の同級生を見舞った北欧の旅以来、台湾、そして今年のベトナム・カンボジアと、免税店でウイスキーを調達し、夜の“学生飲み”を繰り返した。海外駐在や出張の経験のある者が少なくない。旅慣れている。そこで、宿では免税の高級洋酒を、となるわけだ。田舎者には思いもつかない買い物だった。

口にした洋酒は、ネットで調べたらなかなかのものだった。バランタインの何年ものとか、ジョニーウオーカーのゴールドとか……。わが愛する“高級焼酎”田苑ゴールドの比ではなかった。まあ、そんなこともあるからこそ思い出深い旅行になるわけだが。

来月下旬には平で母校の創立50周年記念式典が行われる。二次会は夏井川渓谷の無量庵で――となった。みんなのカネで買ったバランタイン21年ものを託された。「試飲」を参加の呼び水にしている。知る人ぞ知る銘柄なのだろう。

2012年9月24日月曜日

秋彼岸


店内に流れるBGMが、なんだか勇ましいものに変わっていた。安売りを告げる“吊りチラシ”=写真=が目に入った。巨人のリーグ優勝を記念する「衣料品・住まいの品5%OFF」とあった。安売りはセリーグ優勝が決まった翌日から3日間、つまりきょう(9月
24日)までだ。BGMは巨人の球団歌「闘魂こめて」でもあったか。

イトーヨーカドー平店2階にある、被災者のための交流スペース「ぶらっと」で、きのう午後、ボランティアとスタッフが集まって情報紙「ぶらっと通信」10月号の発送準備作業をした。エスカレーターがすぐ近くにある。子どもの事故を防止するためのアナウンスがエンドレスで流れている。それに巨人の歌が、やはりエンドレスでかぶさった。

「ぶらっと通信」を三つ折りにする。封筒にあて名ラベルを張る。初日はそこまで。2日目のきょうは午後、封筒に「ぶらっと通信」を入れ、封をする作業が待っている。その数、およそ1400通。

おしゃべりしながらの作業になった。秋の彼岸を迎え、墓参りをしたスタッフがいる。私たちもきのう、雨のなか、カミサンの実家の墓参りをした。昨年の春と秋、今年の春と、墓石は倒れたままだった。3・11後、4回目の墓参りでようやく復旧した墓に線香を手向けることができた。

双葉町に一時帰宅したスタッフは、白い防護服を着て墓参りをした。墓も、家も、道路沿いの景色も、3・11のまま。ケータイで撮った写真を見せてもらった。家の内外の放射線量も測ったが、びっくりするほど高かった。家自体、雨漏りをして腐りつつある。とても住める状態ではないという。

用があって作業には参加しなかったボランティアも、楢葉町にあるお母さんの墓参りをした。やはり墓は手つかずの状態で、ご先祖様に申し訳ない気持ちになった。「事故多発 牛と衝突」と書かれた立て看に、別世界への入り口を感じたという。

巨人が早々とリーグ優勝を決めたなかでの、それぞれの秋彼岸だった。

2012年9月23日日曜日

アンコールワットの夜明け


アンコールワットは真西を向いて建てられた。そのため、春分の日と秋分の日に表参道に立つと、建物中央の尖塔から朝日ののぼるのが見えるという。

秋分の日にはちょっと早い9月18日、ホテルへ迎えに来た専用バスでアンコールワットの夜明けを見に行った=写真。雲が垂れ込めていた。朝日は期待できない。空がほんのり赤く染まったらもうけものと思ったが、それもかなわなかった。

しらじらと夜が明けるにつれて、カエルやコオロギの仲間らしいものが鳴きだす。ツバメも頭上を飛び交う。ツバメを見て「コウモリが飛んでる」と同行の女性がつぶやいた。「ツバメです」「あらっ」「日本にも、カンボジアにも渡って来ます」。胸も腹も黒っぽい。ハリオアマツバメだろうか。

たくさんの観光客に交じりながら、思い出したことがある。4年前の春分の日、專称寺(平)の夜明けを見に行った。春分の日と秋分の日、朝日が真東から本堂を照らす――今は亡き歴史研究家の知人の言葉を体に刻むためだった。

專称寺は浄土宗の寺だ。「西方浄土」へ導く阿弥陀三尊がまつられている。その現実的な仕掛けとして、春分の日と秋分の日に太陽が真東からのぼり、真西に沈むような設計がなされたのではないか。朝は阿弥陀三尊にまっすぐ光が差し込み、夕方は三尊の背後からまっすぐに光が差し込むように――。

その連想でアンコールワットで大事なのは、朝日ではなくて夕日ではないのかと思った。観光客にとっては尖塔にのぼる朝日は絵になる。が、葬式を行うための寺院という性格を考えれば、むしろ真西に伸びる参道の延長線上に沈む夕日にこそ意味がある。

同じ日の午後、雨に降られながらアンコールワットの内部を見学した。そのまま夕刻の様子も見た。雨はやんだものの、雲にさえぎられて夕日は見えなかった。朝日は観光客を喜ばせ、夕日は遺跡の神仏たちを慰める――秋分の日のきのう(9月22日)、アンコールワットの壮大華麗なレリーフ群を思い返しながら、やはり天気が気にかかった。

2012年9月22日土曜日

ベトナムのバイク


ハノイのノイバイ空港からわれら一行10人を乗せたマイクロバスが、およそ150キロ東にあるハロン湾へとひた走る。空港を出るとすぐ目に飛び込んできたのは、あおあおとした水田、そして道を行き交うバイクだった。

ちょっとした町に入ると急にバイクの数が増え、夕方にはバイクが道を埋めるようになった。翌日、ハノイ市内へ戻ったときに、ベトナムはバイク天国であることを知った=写真。クモの子が集まるようにバイクがあふれ、流れる。

おととし(2010年)秋、台湾を訪れたときにも同じ感想を抱いた。台湾ではスクーターが庶民の足になっていた。司馬遼太郎は二輪車が「曲芸のように車と車の間を縫い、交通信号はゆるやかにしか守られていない」ことを目撃する。信号待ちをしていたスクーター族が一斉にスタートする様子は壮観だった。

ハノイの場合はホンダのスーパーカブ、これを基本にしたスポーツタイプのバイクが多いということだった。台湾と違ってほとんどの人がマスクをしている。粉塵対策だろう。

バイクに豚を3匹積んで走るような人もいるらしい。露店で売っている絵はがき(写真)にあった。畳2枚分はあろうかというボードを積んだ人、ノーヘルメットの5人乗り(女性2人、幼児3人)も目撃した。こちらが冷や冷やするような運転だが、不思議と接触しない。あうんの呼吸でブレーキがはたらくようなのだ。

ガイドさんが道路を横断するときの注意点をのべた。「走らないでください」。見れば、車とバイクの洪水のなかを、歩行者が横断しては立ち止まり、立ち止まっては少しずつ横断している。それも、横断歩道ではない場所を。

私らは日本人だ。横断歩道をみんなで渡る。信号はないが、みんなで渡れば怖くない――それを実感した。

2012年9月21日金曜日

暑かった


5泊6日のベトナム・カンボジアの旅=写真=から、きのう(9月20日)昼すぎ戻った。実質5日の観光旅行で、インドシナ半島に点在する世界遺産のハロン湾やアンコールワットなどを見て回った。

先週の土曜日(9月15日)未明、同級生の車で成田へ向かった。前日まで、屋内にいても熱中症になるような残暑が続いた。日本を留守にしている間に、季節は秋へと移っているかもしれない――カミサンに聞けば、おととい(9月19日)までは暑い日が続いた。きのう、やっとしのぎやすくなったという。

8月は東京もフィリピンのマニラ並みの高温になる、という点では、東南アジアの国々とそう変わらない。今年は、その暑さが続いた。高温多湿の日本から同じ高温多湿の国へ行くのだから、体はそんなに驚くまいと思っていたが、やはりこたえた。

ベトナムでは、石灰岩の島々が林立するハロン湾を遊覧し、ハノイ市内を見物した。いずれもベトナムの北部にある。天気には恵まれた。

カンボジアは一転、雨模様だった。雨季の終わりに近いとはいえ、曇っては雨、やんでは青空がのぞくものの、すぐまた雨に見舞われる、という“猫の目天気”。傘をさして遺跡を見学したが、着ているものがたちまち雨にぬれ、汗にぬれてびしょびしょになった。

カンボジアは、その意味では「雨の国」でもある。雨を見た、光も見た、暑かった――同じ高温多湿でもカンボジアは別格という印象を持った。

観光は易経の「国の光を観(み)る」に由来する言葉だという。国の光、つまりその国の文化に触れるという意味では、刺激的で楽しかった。その話はこれから、おいおいと。

2012年9月14日金曜日

アレチウリ


北米原産のアレチウリが夏井川の堤防を覆うようになった。同じつる性植物のクズを組み敷くように繁茂している=写真。皮肉なことに、日本ではアレチウリが、アメリカではクズが猛威をふるっている。

アレチウリは輸入大豆にまぎれて日本に侵入したそうだ。夏井川の堤防を散歩するようになって、この侵略的外来種が点々と群生しているのを知った。大水で種が下流に運ばれる。鳥が種を食べて、フンとともに周辺にまきちらす。それで生息域を広げているらしい。

クズは、アメリカでは最初、緑化・土砂流失防止用などに利用された。2005年3月号の「ナショナルジオグラフィック」で<侵略しつづける特定外来生物>を特集した。その米国編でクズが取り上げられた。

アメリカのニューディール政策最大の事業である「テネシー河谷開発(TVA)」でも、ダム堰堤の土砂流失防止用にクズが利用された。推奨策が裏目に出た格好だ。

先日、夏井川渓谷の無量庵でクズが繁茂している話を書いた。アレチウリはその上をいく。樹木がアレチウリにすっぽり覆われると、光合成ができなくなったり、風通しが悪くなったりして枯死する。夏井川の堤防を散歩しながら、いずれ本格的な除去作業が必要になってくるかもしれない――そんなことを思う。
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あす(9月15日)から20日までの6日間、ブログをお休みします。還暦になって始めた同級生との“修学旅行”を楽しんできます。

2012年9月13日木曜日

ナスの漬物


夏井川渓谷に「山の食。川前屋」がある。川前の農産物や加工品の直売所だ。今はシャッターが下りたままになっている=写真

3・11前は、春から秋まで週末に開店し、それなりににぎわっていた。同じ溪谷にある無量庵よりは上流、車で10分ほどのところにある。季節の野菜のほか、梅干しやみそ漬け、キノコなど「川前の味」を買い求める楽しみがあった。

川前の知人によると、3・11後、客足が途絶えた。店の前を行き来するのは川内村で除染作業をする車だけ、というのは極端にしても、行楽客が激減した。客が来ないのでは、店を開けている意味がない。で、開店期間は春の2カ月、秋の2カ月に限定した。この秋は10月6日に再開される。

夏井川渓谷は3・11前、アカヤシオが開花する春と紅葉が燃える秋、道路に止まった車で交通が渋滞するほどにぎわった。3・11後、路上駐車はほとんど見られなくなった。去年の紅葉、今年のアカヤシオの時期、やって来たのは主に高齢者だった。

先日、ドライブを兼ねて無量庵の前にそびえる山の向こう、三和町の直売所へ出かけた。漬物とネギを買った。

直売所で漬物を買うのは、「おふくろの味」に触れたいからだ。が、それに反するような漬物に遭遇するときもある。どこの直売所というわけではないが、ラッキョウの甘酢漬けやナスの漬物が十分漬かっていないうちに店頭に並ぶ。中まで味がしみとおっていない、硬い、となれば、次は二の足を踏む。

そんな不満が蓄積していたときに、借り上げ住宅を訪問した交流スペース「ぶらっと」のスタッフが、被災者がつくったというナスの漬物を持って来た。表面の紺色がきれいに保たれ、中まで味がしみてやわらかかった。秋ナスのうまさを久しぶりに堪能した。直売所で買いたいのは、こういう漬物だ。

2012年9月12日水曜日

お別れコンサート


戦後、いわきで音楽指導に情熱を注いだ故若松紀志子さん、いや先生の「お別れコンサート」が9月8、9日、先生が創設したアートスペース・エリコーナで開かれた。初日、福島高専から東京芸大に進み、ミュンヘンのオペラハウスで合唱団のテノール歌手として活動してきた、先輩の小林修さんが出演した=写真

先生は福島高専で音楽を教えた。先輩は1期生。先生の影響で「中堅技術者」から「声楽家」へと転身した。

今年4月23日、先生が96歳で亡くなった。先輩は訃報が届いた4日後に引退した。

先輩が帰国できるのは夏だけ。最後に先生に会ったのは2010年の初夏だった。いつもこれが最後の別れになるという思いを抱いて先生の家を辞した。心の中でさようならを言いながら――。そんなことをコンサートのなかで語った。

イタリアの作曲家トスティの「セレナータ」と「最後の歌」、そして先生が「私のフィナーレの時には大好きな『マイ・ウェイ』を歌ってほしいものです」と言っていた「マイ・ウエイ」を熱唱した。

コンサートが終わったあと、出演者控室を訪ねる。会うのは2005年に開かれた先生の「卒寿を祝う会」以来だから、7年ぶりだ。「引退ですか」「そう、もういいだろう」

そのとき、突然、「マイ・ウエイ」を歌った意味が了解できた。<私には愛する歌があるから/信じたこの道を私は行くだけ/すべては心の決めたままに>。先生も、先輩も自分の道を一筋に歩んできた。先生はほほえみながらこの世を去り、先輩もまた悔いなく舞台を下りた。

だれにも最後がくる。先輩の歌を聴くのも、これが最後かもしれない。自分の役割を終えて次の世代にバトンをタッチする――そんな年齢になったことを、次への船出がきたことを、この夜の「マイ・ウエイ」は教えてくれた。

2012年9月11日火曜日

道路情報板


楢葉町への立ち入りが自由になって1カ月。いわき市四倉町の海岸沿いにある国道6号の道路情報板も、「17km先/楢葉町以北/通行止」から「24km先/富岡町以北/通行止」に変わった=写真

6月に東洋大の学生がいわきへ調査に来たとき、道案内をした。四倉から警戒区域までの距離が一発でわかるので、津波被害の写真撮影と合わせて目に焼きつけるようにうながした。

道路情報板はデジタル表示だ。いくつかの情報が繰り返し表示される。どこから通行止めなのか――ドライバーは認識できても、同乗者は見逃している場合が多い。いったん全員の意識を<警戒区域に近いところにいる>という点に集中させた。

楢葉町は、ほぼ全域が「警戒区域」だった。8月10日にこれが解除され、宿泊はできないものの出入りが自由な「避難指示解除準備区域」に移行した。早速、津波の被害状況を見て回った知人がいる。3・11のままの写真を見せられた。

被災地はいつも同じではない。少しずつ変化している。ただの道路情報板であっても、6月は「17キロ先が通行止め」だった、8月10日以降は「24キロ先」に変わった。時間の経過に伴うモノ・コトの変化を記録することも大事だ――そんな思いでカメラを向ける。出来・不出来は問題ではない。

3・11からちょうど1年半。「24km先/富岡町以北/通行止」の写真をあとでゼミの先生に送ろうと思う。

2012年9月10日月曜日

草が2階に届く


きのう(9月9日)の早朝、半月ぶりに夏井川渓谷の無量庵へ出かけた。無量庵通いの回数が減って、庭や畑の草刈りに難儀している――きのうのブログにそう書いた。実際、庭は草ぼうぼうだ。下の空き地へ降りていく階段も、クズやアサガオなどのつる性植物に覆われている=写真

庭の草も、下の空き地の草も梅雨期に造園業の知人に頼んで刈ってもらった。季節が一つ巡っただけで、再び草があたりを覆っている。太ももが隠れるくらいに丈高く生長した草もある。

庭の一部、草むらをクズが覆い始めた。早朝の涼しいうちにこのつる性植物を切断し、丈の高い草を刈り払った。

クズは下の空き地から這い上がり、庭をほふくして、テーブルを、濡れ縁を覆う勢いだ。放置しておけば雨戸を這い上がり、屋根を越えて家全体を覆いかねない。山里を車で走っているときに、廃屋がクズの葉で覆われているのをたまに目撃する。放置しておけばそうなる。

きのうのブログでは、双葉郡の家々にも思いがめぐることを書いた。富岡町からいわき市に避難しているおばあさんが一時帰宅した。カミサンがその話を聴いた。庭の草は2階に届くほど伸びていた。草に邪魔されて車を庭に入れられなかった。無量庵の庭の様子をひどくしたようなイメージが広がる。

一時帰宅は3・11後、初めてだったという。家の戸を開けたら、すえて湿ったにおいがした。なにしろ、台所も、茶の間も3・11のときのままだ。

震災で停電になった。子や孫たちと一夜を過ごした。石油ストーブを持ち寄り、鍋でご飯を炊いた。翌日、原発が危うくなったため、鍋を持って広野町へ、いわき市へ、さらに東京へと避難した。今は借り上げ住宅に住む。夫はそこで亡くなった。

「庭の草を刈る人もいたけど、そんなことしたってなんにもなんね」。ここからは私の想像。このままでは、家がダメになる。湿ったまま、空気がよどんだままでは、家が朽ちていくだけ。おばあさんならずとも無念の思いが募る。

2012年9月9日日曜日

テーブルの脚を一新


夏井川渓谷の無量庵は、もともとは義父が隠居用に建てた。下流の平市街にあった、解体寸前の平屋を譲り受け、ばらして運び、再建した。新築するよりカネがかかったということを、あとで聞いた。40年以上も前の話だ。

その建物の管理人になってから17年になる。義父母が彼岸に渡り、次の世代である私らが無量庵の庭に木のテーブルを置いたり、菜園を開いたりした。先日、そのテーブルの脚を取り換えた=写真。脚の下には薄いレンガを敷いた。

川内村の陶芸家兼工芸家がテーブルをつくった。テーブルは3枚の板材、脚は丸太だ、その脚が十数年を経て内側からグズグズになった。“部品交換”をしないと――。発注したら、ほどなく脚が届いた。ちゃんと防腐剤が施されてある。

無量庵は週末だけの家であっても、この40年余の間にわが孫も含めて4世代がかかわるようになった。が、それも建物の維持管理ができてこそ。畳を取り換える。物置をつくる。屋根の瓦をふき替える。台所を改造する。押し入れを直す。濡れ縁を広げる。絶えずなにやかにやと手を入れていないと、家の機能は維持できない。庭のテーブルもしかり。

週末から10日に一回、あるいは半月に一回といったように無量庵通いがペースダウンをした。それでさえ、庭や畑の雑草に難儀している。ましてや、双葉郡から避難せざるを得なかった人たちの家々は――想像するだけでも胸が痛む。

2012年9月8日土曜日

ハチの巣


夏井川渓谷の無量庵にキイロスズメバチが巣をつくった=写真。母屋と風呂場とを、洗面所とトイレの廊下がつなぐ。廊下の外は坪庭だ。三方が壁や雨戸で囲われている。ハチが雨風をしのぐにはもってこいの場所だろう。

坪庭に面した軒下にキイロスズメバチが営巣するのは3回目だ。最初は東側(母屋)、2回目は北側(廊下)、そして今回は西側(風呂場)。反時計回りに営巣場所が変わる。

風呂場の窓の下、板壁が朽ちて出入りが可能になった内側に営巣したこともある。そのとき、カミサンがそばで草むしりをしていてチクリとやられた。7、8年前だったろうか。痛みが引かないので、いわき市立総合磐城共立病院内にある救命救急センターへ連れて行った。

軒下のハチの巣は、一つはソフトボウル大、もう一つはサッカーボウル大にまで成長した。晩秋になってハチの姿が消えたあと、“古巣”を回収して無量庵の家宝とした。4年前のことだった。

それ以来のハチの巣である。大きさはまだソフトボウル大。今度、カミサンがチクリとやられたら、ことだ。小欄にコメントをお寄せいただいたkasu minさんによると、刺されればアナフィラキシーショックを起こす可能性がある。そのへんの自覚が本人にあるかどうか。

さる日曜日、久しぶりに無量庵で過ごした。カミサンは庭の草むしりに精を出した。だんだん坪庭に近づいてくる。熱中していて、そこでハチに刺されたことを忘れている。「頭の上にハチの巣があるの、忘れたのか」「そっか」。やっと気づいて、その場を離れた。

平地のわが家でも、キイロスズメバチやアシナガバチが飛び交っている。ときどき、庭から茶の間に迷い込んでくる。危険な野生生物は身近なところにもいる、という認識が必要だ、特にカミサンには。

2012年9月7日金曜日

半纏試着


赤いちゃんちゃんこよりは黒い半纏(はんてん)がいい。還暦の記念に、いわき市に工房を構える刺繍工芸家望月真理さんの作品を購入した=写真。「半纏を着て街を歩く男はかっこいい」。望月さんの言葉に「オレも」と反応してしまったところもある。ほぼ4年前のことだ。

その望月さんからおととい(9月5日)朝、電話が入った。たまたま私が出た。「男性から頼まれて半纏をつくっているけど、袖口が気になって。試着してくれないか」という。その日、外出の予定はなかった。午後、わが家に望月さんがやって来た。

失礼ながら、年齢的にはわがオバサンのクラスだ。80代後半だろう。車を運転する。が、歩くのには歩行器が必要だ。歩行器は折り畳み式だった。

早速、制作途中の半纏に袖を通す。望月さんの目の色が変わる。Tシャツやセーターの上に羽織ることを想定しているという。私から見ても袖口が広すぎる。そのことを率直に言うと、納得して待ち針を刺した。

用がすめば雑談だ。望月さんはアジアの少数民族の刺繍コレクターでもある。インド、バングラデシュ、ベトナム……。そのへんを踏まえてベトナムの話を聴いた。ベトナムには8回も行っているという。「10回は行きたいが、足が(悪くて)ねぇ」

ベトナムに絞ったのは来週、同級生と“修学旅行”に出かけるからだ。カンボジアにも行くと言ったら、「アンコールワットね」。観光旅行であることを見透かされている。刺繍を求めて、地を這うようにアジアの山岳に分け入ってきた望月さんにとっては、定番のパック旅行など、お気軽な、旅ともいえない移動でしかないのだろう。

辛辣だがユーモラス、ときに少女のように純粋で率直。水、食べ物、織物、市場、屋台……。旅のベテランからたっぷり一時間、ベトナム文化について貴重な情報を得ることができた。楽しい“個人授業”だった。

2012年9月6日木曜日

被災体験を世界へ


いわき市海岸保全を考える会が昨年秋、『HOPE2』=写真=を発行した。東日本大震災と原発事故に遭遇したいわき市民や双葉郡の人々、ボランティアなどの証言集だ。130人が「一人称」で体験を語っている。かつて同じ職場にいた若い仲間が中心になって取材・編集した。

若い仲間はサーファーでもある。津波被災者に本の売り上げの一部を義援金として贈りたい――。サーファー仲間と諮って写真集『HOPE』を発行し、次いで証言集『HOPE2』を出した。

その証言集から何十人かをセレクトして英訳するプランが練られている。

東洋大学国際地域学科の子島(ねじま)進准教授と、昨年暮れ、いわき市で被災者の支援活動を展開している「シャプラニール=市民による海外協力の会」を介して知り合った。

今年6月上旬、子島さんがゼミの3年生6人を連れていわきへ調査に来た(6月3日、同6日付小欄参照)。道案内を引き受けた。そのとき、彼らは豊間の人間(大工)のところで『HOPE2』に出合った。

東日本大震災と原発事故の現実を、インターネットを介して世界に発信しなくては――。いわきの被災地に立って学生が英語でレポートする、仲間がそれを撮影する。そのための現地調査だった。その発展形として、学生による『HOPE2』の英訳プランが浮上した。

おととい(9月4日)、子島さんがいわきへやって来た。初対面の若い仲間との打ち合わせに立ち会うかたちで加わった。大筋で話は決まった。『HOPE2』に収まった人は、活字になることは了解しても、ネットに英語で登場することは「想定外」だ。その了解をとらないといけない。若い仲間たちには次につながる希望の作業になるだろう。

被災地の現実を知ってほしい――。3・11から1年半がたとうとしている今、国内から海外へ、そのために英語で発信を、という思いが被災地側にも、支援者側にも強くなりつつある。風化と忘却への危機感がそうさせるのだ。時間はかかるだろうが、学生の奮闘に期待したい。

2012年9月5日水曜日

食害、今年も


葉っぱが今年も赤みがかったなと思ったら、たちまち一帯の木々が似たような“症状”になった。全体が枯れ葉色になったソメイヨシノもある=写真。放射能のせい?ではない。

アメリカシロヒトリが今年も夏井川の岸辺林で大発生し、オニグルミやヤナギの葉を食害している。国道6号常磐バイパスの終点・夏井川橋のすぐ上流両岸の異様な光景だ。

枯れ葉色のソメイヨシノは、それからさらに上流の堤防にある。その木だけピンポイントで狙われた。

異様な光景で思い出したことがある。昨年の春から初夏にかけて、「竹の葉が異常に黄ばんでいる、放射能のせい?」といろんな人から尋ねられた。

旧友のフリーライターも、ある雑誌に「新緑のはずの竹林が茶褐色になっているのも事実である。だが放射能との因果関係はわからない」、写真説明には「原発事故後、方々で竹林が茶褐色になる現象が」と、当たり前の現象をさも異常なように書いていた。自然に詳しいはずのおまえがなぜ、とがっくりきた。

俳句の春の季語に「竹の秋」がある。4月に黄ばみ始め、タケノコが採れるころに落葉することを表している。放射能に関係なく、孟宗竹の葉は春から初夏、茶褐色になるのだ。旧友のふるさとには孟宗竹がないのかもしれない。

ふだんは自然を忘れている人たちが、去年はたまたま黄ばんだ竹の葉を見て過敏になった。放射能の影響かと短絡しておびえた。

岸辺のヤナギの異変は、原因がはっきりしている。が、去年は最初よくわからず、いろいろ調べてアメリカシロヒトリにたどり着いたのだった。

散歩の途次、赤茶けた岸辺林を眺めながら、冷静に、しかしあなどらずに、ニュートラルな気持ちで自然を見る。特に、フクイチとの関連では――と自分に言い聞かせる。

2012年9月4日火曜日

畑がアパートに


近所に国道6号と旧国道をつなぐ“細道”がある。その道の側溝に一部、ふたがかけられた=写真。細道は、昔は“あぜ道“だった(ろう)。そんな細道が、新旧国道の間に張り巡らされている。

新旧国道の間に家が立ち並ぶ。その家並みにはさまれて畑が残る。そんな様子を、8月28日付小欄「スイカ被害」で少し書いた。その一部、義弟の家を含むわが家の裏手の畑がいよいよアパートに変わるらしい。そのための側溝整備だった。関係する業者が説明に来てわかった。

アパートに変わる畑は、結構広い。小学校の校庭の半分くらいはあるだろうか。そこに2階建てのアパートが4棟建つ。マンションではないから、日照の影響は受けない。建設同意書に署名して判を押した。

3・11の津波被災者、あるいは原発避難者のためのアパートかと聞けば、違うらしい。そういう人たちも入居するかもしれないが、単に若いファミリー向けが3棟、独身者向けが1棟ということだった。税金対策を兼ねた、ごく普通のアパート建設だろう。

畑の一部を入居者の家庭菜園用に残すという。このへんは、目いっぱい土地を使ってアパートにするのとは、多少違う。新しいアパート経営のかたちといえるかもしれない。

いわき市は市街化区域内に多くの未利用地を抱えている。わが家の裏手の畑がそれに当たる。家並みに囲まれた周辺の田畑も一部、宅地化された。震災後、そうしたケースが散見されるようになった。都市計画上は歓迎すべきことなのだろう。が、地域との“共生“という点では悩ましさが募る。

2012年9月3日月曜日

土砂降り


こよみが8月から9月に変わったとたん、雨が家の屋根をたたき、森や田畑を濡らし、大地を潤した=写真。いわきの8月は小名浜で雨量13ミリ。ほとんど「雨なし月」だった。それが9月1日夜、待望の雨になり(小名浜で8・5ミリ)、2日も早朝から夜まで断続的に降った。小名浜で計56・5ミリと、まとまった雨量になった。

2日は日曜日。カミサンの買い物に付き合った。朝9時に中神谷を出る。その時点では、雨がやんで薄日さえ射している。常磐バイパスにのると間もなく雨脚が強まり、前がよく見えないほどの土砂降りになった。鹿島街道へ降りると、今度は降ったりやんだり、ときに土砂降りになったりと、落ち着かない。

鹿島街道で用を済ませたあとは平の街へ。ここでは、雨は一服していた。いわき駅周辺の3カ所に寄ったあと、昼下がりに帰宅すると急に土砂降りになった。雷も鳴った。家の窓を閉めたまま出かけ、帰宅しても開けずにおいたのは正解だった。

気圧の谷の影響で大気の状態が不安定になっていると、テレビは報じていた。同じいわき市内でも降水量に違いがあるのはそのためだろう。2日間でヤマの川前は43・5ミリ、マチの平は30・5ミリ。同じ平の中心市街地と神谷とでは、降水時間も、降水量も違っていたはず。車で動き回り、福島気象台の降水量を何回かチェックして、そう推測できた。

カラカラに乾いていた畑には慈雨になった。私もきのう(9月2日)、お盆以降では初めて茶の間で昼寝ができた。

2012年9月2日日曜日

ハクビシン昇天


早朝の散歩はいつも、旧国道~常磐バイパス終点(草野の森)~国道6号(横断)~夏井川堤防~国道6号(中神谷の歩道橋)~旧国道と、わが家を起点に一周するコースをとる。草野の森を過ぎて6号に出たら、動物が死んでいた=写真。タヌキかと思ったが、鼻筋が白く、尾が長い。ハクビシンだった。

旧国道の両側には住宅が密集している。中に一部、畑が残る。国道から堤防の間には昔からの畑が広がる。家々が立ち並ぶ。要するに、自然も残るが人間の暮らしが色濃くにじんでいるところ。畑あり、ごみ集積所あり、ねぐらになりそうな物置・住宅ありで、ハクビシンには格好の生息環境なのだろう。

夜行性のために、ハクビシンにお目にかかることはまずない。ましてや野生動物にはうといから、死骸を見て初めてハクビシンの生息を知ることになる。

今はスペインに戻った草野弥生さんの実家(内郷)のレンガ造りの蔵にも、ハクビシンが巣食っていた。

3・11からちょうど1カ月後、4・11の直下型地震で被災し、草野家では母屋などを解体せざるを得なくなった。救出できる民具がないか――カミサンが草野さんと蔵の2階に上がったら、フンだまりがあった。ハクビシンは木登りが得意だという。蔵のそばに梅の木があった。その木を伝って侵入したか。

ハクビシンの行動範囲は広い。雑食性で、えさには事欠かない。カラスがスイカをつついた話を書いたが、こんなことも考えられるのではないか。昼はカラスがスイカをつつき、夜はハクビシンが前脚を入れて果肉をかき取る。だから、たちまちスイカは破裂したゴムボウルのようにペシャンコになったのだと。

鳥、虫、魚、アブラコウモリ(イエコウモリ)、トカゲ、ジムグリ、ネズミ、アマガエル……。身の回りで見かける生物に、死物(しぶつ)のハクビシンが加わった。
 ×    ×    ×   ×
9月に入って待望の雨。昨夜(1日)は少し。けさは6時前から。いわき市議選(きょう告示)が雨を呼んだ?

2012年9月1日土曜日

フレコンバッグ


「フレコンバッグ」というものがある。最近まで知らずに「大きな土嚢」と言ってきた。防波堤代わりの黒い土嚢がそれだ。青い色のものもある=写真。耐候性・防水性に優れているという。きのう(8月31日)夕方、川内の獏原人村・風見正博さんがわが家に卵を持って来たので、そのことも含めて少し話をした。

彼は「養鶏農家」だ。鶏を飼い、卵を売って暮らしている。彼が届ける卵を、3・11前も後も食べている。昨年5月初旬には、卵の入ったパックに放射性物質(核種)検査報告書が添えてあった。むろん、問題なしだ。それでも卵の購入をやめる人はいたという。

フレコンバッグを含めた話をしたのは、川内村が進めている民間住宅の除染作業について、当事者の感想を聞きたかったからだ。獏原人村で、彼が毎年実施している「満月祭」をネットで検索したら、彼のブログにたどり着いた。彼のところでも7~8月にかけて除染作業が行われた。

8月12日に小欄で書いたことだが、田村市常葉町の実家への行き帰りに川内村を通った。「民間住宅の除染作業をしています」という立て看に遭遇した。その立て看の先、山裾にある家とは道路をはさんで反対側の山裾に、青いフレコンバッグが置かれていた。写真がそれだ。中身は除去土だろう。

行きずりの人間の目ではなく、住んでいる人間から除染作業の様子を聴きたい――と思っていたら、格好の資料(ブログ)に出合った。彼は書く。

「宅地はバックホーで土を取ってフレコンバックとか言う青い大きな袋に入れる。1袋1万円以上するらしい。ドームの周り、お祭り広場、駐車場、何故かトタンで囲った畑やハウスのまわりなど200袋以上はとったんじゃないだろうか? そのあと砂を入れる」

「鶏小屋も建物なのでその周りも全部土取り。鶏小屋の周りは砂入れは断った。道には砂利を入れてくれるのでドームへの道も全部砂利が入った」

「田んぼや畑は別に農地としてやることになっている。これは自分でやれば1反3万円ぐらいにはなるとのことでとりあえず自分でやることに」

あらかた作業が進んだ段階で線量はだいぶ減ったという。家の外で0.2~0.25マイクロシーベルト/時、家の中で0.14マイクロシーベルト/時。

で、聞きたかったことは、汚染土の入ったフレコンバッグ(正式にはフレシキブル・コンテナ・バッグ)がどこに置かれたのかということ。「持って行った」。ということは、村のどこかに仮置場が設けられたのだ。

あとで検索したら、警戒区域内の下川内・鍋倉地区にある村有地が仮置場になった。地図や動画からは、人里離れた山中に設けられたという印象が強い。してみると、私の見たのは、そこへ運びこむ前の「仮〃置場」のフレコンバッグだったか。どこでもそうだが、仮置場が決まらなければ除染作業は進まない。