2013年1月20日日曜日

花眼


前回の話の続き。昭和61(1986)年の早春、詩集『村の女は眠れない』で知られる草野比佐男さん(1927~2005年)が、ワープロを駆使して限定5部の詩集『老年詩片』をつくった。秋には、秋田から豆本が出た=写真。本の整理をしていたら、二十数年ぶりにこれらが出てきた。どちらもご恵贈にあずかったものだ。

短期間に、集中的に書いたと思われる作品20編が収められている。「作品一」の第1行。「老眼を<花眼>というそうな」。「花眼」という言葉をこのとき初めて知った。老いて焦点が合わなくなった目と言わずに、すべてが美しく見える目としゃれる――漢字の国の人間のセンスは嫌いではない。

2行目以降。「視力が衰えた老年の眼には/ものみな黄昏の薄明に咲く花のように/おぼろに見えるという意味だろうか」と、草野さんは<花眼>の意味について考える。「あるいは円(まど)かな老境に在る/あけくれの自足がおのずから/見るもののすべてを万朶(ばんだ)の花のように/美しくその眼に映すという意味だろうか」

そのあとの展開がいかにも草野さんらしい。「しかしだれがどう言いつくろおうと/老眼は老眼 なにをするにも/不便であることに変わりはない」「爪一つ切るにも眼鏡の助けを借り/今朝は新聞の<幸い>という字を/いみじくも<辛い>と読みちがえた」。(この詩集は1編が4連4・4・3・3行、計14行のソネット集だ)

26年前、草野さんは59歳、私は38歳。「老眼」の現実には思いが至らなかった。「花眼」の言葉を胸の引き出しにしまっただけだった。そのころ、薬を何種類も飲むお年寄りを冷ややかな目で見ていた。

26年後の今、<幸い>が<辛い>に見えるどころか、<妻>と<毒>の区別がつかなくなった。薬だって何種類も飲む。それでも、生涯学習に励む人たち(たとえば、いわき地域学會市民講座は最高齢96歳)の中に入ると、まだまだ洟垂れ小僧にすぎない。

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