2013年1月29日火曜日

暮鳥と洋物店


カミサンの知人の家の前を通ったら、隣が更地になっていた=写真。ほぼ100年前、日本聖公会の牧師山村暮鳥一家が暮らしていたところだ。大正時代の家がそのまま残っていたとは考えにくい。建て替えられたにしても、かなり古びた感じのする家だった。「東日本大震災」後に取り壊されたか。

津波に襲われ、家の基礎部分だけになった沿岸部とは別に、いわき市の内陸部では至る所に更地がみられるようになった。震災で「全壊」や「大規模半壊」の判定を受けた家屋が1万5185棟ある。それらの整理が進んでいる証拠だろう。

震災処理は家だけでなく家財・家具などにも及ぶ。住まいが「半壊」のわが家では、しばらく中断していていた本のダンシャリを再開した。ほぼ毎日、カミサンが縁側に単行本や雑誌を積み上げる。それをより分ける。

いわきをフィールドにした地元出版物は捨てがたい。先日は、「週刊カメラ」(A4サイズ、16ページ)が出てきた。昭和58(1983年)7月1日付創刊号で、山村暮鳥を特集している。企画・製作は常磐下湯長谷町の「週刊カメラ社」。主として暮鳥研究家の故里見庫男さんが筆を執った。雑誌創刊にも深くかかわったと思われる。

なかに暮鳥の生身の姿を伝える談話が載る。平・三町目2番地に「十一屋洋物店」があった。そこへ暮鳥が来て、大番頭さんとよく話しこんでいたのを、お手伝いさんが目撃している。お手伝いさんが語るエピソードを、「週刊カメラ社」のMY(吉田光之?)氏が書き留めた。

大番頭さんは読書や文学が大好きな人だった。二人は、ひまを見つけては近くの洋食屋「福寿軒」へ通った。「カツレツ、牛ドンが二十五銭の、懐かしいよき時代でした」

「十一屋洋物店」では店頭を種物売りの「猪狩ばあさん」に貸していた。ある日、暮鳥とばあさんが話していたと思ったら、しばらくして大番頭さんから「種物売りばあさん」の詩を見せられ、「わけもわからず、ただ、みんなでふき出した」。

大正時代、平・三町目1番地には洋食屋「乃木バー」(現在は佐川洋服店)があった。「十一屋洋物店」はその隣ということになる。「乃木バー」は開業年がよくわかっていない。「十一屋洋物店」については全く知らなかった。“宿題”が増えた。

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