2013年4月25日木曜日

「畑おこすべ~」


小さな菜園なのに土おこしがきつくなった、と感じ始めたのは50代後半。クワ・スキを振り下ろすよりも、スコップを突き刺すケースが増えた。

家庭菜園用の耕耘機を買うほどではないが、もっと簡単に土おこしのできる道具はないものか。探していたら、コープのカタログにあった。スコップとスキを合体させたようなもので、握りその他はアルミ製、5本ある刃は鉄製で焼きが入っている。「畑おこすべ~」=写真だという。値段も手ごろなので、ためらわずに買った。

使い方は簡単だ。ステップを踏んで刃を地面に突き刺し(スコップと同じ)、体重を手前にかけて倒す(スキとは逆の動き)だけ。スコップのときと違って、土くれが5本の刃で砕けやすくなった。ジャガイモなど根菜の掘り起こしにも利用できるという。

家庭菜園を始めたのは40代後半だった。そのころ、クワも、スキも体になじんでいた。スコップを畑おこしに使うことはなかった。それから15年ほどがたつ。クワやスキを長時間握っていると、息が切れるようになった。年齢的な衰え、持病が原因だろう。

3・11後は、原発事故が「やる気」をそいだ。畑の表土をはぎ、地野菜の「三春ネギ」を栽培するだけにとどまった。

しかし、畑をむざむざ荒れ地に戻すわけにはいかない。「畑おこすべ~」を使うと、雨が降ってかたくなった「平うね」が簡単にほぐれる。息も切れない。なんの種をまこうか――「畑おこすべ~」は2年ぶりに「やる気」も掘り起こしてくれたようだ。

2013年4月19日金曜日

溪谷のヤマネ


ゴルフボール大に丸まって寝ているヤマネを見た=写真。夏井川渓谷の小集落で春の祭りが行われたときのこと。家の2階に入り込んで冬眠しているヤマネの話になった。祭りの「なおらい」が終わったあと、その家の主人がかんなくずを入れた容器の中で眠るヤマネを見せてくれた。

ヤマネはピクリともしない。が、胸のあたりがふくらんだり、へこんだりしている。4月中旬だが、まだ冬眠から覚める気配はなさそうだ。

ふと、半世紀も前のできごとがよみがえる。阿武隈の一筋町の裏手に段々畑があって、その土手で子どもたちが遊んでいた。畑の奥には里山が広がる。境目に樹齢何百年という大桜がそびえている。その枝々にほんの一瞬、小動物の集団が現れ、走り回った。子どもたちは驚愕した。ガキ大将の話では「キネズミ」(リス)だった。

いつの間にか記憶が変形し、加工されて、「キネズミ」は頭の中でヤマネに変わっていた。ヤマネはしかし、夜行性のうえに体長が8センチほどしかない。夏井川渓谷で出合った小動物、たとえばノネズミとそう変わらない大きさだ。

目の前で丸まっているヤマネを見て、「キネズミ」の記憶が修正されていく。大桜の枝の太さと小動物の大きさからして、その小動物はヤマネの何倍も大きい。「キネズミ」はやはりリスだったか、と。にしても、リスが運動会をするなんてことがあるのかどうか、今も不思議でしかたがない。

2013年4月15日月曜日

風に散らされた


夏井川渓谷の小集落、牛小川できのう(4月14日)、春日神社の祭礼が行われた。といっても、林内にあるやしろに参拝=写真=し、定宿で「なおらい」をするだけ。渓谷を彩るアカヤシオ(岩ツツジ)が満開の日曜日に実施するのがならわしだ。今年も連絡がきて参加した。

肝心の、アカヤシオの花が激減していた。猛烈な低気圧に襲われた7日、アカヤシオは強風に耐えて満開だった。1週間後のきのうは、まるで三分咲き。「風に散らされた」という。7日は未明、いわきの平地で猛烈な雨になった。それが第一波。日中は一服したものの、夜にまた吹き荒れた。この第二波が影響したのだろう。

アカヤシオが咲くと、行楽客が各地から押し寄せる。渓谷を縫う道路が車と人で埋まる。磐越東線の列車も徐行運転をする。3・11後、これが一変した。おととしは、行楽客はほぼゼロ。去年は散発的に姿を見せただけ。今年も静かなものだった。

メディアの報道と行楽客は連動する。3・11取材が続くメディアに溪谷まで足を延ばす余裕はないのだろうか。それとも、早い開花と落花に観光部門からの情報提供が間に合わなかったか。

アカヤシオの花は牛小川の自慢の一つ。見に来てほしいが、来てくれなくてもいいと、住民の心は揺れつづけている。家の裏山のシイタケやタラの芽を摘んだり、畑を踏み荒らしたりする迷惑行為が後を絶たないからだ。

その裏山も一変した。間伐されて林床に光が躍っている。対岸の水力発電所から延びる送電線の下も伐採されていた。

「春日様」の祭りはこうして、ここ1年間の集落のできごと、直近の様子を知る場になる。

2013年4月13日土曜日

ヤマザクラの花


先の日曜日(4月7日)早朝、夏井川渓谷の無量庵へ行く前に、小川の諏訪神社へ寄った。強い低気圧が通過したあとだった。境内のシダレザクラは、しっかりと花をつけていた。右手にあるベニシダレも、その隣のヤマザクラ=写真=も満開だった。花と向き合って人心地がついた、そんな感じがした。

わざわざ遠出をしなくても「春」は足元に、頭上にある。庭のスミレが、近所の家のソメイヨシノが心を和ませる。それはしかし、気持ちに余裕があればこそ、だ。

4月に入ったとたん、生活のリズムが変わった。区内会の総会が3月末に開かれ、新しい役員が決まった。副区長の宿命で、区長兼務の行政嘱託員になった。高みの見物をしてはいられない、当事者意識を持たねば――と自分に言い聞かせて、役員を引き受けてから3年。だれかがいっていたが、怒涛のような日々が続く。

区内会の口座その他の名義変更、小学校の入学式や民生委員との懇親会への出席、340世帯に配る回覧資料の割り振り・配付……。そこに、所属しているいわき地域学會の総会準備などが加わって、頭がこんにゃくになりそうだ。

自分の時間はどこへ行った? いや、時間は絶えずヒトとの関係のなかで決まる。その調整の度合いが変わった。自分の都合を優先できなくなっただけだ。小学1年生と同じで、ちょっぴり緊張しながら慣れるのを待つしかない。

2013年4月8日月曜日

花に嵐


いわきの平地でソメイヨシノが満開になった。すると、山地の夏井川渓谷ではアカヤシオ(方言「岩ツツジ」)が満開になっているだろう。きのう(4月7日)早朝、起きるとすぐ車をとばした。渓谷の無量庵の庭から対岸を眺める。全山に淡いピンクの花が点描されていた=写真

平地のソメイヨシノと溪谷のアカヤシオは時を同じくして開花する。渓谷へ15年以上通って体に刻んだ経験則だ。今年も自然は裏切らなかった。

実は、行くか行くまいか迷っていた。猛烈な低気圧が接近している、いわきは土曜日の夜から日曜日にかけて暴風雨に見舞われる、という予報だったから。目を覚ますと風がやみ、雨もやんでいた。たいしたことはなかったらしい――そのときはそう思ったが、実際には1時間に90ミリ以上の雨がたたきつける記録的な豪雨だった。

あとでテレビを見たら、旧知の記者氏が現場レポートをやっていた。市水防本部のまとめによると、7日午後5時現在、平地の内郷を中心に床上・床下浸水が非住家を含めて185棟に及んだ。

渓流はチョコレート色に濁っていたが、水かさはそんなに増してはいなかった。山地より平地に、しかも一気に雨が降ったのだ。

夏井川渓谷では春の花と言えば、他に先駆けて咲くこのアカヤシオである。2010年までは開花期、路上駐車が問題になるほどだったが、2011年は震災・原発事故のために行楽客はほぼゼロ。昨年はお年寄りを中心に少し。今年は? 最初の週末、「花に嵐」で車の数は少なかった。

2013年4月4日木曜日

歌人の懇親会


先日、歌人の高野公彦さんを囲む懇親会が勿来の「関の湯」で開かれた=写真。高野さんはコスモス短歌会、朝日歌壇の選者だ。いわき市立草野心平記念文学館で講演したその晩、コスモス所属の地元歌人が中心になって懇親会を主催した。

東日本大震災後、コスモス短歌会福島支部が歌集『災難を越えて 3・11後』を発刊した。代表の高橋安子さんから送っていただいた。読後感を当ブログに書いた。その縁で懇親会に招かれたのだった。

短詩型文学に興味がある。といっても、手元にあるものを読む程度だ。文章を寄稿している俳誌(季刊)が届く。震災後は新聞の俳壇、歌壇をチェックする。その延長線上で『災難を越えて』をじっくり読んだ。

共感したのは短歌の作品に多かった。五七五よりも七七音多い分、内面まで下りていける、ということなのだろう。そんなことを自己紹介のなかで話し、「俳句は早々と『原発忌』だとか『福島忌』だとか言っているが、それには反発を感じる」とも付け加えた。

高橋さんは元教師。教え子が“一本釣り”をされて短歌の世界に分け入る、というケースがあることを自己紹介のなかで知った。四倉町の若い開業医はその一人。締切日が近づくと、指で五七五と数えながら呻吟する。「突然の地震長いぞ揺れ強いぞ点滴患者のそばで身構う」は、まるで学校の宿題でもやるようにして仕上げたか。

あとで高野さんがあいさつした。「いろんな人と会う、人間って面白いなと思う。短歌をやって知った人生の楽しみです」。確かに、短歌のつくり方も人それぞれ、人間って面白い。

2013年4月3日水曜日

津波標識


わが家から車で国道6号を北上すること10分余り、右手にいきなり四倉海岸が見えてくる。隣接する港の一角に「道の駅よつくら港」がある。たまにドライブを兼ねて買い物をしたり、昼飯を食べたりする。

日曜日(3月31日)に出かけると、道の駅の手前、6号沿いに新しい標識が立っていた。上から順に「東日本大震災/津波浸水区間/ここから」とあり、裏側の標識は「ここから」が「ここまで」になっていた=写真

磐城国道事務所が3月下旬に立てた。「津波浸水区間起終点標識」というらしい。北上する下りの車からみるとそこから津波が押し寄せた区間に入る、南下する上りの車からみると津波が押し寄せた区間がそこで終わる――という意味になろうか。

一帯は3・11に津波に襲われ、道の駅をはじめ6号沿いの民家が大破した。その後、ガレキは撤去され、道の駅もリニューアルオープンをした。

「津波標識」を見た瞬間、<そうだった、このへん一帯が津波に襲われたのだ>。震災の記憶がよみがえった。

そこがポイントらしい。磐城国道事務所のHPによると、道路利用者(車両・歩行者)が日頃から津波を意識し、避難行動の目安になるように、標識を設置した。天災は海からやってくる。津波標識はその教えでもある。