2013年5月31日金曜日

携帯ストラップ

私の携帯ストラップは、富岡町から避難している94歳のおばあさん手づくりの「ちりめんふくろう」=写真。1年がたって、新しくいただいたものに替えた。

イトーヨーカドー平店2階に、被災者のための交流スペース「ぶらっと」がある。1年前、ここでおばあさんと出会い、ストラップをいただいた。

富岡町にいたころ、おばあさんはストラップをつくってはみんなに配って喜ばれていた。娘さんがたまたま「ぶらっと」(いわき駅前再開発ビル「ラトブ」のとき)を訪ね、母親の「ちりめんふくろう」を飾ってもらうと、欲しい人が続出した。借り上げ住宅に住み、話し相手もいない日々、再び張り合いが生まれた。

「ふくろうは一つひとつ違うの」「(ふくろうを)つくっていると肩がこらないの」「つくってプレゼントするのが楽しみ」。1年前のことばがよみがえる。

4月26日にNHK「おはよう日本」で「避難者への“いらだち”なぜ」が放送され、5月24日には毎日新聞が見開き2ページで「検証・大震災 福島・いわき市の現状 共生遮る誤解の連鎖」を報じた。

そうかもしれない。が、しかし――「融和」「支援」に努めているNPOや市民はいる。「いらだち」「あつれき」「誤解の連鎖」だけでなく、そちらにももっと光をあててほしかった、という思いが残る。

私の体験でいうのだが、双葉郡から近所の借り上げ住宅に避難してきた人々に、いらだちや反発を感じたことはない。それどころか、彼らの胸の内を占領しつつある断念・失意を思うと、つらくなる。ごみ出しだってルール通りになってきた。


一人ひとりと向き合えば、おのずと違った感情がわいてくるのではないだろうか。「ちりめんふくろう」は、その意味では私にとって共生のシンボルだ。

2013年5月30日木曜日

荻の峠の歌碑

おととい(5月28日)、震災から復旧した忠魂碑の話を書いた。同じ憂き目にあった「いしぶみ」は、たぶんあちこちにある。その一つ、山里の歌碑の復旧修繕事業にもふれておきたい。

いわき市川前町下桶売字荻地内の峠に安藤信正公の歌碑が立つ=写真。東日本大震災で地盤がゆるみ、土台ごと傾いたため、地元の住民で組織する「歌碑を守る会」が市のまち・未来創造支援事業(災害復興補助)を活用して修復することになった。

信正は幕末、幕府の老中を務めた磐城平藩主だ。NHKの大河ドラマ「八重の桜」の会津藩と同様、磐城平藩は奥羽越列藩同盟に加わって新政府軍と戦い、敗れた。

信正は山間部の下永井~下桶売~川内を経由して仙台へと逃れる。敗走の途次、豪雨に遭って、荻の峠のブナの木の下で雨宿りを余儀なくされた。そのとき口ずさんだのが次の歌だったとされる。

志(し)ばしとて雨宿りせむかひぞなき
こころもぬるる山毛欅(ぶな)の下かげ

ブナの大木はのちに「安藤山毛欅」と呼ばれるようになる。が、昭和30年代には寿命と道路拡幅工事が重なって伐採される。

昭和49年、地元有志の手で信正の歌碑が建立された。私がいわき市から田村市の実家へ帰るときのルートの一つ、川前から川内村へ抜ける県道上川内川前線沿いにあるので、ときどき車を止めて一休みする。先日も帰郷の折に歌碑をながめた。後ろの方に傾いているのがわかった。

歌碑はいったん解体され、地盤を強化したうえで再建される。今度か次に通るときには、「道ばたの文化財」としてよみがえっているに違いない。


ついでながら、いわき市立美術館では6月2日まで、ロビーを利用して「日独交流150年記念 安藤信正展」が開かれている。茶・香道具類に目を奪われた。

2013年5月28日火曜日

忠魂碑修復

平六小の裏山に旧神谷(かべや)村の忠魂碑が立つ。3・11に被害を受け、倒壊の恐れが生じたことから、神谷地区区長協議会が旧遺族会などから寄付を募り、業者に頼んで修復工事を進めた。工事が完了し、日曜日(5月26日)に新旧区長が参加して慰霊祭と開眼供養が行われた=写真

神谷地区は8つの行政区からなる。区長協議会はつまり8人構成で、この4月に5地区の区長が交代した。忠魂碑修復事業については旧区長の手で最後まで――ということらしく、新米区長は仕上げの慰霊祭に列席するだけですんだ。

昭和26(1951)年に発行された『神谷郷土史』によると、忠魂碑は大正9(1920)年に建立された。138柱の殉国の霊眠る、とある。138柱のなかには昭和の戦没者も含まれているのかどうか。土地っ子ではない新米区長には、詳細はわからない。

本来、この種の事業は遺族会が中心になって行うものなのだろうが、神谷の場合は遺族会に「旧」がついている。遺族にとっては大事なよりどころの一つである。コミュニティの中核をなす区長協議会としては、ほかに受け皿がない以上、窮状を座視するわけにはいかない、となったのだろう。


4月、区長になって初めて、山中にひっそりと立つ忠魂碑が地震被害に遭ったのを知った。同時に、みえないところで汗水を流してきた人たちがいることも知った。コミュニティはこうしたボランティア精神の発露と積み重ねによって維持されているのに違いない。そんな感慨がわく慰霊祭でもあった。

2013年5月23日木曜日

杉の皮はぎ


「吉田さん、これ」。森の中の小さな社(やしろ)の前に杉の木がある。幹の南側の樹皮がそそけだっていた=真。「ムササビかリスがはがしたんだ」という。夏井川渓谷の小集落・牛小川で行われた春祭りのときのひとコマだ。

戸数は、ときどき私が週末をすごす無量庵を含めて10戸、日々暮らしているのはそのうち8戸だろうか。小集落だから、祭りといってもささやかなものだ。渓谷に春を告げるアカヤシオの花が満開になるころ、各戸から1人が出て集落の守り神である「春日様」を参拝し、定宿で「なおらい」をするだけ。今年は4月14日に行われた。

人間に囲まれたまちと違って、自然に囲まれた山里である。住民はふだんからいきものと接して暮らしている。小さいときから自然に関する知識をたくわえると同時に、自然を利用する知恵と技術も身につけてきた。そそけだった杉の皮から動物の行動を推測することなどは、だから朝めし前なのだろう。

リスは日中、沢を歩いていたときに道を横切るのを見た。ムササビは夜間、車で走っていたとき、山側から谷へと滑空するのを見たことがある。杉の皮をはいでどうするのだろう、巣の材料にするのか。巣はどこにある?――住民の「自然を読む力」に舌を巻きながらも、好奇心に火がつく。これこそが「春日様」のご利益なのかもしれない。

2013年5月22日水曜日

後輩のわび状


3・11後に身についた“習慣”がある。車の燃料計の針が真ん中をさすと、ガソリンスタンドへ駆けつける。山中で送電線に出合うと、どこから来てどこへ行くのかが気にかかる。

いわき市川前町の“スーパー林道”(広域基幹林道上高部線)から、阿武隈高地の主峰・大滝根山(1193メートル)が見える=写真右奥。手前の山には風車群が、さらに手前には送電鉄塔がたつ。太平洋岸の福島第一、第二原発からのびる送電線は、いったん西の阿武隈高地へ向かい、いわきの山伝いに関東平野へと南下する。

“スーパー林道”で大滝根山と向かい合った5月初旬、後輩から定年退職あいさつの封書が届いた。第一原発が立地する大熊町の幹部職員として東電と向き合い、全町避難後はなんとかまちの将来に道筋をつけようと奮闘してきた。

3・11前であれば、あいさつ状は公務員人生を全うした安堵の文面になったことだろう。が、人類史に例を見ない原発震災に見舞われたまちの、責任者のひとりとしての苦渋がにじみでていた。

「県内はもとより日本全国に影響を与え、大変なご迷惑をお掛けしたこと、今も継続中であることに重ねてお詫びいたします」。今後は母親が避難している首都圏に仮住まいをし、不定期ながら、復興に向けた道筋をつけるためにまちの手伝いをしていく、という。

海外では、と識者は言う。原発事故を起こした日本は、日本人は加害者としてみられている。父の、いや後輩の詫び状を読み、識者の指摘を受けて、また少し認識が甘かったことを知る。少なくとも「文明の災禍」を招いた人間のひとりとして、加害意識を胸に刻みながら孫たちの世代にはわびないといけない。

こうして、阿武隈の山稜を切り刻んで東京へとのびる送電線を見る目が、思いが、だんだん複雑になってくる。

2013年5月18日土曜日

貯染・棄染・離染


ここ2回書いている阿武隈高地の話の続き。5月2日にいわき市から川内村、田村市へと山里を巡った。ウイークデーだったので、川内村と接するいわき市川前町では、道沿いの住宅で除染作業が行われていた。川内村に入ると、除染作業の終わった住宅が目についた=写真。田村市でも住宅の除染作業が進められていた。

裏に山をかかえた住宅が道沿いにポツリポツリと現れる。山の木々が家から20メートルにわたって剪定され、林床の落ち葉がかきとられて、きれいになっている。男性のヘアスタイルにたとえると、「震災刈り」のようなあんばいだ。裏山がそうなら、庭の表土ははがされ、新しい土が入れられたはずだ。その作業で出た枝や土はどこへ行ったのか。

川前ではところどころ、道端や家の庭の隅に青いフレコンバッグが置かれていた。作業現場の一角では、フレコンバッグに立ち入り禁止の札がついたロープが張られていた。田村市に入ると、フレコンバッグは黒色に変わる。除染で出たものはフレコンバッグに詰められ、自分の家や土地に仮置きされているようだった。

いわき市の、わが行政区でも原発事故から8カ月後、区内会と子どもを守る会の役員などが参加して除染作業が行われた。そのときの経験からいえば、土砂の線量は散らばっている状態では低く、集めてごみ袋に入れれば高くなる。

「震災刈り」の裏山や庭のフレコンバッグを目にするたびに、「除染」は「貯染」、あるいは「棄染」「離染」のことか。わが心身をはぐくんだあぶくまは今、悪いことをしたわけでもないのに「皮はぎの刑」に遭っている。そんな思いに沈んだ。

2013年5月16日木曜日

林道のモリアオガエル


いわき市川前町の“スーパー林道”(広域基幹林道上高部線)をたまに利用する。夏井川渓谷の牛小川(小川町)から山中の荻(川前町)まで14キロ。アップダウンとカーブが続く。終点近くの待避所に珍しい看板が立っていた=写真

原発事故から3カ月後、震災見舞いを兼ねて放射線量を測りながら、“スーパー林道”経由で田村市の実家へ帰った。2年後の5月2日、同じルートを、やはり放射線量を測りながら通った。そのなかで目に留まった「モリアオガエル生殖地」の立て看だ。

阿武隈の山中では別に驚くことではない。川内村の平伏(へぶす)沼はモリアオガエルの繁殖地として国の天然記念物に指定されている。“スーパー林道”から少し行けば、もうそこは川内だ。林道の山の向こう、小川町・戸渡(とわだ)にもモリアオガエルが生息する。水たまりがあって、周囲に雑木が茂っていれば、モリアオガエルは繁殖する可能性が高い。

林道での生殖を喜ぶべきかどうか。待避所にはロープが張られていた。が、アスファルト路面には落ち葉がたまっているだけだ。

それよりなにより、“スーパー林道”は放射線量が高い。2年前は毎時2マイクロシーベルト近くあった。今も場所によっては1.8マイクロシーベルトを超える。山の向こうの旧戸渡分校は、いわき市内に475カ所あるモニタリングポストのうち、いつも最大値(今は0.47程度)を示す。

事故を起こした福島第一原発は北東の方角にある。グーグルで見ればすぐそこだ。地形と風向きがホットスポットをつくった。モリアオガエルたちも嘆き、苦しんでいるに違いない。

2013年5月15日水曜日

ばっぱの家


「ばっぱの家」は、今は杉林に変わっている。樹齢は40年くらいになるだろうか。大型連休の合間を縫って、3・11以来初めて訪れた。近所の家で除染作業が進められていた。杉林のそばに土砂や砕石を詰めた黒いフレコンバッグが仮置きされている=写真

事故を起こした福島第一原発からは西に二十数キロ。杉林のそばで空間線量を測ると、毎時0.75マイクロシーベルトだった。

そこは阿武隈高地の中央部、鎌倉岳南東の山裾。幼少年期の記憶は黄金にたとえられるが、母方の祖母の家と周りの山野はまさにそういう場所であり、わが少年の心が帰っていく原郷でもあった。

かやぶきの一軒家である。夜はいろりのそばにランプがつるされた。寝床にはあんどんがともり、外風呂にはちょうちんをかざして入った。家のわきには池があって、三角の樋から沢水がとぎれることなく注いでいた。昼は山野を駆け巡り、夜は異空間と化した家で寝る――昭和20年代後半から30年代前半にかけての、春・夏・冬休みの記憶だ。

山道を下りたところに郡山市と双葉町を結ぶ国道288号が走る。2年前はふもとのバス停付近で毎時0.85マイクロシーベルトだった。「ばっぱの家」の杉林はそのころ、1マイクロシーベルトを超えていたのではないか。フレコンバッグには1.12µ㏜とか0,92µ㏜、0.72µ㏜などと数値が書き込まれている。

5年おき、あるいは10年おきに訪れては幼少年期を思い出して少し甘酸っぱくなったものだが、今回はそんな感傷はない。放射能は記憶さえも汚染してしまう――胸の中に広がる怒りを鎮めるのに時間がかかった。

2013年5月14日火曜日

空気が冷たい


テレビは、日本列島が暑い、暑いと言っているが、いわきの人間にはどうもピンとこない。晴れて暑くなったかと思えば、たちまち曇って冷気がしのび寄る。天候が落ち着かない。

日曜日(5月12日)がそうだった。雨上がり、晴れてさわやかな朝を迎えた。夏井川渓谷にある無量庵から自宅のある平野部へ下りてくると、田んぼからうっすらと水蒸気が立ちのぼり、背後の家並みもガスに包まれていた=写真

大型連休の一日、地元の祭りの式典に参加した。晴れて祭り日和になったのはいいが、風が冷たい。1時間ほど拝殿のなかにいたら、鼻水が垂れた。

ブレザーは夏物に替えたが、ワイシャツはまだ冬物だ。それで、街へ出かければ汗がにじみ、家に戻ってブレザーを脱げば一枚羽織りたくなる。ストーブも、こたつもまだ片づけられない。このところ何日かおきに灯油買いが続いている。人に会えば不順な天気の話になる。

田植えが遅れ気味のようだ。大型連休が終われば「神谷(かべや)耕土」は一面の青田――が例年の光景だが、まだ水を張っただけの田んぼもある。冷気が影響しているのだろうか。

きょうは朝から晴れ、小名浜でも19度まで気温が上がりそうだという。内陸の平では20度を超えるか。熱中症にならない程度に一度たっぷり汗をかいてみたい。

2013年5月13日月曜日

青葉と初ガツオ


久しぶりに夏井川渓谷の無量庵で一夜を過ごした。電車組2人を含む7人が東京、仙台、横浜、厚木、郡山などからやって来た。庭に並んだ車6台=写真=のうち3台はハイブリッド車だ。男たちの心根がなんとなくわかるような気がする。私もリタイアと同時に、ガソリンを食う四駆からフィットに切り替えた。

毎日が日曜日になった人間、請われて役員を続ける人間、家業に忙殺される人間と、それぞれに一日の過ごし方が異なってきた。が、青葉の時期か師走に無量庵に集まり、一献傾けるという習慣は変わらない。3月、「いわきの秘湯」に遊んだ際、大型連休が終わったあとの週末に集合することを決めていた。

いわきの初夏といえば、カツオの刺し身である。行きつけの魚屋さんに時間を指定してつくってもらった刺し身を、急いで無量庵へ運ぶ。見た目にも鮮やかな盛り付けだ。カツ刺しのみの大皿と、マグロ・ヒラメ・イカなどを盛り合わせた大皿と、味は上々だった。

カツオは静岡あたりの沖合で捕れたものが銚子に揚がっているらしい。消費が始まったばかりの東日本では値がいいので、たまたま市場に大型のカツオが並んだ。脂がのっていたのはこのため。ホトトギスが南から到来していれば、文字通り「目には青葉山ほととぎす初鰹」(山口素堂)だが、いわきではまだホトトギスの鳴き声は聞かれない。

夜が更ける前に、スウェーデンの旧友に国際電話をかける。4年前の2009年、同じように無量庵から国際電話をかけ、病気見舞いを兼ねて何人かで北欧を旅した。還暦を記念する「海外修学旅行」はこうして酔った勢いから始まった。

雨の一夜が明けると青空だった。緑に覆われた溪谷の空気がおいしい。軽く朝の食事をして散会する。

2人が携帯電話を忘れた。1人は、私が無量庵にいるうちに戻ってきた。いわき駅あたりで気づいたという。もう1人とは溪谷の途中ですれ違った(クラクションを鳴らした車がそうだった)が、こちらはそのまま気にも留めずに帰宅した。結局、彼は茨城県高萩市あたりでケータイ忘れに気づき、夏井川溪谷からわが家まで大回りする羽目になった。

人のことはいえない。私も前日、ケータイを充電しているのを忘れて家を出た。2人のうち1人も無量庵での「充電忘れ」だった。固定電話を介してカミサンが事情を知っても、ケータイを忘れた人間には連絡がつかない。それぞれがそれぞれに昼近くまで気をもんだ。

2013年5月5日日曜日

春の例大祭


近くに立鉾鹿島神社がある。5月4日に例大祭が行われる。神社から南へまっすぐ参道が伸びる。常磐線の線路が参道を横切っているので、そこはふだん通行が禁止されている。が、この日、神社を出発した神輿はためらいなく線路を渡り、鳥居をくぐって氏子の待つ集落へと繰り出した=写真

社伝によれば、同神社は大同2(807)年以前に創建された。つまり、1200年余の歴史を誇る。社殿が現在地に落ち着いたのは天正5(1577)年。明治になって敷設された線路などは、祭りの日には目じゃない。JR関係者と思われる人が線路敷に立って神輿が渡るのを見守っていた。

4月に行政区の代表になってから、生活のリズムが激変した。小学校の入学式に招かれ、長寿会の総会に顔を出し、合間に自分の仕事をする。

そこへ、神社から例大祭の案内状が届いた。わが行政区は県営住宅などがひしめく新開地のため、氏子はいないに等しい。祭りとは無縁の地区だ。で、去年までは祭典への出席(来賓として)を区長さんにまかせて、大型連休には自由に羽を伸ばしていた。その役目が今年めぐってきた。

午前10時に拝殿で祭典が執り行われた。女の子による稚児舞も奉納された。11時半に神輿が出発するのを見送った。それで、神輿が線路を渡るのを知った。早朝の花火も、去年までは「ん?」だったのが、今年は例大祭挙行の知らせだとすぐわかった。

祭りの行われたきのうは「みどりの日」。きょうは「こどもの日」、そして立夏。「未知との遭遇」が続いているうちに春が過ぎた、という印象が強い。

2013年5月4日土曜日

ぶらっとフェスティバル


いわき市のイトーヨーカドー平店2階にある、被災者のための交流スペース「ぶらっと」で、きのう(5月3日)から「ぶらっとフェスティバル」が開かれている。5日まで。

初日は、「ぶらっと」を会場に活動しているスケッチ教室、藍染め教室の受講者、押し花サークル、エコクラフトサークルの会員による「作品展示会」が開かれた=写真

作品を発表したのは、主に津波で家を流されたり、原発事故でふるさとを追われたりした被災者・避難者だ。

きょうは、きのうとは別の作品を展示・即売する「ぶらっとショップ」が開かれる。あすは「ぶらっとライブ」。腕に覚えのあるスタッフやボランティア、学生などが出演する。

「ぶらっと」は、シャプラニール=市民による海外協力の会が2011年10月に開設した。オープン当初から被災者を対象に各種教室を開いている。その過程で新しい教室が生まれ、避難者が講師になる一方、押し花やエコクラフトのようにサークルへと発展するものが生まれた。

「取り残さない」ために始めた支援活動の行き着く先は、被災者・避難者の「独り立ち」だろう。教室にあつまった見知らぬ人々がつながりあい、自主的に動き出す――サークル化はそのためのワンステップでもある。

3・11から2年余。「ぶらっとフェスティバル」は、被災者・避難者が活動の成果を発表する、またとない機会になった。いや、それ以上に一人ひとりが「主役」の晴れ舞台になった――ときおり、横目で活動を眺めてきた者にはそう思われる。

2013年5月1日水曜日

夏井千本桜


大型連休2日目の4月28日は運転手に徹した。夏井川の上流、田村郡小野町の夏井千本桜=写真=を見たいとカミサンがいうので、朝のうちにいわきから国道49号(いわき市三和町)~同349号を駆け上がった。

夏井川の堤防に連なる桜はソメイヨシノ。遠目にも色が落ち、見ごろが過ぎているのがわかる。加えて、北西の風が体を刺す。川岸の遊歩道はしのぎやすいということだったが、堤防に立つと、帽子が吹き飛ばされそうだ。15分かそこらで駐車料金500円を払い、県道小野四倉線を下って夏井川溪谷の埴生の宿(無量庵)で一休みした。

夏井川を軸にすると、右岸域(国道49号)から左岸域(県道小野四倉線)へと時計回りに一周したことになる。小野町の標高は400メートル余、夏井川渓谷は280メートル余。いわきの平地はそれよりもっと低い。それで、いわき市から小野町へ桜前線が届くまでに3週間ほどかかる。

無量庵では、「畑おこすべ~」を使って少し畑を耕した。昼を過ぎたころ、食事を兼ねて草野心平記念文学館へ行こうと、声がかかる。文学館では新年度の企画展「草野心平の詩 恋愛編」が始まったばかりだ。二つ返事で車をとばした。

あとで知ったのだが、息子と孫たちも同じ日の午後、夏井千本桜を見に行った。知り合いは夜、仕事を終えて車をとばし、ライトアップされた千本桜を眺めたとか。今や夏井千本桜は、下流のいわき市民にもよく知られる存在になった。