2013年7月31日水曜日

千石船と石炭

7月25日の午後、内郷白水町の「みろく沢炭鉱資料館」から近くの白水阿弥陀堂観光案内所(駐車場)まで、馬による石炭輸送が行われた=写真。小名浜港から千石船に積んで江戸へ送るための「石炭の道」再現イベントだった。

千石船の復元船「みちのく丸」が19日に青森を出港し、岩手の大船渡・釜石、宮城の女川を経由して、きょう(7月31日)朝、小名浜に入る。8月2日には東京へ出港し、同6~9日には東京駅でしめくくりの「寄港地物産展」が開かれる。東日本大震災の被災県のうち、青森・岩手・福島3県の新聞社からなる実行委員会が主催している。

小名浜でのイベント開催のために、地元有志による実行委員会が組織された。主催者からの要請でいわき地域学會も加わった。

今年は「いわきの石炭産業の父」片寄平蔵(1813~60年)の生誕200年に当たる。そのための記念事業実施団体連絡会が結成され、情報を交換しながら展覧会や巡検、その他のイベントを展開している。こちらにも地域学會が加わっている。

平蔵は材木商。材木のほかに、磐城七浜の特産物である鰹節などを江戸へ運び、財を成した。取引相手の豪商明石屋治右衛門から「燃える石」の存在を知らされると、友人の高崎今蔵とともに故郷の山野を歩きまわり、ついに安政2(1855)年6月、白水村弥勒沢で石炭を発見する。これによって弥勒沢から積出港の小名浜まで「石炭の道」ができた。

25日のイベントでは、当時の集積所まで石炭を詰めた叺(かます)を振り分けにして馬で運んだ。8月2日にはさらに、段ボールで馬をつくり、軽トラックに叺を積んで小名浜港へ向かう。小名浜では「みろく沢炭鉱資料館」の渡辺為雄館長が千石船運行主催者に石炭を託する。千石船の小名浜寄港と平蔵生誕200年をつないだイベントでもある。

ちなみに、平蔵は万延元(1860)年8月3日、江戸で亡くなった。新暦ながら3日後のことである。きょう午後にでも千石船を見に行こうかと思っている。

2013年7月30日火曜日

事前調査報告

もう3カ月半前になる。夏井川渓谷の無量庵(わが埴生の宿)=写真=へ行ったら、玄関のたたきに「事前調査報告」と題された1枚の紙が落ちていた。はがきや回覧物は戸のすきまから中にさしこまれる。それほど家は古く、戸はゆるい。

その紙の文面。「除染計画を作成するにあたり、除染を行う範囲の確認をさせて頂きました。/つきましては、目印となる点に、リボン及び杭を設置させて頂きました。ご不在の折、誠に恐縮ではございますが、ご理解、ご協力の程、何卒、宜しくお願い申し上げます。」

「調査実施者」として、小川地区の除染業務を委託された共同企業体の名前が記されており、不明な点はいわき市の原子力災害対策課か施工業者に連絡を――とあった。

人の文章を読むとすぐ「アカ」を入れたくなる。「頂きました」も、「及び」も、「程」も、「何卒、宜しく」も平仮名でいい。そう思いながら、目は「除染を行う範囲の確認」をしたことに釘づけになっている。

敷地内を巡ってリボンと杭を探した。それらしいものが隣地との境に立つヒノキの樹下にあった。後日、ほかのところでもリボン付きの杭を見つけた。「リボン及び杭」とはそれ、だろうか。

いわき市の除染実施計画によると、市内北部の川前、小川、久之浜・大久、三和、四倉、平地区はすべての大字が除染対象区域になっている。空間線量率を年間1ミリシーベルト(毎時0.23マイクロシーベルト)未満にするのが目的だ。

先日、市文化センターで集まりがあったついでに、市役所の原子力災害対策課に足を運んだ。2月12日に別の業者が調べたデータを出してもらった。敷地内8カ所の土・芝を、1センチ、50センチ、100センチの高さで測定した。100センチの線量をならすと0.23マイクロシーベルトをほんの少し超える。

自分でも無量庵の芝生とコケの庭を測って、0.2マイクロシーベルトを超えていることはわかっていた。いよいよきたか、という思いがわいた。

もっと山奥の川前や川内村、実家のある田村市で除染作業をしているのを見たことがある。無量庵でも庭の木々を剪定し、表土をはがして客土をすることになるのだろう。除去土壌は敷地に「仮・仮置き」されるのか。胸のなかで「怒」の字がまたまた大きく、強くなってきた。

2013年7月29日月曜日

アンパンマンとロックとフリマ

きのう(7月28日)、小川の草野心平記念文学館へ行ったら、親子連れでごったがえしていた。庭園ではフリーマーケット=写真、館内では「木の枝クラフトワークショップ」「ふたつや文学ロック」が行われていた。

新しい企画展が始まるたびに文学館を訪ねる。今回は7月6日に「みんなだいすきアンパンマン やなせたかしの世界展」がスタートした。9月8日まで。草野心平生誕110周年・同館開館15周年記念だという。

東日本大震災がおきた直後の日曜日(3月13日)、ラジオ福島は午前10時の時報のあと、「アンパンマンのマーチ」を流した。この選曲に、娯楽を突然奪われた子どもの親たちから多くの感謝の言葉が寄せられた(『ラジオ福島の300日』=2012年毎日新聞社刊)。アンパンマンは勇気の象徴でもある。

その生みの親のやなせたかしさんは、詩人としても名高い。「手のひらを太陽に」は代表作だろう。

2009年に出した『たそがれ詩集』のなかの「晩年」にも引かれる。朱子の「偶成」(少年老い易く学成り難し……)の最初の行をもじっている。<老年ボケやすく/学ほとんど成らず/トンチンカンな人生/終幕の未来も/なんだかヤバイ/それでも笑って/ま、いいとするか>

常磐に野口雨情記念湯本温泉童謡館がある。月に1回、童謡詩人について調べたことを話す機会があった。初代館長の故里見庫男さんから宿題を課されて取り組んだ。やなせたかしさんについても話した。『たそがれ詩集』が出版された直後で、「晩年」も紹介した。聴き手は、ご同輩ばかり数人だったが。

フリマとロックについても記しておこう。フリマでは、いわき地域学會の若い仲間が店を出していた。ロックには、川内と勿来の知人が出演した。

文学館は丘の上にある。地元の消防団員が駐車場の誘導にあたっていた。駐車場はほぼ満パイだった。そんなことは文学館始まって以来ではないか。「いえ、先日はもっとにぎやかでした」と学芸員の女史。もう一人の学芸員クンも親子連れの応対に忙しそうだった。

庭園では元副館長とも会った。地元をまきこんだイベントから何かが生まれる、次の何かにつながる――ということで意見が一致した。

2013年7月27日土曜日

じゅうねんよごし

阿武隈高地ではエゴマを「じゅうねん」と呼ぶ。小さいときから「ごまよごし」だけでなく、「じゅうねんよごし」を食べてきた。ゴマはゴマ科、エゴマはシソ科。種から油をとったり、炒ってすりつぶして「よごし」にしたりすることは同じでも、植物としての姿かたちはまるでちがう。

いわき市暮らしの伝承郷が「いわきの昔野菜展」のために、園内の畑で「小白井(おじろい)きゅうり」などいわきの伝統野菜を栽培している。そのなかに「白じゅうねん」と「黒じゅうねん」がある=写真。シソ科だけあって葉は青ジソにそっくりだ。花もシソと同様、穂状に咲くのだろう。

「ごまよごし」も、「じゅうねんよごし」もおふくろの味だ。が、親は“自産自消”の畑でゴマを、あるいはエゴマを栽培していただろうか。種採りを手伝わされた記憶がないから、ゴマとエゴマは買うか、もらうかしていたにちがいない。

植物としてのエゴマを見たのは初めてだった。畑と「じゅうねんよごし」の間にある台所、商店、農家への想像力がまったく欠けていた。見たこともないものには想像力がはたらかない。想像力がはたらかなければ思考もふくらまない。「じゅうねんよごし」の、ただの消費者だった。そのことを思い知る。

そこからの自戒。阿武隈の山と里は原発事故に泣かされた。今も泣かされている。農家・林家の存在を否定するようなことばだけはつつしまないと。

2013年7月26日金曜日

ゴイサギ

いわき市内郷の白水阿弥陀堂は南と東西を池に、北と東西を山に囲まれている。境域に入るには池の手前、白水川(新川)に架かる阿弥陀橋を渡る。きのう(7月25日)夕方、橋のたもとで知人と話をしていたら、ゴイサギがふわりと川に舞い降りた=写真

黄色い脚、オレンジ色の目、後頭部から延びた白い冠羽、藍色の背中と白っぽい腹。カラス大でずんぐりしている。そろりそろりと川を歩き、草むらの上に止まってじっと流れを見つめている。距離にしてざっと10メートルだろうか。知人と話をしながら、目はゴイサギにくぎづけになった。

日中、夏井川の堤防を行き来することがある。アオサギやコサギは普通に見られる。が、ゴイサギには出合ったことがない。ゴイサギが活動を始める夕方には家にこもっている。当然といえば当然だ。別名、「夜烏(よがらす)」。夜、「クワッ」と一声鳴いて家の上空を飛んでいく。そのときだけ、図鑑で見た姿が思い浮かぶ。

阿弥陀橋のたもとに立つ前、白水川の上流にある「みろく沢炭鉱資料館」の駐車場にいた。「カナ、カナ、カナ、……」。今年初めてヒグラシの鳴き声を聞いた。何匹も鳴き交わしているようだった。住人に聞くと、1週間ほど前に鳴きだした。ヒグラシは森にすむ。朝晩うるさいくらいに鳴き交わす、といわれても、街に住んでいる人間にはよくわからない。

駐車場ではニイニイゼミも鳴いていた。わが家の庭のカキの木でもつい先日、ニイニイゼミがかすかに鳴いた。いよいよ夏のいのちが充満しつつある。

2013年7月25日木曜日

昔のキュウリ

団塊の世代だからこその「時代区分」がある。少年期(昭和30年代)、高度経済成長政策によって暮らし向きが変わった。庭の手押しポンプからバケツに飲料水と風呂水をくんでいたのが、蛇口をひねれば出る水道に替わった。衣類の洗濯も、たらいと洗濯板の人力から電気洗濯機に替わった。

実家は床屋だが、野菜はそれなりに“自産自消”をしていたようだ。家から離れた山裾に畑があった。夏休みになるとトウモロコシを収穫し、キュウリをもぎって食べた。キュウリはずんぐりとしていた。この「小白井(おじろい)きゅうり」=写真=のように、熟すると茶色くなるものがあった。自家採種をしていたのかもしれない。

いわき市暮らしの伝承郷で、9月1日まで「いわきの昔野菜展」が開かれている。企画展示室では写真と解説で昔野菜を紹介し、園内の畑では実物を栽培・展示している。「小白井きゅうり」のほかに、三和(みわ)の「昔きゅうり」、阿武隈高地で広く栽培されている「白じゅうねん」「黒じゅうねん」などがあった。

2011年3月に発行された、最初の『いわき昔野菜図譜』(いわき市発行)によれば、「小白井きゅうり」はどぶ漬け・酢の物・きゅうりもみ・きゅうり炒め・きゅうりとなすの味噌汁にして食べる。昔、食べたなかで最も鮮明に覚えているのは、真夏のきゅうりもみ。水分がたっぷりあってやわらかかった。「小白井きゅうり」もやわらかいのが特徴だ。

地球温暖化がいわれ、一人ひとりがどこまでエネルギー消費を減らせるか、が問われるなかで東日本大震災と原発事故がおきた。いよいよ節電を暮らしの軸におかなくてはいけなくなった。少し不便を、少し人力(ウデ)の復活を――小さく循環する暮らしのイメージが思い浮かぶ。

昔のキュウリを食べたことのある人間には、“自産自消”と自分のウデを生かした暮らしとは一体のものだ。昭和30年代、つまり高度経済成長前の暮らし方を参考にすれば、エネルギー消費はだいぶ抑えられるのではないか。

2013年7月24日水曜日

局地的な雨

いわき市のいわきグリーンスタジアムで月曜日(7月22日)、プロ野球のオールスター第3戦が行われた。テレビで観戦した。選手がアップされると、雨粒が映った=写真。「エッ、こっちは降ってないぞ」。同じいわき市内ながら、テレビの向こう側とこちら側とでは天気が違う。生中継のおもしろさだ。

5回が終わった時点で「猪苗代湖ズ」が出演した。♪……ふくしまが好き~、と歌い終わった瞬間、尺玉が打ち上げられた。球場からわが家までは北東方向へざっと10キロ。「来るぞ」。テレビで花火の音を聞いたあと、耳を澄ましていたら、数秒後に「ドドーン」という音が届いた。このときは、まだ雨は降っていなかったのではないか。

いわきはハマあり、マチあり、ヤマありで、市域がかなり広い。それで、南部と北部とでは天気が違う、といったことがしばしば起きる。隣り合う街でも降ったり、降らなかったり、がある。きのう(7月22日)がそうだった。

午後2時から4時まで内郷にいた。雨は降らなかった。平に戻ると路面がぬれている。土砂降りだったらしい。同じ時間、内郷にいた身にはカミサンの話がピンとこなかった。

夏井川も久しぶりに増水していた。これはしかし、オールスターの終了と同時に降り出した雨によるもので、昼の土砂降りのせいではないだろう。

きょうも大気が不安定のようだ。

2013年7月23日火曜日

街頭演説

京都2日目の日曜日(7月14日)午後、夜の定期観光バスに乗る前、京都タワーからの展望を楽しんだ=写真。手前に龍谷大学饗都ホール、奥に新幹線が見える。洛南を“スコール”が襲っている。京都は北と東西が山、南が平地の、いわゆる「蔵風得水」の地であることを実感した。

タワーは京都駅の近くにある。参院選さなか。駅前で共産党の志位委員長が街頭演説をしていた。テレビでよく見る政治家が目の前にいる。歩道と広場をびっしり人が埋めている。京都へ着いて初めて祇園祭開催中と知って驚き、志位さんの演説を聴く人垣に出合ってまた驚いた。旅の余禄である。

京都・奈良の旅から帰って、期日前投票をした。共同通信とNHKのアルバイト女性が待ち受けていた。いわゆる「出口調査」だ。投票を終えたばかり、ということもあるのだろう。物腰のやわらかさについ足を止め、アンケート用紙を受け取って該当する項目にマルをつけた。

車の運転にはアクセルとブレーキのあんばいが大事だが、結果は自民圧勝に終わった。ブレーキを願う無党派層のなかに、「反自民・非民主」の思いが渦巻いていたのだろう。共産党にその渦が向かった、ということは、京都での人垣からも想像できる。

定員2人の京都選挙区では、新人の女性候補(福島県西会津町出身だとか)が当選した。2人目の当落線上にいたからこその、志位委員長の街頭演説だったか。

2013年7月22日月曜日

発酵の話

いわき地域学會の第287回市民講座が土曜日(7月20日)、いわき市文化センターで開かれた=写真。講師はいわき明星大薬学部で教鞭をとる馬目太一会員。発酵のイロハをわかりやすく解説した。(馬目さんは「醗酵」の字を使うが、ここは常用漢字で表記する)

人類が発酵食品を発見する過程がおもしろい。熟しきったヤマブドウを食べると気分がよくなることに気づいた人間が、同じものをつくろうと努力した結果、ワインが生まれた。甘いパン生地に水を入れて放置したものを飲んだところ、いい気分になった。ここでも人間が同じものをつくろうとがんばった結果、ビールができた。

腐った食べ物のなかに、食べてもなんともないものがあり、それが元のものと違った魅力的な味があることを見いだした――。発酵食品の発見には人間の蛮勇と食欲と好奇心があった、ということだろう。キノコの食毒についての知識も、同じようにしてたくわえてきた。ただし、こちらは多くのいのちと引き換えに。

日本には乳酸発酵を利用した漬物がたくさんある。野沢菜漬・高菜漬・広島菜漬・すぐき漬・たくあん漬……。なかでも糠味噌はキュウリ・ナス・ニンジン・カブ・大根・ミョウガと、なんでも漬けこめる。難点は、毎日かきまぜないと糠味噌がだめになることだ。

わが家の糠床がおかしい。3日ほど家を留守にしていた間に、かすかだがシンナー臭を発するようになった。カミサンは1、2回、糠床をかきまわしたというが、産膜酵母と酪酸菌が繁殖したようだ。「糠床は男が管理しないとねぇ」。馬目さんと意見が一致した。

2013年7月21日日曜日

気づかない贅沢

京都の清水寺でのこと。「舞台」に立ったあと、順路の表示にしたがって門前町に戻った。途中、木々の茂る散策路を歩いていると、ブロアーを手にして落ち葉を吹き飛ばしている人がいた=写真

一段下の「音羽の滝」の手前にも、同じ作業をしているおじさんがいた。思わず声をかける。「毎日やってるの?」「そう、第二の人生」。定年で仕事を終えたあと、境内の散策路をきれいにする作業に生きがいを見いだした、ということだろう。

見た目のきれいさだけではない。濡れ落ち葉を踏んで足を滑らせることがないように。そんな配慮から、落ち葉を路外に飛ばしているにちがいない。こうした場面ではいつも、「ささやかさ」と題された作家角田光代さんの短文を思い出す。

「差し出されたお茶とか、てのひらとか。毎朝用意されていたお弁当とか、うつくしい切手の貼られた葉書とか。それから、歩道に咲くちいさな赤い花とか、あなたの笑顔とか。私たちは日々、だれかから、感謝の言葉も見返りも期待されない何かを受け取って過ごしている。」

原文は行分け詩のスタイルをとる。その最後の4行。「あまりにもあたりまえすぎて、/そこにあることに、ときに/気づきもしないということの、/贅沢を思う。幸福を思う。」

京都の魅力はなんといっても歴史の重みと文化の厚みだろう。名もない人々の、日々の、ささやかな仕事がその重みと厚みを支えている。きれいな散策路を歩く贅沢もそうして毎日、用意される――と言ったら言い過ぎか。

2013年7月20日土曜日

クマゼミ

近鉄奈良駅からアーケード街を抜けると、間もなく猿沢池=写真=に出る。家並みが途切れたとたん、「シャ、シャ、シャ、シャ、……」という大きな音が道沿いの木々から降ってきた。生まれて初めて聞くクマゼミの鳴き声だった。

京都の清水寺では今年初めて、ニイニイゼミの声を聞いた。奈良でもニイニイゼミは鳴いていた。奈良のニイニイゼミの方が、元気がよかった。

定期観光バスで京都の町を巡り、特急電車で奈良へ向かう途中、キョウチクトウとサルスベリの花を見た。いわきでは8月の花だ。やはり西日本は東日本より暑く、夏も早い。

いわきへ帰ってきたとたん、あまりに肌寒いので驚いた。きのう(7月19日)、いわき駅前再開発ビル「ラトブ」6階で始まった新谷窯展(22日まで)をのぞくと、ヤマユリの花が飾ってあった。いわきでは梅雨明けとヤマユリの開花が重なる。週後半になってようやく暑さが戻ってきた。夏も近いということだろう。

そういえば、きのうは小・中学校の終業式だった。朝、家の前を子どもたちがはしゃぎながら登校していった。昼前にはもっとはしゃぎながら帰ってきた。

ふだんはまだ眠いのか、授業が控えているせいなのか、黙々と登校するだけ。下校時になるとこれが一転し、低学年生が大声を上げながら通り過ぎる。その時間はきまって午後2時50分前後だ。わが家の前を子どもたちが通り過ぎるころ、東日本大震災が発生した。それで、子どもたちの声が聞こえると3時が近いことを知る。

ヤマユリは、いわきでは夏休みの始まりを告げる花でもあった。

2013年7月19日金曜日

支援募金箱

2泊3日の旅行最終日、7月15日は奈良公園周辺の興福寺、東大寺、春日大社を巡った。13日午後に同級生8人が京都駅で合流し、1人は14日夕には帰路についた。最終日の朝、駅でひとまず解散したあと、4人が近鉄京都線を利用して奈良へ向かった。京都から特急でわずか30分の距離である。平城京と平安京は思ったより近い。

東大寺は、三脚は禁止だが撮影が許されている。何枚かパチリとやった。大仏の前に、東日本大震災・奈良県大水害被災地・文化財レスキュー事業のための「支援募金箱」が置かれていた=写真。京都の西本願寺にも大震災支援を呼びかける立て看版があった。神社も支援活動を展開しているのだろうが、目に入ったのはこの二つだけだった。

西日本ではとっくに東日本大震災は忘れられている――と思い込んでいただけに、日本を代表する寺々の支援活動をありがたく思った。神も仏もまだまだみちのくの惨状に心を痛めている。

よく言われる、被災地とそれ以外の地域の「温度差」だが、追い立てられるように列車を乗り継ぎ、歩き、バスで移動したので、それを感じるひまはなかった。ただただ巡った寺で、神社で、「小銭で申し訳ないが」と胸の中でつぶやきながら、原発事故の収束を祈った。

2013年7月18日木曜日

祇園祭

京都に着いて初めて祇園祭が行われていることを知った。街の中に「山鉾」が立っている=写真。行き交う人もふだんより多いとバスガイドさんがいう。

5月、夏井川渓谷の埴生の宿(無量庵)に同級生がつどい、ほろ酔い気分で今年の“修学旅行”先を話し合った。みんなの仕事や体調その他を考えて、7月13~15日の3連休に京都へ行こう、となった。それだけの話で、祇園祭のことは念頭になかった。そもそも京都の年中行事については知識がない。

さっそく、無料で配られている京都新聞発行の「祇園祭特集2013」(タブロイド判8ページ)に目を通す。私たちのような観光客向けのフリーペーパーだろう。祭りの歴史、「山」と「鉾」の違い、主な行事日程などをざっと学習した。

「京の都で疫病が度々流行した平安時代、当時これは怨霊の仕業と考えられ、頻繁に厄よけ祈願の祭礼が行われていた。869(貞観11)年には、当時の国の数にあたる66本の矛が神泉苑に立てられ、悪霊退散が祈願された」。これが祇園祭の始まりだとか。

貞観11年といえば、東日本大震災と同規模の「貞観地震」が発生した年だ。みちのくの天変地異も念頭においての悪霊退散祈願だったか。

きのう(7月17日)、メーンの山鉾巡行が行われた。テレビニュースを見ながら、13日、14日(宵々々山)、15日(宵々山)の京のにぎわいを思い出していた。汗と雨の時間も。いわきは肌寒い日が続いている。

2013年7月17日水曜日

まるで雨季

この連休、京都を巡り、奈良へも足を運んだ。京都ではたびたび雨に見舞われた。どんよりして蒸し暑い中、ホテルに着くとすぐ最初の“スコール”がやってきた。窓から雨を眺めていたら、南隣の大きな建物(本願寺聞法会館)にたちまち三段の滝ができた=写真

今度の旅に参加した同級生は8人。還暦を機に“修学旅行”を始めた。毎回参加している。最初の年(2009年)に北欧を旅した。フィヨルドの玄関口、ノルウェーのベルゲンは「1年に400日は雨が降る」といわれるほど雨の多いマチ。空港からマチへ近づくと、直前の雨で岩山に滝ができていた。京都入りしてすぐにそのことを思い出した。

2回目は台湾へ。台風の影響で新幹線を利用した高雄観光が中止になった。昨年訪れたカンボジアも雨季のさなかで、一日に何度も雨に見舞われた。京都は、蒸し暑いうえにたびたび雨が降る、という点では、カンボジアに似ていた。まるで雨季ではないか。

初日夕方、京の繁華街へ繰り出すとまたまた雨。仲間の傘に入ったものの、体半分がずぶぬれになった。我慢できずにコンビニに飛び込んでビニール傘を買う。傘の用意をしなかったのは、いわきからの2人だけ。3日間、雨の神様のおかげで傘を手放せなかった。

2013年7月16日火曜日

ホーム案内

早朝のいわき駅1番線ホーム。特急「スーパーひたち」のドアが開くまで、あたりをブラブラしていたら、階段手前に架かるホーム案内が一部黒くなっているのに気づいた=写真。“張り紙”のようだが、内側の電光が強くて下の字まで透けて見える。上の字と下の字がダブっているので、なんて書いてあるかよくわからない。近づいて確かめると――。

4・3番線ホームは常磐線、6・5番線は磐越東線と常磐線である。常磐線のうち、下りは「原ノ町・仙台方面」の表示がなされていたのが、いわき駅からたった23キロ北の「広野方面」に変わった。同じく磐越東線も、「小野新町・郡山方面」の上に「郡山・仙台方面」の“紙”が張られた。

いわき~仙台駅間はざっと150キロ。常磐線は主に太平洋沿岸部を走るため、東日本大震災では津波で壊滅的な被害を受けたところもある。そのうえ、沿線の双葉郡では福島第一原発で過酷事故が起きた。事故の収束作業が今も行われている。原発の南側ではそれで広野駅までしか復旧していない。

2012年のお題は「岸」だった。歌会始で披露された元福島高専校長寺門龍一さんの作品「いわきより北へと向かふ日を待ちて常磐線は海岸を行く」を思い出す。寺門さんは茨城県に住む。常磐線を利用して自宅と校長官舎の間を行き来した経験がある。常磐線の全面復旧に被災地の復興を重ね合わせた。

ホーム案内の表示変更から、あらためて常磐線の厳しい現実に思いが至る。一部では内陸移転の計画があるようだが、それらを含めて全面復旧にはどのくらいの年数がかかるのだろう。しかし、生きているうちに「スーパーひたち」に乗って仙台の朋友のもとへ――そのくらいの夢はもつことにしよう。

2013年7月13日土曜日

ネジバナを真上から見たら

わが家の庭にはないが、となりのコインランドリーの駐車場、近所のおじの家の庭にネジバナが生え、花を咲かせている。夏井川渓谷の無量庵の庭は、それこそネジバナの天国だ。年を追って増えている。

ネジバナは、らせん状に咲くからその名がついた。その花を真上から見たら、「風車(かざぐるま)」になっていた=写真。花の径は5ミリあるかないか。へたな撮影だからこんなものだが、焦点深度を計算できるプロのカメラマンだと、もっと面白い写真が撮れるにちがいない。

それはともかく、きょうはこれから京都へ出発する。朝6時すぎ、「スーパーひたち」で上野へ。東京から新幹線で京都へ。

京都へ行くのは何十年ぶりだろうか。18歳、高専3年修了後の春休みに関西方面への修学旅行が行われた。今も覚えているのは京都で朋友と2人、今でいうディスコへ繰り出して門限破りをしたことだ。踊りに来ていた同年代の「京女」が、「東男」にやさしく接してくれた。

「京文化」の真髄に触れる――が今回のテーマだ。ということで、2,3日ブログを休みます。

2013年7月12日金曜日

キノコに降りかかった原発災害

いわきキノコ同好会の会報第18号=写真=が届いた。冨田武子会長が「キノコに降りかかった原発災害Ⅱ」を書いている。栽培・天然両方のキノコについて、いわき市とNPO法人が測定した放射線量結果(平成23年4月1日から12月31日までの680件)を一覧表にし、考察している。

最大値はシイタケ1万6190ベクレル(キログラムあたり=四倉)。次いで、クサウラベニタケ7660ベクレル(三和)、チチタケ7180ベクレル(三和)など、1000ベクレルを超えたキノコは40件余。最高級菌のコウタケは最大2061ベクレル(川前)だが、ゆでたものはゼロか3.6ベクレルと低い数値にとどまっている。

冨田さんは一覧表からみてとれることとして、①同一地域内の産物でも放射能値に差がある。同様に、同種であっても値が極端に異なるものがある②食材であるキノコをゆでて水洗いしてから測定すると放射能は激減する。ただし、風味は失われる③傾向として原発に近い方の場所や山間部のキノコは放射能値が高い傾向がみられる――などを挙げている。

前から頭に引っかかっていたことがある。クサウラベニタケだ。毒キノコをなぜわざわざ測定したのだろう。食菌のウラベニホテイシメジなら話はわかる。そもそもウラベニホテイシメジと誤認して、クサウラベニタケを食べて中毒事故を起こすくらいだから、両者は似ている。ただ、ウラベニホテイシメジからはこんなに高い数値は出ていない。

会報には、広井勝郡山女子大教授が「野生きのこ、落ち葉の放射性セシウム濃度の動向」と題して、特別寄稿をしている。針葉樹の落ち葉の放射性セシウム濃度は落葉広葉樹などに比べて10倍程度高い、1年後に同一場所で採取したキノコで非常に数値の高いものがあった、その反対もある、といった分析結果を紹介している。

広井さんはいう。2012年度は「2011年度に採取した落ち葉と比較すると、針葉樹、広葉樹とも放射性セシウム濃度はほぼ半減していた」。しかし「針葉樹の葉はいまだ放射性物質の濃度が高く、森林の空中放射線量に大きく影響を及ぼしている」。敵がだれでどこにいるか、再確認をしないといけない。

2013年7月11日木曜日

ルリタマアザミ

知り合いの花屋さんに行ったら、ルリタマアザミがあった=写真。2本を買い、1本は被災者のための交流スペース「ぶらっと」に、もう1本はわが家に飾った。この花に引かれるのは、若いときに堀川正美さんの詩集『枯れる瑠璃玉』を読んだから。「聖母子像」の幼児とルリタマアザミを配した表紙のデザインが忘れがたい。

3・11で本が総崩れになった。読みたくてもどこにあるかわからない本がたくさん出てきた。『枯れる瑠璃玉』もその1冊だった。それから2年余。またどこかにまぎれてしまった。私はどちらかといえば片づけない性質(たち)、カミサンはときどき爆発的に片づける性質だ。この半月、折に触れて探しているものの、まだ見つからない。

その過程で、別の小冊子が出てきた。昭和42年3月発行の平高専(現福島高専)学生会誌「ひゞき」第2号。高校・短大に対応する5年制の工業専門学校で、この年初めて卒業生が社会に巣立った。西暦でいえば1967年、今から46年前だ。

初代校長が「高専の前途」について書いている。座談会「われわれはこう考える 学生の政治参加について」の記事が載っている。「劣等感を捨てよ」と題した物理教官の文章には鬼気迫るものがある。「1時間の授業に対して平均9時間以上の準備をして教壇に立った」。あの白熱の授業の裏にある刻苦勉励に、この年齢になってやっと気づいた。

最初の卒業生はもう67歳、私たちは3期生だから65歳。その後、弁理士になり、弁護士になり、医師になり、声楽家になりと、「脱工業」を生きた先輩が何人もいる。むろん、おおかたはエンジニアとしての人生を送った。その朋友たちの人生を重ねながら、文章を読んでみるのも面白い。

あさって(7月13日)、いつもの同級生が京都駅につどい、2泊3日の「京文化研修会」を敢行する。学生会誌に名を連ねた仲間がいるので、この冊子を携行しよう。海援隊の「思えば遠くへ来たもんだ」ではないが、半世紀前の「若気の至り」を酒のさかなにする、いい機会だから。

2013年7月10日水曜日

スズキのあら汁

夏から秋、日曜日の夜はカツオの刺し身と決めている。染付の「マイ皿」を持って魚屋さんへ出かける。たまに「あら」をもらう。このごろはカツオのあらよりヒラメ、ヒラメとスズキがあればスズキのあらを選ぶ。あら汁にする=写真。さっぱりした、上品な味が好ましい。

3・11前はもちろん、魚屋さんが扱う魚は地場物だった。漁協が操業を自粛している。ときどき新聞に「緊急時モニタリング検査結果」が載る。最新のデータでは、エゾイソアイナメ(ドンコ)だけが100ベクレルを超えていた。9月にはいわき沖でも試験操業が始まる。ようやくそこまできた。

ところが、魚屋さんの心配は消えない。「米は全量検査ができるが、魚は……」。鮮度の問題がある。「枯れる」農産物とちがって水産物はすぐ「腐る」。安全と鮮度をどう両立させるか。

そのうえ、気になることがある。報道によると、福島第一原発で海側にある観測用井戸の水から高濃度の放射性物質が検出された。しかも、この3日間で数値が急上昇しているという。漁業者はもちろん、魚屋さんも、消費者も海への流出を懸念している。怒りのこぶしを振り上げなくてもすむように。そう祈るしかない。

折から、原発事故時に指揮を執った前所長の訃報がメディアを駆け巡った。その死を悼むのにやぶさかではないが、問題はやはり汚染地下水の行方だ。大地をけっぺずらずに立てていれば――「カツ刺し」に引かれていわきに根を生やした人間の思考は、詮無いことと知りながらいつもそこへ帰っていく。

2013年7月9日火曜日

石もまた作物をつくる

少し宣伝を。もう3カ月以上前のことだが、いわき市農業振興課が『いわき昔野菜図譜 其の参』を発行した=写真。取材・編集を担当したのはいわきリエゾンオフィス企業組合。縁があって、「壱」「弐」「参」すべての「はしがき」を書いた。このごろ、やっと3冊目の冊子をパラパラやれるようになった。安直だが、その「はしがき」です。
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群馬県の山里で暮らす哲学者内山節さんの本(『自由論―自然と人間のゆらぎの中で』岩波書店)に、次のようなくだりがある。――日照りの夏、畑をふと見たら少し大きめの石が目についた。取り除こうとして石を持ちあげると、石の下はわずかばかりの湿り気と冷たさを帯びていて、ミミズのような小動物が集まっていた。

そのとき、内山さんは「畑の石は取り過ぎないように」と言っていた村人の言葉を思い出す。畑の土はそれらの小動物がつくっている。その小動物を小石が日照りから守っている。石もまた作物をつくっているのだと、内山さんは了解する。

本書の54ページ、「一族で継承。おたまさんのえんどう豆」に似た話が載る。いわき市遠野町で、隣り合う親戚2軒がおばあさん伝来のエンドウを栽培している。「栽培地周辺は、畑に小石が多く混じっています。耕して畑にするには大変不便な土地ですが、石には日中の熱を蓄え地温を保つ働きがあります」

夏井川渓谷の小集落に小さな菜園をもっている。畑の小石には悩まされてきた。石や硬い土が伸びる根を遮るから、ときどき大根やニンジンが“たこ足”になる。しかし、気象との関係でいえば、小石もそれなりの役目を果たしている。畑の石は多くても困るが、取り過ぎてもいけないのだということを、上記二つの話が教えてくれる。

この栽培者たちのきめ細やかな観察力はどこからくるのだろう。家族に食べさせたいという愛情が原動力になっているのはまちがいない。それは昔野菜に限ったことではないが、昔野菜とは切っても切れないものだ。

その延長線上に、親子の情愛を添えることもできる。「嫁に来たばかりの頃、働きすぎから腎臓を患い、見舞いに来た実母が腎臓の薬にと言って、実家で栽培していたスイカの種を分けてくれました」(15ページ)、「嫁入りの際に、実母から小豆を手渡されました」(17ページ)。昔野菜の種子の伝播・継承に母親が重要な働きをしていることが読みとれよう。

本書にはフィールドワークの成果が満載されている。とりわけ、畑の小石にまで目が届いていることに感銘を受けた。
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いわき市暮らしの伝承郷で7月20日から9月1日まで、「いわきの昔野菜展」が開かれる。チラシには、写真で野菜を展示する、施設内の畑でも展示する、とある。ということは、実際に栽培を試みている昔野菜もあるわけだ。畑をのぞく楽しみができた。

2013年7月8日月曜日

農家レストラン

時折、山里の農家レストランや直売所を巡る。きのう(7月7日)は農家のおばさんたちが運営している、いわき市三和町上三坂の「ぷろばんす亭」=写真=へ足を運んだ。夏井川渓谷の埴生の宿(無量庵=いわき市小川町上小川)からは車でざっと30分圏内だ。

日曜日はたいてい、無量庵で土いじりをしたあと、さてどこへ行くか、となる。3・11前は、同じ溪谷にある直売所「山の食。川前屋」(いわき市川前町)へ直行した。夏井川をさかのぼれば田村郡小野町、対岸の山を越えれば三和町。これまでに訪ねた直売所、農家レストランは両地区だけで7カ所に及ぶ。

「ぷろばんす亭」は土・日・祝日の昼(午前11時~午後3時)だけ営業し、自家野菜を主体にした料理をバイキング形式で提供する。バイキング料理プラスそば、同ハンバーグもあるが、バイキングとごはん、味噌汁だけにした。味噌汁の味がよかった。これも自家製だろう。要は、田舎の家庭料理、おふくろの味だ。

帰りは国道49号沿いの直売所「三和町ふれあい市場」へ寄る。糠漬け用にキュウリ、ほかに梅干しなどを買った。

直売所や農家レストランは3・11後、苦戦を強いられてきた。いわき市の農林水産業復興応援ポータルサイト「うまいべ!いわき」をのぞくと、運営者の苦闘・奮戦ぶりがわかる。「三和町ふれあい市場」は、風評被害より高速道の無料化が響いたという。目の前の国道49号を往来する車が減っては商売にならない。今は客足が戻ってきただろうか。

「山の食。川前屋」は、ポータルサイトには載っていない。きのう、その前を通ったら建物がなくなっていた。3・11後、夏井川溪谷を往来する車が激減した。「通るのは川内村へ除染に行く車だけ」という状態で、長らくシャッターが下りたままになっていた。ついにギブアップをしたか、という思いを禁じ得ない。

原因ははっきりしている。夏井川渓谷は、アカヤシオの花が咲く春と紅葉が燃え上がる秋に、行楽客でごった返していた。関係者の胸中にあるのは「原発事故さえなければ」という怒り・悲しみだろう。

2013年7月6日土曜日

未使用切手

知りあってから二十数年、亡くなってから11年。3・11後はとりわけドクターの不在を、ことばを交わせないもどかしさを痛感している。

奥さんからはときどき、本や衣類を整理したからと、電話が入る。先日も、ふとん、食器、丸型プレートなどを2回に分けて引き取った。その何日か前にも同じように車を走らせた。3・11前はバングラデシュの子どもたちのために、3・11後は身近な被災者のために、という思いが強い。ついでに、形見としてドクターの本をちょうだいする=写真

今度手元に置くことにした本は、私が『日本国憲法からの手紙』『日本国憲法』『広島・長崎の原爆災害』『阿武隈の雲』など、カミサンが『なだいなだ全集』など。いわき市は昭和61年3月、「非核平和都市宣言」をする。ドクターはそのための署名運動で中心的な役割を果たした。改憲が議論されている今、あらためてドクターの心に触れてみたくなった。

もう何年、そして何回になるだろう。こうして電話がきて、ドクターの家へ車を走らせるのは。奥さんは東京出身。子どもさんたちも首都圏に住む。来年初夏には東京へ引っ越すという。そのためのダンシャリでもある。

未使用切手がたくさんあった。「使ってもらえるだけでありがたい」という。「いやいや、こちらこそありがたい。いわき地域学會は切手代の捻出にも苦労してますから」。カミサンがあとでざっと数えたら、ン十万円分はある。びっくりするほどの額だ。

早速、封書による行事案内に利用した。が、地域学會が封書を利用するのは年に何回もない。換金して寄付のかたちにすれば、3年後に出版を計画している調査報告書の印刷代の一部に充てられる。それだって奥さんの希望にかなう。ドクターからの支援になる。近いうちに地域学會会員で若い古本屋クンに相談してみよう。

2013年7月5日金曜日

さくらんぼ

双葉郡大熊町から近所に避難してきたおばあさんがいる。元気なおじいさんと一緒だ。米屋をやっているカミサンと知り合い、ときどき顔を出すようになった。ポットやプランターで育てた花苗を持ってくることもある。先日は初物の「山形のさくらんぼ」をいただいた=写真

店では米のほかに塩を売り、醤油を売る。3・11後は初めて買い物にくる人が少なくなかった。ほとんどが双葉郡から避難してきた人だった。

おばあさんとおじいさんは最初、会津へ避難した。アパートに入った。うるさかった。夏は背中が焼けるほど暑かった。冬は1メートルも雪が積もると聞いておそれをなした。それで、不動産業者に頼んで家を見つけ、夏のうちにいわき市へ引っ越してきた。

以来、2年。わが家を中継点にして週1回、近所の人が予約した卵が川内の「獏原人村」から届く。その卵やヤクルトの予約を頼まれることもある。その意味では、おじいさんとおばあさんはすっかり近所の一員になった。

土いじりが好きて、プランターにいっぱい花を咲かせる。いただいた花の苗はトレニア、アサガオ。ポット苗は好きな人に持って行ってもらうように、張り紙をして店頭に置いたら、いつの間にかなくなった。

こうして新しいコミュニティに溶け込んでいるせいか、ときどき2人が原発避難者であることを忘れることがある。いや、忘れているくらいでいいのではないか。「山形のさくらんぼ」はだから、おばあさんからもらったこともあるが、初物だということだけで十分うまかった。

2013年7月3日水曜日

糠床に釘

今年の半分が終わるというのに、糠床を眠らせたままではないか。とにかく7月に入る前に糠漬けを再開しよう。ちょうど6月30日、平北白土の篤農家塩脩一さんのキュウリが手に入った。というわけで、きのう(7月2日)、今年最初の糠漬け=写真=を食べた。

塩家を訪ねたのにはワケがある。それは後日書くとして、せっかく来たのだからキュウリを買って帰ろう、となった。塩さんのキュウリはやわらかい。朝、糠床に入れたら、昼にはもう食べられる。娘さんがキュウリの入ったポリ袋を持って来て、「曲がりキュウリだからおカネは要らない」という。ありがたくちょうだいした。

白菜漬けを切らした4月以降、漬物の調達に気をつかった。「漬物もどき」は口にしたくない。「発酵食品」と明示されたキムチを主に食べた。日がたつとすっぱくなるのが難だ。これからはしかし糠漬けがある。悩まないですむ。

「3・11」を経験して、「中断」と「再開」を対で考えるようになった。9日ほど「原発避難」をしている間に、わが家の糠床の表面にアオカビが生えた。中身はまだ生きていたので、表面のカビをかき取るだけですんだ。一番身近な「中断」と「再開」だった。その糠床を今年も使う。

双葉郡の浪江町からいわきにやって来た糠床がある。原発がおかしくなって、浪江から東京へ避難した。その人が一時立ち入りの際、浪江の家から糠床を持ち出した。東京へは持って行けない。で、いわきに住むいとこに糠床を託した。「祖母の、祖母の、祖母の代から続く糠床」だ。これもまた、双葉郡から救出されたいのちの一つには違いない。

双葉郡から避難した人たちは、さまざまなもの・ことでこうした「中断」を余儀なくされている。「再開」できずにいるもの・ことが大半だろう。そんなことを考えるたびに怒りの深度が増す。

それはともかく、糠漬けでうまくできないのがナスの青い色つやだ。糠床に錆びた釘を入れておく、ナスの表皮を塩でもむ――と、きれいなナス紺色になるというが、いつも雑に入れてしまう。「糠に釘」ではなく、「糠床に釘」のこころが大事だということだろう。

2013年7月2日火曜日

猫とマタタビ

夏井川渓谷からマタタビの葉を持ち帰った。「猫にまたたび」で、部屋に葉を置けばゴロニャン、となるはずが、そっぽを向いている=写真。もう1匹もクンクンにおいをかいだあと、やはりそっぽを向いて歩きだした。のどを鳴らして身をよじるものもあれば、まったく興味を示さないものもある、ということだろう。これではただの「猫とマタタビ」だ。

いわき地域学會の市民講座が7月20日に開かれる。日曜日(6月30日)に案内のはがきを投函した。いわき市文化センターが会場だ。その文化センターから電話が入った。「あて名のないはがきが10枚届いています、あずかっておきますから」「!!!」

はがきが2枚重なっているのに気づかず、あて名シールを張った。それが10回あったということだ。指先の感覚が鈍ってきたか。シールはすべて張ったから、案内に漏れはない。10枚よけいに刷ったことになる。

それより、なぜ文化センターか? はがきに「いわき地域学會」の名前はあっても、差出人としての住所はない。省略してしまった。で、公知の「いわき市文化センター」に郵便屋さんが託した、ということなのだろう。どちらにも迷惑をかけた。すみません。

文化センターへ行った帰りに、イトーヨーカドー平店2階にある交流スペース「ぶらっと」へ寄った。「ぶらっと」はシャプラニール=市民による海外協力の会が運営している。「ステナイ生活」の一環で書き損じはがきを集めている。

書き損じはがき10枚で、バングラデシュでは家事使用人として働く少女のための読み書きの授業を1回開催することができる、という。せめてそちらで生かしてもらうことにした。

そのときの雑談。「今度、いわきに美空ひばりが来るんですよね」「???」。すてきなジョークだなと思っていたら、本人が訂正した。「天童よしみでした」。笑いが爆発した。天童よしみは美空ひばりにあこがれて歌手になった。そのいきさつを知っていて、頭では「天童よしみ」を思い浮かべながら、口ではつい「美空ひばり」と言ってしまったのだろう。

いいな、こういう頓珍漢は――ほぐれた頭に、あるカレンダーが思い浮かんだ。今年1月から6月までの半年カレンダーで、わが家のトイレに張ってあった。最後の最後になって「6月25日」が2回続いているのに気づいた。世にも珍しいミスプリだ。コレクションに取っておけばよかったかな。

2013年7月1日月曜日

半年が終わった

6月9日に三春ネギの苗を植え、23日に採種用のネギ坊主を刈り取り、分櫱(ぶんげつ)した苗の定植をした=写真。いつもの年より少し遅い。糠床もきのう(6月30日)、ようやく開封し、食塩のふとんをはがして捨て漬けをした。例年よりほぼ2カ月遅れの再開となった。

師走に体調を崩し、3月までわが家にこもっていた。4月には2年間先延ばしにしてもらっていた「行政嘱託員兼区長」になった。その仕事と、体の調子と、天気の関係から週末の畑仕事も、大型連休明けの糠床再開も棚上げのままにしてきた。

わが行政区では、区長(行政嘱託員)が10日サイクルで市から届く回覧物を班(隣組)ごとに振り分け、区の役員さんに届ける。役員さんは区長も含めて、担当する班の班長さんにその回覧物を届ける――という仕組みになっている。合間に、「当て職」に伴う各種団体の役員会・理事会・総会が続く。

4~7月には1週間サイクルの仕事が入る。ブログは、体調をくずす前までは1日サイクルだった。これに、1カ月サイクル、3カ月サイクルの書き物と、いわき地域学會の行事が加わる。それらを調整しながらの3カ月だった。

いまだにリズムがつかめない。戸惑いも多い。やることがいっぱいあって、現役のころよりかえって忙しい。夜、「あした、すること」をメモして寝るのが日課になった。その見返りは、地域の人とじかに顔を合わせるようになったこと、地域の実情がより深く理解できるようになったことだ。


「毎日が日曜日、何もすることがない」と嘆くひまがないのはいいが、時間をやりくりしないと手遅れになるものがある。三春ネギの定植・採種、糠床の再開。2013年の前半が終わるぎりぎりになって、やっと“宿題”を終えることができた。そのことに今はホッとしている。