2013年7月31日水曜日

千石船と石炭

7月25日の午後、内郷白水町の「みろく沢炭鉱資料館」から近くの白水阿弥陀堂観光案内所(駐車場)まで、馬による石炭輸送が行われた=写真。小名浜港から千石船に積んで江戸へ送るための「石炭の道」再現イベントだった。

千石船の復元船「みちのく丸」が19日に青森を出港し、岩手の大船渡・釜石、宮城の女川を経由して、きょう(7月31日)朝、小名浜に入る。8月2日には東京へ出港し、同6~9日には東京駅でしめくくりの「寄港地物産展」が開かれる。東日本大震災の被災県のうち、青森・岩手・福島3県の新聞社からなる実行委員会が主催している。

小名浜でのイベント開催のために、地元有志による実行委員会が組織された。主催者からの要請でいわき地域学會も加わった。

今年は「いわきの石炭産業の父」片寄平蔵(1813~60年)の生誕200年に当たる。そのための記念事業実施団体連絡会が結成され、情報を交換しながら展覧会や巡検、その他のイベントを展開している。こちらにも地域学會が加わっている。

平蔵は材木商。材木のほかに、磐城七浜の特産物である鰹節などを江戸へ運び、財を成した。取引相手の豪商明石屋治右衛門から「燃える石」の存在を知らされると、友人の高崎今蔵とともに故郷の山野を歩きまわり、ついに安政2(1855)年6月、白水村弥勒沢で石炭を発見する。これによって弥勒沢から積出港の小名浜まで「石炭の道」ができた。

25日のイベントでは、当時の集積所まで石炭を詰めた叺(かます)を振り分けにして馬で運んだ。8月2日にはさらに、段ボールで馬をつくり、軽トラックに叺を積んで小名浜港へ向かう。小名浜では「みろく沢炭鉱資料館」の渡辺為雄館長が千石船運行主催者に石炭を託する。千石船の小名浜寄港と平蔵生誕200年をつないだイベントでもある。

ちなみに、平蔵は万延元(1860)年8月3日、江戸で亡くなった。新暦ながら3日後のことである。きょう午後にでも千石船を見に行こうかと思っている。

2 件のコメント:

issay matsu さんのコメント...

いわきに居ながらずっと知りませんでした。 今石炭の歴史を調べていて、常磐炭鉱の大事な歴史の一端がわかり嬉しく思います。 

匿名 さんのコメント...

産業の幕開けですね!

石炭があったからこそ磐城は栄え、石油に代わって集積力が衰えた。

鉄道が街中を迂回して敷設されたため町の活性力が下がり、やがて石油へ変遷して閉山。いわきは沈んでいく。

原発被災による避難者で人口が膨れ、街は都市化へと向かい、伝統の浜通り漁業は風評で打撃を受ける。

石炭石油そして原子力、エネルギー転換でいわきは翻弄される。