2013年9月30日月曜日

昼の手影絵

庭から床の間の壁に光が差しこんでいた。カミサンがそれに気づいて、キツネの手影絵をつくった=写真。子どもが小さかったころ、明かりを消して、ロウソクや懐中電灯の光で手影絵遊びをしたものだ。が、太陽の反射光でもそれができるとは思わなかった。

茶の間はガラス戸をはさんで南の庭と隣り合っている。庭に車を止めている。戸を開けていると、冬でも夏でも車の反射光が家に飛び込んでくる。

今年は残暑が厳しかった。今も晴れると日中は気温が高くなる。家にはエアコンがない。暑い日は窓という窓、戸という戸を開ける。それで、お昼近くになると車の右前部あたりで太陽光線が反射し、やや上向きの角度で茶の間の片隅、床の間の壁を照らす。影もできる。同じ原理で照らされた壁に影絵をつくることができるのだ。

タイトルは忘れたが、いわき市立美術館に収蔵されている髙松次郎の作品に、幼児の頭の影を大きく描いたものがある。その絵が思い浮かんだ。あれだって、反射光で室内の壁にできた影が始まりかもしれない。

淡い光と、キツネの顔をした淡い影。そうだ、影の代わりに虹色を映すこともできるのではないか。髙松次郎の次に思い浮かんだのは、いわき市の現代美術家吉田重信さんの作品だ。吉田さんは自然光を利用した仕事をしている。“日光のいたずら”がその原点だったりして。

私たちはうつろってとどまらない光学的世界に身をおいている。影絵であれなんであれ、いかにそれを楽しむか、だ。

2013年9月29日日曜日

現場研修

農業用水路の小川江筋は、平地区に入ると平窪、神谷、草野の順に水田を潤す。その水田地帯を走る市道の整備促進を目的にした期成同盟会がある。先週の金曜日(9月27日)、期成同盟会会員の行政区長が参加して現場研修が行われた=写真

整備促進期成同盟会には「平窪・草野間連絡道路」の冠が付いている。神谷から夏井川渓谷へ、あるいは石森山や街のホームセンターへ出かけるのに、この連絡道路を利用する。本道の国道6号との関係でいえば、時間と距離を短縮できる裏道・抜け道・近道だ。

道路が急に狭くなっているところが2カ所ある。車を運転していて、なぜここだけ狭いのか、なぜ拡張できないのか――ずっと疑問に思っていたが、マイクロバスを降りて歩き、市役所の担当者から説明を聴いて納得がいった。ひとことでいえば、行政不信。なにかのきっかけで田んぼの所有者に、役所に対する不信感が生まれた。

前はもう1カ所、相互通行ができないほど狭いところがあった。何年か前に拡張された。便利になった。どちらの車が優先するか、ドライバーがにらみ合うようなこともなくなった。役所の整備事業としては小さいが、その道を利用する市民には大きな利益になった。

この連絡道路も、東日本大震災では一部区間で段差ができた。今は朝夕、国道6号の混雑を避ける車で込み合っている。期成同盟会の一員として、狭あいな道路を歩き、整備が進まない事情を知って、単に通り抜けるだけの道ではなくなった。新米区長はこうしてまた「現場」に鍛えられる。

2013年9月28日土曜日

ヒガンバナ

昨年暮れ、体調を崩して散歩を中止した。再開してもいいと思っているのだが、まだ自信がない。散歩コースは夏井川の堤防だ。散歩を日課にしていれば、自然の変化はすぐわかる。梅の花が咲いた、ツバメが来た、ネギの収穫が始まった、水石山が冠雪した……。

今はヒガンバナが真っ盛りだ=写真。夏井川の堤防で、寺町の墓地で、郊外のあぜ道で、文字通り秋の彼岸前後に点々と、あるいはかたまって咲いているのを見た。散歩を中断して自然の変化を実感する時間が減った分、ヒガンバナに気づくのが遅れた。

小欄でたびたび指摘していることだが、山里や農村の美しい景観は人間が自然を利用し、手を加えることでかたちづくられ、守られてきた。きれいに草が刈り払われた堤防の土手や田んぼのあぜ道、水路にヒガンバナが映えるのはそのためだ。ただ自然にほかの草が生えず、ヒガンバナだけが生えているわけではないのだ。

夏井川の堤防でも草刈りのされていないところがある。そこでもヒガンバナは咲いているが、侵略的外来植物のアレチウリなどにまぎれてよくわからない。人の避難した双葉郡の川の堤防や田んぼのあぜ道も、おそらくそうなっているのではないか。

ヒガンバナが咲きだすと、夏井川ではサケのヤナ漁が始まる。今年はしかし、9月中旬の連休、鮭増殖組合が架設中に大水が直撃した。先日見たら、ヤナがあるはずのあたりをサケらしい魚が背びれで水を切りながら上流へ向かっていた。

熱中症が心配されるほどの残暑がおさまり、朝晩は鼻水が出るくらい空気がひんやりしている。空が高くなり、彼岸が過ぎて、秋が少しずつ深まってきた。

2013年9月27日金曜日

除染実施「あり」

夏井川渓谷にある隠居(無量庵)で除染が行われる。先日風を入れに出かけたら、いわき市原子力災害対策課から郵便物が届いていた。2月に実施した事前モニタリング結果と、<除染実施について■あり(測点の中で、0.23マイクロシーベルト/時以上が1点以上測定されました)>の文書が入っていた=写真。丸い囲みは私が付けた。

4月に事前調査報告の文書が差し込まれており、後日、市役所でデータを確かめたので、いずれ除染が行われることはわかっていた。そのための正式な知らせがきたということだ。

無量庵の庭8地点の土と芝を、1センチメートル、50センチメートル、100センチメートルの3段階で測定した。平均値はそれぞれ毎時0.32、0.26、0.24マイクロシーベルトだった。

年間1ミリシーベルト以下であるためには、計算式に従って毎時0.23マイクロシーベルト以下でないといけない。それを少し上回る。この2年半、自分で何回か測って得たデータとそう変わらないので、くるものがきたかという感じだった。

除染説明会が9月初旬に行われた。文書を見たのはその2週間後だった。いずれ作業を実施する共同企業体の説明を受けることになるのだろうが、先行する川内村や田村市の例をみると、簡単ではなさそうだ。

除染の話を耳にしてからは家庭菜園の熱が冷めた。三春ネギの栽培も今年は失敗した。手入れが悪かったのが原因だが、こうなったら野菜栽培は除染後に“新規蒔(ま)き直し”をするしかない。

きのう(9月26日)の夜は楽天の試合に釘づけになった。東北の人間はふだん野球に興味がなくても、優勝の瞬間、<よし!>と力がわいてきたのではないか。家庭菜園も同じだ。放射能に負けない‼あきらめない‼へこたれない‼

2013年9月26日木曜日

ブロック撤去

9月20日未明、いわき市を直撃した震度5強の地震でわが家の奥、義弟の家のブロック塀が一部壊れた=写真。塀をはさんだ隣は2階建てのアパートだ。わが家の生け垣が視界を遮っていて、アパート側にブロックが落下したのを知らなかった。アパートの大家さんに言われて初めてわかった。

きのう(9月25日)夕方、ようやく後片付けをした。壊れて落下したのは上の2段、ブロックの数はざっと40個。1個ずつ運びだし、ネコ(一輪車)に2~3個のせて、わが家の庭の空きスペースに運んだ。空きスペースといっても、3・11に半壊し、解体した「離れ」のあとだ。

コンクリートのかたまりだけに、ブロックは1個1個がズシリと重い。35年前の昭和53(1978)年6月12日夕に発生した「宮城県沖地震」では、同県内でブロック塀が倒壊し、児童ら18人が下敷きになって死んだ。3・11ではさいわい、わが近辺では塀が倒れても下敷きになる児童などはいなかった。それから2年半後の塀の損壊だ。

アパート1階の最寄りの部屋に住むのは、浪江町から避難してきた老夫婦。カミサンとは先刻承知の間柄だが、今度また帰宅を断念していわき市内に家を新築中なのを知った。ブロックを運んだネコは、同じく大熊町から近所の戸建て住宅に避難してきた老夫婦から借りたものだ。ずっと前にネコを2台買ったからと、1台を持ってきた。

隣人になった避難者に迷惑をかけ、避難者に助けられている――ブロックを運びながら、そんなことを思った。

戸建て住宅のおばさんからはときどき、野菜や漬物、煮物などが届く。先の日曜日には、カミサンがニンニクを借りに走った。カツオの刺し身を買ってきたものの、ニンニクを切らしているのを忘れていたのだ。懐かしいほど普通に助け合う関係が、3・11後にたまたま生まれた。

それはともかく、ブロックの小山をどうしよう。市役所に電話をしたら災害ごみとして仮置場に搬入することができるという。乗用車で運べる代物ではない。庭の縁石などに利用できないかどうか、そんなことを考えたりしている。

2013年9月25日水曜日

もう一つの「風立ちぬ」

元草野美術ホールオーナー草野健さん(95)の葬儀・告別式がきのう(9月24日)、平で行われた。通夜=写真=では東京から駆け付けた後輩と会った。個展のためにスペインから帰国したばかりの画家阿部幸洋、ギャラリー界隈のオーナーとは草野家で顔を合わせ、通夜と告別式を共にした。いずれも「ホールのおっちゃん」を慕う「ごま塩会」の仲間だ。

いわき市には現代美術を主として収集する市立美術館がある。来年で開館30周年を迎える。市民運動が盛り上がり、田畑金光市長が建設を決断した。その原点が草野美術ホールだと言っても過言ではない。

昭和40年代半ばからほぼ10年間、草野美術ホールはいわきの美術家の最大・最高の発表の場だった。郡山市が暴力団抗争の相次ぐ「東北のシカゴ」から音楽都市「東北のウィーン」へとイメージを変えたように、いわき市は草野美術ホールができて美術の盛んな「東北のパリ」に変身した。その潮流が市民運動となって美術館を生んだ。

駆け出し記者には、草野美術ホールは欠かせない取材先の一つだった。ホールの事務所で若い美術家と記者がたびたび膝をつき合わせて語り合った。その人の輪をいつもニコニコしながら眺め、あるいは議論に加わり、ときに挑発するような問いを発していたのが、ごま塩頭の草野さんだった。

草野さんは事務所にたむろする若者たちの最初の理解者、味方だった。と同時に、飛行場づくりに情熱を燃やす「面白いオヤジ」でもあった。戦闘機乗りの血がそうさせたのだろう。

91歳の誕生日を記念して、わが子と孫のために小冊子『卒寿夜話』を編んだ。その中の一節。「B29を撃っていたら、B29の弾がハヤブサに当たり、じいちゃんの機は、清洲飛行場に落とされてしまった。基地に戻ったら、じいちゃんのご飯茶碗には、箸が十字に差してありました。なに思って食べたのかは忘れてしまいましたが……」

ここに草野さんの人生の原点があるように思う。一度死んだ人間、という自覚だ。それがあるからこそ、他人のために捨て身になれた。

9月20日午前3時33分、震度5強の地震のほぼ1時間後、草野さんは極楽浄土へ飛び立った。この夏、宮崎駿監督のアニメ映画「風立ちぬ」がヒットした。その映画のどのシーンよりもすばらしい映像が脳裏に浮かんだ。満月が皓々と西空に輝くなか、隼を操縦し、少年のようにニコニコしながら、草野さんがこちらを向いてバイバイをしている。

私生活では、前から作品を出し入れする額縁や、段差でも安定している車いすを発明するアイデアマンだった。絵を描き、尺八を習い、杖道に汗を流し、パソコンをいじり、文章を書く、多彩な趣味人だった。社交ダンスや英会話にも挑戦した。八十何歳かで通信制の高校に入学したときには、さすがに驚いた。

「人間って面白い」。草野さんと出会って42年間、草野さんを見ながらずっとそう思ってきた。薫陶を受けた者のひとりとして、「あと何年生きるかよりも、生きている間に何を為したか」を問え、という草野さんの人生哲学をあらためて胸に刻む。(国内外に散らばる「ごま塩会」の仲間を代表して弔辞を述べた。これはその縮小・再編版)

2013年9月24日火曜日

蛇の家

震度5強の直下型地震だ。夏井川下流域のわが家の状況から推し量れば、上流の夏井川渓谷にある隠居(無量庵)で本や食器の落下・破損があってもおかしくない。地震から3日目の日曜日(9月22日)早朝、様子を見に出かけた。

出窓のカーテンが斜めになっているのが外から見えた。玄関を開けると、たたきに蛇の抜け殻が落ちていた=写真。異変を覚悟して部屋に入る。ン‼ 衣装ダンスの上のCDラジカセや置時計はそのまま、台所の本棚も無事だった。食器洗剤など小物数個が流しに落ちていたが、そんなものはすぐ元に戻せる。カーテンもリールがはずれただけだった。

岩盤の上にあるせいか、地震の影響はほとんどなかった。となると、疑問符のつくのが蛇の抜け殻だ。なぜ玄関のたたきにあったのだろう。

たたきで脱皮した、としか考えられない。前回、無量庵へ出かけたのは3週間ほど前の8月29日だ。抜け殻はなかった。この間に、蛇が床下をはい、上がりかまちの下の板のすき間からたたきに入り込んだのだ。殻の模様は網目状だ。アオダイショウだろうか。ジムグリだろうか。それともシマヘビだろうか。

無量庵で週末を過ごす時間が極端に減った。で、雨戸を閉め切ったままの状態が続く。室内から人の気配が消えれば、ノネズミや蛇にとっては山中の洞窟となんら変わらない。動物には、無量庵はそんな環境に見えるのか。

考えてみれば、脱皮の場所としては天敵のいない家の中、しかも冷たい玄関のたたきほど安全なところはない。無量庵は、冬はカメムシとテントウムシの越冬の家になる。ノネズミも出入りする。新たに蛇の家にもなった。

さて――。「蛇の抜け殻」と声に出したら、カミサンが台所で「キャー!」と反応した。「見せないで! どっかわからないとこに捨ててきて!」とパニック状態になった。蛇の抜け殻を財布に入れると金持ちになるというのに、どうしたことだ。せっかくの標本も、これでは自然に返すしかない。

2013年9月23日月曜日

2階は重症だった

「2階は本棚も倒れていたでしょ、ちゃんと見たの?」。カミサンの顔がけわしくなる。わが家の地震被害のことだ。言われればその通り。階段から南と北の部屋をチラリと見ただけだった。南の部屋の本棚は確かに倒れてはいなかったが、北の部屋は倒れて中がぐちゃぐちゃになっていた=写真。壁にさえぎられて見えなかったのだ。

9月20日未明にいわき市を震度5強の地震が襲った。2011年4月11、12日と連続した、いわき市南部の山間地を震源とする直下型地震と同じだった。わが家や近所、図書館などの被害状況について、20日、21日と小欄で触れた。わが家の2階は「本棚こそ倒れなかったものの、本がなだれ落ちていた」とも書いた。

その2階が重症だった。北の部屋はなだれ落ちた本が入り口をふさいでいる。南の部屋も資料を並べて置いたボックスが倒れていた。クリアファイルから資料が飛びだして、わけがわからなくなっているに違いない。3・11のときがそうだった。

いわきは3・11と1カ月後の4・11、翌4・12に震度6弱を経験した。5強は2011年9月29日以来2年ぶり、3・11後は5だけでも「弱」を含めて9回目だ(福島地方気象台調べ)。

わが家の南隣に義弟の家がある。度重なる地震でダメージが蓄積されていたのだろう。アパートに接する西側のブロック塀が、上から2段ほどアパート側に倒れていた。生け垣にさえぎられていたので、アパートの大家さんに指摘されるまでわからなかった。

わが家の近辺では、こうして家の内外で3・11、あるいは4・11以来の被害が出たのではないだろうか。市役所に「災害ごみ」の相談をしないといけなくなった。

2013年9月22日日曜日

アンコールワットの弾痕

1年前、高専の同級生とベトナム・カンボジアを旅した。還暦を記念して始めた“海外修学旅行”の第3弾だ。北欧、台湾と続き、2011年には風評被害に苦しむ観光地会津を訪ねた。この年は、さすがに海外旅行をする気にはなれなかった。

カンボジアでは世界遺産のアンコール遺跡群を見学した。石でできた寺院に深い感銘を受けた。日本語を話す現地人ガイドからアンコール遺跡群の光と影を教えられた。忘れがたい観光旅行になった。

3・11後に知ったことばに「ダークツーリズム」がある。ウィキペディアによれば、災害被災跡地、戦争跡地など、人類の死や悲しみを対象にした観光のことだ。今思えば、カンボジア旅行には10分の1くらいはその要素が入っていた。

ベトナム戦争後、カンボジアではクメール・ルージュが政権を握った。遺跡を破壊し、人民を虐殺した。内戦では遺跡を城郭代わりに使った。アンコールワットの内部に弾痕が残っている=写真。遺跡の保存修理が行われているとはいえ、改修はまだ十分ではない。

改修が追いつかないのは、内戦があったからだけではない。「アンコール遺跡群は、組織的盗掘と国境を越えた密売ルートによって、日常的に切り崩されている」(報道写真家三留理男『悲しきアンコールワット』=集英新書・2004年刊)。こうした事情も関係しているようだ。

「観光」は中国の古典・易経の「国の光を観る」に由来する。光があれば影がある。ダークツーリズムは、いうならば「国の影を観る」ことだろうか。と、少し能書きを語ったところで、もうひとつの落ち。

9月23日は秋分の日だ。アンコールワットは真西を向いて建てられている。ということは、あした、尖塔の真後ろから朝日が昇り、真ん前の密林のかなたに夕日が沈む。雨季のさなかで青空は望めない。が、もしかしたら光の奇跡が起きるかもしれないぞ――と、今朝、起きぬけに日本の星空を見上げながら思った。

2013年9月21日土曜日

地震の怖さが身に染みた

いわき市の南部を震源とするきのう(9月20日)の地震では、どの家でもと言っていいくらいに小さな被害が出た。わが家では食器棚の観音開きの戸が開いて=写真、中から皿やコップが飛びだした。割れたのは小さな額縁のガラスや陶器の人形も含めて数個だった。落下した本は元に戻すまで少し時間がかかりそうだ。

いわき駅前の再開発ビル「ラトブ」に入居しているいわき総合図書館は書架から本が落下し、臨時休館にして元に戻した。近所の家では、3・11には無事だった屋根のぐし瓦がやられた。街なかでもグシが一部壊れている家があった。いわき市内の各地に再び、屋根を覆うブルーシートが見られるかもしれない。

安倍首相が前日、福島第一原発を視察した。そのときに地震が起きたら、つまり怖さが身に染みたらということだが、他人事ではない解決をとってくれたはず……と、小欄にコメントを寄せてくれた人がいる。いわきでは自然な考えだ。

きのう昼、画家の阿部幸洋から電話がかかってきた。26日から出身地のいわきで個展を開く。いつ飲もうか、という話になった。アトリエのあるスペインから帰国し、実家に着いたとたんに震度5強に襲われた。こちらの阿部は地震の怖さが身に染みた。

そのとき、共通の恩人である元草野美術ホールオーナー、おっちゃんこと草野健さんが話題にのぼった。阿部が私の体調を気遣うので「8割くらいはよくなった」と言うと、「おっちゃんも同じようなことを言う、『悪いところ以外は全部いい』なんてね」。

草野さんは、いわきの美術界が興隆するきっかけ、基礎をつくった人だ。昭和40年代、草野さんの経営する美術ホールには若い美術家や記者が出入りしていた。そこで阿部と知り合った。電話で話していたときには知らなかったが、草野さんはその日未明、地震のほぼ1時間後にこの世を去った。享年95。ついにこのときがきたか、という思いが強い。

2013年9月20日金曜日

いわき南部が震源

いきなり真下から来た。地面が「ゴゴゴゴゴ」と音を出して揺れ、ベッドに本が落ちてきた。9月20日午前2時25分。揺れの激しさ・大きさは、東日本大震災からちょうど1カ月後に2日続けて起きた巨大余震に似る。震源はいわき市内陸部――ベッドを飛び出しながら、そう直感した。原発は大丈夫か――意識は反射的にいわきの北へ向かう。

家の中を見て回った。階段に積み上げておいた本が半分ほど崩れ=写真、観音開きの食器棚が開いて、皿やコップが5~6個落ちている。割れたものもある。茶の間では扇風機がうなりをあげていた。落下した置物で「強」にスイッチが入ったのだ。本棚の上に飾っておいた写真の小額縁などがすべて落ちている。金魚鉢の水がこぼれて畳を濡らした。

家の外はどうか。中秋の名月がやや西の空にあった。月明かりを頼りに、家の壁や生け垣を見て回った。倒れたものはない。周りの家々にも明かりがともっている。晴れて穏やかな晩、深い眠りに入ったところを、震度5強の揺れに襲われた。どの家でも台所や茶の間を点検しているようだった。

家に戻り、階段の本を踏み越えて2階の様子を見る。本棚こそ倒れなかったものの、本がなだれ落ちていた。そのことを告げると、「またダンシャリだなー」とカミサンが言う。ここ数日はヒマがない。毎日少しずつ、時間をかけて片づけるしかなさそうだ。

気象庁が発表した震源位置は、おおよそ北緯37度・東経140度の「福島県浜通り」だ。2011年4月11、12日の巨大余震は、いわき市南部の山間部、井戸沢断層と湯ノ岳断層が動いて起きた。11日は北緯36度・東経140度、翌12日は北緯37度・東経140度が大まかな震源位置で、今回もその付近で発生したことがわかる。

田人は、遠野は、常磐は大丈夫だったか。今度も2日続けて震度5強なんてことにならないといいのだが……。

地震からおよそ1時間たった3時半ごろ、ヘリコプターが海の方を北へ向かって飛んで行った。6時ちょうど、NHKヘリがいわき市の中心市街地の様子を生中継で伝えた。6時前、わが家の上空をゆっくり南下していくヘリがあった。NHKのヘリだったのだろう。

2013年9月19日木曜日

ドリームリフター?

車で5分ほどのところにあるお寺に、カミサンが注文の品を届けた。奥さんと玄関でぺちゃくちゃやっている。こちらは例によって運転手だ。こんなときには運転手であることをわきにおいて、すぐそこにある植物のウオッチャーになるのが一番。

目の前にイチョウの大木がそびえている。そばの墓や樹下には銀杏(ぎんなん)が散らばっていた。前日に福島県を縦断した台風18号の影響だろう。あおあおとした葉の間に黄色い実がなっているのを確かめながら、こずえへと視線を移す。雲一つない青空だ。と、右から左へ大型ジェット機がこずえをかすめるように飛んでいく。

高い、いや吸い込まれるように深い。車からデジカメを取りだし、縫い針くらいにしか見えないジェット機をパチリとやった。画像を拡大すると、白い機体はイルカのようにずんぐりしている=写真。垂直尾翼と4発のエンジン部分はブルー。ANA(全日空)か、SAS(スカンジナビア航空)か。ネットで検索したが、どこの航空会社の飛行機かはわからなかった。

これかもしれない――ということでいえば、北米から中部国際空港にやって来るボーイング社の大型貨物機「ドリームリフター」が挙げられる。同社の次世代型中型機「ドリームライナー」は米日欧の3カ所で部品を製造している。中部地方にその工場があるため、ドリームリフターが定期的に部品を積みに来ているという。

ジェット機がなんであれ、台風一過の澄んだ秋空が恵んでくれたシャッターチャンスだ。飛行機のほかにも、自然のつくりだした美が空には満ちている。きょう(9月19日)は満月。おととい(十三夜月)、きのう(十四日月)と、宵のうちに輝く月を見た。

人間は気圏の底で泣いたり、怒ったり、笑ったりしている。そこから逃げるわけにはいかない。が、そればかりでも疲れる。今夜は中秋の名月をながめて少し元気を補給するとしよう。

2013年9月18日水曜日

がんばっぺね!

津波で甚大な被害を受けたいわき市平豊間地区でも、高台や山際、浜辺の国立病院機構いわき病院前など、何軒か家の残っているところがある。その1軒が旧道をはさんで病院と向かい合っている米屋(中屋)さんだ。

震災直後、店のシャッターに「がんばっぺ! にっぽん とよま人/とよまのトドロ ナカヤ」と手書きし、住民を鼓舞しながら、大災害に負けない意気地を示した。横のレンガの壁には「がんばっぺね! とよま なかや」」の文字=写真。この「がんばっぺね!」を見るたびについ口元がゆるむ。

3・11後、豊間に取材に入ったマスメディアや個人がネットなどで報じたから、<ああ、あれか>と思いだす人もいることだろう。若い友人が中心になって編んだ写真集『HOPE』(2011年5月=いわき市海岸保全を考える会刊)には、店頭で右手を握りしめ、ガッツポーズをしている若い主人が掲載されている。

彼の近所に40年来の友人(大工)がいる。ガレキ撤去が進み、日曜日だけ旧道を通れるようになったころ、大工氏の作業所を訪ねた。彼がたまたま自転車で遊びにやって来た。カミサンとは同業でもあり、初対面とは思えないほど親しく言葉を交わすことができた。

脚本家倉本聰さん率いる劇団富良野グループが、去年、今年と3月11日に豊間海岸で津波犠牲者の鎮魂と復興のキャンドルナイトを主催した。友人ら生き残った地元の若手が中心になって「とよま龍灯会」を結成し、イベントに協力した。米屋さんも龍灯会の一員として奮闘した。

「がんばっぺね!」の終助詞「ね」に彼の温和な性格が出ている。相手をいたわり、思いやり、包み込む。シャッターの方も、「となりのトトロ」をもじった地名「とよまのトドロ」(豊間字兎渡路)に、強い物言いを避ける彼の人柄がにじみ出ている。「ナカヤ」の店主を知ったからこその感想だ。

3・11から2年半がたったあと、吸い寄せられるようにして海岸道路をドライブし、「がんばっぺね!」の前に立った。慰められたかったのかもしれない。

2013年9月17日火曜日

庭木がポッキリ

わが家の生け垣のマサキにまじって枝葉をのばしていたムクゲがきのう(9月16日)、ポッキリ折れた=写真

台風一過の夕方、車で出かけようと庭へ出たら、市道へ通じる取り付け道路と庭の境をムクゲがふさいでいる。まるでガレージのフェンスではないか。これでは車を出せない。すぐさまノコギリで枝を細断し、樹皮一枚でつながっていた幹を切って庭の隅に片づけた。

ムクゲは高さが3メートルはあっただろうか。見上げているぶんにはそんなに大きいとは思えなかったのが、横倒しになってみるとボリュームがある。こずえの方から何回もノコを入れて切り刻んだ。幹は一升瓶くらいの太さがあった。

きのうは早朝、車で夏井川の様子を見に行った。それから夕方まで家にこもっていた。時折、雨がたたきつけ、風がガラス戸を揺することはあったが、幹が折れるほどの“突風”が吹いたとは感じなかった。

幹は根元から50センチくらいのところで折れた。内部が空洞になっていた。今年は葉の茂りが悪く、花の付きもよくなかった。いのちが尽きようとしていたのか。隣家にかかることもなく、奥の家の車が出入りすることもなかったのが、不幸中の幸いだった。

わが家の被害はこの程度ですんだが、日本列島では3・11後も被災者が増え続けている。大雨、洪水、竜巻、土砂崩れ……。きのうもテレビが朝から各地の惨状を伝えた。特に、7月中旬に訪れた京都のまちなか、そして嵐山の水害には胸が痛んだ。

「数十年に一度の大雨となるおそれが大きい」ために、滋賀・京都・福井の3府県に特別警報が発表された。日本の自然もまた地球温暖化で凶暴さを増してきた。いわきを竜巻が襲ったら……。それだけを心配して過ごした9月16日、敬老の日だった。

2013年9月16日月曜日

台風接近

大型の台風18号が東北に向かって北上している。きのう(9月15日)、いわき地方は朝から雨が降り、昼過ぎには土砂降りになった。家の前の歩道があっという間に冠水した=写真。けさは起きると鉛色の空。道路のあちこちに水たまりができていた。

雨のやんだ昨夕、街から夏井川の堤防を利用して帰宅した。川は水かさが増し、濁流が泡を浮かべて駆け下っていた。残留コハクチョウが1羽、流れに抗して砂地に上がり、やれやれといった感じで羽ばたいた。左の翼が半分欠けていた。休み場ではなく、避難所を探していたのだろう。

上流の田村郡小野町ではきのうの昼前後に雨が集中し、総雨量が130ミリを超えた。夏井川の水かさが増したのはそのためだ。しかし、高水敷まで水没するような状況ではなかった。けさは少し水位が下がっていた。

わが地区では9月1日に市民体育祭が行われた。市長選の投開票日(9月8日)を避けて、例年より前倒しして実施した。逆に、この連休に先送りした地区は中止を余儀なくされたにちがいない。

どこでもそうだが、体育祭では雨天の場合の予備日を設けている。わが地区は2週間後の9月15日だった。隣の地区は本番が15日、予備日が16日、つまりきょう、敬老の日だ。きのうは「翌日順延」を決め、けさはまたまた「中止」を決めざるを得なかったことだろう。

けさは次第に天気が荒れてきた。7時過ぎにはたたきつけるような雨。それがやんだと思うと日が差したり、風が吹いたり、また急に雨になったり、風が強まったり、と落ち着かない。台風が福島県に最接近するのは昼すぎから夕方にかけてだという。きょうも家にこもって雨風をやりすごすしかない。

2013年9月15日日曜日

梱包された灯台

毎年、お盆明けから1カ月ほどは家にこもって文字読みに明け暮れる。マラソンでいえば、今は35キロを過ぎたあたり。もうちょっとでゴールだ。とはいえ、目の疲れもたまりにたまっている。眼球がはれて重い。焦点の調整がうまくいかない。目薬を差し、目の周りをもみほぐす回数が増えてきた。

きのう(9月14日)、気分転換を兼ねて本屋へ行き、帰りに海岸道路をドライブした。塩屋埼灯台が梱包されていた=写真。3・11から2年半。ここでも目に見えるかたちで災害復旧工事が進められている。

灯台の復旧工事は、モーターパラグライダーを操る酒井英治さんの空撮で知ってはいた。が、実際に見るとまた違った感慨がわく。「梱包された灯台」、つまりクリストの「風景芸術」だ。めったに出合えない、格好の被写体だと思いつつも、浜辺からの撮影には限度がある。鳥の目がほしくなった。

岬の光り
岬のしたにむらがる魚ら
岬にみち尽き
そら澄み
岬に立てる一本の指

山村暮鳥が詠んだ詩になぞらえるなら、「一本の指」は傷ついて絆創膏でぐるぐる巻きにされている。灯台への道はふもとで閉ざされている。一日でも早い“完治”が待たれる。

そうそう、本屋からの帰りに蔵持(いわき市鹿島町)を通ったら、稲刈りが行われていた。「実りの秋」が駆け足でやってくる。早く文字読みを終えねば。

2013年9月14日土曜日

トウガンを漬ける

平・北白土の篤農家塩脩一さんの家を訪ねたら、帰りにトウガン(冬瓜)とトマトをいただいた。トウガンは煮物が定番。それでも食べきれない。糠漬けにするために皮をむき、種とワタを取った=真。初挑戦だ。

糠漬けはカブ、キュウリ、大根、ナス、ニンジンといったところが主流だろう。鬼平流にウドを漬けたこともある。が、ミョウガ同様、香りの強い山菜はなかなかうまくいかない。で、結果的に癖もなく、早く漬かるウリ科のものが多くなった。今は毎日、キュウリが食卓にのぼる。

トウガンもウリ科の植物、まずまずの味だった。白く硬い生のトウガンが、乳酸菌と塩分のはたらきによって一夜でしんなりする。かすかだがメロンのような甘みがある。これは発見だった。初めて漬かったトウガンを酒のさかなに出したら、東京からやって来た客人がうなった。

その日、9月1日現在の現住人口で郡山市が初めていわき市を抜いた、と新聞が報じていた。昭和41(1966)年に14市町村が合併していわき市が誕生した。以来、半世紀近く、いわきは仙台に次いで東北で2番目の人口を維持してきた。小欄で「今年のうちに『東北3位』に後退するのではないか」と書いたのが8月中旬。あっという間の交代劇だ。

「東北2位」のいわきを取材し続けた人間には一抹の寂しさがあった。今もある。が、その夜は客人との会話と、トウガンの糠漬けと、アルコールとで、たちまち寂しさがとろけた。

2013年9月13日金曜日

カエルグッズ

カエルは身近な生きものだ。わが家の庭にはアマガエルがすむ。夏井川渓谷にはカジカガエルが、そばの森にはヒキガエル=写真=やヤマアカガエルがすむ。もっと山中に分け入ればモリアオガエルと出合えるかもしれない。

と、のっけから小さな両生類の話になったのは、いわき市立草野心平記念文学館がカエルグッズを募集している、と知ったから。

心平生誕110周年・文学館開館15周年記念企画展「みんなだいすきアンパンマン やなせたかし展」が日曜日(9月8日)に終了した。来館者は開館記念展以来の“大入り”とかで、 軽く2万人を超えた。

10月5日からは次の記念企画展「サイデンステッカー カエルコレクション展」が開かれる。それにちなんで、オブジェや文房具、食器類など、市民自慢のカエルグッズを展示するコーナーを設ける。

先日、文学館で開かれた事業懇談会で学芸員がPRした。新聞にも募集記事が載った。それに触発されたのだが、併せてカエルの写真展を開いたらどうか。グッズと同じように市民からカエルの写真を募集する。大きさははがき大で十分。エントリーシートを少し変えて、タイトル、撮影日時・場所がわかるようにすればよい。

本人はそう呼ばれるのを嫌ったが、心平は「カエルの詩人」として知られる。カエルは恐竜などとともにジュラ紀に出現した。恐竜は滅んだが、カエルは栄えた。今も生命を謳歌している。

わが家にはカエルのグッズはないが、写真なら2、3枚は準備できる。どうですかこのアイデア、文学館さん。

2013年9月12日木曜日

車の死角

週末の午後のひととき、6歳と4歳の孫をあずかった。というより、カミサンが父親とやって来た孫を引きとめた。上の子が「新発売のガンプラがほしい、パパは買ってくれないの」という。ガンプラ? ああ、ガンダムのプラモデルか。どこにも売っていないことを願っておもちゃ屋へ出かけることにした。

わが家は店舗兼住宅。孫たちは道路に面した店から入ってくる。私は裏側、住宅の玄関から出入りする。庭に車を止めている。下の子を抱いて車に乗せた。上の子は店から回って車に乗るという。ややたって、なにげなくサイドミラー=写真=を見たら、上の子が車の後ろにかがみこんで地面を見ている。アリでもいたか。

そのとき、背筋を冷たいものが走った。カミサンも、上の子も来ない。店の前で待っているのだろう。勝手に思い込んでエンジンをかけ、サイドミラーも見ずに車をバックさせたら……。「ギャッ」という悲鳴が耳に突き刺さったかもしれない。不注意と不運が重ならないとはかぎらないのだ。

幼児の行動は予測がつかない。大人は思い込む。車には死角がある。めったにないことだが、親が自宅の庭で車を出し入れ中に幼いわが子をひいてしまうのは、こんなときだろう(背筋がヒヤリとして以後、車をバックさせるときには必ずルームミラーと左右のサイドミラーを見るようになった。ガソリンが半分になったら補充する、に次ぐ新しい習慣だ)。

事故にならないでよかった、なんでもいうことを聞くぞ――下の子は1軒目のおもちゃ屋でウルトラマンの人形を見つけ、上の子は、最初からそこにしか売っていないと言っていたのだが、3軒目のおもちゃ屋で目当てのガンプラを手に入れた。

2013年9月11日水曜日

2年6カ月

きょう(9月11日)は東日本大震災から2年6カ月。パソコンに取り込んだ「東日本大震災豊間地区殉難者精霊位」=写真=の画像に手を合わせ、津波で亡くなったすべての人の安らかな眠りを祈った。

2年半がたってようやく――と言おうか、わが家では今、震災の応急修理が行われている。道路の向かいの家でも解体が終わり、新築工事が進む。いわき駅周辺、つまりいわきの中心市街地でもビルの解体・修理工事が目立つようになった。震災復旧事業がいよいよ厄介なビルに移ってきた、“最終章”に入った、ということだろうか。

わが家の応急修理を手がけているのは豊間の大工氏。あの日、津波から間一髪で逃げのびた。画廊喫茶で知りあってからざっと40年。結婚後は展覧会のオープニングパーティーで顔を合わせる程度だったのが、東日本大震災後につきあいが復活した。

豊間では多くの人が津波で亡くなった。そのために去年、今年と3月11日にキャンドルナイトが行われた。初回、大工氏を陣中見舞いに訪れたら、手伝う羽目になった。今年も手伝い要請の電話がかかってきた。「精霊位」はそのとき、祭壇に飾られてあった。それを撮影した。

きょうはアメリカ同時多発テロ事件の日でもある。12年前のこの日、夜遅く帰宅してテレビをつけたときの衝撃が忘れられない。旅客機がビルに衝突する映像が繰り返し流された。3・11、9.11両方の追悼と鎮魂の思いを新たにする。

2013年9月10日火曜日

言葉は人なり

庭のフヨウの花=写真=が日ごとに数を増している。フヨウは朝咲いて夕方にはしぼむ一日花。アサガオも未明に咲いて昼前にはしぼむ。けさ(9月10日)、起きぬけに庭のアサガオの花を見た。雑用に追われて花を見るゆとりを失っている、だけではない。花でも見て頭を切り替えないことにはやりきれない、という思いも少しはあった。

福島の新聞は毎日、放射線量のモニタリング測定結果を載せる。「株式欄みたいだ」とも評される。

きのうのいわき民報は、県が8月28~30日にいわき沖で採取した魚介類32種65品目の「緊急時モニタリング検査結果」を載せた。こちらはそのつどの掲載だ。今回はさいわい、食品衛生法の規制値1キロ当たり100ベクレルを超える放射性セシウムは検出されなかった。大多数が「検出せず」で、ひとまず安心した。

とはいえ、セシウム134、同137の合算値で四倉沖のムシガレイ:93、豊間沖のアイナメ:69、四倉沖のアイナメ:59――といったところには、やはり目が留まる。

これが現実で、「汚染水の影響は原発の港湾内の0.3平方キロメートルの範囲内で完全にブロックされている」という安倍首相の言葉(朝日新聞)は、浜通りの人間には受け入れがたい。2020年東京五輪決定を素直に喜べない理由がこのへんにある。

詩人で作家の三木卓さんが、先の東京五輪から2年後の1966(昭和41)年に詩集『東京午前三時』を出した。そのなかの1行「現実に堪えられない思想はだめである」を、20歳のころに胸に刻んだ。行動の指針にしている。その延長でいえば、「現実に堪えられない言葉はだめである」。良くも悪くも、言葉は人なり、だ。

2013年9月9日月曜日

絶対得票率

きょう(9月9日)は新聞休刊日。とはいえ、いわき市内では市長選=写真=の号外くらい配達していないだろうか。あらぬ期待を抱いて新聞受けをのぞいたが……。

選挙結果は昨夜のうちにフエイスブックやテレビの速報で知った。清水敏男5万5367票、渡辺敬夫4万8179票、宇佐美登3万1402票、五十嵐義隆3377票。新人の元県議清水さんが7188票差で現職の渡辺さんを破って初当選した。

未曽有の大震災、それに伴う原発事故から2年半。復旧・復興の道半ばで迎えた市長選だ。勝因・敗因は、門外漢にはわからない。が、有権者が各候補をどのくらい支持したかは計算すればわかる。

当日有権者数は27万2142人。投票率は51.13%、4人が立候補したにもかかわらず、前回4年前より4.89ポイント下がった。この状況を正確に反映するのが、各候補の得票数を棄権組も含む有権者数で割った「絶対得票率」だ。電卓でカチャカチャやったら、清水20.1%、渡辺17.5%、宇佐美11.4%、五十嵐1.2%と出た。

絶対得票率は朝日新聞の故石川真澄編集委員(1933~2004年)が生み出した。得票数を有効投票総数で割った「相対得票率」だけでは、選挙の実態はつかめない。市役所担当になったばかりの20代後半、石川さんの署名記事を読んで絶対得票率を知り、自分なりに市議選や市長選その他の選挙を分析するのに利用してきた。

勝ったが有権者の支持率は20%にとどまる――清水さんがかぶとの緒を締めるための、つまり考え深く、慎み深く政治を行うための、一つの目安にはなるだろう。

にしても、やはり新聞がないと落ち着かない。最後は福島民報、民友新聞の「電子号外」をプリントアウトして、拡大鏡を使って記事を読んだ。民友には「東京五輪決定」号外もあった。市長選の詳細は夕刊(いわき民報)待ち。

2013年9月8日日曜日

きりん子林の守り神

平・大町のアートスペース・エリコーナから展覧会案内のはがきが届いた。「おでかけください」と一筆添えてあった。

9月4日から15日まで、福島県出身・在住または賛同する県外の学生や若者による作品展「F.ライン~福島へ~」が開かれている。初日に見に行くつもりが、雑用続きできのう(9月7日)になった。画廊主から実行委員長の安藤夏太郎さんを紹介された。

安藤さんのスギの植物画と、田人二小の全校児童5人がスギの葉を使って制作した「きりん子林の守り神」=写真=に吸い寄せられた。安藤さんは田人二小の南大平分校で学んだ先輩でもある。分校は平成21年度末に閉校した。本校も今年度限りで閉校する。

いわき市の山間部に位置する田人は農林業のむら。「守り神」制作までを記した解説文によると、田人ではスギは身近な木材で、子どもたちはみんな「すぎの子」と呼ばれている。その「すぎの子」たちの思い出の詰まった場所が、田人二小の学校林「きりん子林」だ。守り神には閉校後も「きりん子林」を守り続けてほしい、という願いが込められている。

中通りの田村市船引町に「お人形様」がある。身の丈4メートル。鬼のような相貌で悪疫の侵入を防ぐ。髪の毛は杉の葉だ。それを連想させる田人の森の「守り神」は、頭がイノシシ、手足がクマ、角がクワガタ、羽がトンボ、しっぽがトカゲの「合体動物」だ。怪獣にはちがいないが、どこかかわいらしい。

守り神のいる大地の上空には大きな鳥が羽を広げている。これもスギの葉でできている。「猛禽」だ。田人の自然に君臨する、もう一つの「守り神」だろう。

田人の自然と文化を反映した想像力豊かな「守り神」に対して、安藤さんのスギの絵は微に入り細にわたるスギの標本画だ。大学で植物分類学を学んだ。今は研究生をしながら生物画・植物画を勉強しているという。

私はじっくりスギの葉を見たことがない。科学に裏打ちされた、顕微鏡のような目でスギの葉や花の形態をトレースしている――その地道な作業を思い、しかし鉛筆と黒インクの線の美しさに引かれて、何度も見入った。美術と科学の融合をめざすという。その意気やよし、である。

2013年9月7日土曜日

泣いて前へ進む

いわき市ではとりわけ、塩屋埼灯台をはさんだ豊間と薄磯=写真=で津波被害が甚大だった。3・11から間もなく2年半。両地区のほかに北隣の沼ノ内を加えた「とよま復興グランドデザイン(仮称)」を策定する作業が始まった。きのう(9月6日)のいわき民報が報じている。

3地区の復興まちづくりのための全体構想を練り上げるもので、「3年程度の短期、5~10年程度の中期、20年以上の長期に分け、まちの将来像を展望する」という。9月中に検討会議が発足し、年度内(2014年3月)には「地区民、行政、民間の行動の共通指針」がまとまる。

内陸部の人間にも、こうして沿岸部の大きな復興の流れが見えるようになった。同時に、沿岸部への帰還をあきらめ、内陸部で再出発することを決めた人々の話も耳に入るようになった。

震災前は同じコミュニティのなかで共に暮らしてきた。大津波によって多くの命が奪われ、家が流され、コミュニティの生活とつながりが瞬時に断ち切られた。今も借り上げ住宅での仮の暮らしが続く。とはいえ、元のコミュニティへの帰属意識は強い。そのつながりを断たねばならなくなった悲しさ、寂しさ、うしろめたさ、……。

内陸部に避難中の知人が言う。地域の仲間が薄磯に帰るのを断念して内陸部に土地を求め、家を建てることにした。周りに知った人はいない。泣きながらそのことを知人に報告した。知人もまた内陸部に住むことを決めた。とたんに体調を崩し、病院へ通うようになった。

大震災から1年がたち、2年がたち、3年目の半分が過ぎようとしている今、行政の復興計画や事業と自分たちの将来をつき合わせ、個々人の事情を加味して、泣きながら前へ進む決断をしたのだろう。

海に手ひどい仕打ちを受けたのに、海とともにあった暮らしが忘れられない。でも、そこへは戻れない。知人はしかし、換地をしてでもいつか薄磯に店を再建するつもりでいる。

2013年9月6日金曜日

秋のセミ

庭のカキの木で鳴いているのはツクツクボウシ=写真。アブラゼミ、ときにミンミンゼミが鳴いていたのが、今は朝から晩まで「オーシ、ツクツク、オーシ、ツクツク」とやっている。夜は庭の草むらでコオロギが鳴き、樹上でアオマツムシが鳴く。昼も夜も虫の音に包まれていると、さすがにうんざりする。

街なかの職場で仕事をしていたころは、エアコンが稼働していた。暑さも、セミしぐれも気にならなかった。帰宅すると茶の間に暑気がこもっている。扇風機を「強」にし、庭で鳴く虫の鳴き声をさかなにグイッとやる。その程度だから、虫の音をうるさいと思うこともなかった。

会社を辞め、在宅ワークに切り替えてから間もなく6年。エアコンのない「昭和の家」だから、夏は暑さがこたえる。セミの鳴き声が集中力をそぐ。今年はとりわけ残暑がきびしい。仕事がはかどらない。

外国人は聞き慣れないセミやコオロギの音を雑音と感じるそうだが、日本人でも一日中「ジージー、ミンミン」とやられていると耳をふさぎたくなる。「蝉時雨」は美化された表現であって、実態は「蝉豪雨」「蝉嵐」だ。

ここ2、3日は雨季のカンボジアのように、雨が降ってはやみ、降ってはやみを繰り返している。残暑こそ引いたものの、天気が落ち着かない。雨がやむと「オーシ、ツクツク」が復活し、降ると沈黙する。その分だけ庭が静かになった。

2013年9月5日木曜日

冷たい見出し

東京が安全ならそれでよし――福島第一原発の汚染水問題をわきにおいてオリンピック誘致に奔走する人たちのふるまいにカッカしたことを書いた。その延長で「東京視線」のメディアについても書いておこう。憂さ晴らしではない。メディアの仕事が被災者・避難者の心に届いているかどうか。届いていないと感じるときがあるからだ。

東日本大震災の被災地を記者が取材する。このごろ言われるのは、パッと来てパッと帰る「狩猟型」、そこにとどまってじっくり取材する「農耕型」の二つ。そのどちらも大切だ。彼らの書いた記事に感銘を受けたこともある。が、きのう(9月4日)までに二度、見出しに「東京視線」の冷たさを感じて血が逆流しそうになった=写真

震災から4カ月に当たる2011年7月10日付全国紙の1面トップ記事。原発震災で福島県民が県外に避難し、企業倒産などで失業者が増加したことを報じている。その見出しに凍りついた。「縮む福島」。県民の傷口に塩を塗りつけるようなものではないか。それが事実だとしても、福島をつっぱなしたような整理記者の感覚が理解できなかった。

この整理記者は詩や俳句に精通しているにちがいない。わずか4文字7音で記事のエキスをつかまえている。しかし、「クールアイ」(冷徹な目)が過ぎて「ウオームハート」(温かい心)が感じられない、と私は思った。

そして、きのう朝。同じ全国紙の社会面トップ、汚染水漏れに伴う試験操業延期の記事の主見出しに「福島の漁師『浜は終わり』」とあった。これにも整理記者の冷たい目を感じた。もっといえば、「若いもんがいなくなったら、この浜は終わりだ」を、単に「浜は終わり」と決めつける不正確な見出しだ。

見出しを拾った記事本文は、相馬市の漁師の後継ぎについての述懐だった。<震災後、大型トラックと重機の免許を取った長男には「今によくなるから」と辛抱させてきた。「ずっと縛っておくこともできねえ。若いもんがいなくなったら、>に続くのが<この浜は終わりだ」>だ。見出しだけ見た人は、汚染水で福島の漁業はもう終わりだ、と誤解するだろう。

例示した二つの見出しは福島県民の心を萎えさせるに十分な冷たさを備えている。住民と「運命共同体」をなしている福島の、いわきのメディアは、こうした見出しは付けない。いや、付けられない。

2013年9月4日水曜日

東京が安全ならいいのか

今は月に一、二度に減ったが、主に週末、夏井川渓谷の無量庵で土と遊び、森を巡る。無量庵を吹きぬける谷風に気を緩めていると、アブ=写真=に刺されることがある。先日、何年かぶりに足の親指をブスリとやられた。ハチと違って痛みは尾を引かない。が、なんともいえない痛痒(いたがゆ)さが残った。

アブは清流の生きもの。ブヨ(ブユ)もそう。同じいわき市でありながら、街にいるかぎりではアブやブヨには思いが至らない。ライフラインが整備された街のなかで暮らす人間には、すぐ隣にある自然が遠いのだ。

いわきはハマ・マチ・ヤマの三層構造からなる。いわきを深く知るには、ときどきマチを離れてハマとヤマからマチを見ないといけない――職業柄、そう意識して長年暮らしてきた。中心からは周縁は見えない。見えるのは、周縁が中心に影響を及ぼすとき、たとえば凶作や水害、不漁のときだけだ、とも。

中心と周縁の関係はマスメディアにも内在する。マスメディアの本社がどこにあるかでニュースの価値が決まる。事故を起こした福島第一原発に近いいわき市(地域紙・コミュニティ放送)、福島・郡山市(県紙・ローカル放送)と、東京(全国紙・全国ネット放送)とでは危機感が違う。

全国紙であれ、全国ネットのテレビ局であれ、本質的には東京のローカル紙(局)だ。東日本大震災の初期報道がたちまち福島第一原発事故の報道に切りかわったのは、「東京にも影響が及ぶのではないか」と東京のメディアが恐れたからだと、私には映る。

2020年夏の東京五輪開催をめざす東京招致委員会の竹田恒和理事長(日本オリンピック委員会長)が、福島第一原発から海洋に汚染水が流出している問題で、IOC(国際オリンピック委員会)の委員に対して「東京は全く影響を受けていない」「全く普段通りで安全だ」といった内容の手紙を出したという。ブエノスアイレス共同電で、県紙で読んだ。

私は慢性の不整脈をかかえているので、カッとなるな、興奮するなと常に自分に言い聞かせている。が、これにはカチンときた。メディアだけではない、東京に住む政治・行政・その他組織のトップの本音が透けて見えるではないか。周縁を犠牲にしてなにが東京の安全だろう、なにが五輪招致だろう。