2013年9月25日水曜日

もう一つの「風立ちぬ」

元草野美術ホールオーナー草野健さん(95)の葬儀・告別式がきのう(9月24日)、平で行われた。通夜=写真=では東京から駆け付けた後輩と会った。個展のためにスペインから帰国したばかりの画家阿部幸洋、ギャラリー界隈のオーナーとは草野家で顔を合わせ、通夜と告別式を共にした。いずれも「ホールのおっちゃん」を慕う「ごま塩会」の仲間だ。

いわき市には現代美術を主として収集する市立美術館がある。来年で開館30周年を迎える。市民運動が盛り上がり、田畑金光市長が建設を決断した。その原点が草野美術ホールだと言っても過言ではない。

昭和40年代半ばからほぼ10年間、草野美術ホールはいわきの美術家の最大・最高の発表の場だった。郡山市が暴力団抗争の相次ぐ「東北のシカゴ」から音楽都市「東北のウィーン」へとイメージを変えたように、いわき市は草野美術ホールができて美術の盛んな「東北のパリ」に変身した。その潮流が市民運動となって美術館を生んだ。

駆け出し記者には、草野美術ホールは欠かせない取材先の一つだった。ホールの事務所で若い美術家と記者がたびたび膝をつき合わせて語り合った。その人の輪をいつもニコニコしながら眺め、あるいは議論に加わり、ときに挑発するような問いを発していたのが、ごま塩頭の草野さんだった。

草野さんは事務所にたむろする若者たちの最初の理解者、味方だった。と同時に、飛行場づくりに情熱を燃やす「面白いオヤジ」でもあった。戦闘機乗りの血がそうさせたのだろう。

91歳の誕生日を記念して、わが子と孫のために小冊子『卒寿夜話』を編んだ。その中の一節。「B29を撃っていたら、B29の弾がハヤブサに当たり、じいちゃんの機は、清洲飛行場に落とされてしまった。基地に戻ったら、じいちゃんのご飯茶碗には、箸が十字に差してありました。なに思って食べたのかは忘れてしまいましたが……」

ここに草野さんの人生の原点があるように思う。一度死んだ人間、という自覚だ。それがあるからこそ、他人のために捨て身になれた。

9月20日午前3時33分、震度5強の地震のほぼ1時間後、草野さんは極楽浄土へ飛び立った。この夏、宮崎駿監督のアニメ映画「風立ちぬ」がヒットした。その映画のどのシーンよりもすばらしい映像が脳裏に浮かんだ。満月が皓々と西空に輝くなか、隼を操縦し、少年のようにニコニコしながら、草野さんがこちらを向いてバイバイをしている。

私生活では、前から作品を出し入れする額縁や、段差でも安定している車いすを発明するアイデアマンだった。絵を描き、尺八を習い、杖道に汗を流し、パソコンをいじり、文章を書く、多彩な趣味人だった。社交ダンスや英会話にも挑戦した。八十何歳かで通信制の高校に入学したときには、さすがに驚いた。

「人間って面白い」。草野さんと出会って42年間、草野さんを見ながらずっとそう思ってきた。薫陶を受けた者のひとりとして、「あと何年生きるかよりも、生きている間に何を為したか」を問え、という草野さんの人生哲学をあらためて胸に刻む。(国内外に散らばる「ごま塩会」の仲間を代表して弔辞を述べた。これはその縮小・再編版)

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