2013年9月7日土曜日

泣いて前へ進む

いわき市ではとりわけ、塩屋埼灯台をはさんだ豊間と薄磯=写真=で津波被害が甚大だった。3・11から間もなく2年半。両地区のほかに北隣の沼ノ内を加えた「とよま復興グランドデザイン(仮称)」を策定する作業が始まった。きのう(9月6日)のいわき民報が報じている。

3地区の復興まちづくりのための全体構想を練り上げるもので、「3年程度の短期、5~10年程度の中期、20年以上の長期に分け、まちの将来像を展望する」という。9月中に検討会議が発足し、年度内(2014年3月)には「地区民、行政、民間の行動の共通指針」がまとまる。

内陸部の人間にも、こうして沿岸部の大きな復興の流れが見えるようになった。同時に、沿岸部への帰還をあきらめ、内陸部で再出発することを決めた人々の話も耳に入るようになった。

震災前は同じコミュニティのなかで共に暮らしてきた。大津波によって多くの命が奪われ、家が流され、コミュニティの生活とつながりが瞬時に断ち切られた。今も借り上げ住宅での仮の暮らしが続く。とはいえ、元のコミュニティへの帰属意識は強い。そのつながりを断たねばならなくなった悲しさ、寂しさ、うしろめたさ、……。

内陸部に避難中の知人が言う。地域の仲間が薄磯に帰るのを断念して内陸部に土地を求め、家を建てることにした。周りに知った人はいない。泣きながらそのことを知人に報告した。知人もまた内陸部に住むことを決めた。とたんに体調を崩し、病院へ通うようになった。

大震災から1年がたち、2年がたち、3年目の半分が過ぎようとしている今、行政の復興計画や事業と自分たちの将来をつき合わせ、個々人の事情を加味して、泣きながら前へ進む決断をしたのだろう。

海に手ひどい仕打ちを受けたのに、海とともにあった暮らしが忘れられない。でも、そこへは戻れない。知人はしかし、換地をしてでもいつか薄磯に店を再建するつもりでいる。

3 件のコメント:

issay matsu さんのコメント...

地球規模で考えますと、大昔に海岸線に大災害
があったかと思います。
でも人は、また復旧して生きて来たのかなと。
自然に畏怖の念を持ちつつ、歩みましょう。

匿名 さんのコメント...

自分だったらどう考え決断するだろう?

津波のない安全な場所でやり直すか?

知り合いのいない土地で暮らすか?

もう一度生まれた土地でやり直すか?

自分だったらどう決断するのか?

あっちでもないこっちでもない!

得るもの捨てるものあっても命は1つしかない。自分が生きていくのに大切にして必要なものは何だろう? 誰が自分を生かしているのか? 地球に1人しかいない命名された自分です。

誰に遠慮することなく自分に正直に生かしてほしいです。

匿名 さんのコメント...

以前、豊間町再生のワークショップを見学した。

その日は女性が中心となっての再生プランをそれぞれ発表していた。

ウニ飯を復活、サーファーが集まる街づくりをなど食べ物中心にした特産品で盛り上げようというものだった。

もう前と同じ発想では再生しないと思ってしまった。「声の薄磯、情けの豊間」なら人が来なくなっても未来永劫変わらないもの、安心安全を最優先で訴えたらどうだろう?

人をお迎えする「こころ」だったりするのか?