2013年10月13日日曜日

海の見える坂

1歳年下の後輩を車に乗せて、いわき市の北、広野町と楢葉町を巡った。後輩の父親は学校の先生だった。子どものころは楢葉町の教員住宅で過ごしたという。福島高専(当時平高専)に入り、上京してからは、親の住む広野町の教員住宅に“帰省”した。今もそうかどうかはわからないが、広野の教員住宅は海の見える坂の上にあった=写真

1年に一度、いわき市教委の仕事で顔を合わせる。後輩は若いころ、小説を書いていた。著名な文芸雑誌の新人賞をとったこともある。その後、雑誌編集長に転じ、定年退職をした今は請われて書籍の編集をしている。

仕事が終わったのは午後3時半ごろ。いわき発午後6時20分の「スーパーひたち」で帰るまで3時間弱、彼の“ふるさと”を訪ねる時間的な余裕はある。広野・楢葉行を提案すると、同意した。

広野町は緊急時避難準備区域に指定されたが、2011年9月30日に解除された。楢葉町は大部分が福島第一原発から半径20キロ圏内の警戒区域に入っていたが、昨年8月10日に避難指示解除準備区域に再編された。広野町は立ち入り・宿泊が自由、楢葉町は日中の立ち入りは自由でも宿泊はできない。

楢葉町への立ち入りが自由になったために、広野・楢葉と様子を見に行くことはできたが、なんとなくはばかられた。後輩を“ふるさと”に案内する名目ができたので、やっとこの目で確かめることにしたのだった。

最初に広野の教員住宅を訪ねた。親が住んでいたころには、海側にあるJR常磐線の広野駅で降り、国道6号を横切って狭い坂道を上ってきたという。建物は健在だった。が、何軒か更地になっている。除染が行われたらしく、各家の庭に新しい砂利が敷きつめられていた。後輩はかつての“わが家”を、前から後ろからせわしくなめるように見て回った。

楢葉町では後輩の言うままに木戸駅、竜田駅周辺を巡り、閉鎖中の楢葉北小、楢葉中に寄った。楢葉の教員住宅は中学校のそばにあったという。北小入り口で放射線量を測ったら、毎時0.4マイクロシーベルトだった。「早く帰りましょ!」。いわきの人間には驚く数字ではないが、後輩はゾッとした様子だった。

国道6号沿いに田んぼが広がる。稲刈りが真っ盛りの時期なのに、田んぼを覆っているのは黒いフレコンバッグとセイタカアワダチソウの黄色い花だ。8月にこの地を訪れた作家多和田葉子さんは雑誌「ミセス」11月号(巻頭連載エッセー<言葉と言葉の間で>⑧)にこう書いた。

「あの黒い袋の中の物質は何千年たっても子供たちを癌にするかもしれない。いつまでもなくならない。いつか鴉につつかれて袋に穴が開くかもしれない。(中略)とんでもないもの、手に負えないものを無責任にこの世に送り出してしまった人間のとりかえしのつかない過ち。福島への旅は、わたしにとっては、これまでで一番悲しい旅だった。」

楢葉町には40年間、反原発運動を続けてきた元高校教員の住職氏がいる。今はいわきで避難生活を送る。その人が率先して寺の田んぼをフレコンバッグの仮置場に提供したという。寺は楢葉中学校に近いところにある。国道6号から見える「黒い袋」の一部がそれかもしれなかった。

後輩が楢葉町に住んでいたのは半世紀も前のことだ。今は除染作業員のほかに人気はない。ちょうど夕方のラッシュ時で、国道6号はいわき方面へ南下する車で込んでいた。道の両側の黒い袋と黄色い花。片側だけ途切れなく続く幹線道路の車両。不気味ささえ感じられる光景だった。

0 件のコメント: