2013年12月19日木曜日

コザ騒動から43年

22歳だった。昭和45(1970)年の師走、パスポートを持っていわき出身の朋友と2人、沖縄本島を旅した。行き当たりばったりの素泊まりか民泊頼みで、2週間が過ぎるころには朋友がカメラを質入れするところまで窮した。もう本土へ帰るしかない――そう決めて、コザ市(現沖縄市)から那覇市へ移動した夜、「コザ騒動」がおきた。

別件で当時のノートを繰っていたら、コザ騒動を報じる12月21日付琉球新報と沖縄タイムスの見出しが目に留まった=写真。泊まった旅館で新聞を読み、衝撃を受けてノートに書き止めたのだった。(ノートはどこかにまぎれこんでいた。震災後、ダンシャリを繰り返すなかで出てきた)

騒動は、19日から20日に日付が変わったばかりの午前1時ごろ、米軍兵士が沖縄人をはねた交通事故をきっかけに起きた。われわれがコザ市から那覇市へ移動した19日の真夜中だ。新聞の報道は20日の夕刊が最初で、朝刊としてはまるまる1日遅れの21日になった。

琉球新報は「10面のうち約6面をコザ事件の記事にあてる」と、ノートにある。夕刊の第一報を踏まえた見出しになっている。1面:コザ反米騒動 政治問題に発展、2面:限界にきた県民の怒り、3面:コザ反米騒動 本土の反響、7面:“反米”で燃えるコザ(写真特集)、8~9面:くすぶる一触即発の危機 起こるべくして起こった――。

沖縄タイムスは計7面を使ってコザ騒動関連記事を掲載した。見出しの一部に「火を噴いた“25年のうっ積”放火・投石で激しく抵抗」「人権無視への反発」「主婦れき殺事件も底流に」「怒り狂った基地の町 深夜、市街戦さながら」とあった。

沖縄放浪と、それをしめくくるコザ騒動以来、沖縄人の親切と心の痛み・怒りがわが胸底に残響するようになった。東日本大震災の直後、沖縄の人たちは東北の惨状をわがことのように悲しんだという。その話を聞いて、沖縄人だからこそ被災者の心がわかるのだと、あらためて感銘を受けたものだった。

沖縄からやっと帰ってきたあと、私は東京からJターンをしていわきで新聞記者になった。朋友は独立したばかりのバングラデシュへ農業支援に出かけ、ヘルプ・バングラデシュ・コミティという市民団体を立ち上げたあと、週刊誌記者になった。ともに記者の道を選んだのは偶然にすぎない。

ヘルプ・バングラデシュ・コミティはやがて国際NGOのシャプラニールへと進化し、今度の大震災で初めて国内支援に入った。いわきの交流スペース「ぶらっと」は、シャプラニールが運営している。(タレントの藤岡みなみさんが書いた『シャプラニール流 人生を変える働き方』が最近、出版された。鹿島ブックセンターに平積みされている。よかったら手に取ってください)

コザ騒動から43年がたつ。沖縄県民の“25年のうっ積”はそのまま積もり積もって“68年のうっ積”になった。福島県民もこれから、原子力災害という終わりの見えない“うっ積の歴史”を重ねることになるのだろう。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

除染で出た残土を保管する中間貯蔵施設、使用済み核燃料を貯める最終処分場など重いうっ積がこれから永遠に覆うのですね。

5・6号機が廃炉に決まってようやくかと思うけれど、第2原発は別物、動かしたいのだろう 除染はまだまだ続くのか? 予算は増税して電気代あげてなんの生産性もない(あるとすれば公共事業)負の行為につぎ込まれる。

東電は有り余る土地を解放して措置を講ずるべきだと東電病院の名を聞くたびに滅入ってしまう。

匿名 さんのコメント...

昔、猪瀬直毅の話を聞く機会があった。なんの話(講演)だったか内容は忘れたが、最後に沖縄基地問題について触れ、疑問に思っていないのはおかしいじゃないかっ!とセミナー参加者に激を飛ばし弁の立つ怖い人だと印象を持っている。

それから「ミカドの肖像」「土地の神話」を読み取材力の凄い作家だなと読み物としては面白いと思ったが、ゴーストライターの噂も流れそれ以降は読む気を失せた。

5000万円受け取って知事を辞したが都知事の権力や勲章は5000万円では買えないことぐらい知らなかったのか?

権力に対峙してやっつけるうるさい人がいなくなった。