2013年12月20日金曜日

関東大震災の揺れ

わが家では冬、糠床に食塩の布団をかぶせて眠らせる=写真。来春までお役目ご苦労さんというところだが、NHKの朝ドラ「ごちそうさん」では、そうはいかない。糠床がナレーターを務める。“糠床小説”(梨木香歩『沼地のある森を抜けて』)があるくらいだから、糠床がしゃべってもおかしくはない。

今週は、関東大震災で大阪に避難してきた被災者と主人公め以子らのやりとりが中心だ。家族を失った髪結いが食事を拒んで倒れる。いよいよ入院という段になって、七輪で焼かれるサンマのにおいに反応し、泣きながらかじりついて生きる力を取り戻す。避難所を去ろうとするすし職人には、め以子から小さな糠床が手渡される。

さて、関東大震災が起きたときのいわきの様子だが――。朝ドラでは、大阪は人がしゃがみこむほどの揺れとして描かれる。大阪は東京から西にざっと500キロ、いわきは北に約200キロ。震源に近い分、大阪より揺れが大きかったようだ(ネットで検索すると、大阪で震度4、福島で5)。

いわきの中心・平の北隣の四倉で地震に遭遇した12歳の少年の記憶。「昼ごろ大きな地震だ。家の電灯はこわれるし、戸棚の上の物はみんな転げ落ちた」「驚いて私は外へ飛び出したが、他の家の人々も飛び出した」。その日の夕方、「西の空が真っ赤に染まっていたのを子供心に憶えている」(吉野熊吉著『海トンボ自伝』)。著者はのちに、東京・深川の船宿「吉野屋」の主人になる。

浮世絵と川柳研究で名をなした、小高町(現南相馬市)出身の俳人大曲駒村(おおまがりくそん=1882~1943年)に『東京灰燼記――関東大震火災』(中公文庫)がある。駒村が見聞した惨状の記録と新聞記事などの資料からなる。

浜通りから見舞いに駆けつけた人間のことが書いてある。「九月四日、即ち大震第四日目の朝、夜警の疲れで床の中に倒れていると、ドヤドヤと福島県の田舎から見舞の人が遣って来た。相馬の旧友たち六人である。(略)六人が六人とも、大きな荷物を重そうに背負っていた。中には白米五升は勿論のこと、種々の罐詰、味噌、松魚節(かつおぶし)等が這入っているという」

平の人間にも遭遇した。「午後から新宿を訪なうこととした。(略)牛込まで来る途中、平からやって来た遠縁の者二人に逢う。いずれも大きな布袋を背負うてウンウン唸って歩いていた。この体で川口から四里半も歩いて来たので、疲れ切ったと言う」

首都圏に住む親類の消息を尋ね、あるいは窮状を知り、食糧を持って各地から上京する人たちがいた。朝ドラの建築士や貧乏作家ではないが、相馬と平の知人・縁者の例からも、そんな人が群れをなしていたことがわかる。

詩人山村暮鳥の、磐城平時代のネットワークに連なる比佐邦子(1897~1937年)は、関東大震災で家と夫を亡くした。子どもがいなかったこともあっていわきに帰郷し、平の磐城新聞社に入社する。いわき地方の女性記者第一号(推測)として健筆をふるった。

90年前の関東大震災と、今度の東日本大震災とでは何が違うだろう。道具としてのメディアは段違いに進歩し、多様化した。虐殺事件が起きなかったのはそのおかげだろう。が、文明の進歩が原子力災害という人間の手に負えない“悪霊”をも生み出した。これは否定できない。

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