2013年12月30日月曜日

すべてのことはメッセージ

きのう(12月29日)、夏井川渓谷の隠居(無量庵)へ出かけた。カミサンが玄関に「りんぼう」を飾り、床の間にモチを重ねて正月を迎える準備をした。私はその間、隣にある「錦展望台」のガケ、道路側溝の直下にできた“しぶき氷”=写真=の撮影に集中した。

そこはV字谷にある小集落の下流側の入り口。集落には何枚か田んぼがある。それを潤すために、夏井川の支流・中川から集落の田んぼ、そして道路に沿って夏井川へと用・排水路がのびている。

この冬初めてできたしぶき氷だ。写真を撮りながら、じっくり氷を観察した。排水口の周りに、細い枯れ草が密生している。その枯れ草に絶えずしぶきがかかっている。気温が下がる夜間、草に付いたしぶきが凍り、肥大し、やがて氷柱(つらら)状になったり、ナイフ状になったり、球状になったりしたのだろう。氷はまだ赤ちゃんなのか透明だった。

自然は絶えずこうして流動し、変化している。夏井川渓谷に限ったことではないが、自然に身をおくたびになにか発見がある。「本を読む」だけでなく、「自然を読む」面白さを知ってからは、意識して「いわきという書物」を読んできた。今はさらに「いわきというメディア」という言い方をしてみたくなっている。

およそ40年前に発表されたユーミンの歌「やさしさに包まれたなら」に、「目にうつるすべてのことはメッセージ」という1行がある。まともに歌詞とむきあったのはつい先日。で、森をめぐっているときに感じていたのはこれだったと、遅まきながら気がついた。

自然はメッセージに満ちている。そこに赤松があれば大工は家の材料を思い、愛菌家はマツタケを思い、画家はかたちと色を思い、カメラマンは光の方角を思う。同じものを見てもとらえ方は人それぞれだ。逆に言えば、赤松は、いや自然は無限のメッセージを発しているメディア(媒体)になる。排水口のしぶき氷だって、寒さが早いか遅いかのバロメーターにする人がいるかもしれない。

ユーミンの歌に先行して世に知られた言葉にマーシャル・マクルーハンの「メディアはメッセージである」がある。それにひっかければ、メッセージを発しているメディア、つまりいわきの自然はいわきのメディアということになる。マスではない「いわきというメディア」という切り口でいわきを読み直してみるのも面白いかな。

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