2013年12月6日金曜日

庭土のはぎとり

作業が始まると早い。除染2日目の12月5日。菜園にしている西側から全体の3分の1まで、庭の土のはぎとりが進んでいた=写真

作業の邪魔をするわけにはいかない。午前10時からの休憩時間に合わせて、夏井川渓谷のわが隠居(無量庵)へ出かけた。自宅から溪谷まではざっと25キロ、車で30分の道のりだ。この程度の時間と距離なら毎日通っても苦にならない。

休憩中の作業員氏と土のはぎとり現場に立って話す。小型のバックホーで土をはぎとっているうちにキャプタイヤケーブルが現れた。ん、なんだ? 「ずっと向こうの方まで延びている」と言われて、ピンときた。「それは井戸水をポンプアップするモーターの電線。井戸はホラ、隣の空き地の、あの青いトタンで囲われた小屋がそう」。「切らないでよかった」、作業員氏が思わずつぶやく。

水道管が心配で様子を見に行ったのだが、そちらは地表から30センチほどのところに埋まっているはずだから、案外大丈夫。キャプタイヤケーブルは頭になかった。しかも、表土近くに無造作に埋まっているとは。こういうのを“想定外”というのだろう。

バックホーを操作する人、小型ダンプカーの上で黒いフレコンバッグを広げる人、ブロアーで草の間にたまった落ち葉を飛ばす人、それをかき集める人……。休憩が終わると一斉にチームが動き出す。

道路まで立ち退き、作業を見守っていたら、明暗二つの感慨が頭をよぎった。「庭がきれいになっていく」一方で、「15年以上も手を入れてきた菜園が消えていく」。

1995年。阪神・淡路大震災(1月17日)、地下鉄サリン事件(3月20日)と、大災害・大事件が起きたあとの初夏、義父母が隠居のように利用していた無量庵の管理人を引き受けた。毎週土曜日に出かけては、翌日曜日に対岸の森を巡るのが楽しみになった。

やがて、それだけでは飽き足りなくなった。野菜栽培を思い立って、庭の一角を“開墾”した。一面にはびこっていたササの根を切り、石を取り除く。同時に、大工さんにつくってもらった堆肥枠に、刈り払った庭の草や落ち葉を投入して堆肥をつくる。それを毎年繰り返しながら、少量多品種を念頭に、いろんな野菜を栽培した。

ネコの額のような菜園の土にも、汗と愛情と堆肥の蓄積がある。それがいったんチャラになる――素人といえども喪失感は小さくはなかった。

週末だけの半住民にしてこうなのだから、代々住み続け、すべての時間を家族とともに過ごしてきた住民、とりわけ農家にとっては、敷地の「全体除染」は身を削られるような思いにちがいない。未来の再生には過去の喪失が伴うのか――そんなところまで思考が転がっていった。

1 件のコメント:

issay matsu さんのコメント...

そうですか、18年間育てた我が子同然ですよね。あまりに悲しい、心痛お察しします。
希望を持たれるようお祈りいたします。