2013年12月8日日曜日

97年の生涯

大正5(1916)年生まれの満97歳だ。大往生といえるだろう。友人の母上の葬儀に参列し、菊の花を手にして墓への納骨に供として加わった=写真

喪主である友人が告別式で謝辞を述べた。年譜でも読み上げるように、時に涙声で母上の人生を振り返った。母への感謝と哀惜の念が伝染して、目じりがぬれた。

母上はいわきのハマのひとつ、沼ノ内で生まれた。太平洋戦争をはさんで夫と死別し、再婚した。幼いころ、関東大震災が起きた(いわき地方もかなり揺れたらしい)。そして、戦争(72年前のきょう12月8日、太平洋戦争が始まった)。最晩年には東日本大震災を経験した。

世の母親がそうであるように、時代の荒波にもまれながらも、家事と子育てに明け暮れた。農業のかたわら、好きな俳句と短歌に親しんだ。

会葬の礼状に、母上が亡き母(友人の祖母)にたむけた俳句2句「つつじ咲くあの丘の辺に母眠る」「去年(こぞ)の秋はかなくなりて初彼岸」と、亡き長兄にささげた短歌1首「百枝なだれて鶴の松詠みにし人はすでに亡く松のみ聳ゆ村の境に」が紹介されていた。

肉親を思う真情が巧拙を超えて胸に響く。失礼な物言いになるが、片田舎の庶民のひとりにすぎない女性の内面の、なんと豊かなことだったか。

葬儀が行われた斎場にも触れておきたい。斎場はいわきでも津波の犠牲者が多く出た豊間にある。薄磯も近い。葬儀社のブログによれば、3・11後、同社では小名浜の関連斎場に多くの遺体を安置し、納棺して、火葬場へと旅立つ手伝いをした。

友人の母上の生まれ育った沼ノ内は薄磯の北隣にある。自宅、つまり友人の家からも、生家からも最も近い斎場で最後のお別れをした。精進おとしでは喪主の甥のほかに、斎場のスタッフが故人の甥としてあいさつした。

斎場の隣接地では今、豊間の被災者のための災害公営住宅の建設が進められている。

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