2013年2月27日水曜日

「キルトの世界」展


会場に入るとすぐ右の壁面に、「3・11 きれいな雨になあれ この作品で針がとまる」と書き添えられた小品が掛けられてある=写真。和田美津代さん(内郷)が仲間2人と平・エリコーナで開いている<夢布(ゆふ)の仲間「キルトの世界」>展の一品だ。

案内のはがきに真情がつづられている。八十路に入る前に立ち止まり、振り返ってみたいと思ったこと。いわきに移住して48年、たくさんの出会いと経験が自分の成長をもたらしたこと。3・11以来、針を持てずにいること。

しかし「今回私なりに歩んできたキルトの作品を展示することによって新たな制作意欲が湧き、人生の第3ラウンドのスタートができればと願っております」。

同じ針仕事にちりめん細工がある。富岡町でふくろうのストラップを作り、配っては喜ばれていたおばあさんがいる。原発事故でいわきに避難した。借り上げ住宅に住む。そこでも針を持つ日々。

ストラップがいわきでも評判になった。ざっと1年前、私もおばあさんからストラップをもらった。今もケータイに付けている。ストラップに喜ぶ顔を見るのが、おばあさんの張り合いになっている。

3・11の影響は人それぞれだ。震災から間もなく2年。和田さんにも自分を叱咤する気持ちが芽生えてきた、ということだろう。

和田流キルトは自在な発想が特徴。キルトによる絵画作品といった雰囲気を醸す。同展は3月5日まで。

2013年2月23日土曜日

「積ん読』の行く末


断続的に本のダンシャリをしている。カミサンが隣の弟の家から本を運んで来ては、縁側とコンクリートのたたきに積みあげる。『漱石全集』『和辻哲郎全集』『定本柳田國男集』『岩波講座 哲学』『岩波講座 日本語』その他=写真。要るか要らないか決めよ、という。このへんの本になると、なかなか踏ん切りがつかない。

若いときに無理をして買い揃えた本ばかりだが、ほとんど「積ん読」のままできた。人生の残りの時間を考えれば、これからも「積ん読」のままだろう。かといって、本を眠らせておくスペースは、わが家にはない。最後は古本屋へ行くにしても、業界で暮らす若い仲間の話では二束三文にしかならない。

しゃくの種をかみながらも溜飲を下げる手はある。これまでに何度かしてきたことだ。国際協力NGOのシャプラニールが展開している「ステナイ生活」。

単行本・コミック10冊(約400円)で家事使用人として働くバングラデシュの少女たちが読み書きを学ぶ授業を1回開催することができる。1500円になれば、少女たちが将来の仕事の選択肢を増やすためのミシン研修を1カ月間開催することができる。

それはそれとして、違う展開もあり得るだろう。津波で家を流され、本を失った人がいるにちがいない。家はあっても原発事故で避難し、本を手にすることができなくなった人がいるにちがいない。そういう人たちのために要らなくなった本を融通し合う回路が開けないものか。

津波被災者や原発避難者が利用する交流スペース「ぶらっと」=イトーヨーカドー平店2階=には「譲ります」コーナーがある。本のリストをつくってそこに張り出してみようか。とは思ったものの、箱入り本の全集では重くて場所ふさぎになる。現実的ではない。やっぱり「ステナイ生活」行きか。

2013年2月20日水曜日

ホームビジット


日曜日(2月17日)に留学生のホームビジットが行われた。いわき市国際交流協会からカミサンに連絡があり、ネパールの青年(24歳)を1人受け入れた。「家庭生活体験」のあと、イトーヨーカドー平店2階にある、被災者のための交流スペース「ぶらっと」へ案内した=写真

留学生たちとは正午前、平消防署で対面した。防災訓練を終えたばかりの彼らとともに、協会が用意した弁当を食べ、それぞれの家庭で過ごしたあと、留学生を東日本国際大学へ送り届けて解散した。家では、こたつに入ってお茶を飲みながら話をした。私の生活リズムに合わせて「きどころ寝」(昼寝)もした。

この間ざっと5時間。青年が日本の家庭生活について知るより、私らが留学生の生活について学ぶ方が多かったのではないだろうか。

ネパールといえば「ヒマラヤの国」と思いがちだが、青年の生まれ故郷はインドに近い平原のチトワン郡。亜熱帯に属し、ベンガルトラやインドサイ、ヌマワニなどが生息する。彼の話から、ネパールは自然と文化が垂直的に展開する国であることを、あらためて知る。

彼もまた3・11に遭遇した。原発事故が起きると、仲間とともに東京へ避難した。一時帰国した留学生もいる。「そのころはまだ日本語がよくわからなかったから」。あのとき、日本人でさえ不安でたまらなかったのだから、その何倍も心細い思いをしたことだろう。

今月、日本語別科を修了した。4月からは大学で経済を学ぶ。ビジネスマンになるのが夢だという。春休みの今はバイトに追われる毎日。物価の高い日本では苦学せざるをえない。「きどころ寝」で少しは疲れがとれたか。

さて、ヨーカドーの「ぶらっと」である。この交流スペースは、バングラデシュやネパールで支援活動を展開しているNGOの「シャプラニール=市民による海外協力の会」が運営している。

留学生はネパール、ミャンマー、中国、オーストラリアなどからやって来た。彼がそうだったように、大震災に遭遇した留学生も少なくないだろう。大学とヨーカドーとは目と鼻の先だ。留学生も情報交換の場として「ぶらっと」を利用するといい――彼を案内したのはそんな思いからだった。

2013年2月16日土曜日

戸別訪問


いわき市で復興支援活動を続けているNGOの「シャプラニール=市民による海外協力の会」の会報「南の風」第257号(2013年2月1日発行)が届いた。「いわき市に暮らす人々とシャプラニールの取り組み」を特集している=写真

いわきでのシャプラの活動は、①被災者のための交流スペース「ぶらっと」の運営=イトーヨーカドー平店2階に開設②月1回、情報紙「ぶらっと通信」を発行=主に借り上げ住宅で暮らす津波被災者・原発避難者に郵送③「ぶらっと」へ来られない世帯への戸別訪問=高齢者のみの世帯、障がい者のいる世帯、独居世帯などが対象――が柱になっている。

東日本大震災・原発事故から来月11日で丸2年。「南の風」の特集もそれを踏まえたものだろう。特集で紹介されている個別・具体的な事例から、あらためて津波被災者や原発避難者の困難な状況を知る。

・「ぶらっと」利用者の事例(原発避難で借り上げ住宅に住む60代の夫婦)――。

津波で娘と孫を亡くした。以来、妻はうつ状態が続き、薬を飲んでいる。夫も肺に水がたまり、通院している。アパートに届く「ぶらっと通信」を見て、「ぶらっと」を利用するようになった。思い切ってスケッチ教室に参加したら、とても楽しかった。いつまでも悲しんでばかりいられないと、今は夫婦で定期的に「ぶらっと」に来ることが楽しみになった。

・戸別訪問での事例(原発避難で借り上げ住宅に住む、相双地区の70代後半の夫婦)――。

震災前までは自宅で野菜を作り、婦人会や町内会の行事などで毎日忙しく、楽しく過ごしていた。避難所、郡山市のアパート暮らしのあと、いわき市へ移った。運転は危ないと息子に止められ、車を手放したことで外出の機会が減った。「ぶらっと」の利用者と招待旅行に参加したのを機に、毎朝の散歩が日課になり、近所に言葉を交わす顔なじみもできた。

日々のニュースに追われるマスメディアには、こうした個別・具体的な声は載りにくい。その結果、読者も、視聴者も津波被災者や原発避難者の心には深く触れ得ない。

なぜそんな感慨を抱いたかというと――。ちょうどこの時期、マスメディアの記者たちは「震災2年」の特集取材に追われている。「震災から1年」の昨年は全国紙の記者が、「震災から2年」の今年は放送記者が接触してきた。自分たちの特集・企画に合った人間や事例について情報・ヒントがほしい、ということだろう。

せめて節目のときには深く考えさせられる記事を、シャプラの「戸別訪問」のような被災者の「今」を伝える声を、という思いが募る。

2013年2月12日火曜日

佐藤まちこ展


いわき芸術文化交流館「アリオス」の2階「アリオス・カフェ」で2月いっぱい、知人が作品展を開いている=写真

「カラス1948 佐藤まちこ展」。「カラス1948」ってなに?なんて考え始めるときりがない。ここはただ作品と向き合うだけ、と言い聞かせる。

3年前に娘さんと花屋を始めた。作品がドライフラワーのリースかアレンジメント風なのはそのため。しかし、もともと絵を描いてきた人間だ。アレンジメント風にしても美術家としての感性が勝る。

ツルウメモドキの赤い実に囲まれてだるまがにらみを利かせている。白骨のような流木と冬枯れのキカラスウリの実を組み合わせた小品がある。ドライと炭のハスの実が対置されている――壁面全体を一つのキャンバスにした構成でもある。

和紙に少女のような仏様を描いた水墨画が、わが家にある。彼女の個展でカミサンが気に入り、購入した(カミサンと彼女は実家が近く、幼なじみだ)。それ以来、30年ぶりの作品展ということになる。

いわきでは1970年代、「草野美術ホール」を拠点に美術が活況を呈した。ホールの事務所には主に20代の画家や新聞記者が出入りしていた。そこで彼女と知り合った。

そのころ高校生だった旧知の人間が、東日本大震災を体験して25年ぶりに創作活動を再開した。危機的状況が創造へのバネになった。彼女の内面にも同じ危機バネがはたらいたか。それよりなにより、作品展は30年ぶり――そこに私は拍手をおくる。

2013年2月6日水曜日

飛行機雲が次々と


カミサンがよく利用する店がある。運転手はその間、駐車場で待つしかない。きのう(2月5日)は駐車場に入るとすぐ、青空を切り裂くような飛行機雲が目に入った。飛行機雲はそのあとどうなるのか――俄然、興味がわいた。

阿武隈の山の上、ジェット機が北から南へ進み、西の方へ右旋回して視界から消えた。「し」の字をした飛行機雲がその航跡を示す。飛行機雲はやがて途切れながらも成長し、近づき、東へ去った。そのあと、カミサンを車に乗せて南へ移動していると、別のジェット機が西から東へと一筋、鋭い飛行機雲を残して横切っていった=写真

南北に伸びた飛行機雲は南北に伸びたまま、右旋回して西に向かった飛行機雲は東西に伸びたまま、変形・断絶しながら風に流されてくる。写真にあるジェット機の下方の飛行機雲は、西に右旋回した前のジェット機のものだ。

きのうは飛行機雲のなれの果てである、水平に長い雲が青空のあちこちに見られた。飛行機雲の発生から成長を見たかぎりでは、「地震雲」の一種といわれているものは飛行機雲の成長したものと似ている。

空気が湿っていると、飛行機雲はいつまでも消えないのだという。それで、天気が崩れるきざしにもなっている。その通りになった。西から南岸低気圧が近づいてきて、けさは雪。すでに庭は真っ白だ。

2013年2月4日月曜日

「昔野菜」大試食会


いわき昔野菜フェスティバルが先日、中央台公民館で開かれた。お目当ては昼の大試食会「いわき昔野菜食べ比べ会」。家庭料理の「おかごぼうのふっくらおこわ」や「刺し身こんにゃく」「昔野菜汁」、サツマイモの創作スイーツなど数品目が出た=写真

昔ながらの味(おこわなど)とモダンな味(スイーツ)の対比から、<伝承と創造>という言葉が思い浮かんだ。

昔野菜の生産者がいる。生産された昔野菜を調理する人がいる。そうして「自産自消」を越えた関係が築かれることで、昔野菜が未来に生きる回路が開かれる。シェフやパティシエは<伝承と創造>のための力強い援軍だ。

フェスティバルではほかに、①上映会「いわき昔野菜の四季」②講演会&交流会「未来につなぐ地域の宝・いわき昔野菜」③あなたも昔野菜栽培者に「恒例!!種子配布会」――が行われた。

山形大の江頭宏昌准教授が今年も講演した。次の日、江頭さんとお会いして少し話したが、そのときにもやはり<伝承と創造>という言葉が思い浮かんだ。新しい野菜も世代を超えて栽培を続けることで在来作物になる。「これまで」の在来作物が最初は新しい作物だったように、「これから」も在来作物は新たに生まれる可能性を秘めている。

フェスティバルは今年で3回目。応募者が300人ほどいたため、定員枠を100人から120人に拡大したという。会津の辛み大根の種を贈ってくれた知人も参加していた。学び、楽しむと同時に、再会と感謝の場にもなった。

2013年2月1日金曜日

種物売りばあさん


前回の続き。山村暮鳥の詩作の一端がうかがえるエピソードである。磐城平時代、暮鳥は目抜き通りの「十一屋洋物店」に通って大番頭さんとよく長話をした。店頭には種物を売るばあさんがいた。そのばあさんと話していたと思ったら、あとで詩に書いた。大番頭さんから詩を見せられた「十一屋」のお手伝いさんたちはふき出した。

『山村暮鳥全集』第1巻にそれらしい作品があった=写真。詩集『風は草木にささやいた』の冒頭、「穀物の種子」という題が付されている。

と或る町の
街角で
戸板の上に穀物の種子(たね)をならべて売つてゐる 老媼(ばあ)さんをみてきた
その晩、自分はゆめをみた
細い雨がしつとりふりだし
種子は一斉に青青と
芽をふき
ばあさんは顰め面(づら)をして
その路端に死んでゐた

詩も虚構と無縁ではない。その晩、ほんとうに夢を見たのか、夢の中でばあさんが死んでいたのか。そのへんは作品を際立たせるための暮鳥の虚構のような気がしてならない。お手伝いさんたちがふき出したのは、たぶん最後の2行。「暮鳥さんにばあさんが殺された」とでも言いながら、あきれたり、おかしがったりしたのではないか。

暮鳥は平で詩風をガラリと変えた。大地に根ざしたものになった。店頭の種売りばあさんは人間に大地の実りを約束する媒介者、暮鳥にとって興味をそそられる存在だったにちがいない。