2013年8月31日土曜日

夏草の茂る庭

夏井川渓谷の埴生の宿。庭に雑草が生い茂っている=写真。家の前はときどき草を引くから目立たない。が、その先は足を踏み入れるのがためらわれるほどだ。例年、梅雨入り前後に知り合いの造園業者に頼んで草を刈る。今年もきれいに“散髪”した。それからわずか2カ月余。ひとり大鎌を振るうだけでは間に合わなくなった。

農村景観が美しいのは、人間が絶えず周りの自然に手を加え、安定した状態を保っているからだ。その基本が草刈り。草刈りがいかに大変か、大変な草刈りを農家が何代も受け継いでやっているのはなぜか――庭の草に埋まるたびに“哲学”するのが癖になった。

前にも書いた文章なのだが――。日々、人間は自然にはたらきかけ、自然の恵みを受けながら暮らしている。ときには大きなしっぺ返しをくらうとしても、自然をなだめ,畏れ敬いながら、折り合いをつけてきた。その折り合いのつけ方が景観となってあらわれる。

農村景観、あるいは山里景観は、人間が自然にはたらきかけることによって初めて維持される。「自然は寂しい/しかし人の手が加わると暖かくなる」(民俗学者宮本常一)のだ。

人間が営々と築き、守ってきた美しいムラの景観が、人の手が加わらなくなったらどうなるか。たちまち壊れ、荒れ始める。生活と生産の基盤が崩れていく。自然災害なら再建が可能だが、原発事故ではそうはいかない。原発事故の罪深さがここにある。

〈いやしくも川の工事をしようとするものは、まずそれをそこの川に訊き、山の工事をしようとするためにはそこの山に訊いて、その言葉に従ってするということが、いわゆる成功の捷径でありましょう〉。「捷径」は近道のこと。戦前、長野県で教鞭をとった三澤勝衛(1885~1937年)のことばである。

『三澤勝衛著作集 風土の発見と創造 4暮らしと景観/三澤「風土学」私はこう読む』(農文協)で、哲学者の内山節さんが紹介していた。

「三澤風土学」の流れのなかでとらえることのできる本と言えば、私には内山さんの一連の著作、なかでも『自然と人間の哲学』(岩波書店)が思い浮かぶ。最近読んだ藻谷浩介・NHK広島取材班の『里山資本主義』(角川ONEテーマ21)もその1冊に加えよう。

〈雨も、雪も、風も、寒さも、さては、山も河も、なにも自然という自然に悪いものは一つもないはずであります。善悪はただ人間界だけの問題であります〉(三澤勝衛)。混然一体となっている自然の営みと人間の営みとを切り離し、自然を対象化して改変する西洋流の自然科学には限界がある。

三澤地理学の「風土」とは、大地の表面と大気の底面(宮沢賢治のことばでいえば、気圏の底)が触れあうところ。その風土はそこだけの、ほかに同じところがないローカルなものだ。それが、私の場合は夏井川渓谷の無量庵。その庭でさえ、一人の人間には手に負えないほど広く、大きい。ましてや身の丈を超えた山、川、大地、地下水、海、となると。

2013年8月30日金曜日

後輩の死

街からの帰りに夏井川の堤防を利用した。久しぶりに残留コハクチョウの姿を見た。ダイサギたちも川の中で羽を休めていた=写真。こんなときにはいったん心のモヤモヤが晴れるものだが、そうはならなかった。

前夜、夕刊(いわき民報)のおくやみ情報欄で建築設計業を営む後輩の死を知った。60歳。病気とは聞いていない。突然の死? 一夜明けて、同じ業界にいる別の後輩に連絡した。細かい葬儀のスケジュールがわかった。納棺の時間が迫っていたので、自宅に駆けつけるのは控えた。狐につままれたような状態が通夜まで続いた。

きのう(8月29日)の通夜の席で、奥さんと長男の嫁さんが詳しく話してくれた。棺の顔も見た。心筋こうそくだった。日曜日の夜、肩がこる話をしていた。そのまま寝たところ、変ないびきになった。未明、家族が心臓マッサージをしたが、救急車の中で心肺が停止した。まったく予期しない死だった。

彼は学校の、そして会社の後輩だった。昭和40年代後半、いわき市平に若い絵描きたちが集まる「草野美術ホール」があった。そこへ出入りする学生の一人だった。駆け出し記者もしょっちゅう取材に訪れた。そこで知り合った。学校をやめて、一時、いわき民報の記者をした。私が誘った。日曜日になると、よく洗濯物を持ってわが家へ遊びに来た。

数学嫌いが理系の学校を飛びだす。そう思っていたが、彼は違っていた。数学が得意だった。手先も器用、口も達者だった。学生時代、前輪と後輪が極端に違う自転車をつくって発表したことがある。奥さんの実家の仕事(建築設計)に就き、独立してからはカブトムシ養殖の“副業”を手がけることもあった。絶えず意表をつく、才能豊かな表現者だった。

震災後は超多忙だったのか、まったく顔を見せなかった。今年の春、「近くまで来たから」と言ってわが家へ寄ったのが最後になった。相変わらずひげをたくわえ、タレントみたいに変な眼鏡をかけていた。酒を飲めない分、そんなところでストレスを発散させていたのだろう。

こちらは5歳年上。朝起きると、まずカミサンが呼吸をしていることを確かめる。カミサンも私の不整脈を気遣ってそうしているらしい。そんなやりとりのなかで知った、後輩の突然の死。さびしいからと言ってオレを道連れにするなよな――胸のなかでつぶやきながら、通夜の会場をあとにした。

2013年8月29日木曜日

海岸堤防

新舞子の夏井川河口右岸で、新しい「海岸堤防」づくりが行われている=写真。震災コンクリートガラを生かした、日本初の取り組みだという。

7月中旬に、いわき市文化センターで夏井川水系河川改良促進期成同盟会の総会が開かれた。流域の関係行政区の住民の一人として出席した。席上、海岸堤防の工事を手がける県いわき建設事務所の職員が事業の中身を説明した。

わが家から夏井川河口まではざっと5キロ。水源の山陰で生まれ育ち、下流の平野部で暮らしている身には、夏井川は文字通りの「母なる川」だ。ふるさとの山に降った雨が流域を潤し、役目を終えて海に帰る姿を、ときどき出かけて眺める。この夏はしかし、酷暑ですっかり足が遠のいていた。

先日、四倉港にある道の駅で買い物をした帰りに、夕涼みを兼ねて松林を貫通する新舞子の海岸道路をドライブした。夏井川河口に架かる磐城舞子橋に出ると急に風景が開け、左斜め前方に階段状の長い壁が見えてきた。これが、震災がれきを利用した防波堤か――話を聞いて興味を抱いてから1カ月余、海岸堤防はあらかたできあがっていた。

期成同盟会の総会で聞いた内容と、建設事務所のHPで確かめた中身を重ねると、海岸堤防は高さが7.2メートル、長さが920メートルだ。震災から満2年の3月11日に着工し、8月9日に主材料であるCSG(セメンテッドサンド・アンド・グラベル=コンクリガラにセメント・水を練り混ぜたもの)の打設を終了した。10月には完成する。

全国の標高は東京湾の平均海面が基準になっている。海岸堤防の高さ7.2メートルもそれに基づく。現在の堤防より1メートル、地震に伴う地盤沈下分50センチを加えて、1.5メートル高くなった。

それよりなにより、夏井川の大問題は河口が閉塞していることだ。地盤沈下によって波の押す力が強くなった。このため、閉塞幅は狭まったものの、高さが増した。排水ポンプもフル稼働の状態らしい。

河口開削は、工事としては極めて単純なものだろう。しかし、それでも自然はままならない。リサイクルの海岸堤防を評価しつつも、夏井川の河口に立てば、つい自然と人間の関係について思いをめぐらせてしまう。

2013年8月28日水曜日

味噌釜

夏井川渓谷の無量庵に、若い仲間が出してくれた軽トラで味噌釜を運んだ。母屋と風呂場の間の“坪庭”風の空間に据えた=写真

春先、平の篤農家塩脩一さんから知人(塩さんの義弟でいわき地域学會会員)を介して連絡が入った。東日本大震災で傷んだ土蔵を改修した際に味噌釜が出てきた、無量庵の庭に置いたらどうだろうと言っている、という。知人を車に乗せて見に行き、気に入ったので譲り受けることにした。

鉄製で五右衛門風呂よりは小さいが、一人で持ち運びできるシロモノではない。約束はしたものの、季節がひとつめぐってしまった。手伝ってくれる仲間に予定を聞き、都合のいい日を調整して、ようやくもらい受けたのが6月末。なにか“隠れ家”にどっしりと重しができたようだった。

味噌をつくるわけではない。ふだんはそこに置いておくだけ。真夏に幼い子が来たら“水風呂”にして遊ばせる。ときどきその様子を空想して楽しむのだが、この夏は実現しなかった。

それよりなにより落ち着かないことがある。無量庵が市の除染計画の対象になっているらしい。らしいというのは、詳細を知らないからだ。除染計画を作成するための事前調査を行った旨の文書が玄関の隙間から投げ込まれていた。それ以外に連絡はない。まだ計画がかたまっていないのだろう。

無量庵は牛小川という小集落にある。先日、海辺の町で住人とばったり会った。除染計画の話をしたら、全面的な除染は無量庵、ほかはミニスポットだけの除染になるのではないかという。年間放射線量が1ミリ以下にならないと幼い子は来ない。味噌釜もその意味では“仮置き”しているだけにすぎないか。

2013年8月27日火曜日

夢は夜ひらく

コガネグモ=写真=は張った網の真ん中で、体を下向きにして、じっと獲物の昆虫が網にかかるのを待つ。獲物がかかるとすぐ走りより、かみつき、糸でぐるぐる巻きにして動けなくする。それを網の真ん中まで運んでから食べる。腹部の黒と黄の横縞が、毒々しいほどに美しい。

歌手の藤圭子さんの訃報に接して、ざっと40年前の彼女の姿が記憶の井戸から浮かび上がってきた。何の脈絡もないのに、コガネグモも脳裏に網を張った。

昔の呼び方にならえば、たしか「藤圭子ショー」が平市民会館(今は芸術文化交流館「アリオス」が立つ)で開かれたのだった。それを取材した。演劇、音楽、講演会、その他。平市民会館は催し物の主要な取材先だった。

市民会館は市の施設だから、照明・音響などは技術職員が担当していた。取材を通じてスタッフとは顔見知りになっていたので、舞台のそでなどにももぐり込むことができた。そこへステージに立つために藤さんが現れた。

短い黒髪、黒い衣装、端正な顔立ちはそのまま。でも、テレビで見るのと違って、きゃしゃで小さい。20歳前後なのに、第一印象は「針金のような少女……」だった。テレビを介してできあがったイメージと実像との落差に衝撃を受けた。

♪十五、十六、十七と私の人生暗かった……。「圭子の夢は夜ひらく」が大ヒットしたあとだ。こけしのような美しい顔で、すごみのある声で、暗い歌をうたう。作家の五木寛之さんがいみじくも名づけた「怨歌」が胸にしみた。

「ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい。一歩足を踏みはずせば、いっさいが若者をだめにしてしまうのだ」。ポール・ニザンの『アデン・アラビア』(篠田浩一郎訳)の冒頭の文章に、「圭子の夢は夜ひらく」が重なる。そんな時代を生きた、いわば同時代の人間の一人だ。

娘の宇多田ヒカルさんのコメントには言葉もない。藤さんは長い間、心の病と闘い続けてきた。瞑目して祈ることにしよう。

2013年8月26日月曜日

アンズタケ

2009年に仲間と北欧を旅行した。鵜の目鷹の目でいくと決めていたので、キノコや鳥も写真におさめた。

コペンハーゲン(デンマーク)では、果物屋の店頭でアンズタケが売られていた=写真。ボス(ノルウェー)でも、コンビニにアンズタケがあった。ストックホルム(スウェーデン)のレストランでは、魚とカンタレッラ(アンズタケ)のグラタンのようなものを食べた。9月下旬。北欧では一斉にアンズタケが食されることを知る。

それから4年。事故を起こした福島第一原発のことが頭から離れなくなった。27年前のチェルノブイリ原発事故にも再び関心をもつようになった。

再び――とはこういう理由による。東日本大震災で本箱が倒れたり、本がなだれ落ちたりした。ダンシャリをするなかでチェルノブイリ関連の本がいっぱい出てきた。事故後、夢中になって読んだことをすっかり忘れていた。そんな調子だから、北欧旅行の際もチェルノブイリのことは頭になかった。

お盆に、知人に誘われてドイツ在住の日本人作家と会食した。欧州のキノコの話になった。今もチェルノブイリの影響が続いているという。

あとでネットで調べたら、ドイツ(特に南部)では①野生キノコが汚染されている②汚染度は種類・場所によって大きく異なる③子どもと妊婦には野生キノコの摂取は勧められない――ということがわかった。イノシシの肉も数値が高いので、食べないよう勧告がなされている。

アンズタケは菌根性のキノコだから、セシウムを吸収しやすい。店頭には当然、検査してOKの出たものが並んだのだろう。そんな背景があることを、4年たって知る羽目になるとは。


忘れようと忘れまいと、放射性物質はこれからも存在し続ける。事故から2年半。福島の、日本の24年後が、今のチェルノブイリであり、欧州なのだということに思いが至る。

2013年8月25日日曜日

夏祭り

旧神谷(かべや)村の高台に総合福祉施設「太陽の里いわき」がある。きのう(8月24日)夕方から、駐車場で夏祭りが開かれた。共催団体に神谷地区区長協議会が入っている。協議会の一員として顔を出した。「施設は地域との共生が一番大事」と夏祭り実行委員長があいさつのなかで延べた。それを裏づけるようなプログラムが展開された。

まず、ハワイアンショー・懐かしの昭和歌謡ショーが行われた。そのあと、地元の青年会による獅子舞=写真、じゃんがら念仏踊り、愛好会による踊りなどが披露された。抽選会と花火大会も行われた。回覧網を通じてチラシを配布したこともあって、施設利用者や家族だけでなく、一般の住民もたくさん訪れた。

神谷地区にはこれといった夏祭りがない。地区民も一緒に楽しめたら――そんな思いが区長協議会との共催というかたちになった。以下は、その感想。

ハワイアンバンドの「アロハロ―ガンズ」は、メンバーの多くが「老眼」世代だが、歌手はプロ級の中年男性。「昭和歌謡」の「ここに幸あり」(大津美子=昭和31年)「憧れのハワイ航路」(岡晴夫=同23年)「東京の花売娘」(同=同21年)などは知らないので、一生懸命覚えたという。

よその施設の夏祭りでグループサウンズの歌を披露する若者グル―プがいた。彼らもまたGS全盛時代には宇宙を漂うチリでしかなかった。「団塊の世代」はやがて、こうした若者たちに慰問される立場になるのだろう。昭和歌謡やGSの世界ではとっくに世代交代がおきている――それを実感した。

「アロハロ―ガンズ」の生演奏をバッグに、フラダンスも披露された。「レイモミ小野フラスクール」のメンバーが出演した。なかに2人、施設の職員がいた。被災者のための交流スペース「ぶらっと」のスタッフもソロを演じた。出合い頭の衝突のようなもので、あとで「なんでここにいるんですか」と言われた。人はいろんな顔を持っているものだ。

いわきのリズム、音――それはやはり、じゃんがら。青年会の踊りに合わせて幼児が体を動かし、掛け声をまねていた。いわきにはいわき独特のリズム・音がある。そのことを再認識する地域の夏祭りでもあった。

2013年8月24日土曜日

応急修理工事

災害救助法に基づく住宅の応急修理制度がある。東日本大震災で自宅が「半壊」の判定を受けたので、昨年春に利用の申請をした。修理見積書を6月28日、工事完了報告書を9月30日までに出すように――。1年2カ月後の5月中旬、手続きの期限を知らせるはがきが届いた。

地震で自宅が「全壊」の判定を受け、津波からかろうじて逃れた大工氏がいる。若いときに知り合った。結婚後は仕事に没頭し、何年かに一度会うくらいだったのが、震災直後につきあいが復活した。彼に手続きと改修工事を頼んだ。その工事がきのう(8月23日)、始まった=写真

コンクリートの基礎が割れ、道路に面した側が沈んだらしく、戸がきちんとしまらない。2階の部屋の床と壁にもすきまができた。「半壊」の判定を受けた離れは、損壊家屋等解体撤去事業を利用して解体・撤去した。それに続く工事だが、全面改修は無理なので、制度の範囲内で一部を直すだけにした。

津波で家を失った人たち、家があっても原発事故で避難を余儀なくされた人たちに比べたら、自宅に住んでいられるだけでもありがたい。そう思いつつも、トイレの戸がきちんとしまらない、大雨が降ると雨漏りがする、大型車が道路のへこみでバウンドすると家が揺れる――といった後遺症には、平気ではいられない。

いわきの市街地は、津波被害は免れた。とはいえ、道路向かいの家の土蔵は解体・新築された。その隣の家は最近解体され、新築工事が行われている。大地震は地域の至る所に爪痕を残した。わが家の工事は、その、ほんの一例にすぎない。

2013年8月23日金曜日

「まざり~な」

「まちの交流サロンづくり」プロジェクトが始動した。事業主体は3・11被災者を支援するいわき連絡協議会(通称みんぷく)で、目印になるステッカーのロゴデザイン表彰式が先日、小名浜で開かれた=写真

いわき市内で避難生活を続ける市民、相双地区の住民は3万人を超える。応急仮設住宅、雇用促進住宅、アパートなどの借り上げ住宅に住むが、時間の経過とともに地域で不安感や孤立感を深めている人が少なくない。

震災直後から市内外のNPOなどが救援活動に入り、今も継続している。そのNPOが中心になって「みんぷく」を立ち上げた。緊急支援から生活支援、そして心のケアへと、取り組む中身が変わりつつある。とともに、関心が薄れつつあるなかで継続支援のエンジンを大きくする、という意味合いもあろう。

交流スペース「ぶらっと」(シャプラニール運営)や「小名浜地区交流サロン」(ザ・ピープル運営)、「なこそ交流スペース」(なこそ復興プロジェクト運営)、「ぱお広場」(いわき自立センター運営)などが、避難者と市民を結ぶ拠点になっている。さらにきめ細かく、被災者の身近に――と始まったのが、「まちの交流サロン」づくりだ。

手前みそながら、わが家に「まざり~な」のステッカーが張ってある。カミサンの実家が米屋で、その支店に住んでいる。カミサンは店番を兼ねながら、地域の図書館「かべや文庫」を開いている。要は主婦の「しゃべり場」だ。近所のアパートや借家に住む避難者もやって来る。それで「まざり~な」を引き受けた。

そのチラシから。「いわきの町にずーっと住んでる人も、新しく住み始めた人もみんながなかよく交流できる場所として、まちの交流サロン『まざり~な』が始まりました。あなたの町のお店などに貼ってある丸いステッカーが目印! 買い物ついでに立ち寄っておしゃべりでもしていきませんか?」

ステッカーは、小学生から文字と笑顔の絵を募り、入選作品を組み合わせてつくった。ピンクの輪の中に個性的な文字と笑顔が浮かぶ。あつれきや対立ではなく、みんなが笑顔に――という願いがこめられている。

2013年8月22日木曜日

「みみたす」

7月最後の日曜日(7月28日)、いわき市立草野心平記念文学館を訪ねたときのこと。目当てはむろん、企画展「みんなだいすきアンパンマン やなせたかしの世界展」(9月8日まで)だったが、館の内外でフリーマーケットやライブなどのイベントが行われていた。「ふたつや文学ロック」が開かれている小講堂をのぞくと、何枚かチラシ類を手渡された。

そのなかに、FMいわきの番組表「みみたす」があった=写真。以前の番組表は新聞のラジオ・テレビ欄と同じような印象だった。それが、冊子になっている。「7・8・9月号」とあるから、年4回の発行らしい。小川に焦点を合わせたカバーストーリー「胡瓜(きゅうり)をめぐる冒険」に引かれた。

レポーター・ミミちゃんが小川町を探索中に、ある話を思い出す。「本郷の表(おもて)組の人はキュウリを作れない」「作れないがらってウヂにもらいに来るの。理由は分がらない」。そこからスゴロクよろしく「胡瓜をめぐる冒険」、つまり聞き込みが始まる。

「表」は上小川の字名のひとつ。草野心平生家のある植ノ内とは道路をはさんで向かい合っている。心平が故郷の「上小川村」をうたった詩、<ブリキ屋のとなりは下駄屋。/下駄屋のとなりは……>の世界だ。その通りにある床屋のおばさんからレクチャーを受ける。「表が作れないんじゃなくて草野さんが作れないの」

あちこち転々としながら、キュウリ栽培を禁忌する草野さんの家にたどりつく。草野姓の家が作れないのではなく、「ウヂど、ウヂの分家は作らない」のだそうだ。そのワケは――。

昔、馬車による運送業を営んでいた。明治時代に今の品種のキュウリが入ってきた。栽培して与えると馬が喜んで食べた。ところがその年、多くの馬が死んだ。以後、「キュウリを作るべからず」となったという。食べる分には問題がない。で、「ウヂにもらいに来る」という話になるわけだ。

なるほど。おもしろい「物語」だ。いや、「物語」になるまでよくまとめあげた。足を使えばこういう秀逸な読み物ができる。

あ、それから、表紙の床屋の写真にも引かれた。おばさんが踏み台にのってお客の頭を刈っている。古い、懐かしい、電話のない床屋。心平の詩の世界そのものではないか。

2013年8月21日水曜日

土砂降り

車の屋根を雨がたたく。傘を持たない若者が歩道を走っていく。どこかで雨宿りをすればいいのに――そう思うのは、ぬれるのを厭(いと)う年寄りになったから。つまりは老爺(や)心。10代のときはびしょぬれでも平気だった。晴れた日に、雨に備えて傘を持って出かけるような野暮天、いや周到さに欠けるのが、少年の特性だ。

雨なし猛暑が続いて、いい加減おしめりがほしいところだった。きのう(8月20日)は予報通り、午後に強い雨がきた。その激しさにカンボジアの雨=写真=を思い出した。

昨年9月中旬、同級生とベトナム・カンボジアを旅した。カンボジアでは一日に何度も雨に降られた。雨雲が去ったと思うと、また現れる。雨に見舞われる。やむとまた、ほどなく雨になる。雨季の真っただ中、「気圏の底」がたちまち「雨の底」にかわった。

よりによって夏井川流灯花火大会が行われる日だ。関係者は直前になって降り出した大雨にやきもきしたことだろう。会場の道路が通行止めになる前に雨は上がった。考えようによっては暑熱を払ってくれるシャワーの役目を果たしたか。

帰宅してしばらくすると、花火の音がとどろくようになった。8時過ぎがそのピークだった。音がやむと、庭からエンマコオロギの鳴き声が聞こえた。いわきの夏祭りはこの流灯花火大会で終わる。

今朝は起きると雨だった。いわきは雲の多い一日になりそうだと、テレビが言っている。流灯とともに夏が去り、急に秋がしのびよってきたようだ。

2013年8月20日火曜日

はげたま!

6歳と4歳だからといってあなどれない。悪者をやっつけるゴーカイジャーだか仮面ライダーだかに変身すると、予想以上の力を出す。孫の倍近い背丈があるとはいえ、体力が落ちているから、体当たりにグラッときたり、パンチがこたえたりする。そんなときには手と足で防戦するしかない=写真

知恵もついてきた。背中にまとわりついては頭のてっぺんをぺたぺたやる。決まってニヤニヤしながら言う。「はげたま!」。いつ、どこでそんなことばを覚えたのか。悪口としては「あっかんべー」のレベルからずいぶん進化したものだ。来年は小学1年生。天使の羽が少しずつ取れて人間に近づきつつあるのだろう。

そうなると、孫はかわいいだけではなくなる。ライバルにもなる。「おじいちゃんは、六十四才/テレビチャンネルで/けんかになって/ぼくと同じ/八才になった」。先日、いわき駅前再開発ビル「ラトブ」で見つけた、小学3年生の詩だ。

郡山市に児童詩を募集・発表している<青い窓>がある。ラトブにその作品が展示されていた。子どもを対象にした夏休みの催事だろうが、詳しいことは知らない。通りすがりに作品をながめて、おもしろかったのでメモした。

いずれそうなるのだろうか。いやいや、そこまではいかないだろう。いやいや、わからない――なんて思いながらも、小3の男の子の観察力に舌を巻いた。「はげたま!」もそうだろう。祖父母は孫を観察しているようで孫に観察されているのだ。

2013年8月19日月曜日

中之作へ

日曜日は日曜日らしく――。二つ、三つ、目の前に迫っている“締め切り”をわきにおいて、カミサンが見たいという中之作の古民家を訪ねた=写真。築200年というから、江戸時代後期に建てられた。地震と津波被害に遭い、解体される運命にあったのを、建築士が買い取り、未来へ残すことにした。

そのためのNPO法人「中之作プロジェクト」が生まれた。土壁塗りや掃除といった市民参加のワークショップなどをからめながら、修復事業を進めている。訪ねたときには周辺の風景写真展が開かれていた。

中之作は海食崖に囲まれた漁港で、古くは商港としても栄えた。『新しいいわきの歴史』(いわき地域学會)によると、西国・徳島の斎田塩は銚子・那珂湊経由で中之作に荷揚げされた。中之作は福島県の中通りとハマを結ぶ、いわゆる「塩の道」の出発点でもあった。

古民家は港の真ん前に立っていた。2階建てだ。持ち主の厚意で、狭い箱階段を利用して2階に上がった。天井が低い。窓から海が見える。斎田塩を積んで入港する和船はもちろん見えなかったが、よくぞ津波に耐えたものだと思った。

中之作は、沖防波堤などの港湾施設が功を奏して、ほかのハマよりは被害が少なくてすんだ。津波が、一気にではなくじわじわ来たのだとか。古民家は床上まで浸水した。

わが家から中之作へは海岸そばの旧道を利用して出かけた。沼ノ内~薄磯~豊間~江名と進んだ。薄磯と豊間は依然として見る影もない。その先で出合った一筋の希望の光だ。「塩の道」という歴史・民俗軸を加えた再生事業になるとおもしろい。

2013年8月18日日曜日

じゅうねんの冷やだれ

きのう(8月17日)の昼は「じゅうねんの冷やだれ」でうどんを食べた=写真。このところの猛暑で、日中は横になっていることが多い。寝室で本を読んでいたら、ジュウネン(エゴマ)を炒って擂る香りが漂ってきた。それに刺激されて、昼めしの合図に体がむっくり起き上がった。

阿武隈高地では、「よごし」といえばゴマよりはジュウネンのことが多い。彼岸には「じゅうねんぼたもち」(春)、「じゅうねんおはぎ」(秋)もつくる。このごろは「えごま油」も各地でつくられている。

いわき市の南部、山田町の後輩の家で夏の暑い盛りに「そうめんの冷やだれ」を食べたことがある。たれにはジュウネンが使われた。炒ったジュウネンとサンショウの皮を擂り鉢で擂り、味噌を入れてさらに擂り、水を加えてのばし、醤油その他で味をととのえる(わが家の「じゅうねんの冷やだれ」にはサンショウが欠けていた)。食欲をそそられた。

先日、いわき芸術文化交流館「アリオス」そばの平中央公園でパークフェスが開かれた。市の委託でいわきの昔野菜を調査し、実際に栽培してきたいわきリエゾンオフィスの直売所・蔵の市で何点か昔野菜を買い求めたなかに、このジュウネンがあった。阿武隈のおふくろの味のひとつでもある。

「じゅうねんの冷やだれ」を食べながら、汚染される前の阿武隈の山々が、その上に広がる空が、雲が思い浮かんだ。盆に阿武隈の実家へ帰れなかった代わりに、阿武隈が食べ物となってわが家へやって来たのだ、と勝手に解釈することにした。

2013年8月17日土曜日

いわきと郡山の人口

いわき市=写真=のまくらことばは、「市の面積が日本一」「人口が仙台に次いで東北2位」。「面積日本一」は2003年4月1日、静岡市と清水市の合併によって新・静岡市が誕生した時点で過去のものになった。

いわき市は毎月、1日現在の現住人口を発表する。いわき民報でその記事を読むと、反射的にネットで郡山市の現住人口を確かめる。8月1日のいわきの人口は32万8064人、郡山は32万7903人、その差161人まで詰まってきた。ともに人口減少の流れにあるが、前月比でいわきは107人減、郡山は210人増と、そのスピードが違う。

いわきの人口に関して郡山と比較する癖がついたのは、震災前、いわき観光まちづくりビューローの『いわき観光事典』製作に携わったからだ。「いわきの市勢」「いわきの交通・産業」などを担当した。いわきは平成10(1998)年の36万1934人をピークに、早々と人口減少に転じた。

少子・高齢化はこんなところにあらわれる。平の郊外。小学生が減ったために、PTAで行っていた通学路の草刈りを地区全体でやるようになった。市民体育祭も、よそに住む地区出身者にまで範囲を広げないとメンバーをそろえることが難しくなった。

届け出がなければ、現住人口には市外への、そして市内への避難者数は反映されない。その点は郡山も同じだ。今年のうちにいわきの現住人口は「東北3位」に後退するのではないか。そんな予感がある。

2013年8月16日金曜日

送り盆

いわきでは精霊送りの場所が決まっている。わが行政区は毎年、県営住宅集会所前に祭壇を設けて受け付ける=写真。区の役員が準備し、収集車を迎え、後片付けをすませたところで、役員の盆が終わる。

祭壇のつくり方はなんとなく頭に入っている。が、四隅に立てる竹と縄につるす杉の葉をどこから調達するか。頭を悩ませていたところ、昨年まで担当していた区の前役員さんが、今年もそろえてくれることになった。しかし、来年も、再来年も前役員さんにおねがい、というわけにはいかない。現役員で調達する方法を考えておく必要がある。

で、精霊送りの段取りをおさらいすると――。前日(8月15日)夕方、集会所の座卓数脚を借りて祭壇とし、ブルーシートで覆う。四隅には竹を立て、縄を張る。縄にはホオズキと杉の葉を交互につるす。翌早朝、区の役員が交代で祭壇に詰める。9時前後には収集車がやってきて供物を回収する。そのあと、簡単な精進あげをして終わり、となる。

毎年同じことをしていても、ハッとしたり、考えさせられたりすることがある。準備の段階で会場周辺の草刈りをするのだが、車道と集会所を隔てる石垣に今年もコアシナガバチが巣をかけた。一昨年、そこでチクリとやられた。巣に気づかずに鎌でザクザクやっていたら危なかった。

車道から集会所へは石段を三つのぼらないといけない。わずか3段とはいえ、この石段をのぼれないお年寄りがいた。車道からすぐ供物を置けるよう、祭壇の位置を検討する必要がありそうだ。

けさ(8月16日)、精霊送りから帰って「低温風呂」に入り、あれこれ気づいたことをメモにした。でないと、来年また同じ轍を踏む。

2013年8月15日木曜日

じゃんがら念仏踊り

月後れ盆に入ったので、きのう(8月14日)、カミさんの実家へ線香をあげに行った。午後2時すぎ、茶の間で休んでいると、鉦(かね)の音がとびこんできた。数軒先の新盆家庭で故人を供養する「じゃんがら念仏踊り」が始まった=写真。家々から鉦と太鼓の音を聞きつけてぞろぞろ人が出てきた。いわき地方独特の盆の光景だ。

いわきの人間は、母親の胎内にいるときからじゃんがら念仏踊りにふれて育つ。じゃんがら念仏踊りはいわきのリズム、いわきの音だ。近所から鉦の音が聞こえると、じっとしていられないのはそのためだろう。

いわき市内各地の青年会が踊りを継承している。お盆が近づくと、新盆家庭から青年会に予約が入る。お盆はその成果を披露する場、比較される場でもある。

今年最初のじゃんがら念仏踊りを見ていたら……驚いた、踊りの輪の中に若い友人がいた。踊りが終わって少し話す。13~15日の3日間で60軒を回るということだった。炎天下、熱中症対策は「ビールです。さっきまで太鼓をたたいてました。もうへろへろ」。

私と同様、いわきの生まれではない。が、今はすっかりいわきに根を生やした。地元の青年会に加わり、伝統芸能の継承に一役買っている。記者としての好奇心もあったにちがいない。内側からじゃんがら念仏踊りにふれているとはうらやましい。

新盆家庭では施主が位牌を手にし、踊りと向き合っていた。踊りが終わるとギャラリーから拍手がわきおこった。故人もまた満足して彼岸へかえることだろう。

2013年8月14日水曜日

線香花火

日曜日(8月11日)夜、家の向かいの広場で知人らと花火を楽しんだ=写真。盆帰省中の近所の若者も加わった。

知人はいわきで支援活動を展開しているNPOの職員だ。わが家の近所に宿舎がある。奥さんの休みがとれたので、中2の娘さんとともに、急きょ、東京からやって来た。8~10日と、前日まで東京発着で3回目の「みんなでいわき」ツアーが行われた。知人は“ツアーコンダクター”をつとめた。“とんぼ返り”だ。

小6の娘さんの記憶がある。東日本大震災から3回目の夏。奥さんと娘さんには、3回は会っているか。盆帰省の時期に一家でいわきで休日を過ごす、その気持ちがいわきの人間にはうれしい。

娘さんはあまり父親とは話さなくなった。当たり前だ。そういう年になったのだから。そのへんは、父親としては寂しいものがあるのだろう。娘さんのためにいい思い出を、というのは親心だが、娘さんは逆に親を思い、親の思い出をつくってやっているのだ、そこまで育ったのだ、ということを話した。

花火がそうではないか。大人も、子どもも楽しんでいる。私も久しぶりに線香花火を手にした。「オジサン、お久しぶりです」。すっかりいい若者になった元高校球児に声をかけられる。小さいときから顔を見ていても、彼と言葉を交わすのはたぶん初めてだ。

お盆は仏様だけでなく、生きた人間との再会の場でもある。孫たちは近すぎて「盆帰省」をしない。それが難だが。

2013年8月13日火曜日

保冷剤

立秋以来の猛暑に、甕の糠床もげんなりしている。このところ毎朝、糠床の表面に保冷剤をのせる=写真。きのう(8月12日)はさらに、甕を南側の台所から北側の洗濯機のそばに移した。「冷暗所」とはいえないが、台所よりは暗く、少し涼しい。毛皮を着ている猫も家の北側へ、北側へと移って休んでいる。それにならった。

7月中旬、2泊3日の京の旅から帰って糠床をかきまわしたら、シンナー臭がたちのぼった。カミサンの「かきまわし」が足りずに糠床が酸欠になった。暑い日には、表層が人間の体温以上の熱を持つ。糠を足し、塩を加え、唐辛子を入れてよくかきまわし、保冷剤をのせているうちに、シンナー臭が消えた。熱も少し引いた。

とはいえ、気温の高い日には表層が高熱を発する。糠床を冷蔵庫に入れるのが一番とはわかっていても、甕は冷蔵庫には入らない。朝、保冷剤を入れ、夕方にはそれを冷凍庫に戻し、翌朝再び糠床に入れる。糠床の健康のために、これを繰り返している。

エアコンのない「昭和の家」である。戸と窓を開放しているから、ニイニイゼミが、クロアゲハが、スズメバチが迷い込んでくる。スズメも、ヒヨドリも、ムクドリもたまに入り込む。

月後れの盆の入りを翌日に控えたきのうは、夕方、カミサマトンボが家に迷い込んだ。どこかの霊が一日早く帰ってきたのだろうか。いやいや、動物だって、乳酸菌だって酷暑に耐えているのだ、涼しいところを探しているのだ――などと思いながら、糠漬けのナスその他をさかなに晩酌を始めた。ずっと続けていたお湯割りを水割りに替えて。

2013年8月12日月曜日

パークフェス

4~11月の第2日曜日、いわき芸術文化交流館「アリオス」前の平中央公園でパークフェスが開かれる。きのう(8月11日)、初めて出かけた。いわきの昔野菜を販売するいわきリエゾンオフィスの直売所・蔵の市をのぞいた=写真。内郷にあるフランス料理店のシェフがつくった昔きゅうり(三和町)のピクルスなどを買った。

このごろ、日曜日には夫婦で施設やイベントのはしごをすることが多い。きのうは早朝、夏井川渓谷へ。昼過ぎには交流スペース「ぶらっと」を発着点に、いわき駅前再開発ビル「ラトブ」の総合図書館、市民美術展陶芸・写真の部開催中の市立美術館、そして平中央公園を巡った。

どの施設の駐車場も満パイだろう、という読みは当たった。それで街を歩くことにしたのだが、暑さが半端ではない。いわき駅前広場のデジタル表示で気温が「37度」だった。カミサンにぼやかれ、日陰を選んで行くものの、しばし太陽と照り返しのはさみうちに遭った。パークフェスの帰りにはさすがにげんなりしてタクシーを拾った。

「ぶらっと」で一休みしたあと、魚屋さんに直行する。日曜日夜の定番・カツオの刺し身を買い、わが家へ戻り、戸と窓をすべて開ける。それでも暑い(夜の10時でも室温は31度だった)。

晩酌を始めたころ、客人がやって来た。カツ刺しのほかに、昔きゅうりのピクルスに目を輝かせた。その表情を見て――量産は難しいかもしれない。が、このピクルスは昔野菜を知らない若い世代も受け入れるだろう。伝統と創造、東と西の融合の好例になるかもしれない――熱帯夜に、この瞬間だけ爽快なものを感じた。

2013年8月11日日曜日

なだれ落ちる本

朝、茶の間にいたら、突然、近くの階段から音が響いた。見ると、本がなだれを打って落下している。5秒くらい続いただろうか。階段の上がり口が本で埋まった=写真。3・11以来だ。笑うしかなかった。

震災前から階段が本棚になっていた。わが家のほかに義伯父の家、義弟の家、無量庵に本を置いている。それでも足りないので、階段に積み上げた。

東日本大震災では本棚が倒れたり、本が落下したりして、元に戻すのにずいぶん時間がかかった。ダンシャリもかなりした。その過程で、今も読みたい本や思い出深い本を階段に積み上げた。

積み上げ方が雑だった。度重なる余震でバランスが崩れつつあったところに、8月に入ってまた大きな余震がきた。4日正午過ぎ。石巻で最大震度5強、いわきで3の地震。きのう(8月10日)も朝、地の底から突き上げるような揺れがきた。いわきで震度は最大の3。その間の8日午後1時過ぎに本が落下した。

地震ではなく、風のせいだった? わが家にはエアコンがない。夏は戸も、窓も全開する。2階の窓から、そよりと風が舞い降りて本をなでたら、ダ・ダ・ダ・ダとなったのではないか。

「立秋」の声を聞いたとたんに暑い日が続く。開放系のわが家でも特に茶の間は連日、30度を超える。南の庭の照り返しもある。仕事も、昼寝もできない。そのなかでの珍事だった。

2013年8月10日土曜日

踊れば笑顔

「平七夕まつり」最終日(8月8日)に同時開催される「いわきおどり」に参加した=写真。踊りが創設されて32年。「見る」側から初めて「踊る」側に加わった。正確には踊る「ぶらっと」組に付き添って写真を撮った。

「ぶらっと」はイトーヨーカドー平店2階にある、地震・津波被災者や原発避難者のための交流スペースだ。「シャプラニール=市民による海外協力の会」が運営している。利用者、ボランティア、スタッフ、東京からのツアー組、計40人余がターコイズブルーのオリジナルTシャツを着ていわき駅前大通りを踊り流した。

夕方、Tシャツを着て集合場所兼打ち上げ会場になっている、駅前の「昭和歌謡の店アロハロ―ガンズ」へ行く。店内では「いわきおどり」の即席講習会が開かれていた。このあと、「いざ、出陣!」。月並みな言葉しか思い浮かないのが情けない。

軽快なテンポ、「ドン、ワッセ」の掛け声、歩道を埋める見物客。最高齢は被災者のおじいさん、最年少はツアー組の女の子まで、「ぶらっと」チームに一体感が生まれ、休憩時間にはだれもが笑顔になっていた。5時50分スタート・6時40分終了。あっという間の第2部50分だった。

踊りはそのあとも続いた。「ぶらっと」組は打ち上げで盛り上がった。この一体感、爽快感も含めていうのだが、踊りや祭りはわが家を出るときから始まり、わが家へ戻ったところで完結するのではないか。Tシャツを着た瞬間に高揚感が生まれ、脱いだ瞬間に日常が戻ってきた。それを踏まえてのことだが。

2013年8月9日金曜日

平安神宮

京の話をきょう(8月9日)も。NHKの午後3時過ぎの番組に「ろーかる直送便」というのがある。おととい初めて見た。「歴史散策・八重が生きた京都」で、大河ドラマ「八重の桜」の今後の展開が読めるような内容だった。

平安神宮=写真=は明治28(1895)年、平安遷都1100年を記念して開かれた内国勧業博覧会の目玉として復元された。東京遷都後、京都では毎年、博覧会が開かれるようになる。八重の兄、山本覚馬の建言に基づくものだったという。

覚馬は早くからキリスト教に出合い、同志社大学を創設した新島襄の協力者となる。京都の近代化プランを覚馬が主導し、八重が手伝い、やがて襄と八重が結婚する。3人は同志社墓地に眠る――京都の街を巡ってきたばかりだったので、3人の関係が少しは頭に入った。

京都へ行くからには「八重の桜」にちなむ写真を、出羽の国で生まれ、磐城平の専称寺で修行した幕末の俳僧一具庵一具が遊んだ嵐山の写真を、ともくろんだが、そうは問屋が卸してくれなかった。バスの中から同志社大学を、嵯峨野を歩いて周囲の山をパチリとやっただけだった。

とはいえ、京都自体が博覧会場のようなものだから、そこに身をおいただけで得るもの、感じるものがあった。雨と蒸し暑さにはまいったが。

2013年8月8日木曜日

いわきおどり

7月中旬に同級生8人で2泊3日の京の旅を楽しんだ。主な目的は芸妓・舞妓さんと言葉を交わし、踊り=写真=を見ること。芸妓・舞妓さんはテレビで見るだけの遠い存在だった。たまたま同級生の一人が大手企業の系列会社の社長をしていたので、お茶屋さんにコネがあった。一生縁がないと思っていた世界を垣間見た。「冥途のみやげ」ができた。

「冥途のみやげ」は、若いときには当然、考えたこともなかった。が、人生の日暮れにさしかかった今は、一生に一度あるかないかという体験はあの世にいる人たちへの「みやげ話」になる、と思えるようになった。親が逝き、知人が逝き、小・中学校の同級生が逝きはじめたために死が親しくなった、ということもあろう。

ヤマカガシに飲みこまれたゲリゲ、つまり草野心平のカエルの詩にあるように、「死んだら死んだで生きてゆくのだ」という思いも、生に傾いていたはかりのなかで重くなっている。

きょう(8月8日)は夕方から、平七夕祭りの会場で「いわきおどり」が行われる。地震や津波の被災者、原発避難者のための交流スペース「ぶらっと」も、利用者やボランティア、東京からのツアー参加者らでチームを組み、初めて踊りの列に加わる。

「いわきおどり」は昭和56(1981)年、いわき市制施行15周年を記念してつくられた。記者としてその過程を取材した。だれでも参加できる踊りを、いわきを一つに――が狙いだったと記憶する。以来30年余。「いわきおどり」は、見るものではあっても踊るものではなかった。踊り参加は、その意味では「冥途のみやげ」になるほどの大事件だ。

河原から川を見るのと、川から河原を見るのとでは、印象がまるで違うだろう。持病があるので踊りは無理だが、「ぶらっと」のカメラマンとして踊りの流れに身をまかせよう、初体験を楽しもう、と思う。

2013年8月7日水曜日

子ウサギの死

夏井川渓谷を貫く県道の路肩でノウサギの子が死んでいた=写真。隠れ里のような小集落・牛小川の、わが埴生の宿(無量庵)の真向かいだ。車にはねられたのだろうか。

阪神・淡路大震災が起きた年の夏から、義父が建てた無量庵で週末を過ごすようになった。ふだんは人間が充満する街で暮らし、土・日は自然が充満する山里に身をおく。今はめったに泊まらないが、“週末別居”で夫婦ともに息抜きができたような感覚がある。

通い始めて18年、何度も「路上の死」に遭遇した。フクロウ、タヌキ、テン、イタチ、ハクビシン、ノウサギ、コジュケイ、……。子ウサギは初めてだ。

無量庵の下の空き地にノウサギが現れるのは、置き土産(糞)でわかる。テンも濡れ縁に糞を残す。部屋の隅を動くものがいると思ったら、ノネズミだった。ノネズミもまた畳の上に糞を残す。森にはリスがすむ。ムササビがすむ。イノシシもむろん、いる。ほかには鳥、虫、魚たち。頂点に君臨するのはやはりイノシシだろう。

渓谷では、二足歩行をするヒトはむしろ少数派だ。そのことを、「路上の死」が教えてくれる。ほんとうは生きものに囲まれて暮らしているのだ、ヒトは自然の間借り人なのだ、と。にしても、子ウサギの死はいたましい。

2013年8月6日火曜日

海よ!

千石船=写真=が入港した7月31日に引き続き、きのう(8月5日)も小名浜港へ行ってきた。

いわき・ら・ら・ミュウの店で売っている、とがった貝のブレスレット(私には「貝」ではなく「煮干し」にしか見えないのだが)を、カミサンが買った。100円だ。知り合いの若い女の子が気に入った。するとまた、何個か買ってほかの若い女の子にもあげることにしたらしい。女性の心理はなんとも……。

埠頭をひたひたとたたく波を眺めていると、いわきからちょっと北にある原発の汚染水に思いがめぐっていく。わが家の茶の間にいる今も、汚染水の行方が気になってしかたがない。海に流れ出ているという。海に流れ出ないように遮蔽措置を取ったら、地下水の水位が上がってきたという。地面からあふれでるのも時間の問題ではないのか。

石川啄木の歌集を開く。海をながめていたら、「東海の小島の……」の歌が思い浮かんだせいかもしれない。「大海(だいかい)にむかひて一人/七八日(ななやうか)/泣きなむとすと家を出(い)でにき」。啄木の泣きたい理由はわからない。が、福島県の浜通りの人間は今、原発汚染水のニュースに“一怒一憂”を繰り返している。

山が、海が、地球が汚される。海洋汚染の懸念が大きくなっている。「綱渡り」という言葉があるが、その綱が危ない、すり切れてブツリといきはしないかという恐れ。なにがなんでも手を打ち続けてもらわないと困る。「手も足も出ない」などといってくれるなよ、東電さんよ、国よ。あのとき以来の「そこにある危機」に、とがった貝以上に神経がとがる。

2013年8月5日月曜日

梅雨明け

土曜日(8月3日)にやっと北陸・東北地方の梅雨が明けた。東北南部は平年(7月25日)より9日遅い。あさって7日はもう立秋だ。暦の上では暑中見舞いを言う間もなく「残暑」に入る。

梅雨が明けた翌日曜日のきのう、夏井川渓谷の無量庵で菜園の草刈りをした。このところの「少照多雨」でネギはげんなりしているのに、周りの土手の草は茂りに茂っている。庭にもクズがはびこっている。1時間ほど大鎌を振るった。

ままごとに等しいからいうのだが、趣味の農作業は朝の涼しいうちに終わるのがコツ。毎日やれるなら、「朝めし前」と「夕めし前」で十分だろう。9時。作業を終えて持参した握り飯を食べる。出窓=写真=から茶の間に吹き込む谷風が体のほてりを冷ます。天然のエアコンだ。この谷風がなによりのごちそうになった。

朝、神谷(かべや)~中塩~平窪と田んぼのなかの農道を行き、国道399号に重なる県道小野四倉線をかけあがった。1週間前もそうだったが、何カ所かで草刈りが行われていた。

月遅れ盆が近い。草ぼうぼうでは彼岸から帰ってくるご先祖様に申し訳ない。同時に、田んぼの風通しをよくし、虫のすみかを除去する。農村景観はこうして年に何回か繰り返される草刈りによって守られている。

それができなくなったところは農村であれ、街であれ、たちまち原野に返る。日本の湿潤の風土がそうさせる。

景観の回復には膨大なエネルギーが必要だ。家を、ふるさとを追われた人々は、荒れ果てた自然とわが家を見て断念の度を深めている――私が話を聞いた双葉郡の人にかぎっていえば、そんな印象が強い。草刈りができる幸せを思う。

2013年8月4日日曜日

クマ騒動

イノシシを目撃したことはない。が、夏井川渓谷でひり出されたばかりの糞=写真=を見たことはある。黒い碁石をやわらかくして重ねたような感じだった。二つに割れた丸い足跡もよく見かける。わが埴生の宿の無量庵でも、ときどき庭や畑がラッセルされる。

溪谷の下流、小川町西小川字南ノ根地内の路上で8月1日夜8時過ぎ、ホタルを見に来た夫婦が体長約1メートルの「クマ」を目撃し、いわき中央署に通報した。翌2日の福島民報は社会面に「いわきで熊1頭を目撃」のベタ記事を載せた。クマ? まさかイノシシだろう――が、そのときの反応だった。

同じ日の夕刊・いわき民報。目撃した夫婦が「車両のライトで照らしたところ、約20メートル離れたところにいた。その後、クマは南側の山林に入っていった」。ライトで照らして見たのなら、やはりクマか。

にしても、南ノ根は夏井川の右岸(平野部)にある。左岸に連なる二ツ箭山の方なら双葉郡まですぐだから、そちらで目撃されたクマが南下して来ても不思議ではない。右岸までの間に人家が密集している。もっと目撃情報があってもいいはずだが、ない。

謎はすぐ解けた。3日の福島民報に「熊目撃情報はイノシシと判明」のベタ記事が載った。市の担当者や鳥獣保護員が付近を確認し、足跡などからイノシシと推測した、とある。やはり、イノシシだった。夜はライトで照らしても黒く見えるから、クマと誤認したのだろう。3・11後、阿武隈のイノシシは増えている――それを裏づける一例だ。

2013年8月3日土曜日

傾聴の日

午前10時の開店に合わせて、イトーヨーカドー平店2階の交流スペース「ぶらっと」へ行くことがある。7月30日には、いわき市内で震災・原発事故の被災者や避難者の支援活動を続けているNPOの合同情報紙「一歩一報(いっぽいっぽ)」=写真=の編集会議が開かれた。少し遅れて参加した。

5月までそれぞれ独自に発行していた情報紙を一つにまとめることになり、6月1日付で「一歩一報」の創刊号が出た。市内のNPOや個人などが結集した「3・11被災者を支援するいわき連絡会」(愛称:みんぷく=みんなが復興の主役)が発行主体だ。

「ぶらっと」ではこの日、傾聴ボランティアが2人、利用者の話を聴くために待機していた。編集会議が終わったあと、茶飲み話に入って、なにげなくあたりを見回したら、年配の女性が傾聴ボランティアの前で涙ぐみながら、しかしすっきりした表情で立ち上がり、礼を述べて歩き出すところだった。

「ぶらっと」では健康運動、押し花、デッサンなどの教室やサークル、あるいは双葉町民の集い、楢葉町民の集いなどが日替わりで開かれている。そのなかで、長く定期的に続いているのが無料健康チェックと「傾聴の日」(火曜日)だ。

東日本大震災から間もなく2年5カ月。震災前と同じ日常が戻りつつあるようにみえても、一人ひとりの心は傷ついたままだということを、年配の女性の涙が教えてくれる。希望が言われ、復興が語られても、心にぽっかりと穴があいたままの人が少なくない。

そんなことを思いめぐらしながらトイレから帰ると、傾聴ボランティアの女性と目が合った。驚いた。旧知の人だった。「震災以来でしょうかね」と彼女。そうかもしれない。が、震災後、どこかの集まり(講演会かなにか)で会っているような気もする。「ぶらっと」があるからこその、思わぬ再会だった。

「ぶらっと」を、「一歩一報」を必要とする人がいる。必要とする人のために自分の時間を割く人がいる。こうして人は出会い、つながり、一人ぼっちではないことを確かめる、のだろうか。