2014年1月31日金曜日

前副市長に聞いた

 まずは2011年3月29日付小欄<「シャプラ」がきた>の抄録を読んでいただきたい。今から2年10カ月前、震災から半月余がたった3月27日、日曜日のことを書いている。(副市長=写真=などの肩書はすべて当時のまま)
                  *
 日曜日の27日午前、わが家にNGOの「シャプラニール=市民による海外協力の会」の副代表理事、事務局長、国内活動グループチーフの3人がやって来た。野菜の差し入れがありがたかった。カミサンがシャプラのいわき連絡会を引き受けている。いわきでの中期的な支援活動を考えているという。

 19日、北茨城市に入って防災ボランティアの活動を始めた。ボランティアが集まってきたので、次はいわきへ――いわき市の「うつくしまNPOネットワーク」と連携し、22、23日と避難所への救援物資運搬活動を展開した。

 北茨城からいわきへ活動拠点を移したのは、例の「原発事故」でいわきへのボランティアの足が止まっているからだ。短期から中期へ――次の戦略が必要になっている、そんな判断もある。

「シャプラ」としてなにができるか。いわき市社会福祉協議会の常務理事に会い、市市民協働課長のアドバイスを受けて、いわき市南部で復興のための活動を始めつつある「勿来ひと・まち未来会議」のリーダーに会いに行くことにした。旧知の人間だが、ケータイの番号などは知らない。

 ここは市勿来支所へ駆けつけ、支所長の知恵を借りるに限る。支所長と情報交換をしているうちに、地震・津波の災害現場を見て回った副市長が偶然、支所長室にやってきた。市のナンバー2の話は、シャプラニールが何をしたらいいか、大きな参考材料になった。

 やがて「未来会議」のリーダーとも連絡が取れ、津波被害に遭った海岸部で落ち合った。

「未来会議」のリーダーが「帰りに岩間と小浜を見て行ってほしい」という。大津波に壊滅的な被害を受けたところだ。道はと聞くと、「生活道路」だから立ち入り禁止にはなっていない。

 被災地に踏み込んで息をのんだ。分厚いコンクリートの堤防が破壊され、押し流された。堤防・道路・民家とつらなる海辺の風景は消え、大地がえぐられ、むき出しになっていた。小浜は海側の家並みが壊れて海がざっくり見えるではないか。

 そのあと、小名浜、永崎、中ノ作、江名と回って平へ戻った。超現実的な風景が延々と続いていた。あらためて被害の甚大さを思った。
                  *
 おととい(1月29日)の夜、いわき市文化センターでいわきフォーラム’90のミニミニリレー講演会が開かれた。講師は、上記の抄録に登場する鈴木英司前いわき市副市長。「3・11東日本大震災いわき市の記録と記憶」と題して話した。中身はいずれ触れるとして、今回は2011年3月27日の副市長から受けた印象について記しておく。
 
 そのころ、市職員は文字通り不眠不休でコトに当たっていた。陣頭指揮を執る市長、副市長もそうだったろう。震災後初めて会った副市長は、いつもの明瞭なしゃべり方ではなかった。普通に話は通じるのだが、疲労が体の深いところまでしみこんでいるようだった。
 
 以来、“指揮官”はいつ、どのように休息を取ったのか――そのことが気になっていたので、質疑の時間に聞いてみた。それについてははぐらかされたが、3月27日に勿来支所へ現れたわけなどは率直に語ってくれた。要は職員の叱咤激励だった。
 
 シャプラニールの人たちと会って話したこともちゃんと覚えていた。今につながるシャプラニールの、いわきでの活動はこのときに決まった。私は前副市長の話から、あらためてそう思った。

2014年1月30日木曜日

まざり~なツアー

 <まちの交流サロン「まざり~な」>の第1回ツアーがおととい(1月28日)、NPO法人シャプラニールの主催で行われた。津波で家を流された平・豊間の人や、原発事故でいわきに避難している双葉郡の人など、10人が参加した。

 平・常磐地区には「まざり~な」が9カ所ある。そのうち、平堂ノ前の大平テーラー(仕立て業)、同・久保町の山田屋醸造(味噌・醤油醸造・販売店)、同・中神谷のわが家(地域文庫・米販売店)=写真=の3カ所をマイクロバスで巡った。

 いわきでは、交流スペース「ぶらっと」(シャプラニール運営)や「小名浜地区交流サロン」(ザ・ピープル運営)、「なこそ交流スペース」(なこそ復興プロジェクト運営)、「ぱお広場」(いわき自立センター運営)などが、被災・避難者と市民を結ぶ拠点になっている。
 
 それら団体に個人が加わったNPO法人「みんぷく」(みんなが復興の主役!=正式には3・11を支援するいわき連絡協議会)が、さらにきめ細かく被災・避難者に対応しようと「まざり~な」活動を始めた。
 
 応急仮設住宅に入居している避難者と違って、借り上げ住宅(アパート・戸建て住宅)に住む人は、近くに知り合いがおらず、情報も入りにくい。そういった人たちが近所の店に立ち寄ったついでに、おしゃべりや情報交換、あるいはちょっとした相談ができれば――というのが狙いだ。
 
 ツアーの予定時間帯に双葉郡の女性が偶然、立ち寄った。店を訪れるのは初めてだった。その人と入れ違いにツアーの一行が現れた。女性の話では、「みんぷく」発行の合同情報紙「一歩一報(いっぽいっぽ)」で、「まざり~な」の存在を知った。わが家の前の通りを車で行き来しているのだが、今までは立ち寄る時間がなかったのだという。
 
 震災当日の夜、わが家に知人がやって来た。四倉の津波被災者を車で近くの公民館へ避難させた、ということだった。毛布を貸した。それがわが家の「まざり~な」の始まりだった。翌日になると、双葉郡の原発避難者が現れた。
 
 やがて、何度も訪ねてくる人が増えた。常連さんのなかには水戸へ、いわき市内の別の場所へと、すまいを確保して引っ越した人がいる。近々、東京へ移る予定の人もいる。一方で、「まざり~な」の存在を知って新たに訪ねてくる人がいる。

「まざり~な」は、自然と文明の災禍に翻弄された人たちが瞬間、ホッとして過ごせる人生の交差点であればいい。最初のツアーを経験してそんな感慨が生まれた。

2014年1月29日水曜日

新年会

 現役のころと違って、忘・新年会の数は減った。それでも度重なると疲れる。1月11日、18日、25日と3週続きで土曜日に新年会が開かれた。11日は東京へ。18日は神谷地区新春の集い=写真。25日は地元の区の役員新年会。そして、おととい(1月27日)は隣接する草野地区の区長さんとの合同新年会に参加した。

 きのうは目が覚めると、鼻が少しムズムズしている。カミサンはくしゃみを連発している。これは夫婦で風邪を引いたか。

 こじらせて寝こむわけにはいかない。朝食をとったあと、常備の風邪薬を飲んだ。頭が重くなってきた。薬効の前に症状が亢進したらしい。こたつで横になっていると自然に眠くなった。やがて正午。昼食をとって、また風邪薬を飲む。と、再び睡魔に襲われた。2時ごろに目を覚ます。今度は頭がすっきりしている。熱も高くない。

 風邪を引いた原因はわかっている(そうでないにしても、そうだと思うことで戒めることにしている)。飲みすぎると心身の防御ラインがゆるんで、風邪のウィルスが侵入しやすくなる。布団にたどり着く前に畳の上で寝てしまう――そんなことが1年に一度くらいおきる。25日がそうだった。
 
 風邪をこじらせると、半月近くも症状が尾を引くことがある。今回は鼻の痛みに気づいてすぐ薬を飲んだ。休養と睡眠もとれた。それがよかったのだろう、半日で軽快した。インフルエンザではなかった。でも、ぶりかえすことがある。油断はできない。
 
 風邪は万病の元、いや風邪を引き起こす飲みすぎこそ万病の元――今年最初のしくじりから得た教訓だ。

2014年1月28日火曜日

自助と共助

 家が壊れるような大地震が発生したら――。まずは「自助」。机の下にもぐり込むなどして、自分の身を守らないといけない。次は近隣住民の「共助」が必要だ。家が倒壊するような大地震のときには、道路は寸断されて使えない。警察も、消防もダメージを受けて戦力が低下している。「公助」はほとんど当てにならないのだという。

 先日、いわき市消防本部で自主防災会のリーダー研修会が開かれた。地震発生や気象災害のメカニズム、自主防災組織の役割、災害時要援護者の事前対策などの講話のあと、丸太に服の袖を通して担架にする方法や、家の下敷きになった人を助けるときの心構えを、消防隊員の訓練を通して学んだ=写真

 倒れた家具などに体が長時間圧迫されていると、その部位が挫滅し、毒素が発生する。この毒素が、救出による圧迫開放で血流にのって体内をめぐり、心臓に至って急性心不全を起こすことがある。「共助」の場合に留意しなければならない点だという。阪神・淡路大震災で建物の下敷きになり、救出時には比較的元気だった人が、間もなく容体が急変して亡くなる、ということがみられた。いわゆるクラッシュ症候群だ。

 建物の下敷きになった人の救助訓練は、消防本部の4階テラスで行われた。閼伽井岳から寒風が吹き下ろしていた。素人は一刻も早く被災者を助け出したいと考えがちだが、こんな寒風が吹き荒れているときにはかえって体温を奪いかねない。建物と人との間にすき間をつくったら、そのままにして(建物が防寒の役目を果たす)、救急車の到着を待つのが賢明だという。
 
 この種の研修会は、記者時代には「傍観者」として居合わせるだけだった。が、今は自主防災会の「当事者」として参加している。責任がある。臨機の知恵、応変の技術は、一度や二度の研修で身に付くものではない。地域の、自分の“防災力”が問われる――そんなことを自覚する研修会になった。

2014年1月27日月曜日

移住の決断

 富岡町へ行くと、「帰還困難区域」を示す立て看を目にする=写真。その北隣、大熊町は面積の9割以上が帰還困難区域になっている。
 
 富岡からいわきに避難中の女性がわが家へお茶飲みに来て、カミサンに東京への移住を告げた。子どものすまいの近くに家を見つけたのだという。自宅は帰還困難区域にある。建物も傷んでいない。なのに、住めない、帰れない。震災・原発事故から間もなく3年。いつまでも避難者のままではいられない、ということなのだろう。
 
 近所の国道6号沿いに大熊から避難し、開業した整骨院がある。カミサンがときどき、腰をもんでもらいに行く。4月には閉院して茨城県結城市に引っ越すという。町の広報紙「おおくま」1月号にインタビュー記事が載る。いわきでの事業継続を模索したが、整復師などの資格を取得できる教育機関がなく、人材確保が難しい。自分の年齢を考えると今が新たな挑戦ができるタイムリミットと判断したそうだ。
 
 広報紙からは各地に定住する町民の姿がうかがえる。会津若松市の応急仮設住宅から同市内に店舗兼自宅を求めて移り住んだ理容師一家がいる。水戸市に住む夫婦がいる。震災後、娘のいる宇都宮市のアパートで約2年間暮らしたが、隣の生活音に耐えられず、望郷の念も募って、いわき市内に家を探した。手ごろな物件がなかったために、宇都宮市と大熊町の中間、水戸市にマンションを購入して生活の拠点にしたのだという。
 
 いわきは不動産バブルが続く。土地も、建物も入手が困難になってきた。いきおい、周辺にそれを求める動きが波及しているのだろう。高齢者には「孫に会える距離」も移住先を決める材料のひとつになっているのかもしれない。
 
「三日三月三年(みっかみつきさんねん)」という言葉がある。我慢のたとえに使われるが、このごろ耳に入ってくるのは「もう3年だから」という避難者の決断の声だ。それが、若い世代はいわきに家を建てた、中古住宅を買い求めた――といった話につながっていく。

 先祖代々の田畑をかかえる農家と違って、サラリーマンや商人、職人などは縛られるものが少ない分、よそに代替地を求めやすい、という面はあろう。「もう3年だから」。帰還をあきらめ、一歩前へ踏み出そうとする人々の心中を思うと、言葉もない。

2014年1月26日日曜日

豊間の俯瞰図

 ときどき農文協の『福島の食事』(1987年刊)を開く。ふるさと(田村市常葉町)の「阿武隈山地の食」と、いわき市の「石城海岸の食」が載っているからだ。「石城海岸の食」は平豊間で聞き書きしたものがベースになっている。豊間は塩屋埼灯台の南側に位置する。その俯瞰図=写真=が目に留まった。
 
 右下、灯台の近くに話者の「鈴木さん」の家がある。その奥には船主の家。海に面して家があるが、あらかたは防潮林と畑が占める。一角に番屋があり、内陸の道路に沿ってかやぶき屋根の家が並ぶ。防潮林と畑が宅地になる前の、豊間の浜のイメージ図だ。実景ではない。ここが大津波に襲われた。
 
 それはさておき、「フードは風土」だと私は思っている。語呂合わせにすぎない、といわれればそれまでだが、在来作物と伝統食に思いをめぐらすとき、いつもこの言葉が頭に浮かぶ。

 なぜ在来作物がつくられてきたかを、山形大の江頭宏昌さんは四つに分けて解説する。すなわち、①食料確保(特に冬季)のため=江戸時代だけでも寛永・享保・宝暦・天明・天保期に大きな飢饉が起きている②地域を元気にするため③楽しみの共有のため=例えば、月遅れ盆に帰って来る孫のためにつくる④家宝・地域の宝として――。

 フード(在来作物・魚介類・鳥獣)は風土(地域)によってつくられた。風土はそこだけの、ほかに同じところがないローカルなものだ。すまいも、すまい方も、すまう場所も同じだろう――。豊間の昔の俯瞰図、おそらく昭和30年代まで変わらずにあった浜の暮らしに、住宅地として激変した大津波の前の浜の姿を重ねあわせながら、そんなことを思った。

2014年1月25日土曜日

ガン・カモ調査

 何日か前の昼すぎ、街から夏井川の堤防を帰ってきたら、ハクチョウたちが川面にあふれていた。ふだんは午後3時ごろに数が最大になる。「白鳥おばさん」がえさをやるからだ。それが、真昼なのにその時間帯の2倍以上になっていた。いわきもいよいよ1年で一番寒い時期を迎えたのだ。
 
 元日のころは総勢100羽ほどだった。今は200羽以上いるだろう。野鳥の会のメンバーのように1羽ずつカウントするわけではない。これまで見てきた経験から、そのくらいはいる、といった程度だ。実際の数はいつも見た目より多い。
 
 元日にはすでに、コハクチョウにまじってオオハクチョウが飛来していた=写真。川岸に立って間近で見たので、オオハクチョウとわかった。
 
 ふだんは車で通りがかりながら、ちらりと目をやるだけのウオッチャーだ。「白鳥おばさん」がえさをやるとか、空から次々に舞い降りるとかしないと、車を止めることもない。元日は初めて「白鳥おばさん」の姿を見たので、川岸までついて行った。
 
 いわきへはまず、コハクチョウがやって来る。次に、オオハクチョウがポツリポツリと現れる。真冬になると、その数が増す。それで、渡りの途中で滞留していた北海道の湖が氷結したのだとわかる。カモ類を含めた全体の飛来数もピークになる。一種の生物季節観測から得られた経験則だ。
 
 この時期は、例年、ガン・カモ類の全国一斉調査が行われる。いわきでは日本野鳥の会いわき支部が実施している。今年は1月12日(日)に行われたはずだ。速報値は、ほぼ1週間後にはメディアで公開されていたのに、今年はまだ報道がない。いわき支部のホームページにもたどり着けない。わが“野鳥情報”はそれですっかり乏しくなった。

2014年1月24日金曜日

にほん風景物語

 昨年(2013年)暮れ、BS朝日「にほん風景物語」の<ふるさと福島 川内村・いわき小川郷~詩人・草野心平が詠んだ原風景>を見た。つい3日前の1月21日には再放送があった。
 
 番組のなかで、いわきが誇る景勝・背戸峨廊(せどがろ)を紹介した。それはいいのだが、字幕でわざわざ「背戸峨廊」に「せとがろう」と間違ったルビを振っていた=写真。前段で「せと(ほんとうは、せど)=山の裏側」「がろう=加路(かろ)川から山の裏側の川」とほぼ正確に説明していただけに、詰めが甘かった。
 
 草野心平のいとこに、長らく中学校の校長を務めた草野悟郎さん(故人)がいる。「縁者の目」という随筆に「背戸峨廊」命名のエピソードを書き残した。

 敗戦後、心平が中国から帰郷する。すぐ村を明るくするための集まり「二箭(ふたつや)会」ができる。地元のシンボル・二ツ箭山にちなんだ名前だ。二箭会は、村に疎開していた知識人の講演会や、村民歌(「小川の歌」=作詞は心平)の制作、子供たちによる狂言、村の青年によるオリジナル劇の上演などの文化活動を展開した。

江田川(背戸峨廊)を探索して世に紹介したのも「二箭会」の功績の一つだったと、悟郎先生は記す。

「元々この川(引用者注・江田川のこと)は、片石田で夏井川に合流する加路川に、山をへだてて平行して流れている夏井川の一支流であるので、村人は俗に『セドガロ』と呼んでいた。この川の上流はもの凄く険阻で、とても普通の人には入り込める所ではなかった。非常にたくさんの滝があり、すばらしい景観であることは、ごく限られた人々、鉄砲撃(ぶ)ちや、釣り人以外には知られていなかった」

 加路川流域に住む人間には、裏山の谷間を流れる江田川は「背戸の加路(せどのがろ)=裏の加路川」だった――。探検に加わった当事者の一人の、貴重な記録である。

「私たちは、綱や鉈(なた)や鎌などをもって出かけて行った。総勢十数名であった。心平さんは大いに興を起こして、滝やら淵やら崖やら、ジャングルに一つ一つ心平さん一流の名を創作してつけて行った。蛇や蟇にも幾度も出会った。/その後、心平さんはこれを旅行誌『旅』に紹介して、やがて、今日の有名な背戸峨廊になった」

 つまり、「せどがろ」という呼び名がもともとあって、心平がそれに漢字を当てた、滝や淵の名前は確かに心平が命名した――これが真相である。

 にしても、いつから間違って「せとがろう」と呼ばれるようになったのだろう。第一、「背戸」は辞書でも「せど」だ。古い言葉だが、方言ではない。テレビ・ラジオで「せとがろう」と誤称され、雑誌や書籍でもそう誤記されるようになった、後先はわからないが、市民も「せとがろう」と口にするようになった。誤称・誤記の“共鳴”が今も続いている。
 
 誤称・誤記を正すのもまたメディアであり、市民である。いわき市立草野心平記念文学館の役目も大きい。その点では、詰めが甘かったとはいえ、今まで見たテレビ番組のなかでは一番事実に迫っていた。そういう評価もできる。

2014年1月23日木曜日

漬物の好み

 自家製の白菜漬けが切れたので、次の白菜漬けができるまでの“つなぎ”として、阿武隈の山里でつくられている白菜キムチ漬けと味噌漬け、たくあん漬けを買った=写真。キムチはいわき市、あとの二つは川内村産だ。
 
 食べ物は、人によって好みが違う。漬物の場合はよりはっきりしている。私は、キュウリなら浅漬けも、古漬けもかまわないが、それ以外は浅漬けを好む。カミサンは古漬けが好きだ。先日、遊びに来た若い仲間のA君、B君も古漬け派だ。

 白菜キムチ漬け。当然、ほどよく発酵して、ほんのり甘みのある浅漬けを私は好む。それを前提にして買う。スーパーではこの段階のキムチを売っている。それでさえ何日かたつと、うまみ・甘みよりも酸味が強くなる。そうなれば、ごま油をたらして酸味をあまり感じないようにして食べる。(あくまでも発酵食品としてのキムチの話であって、「キムチもどき食品」のことではない)

 つなぎで買ったキムチは酸味が強かった。舌がピリピリするほど乳酸菌の動きが活発だった。つまり、最初から古漬けだった。カミサンは平気だが、私は買って失敗したと思った。
 
 容器のふたのラベルには、製造年月日:平成26年1月16日、賞味期限:同1月31日、搬入日:1月18日とある。買ったのは1月19日だ。つくって4日目で古漬けになる、なんてことはありえない。私がつくる普通の白菜漬けでさえ、食べられるようになるのに5~6日はかかる。
 
 それからの類推・繰り言――この「製造年月日」は仕込んだ日ではなく、甕か樽・桶から取り出してパック詰めをした日だろう。としたら、「製造」から「出荷」まで、何日間かは漬物容器で寝ているわけだ。浅漬けを食べたい人間にはこちらの期間が気になる。仕込んだ日を正確に「製造年月日」とするか、漬かり具合を「浅」とか「古」とかの略語でわかるようにするか、してくれないとなぁ。古漬けとわかれば買わなかった。
 
 直売所通いを続けている経験からいえば、生産・製造者の顔が見えるのは「信頼」につながる要素にはなっても、「満足」をもたらすものではない。要は品質。好みは人それぞれだから、それに合った情報を添えてくれることを切に願う。
 
 ご飯と一緒に川内のたくあん漬けと味噌漬けを食べている。やわらかい。製造者は同じ人だ。川内の自宅でつくったのか、避難先でつくったのか。その人の「今」をあれこれ想像しながら、阿武隈の山里の冬の暮らしに思いがおよぶ。これもまた特別の“おかず”だ。

2014年1月22日水曜日

アイ・ワズ・ボーン氏の死

 <吉野弘さん死去/87歳 詩人、「祝婚歌」>。きのう(1月21日)、朝日が第2社会面(後ろのラジオ・テレビ欄から数えて3ページ目)で報じていた。読売も同じ面に、同じような見出し、同じような分量で詩人の死を報じていた。朝日と違うところは、代表作品の見出しに「夕焼け」が追加されていたことだ。

 見出しを目にした瞬間、思わず胸のなかでつぶやいた。「アイ・ワズ・ボーン氏が死んだ」。私のなかでは、吉野さんの代表作は「祝婚歌」ではなく、「I was born」という散文詩、次いで「夕焼け」だ。

 夕方、近所にある義伯父の家の本棚を見たら、初期の現代詩文庫12『吉野弘詩集』(1968年、思潮社刊)があった=写真。大地震のときに崩れ落ちてぐちゃぐちゃになった本を、ダンシャリした。詩集だけはカミサンがなんと言おうと残した。置き場のない本を義伯父の家に収容した。

 英語を習い始めたばかりの少年(僕)が父親と歩いている。向こうから妊婦がやって来る。少年は父親に気兼ねしながらも、妊婦の腹を凝視し、頭を下にした胎児がやがてこの世に生まれ出ることの不思議に打たれる――。そんな情景から「I was born」は始まる。

 妊婦が行き過ぎる瞬間、少年は<生まれる>ということが、まさしくアイ・ワズ・ボーン、<受身>であるわけを了解する。そして、父親に言う。<正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね>。そのあとに展開される、カゲロウの雌の短いいのちを例にした父親の話が泣かせる(少年の母親は少年を生むとすぐ死んでいる)。
 
 10代でこの詩に出合って以来、「宿命と選択」ということを考えるようになった。ボーンに対するリボーンといったらいいのか、生まれる場所は選べないが生きる場所は選べる――といった具合に。それで、私はこのブログの自己紹介にも「出身は阿武隈高地、入身はいわき市」などと書いている。
 
 後年、「I was born」の展開形として引かれたのが、「ケツメイシ」のCD『ケツノポリス6』に入っている「伝承」だった。グループの誰かに子どもが生まれた。それで、母の慈愛を実感した。<あなたを選んで 生まれた/あの日私を 笑顔で迎えた>。「あなた」とは自分の母親、そして自分の子どもの母親、妻のことでもあろう。

 生まれることは選択できない宿命ではなくて、新しい命が母親として「あなた」を選んだのだと言っている。吉野さんの詩に漂う切なさが、ここでは生命感に満ちあふれている。そう解釈できるのも「I was born」があったからこそ、だ。
 
 <やさしいこころの持主は/いつでもどこでも/われにもあらず受難者となる。/何故って/やさしい心の持主は/他人のつらさを自分のつらさのように/感じるから。>(「夕焼け」)。作品から受ける印象は、やさしさ、温かさ、つつましさといったものだろうか。1月16日の誕生日前日、87歳を満了して亡くなったことにも、なにか律儀なものを感じてしまう。

2014年1月21日火曜日

通信指令センター

 自主防災会のリーダー研修会が日曜日(1月19日)、いわき市消防本部で開かれた。平消防署管内のうち、平、中央台地区には自主防災会が100余りある。その役員である区長らが参加した。本部職員とNTT社員の講話のあと、参加者は隊員による応急担架づくり、救助訓練を見学した。
 
 119番を受け付ける通信指令センターも窓越しに見た=写真。壁面に地図その他の画面が大きく表示されている。江名港のライブ映像もある。テレビのドラマや、消防の24時間を追った番組では承知していても、ホンモノを見るのは初めてだ。
 
 “現場”には静かな緊張感が漂っていた。案内の職員が説明していると、119番がかかってきた。4人いるスタッフの1人がすばやく動いたが、すぐ切れた。幼児が受話器を取ってピッポッパとやったのかもしれない。
 
 平成7(1995)年1月17日早朝、阪神・淡路大震災が起きた。緊急支援・復旧支援のボランティアが数多く駆けつけた。それをきっかけに、閣議了解で翌年から1月15~21日が「防災とボランティア週間」と決まった。研修会はその一環だ。
 
 指令センターを見学しているうちに、救急車に二度、付き添いとして乗ったことを思い出した。
 
 一度は、それこそ阪神・淡路大震災の2日後だ(詳細は省く)。二度目は10年ほど前だったろうか。真夜中、いわき駅に近い飲み屋街(平・田町)の、とあるスナックにいたとき、自傷事故に遭遇した。店に顔を出した酔客が帰ったと思ったら、階段から踊り場まで転げ落ち、頭から血を流して倒れていた。ママさんと2人、救急車に同乗して病院まで付き添った。さいわい、いずれも軽傷ですんだ。
 
 平成24年版「いわきの消防」によると、東日本大震災が発生した23年3月の119番受信件数は3800件、4月は2076件だった。その前後、2月は1579件、5月は1607件だったから、3月は通常の2倍以上、119番がかかってきた。
 
 講話と指令センターの案内を担当した係長の手記をネットで読める。震災が発生した3月11日午後2時46分から13日までの様子はこうだった。発災直後は水道管破損、ブロック塀倒壊などのほか、目的外問い合わせが多かった。電話は鳴りっぱなしで、3時過ぎごろから救急・救助要請、火災通報が増え、通常は数秒で照会できる発信地照会に10秒以上かかった。電話回線の混乱、システムの不安定な状況が翌々日まで続いた。
 
 こうした非常事態、大混乱のなかで、軽症救急と思われる場合には「通報トリアージ」を実施して、自己対応、家族・隣保共助をお願いしたという。
 
 119番の回線は限られているのに、相変わらず問い合わせの電話が多い。すると、肝心の救急・火災通報がつながりにくくなる。大災害時には消防はあてにならない、隣保共助が大事――そのことを頭に刻みながらも、発災当時の消防の献身、119番の現実に触れて、また少しいわきの実体に迫ることができた思いがした。

2014年1月20日月曜日

食欲がすごい

 疑似孫が親と一緒にやって来た。この4月、中3と中1になる。女の子で、身長は160センチ前後と、とっくに疑似バア(カミサン)を越えた。

 何カ月かに一度、土曜日の夜に食卓(冬はこたつ)を囲む。父親と疑似ジイは焼酎でのどを潤す。疑似孫たちは来るとすぐ食事をする。食べ終えると、片面コピー済みの紙を引っ張り出して絵をかく。昔は大きな目の少女をかいていたが、このごろは漫画とデッサンの中間、人間や猫をリアルにかくようになった=写真。それだけでも成長しているのがわかる。

 主食は、疑似孫たちが物心ついたころからカレーと決まっている。疑似孫の食欲はもともといい方だが、今回はとりわけすごかった。皿に盛られたカレーライスをきれいに平らげてはお代わりに立つ。実年夫婦2人には、2食分はある3合の炊飯器が、すぐ空になった。親の分も入れて、急いで3合を炊き直した。食事が終わると、こたつの上の皿という皿が空になっていた。みごとな食べっぷりだった。
 
 私も阿武隈の山里で過ごした10代前半はそうだったのだと思う。朝昼晩と三度食べても、いつも腹を空かせていた。一度に食べる量は、今の倍はあった。疑似孫たちと同じように、ライスカレー(阿武隈ではそう言っていた)は2杯、味噌仕立てのけんちんうどんもどんぶりで2杯はいけた。「やせの大食い」とよく言われた。
 
 中学校に入ると、急に背が伸びた。その経験からの連想。疑似孫も今、食べたものがすぐ消化されて血になり、骨と肉になっている。どんどん食べて、どんどん大きくなる。育ち盛りだからこそ、食欲がとめどなくわいてくる、のかもしれない。親はその分、食費の確保に苦労するが。
 
 ここまできれいに食べてくれるとうれしい――カミサンは感動したように言う。私がカレーライスを口にしたのは翌朝。残払いとかで、ほんの少しだった。

2014年1月19日日曜日

リンカーン岩

 夏井川渓谷では、木々が葉を落としたために見通しがよくなった。岩盤がその一つ。角度によっては生きものの顔に見える岩がある。ライオンか、リンカーンか。意識すればするほどリンカーンの横顔に見えてくる=写真

 3・11に大地が激しく揺れた。溪谷では至る所で落石が起きた。岩盤から岩が剥離すると、岩の内部があらわになる。表面はまだ赤茶色のままだ。それが、風雨にさらされて、やがて白茶ける。“リンカーン岩”にはまだ一部、赤みが残っている。3・11前はもっと単純な別の人間の横顏だった。

 森の中の異変は、緑に覆われているうちはよくわからない。見通しのよくなった冬、尾根から谷へと続く斜面にところどころ岩盤の剥離跡が見られる。3・11の痕跡だ。無人の谷だからニュースにならないだけだが、小さな生態系のなかでみれば、落石が多発したことは“激変”に違いない。

“リンカーン岩”のふもとには、落ちてきた岩盤が細断されて、石垣のように積み上げられた。水力発電所の導水路を点検するための巡視路がある。その通行を確保するための措置だった。

 3・11では渓谷の幹線道路が遮断された。「小野四倉線完全通行止め(高崎踏切より1KM先) 川前方面国道399号迂回路6KM先(母成林道)」などと書かれた看板が道路に立っていた。小野四倉線と並走する磐越東線もしばらく運行が止まった。

1・17、阪神・淡路大震災から19年。東日本大震災のことが反射的に思い出された。渓谷の落石はそのひとコマにすぎない。

2014年1月18日土曜日

歌会始と常磐線

 昨年(2013年)11月初旬、震災後初めて双葉郡富岡町を巡った。海沿いにある常磐線富岡駅は、電柱が傾き、折れ曲がり、線路がセイタカアワダチソウに覆われていた=写真。原発事故で全町避難が続いている。駅前の通りも、駅も津波に襲われたままの状態だった。

 今年の歌会始でいわきの渡辺三利さんの歌が佳作に入った。1月16日付の県紙で知った。渡辺さんは元JR東日本社員。記事によれば、3・11前の平成16(2004)年3月、原ノ町駅長を最後に退職した。
 
 退職の日の終電を見送りて静かに白き手袋を脱ぐ
 
 最後の列車を無事に見送った安堵感と、JRマンとして仕事を全うした達成感を歌に込めたという。
 
 その常磐線が3・11後、2カ所で寸断されたままになっている。おととしの歌会始には、元福島高専校長の寺門龍一さんが最年長で入選した。
 
 いわきより北へと向かふ日を待ちて常磐線は海岸を行く
 
 寺門さんの自宅は茨城県、校長官舎は平にある。かつて利用した常磐線の全面復旧を願い、併せて被災地の復興を祈って詠んだ。
 
 渡辺さんは退職後、駅ビル「ヤンヤン」を運営するいわきステーションビルに勤めた。いわき駅前再開発事業と連動して、主にペディストリアンデッキで駅と再開発ビルをつなぐ駅周辺再生拠点整備事業が行われ、「ヤンヤン」が解体された。その35年誌を出すことになり、古巣の新聞社を介して、若い人間と2人で編集を担当した。「ヤンヤン」側の責任者が渡辺さんだった。
 
 渡辺さんはわが家からそう遠くないところに住んでいる。本を出したあと、夏井川の堤防で顔を合わせたことがある。散歩コースが同じだった。
 
 新聞記事には、石川啄木に影響されて短歌や俳句を詠むようになった、とある。あの温顔は、穏やかな気質に、歌俳に必要な自然と人間の観察、内省を重ねて、人間としての慎み深さ、考え深さが加わった結果ではないだろうか。

 いわき~仙台駅間はざっと150キロ。事故をおこした原発をはさんで広野~原ノ町と、相馬~浜吉田間はまだ復旧のめどがたっていない。広野の北、楢葉町の木戸、竜田駅までは今春、運行が再開される予定だ。富岡駅は竜田駅の一つ先にある。

なんとしても常磐線の全通が待たれる。若い法曹家が提言していたが、常磐道の全通と無料開放も望まれる。浜通りの存続には仙台への直行電車・ルートが欠かせない。

2014年1月17日金曜日

切絵図カレンダー

 3・11前はときどき、江戸の切絵図(もちろんブックレットなど)をながめては、日本橋かいわいにタイムスリップをして楽しんだものだ。
 
 江戸時代後期、いわきの專称寺で修行した坊さん俳人(俳僧)に、一具庵一具(1781~1853年)がいる。大江戸では、日本橋に近い北槇町(現在の東京駅東側、八重洲二丁目付近)に住んだ。切絵図「日本橋南の図」=写真=には「上槇町」「冨槇町」「南槇町」(日本橋から7~10区画辺り)しかないが、南槇町より北側、日本橋寄りにあったことは間違いないだろう。
 
「タイムスクープハンター」となって、日本橋から発する大通り(東海道)に立つ。すると、一具のほかに、歌川(安藤)広重(1797~1858年)が通り過ぎたり、北辰一刀流の千葉周作(1793~1856年)が歩いていたりする、のを目撃したようなつもりになれる。
 
 そんな想像力をはたらかせてみたくなったのは、先日、「まちの落語家」古扇亭唐変木さんから、彼の会社の切絵図カレンダーをもらったからだ。一具のすまいがあった槇町の切絵図は、5月のカレンダーに使われていた。
 
 切絵図に興味を持ったのは、池波正太郎の「鬼平犯科帳」「剣客商売」「仕掛人・藤枝梅安」に刺激されたことも大きい。江戸の名所、季節の食べ物、花、鳥、……。いつの間にか、小説のなかで江戸の町を行き来していた。

 東京その他へ出かけたときに、時間があれば神社仏閣などの写真を撮る。たとえば、芝・増上寺。江戸時代前期にいわき出身の名僧祐天上人が住職を務めた。鬼平犯科帳の舞台にもなっている。そこで、2012年10月27、28日、創立40周年を記念するシャプラニールのフエスティバルが開かれた。

 フエスティバル会場の大殿(本堂)地下、三縁ホールへもぐりこむ前に、安国殿を撮影した。俳僧一具が拝観して句を詠んでいる。<湯をひかぬ身にこたへけり雪の梅>。「蝋月(12月)17日、安国殿拝瞻(はいせん)。風邪を引きければ」という前書きがある。太陽暦ではちょうどきょう、1月17日がそれに当たる。阪神・淡路大震災の日に、たまたま一具の俳句を思い出した。

 一具俳句を理解するために、前書きをヒントにして足跡を訪ねる、ということをしてきたが、ここ10年余は中断したままだった。3・11後、シャプラと増上寺が結びついたので、“現地取材”を再開した。

先日、飯田橋で開かれた“日帰り新年会”では、帰りに上野駅で「深川めし」の駅弁を買った。「鬼平犯科帳」を思い出して、つい手が出た。これもつかの間の江戸遊び。

2014年1月16日木曜日

スペリアーモ

 元テレビ朝日カメラマンで映像作家の戸部健一さん(平)が、夕刊いわき民報に定期的に随筆を寄稿している。いわき地域学會の仲間であり、現役のころ連載(現在は「続・ファインダーがくもるとき」)をお願いした身でもあるので、毎回欠かさず読んでいる。ベトナム戦争のこと、川内村に墓のある詩人・画家辻まことのことなどが記憶に残る。

 きのう(1月15日)は3・11前に訪ねた大熊町の海岸と、事故をおこした福島第一原子力発電所について書いた=写真。60歳を過ぎて運転免許を取り、念願の4輪駆動車を購入した。ならし運転を兼ねて国道6号を北上し、海に突き出た断崖に駆け上がった。「アイルランドの『モハーの断崖』をおもわせる絶景」に心を奪われた。その断崖から見える北側の断崖の先端、一段と低くなっているところに原発が見えた――。

 その原発があの日、大津波に襲われ、過酷事故を起こした。戸部さん同様、安全神話に思考を停止していた人間たちも、今は事故の遠因が自然の改変にあり、その代償がとてつもなく大きいことを知るようになった。戸部さんは書く。「断崖を削ってしまったことで地下水脈まで掘り当ててしまったのではないか」。その結果、毎日400トンもの地下水が、海に流出することになってしまったのではないだろうか、と。

 この夕刊と前後して郵便が届いた。カミサンの高校の同級生で、イタリアに住む知人からの手紙があった。人に会うと、「福島の人間の今」を聞かれるという。原発事故の問題は福島、日本に限らない、世界の恐怖になっている――というくだりには胸が痛んだ。
 
 私たちが事故をおこした原発を案じているように、イタリアの人々もまた福島の原発事故の行く末を案じている。最後はいつも「スペリアーモ」となるのだそうだ。「最悪のことが起きないように祈りましょう」という意味が込められているという。

遠く離れたイタリアでさえそうなのだから、すぐそばに位置するいわきでは、もっと強く祈るような気持ちで市民が日々を送っている。戸部さんではないが、地下水の汚染問題と燃料棒取り出しのことが頭から離れない。

2014年1月15日水曜日

日陰の多い街

 東京の街を歩いたのは1年2カ月ぶりだ。
 
 2012年10月下旬、日本のNGOの草分け、「シャプラニール=市民による海外協力の会」の創立40周年記念フェスティバルが、芝・増上寺で開かれた。シャプラは3・11後、初めて国内支援に入り、今もいわきで交流スペース「ぶらっと」を運営している。
 
 フェスティバルへ出かけたときもそうだったが、首都は相変わらず人であふれていた。高層ビルが立ち並んでいた。
 
 つい立ち止まってビルを見上げる。晴れているのに太陽が見えない。通りに日陰ができている。そのうえ、空は細くて狭い。高村光太郎の妻智恵子ではないが、ここには「ほんとうの空」はないと、東京のビル街を歩くたびに思う。新年会が終わって外へ出ると、ビルの窓に夕日が映っていた=写真

 19歳のとき、京王井の頭線沿いの久我山で新聞配達をした。住宅街だった。朝日に向かって自転車のペダルをこぎ、夕日を浴びて自転車のハンドルを握った。太陽に出合うと心が落ち着いた。しかし、そのときも人込みには慣れなかった。
 
 人はせわしなく動いている。駅の階段では駆け下りる人がいる。エスカレーターを利用しながら歩いている人がいる。なんでそんなに急ぐのだろう。
 
「スーパーひたち」で帰ってきた。夜8時半、いわき駅前は閑散としていた。人もゆっくり歩いている。これがいわきのリズムなのだと、ホッとした。
 
 震災直後の2011年4月下旬、渋谷・代々木公園で「アースデイ東京2011」が開かれた。シャプラニールも参加し、いわきの被災状況を報告して、物産を展示・販売した。そのとき、駅のエスカレーターは節電のために止まっていた。2年10カ月たった今、止まっているエスカレーターはなかった。

2014年1月14日火曜日

ヨナ抜き音階

 夏井川渓谷の隠居(無量庵)ではラジオ=写真=を聞く。テレビがないからだが、これが結構頭に入る。
 
 今年最初の日曜日(1月5日)、NHK第一の「歌の日曜散歩」で<ヨナ抜き音階>を知った。ドレミファ……の西洋音階でいうと、ヒフミヨ(一二三四)の4番目ヨ(ファ)と7番目ナ(シ)のない歌のことだ。スコットランド民謡の「蛍の光」がそうだという。沖縄の音楽はドレミの<レラ抜き>。西洋音階だけが音楽ではない。
 
「蛍の光」は、元歌が「オールド・ラング・サイン」。詩人のロバート・バーンズ(1759~96年)が、今に残ることばにした。

 ♪夕空晴れて秋風吹く……の唱歌「故郷の空」も<ヨナ抜き>だ。大和田建樹(1857~1917年)が適当に、きれいに意訳したが、原詩はエッチな歌だという。なかにし礼さんにかかれば、そしてザ・ドリフターズがうたえば、♪誰かさんと誰かさんがむぎばたけ チュッチュチュッチュしている いいじゃないか……となる。

 日本の演歌は<ヨナ抜き>が主流。「上を向いて歩こう」や、きゃりーぱみゅぱみゅの「にんじゃりばんばん」、AKB48の「恋するフォーチュンクッキー」もそうだとか。

 話はそれた。ラジオのことだ。何年か前にも書いたが、記憶に残る最初のラジオ番組は「一丁目一番地」。昭和30年代に毎夕(月~金?)、放送された。確か、同年齢の小柳徹が子役で出演していた。彼は20歳のころ、自動車事故で亡くなった。

 無量庵でラジオを聴いていると、そうしてラジオにかじりついていた小学生のころの自分を思い出す。

2014年1月13日月曜日

足跡の正体は?

 3連休の中日(1月12日)は、夏井川渓谷の隠居(無量庵)へ出かけた。水道管が凍結・破損していないかどうかを確かめるのが一つ。もう一つは、「全体除染」で砂浜のようになってしまった庭をいじること。
 
 快晴、無風。放射冷却がきつかったらしく、午前9時半に着いた時点で室温は氷点下6度だった。水道管は? 無事。温水器は、年末に水を抜いた。ヒューヒュー水を噴いているような事態にはならなかった。
 
 庭を見ると――。中央部に動物の足跡がたくさんついていた=写真。足跡の先には風呂場。風呂場の前には小さな花壇がある。除染作業が行われているとき、そこへ臨時に生ごみを埋めた。いつもは堆肥枠のなかに投入するか、菜園の一角に埋めるのだが、両方とも使えなかった。1カ月も前のことだ。その生ごみがほじくりかえされていた。
 
 表土をはぎとり、山砂を入れた庭は、庭としてはできたてほやほやだ。靴跡がうっすら残るだけのところに、初めて動物の足跡がしるされた。足跡を追うと、その生きものは一段下の原っぱから階段を上って庭に現れ、花壇に生ごみが埋まっているのを鋭い嗅覚で探り当てたようだった。猫か犬か、はたまたキツネかテンか。そのへんはよくわからない。
 
 庭は、朝日が当たるまでは凍りついている。動物の足跡がくっきり残っていたのはそのためだ。そう、まっさらな山砂の庭は、冬の朝は「砂浜」より「雪野原」に近い。雪上に足跡が残るように、砂の庭に足跡が残った。

 人間より早く、動物が庭に手を入れた。夏には庭を覆うクズも、チンアナゴのようにあちこちで頭をもたげてきた。庭づくりはそれら動植物を頭に入れながら進めないといけない。カミサンは花壇を、私は菜園をと、夫婦でも目指す方向が異なるから、“不可侵条約”が必要だ。
 
 カミサンは早速、キリの木の根元に瓦のかけらを敷き詰めた。私は震災後初めて、ドラム缶で庭の廃木材などを燃やした。3・11前はそうして草木灰をつくった。今は、草木灰として使えるかどうかを確かめないといけない。いやだねぇ。

2014年1月12日日曜日

日帰り新年会

 3連休の初日(1月11日)、1年先輩の「懇談の場」、つまりは新年会に後輩のF君とともに参加した。午後1時すぎから一次会=写真=が、同4時から場所を変えて二次会が開かれた。
 
 東京はJR飯田橋駅近く。いわきの感覚でいえば、いわき駅近くにある田町(飲み屋街)の一角で飲んでいるのと変わらない。が、さすがは東京だ。山手・総武・中央線の電車、駅、駅から会場までの人込みには圧倒された。
 
 いわき発午前9時19分の「スーパーひたち」で出かけ、上野発午後6時の「スーパーひたち」で戻った。日帰り新年会である。飲み代より足代が高いのがミソだ。特急で飲みに行っただけのかいはあった。

 福島高専に学んだ2期生8人と、3期(私)に4期(F君)の2人が顔を合わせた。F君とは2カ月ぶりだが、1年先輩の8人とは2年半ぶり~47年ぶりと親疎があるのはしかたがない。学生時代以来という人は、記憶がストップしたままだから、少年が急に老人になったようなものだ。なにか共通項を探すとしたら、それぞれが文学に傾倒していたことだろうか。

 ちゃんと卒業した者もいれば、途中で辞めた者もいる。社会に出てからはNHK職員、証券会社マン、地方議員、高校教諭として生き、学校の狙い通りにエンジニアとして歩んだ人間は少数だった。これに編集者(F君)、地域紙記者(私)を加えると、「高専文学部」出身者の集まりといったほうが早い。確かに8人は学生時代、詩を書いていた。

 同じ日、郡山市の奥座敷でも高専出身者の組織「專友会」の新年会が開かれた。私を含め2~3人が先約(こちらの会合)を理由にそちらを欠席した。

 定年退職後、大学に入学して国文学を学び、源氏物語を研究している先輩がいる。歌舞伎にも造詣が深い。今なお詩作を続けている先輩もいる。大規模半壊になって実家を建てなおした、親の実家が津波で流された、ふるさとの人たちは原発事故で避難を余儀なくされた――。先輩たちの「現在」に刺激を受ける一方で、あらためて3・11の傷の深さを感じないではいられなかった。

2014年1月11日土曜日

年寄り半日仕事

 家で飼っている猫がときどき舌を出す=写真。老いた証拠だとカミサンはいう。ネットで調べると、そうとはいいきれない。猫かわいがりをするカミサンがそばにいるので、緊張がゆるんでいるのかもしれない。毛づくろいに疲れたのかもしれない。
 
 人間は老いると、舌を出す代わりに口を開けて“コタツムリ”になる。コタツムリという言葉は、正月早々、中学校の同級生の娘さんに教えられた。こたつに入って“きどころ寝”(服を着たままの仮寝)をしている状態をカタツムリにたとえたのだろう。秀逸な比喩だ。
 
 そのコタツムリでも、半日くらいは仕事をする。いつも決まっているわけではない。が、住んでいる地域(行政区)の仕事、所属するいわき地域学會の仕事を軸に、春~夏は非常勤の仕事、秋~冬は年1回発行されるいわきの雑誌「うえいぶ」の仕事が加わる。カミサンの家業(米屋)の手伝いもある。
 
 で、半日はこたつをデスクにし、半日はコタツムリになって本を読んだり、きどころ寝をしたりしている。
 
 現役のころに比べたら、仕事の時間は半分になった。いや、時間的にはそうだが、自分と向き合っているだけなので能率、集中力はアップしている。朝から夕方までのフルタイム勤務のときでさえ、集中力を必要とする時間は限られていた。だらだらした時間帯があった。そのことを考えると(年金生活者だということもあるが)、集中して仕事ができる時間は半日、それで十分だと開き直っている。
 
 それを、プロスキーヤー・冒険家の三浦雄一郎さんは「年寄り半日仕事」と表現している。本のタイトルにも使っている。おととい(1月9日)、カミサンが新聞折り込みのタブロイド紙でこの言葉を見つけた。80歳でエベレスト登頂に成功したのは「ゆとりある日程」、つまり「年寄り半日仕事」を守ったためだという。
 
 ことわざだというが、『ことわざ大辞典』にはなかった。でも、いい言葉だ。コタツムリとともに、新しく頭の引き出しに入れた。カミサンもすっかりこの言葉を気に入ったらしく、ゆうべは、9時には「年寄り半日仕事」と唱えて寝室に引っ込んだ。このごろ、「お休み」するのが早い。半日しか体力がもたないという意味も、この名言にはあるようだ。

2014年1月10日金曜日

あや と まちこ 展

 40年余のつきあいがあるまちこさんが展覧会の案内状を持ってきた。娘のあやさんと1月25日から2月2日まで、東京・世田谷区赤堤のGARAGE・Bで2人展を開く。ギャラリーは小田急線経堂駅北口徒歩10分のところにある。ドライフラワーを使ったオブジェ=写真=を展示する。
 
 いわきでは1970年代、平の「草野美術ホール」をフィールドに、一気に美術が花開いた。10代~30代の表現者が次々に現れた。ホールの事務室は芸術論、文学論がとびかうサロンと化した。洋画の松田松雄、山野辺日出男、阿部幸洋、峰丘、陶芸の緑川宏樹、……。そのサロンの一員にまちこさんがいた。結婚後は精神病院で絵を教えた。ユニークな絵を描く患者の個展も実現した。本人は日本画風の作品を手がけていた。
 
 東日本大震災で原発がはじけた。人は、かつて経験したことのない災禍を生きなければならなくなった。その危機的状況とどう向き合ったらいいのか。答えのひとつが、社会を見つめ直し、自分を生き直す力ともなる創作に取り組むことだった。

 彼女とは別に、草野美術ホール時代は高校生だった人間も、3・11を契機に、四半世紀余にわたって中断していた表現活動を再開した。発災した年の夏、彼から突然、個展の案内状が届いた。危機バネが創作への衝動を生んだ。
 
 まちこさんは1年前にいわき芸術文化交流館「アリオス」の2階カフェで作品展を開いている。作品がドライフラワーのリースかアレンジメント風なのは、あやさんと始めた花屋の仕事が影響している。植物たちの色と形、におい、触感、その他もろもろから刺激を受けているのだろう。若いときには、自分の人生のなかで花屋をやるなどとは考えられなかったことだ。

 ふだんは、カミサンのところへ遊びに来る。用事で留守だった。久しぶりに青くさい話をした。草野美術ホール時代を思い出した。「オレは、このごろ自分のことを『19歳の老少年』ということにしている。大人になりきらない19歳のとき、最も深く悩み、考えたからなぁ。今、それが一番必要なんだ。あんたも『19歳の老少女』でいけよ」

 首都圏の方々、もし時間があれば、放射能の災禍に生きる福島の、いわきの人間の作品と向き合っていただけるとありがたい。

2014年1月9日木曜日

除染余話

「とにかくきれいにしてください」。事前の話し合いで除染業者にそう伝えていたから、文句は言えない。前にも書いたが、夏井川渓谷にあるわが隠居(無量庵)の庭が、のっぺらぼうの“公園”になった=写真。表土をはぎとったあとに山砂が投入された。道路や隣地との境にあったササヤブがきれいに刈り払われた。どこからでもどうぞ――そんな風通しのよさ、見通しのよさだ。

 無量庵は県道沿いにある。春にはアカヤシオ(岩ツツジ)の花が、秋には紅葉が対岸の斜面を彩る。この時期、行楽客が県道や一帯の小道を往来する。無量庵の庭にも現れる。家の中でくつろいでいると、「動物園のサル」の気分になる。で、県道沿いの立ち木の枝を支えに竹を渡して“柵”をつくり、ササヤブを適当に刈りこんで“生け垣”にした。

 除染の中身としては、表土を入れ替え、敷地内の草や折損木を除去するのが主だった。立ち木はせいぜい手の届く範囲を剪定しただけ。ササヤブは草として扱われたのだろう。“生け垣”が消えたために、人はなんのためらいもなく県道から庭へ下りられる。春には菜園を再開する予定だが、アカヤシオの花が咲く4月はまだのっぺらぼうのままのはずだ。開花前には“生け垣”の代わりに柵を設けないと……。
 
 これから、いわきの人口集中地区でも除染作業が行われる。その教訓になるかどうか。「庭の雑草と一緒に山野草まで抜かれた」といったトラブルなどが起きないように、ここはこうして、これは残して、あれは除去して――と、作業の前に敷地内のすべてをチェックすることだ。アフター(除染後)のイメージを業者と共有することだ。

 でないと、それまで庭に注ぎ、手をかけてきた“時間”と“物語”も、表土の入れ替え、草の除去と同時に失われる。

2014年1月8日水曜日

除染と積雪

 雪が積もると除染が難しくなる。正確な測定値が得られなくなるからだ。定点のモニタリング結果がそれを裏づける。おととし、平成24(2012)年2~12月の、いわき市小川地区の資料がある。測定値がグラフ化されている。戸渡(とわだ)地区だけは、欄外に「2月及び3月は積雪があります」と注が入っている=写真
 
 いわきは、面積だけは小豆島を除いた香川県といい勝負だ。市としての面積が日本一のころは、最も狭い県の香川とよく比較して論じられたものだ。東に太平洋が広がり、西に阿武隈の山々が連なる。そのため、東から西へハマ・マチ・ヤマの三層構造になっている。冬は晴れた日が多い。「サンシャインいわき」を自認するゆえんだ。とはいえ、ヤマは冬季、雪に覆われる。
 
 戸渡地区4カ所のうち、最も線量の高い「旧分校前」――。2年前の2月は毎時0.60マイクロシーベルトを切り、3月は0.70~0.80の間だったのが、雪が消えた4月には1.00を超えている。雪が土や水と同じように、放射性物質を遮蔽していた。
 
 セシウム134が2年余りの半減期を過ぎた今、「旧戸渡分校」は文科省のリアルタイム線量計で0.32台だ。昨年12月17日までは0.35前後で推移し、20日正午に0.28まで下がったあと、今の線量をキープしている。線量低減には雪が関係しているのかもしれない。
 
 阿武隈高地は冬、会津地方ほどではないが、地域によって銀世界になる。いわきの田人、三和、川前、小川といった山間部がそうだし、もっと北の田村市、葛尾村、飯舘村などがそうだ。
 
 除染作業に従事している知人と正月休みに茶飲み話をした。「飯舘村では除染作業が中断している」という。理由は積雪だ。葛尾村へ除染に通っていた別の人間も、今は楢葉町で仕事をしている。
 
 除染の遅れに住民はいら立ちを募らせている。福島県内の首長選で、かろうじて面目を保った相馬市を除き、現職落選が続いている。住民のいら立ちが現職批判となってあらわれたかたちだ。除染の遅れがこのまま続けば、4年後は当選組が同じ批判にさらされる。
 
 夏井川渓谷にある隠居(無量庵)で全体除染が行われたからいうのだが、除染には遅れだけでなく、内容についての不満・トラブルもある。作業を進めるにあたっては、事前にこまかく詰める必要がある。そのことはあとで。

2014年1月7日火曜日

初失敗

 玄関の松飾りは取りはずしたが、床の間には恵比寿・大黒の掛け軸と鏡もち、その他が飾られてある=写真。きょう(7日)は七草、「松の内」最後の日。いわき市内各地で早朝、「鳥小屋」のお焚き上げが行われたことだろう。

 鳥小屋は青竹を骨組みにして、シノダケやチガヤ、稲わらなどで囲った、正月だけの“アジト”。広さはざっと2間四方だろうか。7日早朝、火が放たれ、住民が持ち寄った正月飾りを燃やして無病息災・五穀豊穣を祈る。よその地域でいう「どんど焼き」だ。これでひとまず正月気分を払って日常に戻る。
 
 同じ現象・行為でも正月がくれば、「初――」「――始め(初め)」になる。初日の出、初売り、初もうで、初荷、書き初め、出初め式。仕事始めや初稽古もある。カメラマンなら初撮り、騎手なら初乗り、……。そうして年があらたまったことに感謝し、気分を一新する。
 
「初――」の例にならえば、その年最初の失敗は「初失敗」か。それが重なった。松の内の4日朝。台所から「ごはんですよ」と声がかかった。テーブルに陣取ると、「あら!」。炊飯器にスイッチが入っていなかった。笑ってごまかしながら「30分待って」という。

 同じ日。「カギがない、カギがない」と探し回っている。近所にカミサンのおじ(故人)の家がある。ときどき孫たちの遊び場になる。元日がそうだった。夫婦で孫を送り届けたあと、カミサンが後片付けをしてカギをかけた。そのカギがいつも置いてあるところにないのだという。

 午後、あるところへ夫婦で出かけた。カミサンがジャンパーを脱いで、若いスタッフと雑談を始めた。カギが消えた話になった。ピンときた。「このジャンパー、確かめたの?」。カミサンがポケットに手を入れるとカギが出てきた。本人は大笑いした。安心と同時に気恥ずかしさがわいてきたのだろう。

初失敗は伝染する。その日、私も日にちを勘違いしてあるところへ出かけてしまった。
 
 いよいよ半人前になってきた。二人いてやっとそれぞれが一人前。年の初めにあらためてそのことを自覚するのだった。

2014年1月6日月曜日

道路・鉄橋・鉄塔

 漫然と見ていた風景が、3・11後、一変した。何度も書いているものの一つに送電鉄塔がある。ドライブ中に遭遇すると、どこの電力会社の鉄塔なのか、気になる。

 夏井川渓谷の隠居(無量庵)へ行く途中、最初の坂を上りきったところに東北電力の夏井川第3発電所がある。もちろん水力だ。春にはソメイヨシノが赤い屋根と白い壁の瀟洒な近代建築物をつつみこむように咲く。

 県道小野四倉線とは夏井川に架かる木橋で結ばれている。その木橋の近く。まっすぐ伸びた県道の先に磐越東線の鉄橋(高崎桟道橋)が見える。真上の尾根には東京電力広野火力発電所の送電鉄塔が立つ。
 
 最近、この道路・鉄橋・鉄塔=写真=を、中央と地方の関係で見る癖がついた。川向かいの水力発電所を加えると、日本の近代化の歩みがこの風景には凝縮されている。
 
 道路(磐城街道)は明治時代、県令三島通庸(みちつね=1835~88年)によって整備された。磐東線は大正6(1917)年、平(現いわき)~郡山間が全通した。広野火発は昭和55(1980)年に1号機が運転を開始した。ちなみに、夏井川第3発電所が稼働したのは昭和6(1931)年だ。

 谷から尾根へと、垂直に明治・大正・昭和が並ぶ。道路と鉄道は、中央と地方の関係でいえば、地方と地方を結ぶ“肋骨”のひとつにすぎない。鉄塔は違った。肋骨道・鉄路をまたいで、対岸の三和町で原発の電力と合流し、首都圏へと尾根筋を南下していく。

 道路はしょっちゅう利用する。磐東線はめったに乗らないが、「おれらの鉄道」には違いない。鉄塔は? 住民の日常の外側にある。どこから来てどこへ行くのか、などとは原発事故が起きるまで考えたこともなかった。
 
 そのうえ――と、これは現役キャリア官僚が匿名で書いた小説『原発ホワイトアウト』を読んだからいうのだが、送電鉄塔のもろさが気になるようになった。

2014年1月5日日曜日

「二鷹」が来た

 きのう(1月4日)の午後、街へ出かけようとしたら、「ピッ、ピッ」とか「キッ、キッ」とかいう鳥の声が降ってきた。庭のカキの木からヒヨドリが飛び立った直後だ。音源を探ると、西隣のアパートの前、アンテナの上に鳥が止まっていた=写真
 
 ヒヨドリよりは大きく、カラスよりは小さい。ハト大だ。もしかして……。車から急いでデジカメを取り出す。逆光なので黒い塊にしか見えないが、モニター画面で拡大すると、くちばしがカギ形になっていた。猛禽! モズではない、チョウゲンボウだ。
 
 縁起のいい初夢は「一富士二鷹三茄子(いちふじにたかさんなすび)」。初夢どころか、本物の鷹がわが家の隣にやって来た。(オオタカやハヤブサではないところが、少しあれだが)
 
 ざっと1年前まで、毎日、夏井川の堤防を散歩していた。そのときに、何度かチョウゲンボウを撮影している。3・11後は、鳥どころではなくなった。単純に空をながめる、雲をながめる、川を、海を、山をながめる、ということが減った。朝晩の散歩時だけが、唯一、自然とつながる時間だった。体調を崩してからは、車で堤防を行き来するだけになった。
 
 その車で移動するだけなのに、最近はよくタカ類を目撃する。昨年11月初旬には双葉郡富岡町でオオタカらしい猛禽と出合い、同じ月の末には平の郊外でチョウゲンボウとノスリに遭遇した。そのあとも何度か、車の行く手に現れた。
 
 ワシ・タカ類は「百鳥の王」。食物連鎖の頂点に立つ猛禽をよく見かけるということは、そのえさが増えているということだろう。
 
 事故の起きた原発がある双葉郡では、人間が避難していなくなったために、大はイノシシ(イノブタ)から小はネズミまで、大繁殖しているという。オオタカやチョウゲンボウなどは小動物、とりわけ小型の鳥やネズミを狩る。ネズミが増えれば天敵も増える道理で、それがいわき地方にも波及して、タカ類をよく見かけるようになったのだろうか。
 
 そうではあるまい。そこまではいってないだろう。チョウゲンボウを「庭に来る野鳥」のように撮影できるのはうれしい。としても、自然と人間の関係が崩れた双葉郡の、阿武隈高地の自然環境にも思いをめぐらさないではいられない。

2014年1月4日土曜日

この1週間

 2013年から2014年へ。年末・年始(正月3が日)のこの1週間、わが家はつつがなく過ぎた。元旦と2日の朝は雑煮だったが、もちがのどに詰まることもなかった。

 一番の出来事は暮れの一夜、いわきキノコ同好会の総会・勉強会・懇親会のために、いわき駅に近い飲み屋街へ出かけたことだ。その店の壁面に独身時代からの友人、阿部幸洋(いわき出身でスペイン在住の画家)の絵が飾ってあった=写真。これも“事件”だった。

 一般の事件・事故はどうか。元日にドサリと届いた新聞は、2日は休刊だ。元日と2日に起きた事件・事故の報道は、活字としては3日になる。マスメディアその他の電子版に触れた人たちが、ツイッターでニュースを再発信してくれたおかげで、主な出来事を2日のうちに知ることができた。
 
 元日。午前中、いわきの70代の男性がもちをのどに詰まらせて亡くなった。夜10時前には、距離的にそう離れていない隣の地区で女性が電車にはねられて死んだ。3日の新聞とグーグルで推定すると、田んぼの間を流れる川に架かる鉄橋が現場のようだった。
 
 2日。カミサンの実家から帰る途中、子鍬倉神社(平)の下の道を通ったら、旧家の門が倒れかかっていた。すぐそばの路上に、ブルーシートに覆われているものがあった。ツイッターには情報がなかった。3日の新聞で、元日午前、車が門に激突したことを知る。家人は不在とかで事故処理が進まなかったのだろう、車にブルーシートがかけられていたのだ。神社へ初もうでに来て事故をおこしたものか。
 
 3日。人が集まると、もちの話でもちきりになった。年をとるとのどの筋肉が衰える。老夫婦だけの家庭では、もちを食べるときにはそばに掃除機をおかないと――若い人には「極論」に聞こえても、老いた人間には「現実」問題だ。

 さて、元日の新聞は1年で一番重い。正月広告を掲載するために100ページ前後になる。初売りなどの折り込みチラシも半端な数ではない。数えてみた。全国紙2紙、県紙1紙で折り込み数は計158枚、重さは2.15キログラム。1紙平均では約53枚、717グラムだった。元日としては多いのか少ないのか。前から調べていればおもしろいデータにはなったのだが。