2014年1月18日土曜日

歌会始と常磐線

 昨年(2013年)11月初旬、震災後初めて双葉郡富岡町を巡った。海沿いにある常磐線富岡駅は、電柱が傾き、折れ曲がり、線路がセイタカアワダチソウに覆われていた=写真。原発事故で全町避難が続いている。駅前の通りも、駅も津波に襲われたままの状態だった。

 今年の歌会始でいわきの渡辺三利さんの歌が佳作に入った。1月16日付の県紙で知った。渡辺さんは元JR東日本社員。記事によれば、3・11前の平成16(2004)年3月、原ノ町駅長を最後に退職した。
 
 退職の日の終電を見送りて静かに白き手袋を脱ぐ
 
 最後の列車を無事に見送った安堵感と、JRマンとして仕事を全うした達成感を歌に込めたという。
 
 その常磐線が3・11後、2カ所で寸断されたままになっている。おととしの歌会始には、元福島高専校長の寺門龍一さんが最年長で入選した。
 
 いわきより北へと向かふ日を待ちて常磐線は海岸を行く
 
 寺門さんの自宅は茨城県、校長官舎は平にある。かつて利用した常磐線の全面復旧を願い、併せて被災地の復興を祈って詠んだ。
 
 渡辺さんは退職後、駅ビル「ヤンヤン」を運営するいわきステーションビルに勤めた。いわき駅前再開発事業と連動して、主にペディストリアンデッキで駅と再開発ビルをつなぐ駅周辺再生拠点整備事業が行われ、「ヤンヤン」が解体された。その35年誌を出すことになり、古巣の新聞社を介して、若い人間と2人で編集を担当した。「ヤンヤン」側の責任者が渡辺さんだった。
 
 渡辺さんはわが家からそう遠くないところに住んでいる。本を出したあと、夏井川の堤防で顔を合わせたことがある。散歩コースが同じだった。
 
 新聞記事には、石川啄木に影響されて短歌や俳句を詠むようになった、とある。あの温顔は、穏やかな気質に、歌俳に必要な自然と人間の観察、内省を重ねて、人間としての慎み深さ、考え深さが加わった結果ではないだろうか。

 いわき~仙台駅間はざっと150キロ。事故をおこした原発をはさんで広野~原ノ町と、相馬~浜吉田間はまだ復旧のめどがたっていない。広野の北、楢葉町の木戸、竜田駅までは今春、運行が再開される予定だ。富岡駅は竜田駅の一つ先にある。

なんとしても常磐線の全通が待たれる。若い法曹家が提言していたが、常磐道の全通と無料開放も望まれる。浜通りの存続には仙台への直行電車・ルートが欠かせない。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

いわき駅は始発駅で終着駅だ。
父はよく平駅から下りを複線にすればともっと平は発展すると話していた。

いわきまでの常磐道と新潟までの磐越道が開通し、経済が発展すると期待された。

しかし、どうだろう?ヒトモノカネは出て行った感がする。

海を背にしたいわきへ人がやってくる魅力の磁石がなければ出るのは目に見えていた。

交流人口で活性化させると言ってもそもそも人が来なければカネも動かない。

それでも大正生まれの父はよく複線にすればと悔しそうな表情でささやかな夢を語っていた。

交通体系、時代が変わったと言えばそれまでだが、線路が初めから複線だったならば浜通りの位置も変わっただろう。

震災でいわきから出て行かざるを得なかった人と来ざるを得ない人、交通が遮断されても人の分断だけは創ってはいけない。