2014年1月31日金曜日

前副市長に聞いた

 まずは2011年3月29日付小欄<「シャプラ」がきた>の抄録を読んでいただきたい。今から2年10カ月前、震災から半月余がたった3月27日、日曜日のことを書いている。(副市長=写真=などの肩書はすべて当時のまま)
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 日曜日の27日午前、わが家にNGOの「シャプラニール=市民による海外協力の会」の副代表理事、事務局長、国内活動グループチーフの3人がやって来た。野菜の差し入れがありがたかった。カミサンがシャプラのいわき連絡会を引き受けている。いわきでの中期的な支援活動を考えているという。

 19日、北茨城市に入って防災ボランティアの活動を始めた。ボランティアが集まってきたので、次はいわきへ――いわき市の「うつくしまNPOネットワーク」と連携し、22、23日と避難所への救援物資運搬活動を展開した。

 北茨城からいわきへ活動拠点を移したのは、例の「原発事故」でいわきへのボランティアの足が止まっているからだ。短期から中期へ――次の戦略が必要になっている、そんな判断もある。

「シャプラ」としてなにができるか。いわき市社会福祉協議会の常務理事に会い、市市民協働課長のアドバイスを受けて、いわき市南部で復興のための活動を始めつつある「勿来ひと・まち未来会議」のリーダーに会いに行くことにした。旧知の人間だが、ケータイの番号などは知らない。

 ここは市勿来支所へ駆けつけ、支所長の知恵を借りるに限る。支所長と情報交換をしているうちに、地震・津波の災害現場を見て回った副市長が偶然、支所長室にやってきた。市のナンバー2の話は、シャプラニールが何をしたらいいか、大きな参考材料になった。

 やがて「未来会議」のリーダーとも連絡が取れ、津波被害に遭った海岸部で落ち合った。

「未来会議」のリーダーが「帰りに岩間と小浜を見て行ってほしい」という。大津波に壊滅的な被害を受けたところだ。道はと聞くと、「生活道路」だから立ち入り禁止にはなっていない。

 被災地に踏み込んで息をのんだ。分厚いコンクリートの堤防が破壊され、押し流された。堤防・道路・民家とつらなる海辺の風景は消え、大地がえぐられ、むき出しになっていた。小浜は海側の家並みが壊れて海がざっくり見えるではないか。

 そのあと、小名浜、永崎、中ノ作、江名と回って平へ戻った。超現実的な風景が延々と続いていた。あらためて被害の甚大さを思った。
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 おととい(1月29日)の夜、いわき市文化センターでいわきフォーラム’90のミニミニリレー講演会が開かれた。講師は、上記の抄録に登場する鈴木英司前いわき市副市長。「3・11東日本大震災いわき市の記録と記憶」と題して話した。中身はいずれ触れるとして、今回は2011年3月27日の副市長から受けた印象について記しておく。
 
 そのころ、市職員は文字通り不眠不休でコトに当たっていた。陣頭指揮を執る市長、副市長もそうだったろう。震災後初めて会った副市長は、いつもの明瞭なしゃべり方ではなかった。普通に話は通じるのだが、疲労が体の深いところまでしみこんでいるようだった。
 
 以来、“指揮官”はいつ、どのように休息を取ったのか――そのことが気になっていたので、質疑の時間に聞いてみた。それについてははぐらかされたが、3月27日に勿来支所へ現れたわけなどは率直に語ってくれた。要は職員の叱咤激励だった。
 
 シャプラニールの人たちと会って話したこともちゃんと覚えていた。今につながるシャプラニールの、いわきでの活動はこのときに決まった。私は前副市長の話から、あらためてそう思った。

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