2014年2月28日金曜日

PM2.5

 水曜日(2月26日)は朝、真っ先にフェイスブックでPM2.5注意喚起情報を知った。今は在宅ワークの身だから、用がなければ外へ出ない。不要不急の外出は避ける、外出時にはマスクを――午前中は、そんな心配をせずにすんだ。

 いわき市生涯学習プラザが同所で講座「はじめよう!ボランティア」を開いている。26日は4回目で、いわきで被災者の支援活動を展開している「シャプラニール=市民による海外協力の会」のスタッフが講師を務めた=写真
 
 シャプラのボランティア観、スタッフのボランティア歴を知り、いわきでのシャプラの3年間を振り返るいい機会なので、午後2時開催の時間に合わせて街へ出かけた。驚いた。街の西方に連なる阿武隈の山々が水墨画のようにかすんでいた。
 
 風はない。空気がよどんでいる。女子高校生がマスクをして歩いていた。その晩、わが家へやって来た友人もマスクをしていた。

 3年前の春、道行く市民は私も含めてあらかたマスクをしていた。大震災と原発事故がおきた。それこそ、不要不急の外出は避ける、外出時にはマスクを――という緊急事態になった。
 
 PM2.5は放射能と違って、「霞がかる」という現象を通して目に見える。それは西の山を越えてやって来る。
 
 今からざっと40年前、県といわき市は大気・水質汚染などの公害防止対策にやっきになっていた。対策が奏功し、公害は徐々に沈静化した。代わって浮上したのが地球規模での環境問題だ。放射能、PM2.5――“国際公害”があらためて意識にのぼってきた。

 行政によれば、PM2.5には排ガス、および硫黄酸化物・窒素酸化物・揮発性有機化合物などのガス状大気汚染物質が大気中で化学反応をおこし、粒子化したものがある。酸性雨の原因物質ではないか。きのうの夜、さっと雨が降った。いやな感じになった。

 肝心のボランティア講座の話は? それはまたの機会に。

2014年2月27日木曜日

内緒の選択

 交流スペース「ぶらっと」=イトーヨーカドー平店2階=で知り合った木村孝夫さんから、詩集『ふくしまという名の舟にのって』(竹林館、2013年12月刊)=写真=をちょうだいした。

 あとがきに「奉仕活動を通して傾聴した被災者の方々の気持ちや、毎日のようにニュースになっている原発事故の収束状況などを下地として、作品を書き上げている。今も原発周辺はそのままだ。汚染水問題もあって刻々と状況が変化している。作品はその状況の変化を、心の状況と照らし合わせながら書いている」とある。

 いわき市をハマ・マチ・ヤマで分けると、木村さんはマチの住人だ。東日本大震災と原発事故で「3日ほど避難生活と半月の水道供給停止を経験しただけで、二つの災害の影響をほとんど受けることがなかった。だから、今何かをしなければという思いが強い」。それが、詩でこの災禍を記録することだった。地震・津波の被災者や原発避難者の言葉に耳を傾け、胸の内を推し量る。

 <選択>の前半部はこうだ。「一年が過ぎると/老いの深まりが強くなった/三年目に入ると/新聞のおくやみ情報に古里の住所が載り始めた/仮設住宅の生活が長くなって/心の痛みが 切ないね/と 呟く日が増えてきた//もうここまでと/線引きし/戻らないと決めた日には/夜遅くまで泣いた」
 
 原発事故でふるさとを追われ、いわきで応急仮設住宅に住む人の気持ちを詠んだ。最後の4行、「心の中で壊れていくものが渦巻いている/選択とは/葛藤を切り刻んでできあがる/切ないものなのだ」が胸に突き刺さる。
 
 <内緒>に選択の一つが描かれる。「内緒ですよ/と 耳もとで囁く/いわき市に家を買いました/同郷の人には/まだ内緒ですが/いわき市民になりました//仮設住宅の生活に疲れ/ストレスで亡くなる方もいて/私も主人も病院通いの日々です/狭い部屋の中では/新鮮な呼吸をすることもできずに/肺も体も/だいぶ小さくなりました」
 
 次の連。「古里を見捨てたようで/心苦しいのですが/新しい住所を泣き泣き買いました/老後のすべてが/吹き飛んだ日のことを忘れない/という条件付で//契約書に/新たな条件を添え書きしたとき/主人の手が震えていました/重いものなのです/新しい場所で新しい生活を始めることは/それでも選択しました」
 
 同じような選択をして東京に家を求め、借り上げ住宅から間もなく引っ越す人がいる。移住を同郷の「友達にもいわないの」という。いわきに避難しても、市民とは没交渉の日々。まるで最初からそこに存在しなかったかのように、ひっそりといわきから姿を消す。

 原発事故はコミュニティを破壊し、家族を分断し、友愛を切り刻む。<ふくしまという名の舟>にのっているのは、放射能という悪霊に苦しみ、翻弄されている人々の魂だ。

2014年2月26日水曜日

BS放送

 2009年秋に同級生と還暦を記念して“北欧修学旅行”を敢行した。スウェーデンに住む旧友に会うのが目的だった。その足でノルウェーのフィヨルド=写真=を観光した。デンマークの人魚姫にも会った。
 
 旅先での感動が忘れられず、その後も台湾、ベトナム・カンボジアと同じ仲間で出かけた。余韻がずっと続いているというべきか、BS放送の旅番組をよく見る。地デジの番組がつまらなくなった反動でもある。団塊の世代の多くは、そうしてBSにチャンネルを切り替えているのではないか。
 
 電通が先ごろ、「2013年 日本の広告費」を発表した。インターネット関連だけでなく、衛星メディア関連の広告費が伸びている。背景のひとつに「BSは『中高年層』を中心に、視聴の習慣化が進展し、CS、CATVは『富裕者層』を中心に視聴者層が拡大」している、とある。後半部分は知らないが、前半部分は容易にうなずける。
 
 晩酌が始まると、BSの番組をチェックする。ニュースの時間でも、旅か自然の番組を選ぶことがある。「また北欧!」「また台湾!」「またベトナム・カンボジア!」「また自然!」。必ず甲高い声が響く。ときには、機嫌を取るためにカミサンの好きなフランスかイタリアの番組にする。
 
 日曜日(2月23日)夜7時。BSジャパンの「ヨーロッパ水風景」を見た。「またノルウェー!」だ。女優の原沙知絵さんが旅人になって、ノルウェーの北極圏最大のまち・トロムソを散策し、オーロラや郷土料理を楽しんだ。トロムソまでは行かなかったが、フィヨルドの荘厳さは画面からも伝わってきた。
 
 北欧で飲まれている強酒アクアビット(ジャガイモの蒸留酒)の銘柄リニエが出てきた。ネットで調べたら、蒸留酒を樽で熟成したものだという。黄金色をしている。港町ベルゲンの世界遺産・ブリッゲンのレストランで、同級生がなめて上機嫌になったアクアビットは、これだったか。
 
 アクアビットはラテン語の「アクアヴィテ」(命の水)からきているとか。ウイスキーも、ウオツカもそれぞれの言語の「命の水」が語源らしい。ついでに調べたら、フランス語で水は女性名詞だが、ワインは男性名詞(ウイスキーも)だ。
 
 そのへんからの飛躍――酒の語源として、「薬=命の水」という面はあったが、いつしか男どもの勝手な解釈が、カミサンに対する言い訳が広く浸透して、「酒=命の水」に切り替わったのではないか。「命の水」が血管をめぐるなか、旅番組から刺激を受けて痴的な空想を楽しんだ。

2014年2月25日火曜日

悩みは深めるもの

 田村市の実家へ行くタイミングをはかっているうちに、大雪になった=写真。阿武隈の山を越えるのはしばらくあきらめるしかない。そこへ、近所の人の訃報が入った。ふんぎりがついた。実家が床屋なので、盆や正月などに帰った折、兄に散髪をしてもらっている。今度だけは葬式に間に合わない。近くの床屋さんの世話になった。
 
 頭はとっくに密林から疎林に変わっている。で、年に2回ていど“剪定”するだけで間に合う。が、半年近くたつと後ろ髪が「酒場放浪記」の吉田類さんのようになってしまう。その髪がカットされてすっきりしたのはいいのだが、首筋が急に寒くなった。前よりよけいマフラーが離せない。
 
 そんなときに限って小事がとびこんでくる。外を駆けずり回らないといけなくなる。
 
 土曜日、家の前のごみ集積所に古新聞が何束か出された。きのう(2月24日)は可燃ごみを収集する日なので、ついでに持っていくかと思ったら、やはり残された。だれが出したかはチェックしてわかっている。家を訪問して出したことを確かめ、すぐ引っこめてもらった。
 
 ごみカレンダーによれば、わが地域の2月の古紙回収日は前日の金曜日だった。3月は土曜日の22日。ルール違反というより、3月の収集日と勘違いして古新聞を出してしまったのだろう。首筋はスースーしたが、一件落着で気分は軽くなった。
 
 震災直後、双葉郡の原発避難者がいわき市で暮らすようになり、ごみの出し方をめぐってさざなみが立った。生ごみがカラスにつつかれ、路上に散乱して不衛生――これが一番の問題だった。今はだいぶ落ち着いてきた。生ごみは外から見えないように出してください、といった張り紙も、少しは効果があったようだ。
 
「郷に入れば郷に従え」で、そこに住む以上はそこのルールを守るのが原則。守らないからと言って排除すれば、事態はかえって悪くなる。地域で共に安心して暮らす――こちらに力点をおけば、エネルギーはつかう。摩擦も起きる。悩ましい。いや、悩みは深めるもので超えるものではない、根を生やしていようといまいと隣人に違いないではないかと、駆けずり回って寒くなった頭で自分を叱咤する。地域の「安心」は「排除」では得られない。

2014年2月24日月曜日

豆本の魂

 手元に豆本が1冊ある=写真。いわきの阿武隈の山中で農林業を営みながら、短歌・詩・俳句を詠み、小説・評論を書き続けた故草野比佐男さん(1927~2005年)の詩集『老年詩片』だ。

 詩集『村の女は眠れない』で知られる草野さんが昭和61(1986)年、ワープロを駆使して限定5部の『老年詩片』をつくった。秋には、秋田から同じ内容の豆本が出た。両方を草野さんからちょうだいした。どこかにまぎれていたのが、3年前の震災で出てきた。

 詩集には20篇の作品が収められている。老いの繰り言にひっかけた「辺境の頑民」(作品十八)のことばがつづられる。

 いわき総合図書館で企画展「“豆本”小さな本の世界」が開かれている(5月25日まで)。勿来高校から同図書館に<緑の笛豆本>323冊が寄贈された。なぜ県立高校から? その説明がほしいところだが、新聞記事を読んでもよくわからない。

 企画展のリーフレットによれば、展示されている豆本は青森県弘前市の蘭繁之という人が刊行した。草野さんのそれは、秋田県大館市の藤島和義という人がつくった。<長木野の本・第13巻>と表紙にある。サイズが少し違う。緑の笛は縦10センチ・横8センチ、長木野は縦9センチ・横6.5センチ。草野さんの豆本の方が小さい。

 企画展に触発されて『老年詩片』を読み返した。「作品十三」を記す。「今朝は新聞の<幸い>という字を/いみじくも<辛い>と読みちがえた」(作品一)ような老眼になり、震災と原発事故を経験した「おじいちゃん」たちの、孫を思う気持ちに通じるものがある、といってもおかしくない。

 おじいちゃん……一歳と五か月の梨沙が電話のむこうで
 おれをはじめてそう呼んだのだ
 片言の幼い声をはにかみにくぐもらせながら
 いまのいま たしかにそう呼んだのだ
 
 だが しかし 温かく涙ぐましく立ちまよう感情の靄は
 やがて一挙に吹き散らされる
 人類のゆくてにまがまがしくひしめく核の
 突然の爆発に 世界の阿鼻叫喚に
 
 ああ だから おれはまだまだ死ねないのだ
 柔らかな癖毛の髪がおれに似るこの子のために
 みなごろしの思想に逆らいつづけるために
 
 おじいちゃん……おれをはじめてそう呼んだ声が
 東京からではなくて十年二十年さきから
 助けを求めるようにもきこえたのだ
 
 チェルノブイリ原発事故の直後に詠んだ詩と思われる。「一寸の虫にも五分の魂」ではないが、豆本の、単独者の魂が息づいている。

2014年2月23日日曜日

寺のたくあん

 ある寺の奥さんがたくあん=写真=を持ってきてくれた。毎年というわけではないが、この十数年の間に何回か、たくあんの恵贈にあずかった。大震災後は初めてだ。暮らしの“復興たくあん”と呼びたくなるような新鮮さだった。真空パックに入っていた。

 私が地域紙の記者をしていたころ、漬物がないと食が進まないようなことを、コラムに書いたのだと思う。スポンサーでもあったので、社員が寺を訪ねたところ、「かわいそうだから、記者さんにやって」と、奥さんからたくあんを託された。ありがたくちょうだいした。

 わがカミサンとはすでに知り合いだったが、「かわいそうな記者」がその夫だとは知らない。私も、奥さんがカミサンと茶飲み話をする間柄であることを知らない。間もなく、バラバラだった点と線がたくあんでつながった。

 2001年9月11日。いやでもその日のことを思い出す。夜、いわきフォーラム’90主催のミニミニリレー講演会が開かれた。奥さんが寺の1年について話した。カミサンが講師をお願いした。
 
 帰宅してテレビをつけると、ニューヨークの超高層ビルに旅客機が激突する映像が飛び込んできた。同時多発テロの最初の事件が起きたのは、アメリカ東部時間で9月11日午前9時前。日本では夜の11時すぎだった。
 
 寺の奥さんの話になると、反射的に9・11の映像が思い浮かぶ。たくあんをかじりながら、最初にちょうだいしたのは、だから9・11の前だった――などと、意味もないことを考えたり、思い出したりした。

2014年2月22日土曜日

光は春、風は冬

 いわきの平地では、先日の大雪がすっかり解けてなくなった。風がやめば、明るい春の光が降りそそぐ。わが家の庭のスイセンも、間もなく花を咲かせることだろう=写真。とはいっても、このところ雪が降り、寒風が吹きつのって、つぼみのままの状態が続いている。

 近所の家では、師走のうちに庭のスイセンが咲いた。日本画家でもある奥さんが手折って持ってきてくれた。

 暖冬だったのが、立春を迎えて一変した。ドカッと雪が降り積もった。寒い春になった。4日に雪が降り、8日にも、14~15日にも雪が降り、平地では雨になって道端の雪を解かした。

 それからきょう(2月22日)で1週間。人に会えば雪の話になる。東京の西の方ではまだ校庭に雪が残っている、とKさん。阿武隈高地の川内村でも、いわきに近い国道399号沿いの山中で養鶏業を営む風見さん夫妻は雪で閉じ込められた。きのう、平のスーパーで会った奥さんは「孤立」ということばを強調していた。
 
 阿武隈の山中を南北に縦断する国道399号はアップダウンがきつい。いわき分はやっと除雪が済んだところらしい。風見さんの家はその国道からさらに山の中へ入ったところにある。道に60センチほど雪が積もった。奥さんは買い物にも出られなかった。
 
 この欄で何度も言っているが、いわきを見る“物差し”がある。ハマ・マチ・ヤマの3層構造だ。市域面積の6割は中山間地(ヤマ)だが、そこに住む人は7%にすぎない。いわきの人口は平地、なかでもマチに集中している。そのため、マチの文化や風土がいわきを代表するものとしてとらえられがちになる。
 
 典型が氷柱(つらら)だ。いわきのヤマでは冬、屋根に氷柱ができる。ところが、平地ではめったに見られない。阿武隈で生まれ育った私は、子供のころ、長い氷柱を棒でたたきこわし、かじったり、なめたりした。
 
 いわきのマチの光は春でも、ヤマの風はまだまだ冬だ。同じいわき市でも、雪とたたかっている人たちがいることを忘れてはいけないと、自分に言い聞かせる。

2014年2月21日金曜日

移動図書館車

 移動図書館「いわき号」が新しくなった=写真。緑の山、青い海に黄色い空の外装デザインが、緑色の山とビル、クリーム色の空に変わった。市の鳥「かもめ」のマスコットキャラクター「ミュウ」はそのまま。いわき市立図書館のHPによると、新「いわき号」は前より一回り大きい。車内も明るい。

 カミサンが店舗兼住居の一角を地域文庫として開放している。そのため、月に一度、「いわき号」が隣のコインランドリー駐車場にやって来る。30分ほどとどまり、図書の貸し出し・返却が行われる。スタッフは女性2人。すっかり顔なじみになった。
 
 広域都市・いわきには移動図書館車が2台ある。「いわき号」と「しおかぜ」だ。「いわき号」は夏井川流域を主に、北部の67カ所を月に12日間かけて巡る。「しおかぜ」は鮫川流域を主に、南部の61カ所を同じ日数をかけて回る。
 
 平日、夏井川渓谷の隠居(無量庵)へ出かけたときなど、渓谷の上流・川前の小・中学校、保育所へ向かう「いわき号」に遭遇することがある。図書館をブドウの木にたとえるなら、移動図書館車はクラスター(房)に知の栄養を届けるツルのイメージだろうか。
 
 わが地域では住民のほか、震災後、近所に避難してきた双葉郡の人も「いわき号」を利用する。
 
 いわきの図書館は前から隣接市町村民にも開放されている。茨城県北の高萩、日立、常陸太田市とは、隣接の北茨城市を含めて相互貸出ができる。隣接町村ではないが、原発事故でいわきに避難している人も、支援のために3カ月以上市内に滞在している人も、図書館を利用できる。
 
 休館日が少なく、開館時間が長い――かつて図書館の整備構想策定にかかわった一人として、いわきの図書館行政の質の高さを、私はひそかに誇りに思っている。

2014年2月20日木曜日

交流サロンフェスタ

「春の交流サロンフェスタ」が3月1日(土)、いわき市生涯学習プラザで開かれる。B4判のPRチラシ=写真=を見て、ちょっと驚いた。主催が福島県いわき地方振興局になっている。

 県には「地域づくり総合支援事業(サポート事業)」がある。市民団体などがまちづくり事業を展開するときに助成金を出して支える制度だ。各振興局が窓口になってサポートする事業を決める。その制度が頭に入っているから、NPOが企画しそうな事業を振興局みずからが行うことに「へぇ」となった。

 震災後、市内外のNPO、原発事故のために双葉郡から避難している町や社会福祉協議会が、いわき市内に交流サロン(スペース)を開設した。

 チラシによれば、交流サロンフェスタにはNPO、社協、行政など16団体が参加する。お笑いライブ、フラダンスとマジックショー、ゲーム、涙活などの関連イベントもある。プラザの道路向かい、平一町目公園では赤飯(富岡町)・なみえ焼きそば・マミーすいとん(楢葉町)が販売される。

 NPO関係では、合同で情報紙「一歩一報」を出している、交流スペースぶらっと、小名浜地区交流サロン、なこそ交流スペース、パオ広場の4団体のほか、園芸療法園芸福祉協会、フクシマ環境未来基地が参加する。

 富岡町、いわき市・広野町・楢葉町各社協、おだがいさま工房IWAKI(富岡町社協)、好間工業団地内にある大熊町の第二仮設もみの樹サロン・第三仮設サロン、サポートセンターひだまり(双葉町社協)、広野町の常磐仮設手芸クラブ、なみえ絆いわき会も参加する。

 福島県の浜通り南部に位置するいわき市と双葉郡は、3・11以来、“運命共同体”としての道を歩まざるをえなくなった。住民レベルでは垣根を越え、手を取り合いながら前へ進むしかないのだ。市ではなく、県の振興局がフェスタを主催する意味合いもそこにある。

 チラシの裏面は「交流サロンMAP」で、市内にあるサロン(スペース)の所在地を掲載した。まちの交流サロン「まざり~な」の店舗も併載している。「まざり~な」事業を展開しているNPOを後押しするかたちになった。チラシからは、「官民協働」とでもいうべき言葉が浮かび上がってくる。

2014年2月19日水曜日

求愛ダンス

 ソチ五輪の男子フィギュアスケート=写真(2月14日、NHK)=が始まるのと同時に、たまたま、いわき総合図書館から『言葉の誕生を科学する』(河出書房新社、2011年4月刊)を借りて読み始めた。作家の小川洋子さんが科学者の岡ノ谷一夫さんに話を聞くというかたちの対談本だ。フィギュアスケートの高橋大輔に言及するところがある。

 本の内容は、カバーの折り返しにある惹句に集約されている。「鳥はなぜうたうのか? 鳥がうたうのは、求愛のため、繁殖のためである。しかし、そのことで鳥の歌は次第に複雑になっていった。人間は、なぜ言葉を話しはじめたのか?」

 岡ノ谷さんは、人間の言葉も小鳥のようなものから進化してきたのではないかと考える。「言語の歌起源説」だ。鳥がうたうように、人間の先祖もうたっていた。そして「ある時『歌』から『言葉』へと、大いなるジャンプをなしとげた」。

 NHKの「ダーウィンが来た!」や、BSプレミアムの「ワイルドライフ」をよく見る。とりわけ印象に残っているのは、“あずまや“をつくるオーストラリアのオオニワシドリと、パプアニューギニアの森で“友達の輪”をつくる極彩色のフウチョウ(極楽鳥)だ。超絶の技巧というほかない。

 震災後、フラダンスを踊る女性と知り合いになった。踊りと衣装を間近に見ているうちに、フラダンスはハワイの鳥たちの歌と求愛ダンスに触発されて生まれたのではないか、と思うようになった。『言葉の誕生を科学する』を読んでさらに意を強くした。

 小川さんがいう。「私はフィギュアスケートをよく見るんですが、高橋大輔の滑りなど、あれはもう典型的な求愛ダンスではないかと思うんです」。岡ノ谷さん、「あ、もちろんそうです」。

 根源的には鳥の求愛ダンスにも通じる――そんな視点を加えて、男子フィギュアスケートを見た。羽生結弦が金メダル、町田樹が5位、高橋が6位。羽生の“求愛ダンス”は、円熟というよりはダイナミックで若々しいものだった。
 
 フィギュアスケートが鳥の求愛ダンスの名残なら、スキーのジャンプは鳥そのもの、ワシ・タカ類のように空を舞いたいという願望が生み出したものではないか。バレエもまた、重力から軽々と離脱して飛び回る鳥の飛翔に触発されたものではないか――。たまたま同時進行的に読んだ本のおかげで、そんなことにも思いが及んだ。遅まきながら、ソチ五輪が少し違って見えてきた。

2014年2月18日火曜日

大根の浅漬け

 白菜漬けが切れるので、次の白菜漬けができるまで、大根=写真=の浅漬けでつなぐことにした。日曜日には白菜を買いに三和の直売所へ行ってみるか――。それどころではなくなった。2週続けて週末、大雪に見舞われ、阿武隈高地から中通りでは交通網が寸断された。

 2回目は、いわきの平地では大雨になった。雨が道路や田畑の雪を解かした。低気圧一過の日曜日(2月16日)午後、海岸部にある直売所へ出かけた。防風林の近く、枯れ田の間を貫く農道沿いにビニールハウスがある。そこが直売所。白菜はなかった。白菜の出荷時期は過ぎたという。しかたがない、2本で150円の小さな大根を買った。

 カミサンは三和の直売所へ行きたがっていた。まちに雪がなくても、山頂の冠雪は水石山だけだとしても、山あいの三和には雪が残っている。中通り~浜通りの、阿武隈越えの物流が寸断されているではないか。新聞が来ないのはその一例ではないかといっても、なかなか想像力がはたらかない。
 
 車が四駆のパジェロで、全天候型の大きなタイヤをはいていたときには、確かに冬でもよく夏井川渓谷や、阿武隈高地の山の向こうへ出かけた。フィットではそうはいかない。
 
 直売所で大根を買ったあとは、小名浜まで海岸部をドライブした。風がビュービュー吹いていた。港で昼飯を食べ、鹿島街道の本屋へ寄り、平の交流スペース「ぶらっと」をのぞいてから帰宅した。街なかに、雪で食材が入手できず臨時休業をする旨、張り紙をした食堂もあった。
 
 すぐ大根を1本、せんぎりにして浅漬け容器に入れ、塩を振ってかき混ぜ、重しをかけた。わが家の食卓には漬物が欠かせない。白菜漬けのつなぎであれなんであれ、これでひとまず漬物が確保できた。すると、なにか落ち着いた気分になった。この1週間余、雪の影響もあって仕事が手につかなかったが、ほんとうは白菜漬けが底をつきそうだ、浅漬けをつくらなければ――と追い詰められていたのかもしれない。

2014年2月17日月曜日

1週間前のテレビ欄

 2週続けて週末、大雪に見舞われた。2回目は、いわきの平地では暴風雨に変わり、阿武隈高地から中通りでは記録的な大雪になった。交通と流通がマヒした。きのう(2月16日)朝、新聞が届かなかったのはそのためだ。

 けさは起きるとすぐ、新聞が届いているかどうかを確かめた。届いていた。きのうの新聞もはさまっていた。おわびの社告=写真=と折り込みチラシを読む。

「記録的な豪雪により、仙台の印刷工場から各新聞販売店まで新聞を輸送することが不可能となり、……」。朝日は、社告より販売店のチラシの方がわかりやすかった。福島民報は「16日付の朝刊は、4ページのダイジェスト版にまとめ、本日17日付朝刊と一緒に配達致しました」。きのう、おわびチラシを折り込んだ読売は、ちゃんと「昨日朝刊は本日分とあわせて2部配達させていただきます」といっている。ダイジェスト版はないだろう。

 さて、新聞が来なかった日のひとコマ――。きのうの日曜日は昼すぎに出かけて、夕方、帰宅した。太陽が西に傾くころには雪に阻まれていたトラックも動いて、新聞が届いているのではないか。販売店の意地とがんばりを期待したが、そうは問屋は卸してくれなかった。宵になってもテレビは中通りでなお交通がマヒしていることを告げていた。
 
 日曜日の宵は少し早めに晩酌を始める。「笑点」(5時半)、BSプレミアム「軍師官兵衛」(6時)、ローカルニュース(6時45分)、全国ニュース(7時)を見て、あとは新聞のテレビ欄で番組を選ぶ。
 
 ところが、ゆうべはその新聞がない。予定された休刊日であれば、テレビ欄は2日分入っている、しかたがない、1週間前の日曜日の新聞を引っ張り出して、番組名を参考にしながらテレビをサーフィンした。大雪による急な新聞の不配でなにが困ったかといえば、テレビ欄が見られないことだった。

2014年2月16日日曜日

雪とソチ五輪と新聞

 きのう(2月15日)のテレビは、金メダルを取った羽生結弦=写真(2月14日・ショートプログラム、テレビユー福島から)=でもちきりだった。未明の生中継を見た知り合いはだれかに感動を伝えたかったのだろう、会うと、羽生のフリーの演技を事細かに解説してくれた。

 年寄りには、真夜中のテレビ視聴はこたえる。いつもの時間に寝て、起きて、食べて、飲んで、また寝て――という一日のサイクルを崩したくない。一方、知り合いの仕事(除染作業)は天気次第。雪で1週間も休みが続いている。おかげで、テレビでソチ五輪を楽しんでいる、というわけだ。

 ソチと日本との時差は5時間。ソチでも結構遅い時間に競技が始まる。割を食っているのが新聞だ。日本時間で未明の闘いの結果が載るのは翌日。テレビからまるまる一日遅れとなる。羽生の金メダルが決まった時間帯に届いた新聞には、前半のショートプラグラムの記事しか載っていない。気の抜けたビールと同じで、「古い情報」はおいしくない。
 
 きのうの南岸低気圧は、いわきの平地には雨を、阿武隈高地には雪をもたらした。雨が雪を解かしたために、わが家と街を結ぶ幹線道路からはほとんど雪が消えた。しかし、ツイッターやフェイスブックの情報では、内陸部や山間部は雪に苦しめられている。川内村では大雪のうえに停電に見舞われた、中通りからいわきへ帰れず、急きょホテルに泊まった、という知人の情報もあった。
 
 この雪の影響だろう、けさはまだ新聞が来ない。午前6時現在では、袋詰めにされた全国紙の日曜版と折り込みチラシだけ。同7時半現在では、同じく袋詰めにされた全国紙の日曜版(タブロイド紙)と折り込みチラシ、折り込まれるはずだった広告チラシのみ(県紙)が来た。
 
 日曜版とチラシは前日までに販売店に届いている。なによりカネをもらっているチラシは、配らないわけにはいかない。全国紙の一つにおわびのチラシが入っていた。「昨日からの豪雪の影響で輸送状態が極端に悪化し、本日の朝刊が販売店に届かない事態となりました」

新聞本体が届かないのは大震災のとき以来だ。新聞とともに暮らしてきた人間には、新聞のない朝はなんとも落ち着かない。

2014年2月15日土曜日

天気予報に従う

 きのう(2月14日)のいわき地方は天気予報より早く、午後2時ごろには雪が降り始めた。わが家の庭にあるジンチョウゲの葉も、赤い粒々(つぼみ)も、すぐ湿った雪をかぶった=写真。夕方には雪がやんだ。夜になって風が吹き始めた。けさは雨と風とで大荒れの天気だ。暴風・波浪警報、大雪・雷・なだれ・着雪注意報が出ている。

 1週間前の大雪が頭にあったせいだろう。またまた週末に南岸低気圧が発達しながら東進する、大雪・強風になる――という予報が出たので、きのう早朝、いわき地域学會の仲間と連絡しあいながら、二つの集まりの延期を決めた。前回は天気予報が当たった。ここは天気予報に従うのが一番だ。

 きのうの夜は、新しい調査・研究事業に関する会議が予定されていた。きょうは午後、月1回の市民講座と2カ月に一度の役員会を開くことにしていた。市民講座・役員会は1カ月遅れの3月第3土曜日、15日に延期した(事務局長がきのうのうちに動いて会場=市文化センター視聴覚教室を確保した)。

 市民講座は、地域学會の会員のほかに常連の市民がいる。事務局長にできる範囲で延期の連絡をとってもらった。早い段階で開催を告知してくれたいわき民報にも連絡し、延期の記事を書いてもらった。

 仮に市民講座の時間帯に天気が回復したとしても、交通マヒや雪による転倒事故、その他予測できないことが起こり得る。こんな日には、静かにシェルター(家)で低気圧をやり過ごすことだ。最近の強風は狂風になり、凶風になる。冬~春先の低気圧は、いわき地方では台風より怖いのだから。

2014年2月14日金曜日

ベルリンでの詩と写真展

 おととい(2月12日)夕方、ドイツからエアメールが届いた。ん、だれから? 封筒に入っていたのは横長の展覧会案内1枚だった=写真。表裏にドイツ語で何か印刷されている。唯一の英語は「アウト・オブ・サイト」、唯一の日本語は「ベルリン日独センター」だ。

 案内状と同センターのHP(日本語版)からわかったのは、フランス人でロンドンに住む若い女性写真家、デルフィーヌ・パロディ=ナガオカさんが2月18日から3月28日まで、ベルリン在住の芥川賞作家多和田葉子さんと2人展を開く、というものだった。

 デルフィーヌさん、いやデルフィーヌでいこう。彼女とは震災1年後の2012年5月中旬、イトーヨーカドー平店2階にある被災者のための交流スペース「ぶらっと」で出会った。彼女が案内状を送ってきたのだろう。

「ぶらっと」は<シャプラニール=市民による海外協力の会>が開設した。現地採用スタッフ3人のうちの1人、双葉町からいわき市に原発避難をしているRさんに、デルフィーヌが写真家として反応したらしい。Rさんの自宅(アパート)の前で写真を撮りたい、という申し出をRさんが受けた。

「ぶらっと」ボランティアの一人、英語が堪能なTさんがその後の彼女の写真取材を支えた。Tさんを介して、われわれ夫婦も彼女と親しくなっていった。

 彼女がいわきを拠点に被災者・避難者の取材を重ねて1年が経過したころだろうか。作家の多和田さんと、写真と詩のコラボレーションをすることになった、とTさんから聞いた。多和田さん自身も昨年の8月、Tさんの案内でいわき・双葉郡、その他の土地を巡った。Tさんの誘いで多和田さんを囲んで食事をしたこともある。

 雑誌「ミセス」に連載しているエッセー(11月号)で、多和田さんはそのときの印象をこう記した。「あの黒い袋の中の物質は何千年たっても子供たちを癌にするかもしれない。(中略)とんでもないもの、手に負えないものを無責任にこの世に送り出してしまった人間のとりかえしのつかない過ち。福島への旅は、わたしにとっては、これまでで一番悲しい旅だった」

 2人のコラボレーションがベルリンでの詩と写真展「アウト・オブ・サイト」になった。直訳すれば「視野の外」。見えない世界、見えなくなったふるさと、見えない放射能……、そんなことをテーマにしているのだろうと、私は勝手に想像する。

 そうそう、デルフィーヌが「いわきの森林を見たい」というので、晩秋、彼女を夏井川渓谷のわが隠居(無量庵)へ招待したことがある。Tさん母娘と一緒にやって来た。紅葉の渓谷林を案内したときのカメラアングル、シャッターチャンスが、私とまるきり違っていた。さすがは写真家、と感じ入ったものだ。

 デルフィーヌがいわきと双葉郡の人と自然を写真でどう表現しているのか。多和田さんがそれに対してどう詩で交感しているのか。

ベルリンがいわき市の隣まちだったら、毎日でも展覧会場へ出かけるのだが、それはかなわない。ならば、いわきで同じ展覧会を――。そう念じつつ、18日からの展覧会の成功を、極東の片隅から祈ることにしよう。

2014年2月13日木曜日

阿武隈の冬の話

 暖かい冬がすぎたら、寒い春がきた。

 2月3日の節分の日に、夏井川渓谷の隠居(無量庵)へ出かけた。生ごみを堆肥わくに埋めるのが目的だった。1月下旬~2月上旬はいわきの厳寒期。渓谷の滝の凍結具合で寒さの程度がわかる。籠場の滝の直下、岩盤にはしぶき氷がほとんどなかった=写真。厳冬には全面にしぶき氷が張りつく。今年は暖冬だったと知る。その翌日、立春に雪が降り、週末には記録的な大雪になった。いわきも鉄道・高速道・一般道すべてで交通がマヒし、混乱した。

 祝日の11日午後、イトーヨーカドー平店にある交流スペース「ぶらっと」へ行くと、休日ボランティアのIさんがいた。仕事の関係で阿武隈高地の飯舘村からいわき市に避難している。大雪に刺激されて阿武隈の冬の話になった。私も同じ阿武隈で育ったので、ついついいわきの平地との比較になってしまうのだった。

 阿武隈は冬、会津ほどには雪は降らないが、かなり冷え込む。真冬は、毛布か何かで覆って寝ないと、寒気で顔が痛くなって目が覚めてしまう、とIさん。確かに、手ぬぐいでほっかぶりして寝る、という話を昔聞いたことがある。農家は造りが大きいから、夏は涼しい代わりに冬は寒い。囲炉裏で暖を取っても、暖かいのは前面だけ。綿入れ半天を着ないと背中が風邪を引く。6、7歳のころの体験だが、背中の寒さをきのうのことのように思い出すことができる。

 小さいころにはよく手に霜焼けができた。水の張った田んぼが凍ると、下駄スケートに興じた。裏山の坂道ではそり滑りを楽しんだ。後年、ブリューゲルの「雪中の狩人」に愛着を感じるようになったのは、絵の中の山里に小さかったころのわれわれの遊びが描かれていたからだ。Iさんの話を聞きながら、そんなことも思い出した。

 阿武隈の山里に比べたら、いわきの平地には冬がない。春・夏・秋、そしてそれより寒い秋――いわきに根を生やすようになった20代後半、いわきの四季についてはいつもそう感じていた。今はどっぷりいわきに浸かっているから、冬は「秋より寒い秋」どころか、凍えるくらいに寒い。雪道も、歩くのが怖くなった。

 そうだ、阿武隈の雪で忘れがたいことばがある。母方の祖父母の家(旧都路村の鎌倉岳東南麓にあった)へ遊びに行ったとき、猛吹雪に見舞われた。祖母はそれを「フギランプ」(フギランブだったかもしれない)といった。「フブキ」(吹雪)と意味は同じだろう。後年、「乱舞」ということばを知ったとき、「フギランプ」の「ランプ」は「乱舞」のことではないかと思ったものだが、いまだに語源はわからない。

 その阿武隈の今、である。大震災と原発事故とで、ブリューゲルの絵のような世界は失われた。福島第一原発の東の海から吹く風の背中に乗って、北へ、南へ、西へと春の雪が運ばれてくる。それが阿武隈の山々、里々を白く染める。銀世界を神々しく思う感受性はとっくに消えた。

2014年2月12日水曜日

白いガレキ

 またまた雪の話で恐縮だが、8~9日にいわきに降った雪が解けない。幹線道路こそ除雪車が出て、車が往来できるようになった。車道の雪はしかし、消えたわけではない。歩道側に押しやられただけだ=写真

 いつもの春の雪なら、太陽が顔を出すとたちまち解けて路面があらわれる。ところが今回は大雪だったのと、晴れても低温のためになかなか雪のかたちが変わらない。日中、少し解けては夜に凍る。フェイスブックでなるほどと思ったのだが、歩道はいわき語で「たっぺ」、つまりアイスバーンになっているので、気が抜けない。不用意に進むとツルッといく。

 きのう(2月11日)は、午前と午後の2回、車を運転した。昼前、一日遅れで行政区の役員さんに回覧物を届けるため、近所の住宅地を巡った。日陰の細道に雪が残っていた。そのまま突っ切る自信はない。バックして次の家へ向かった。午後は街へ出かけた。旧国道と国道6号だから、センターラインを除いて車道に雪はない。しかし、歩道には延々と雪の垣根ができていた。

 旧国道も、国道6号もわが地域では東西に延びる。北側の歩道は太陽に暖められて雪のかたちが小さくなっていた。南側の歩道は家並みで日陰になっている。なかでも旧国道は、車道から押しだされた雪と、車の出し入れのためにかきだされた雪とで、歩道そのものがところどころだるまのように盛り上がっていた。

 どこかでこんな光景を見たことがあるような……。2011年3月11日からおよそ半月後、初めて大津波に襲われたいわきの沿岸部を車で通った。道の両側にはガレキが山となっていた。3・11からちょうど2年11カ月。そのことが意識のすみにあったせいかもしれない。白いガレキ――という言葉が不意に口からもれた。

 けさは曇天で風も冷たい。今にも雪が東から吹っかけてきそうな空模様だ。夏井川渓谷にある友人の家の周囲では、8~9日に積雪が50~70センチあったという。除染が済んでノッペラボウになったわが隠居(無量庵)の庭も、“雪野原”になっていることだろう。きょうの浜通りの予報は「山沿いでは昼前から夕方雪」。いわきの平地にいて、いわきの山里の雪の深さを思う。

2014年2月11日火曜日

屋根を滑る雪

 きのう(2月10日)のこと。屋根に積もった雪がダンスをしている。あっちでドスン、こっちでドスン。太陽に暖められて、屋根を少しずつ滑って、せり出した雪の板=写真=が、自分の重みに耐えかねて落下する。その音が東から、南から、西から聞こえる。2階の物干し場にもドスン、ドスン。茶の間の空気が揺れる、揺れる――家の周りでマッスルミュージカルが行われているような感じだった。

 きのうのいわき民報によると、8日未明から9日早朝まで降り続いた雪は、いわきの常磐・湯本で最大28センチに達した。「市内で記録に残る最深積雪28センチ(小名浜、大正5年1月)に匹敵し、98年ぶりの積雪となった」という。平地では“100年に一度”クラスの大雪だったわけか。

 すると、山間部はそれを上回る積雪になったことだろう。孤立している家、集落があるかもしれない。ハマ・マチ・ヤマの三層構造であるいわきには、複眼的な想像力が求められる。ヤマの雪はどうだったか、注意を払わないといけないと、阿武隈を出自とする私が、すっかりいわき人になったもう一人の私にいう。

 半世紀以上も前の話だが、小学3年の冬休みに祖母と喜多方市の親類宅に泊まったことがある。朝起きると、雪の上にさらに雪が30センチも積もっていた。雪国ではたった一晩でそのくらいは降る。雪国ではないが、それなりに根雪を見て育った人間にも、驚きだった。今度のいわきの雪も記憶に残る“豪雪”になるかもしれない。

 この土・日・月は腰を痛めたこともあって、“たこつぼ”にこもっていた。きのう、資料のコピーに近所のコンビニまで2回往復した。歩道に残るザラメ雪を踏みながら進むと、介護サービス会社に勤める知人に会った。「開店休業ですよ、お年寄りを乗せてスリップ事故をおこせないですから」という。

 そのスリップ事故が多発した。いわき民報によれば、いわき中央・東・南3警察署管内で、8日正午から10日午前11時までに計103件の人身・物損事故が発生した。けさも庭の雪や水たまりはガチガチに凍っている。足がとられかねない。車がツツツーとゆきかねない。雪に弱いいわき、大雪の後遺症はもうしばらく続きそうだ。

2014年2月10日月曜日

除雪車出動

 きのう(2月9日)の朝9時前後。家にこもっていると、道路の方から重機の音が聞こえてきた。クローラー(キャタピラー)がアスファルト路面をかんでいるような……。除雪車? 2階の物干し場からみると、バックホーが車道の雪かきをしていた=写真。3人でチームを組んでいるらしく、重機の前と後ろに人がつき、歩きながら一般の車両を誘導していた。

 クローラ―の前にとりつけた排土板で雪を前に押し出し、アーム先端のバケットでそれを歩道側に寄せる、というやり方のようだった。

 いわきの平地で“除雪車”を見るのは初めてだった。定期的に出かける夏井川渓谷は、平地よりも雪が降る。除雪車が出て県道の雪かきをしたあとを、ときどき見かける。路肩に雪のかたまりができているので、それとわかる。除雪車が出動しないといけないくらいに、平地でも雪が積もったということだろう。

 記憶にあるのは、昭和55(1980)年12月24日の「クリスマスイブ豪雪」だ。着雪による電線切断、鉄塔倒壊などで大停電が起きた。湿った雪の重みで杉の木が次々に折れ、卒塔婆のようになった。年が明けても厳しい寒さが続いた。水道管の凍結破損が相次ぎ、トイレの使えない家が続出したのも、この冬のことではなかったか。

 さて、主要な車道は行政が除雪した。歩道は? 「銘々自分の戸の前を掃け……」。ゲーテの「市民の義務」の精神でいくしかない。あちこちで住民が慣れない雪かきに精を出していた。それでも車道と歩道の境には雪の山が残った。

 けさ、庭の雪に触れるとカチカチに凍っていた。子どもたちは凍った雪をバリバリ踏みしめながら登校していった。バスもけさは動いているようだ。昼前には行政区の役員さんに回覧物を配らないといけない。太陽がどこまで雪を解かしてくれるか、だなぁ。

2014年2月9日日曜日

“外憂内患”

 きのう(2月8日)は、朝から雪になった=写真。4日のぼたん雪よりは細かく小さい。庭がどんどん白くなっていった。夕方には風が出て、雪が横なぐりに吹きつけた。夜には、雨になったかと思うと、また雪になった。けさは――。しんしんと雪が降っていた。いわきで2日も休みなく雪が降る、などということは記憶にない。道路は、車輪の跡が“氷水”のようになっている。7時ごろにはやっと雪がやみ、やがて日も差してきた。

 いわきサンシャインマラソンが中止になった。1万人以上がエントリーしていた。市外の参加者はいわきへの足確保に苦労したことだろう。大阪から10キロコースに出場する予定だった知人女性は8日、常磐線が動いているうちにいわき入りした。

 実は昨夕、その知人とイトーヨーカドー平店2階にある交流スペース「ぶらっと」で会うことになっていた(「ぶらっと」のスタッフも1人、フルマラソンに挑戦するはずだった)。旧国道、国道6号と幹線道路はシャーベット状だ。圧雪されていればお手上げだが、アスファルト路面がのぞいている。恐る恐る出かけた。
 
 常磐線は運休が相次いだ。いわきへたどり着けたかどうかわからない。「ぶらっと」の前に寄ると言っていた豊間の友人に電話したら、今着いたところだという。本人に代わってもらい、少し話した。知人の乗った特急はなんとか動いたものの、予定より1時間遅れになったという。「あしたは開催・中止どっちに転んでも、雪で転ばないように」と言って、「ぶらっと」での再会を中止した。日が暮れると路面が凍る。急いで帰宅しないと。

 家の前に白い乗用車が止まっていた。ハザードランプが点滅し、右前部が壊れている。対向車と衝突したとかで、左前輪が縁石をまたいでいた。けがはなかった。やがてパトカーが来た。カミサンが家にあった板切れを貸した。おまわりさんらがタイヤの後ろに敷いて車を押すと、簡単に縁石を乗り越え、車道に戻った。

 私は全く手伝えなかった。その日朝、着替えをしようとしたら、腰に電気が走った。痛くて四つんばいになった。そろりそろりと歩くのが精いっぱいなので、車を押せるような状態ではない。家の外は雪、内側ではぎっくり腰。内憂外患ならぬ、“外憂内患”できょうも身動きが取れない。

2014年2月8日土曜日

だます私/だまされる私

 壮大な虚構というしかない。それを見抜けないメディア、社会になってしまったのだろうか。「現代のベートーベン」にゴーストライターがいたことを、ゴーストライター本人が告白した=写真(2月6日・ミヤネ屋)。事の重大さは、ips細胞(人工多能性幹細胞)がらみの虚言男の比ではない。私やあなた、つまりは今生きているメディア社会の問題――そうとらえる必要があるのではないか。これからじっくりこのことを考えないといけないような気がする。
 
 その一歩として、私は私を語ることから始めるしかない。地域紙記者になったとき、一種の自戒として頭に刻んだのは萩原朔太郎のことばだった。ジャーナリストは地球の表面を駆けずり回っているだけ――今はそんな意味の文だったというしかないのだが、この1行が脳味噌にしみこんだ。一方では、地球のマグマをつかむような仕事をしなければ――そんな思いもあった。取材の浅さ・限界を自覚する毎日だった。
 
 それと、もう一つ。7歳のときに取材された体験が今もちくちく胸を刺す。小学2年に進級したばかりの4月中旬、自分のすむ町が大火事になった。西からの季節風にあおられて、東西に延びる一筋町の家々が焼け落ちた。
 
 翌日早朝、家並みの裏にある畑から焼け野原となった通りに出ると、新聞記者(とあとで知った)がいて、「坊やのおうちはどこ?」と聞かれた。消防団員だった父親が自分の家と思われるところにいて、なにやらやっている。そこが自分の家かもしれないと頭では思いながらも、口から出たのは「知らない」だった。「そのまま動かないで」。翌日、ある全国紙に「おうちを探す子ら」という見出し付きで、私ともう1人の同級生の写真が載った。

 私はウソをついたのだろうか。記者はウソをつかれたのだろうか。いや、記者はついには人の内面には触れ得ない。ここでも地球の表面を駆けずり回っているだけだ。「外部の現実」(事実)のほかに「内部の現実」(真実)がある。私のなかに「だます私/だまされる私」がいる。そんなことを、折に触れて考えてきた。――自分の経験を踏まえて、「現代のベートーベン」問題を見ていこうと思う。

2014年2月7日金曜日

いわきは今が極寒

 いわきの平地に雪が降り、翌日には太陽に暖められて消えるかと思ったら、畑や川の中州には残っていた。北風が雪をもたらし、太陽が雪を解かす――その太陽が雲に隠れて再び冷え込んだ。ひさしに小さな氷柱(つらら)ができた。それが、おととい(2月5日)のこと。

 夏井川の中州のハクチョウは、こんなときにはじっとしていると雪に同化してよくわからない。雪とハクチョウの取り合わせは、いわきでは珍しい。いつものように堤防から写真を撮った。モニター画面で拡大すると、幼鳥の灰色の首が黒くなっている=写真。コクチョウ? いや、雪を背景に、逆光のなかで白黒が際立ったのだ。
 
 きのうも書いたが、2月2日に夏井川で堤防焼きが行われた。炎と煙を間近に見てハクチョウは驚いたのだろう。3日昼前には2羽に減り、おととい5日昼前には50羽ほどに増え、きのう夕方には100羽近くまで戻ってきた。雪が炎におびえた気持ちを落ち着かせる役目を果たしたか。

 きのうの朝はさらに冷え込んだ。風呂の水が凍って出なかった。夏井川の岸辺や中州の周りにも薄く氷が張っていた。ともに今シーズン初めてのことだった。
 
 現役のころは、帰宅するとすぐ晩酌を始めたので、いつからか入浴するのは翌朝になった。その習慣が今も続いている。朝風呂に入れない――無精ひげをなでながら、風呂の水が出るのを待った。ということは、いわきは今が寒さの底にある。この寒さをやり過ごせば、いわきは着実に春へと向かう。

2014年2月6日木曜日

堤防焼き

 わが生活圏の夏井川で日曜日(2月2日)、堤防焼きが行われた=写真。ところどころ枯れヨシなどが燃え残っていた。事前に関係する区長さんの話を聞いていたので、なぜそうなったのかは想像がついた。風がなかったのだ。

 1月下旬、夏井川下流左岸域で隣り合う神谷・草野両地区の区長さんが顔を合わせた。恒例の合同新年会で、初めて参加した。

「谷地(やち)焼き」という言葉を知った。谷地とは低湿地、つまりは河川敷の枯れ草焼きのことだ。草野地区ではそういう。上流の神谷地区は? 「谷地焼き」ともいうが、単純に「堤防焼き」といっているのだとか。小さいころは「谷地に遊びに行く」という言い方をしていたという。

 私は同じ神谷でも非農家地区(商店・住宅団地)に住むので、昔からのしきたりや伝統、行事にはうとい。堤防焼きに動員がかかることもない。「谷地」という言葉が生きていることに内心驚いた。
 
 谷地焼きは水害予防のために行われる。堤防を守ると同時に、大雨が降ったときの水の流れをスムーズにする。“焼き上がり”はしかし、風次第というところがあるらしい。無風だと火勢が弱くて燃え残りが多くなる。強風だと逆に飛び火をして火事になる。その中間、きれいに焼き尽くすような風がいいのだそうだ。
 
 草野地区では1月26日に実施した行政区がある。神谷地区は、塩と中神谷西区が2月2日、合同で実施した。草野の谷地焼きは風が味方をした。神谷の堤防焼きは、一部燃え残った。自然相手の作業は思いどおりにはいかない。

このとき、塩と中神谷の境の中州で羽を休めるハクチョウたちも、けむにまかれるのを嫌ってどこかへ避難したようだ。きのう(2月5日)の昼前、堤防を通ったら、ピーク時の4分の1(50羽程度)しかいなかった。もっとも、堤防焼き翌日は2羽しかいなかったから、復活しつつはあるようだが。

2014年2月5日水曜日

雪の立春

 立春のきのう(2月4日)、いわきのツイッターやフェイスブックは雪の情報であふれていた。いわき市内各地の雪の様子がわかっておもしろかった。夜には早くも道路が凍り、橋の先で車が横転していた――などという目撃情報もあった。

 ぼたん雪が降りしきる午後遅く、車で平市街へ出かけた。ラトブの4階エレベーターフロアから、うっすら雪をかぶった田町の風景を撮影した。その帰り、助手席のカミさんにカメラを渡して、走行中の車をパチリとやってもらった=写真
 
 いわきの山間地はともかく、平地ではめったに雪が降らない。降るのは主に春先。湿って重いぼたん雪だから、根雪にはならずにすぐ解ける。はかないうえに珍しい。街・里・田畑・川・海辺……、どこでも被写体になる。で、写真付きの雪の情報がネットを飛び交った。

 夜にはこんなことがあった。いわき地域学會の事務所(私の故義伯父の家)で、2月15日に開催する市民講座の案内はがきを印刷しようとしたら、プリンターが正常に作動しない。ラベルのあて名が一部かすれたり、はがきが薄汚れたりしてしまう。

 年明け以降、人がいるときにはエアコンのほかに石油ストーブをつける。やかんをかけている。この湿気と寒気のせいでプリンターが結露したのではないかという。デジタル機器は湿気に弱い。紙がしけるのも嫌う。そういうことにうとい人間には、原因を探り、手を打つ事務局次長が、何か特別な存在のように思われた。プリンターは間もなく復活した。

 さて、一夜明けた今朝の状況は? 快晴。室内でも素足では痛いくらいに冷たい。台所の水道は、蛇口をひねると半分凍結状態で、水の出が悪かった。最低気温は小名浜で氷点下3.9度だった。たぶん今冬一番の冷え込みだろう。家の前の道路は乾いていた。歩道は側溝のふたがところどころ雪をかぶっている。その雪は少しザラメ状だ。
 
 いわきには、冬も車はノーマルタイヤのままという人が多い。私がそうだ。けさは特に、橋が要注意。上と下から冷やされて凍っているところがあるかもしれない。年寄りは、日が高くなって、ザラメ雪が解けたあとに動き出すのがよさそうだ。

2014年2月4日火曜日

カラスよけネット

 隣地との境にごみ集積所がある。いつからかわが家で管理するようになった。隣組に入っていないアパートの人たちも利用する。

 今年に入って、黄色いカラスよけネット(ごみネット)がなくなった。すぐさまカラスがやって来てごみ袋をつつき、生ごみを歩道(通学路)に散らかした。わが家にあった遮光ネットで代用した。そのネットもきのう(2月3日)朝、なくなっていた。たまたま別の用事のために取り置きしていたカラスよけネットがあった。この際しかたがない、それを“流用”した=写真
 
 不思議でならない。なぜごみネットが消えるのだろう。集積所にはおおむね週3回ごみが出される。燃やすごみが月・木、容器包装プラスティックが水曜日。燃やさないごみの水曜日もカラスが袋を破いて中身を散らすことがある。風の強い日はそのプラスティック類が飛ばされる。いつのときもネットが必要になる。
 
 その風がネットをどこかに吹き飛ばしたのだろうか。いや、風はネットをくぐりぬけるだけだ。収集車が去ると、家の前の荷台の下にネットを丸めて置く。なおさら風に吹き飛ばされるようなことはない。としたら、誰かが……。
 
 推測はそこまで。「誰が風を見たでしょう?/ぼくもあなたも見やしない、/けれど木の葉をふるわせて/風は通りぬけてゆく」(クリスティーナ・ロセッティ「風」=西條八十訳)。ごみネットが消えるたびに、この詩が思い浮かんだ。風は見えない。人も見えない。
 
 きのうは無風だったが、今朝は少し風が出てきた。曇天で夕方には雪に変わりそうだという。それでもきょうは立春。人をこごえさせる寒風も、やがて春風に変わる。

2014年2月3日月曜日

きょうは節分、あしたは立春

 風邪が抜けきらない。早めに薬を飲んだので寝こむようなことはないのだが、なんとなく鼻がぐずぐずしている。頭も少しぼんやりしている。先週はそれで、月曜日と土曜日以外はずっと家にこもっていた。

 土曜日に街=写真=へ出かけた。ラトブの総合図書館に本を返し、被災者のための交流スペース「ぶらっと」に顔を出した。曇っているのに街も歩行者もまぶしかった。長く家にこもっていると、のんびりした街でさえ都会に見えてくるのだろうか。

 きのう(2月2日)は昼過ぎ、ラーメン屋へ出かけた。セーターを着ていたせいもあるが、ラーメンを食べていると汗が噴き出した。こんなことは今冬初めてだ。西日本では夏日になったところもある、とテレビが伝えていた。いわきも曇っているのに気温が上昇した。これがラーメンで汗をかいた理由だろう。

 夕方、いつもの魚屋さんへ刺し身を買いに行くと、「きょうはあったかかった」という。半月前は寒風が吹き荒れ、魚をさばく手が赤かった。「冷蔵庫の方があったかいくらい」とこぼしていた。夜も部屋に暖気が残っていたので、この冬初めて石油ストーブを止めた。
 
 きょうは節分、あしたは立春。前線の影響で天気は下り坂だという。浜通りでも夜には雨か雪になるところがありそうだ。真冬に春の足音が聞こえるといっても、寒暖の差は大きい。同じ時期に風邪を引いたカミサンは、今もゴホン、ゴホンとやっている。風邪が完全に抜けるまで、ともに時間がかかるようになった。きょうは特に体をあたたかくしておかないと。

2014年2月2日日曜日

神谷と草野

 夏井川の左岸下流域に住んでいる。水源はわがふるさと、阿武隈高地の主峰・大滝根山。河口はわが住まいのある神谷地区の隣、草野地区。週末には水源と河口の中間、夏井川渓谷の隠居(無量庵)で過ごす。それで、川を軸にしてモノゴトを考える癖がついた。「地域」を「流域」としてとらえると、上・下流のつながり、食文化や生態系の違いなどがみえてくる。
 
 ところが勝手なもので、川をめぐる想像力は自分の住む地域で止まっていた。下流を意識するのは、秋に地区の青少年育成市民会議が主催する「歩こう会」のときくらいだ。夏井川の堤防を、ごみを拾いながら河口部の沢帯(ざわみき)公園まで歩き、昼食をとる=写真。夏井川の水の流れがそこで終わる。それでも、下流の“苦悩”には思いが至らなかった。

 先日、神谷・8行政区、草野・9行政区の区長さんが参加して、合同新年会が開かれた。夏井川は、河口が閉塞している。そのため、行き場を失った水は隣の仁井田川まで、海岸と並行する横川を逆流して太平洋に注ぐ。そのうえ、東日本大震災では50センチ以上も地盤が沈下した。大雨になるとすぐ水がたまる。夏井川の河口を早く開いてほしい――海寄りの草野地区の区長さんの話が胸にしみた。

「水に流す」という言葉がある。流れてくるものには敏感でも、流したものにはあまり注意を払わない。2年前に実施した「生活空間環境改善事業」、つまりは通学路などの除染作業がそうだった。下流の住民と自然に対してすまない思いを抱きながらの作業となった。下流の区長さんの話から、そのことを思い出した。

2014年2月1日土曜日

帰村宣言から2年

 きのう(1月31日)の朝、関係する東京のNGOのスタッフがわが家に顔を出した。震災直後からいわきで支援活動を展開している。そのための宿舎が近所にある。川内村=写真(2010年7月25日撮影)=へ行ってくるという。郡山市にある応急仮設住宅も訪ねるという。

 ん、川内? 新聞・テレビが報じていたのを思い出す。川内村はこの日、「帰村宣言」から満2年を迎えたのだ。全村避難から間もなく3年。約2800人の村民のうち、週4日以上村の自宅で過ごす人は半数を超えた。川内の現状を把握しようということなのだろう。
 
 村はわがふるさと(田村市常葉町)の隣にある。ともに阿武隈高地の主峰・大滝根山をいただく。いわきから実家への往復には「往」と「復」のどちらか、大滝根山を越えるルートか谷沿いの国道288号を利用する。つまり、必ず川内は通る。3・11後はなおさらそうしている。
 
 ずいぶん前になる。創立して間もないいわき地域学會が、総力を挙げて『川内村史』を手がけた。昼間は自分の仕事があるアフターファイブの研究者の集団だ。休日になると、たびたび川内村へ出かけ、村役場の担当者のIさんの案内で調査を繰り返した。私もそのはしくれとして、江戸時代の俳人佐久間喜鳥を軸にした俳諧ネットワークと、川内村と草野心平のつながりを担当した。
 
 大型連休のある日、Iさんの親族の家に案内された。旧家だ。炭火が赤々とおこる囲炉裏を囲んで、山菜の“フルコース”を楽しんだ。葉ワサビの粕漬け、ウドのじゅうねん(エゴマ)あえ、シドケ(モミジガサ)のおひたし、タラの芽のてんぷら、フキとタケノコの油いためが出た。仕上げはミョウガタケ(ミョウガの新芽)と豆腐の味噌汁。囲炉裏端にはイワナとヤマメの串焼き、そして炭火の上の網わたしには生シイタケ。
 
 そうそう、川内はキノコの名産地でもあった。『川内村史・資料篇』から幕末のキノコの値段がわかる。

 シイタケとコウタケを江戸へ出荷していた。安政7(1860)年3月の相場は、シイタケが1両当たり1貫550匁、コウタケが2貫400匁と、シイタケの方が高い。慶応2(1866)年12月になると、これが3~2倍にはね上がる。シイタケは1両当たり中級品500匁、シシタケ(コウタケ)が1貫400匁。マツタケは大小5本で100文と考えられない安さだった。

 川内は、ほかの阿武隈の山里がそうであるように、山野の恵みが豊かな村である。NGOのスタッフと川内の話をしたら、川内で食べた山菜料理の数々が思い浮かんだ。それを過去の話にしてはいけない。そのための「帰村宣言」でもあろう。
 
 夕方には、その川内村で養鶏業を営む風見正博さんが鶏卵を持ってきた。雪は?ないという。ノーマルタイヤでも実家への往復ができそうだ。が、ここは我慢して、もうちょっと暖かくなるのを待とう。