2014年2月8日土曜日

だます私/だまされる私

 壮大な虚構というしかない。それを見抜けないメディア、社会になってしまったのだろうか。「現代のベートーベン」にゴーストライターがいたことを、ゴーストライター本人が告白した=写真(2月6日・ミヤネ屋)。事の重大さは、ips細胞(人工多能性幹細胞)がらみの虚言男の比ではない。私やあなた、つまりは今生きているメディア社会の問題――そうとらえる必要があるのではないか。これからじっくりこのことを考えないといけないような気がする。
 
 その一歩として、私は私を語ることから始めるしかない。地域紙記者になったとき、一種の自戒として頭に刻んだのは萩原朔太郎のことばだった。ジャーナリストは地球の表面を駆けずり回っているだけ――今はそんな意味の文だったというしかないのだが、この1行が脳味噌にしみこんだ。一方では、地球のマグマをつかむような仕事をしなければ――そんな思いもあった。取材の浅さ・限界を自覚する毎日だった。
 
 それと、もう一つ。7歳のときに取材された体験が今もちくちく胸を刺す。小学2年に進級したばかりの4月中旬、自分のすむ町が大火事になった。西からの季節風にあおられて、東西に延びる一筋町の家々が焼け落ちた。
 
 翌日早朝、家並みの裏にある畑から焼け野原となった通りに出ると、新聞記者(とあとで知った)がいて、「坊やのおうちはどこ?」と聞かれた。消防団員だった父親が自分の家と思われるところにいて、なにやらやっている。そこが自分の家かもしれないと頭では思いながらも、口から出たのは「知らない」だった。「そのまま動かないで」。翌日、ある全国紙に「おうちを探す子ら」という見出し付きで、私ともう1人の同級生の写真が載った。

 私はウソをついたのだろうか。記者はウソをつかれたのだろうか。いや、記者はついには人の内面には触れ得ない。ここでも地球の表面を駆けずり回っているだけだ。「外部の現実」(事実)のほかに「内部の現実」(真実)がある。私のなかに「だます私/だまされる私」がいる。そんなことを、折に触れて考えてきた。――自分の経験を踏まえて、「現代のベートーベン」問題を見ていこうと思う。

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