2014年3月31日月曜日

それぞれの年度末

「森田一義アワー 笑っていいとも!」=写真=がきょう(3月31日)で終わる。放送が始まったのは、32年前の昭和57(1982)年10月4日、月曜日。「夜のタモリ」が「昼のタモリ」に変わったその日の衝撃が忘れられない。

 いわき民報勿来支局の1人支局長になってちょうど1年。近くのいわき南署で報道発表の有無を確かめたあと、支局に戻って「笑っていいとも!」を見た。以来、支局勤務中は昼、欠かさず<友達の輪>にチャンネルを合わせた。34~35歳のときだ。

 今、ふと思い出したのだが、同じ時間帯に強烈な印象を受けた番組がある。お昼過ぎ、コント55号が舞台を走り回っていた。なんという番組だったろう。東京へ出て2年目の20歳前後のころだった。

 おっと、「笑っていいとも!」よりは身近な年度末だ。あしたから消費税が上がる。買いだめはしなかったが、車のガソリンは別。燃料計の針が半分以下を指しているので、きょう中にガソリンスタンドへ行く。半分になったらすぐ満タン――3・11以来、身に付いた習慣だ。同じ量なのに一日違いでよけいなカネがかかるのは、ちょっと面白くない。
 
 もうひとつ、別の年度末がある。イトーヨーカドー平店2階に開設されている交流スペース「ぶらっと」がきょう、ひとまず閉鎖される。4月6日には場所を変えて再開されるが、およそ3年にわたって続けられてきたシャプラニール=市民による海外協力の会の活動は、新たな段階に入る。
 
 わが行政区も年度末を迎えた。きのうは区の総会が開かれた。欠席した隣組長・班長への連絡が年度を越えて続く。「笑っていいとも!」になるのはもっと先のようだ。

2014年3月30日日曜日

隣組長・班長事務費

 今年度も残すところあと1日。きょう(3月30日)は午後から、わが行政区の総会が開かれる。

 区長が行政嘱託員を兼ねる。その1年生だ。基本的な仕事は月に3回、市などから届いた行政・広報資料を班ごとに振り分け、区の役員を介して隣組・班に配ること。ほかに、地区の球技大会・体育祭その他の準備をしたり、区内外の会議や講演会に参加したりする。一つひとつはそんなに時間がかからない。が、全部こなしたら結構な回数になるのではないか。
 
 それでも、これらの仕事は体力があればなんとかなる。間もなく満1年、やれやれと思ったのも束の間、最後の最後に“難関”が待っていた。
 
 市から隣組長・班長事務費が戸数に応じて支給される。支給のための経理は行嘱員がやる。振り込まれた金額を金融機関から下ろしたのはいいが……。来年は絶対、福沢諭吉では受け取らない。野口英世だけにする。100円硬貨も200枚ほどは必要だ。
 
 事務費は1世帯当たり年400円。10世帯の班なら、班長事務費は4000円になる。2400円、3800円、1600円、……。大きくてきりのいい数字はまずない。1万円札ばかりでは袋詰めができないではないか。
 
 福沢諭吉をカミサンに渡し、家の前の郵便局から同じ金額を野口英世で引き出してもらった。2万円分は100円硬貨で――と注文したら、「ありません」と断られたという。
 
 さて、どうしたものか。思いあぐねていると、カミサンが瀬戸物の貯金箱=写真=から500円硬貨と100円硬貨を取り出した。それでも何枚か足りない。最後は、コンビニへ買い物に行って100円硬貨を調達した。
 
 経理を仕事にしている人は、手早く計算を済ませて袋詰めを終える。そのための小銭も事前にそろえておく。が、職場でも、家庭でもカネの計算を人任せにしてきた人間は、そこまで頭が回らない。この年になっても学習することがある。そのうえ、きょうはあいにくの雨。だんだん荒れた天気になるという。1年目最後の試練だ。にっこりやるしかない。

2014年3月29日土曜日

2014年の初ツバメ

 塩の夏井川からハクチョウが去って、神谷の旧国道にツバメがやって来た。

 きのう(3月28日)の夕方、近所の家へ出かけた。チュチュチュピチュチュチュピ……。聞き覚えのある鳥の歌が頭上から降ってきた。ツバメが1羽、電線に止まってさえずっていた=写真。もう1羽が近くの家の上空を突っ切っていった。今年(2014年)初めて見る夏鳥だ。

 屋内にいると体に熱がこもりそうだった。で、石油ストーブを消す。毛糸の帽子をとる。セーターを脱ぐ。電気ごたつの電源を切る――。時間をかけて、ひとつずつ“重装備”を解いた。その仕上げがツバメの到来だった。

 きのうはふだんより少し早めに起きた。午前5時半。夜は明けているのに、ガス(霧)がかかっていた。海岸から5キロ以上は離れている内陸部だ。初夏、たまにこうして霧に包まれる。日が昇るにつれて南から暖かい空気が流れ込んだのだろう。青空が広がり、午後には暑く感じられるまでになった。それがツバメの北上をうながしたか。

 夕方、街へ行った帰りにいわき駅前を通ったら、デジタル温度計が「21度」を表示していた。この暖気になでられて、草木の芽が眠りから覚めたかもしれない。今年の梅は開花が遅れて今が満開だ。庭のプラムは、花芽がふくらんできた。サクラ(ソメイヨシノ)はどうか。開花が早まることは間違いないだろう。
 
 イトーヨーカドー平店2階にある交流スペース「ぶらっと」は4月6日、平・一町目のスカイストアに移転、再開する。月並みなことばだが、その日はいわき地方最初の「花見サンデー」だ。
 
 新ぶらっとから、いわきのサクラの名所・松ケ岡公園までは近い。歩いて15分くらいだろうか。サクラが満開になれば、新ぶらっとオープンを記念して、弁当を携えて公園へ、という“花見散歩”もいいかもしれない。

2014年3月28日金曜日

ぶらっと昼食会

 交流スペース「ぶらっと」が、いわき駅をはさんで東のイトーヨーカドー平店から西のスカイストア(平字一町目)に移転する。ヨーカドーでの運営は3月末で終了し、4月6日にはスカイストア内で新ぶらっとの活動が始まる。

 ヨーカドーでの活動終了を前に、おととい(3月26日)昼、いわき駅に近いバークイーンで昼食会が開かれた。ぶらっとの利用者を中心に、講師、スタッフなど約70人が参加した。利用者は地震・津波の被災者、原発避難者が多い。年齢もそれなりに高い。広い音楽バーが狭く感じられるほど、よく人が集まった。それだけ、ぶらっとが受け入れられている証拠だろう。

 仕出し弁当を食べたあとは、バークイーンらしくライブが開かれた=写真。一番若い参加者(高専生)が擬音演奏(ヒューマン・ビート・ボックス)をして、参加者を驚かせた。スタッフが楽器を演奏した。一緒に歌もうたった。

 ぶらっとは、シャプラニール=市民による海外協力の会が運営している。シャプラは震災直後の2011年3月19日、いわきに入り、救援物資の搬送、勿来、小名浜両地区の災害ボランティアセンターの運営に協力した。

 その後、避難所などから借り上げ住宅(アパートなど)に移った被災者に調理器具セットを提供し、被災者のための交流スペース「ぶらっと」を開設した。最初の半年間はいわき駅前のラトブで、それから2年間はヨーカドーで。そして今度、スカイストアに引っ越す。
 
 昼食会では、デッサン教室や健康運動教室の先生たちがあいさつした。私もマイクを向けられたので、シャプラの前身である「ヘルプ・バングラデシュ・コミティ」から数えて40年余のかかわりを話した。創立メンバーの一人がいわき市出身の私の同級生だったこと、その意味ではシャプラにはいわきのDNAが組み込まれていることを強調した。
 
 ちょうど3年前のきのう、3月27日のことを忘れられない。震災後、やっと連絡のとれたわが家に、シャプラの副代表と事務局長、国内活動グループチーフの3人がやって来た。野菜の差し入れがありがたかった。シャプラとともに市社会福祉協議会、市役所、市勿来支所を巡り、津波被害に遭った錦須賀海岸を訪ねた。シャプラのいわきでの支援活動はこのときにかたまった。そのことを思い出して、つい胸が熱くなった。
 
 シャプラは市民(個人)が活動を支えている。シャプラに支援されてきた今、少しでもシャプラを支援しようという利用者が出てきた。カミサンは正会員、私はマンスリーサポーターそういう協力の仕方があることを、尋ねられれば伝えようと思う。

2014年3月27日木曜日

百回忌の人たち

 義母の十三回忌の法要が行われた。春分の日で始まる3連休に合わせ、日曜日(3月23日)、カミサンの実家に子・孫・ひ孫など11人が集まった。

 寺へ行く前に昼食をとった。施主(義弟)が「百回忌の人間が3人いる、その法要もしてもらう」と告げた。百回忌! 3人! わが子(義母の孫)と孫(義母のひ孫)にとっては血のつながりのある「ご先祖さま」だが、いったい何代前の人たちなのだろう。

 99年前の大正4(1915)年に亡くなった人が、今年、百回忌に当たる。3人を歿月日順にみると――。6月11日、カミサンの曽祖父が亡くなる。天保14(1843)年生まれの71歳。8月28日、カミサンの祖父の子が1歳の誕生日を目前にして亡くなる。10月23日、その子の母親、カミサンの最初の祖母が亡くなる。享年32。ほぼ2か月おきに3回、葬式が続いたことになる。

 スペイン風邪がはやるのは大正7~8年。その3年前だから、たまたま不幸が重なったのだろう。このあと、祖父の再婚などがあって今に至るのだという。

 本堂でお経をあげてもらったあと、墓に詣でた=写真。天保生まれの仏さまから平成生まれのわが孫まで、死者・生者6代が向き合ったかたちになった。

2014年3月26日水曜日

第4回いわき昔野菜フェスティバル

 5時間の長丁場だった。3月25日午前10時すぎ、中央台公民館に入る。出たのは午後3時すぎ。いわき昔野菜フェスティバルに今年も参加した。4回目だ。

 午前中は、山形県鶴岡市のシェフ奥田政行さんが「在来作物に出会ったシェフの物語」と題して講演した=写真。昼に「いわき昔野菜弁当」を食べたあと、午後1時から「種が伝えた食文化……つなげよういわき昔野菜」をテーマに、パネルディスカッションが開かれた。

 コーディネーターは山形大准教授の江頭宏昌さん。パネリストは地元いわきの生産者、シェフなど7人で、かつていわき地域学會が市の委託を受けていわきの伝統郷土食を調査した縁で、7人の一人に加わった。まずは、パネリストとして私が話したことを中心に書く。

 地域学會が「伝統郷土食」を調査し、報告書をまとめたのは平成7(1995)年3月。調査リーダーは故佐藤孝徳氏、私は編集・校正を担当した。同じ年、阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件が起きる。そして、その年の5月、私は夏井川渓谷にある義父の隠居の管理人になり、翌年、家庭菜園を始めた。

 渓谷で栽培されている昔野菜の「三春ネギ」に、ふるさと・阿武隈の味の記憶を呼び覚まされた。渓谷の農家から種と苗をもらって栽培を始め、三春ネギのルーツを調べた。自家採種~保存~播種(秋まき)~定植~収穫の2年サイクルを守ってきたが、昨年(2013年)秋、敷地の全面除染のために土を入れ替え、菜園がいったん更地になった。

 故佐藤氏によると、いわきの食文化の一大特徴は、浜の料理が多彩で豪華なこと。農山村はどうかといえば、よごし類・てんぷらなど全国共通のものが多い。その浜の料理も、わずか数キロ内陸に入っただけで無縁のものになる。山も事情は同じ。いわきの食文化をひとくくりにはできない。
 
 いわきはハマ・マチ・ヤマの3層に区分される。そして、北から夏井川(大久川流域を含む)・藤原川・鮫川(蛭田川流域を含む)の3流域圏の連合体とみることができる。それぞれの下流部に平・小名浜・勿来という人口集中地域が形成された。いわきは3極3層のまち。そう分けることで、食文化の違いと共通性もみえてくる。

 ハマの食文化は千葉・茨城県のそれと共通する。黒潮という海の道でつながっている。ヤマの食文化も地続きの他町村のそれと共通する。山の道だ。

「三春ネギ」の場合は、恐らく郡山市阿久津町の「阿久津曲がりネギ」と関係がある。越中富山の薬売りが明治30(1897)年ごろ、ある農家に「加賀ネギ群」の種を持ち込んだ。それが始まり。やがて、このネギの苗あるいは種が東の町村(田村地方)へ伝わり、さらに小野町経由で夏井川下流の川前町、夏井川渓谷の小川町・牛小川まで届いたと想定できる。
  
 一方、いわき一本太ネギは千住系。常磐線が開通した明治30年以後、「東京ネギ」が導入された。それが改良されて今に残るいわき一本太ネギ(千住一本ネギ)になった。
 
 種があればなんとかなる、種があれば頑張れる、種があればなんでもできる。ついでに語呂合わせながら、風土がfood(フード)をつくる、なんてことも話した。

2014年3月25日火曜日

松に青鷺

「松に鶴」と言えば、花札の1月の図柄だ。2月は「梅に鶯」、3月は「桜に幕」、4月は「菖蒲(あやめ)に八橋」、……。詩人の大岡信さんによれば、この取り合わせは和歌に発し、近世の花鳥画などで広く画材として愛用され、ついには花札にも及んだ。日本人の美意識を支えているのは、こうした様式好み、型好みだという。

 本のタイトルは忘れたが、若いときに読んで以来、日本人の「美意識における理想主義」と「現実」の落差を楽しんできた。

 隠居(無量庵)のある夏井川渓谷に、ときどき青鷺(あおさぎ)が現れる。たまに赤松やモミの木に止まって一休みする。「鶴だ!」。10年以上も前、青鷺と鶴の区別がつかなかったカミサンが目を輝かせた。画集その他で「美意識における理想主義」にどっぷりつかっていたから、「松に大きな鳥」とくれば「鶴」となったのだろう。
 
 浜で生まれ育った人間が2人、無量庵で工事をした。リズミカルな潮騒と違って、早瀬の音が途切れなく続く。音の話になったので、山で生まれ育った人間が少年のころ、海辺の家に泊まったときの体験を話した。「潮騒で眠れなかった。海の人間は逆に、早瀬の音で眠れないだろうな」
 
 そのとき、青鷺が対岸のモミの木の枝に来て止まった。なんでこんな渓谷に?と海の人間は不思議がった。「近くにヤマメとイワナ、ニジマスの釣堀があるから」
 
 それから2日後の夜、BSジャパンで「開運!なんでも鑑定団」を見ていたら、江戸時代の日本人画家諸葛監(1717~90年)の「松に鶴」の掛け軸が鑑定にかけられた。ご丁寧にも滝を背景にした渓谷だ、松の太い枝(幹?)に丹頂がつがいで描かれている=写真。鑑定額は160万円だった。日本人の美意識が生んだ「松に鶴」の傑作ということになるのだろう。

2014年3月24日月曜日

被災地訪問ツアー

 被災地訪問ツアー「みんなでいわき!vol.4」が、3月21~22日に行われた。いわきで被災者の支援活動を続けているシャプラニール=市民による海外協力の会が主催した。

 北は宮城県から西は兵庫県まで、1都1府6県から26人が参加した。シャプラニールの会員を中心に、所属・職業はさまざま。市外で開かれたシャプラ関係の集まりで会ったり、以前のいわきツアーで会ったりして、すっかり顔なじみになった人が何人かいる。

 その1人が、フェアトレード研究の第一人者である元大学教授だ。前もそうだったが、今回も一市民としていわきツアーに参加した。「何もできないが、『こんにちは』とたまに行くくらいは……」と、さらりといってのけるところがありがたい。初日の夕食・懇親会で再会の握手を交わした。

 首都高の工事現場火災などで東京の出発時間が大幅に遅れた。そのため、初日午後・双葉郡富岡町視察、2日目午後・まちの交流サロン「まざり~な」見学=写真=のスケジュールが逆になった。わが家(米屋)の「まざり~な」にもその旨、連絡が入った。

 旅のしおりによると、ツアーの目的は、いわきに暮らす人々との対話を通じて、3・11から丸3年たったいわきの現状を肌で感じてもらうことだ。津波や地震の被害を受けながら、原発事故による避難者を多く受け入れているいわき市では、単なる自然災害による被害とは異なる複雑な状況が生まれている――そういった現状認識からツアーが組まれた。

 人類が初めて遭遇した地震・津波による過酷事故である。国内はもちろん、全世界が日本を、福島を、浜通りを、1F(東電福島第一原発)を、その行く末を注視している。

 懇親会で隣り合わせた大阪の女性には、福島県の放射能汚染地図を“3D”化して見るように、と話した。気象と阿武隈高地の地形が明暗を分けた。これに、原発誘致という時間軸を加えることで思考はより深まるはずだ。
 
 ツアーには毎回、①地元に泊まる②地元で食べる③地元で買い物をする――ことが組み込まれている。この地域経済への配慮・貢献が、フェアトレードを活動の一つに掲げているNGOらしい。
 
 2日目。カミサンがどうしても「『じゃんがら』をあげたい」という。『じゃんがら』はいわきの伝統芸能「じゃんがら念仏踊り」にちなんだ、いわきの代表的な和菓子だ。1人1個ではお土産にもならないが、いわきを訪ねてくれたせめてものお礼のしるしとして――。
 
 四倉の海鮮料理店で昼食をとり、「道の駅よつくら港」で買い物をする時間に合わせて、急きょ、寄り道して『じゃんがら』を買い求め、一行と再会した。

2014年3月23日日曜日

常磐の温泉旅館へ

 その温泉旅館を訪ねるのは震災後初めてだった。いわき地域学會初代代表幹事、いわき商工会議所副会頭、いわき観光物産協会長、福島県教育委員長、元県立高校教諭、山村暮鳥・野口雨情研究家、野口雨情記念湯本温泉童謡館初代館長、……。故里見庫男さんは地域文化のプロデューサー兼コーディネーター・編集者、そしてなによりもまず、いわき湯本温泉旅館・古滝屋の経営者だった。

 里見さんは2009年3月26日、転勤族と地元の人間との「人脈形成の場」である月例の集まり「江戸十番会」(3月は送別会を兼ねた拡大交流会)の場で倒れ、11日後の4月6日に亡くなった。古滝屋内の飲み食い処「江戸十番」にちなむ集まりで、毎月、里見さんからファクスで案内が届いた。
 
 里見さんが亡くなったあとの一周忌で古滝屋を訪ねたのが最後だったと思う。3・11と1カ月後の4・11(巨大余震)で常磐地区は大きな打撃を受けた。震災から1年4カ月後の2012年7月、古滝屋は素泊まり型に切り替えて営業を再開した。江戸十番会が“休眠”してからは、たまに旅館の前を車で通る程度になった。
 
 4年ぶりに古滝屋へ出かけたのには、もちろんわけがある。イトーヨーカドー平店で被災者のための交流スペース「ぶらっと」を運営しているNGOのシャプラニールが3月21~22日、4回目の「みんなでいわき!」被災地訪問ツアーを実施した。首都圏を中心に西は兵庫県、北は宮城県から26人が参加した。宿は古滝屋。初日の夕食・懇親会に夫婦で合流した。
 
 フロントに「若だんな」がいた。顔を見て安心した。教えられた会場は8階の中宴会場。江戸十番会は2階の飲み食い処「江戸十番」から、しばしば場所をこの中宴会場に移して行われた。懐かしかった。

 外注した料理と飲み物をシャプラのスタッフと一緒にセットしながら=写真、少しセンチな気分になっているのがわかった。<ここでいろんな人と議論したっけ>。懇親会が始まり、話がはずむにつれて、どこかそのへんに里見さんがいるような気がしてきた。酔いによる幸福な錯覚だった。

2014年3月22日土曜日

崖のワイヤーネット

 夏井川渓谷の“リンカーン岩”にワイヤーネットが張られた=写真。そばに水力発電所がある。下流の発電所の取水口がある。その導水路に沿って巡視路がある。人と施設を落石から守るための措置だ。

 あの日、いわきの沿岸部は巨大津波に襲われた。溪谷では至る所で落石が発生した。目に見える限りで最大の落石が、わが隠居(無量庵)の対岸で起きた。そのあとが、頬のこけた“リンカーン岩”だ。
 
 1カ月後の4・11には、いわき南部の塩ノ平断層(井戸沢断層)と湯ノ岳断層が動いて巨大余震が発生した。その影響で、御斉所街道(県道いわき石川線)で山崩れが発生し、計4人が亡くなった。いわきは沿岸部だけでなく、山あいでも大きな被害を受けたのだ。

“リンカーン岩”は、以前はドイツの画家ホルスト・アンテスが描く「頭足人」に似ていた。いわき市立美術館に収蔵されている「ホピの年」や、2005年に同美術館で開かれた「アンテスとカチーナ人形――現代ドイツの巨匠とホピ族の精霊たち」展で見た人物像とそっくりだった。

 3・11のあと、対岸の巡視路はしばらく行き来ができなかった。やがて“リンカーン岩”のふもとには“石垣”が組まれた。落石を細断して積み上げたのだ。下に立つと、“リンカーン岩”は顔がせり出したように、真上に見える。怖い。それ以上顔が壊れないようにするためのワイヤーネットだった。

2014年3月21日金曜日

地域の子

 学区内に8つの行政区がある。区長に招待状がきた。ほかの区長さんにまじって、初めて小学校の卒業式に臨んだ。雨だけどハレの日だ、などと自分に言い聞かせながら。

 中学校などからも招待状がきた。が、年度末も年度末。行政区や所属している団体の事務、行政がらみの会議、頼まれた原稿もあって、時間がいくらあっても足りない。小学校の卒業式だけはと、毎年出席している民生委員(カミサン)を車に乗せて出かけた。

 わが子の入学式も、卒業式もカミサンまかせだった。仕事ではたびたび、子どもの母校以外の入学・卒業式を取材した。が、それはもう30年以上も前のこと。学校でもらった資料=写真=で確かめながら、厳粛ななかにもショー的な要素が盛り込まれた卒業式を“観察”した。ずいぶん様変わりしていた。

 主役はもちろん、巣立つ6年生。それを見送る後輩は5年生だけ。陰の主役は保護者。デジタル社会を実感したのは、大部分の親が席に座ったまま、片手にビデオカメラを握ってわが子の晴れ姿を追っていたことだ。当事者が撮影・編集をこなすのだから、メディアの通りいっぺんの記事は読まれないわけだ――などと、場違いな感想を抱いた。

 前日の夕方、近所の公園のわきにある集会所の前に、子どもを守る会の保護者と一緒にごみネットを張った。以前、子どもたちがキャッチボールをしているうちに、ボールがそれて集会所のガラス戸を割ったことがある。その再発防止策だ。

 区の役員会で決まり、ごみネットも買っていたが、冬なので先送りにしていた。集会所の管理人から「ネットが張られるまでキャッチボールはしないように」といわれたと、保護者から連絡があり、急きょ、春休みを前に取りつけたのだった。

 公園で遊んでいた子どもたちが近づき、神妙な顔つきで「ガラスを割ったのはこの子です」「キャッチボールができるようにお願いします」などと謝罪・嘆願した。子どもなりになりゆきを心配していたのだろう。卒業式で、公園で見た顔を探したが、6年生にはいなかった。5年生? いや、4年生だったかもしれない。

 自発的な“告白”に、小学生がぐっと身近な存在に感じられたばかりだ。そう、わが子ではなくても「地域の子」なのだ――ということを、卒業式であらためて実感した。

2014年3月20日木曜日

最後の白菜漬け

 今シーズンはこれが最後と決めて、甕から残った白菜漬けを取りだし、タッパーに詰めて冷蔵庫に入れる。夫婦2人だけだから、樽にいっぱい漬け込むようなことはしない。大きければ2玉、5キロ前後を一冬に4~5回漬ける。この冬は11月下旬に漬け始め、1カ月に一度のペースで4回漬けた。

 2月下旬、小名浜の若い仲間から小玉の白菜2個をもらった。2月は、日本列島の太平洋側が大雪に見舞われた。ダンナさんの実家の熊谷で雪をかぶっていたものだという。雪でいわきの山里へ白菜を買いに行けなくなった。せん切り大根の浅漬けでしのいでいる、といったことをブログでつぶやいたら、届けてくれたのだった。

 このごろは、白菜を量りに載せる、重さの3~5%の食塩を準備する、といったようなことはしない。大玉なら8つ割り、小玉なら4つ割りにして、葉の1枚1枚に塩をふる。その加減、塩梅を手が覚えている。であれば、いつまでも“教科書”に頼る必要はない。

 台所は実験室ではない。個別の分量を覚えたからには、省ける手間は省く。頭ではなく体でつくれ、である。

 今ある白菜漬け=写真=は今週末にはなくなる。あと1回漬けることもできるが、スーパーで売っているのは、高くて買う気になれない。道々の畑に残っている白菜は花茎が立ち、菜の花が咲きだした。これはこれで絶品だが、漬物にはならない。大型連休あたりに糠漬けに切り替えるまで、浅漬けでしのぐとしよう。

2014年3月19日水曜日

松枯れ進む

 夏井川渓谷のシンボルは岩盤に生える赤松。広葉樹がまだ冬眠している今、赤松の鮮やかな緑が際立つ。モミの濃い緑も、赤松とすみ分けるように点在する。その赤松が再びおかしくなってきたということを、2013年12月10日の小欄に書いた。

 阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件が起きた平成7(1995)年ごろ、渓谷の斜面の赤松はまだ元気そうだった。が、やがて松葉に黄色いメッシュが入り、“茶髪”が増えて、樹皮の亀甲模様がはげ落ちた。
 
 白い幹と枝だけの“卒塔婆”になってから十年余。今度は松枯れ被害を免れた若い松に茶髪が見られるようになった。ブログに書いてから3カ月が過ぎた今、その赤松の緑は黄色いメッシュから全体が茶色に変わりつつある=写真
 
 木に詳しい人間が言った。「松が岩を囲むように三段になっている。最高の組み合わせだけど、岩の上の松が……」。そういわれれば、岩盤に生え出た赤松はそれ1本ではない。岩を囲むようにして5~6本はある。
 
 渓谷の美は春のアカヤシオ(岩ツツジ)と秋の紅葉、そして岩と赤松を組み合わせた“日本画”だ。渓谷で最も美しい一角が「点睛」を欠いた。別の尾根の赤松も茶髪になりつつある。松枯れはそれで終わるのか、さらに広がるのか。心配は尽きない。

2014年3月18日火曜日

庭のスイセンの花

 庭のスイセンのつぼみがふくらんでいるのを写真に撮ってアップしたのが2月下旬。立春を迎えたとたんに雪が降り、以後、しばらく「光の春」と「寒さの冬」の綱引きが続いた。きのう(3月17日)夕方、なにげなく見ると、庭のスイセンが咲いていた=写真
 
 今年最初の、わが家の庭の花! 寒さがきついこともあって、今にずれ込んだのだろう。と書いて、ふと思った。そうではない。こちらがもっと早く見てやればよかったのだ。3月。年度末に入って事務的な仕事が増えた。庭の草木をながめるゆとりが、いつの間にかなくなっていた。
 
 季節は間違いなく冬から春へと移っている。暦の上の春ではなく、体で春を実感したのは3月13日。昼あたりからしとしと雨が降り出した。脳裏に草木の芽吹き・芽生えをうながす慈雨のイメージが広がった。そのとき庭をながめたら、スイセンの花の一つか二つは咲いていたかもしれない。
 
 行政区の総会が間もなく開かれる。年度末にきて、区の1年間の流れがやっと頭に入った。行政区や大字の行事は、体を使えばなんとかなる。しかし、欠員が続く区の役員をどう確保するか。3月に入って思い悩む時間が増えた。庭の花はそんな頭のもやもやを一瞬、晴らしてくれる。
 
 よく見れば、スイセンだけではない。クリスマスローズがうつむき加減に白い花をつけている。ジンチョウゲも小花を開き始めた。緑色の葉の間からスミレの紫色がのぞいている。庭はいつも小さなワンダーランド。

2014年3月17日月曜日

のり弁丼

「ザ!鉄腕!DASH‼」は、阿武隈高地の「DASH村」からどこかの海の「DASH島」に舞台が移ってから、少し興味が薄れた。たまに「0円食堂」をのぞくくらいになった。

 捨てられる食材からおいしい料理が生まれる――その過程と工夫がおもしろい。きのう(3月16日)の3時間スペシャルでは、「0円食堂」に徳島県の食材を使った「つくねと白身魚の和風丼」が出た。
 
 全く唐突に、12日にクレハの社員食堂で食べた「のり弁丼」=写真=を思い出した。工場見学のなかに組み込まれた“メーンイベント”が、社員食堂での昼食体験だった。
 
 どんぶりによそったごはんにふりかけをまぶす。その上に板のりを敷き、鶏のから揚げ、ちくわのてんぷら、白身魚のフライをのせる。「のり弁」を温かいどんぶり物にしたところがみそだ。
 
 新作メニューらしかった。案内役の男性社員はまだ食べていないという。「『のり弁丼』だって」。食堂へやって来た女子社員も、入り口に表示されたサンプルを見て声を出した。
 
 テレビの向こうでも、現実の社員食堂でも、日々、料理が工夫され、提供される。「のり弁丼」は名前からして懐かしい。

「DASH島」、いやその前の「DASH村」に戻る。1995年に番組が始まったころ、私も夏井川渓谷の隠居(無量庵)で菜園を始めた。番組の進行と同じテンポで、ちっぽけなスペースながら野菜づくりを続けた。「DASH村」を参考にすることがいっぱいあった。

 野菜をつくれば、食べ方にも興味が広がる。料理は、保存法は、……。どの場面にも創意工夫が求められる。結局、もの・ことをつくりだす創造性、これに人は引かれるのではないだろうか。徳島県の食材をつかった「和風丼」に「のり弁丼」を重ね合わせて、そんなことを思った。
 
 東日本大震災・原発事故で、「DASH村」のある浪江町は全町避難を余儀なくされた。阿武隈に「DASH村」が復活する日はくるだろうか。

2014年3月16日日曜日

ドキュメント72時間

 これまたいわきを舞台にしたテレビ番組だ。NHKの「ドキュメント72時間<福島 早春のスーパーから>」=写真。3月14日深夜に放送された。いわきに本社のあるスーパー・マルト草野店で、2月7日昼から10日昼までの3日72時間、買い物客に話を聴いた。

 いわきは2月8日、珍しく大雪に見舞われた。翌9日・日曜日には家の前の旧道(旧国道6号)に除雪車が出た。その旧道沿い、車で5分もかからないところにマルト草野店がある。雪の映像に、一瞬、どこかよそのマチのスーパーではないかと思ったほどだ。

 番組予告にこうあった。「福島県いわき市。原発に向かう街道沿いに、『あの日』以来、売り上げを大幅に伸ばしているスーパーがある。主力商品は弁当や総菜。夕方になると、仕事帰りの原発作業員や除染作業員たちが大勢押し寄せる(以下略)」。いつも行くマルト草野店にちがいない。そう思って見たら、図星だった。

 <72時間>の最初の昼。旧知の女性がインタビューに応じる。同じ行政区の前役員だ。孫に唐揚げをつくってやるので材料を買いに来たのだという。次に現れたのは近所のご夫婦。会ったことはないが、話にはよく聞く別のご夫婦も登場した。
 
 夕方。カメラが作業服姿の男性を追う。除染作業に就いているという。事故をおこした原発に通っている、島根県出身の男性もいた。買い物かごの中身は、私がちらっと見てきた例でいえば、弁当と晩酌用のアルコール・つまみ程度だ。コンビニにでも入るような感覚で、毎日、買い物に来ているのだろう。
 
 一市民としては、レジ待ちをしながらあれこれ尋ねるわけにもいかない。そこを、テレビが代わって突っ込む。番組を支えているのはこの突撃性だ。が、NHKスペシャルのように重くはない。市民の日常に光を当てながら、それぞれの人生をスケッチする。人によっては少し掘り下げる。絵にたとえれば、淡い水彩画。
 
 マルト草野店は、大規模スーパーとしてはいわき市内で最も北に位置する。新旧国道6号の間、主要地方道いわき浪江線(通称・山麓線)沿いにある。震災・原発事故が発生したときには、この山麓線が双葉郡から避難してくる車で数珠つなぎになった。スーパー近くの草野小、次いで隣接するわが生活圏内の平六小が、その人たちの避難所になった。
 
 あれから3年。いわきは原発と原発避難者を取材するメディアの最前線基地になった。NHKだけでも3月1日朝、「週刊ニュース深読み」がいわき明星大を会場に生中継された。ラジオ第一の「すっぴん!」も、3月11日には特別企画「アフター3・11スペシャルfrom福島県いわき市」を放送した。
 
 きょう(3月16日)は午前10時から、NHK「明日へ」で「あの日」から1カ月間のフラガールの証言記録が放送される。夜にはNHKスペシャル「メルトダウンFile4」がある。番組や記事のよしあしが身近なところからわかるようになった、とはいえるだろう。

2014年3月15日土曜日

いやな感じ

 高見順の小説のタイトルではないが、なんとなく「いやな感じ」になることが増えてきた。ヘイトスピーチ、原発避難者へのいやがらせ、『アンネの日記』の引き裂き、そして浦和レッズの「ジャパニーズ・オンリー」。

 なぜそんなことを? 表層的なメディアの報道ではそこがよくわからない。で、事件の背景・中身について論じたコラムニストや識者のブログ、ツイッター、フェイスブックを介して考えをめぐらせることが多くなった。ネットの利点はいながらにして情報を取ったり、情報が届いたりすることだろう。
 
 空気は78%が窒素、21%が酸素で、残りが二酸化炭素や水素など多数の微量成分で構成されている。まるでこのなかに「排除」という成分も含まれていて、それが「いやな感じ」を呼び起こしているかのようだ。
 
 自分の「安全・安心」をおびやかすものを「排除」する。排除すれば悩んだり、考えたりしないですむ。この個人の感情が集団のそれになり、集団の感情が個人のそれに影響する、ということはないのか。ホームとアウエーの関係ではないが、最近経験した生活の場でのあるやりとりから、「排除の空気」というものを考えてしまった。

 私が所属するいわき地域学會はざっと30年前に発足した。「変貌するいわきの姿を総合的に調査、研究し、可能な限り正確なデータを次代に伝える」のが目的だ。当時30~40代の若手研究者が磁石に吸いよせられるように集まった。専門という“たこつぼ”からの脱出、排他から学際へ、でもあろうか。「いわき地域学會図書」=写真=の刊行を柱のひとつにしている。その「宣言」にこうある。

「われわれがなすべきことの一つは、地域文化の仕組みを解き明かし、現在の地域社会の理解と未来考察に有効な情報を供することだと信じる。……われわれは、われわれが現に生活している『いわき』という郷土を愛する。しかし偏愛のあまり眼を曇らせてはいけないとも考える。それは科学を放棄した地域ナショナリズムにほかならないからである」。

 最近の一連の「いやな感じ」はこの偏愛と同じ根からきているのではないか、と私には思える。人間に対しては考え深く、自然に対しては慎み深く――昨年来、ときどきそう自分に言い聞かせるようになった。

2014年3月14日金曜日

工場見学会

 いわき市の「環境にやさしいくらしかたをすすめる会」(和田佳代子会長)が、3月末で活動を終える。市民・事業者・市がそれぞれ分担して環境保全活動を進めようと、平成13年秋、市民団体を中心に結成された。最後の事業として、おととい(3月12日)、メンバー企業でもあるクレハ(錦町)の工場見学会が行われた=写真

 会の立ち上げには、いわき地域学會初代代表幹事の故里見庫男さんがかかわった。カミサンが代表のシャプラニールいわき連絡会も、里見さんの一本釣りで加わった。見学会には夫婦でどうぞというので、金魚のフンよろしくついて行った。
 
 オートメ―ション化された薬品工場を見学し、製品を梱包するロボットの動きに目を奪われながら、思い出したことがある。
 
 クレハがまだ呉羽化学工業といっていたころ、勤務する地域紙の勿来支局で3年間仕事をした。主な取材先のひとつだった。三十数年前、昭和50年代後半の話だ。「貨車売りからグラム売りへ」。確かそんなことを当時の総務部長さんがいっていた。主力製品が抗がん剤のクレスチンに変わったことをさしていたのだろうが、当時、どこまで理解していたか。
 
 それより前の昭和40年代、いわきでも公害問題がピークを迎えていた。その経験から、クレハは「地域との共生」を前面に打ち出す。
 
 いわきキノコ同好会が発足したときには、クレハからも愛菌家が参加した。クレスチンはカワラタケの菌糸体からつくられる。その研究にたずさわったかどうかはわからないが、顔の見える企業になった、という印象を受けた。
 
 それよりなにより、市民の暮らしに直結している製品といえばクレラップだ。いわきの人間としては、やはりサランラップよりクレラップに手が出る。クレハの工場を見学しながら、まちがって「サランラップ」といわないように――それぞれが“予習”しながらの道行きとなった。
 
 おまけをひとつ。勿来支局に勤務する前は本社で市役所を担当していた。公害問題では取材競争が行われた。旧知の元県職員氏も、たまたま私と同じように誘われて見学会に参加していた。当時、公害を監視し、取り締まる側だった。「あのころは……」と2人、様変わりした工場敷地内を見学しながら、センチメンタルジャーニーの気分にひたった。

2014年3月13日木曜日

節目報道

 東日本大震災から丸3年の「節目報道」が3月11日にピークを迎えた。なかで、3月8日に放送されたETV特集「ネットワークでつくる放射能汚染地図~福島原発事故から3年」が胸に響いた。
 
 わがふるさと・阿武隈高地を走る国道399号、同288号、114号などの「原発ロード」の放射線量が可視化されていた=写真。深夜ひとり、網膜に焼き付いている現実の風景と重ねながら、「ふるさとの今」を見た。
 
「節目報道」は別名カレンダージャーナリズム。そのことを忘れている人には有効だが、一日も忘れられない人にはかえって苦しみとなる場合がある。交流スペース「ぶらっと」=イトーヨーカドー平店2階=へ足を運んだ人の何人かがそうだった。3月11日の「ぶらっと」の様子を告げるスタッフブログを次に要約・紹介する。
                 *
 今日は午前中から続々と人が集まって、2時46分、みんなで黙祷しました。亡くなられた方々に心からご冥福をお祈りします。本日、ぶらっとに足を運んでくださった方の声をご紹介させていただきます。
 
「テレビは震災のことばかり。見たくないからDVD借りてきた」「世間では風化しないように……と特番ばかり。もう忘れたい。見たくない」「昨日、家で縫い物をしていたらテレビで震災のことをやっていて、涙が止まらず針が指に刺さった」

「もう3年。最初の年、自分が何していたのか覚えていない」「一人で家で落ち込んでいるより、ぶらっとで笑い合ってるほうがいい」「みんなの顔を見に来た。一人でいたらおかしくなりそう」「昨日、夢で地震にあい家の扉が開かなくて避難できない夢をみて気分が悪くなり起きた。その後、ずっと胃がキリキリしていた。思い出すだけで頭痛い」「3年たつのに結局何も変わらず、住む場所も決まっていない」
                *
 メディアは「特別の日」であればあるほど高揚する。ところが、肝心の当事者、地震や津波で家を失い、原発事故でふるさとを追われた人たちは逆だ。できるだけ平常心を保とうとする。私も3月11日は、新聞をじっくり読むこともなく、テレビを見続けることもなく、その日やらなければならないことを決めて過ごした。
 
 朝から期限の迫った確定申告の準備に追われた。微々たる額だが、源泉徴収をされた所得税がある。それを取り戻すための還付申告に必要な書類をそろえ、昼過ぎ、会場のイオンいわき店へ出かけた。順番待ちの列に加わること1時間余。係の女性がパソコンの画面を開き、てきぱきと入力して手続きをすませてくれた。

 腹をすかせて家に帰ると、花屋のM子さんがいた。見も知らない大阪の花屋さんからの、被災地いわきの人間に対する花の慰労を受けた。M子さんが帰るころ、小学生たちがわが家の前をおしゃべりしながら通りすぎた。それで、大地震がおきた午後2時46分が近いことを知る。
 
 ひとり茶の間へ戻り、海の方を向いて黙祷した。そのまま、コタツにもぐりこんで休んでいると、今度は豊間の大工のS君が相棒とやって来た。M子さんのときもそうだったが、当時の話をすることはなかった。とうとう昼めし抜きになった。

 メディアの話に戻る。きのう(3月12日)は、「ぶらっと」のブログを書いたスタッフが、被災者を支援する人間のひとりとして新聞に紹介されていた。「なんか自分の伝えたいこととメディアの求めることは違うみたいでもどかしい」。市民とメディアのこのズレ、深くなっていないだろうか。

2014年3月12日水曜日

大阪から花が

 きのう(3月11日)、確定申告をすませて帰宅すると、客人がいた。昔からの友人M子さんで、娘さんが始めた花屋を営んでいる。火曜が定休日だ。カミサンといつものようにおしゃべりをしている。が、それは目的の半分で、もう半分は花=写真=を届けに来たのだった。

 だれが、わが家に花を? 娘さんの知り合いの大阪の花屋さんだという。事情がよくのみこめない。3・11から丸3年。節目の日に、M子さんの友達に花を――と、大阪の花屋さんから注文を受けたのだという。

 M子さんの友達リストに私ら夫婦が入っていた。旧知のジャズ喫茶のマスター、オーガニック商品の店の経営者などもそのなかにいた。ハマ・マチ・ヤマのいわきの区分でいえば、いずれもマチの人間だ。津波被害を免れたとはいえ、地震の被災者には違いない。そのマチの人間が、大阪の花屋さんとM子さんのはからいで、3月11日に思いもよらない花束のプレゼントを受けた。
 
 チューリップが3本、カーネーションが2本、ガーベラが1本。M子さんが休日を返上してアレンジし、届けてくれた花だ。

「この3年、花をあげることはあっても、もらうのは初めてだわ」。カミサンが感に堪えない様子でつぶやく。確かに、私も花束のいわれを聞いて不思議な感覚に襲われた。外部の人から初めて被災者として認められたような……。午後2時46分の1時間前、私は大阪の花屋さんに感謝しつつ、花束に大いに慰められたのだった。

2014年3月11日火曜日

ノアはどこにいるのですか

 いわき市立草野心平記念文学館で「3・11といわきの詩人、歌人」展が開かれている。全国文学館協議会の共同展「3・11文学館からのメッセージ 天災地変と文学」の一環だ。

 いわきの詩人で震災当時、南相馬市の小高商業高校に勤めていた斎藤貢一(筆名・斎藤貢)さんの詩=写真、同じくいわきに住む歌人高木佳子さんの短歌が展示されている。斎藤さんの詩集『汝は、塵なれば』(2013年9月、思潮社刊)、高木さんの歌集『青雨記』(2012年7月、いりの舎刊)がテキストだ。

 先週の土曜日(3月8日)、文学館の事業懇談会が開かれた。会議の前に、副館長に教えられて、常設展示室と企画展示室の奥にあるアートパフォーマンススペースで、斎藤さんらの作品と向き合った。

 斎藤さんの作品「南相馬市、小高の地にて」は、小高商校長として体験した3・11の“ドキュメント詩”だが、後半部に彼の思想がこめられる。

 見えない放射線。/ヨウ素、セシウム、プルトニウム。/それはまるでそれと
 も知らずに開封してしまったパンドラの箱のようで/蓋を閉じることができ
 にいる。

 わたしたちは、ふるさとを追われた。/楽園を追われた。/洪水の引いた後の
  未来には、果てしない流浪の荒野が広がっていて/神よ、これは人類の原罪。
  /これを科学文明の罪と呼ぶのなら/この大洪水時代に、ノアはどこにいる
 ですか。/地球は巨大な箱船(アルク)になれるのですか。

 いくつもの厄災が降り落ちてくる星空をながめながら/カナンの地まで。

 荒野をさまようわたしたちの旅は/いったい、いつまで続くのだろうか。

 事業懇談会には「歴程」同人の斎藤さん、いわきの詩誌「詩季」同人の長久保博徳(筆名・長久保鐘多)さんも加わっている。斎藤、長久保さんのほかに、旧知の地元の委員もいる。
 
 会議が終わって、すぐ学校(郡山東高)へ戻るという斎藤さんと別れ、長久保さんと少し話をした。3月11日で丸3年になるが、節目という気がしない、なぜだろうというから、原発があるからね――それで了解し合えるのだった。
 
 いつ再び暴走を始めるかわからない手負いの原発と隣り合わせで暮らしている。文明が生み落としたこの怪物は、壊れて水漏れのするヤカンの中で、水につかって静かにしているだけだ。汚染水が止まらない。トラブルが次々に起きる。いわきの人間も、いつカナンの地を求めて流浪の旅に出るかわからない――そんな懸念がときどき胸をふさぐ。
 
 最初の1年はわけもわからず過ぎた。節目の日には豊間のキャンドルナイトへ出かけた。丸2年の節目の日にも豊間へ出かけた。丸3年がたとうとしている今は、地震・津波からの復興を実感する一方で、「現代の怪物」に対する不安・怯えが日常化した。

きょう(3月11日)はふだんの日と変わらず過ごす。午後2時46分には海の方角を向いて黙祷する。津波犠牲者への鎮魂と追悼の思いを新たにする。

2014年3月10日月曜日

3・9から3年

 きのう(3月9日)、1カ月ぶりに夏井川渓谷の隠居(無量庵)へ出かけた。雪は道にも、庭にもなかった。台所と風呂場の水道管も凍結・破損を免れていた。

 が、東側の庭木の太い枝が幹からはがれかかりながら倒れていた=写真。2月15日の暴風雨(雪)に傷めつけられたのだろう。西側のシダレザクラの下にも太い枝が折れて横たわっていた。立ったままの木を眺めている分にはそう思わないのに、折れて横たわると木は長い。重い。片づけきれないので1本はそのままにしておいた。

 3・11直前の日曜日である。ラジオ(NHK第一)は「のど自慢」のあと、「被災地川柳」を放送していた。3月に入って増えた「東日本大震災3年」の特番のひとつだろう。そういえば、この日、いわき市はアリオスで「3・11いわき追悼の祈りと復興の誓い2014」を開いた。

 3年前の3月9日は水曜日だった。生活リズムがずれて日曜日に休むことがなかなかできなくなった。そのため、ひとり、水曜日に息抜きを兼ねて隠居に来ていた。昼前、地震が発生した。そのときの様子を記したブログの一部を再掲する。
               *
 間もなく正午、というときに、家がカタカタいいはじめた。急に風が吹き始めたかと思うくらいに、揺れは外からやってきた。大地の底からグラッとくる感じではなかった。<地震かな>。軽い身震いのようなものがしばらく続いた。そのうち、全体が揺れ始めた。<やっぱり地震だ>。それでも急にグラグラとはこなかった。横揺れだった。長かった。

 こたつで本を読んでいた。真正面の対岸は岩盤の露出した急斜面だ。その林を凝視し続けた。前夜に雪が降ったらしい。モミや裸の木の枝が雪をかぶっていた。林床も雪化粧をしていた。急斜面だから、しょっちゅう落石がある。地震の影響(落石)がないものか。目前の山に神経を集中した。見た目では、「崩れ」はなかった。

 NHKラジオはすぐ特番に切り替わり、津波への警戒を伝え始めた。臨海の役場に電話を入れて状況を聞き始めた。

 <あれっ>と思った。「港に人はいませんか」。いたら注意してください――まるで命令しているようなアナウンサーの口調だ。有事になると、NHKはオカミになるわけだ。なるほど。
               *
 2011年3月9日午前11時45分、三陸沖でM(マグニチュード)7.2の地震が発生した。宮城県栗原市などでは震度5弱を記録した。2日後に起きる巨大地震の前震だとは、むろんわからなかった。後知恵でいえば、揺れ方は3・11の本震と重なる。カタカタ、最初は静かに……。NHKのアナウンスもあの程度では弱かったか、などと、今はこちらの認識の甘さを反省している。

 3・9から丸3年。なんの屈託もなく渓谷の風景を眺めていたのは、そのときが最後だった。私のなかでは幻の鳥だったマヒワが庭の近くの木々を群飛していた。写真に撮って喜んだ直後の地震だった。それから2日後に巨大地震が発生し、原発事故がおきる。

2014年3月9日日曜日

神楽山の雪

 いわき市立草野心平記念文学館は、小川町の夏井川右岸、南西の丘の上にある。ロビーの透明な壁面から、真正面に小川のシンボル・二ツ箭山(標高710メートル)が見える。

 きのう(3月8日)、用があって文学館を訪ねた。二ツ箭山にはほとんど雪がなかった。が、左奥にそびえる神楽山(標高808メートル)には、沢を中心に雪が残っていた=写真。雪国の春の山といった風情だ。

 平市街の西に阿武隈の山が連なる。最も高い水石山(標高735メートル)の頂上に雪の帯が見える。視線を北へ移せば、久之浜の三森山(標高656メートル)の奥の山にもはだら雪が残る。平地から一歩入って阿武隈の舌先に立つと、もっと奥の山々がうっすら雪で白くなっているのがわかる。

 立春に雪が降り、その週末には大雪になり、さらに1週間後にも平地で暴風雨、山地で雪に見舞われた。いわきの街の雪は、太陽が顔を出すとすぐ消える。水石山の山頂の雪も日をおかずに解ける。それが、今回は違った。街にも除雪車が出た。

 神楽山は小川からみれば夏井川の上流、川前町にある。南面から流れ出した水は川となって、わが隠居(無量庵)のある夏井川渓谷で本流と合流する。隠居の飲料水はこの山の地下水だ。

川前では2月22日、市社会福祉協議会の呼びかけに応じて雪かきボランティアが出動した。フェイスブックで知った。

わが隠居は川前への道の途中にある。この1カ月、足を運んでいない。幹線道路にすぐ除雪車が出動したのは、これまでの経験から容易に想像がつく。でも、庭の雪は? 2月24日に用があって隠居へ出かけた友人が「ひざまであった」と驚いていた。

 きょうは用事を一つ片づけたら、隠居へ出かける。台所の水道管が凍って破損し、水を噴いていなければいいのだが。

2014年3月8日土曜日

ユーモアセラピスト

 ユーモアセラピストの百笑溢喜(ひゃくしょういっき=本名・植松康宏)さん=写真=が、卒業間近の小6生を相手に“口演”した。PTA活動を通じて知り合ってから30年余。植松さんは、私のなかでは「いわきの綾小路きみまろ」だ。毒舌ではなく、ダジャレで人の心をほぐす。計算された話芸が12歳にも通じて、笑いがはじけた。

 6年生は卒業と同時に、小学校の同窓会の会員になる。その入会式が先日、学校で行われた。

 学区内に八つの行政区がある。区長は同窓生でなくとも自動的に会の幹事になる。案内が来たので入会式に立ち会った。式だけなら同窓会長と校長があいさつし、児童代表が入会の誓いをして終わり――それだけでは思い出深いものにならないと、現会長が旧知の植松さんの漫談講演を仕掛けたという。

 植松さんは元PTA役員で同じ同窓会の顧問もしている。昔からダジャレを飛ばして人を笑わせていた。笑いに年季が入っている。プロの漫談家による「課外授業ようこそ先輩」のようだった。
 
 最初にマジックで引きつけ、本題に入る。時事ネタが多い。少子高齢化の問題では、「昔むかし、あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。今は『あるところに』ではなく、『いたるところに』住んでます」。12歳がドッと笑う。
 
 サケの稚魚が数年後にふるさとの川へ戻ってくる話では、「魚で頭がいいのはサケではない、メダカです。なぜって、学校に行ってるから」。居並ぶ幹事さんも爆笑した。
 
 植松さんは公民館や福祉施設で「笑いの出前」を続けている。震災後はいわき市内の交流スペースや仮設住宅、市外の団体や施設からも声がかかるようになった。イトーヨーカドー平店2階にある交流スペース「ぶらっと」での“口演”は、その先駆けだったのではないか。
 
 モットーは「私がいるために誰かが幸せになる」。“笑涯楽集口座”は子どもたちの前でも快調だった。

2014年3月7日金曜日

フキの油いため

 食料は車で5分ほどのスーパーでまとめ買いをする。合間に、近所のコンビニや街の大型店で酒のつまみを買う。スルメ、ピーナッツ、マグロの切り落としのたぐいだ。

 おととい(3月5日)は量り売りの「フキの油いため」を買った。街中にあるビルの食品コーナーをぶらぶらしていたら、ショーケースに陳列されているのが目に留まった。しばらく食べていない。その晩、さっそく口にした=写真。ん?ずいぶん甘いぞ。フキの風味はどこかへ消えている。ただただ砂糖の甘さが口に残った。これが街の人間の味覚なのか、と思った。

 フキの油いためは好物のひとつだ。阿武隈の山里では、初夏に採ったものを塩漬けにする。盆や正月などのハレの日に、塩抜きをしていためたフキがでんと大皿に盛られて出てくる。野趣を損なわない程度にやわらかく、あっさり甘く味付けされたものがいい。

 フキノトウのてんぷら、フキのみそ汁、フキみそ……。フキの油いために刺激されて、フキにまつわる記憶が立ちのぼる。フキノトウは、母方の祖母が住んでいた山家近くの沢で摘んだのが最初の記憶だ。小学校に上がる前、6歳のころだったろう。小4のころには、半ば強制的に母に連れられてフキ採りを経験した。

 子どものころは苦くて食べられたものではなかった。が、その苦みが大人になったときに郷愁と結びついて、食を彩り豊かなものにしてくれる。フキノトウを苦くてうまいと感じたのは20代半ばだった。酒のつまみに加わった。

 4月下旬には山菜採りが始まる――と思いながらも、この3年間はほんの1、2回しか山菜を採ったことがない。秋のキノコもそうだ。山里の直売所で売っていた塩漬けのフキも、この3年というもの、買ったことがない。売り手のおばさんの家でも在庫がなくなったのではないだろうか。

「半商品」の塩蔵フキではなく、「食品」のフキの油いためを買うしかなくなった状況が、実に情けない。

2014年3月6日木曜日

日本語がきれい

 故テレサ・テンのテレビ番組はたいがい見る。おととい(3月4日)の夜は、BSジャパンで「昭和は輝いていたSP――アジアの歌姫テレサ・テン」が放送された=写真
 
 テレサのことになると、おしゃべりの止まらない同級生がいる。還暦を機に始まった“海外修学旅行”のときか、合間に組みこまれた国内旅行のときか、記憶はあいまいだが、一夜、“テレサ礼賛”を延々と聞かされた。仕事で台湾へ行ったときに墓参りをした、立派な墓だった――確かそんなことも言っていた。彼もテレビと向き合っているんだろうなと思いながら、最後まで番組を見た。
 
 日本でテレサを売り出した元レコード会社の舟木稔さん、作詞家荒木とよひささんがゲストで、武田鉄矢とテレビ東京の女子アナが司会を務めた。大ヒット曲「愛人」にある<尽くして 泣きぬれて そして愛されて>について、意識して「て」を重ねたという荒木さんの告白が面白かった。一種の脚韻だろう。
 
 それはさておき、テレサの歌を聴いて思うのは、日本語がきれいで明瞭だ、ということだ。両親は蒋介石とともに中国大陸から台湾へ移住してきたという。テレサは台湾で生まれた。なのに、日本語の歌の発音に違和感はない。
 
 テレサの映像を見ながら、日本語のきれいな女性の顔が浮かんだ。1人はNHKの久保田祐佳アナウンサー。大河ドラマ「八重の桜」の番組の最後に放送される「八重の桜紀行」のナレーションを担当した。
 
 もう1人は……だれだっけ、だれだっけと思いながら、テレサの横顔がアップされたときに、顔が浮かんだ。女子スキージャンプの高梨沙羅さん、17歳。

インタビューにこたえる彼女の言葉は、大人の日本語だ。正確で無駄がない。英語もできる。海外遠征のために努力してマスターしたという。彼女をなんとなく好ましいと思っていた理由がわかったような気がする。高梨さんはテレサの若いときによく似ている。テレサの歌も上手に歌えるのではないか。

2014年3月5日水曜日

住宅除染

 街へ用事があれば、行きか帰りのどちらかに夏井川の堤防を通る。2カ所、住宅に囲まれた小公園が堤防のそばにある。ほぼ同時に、除染作業が行われた。表土をはぎとり、黒いフレコンバッグに詰める。公園に大きな穴を掘って、その袋を埋める。作業の過程で一時、黒い袋と土砂の山ができた=写真

 いわきの市街地では、除去した汚染物を保管する仮置場の確保が難しい。中間貯蔵施設ができるまでは敷地内で保管するしかない。個人の住宅でも事情は同じだ。庭に穴を掘って土をかぶせる地下保管か、汚染物を土嚢で囲う地上保管か、どちらかを選ぶことになる。土で覆うことで放射線量は98%遮蔽できる。が、汚染物の詰まったフレコンバッグは当面、敷地に残る。

 先日、隣組の回覧網を通じて「平地区の除染実施同意書について」と題するチラシが各戸に配布された。いわき市では「市除染実施計画」に基づき、比較的線量の高い北部4地区(川前、久之浜・大久、小川、四倉)で住宅除染を実施している。平地区でもその準備が整った。ついては、土地立ち入りの同意が必要なので、後日、除染実施同意書を郵送する、返信を――というのが内容だった。
 
 除染実施までの段取りとして、①土地立ち入りの同意書取りつけ②事前モニタリングの実施③除染説明会の開催④作業計画書の作成――などがある。
 
 線量が毎時0.23マイクロシーベルトを超えていれば除染の対象になる。住民はすでに自宅内外の線量を把握しているはずである。少なくともわが家では、除染は必要としない。書類が届いてもその旨の返事になる。小川の夏井川渓谷にあるわが隠居(無量庵)では晩秋、敷地の全体除染が行われた。汚染物は、交流のある隣接区の好意で、同区に設けられた仮置場に搬入された。山里だからこそ仮置場が確保できた、まれなケースだろう。

 堤防そばの公園は、今は残土が少しあるだけになった。その一角に立つリアルタイム線量計の数値は、今朝(3月5日)は0.114ほどだった。

2014年3月4日火曜日

年金天引き

 65歳の誕生日がきたので、昨年12月に介護保険料の納付が始まった。2回目はすっかり忘れて2月下旬に督促状がきた。1月納期分に延滞金100円を上乗せして払い、2月末日期限の3回目分もぎりぎり最後の日に納めた。まだ介護保険が頭に入っていない証拠だ。

 後日、今度は国民健康保険税の納付方法についての知らせが届いた=写真。今年6月から年金引き落とし(特別徴収)になるが、それを望まない場合は申し出によって口座振替(普通徴収)に切り替えることができる、というのが内容だった。切替申出書が同封されていた。

 注意書きがわかりにくい。まず、申し出期限についての文章。「年金からの特別徴収を6月の年金から中止するためには、3月31日(月)までに提出してください」は、「6月の年金からの特別徴収を望まない方は、3月31日(月)までに切替申出書を提出してください」というふうになっていれば、頭をひねらずにすんだ。まだ特別徴収をしていないのに「中止」はない。目的語(切替申出書)も抜けている――ついつい校正する癖が出た。
 
 口座振替手続きに関する文章、「既に口座振替で納付されている方は、改めて手続きをする必要はありません」も、「……方は、改めて金融機関で手続きする必要はありません」と、「金融機関」が入っていれば悩まなかった。切替申出書そのものを提出する必要がない、と誤読されることはないのか。
 
 注意書きを何度も読み返して、ようやく切替申出書を出さないと自動的に年金天引きになる、申出書は直接役所へ持って行かないといけない、ということがわかった。いかにも役所らしいわかりにくい文章だ。あえてそうしているのか。

 介護保険料は、2年目の新年度からは年金天引きになる。国保税も年金天引きになる――市民感情としてはおもしろくない。国保税は口座振替で支払っているので、普通徴収で対応することにした。

 支払う額は同じでも、「天引きされる」よりは「支払う」方がましだ。主体的になれる。カネの動きも通帳に残る。特別徴収では減額された年金しか振り込まれないから、人間まで減額されたような気分になるだろう。せめてもの“抵抗”だ。

2014年3月3日月曜日

トンチンカンな日々

「ごはんよー」。台所から声がかかった。食卓に向かったら、「あっ、(炊飯器の)スイッチが入ってなかった、ごめん、ちょっと待って」。昔はここでひとことふたこと文句が出たものだが、このごろはだいぶ“許容力”がついた。

 ある晩、隣家との境からカーオーディオの音が聞こえてきた。茶の間のテレビの音とは別に、くぐもった音が低く、途切れることなく響く。台所の窓からのぞいたが、外に車が止まっている気配はない。音も聞こえない。茶の間に戻ると、また音が小さく低く響く。おかしいなぁ――。

 茶の間に石油ストーブがある。タンクに給油するため、やかんを持ち上げたら突然、音が鳴りやんだ。音源は、やかんのお湯のガンガンカンカンだった。耳鳴りとテレビの音が重なって、ガンガンカンカンがカーオーディオからもれるモダンジャズっぽい音楽に聞こえた。

 夫婦で少しずつトンチンカンの回数が増えている。“言い間違い辞典”をつくることにした。

「イグアスの滝」が「イグアナの滝」になり、「沢尻エリカ」が「沼尻エリカ」に変身する。先日、客人と食べに行って気に入った「スーラー野菜湯麺(タンメン)」も、次の日には「ソーラー野菜湯麺」に変わっていた(「スーラー」は漢字で「酢辣」。風邪を引いたかなと思ったときに、このタンメンを食べて汗をかいたら体調が戻った――と、同席した知人がいう。面白い味だった)。

 幼い子は大きくなるにつれて類音を区別するが、大人は再び幼い子に戻っていく過程で類音の区別がゆるくなっていく、ということだろうか。
 
 まど・みちおさんの訃報に接して、まどさんの『百歳日記』(NHK出版生活人新書=写真)を読み返した。2010年1月3日放送のNHKスペシャル「ふしぎがり~まど・みちお百歳の詩」から生まれた本、と帯にある。なかに<トンチンカン夫婦>という詩が載る。その一部。
 
 私が片足に2枚かさねてはいたまま
 もう片足の靴下が見つからないと騒ぐと
 彼女は米も入れてない炊飯器に
 スイッチを入れてごはんですようと私をよぶ
 おかげでさくばくたる老夫婦の暮らしに
 笑いはたえずこれぞ天の恵みと
 図にのって二人ははしゃぎ
 明日はまたどんな珍しいトンチンカンを
 お恵みいただけるかと胸ふくらませている 
 
 笑いは確かに絶えないが、それはトンチンカンをごまかすためで、内心はやはり、おたがいの“ボケ度”を測っているところがある。
 
 先日も、いただいた白菜の産地をめぐって、「熊谷だ」「いや、深谷だ」となった。贈り主の知人のブログから熊谷産であることを確かめると、「私はそう言ったでしょ、それなのに深谷だ、深谷だってきかないんだから。深谷ネギが頭にあったんだわね」と勝ち誇ったように言われた。