2014年4月30日水曜日

スギナも必要だ

 アメリカのニューディール(新規まきなおし)政策は、「テネシー河谷開発」が最大の事業だった。このダム堰堤(えんてい)の土砂流出を防ぐために、日本のクズが利用された。同じアメリカのジョージア州でも、1800年代末に土壌の流出防止と家畜の飼料のために日本からクズが輸入された。そのクズが今、アメリカで猛威を振るっている。

「ナショナルジオグラフィック」2005年3月号の特集<侵略しつづける外来植物>の米国編で知った。テネシー河谷開発は日本の国土総合開発の手本になった。「草の根民主主義」という言葉はこの事業から生まれた――そんなことも思い出した。

 それにはわけがある。あちらは大規模開発、こちらは小規模除染だが、いかに庭の土砂流出を防ぐか、という点では同じだ。
 
 夏井川渓谷にある隠居(無量庵)の庭の土がはぎとられ、山砂が敷き詰められた。草のない校庭のようになった。少し傾斜しているので、雨が降るたびに溝が深く、大きくなる。それで、庭の草は刈っても根は抜かないと決めた。
 
 スギナが地面を覆い始めた=写真。菜園のスギナはもちろん、引っこ抜く。地下茎が深い。根絶やしにするのはまず無理。それが、逆に庭の土をつなぎとめてくれる。クズも間もなく葉を広げ、つるを伸ばす。今年はクズにもがんばってもらおう。
 
 群馬県の山里で暮らす哲学者内山節さんの『自由論―自然と人間のゆらぎの中で』(岩波書店)にあるエピソード――。日照りの夏、畑をふと見たら少し大きめの石があった。取り除こうとして石を持ちあげると、石の下はわずかばかりの湿り気と冷たさを帯びていて、ミミズのような小動物が集まっていた。
 
 畑の土は小動物がつくっている。その小動物を小石が日照りから守っている。それと同じで、庭のスギナやクズも土砂の流出を防いでいる。根絶やしにはしない。

2014年4月29日火曜日

タラの芽ドロ

これはもうドロボウというほかない。今年は徹底的に荒らしてくれたものだ。タラボ、つまりタラの芽。摘まれ、折られ=写真、切られて全滅した。

夏井川渓谷の隠居(無量庵)の庭の隅に、地元の人からタラノキの苗木10本をもらって植えた。2009年のことだ。長さ30センチほどの“鉛筆”が、満5年たった今は高さ約4メートルに生長した。幹も“擂り粉木棒”くらいの太さになった。いくら背伸びをしても、先端のタラの芽には手が届かない。

わきの地面から若木がいくつか生えてきた。それにもタラの芽がついている。毎年この時期、5~6個は摘む。つつましい? いや、採られてそれくらいしか残っていないのだ。

きのう(4月28日)は、溪谷へ花を見に来たふるさとの人間とのうれしい出会いにふれたが、きょうはその逆、無量庵の庭の植物たちを荒らす人間のことを書く。

タラノキの苗木を植えて3年目、原発震災から1カ月余の4月下旬、タラの芽がきれいにカットされてなくなっていた。放射線量はかなり高かったことだろう。それがタラの芽受難の始まりだった。ほかに、玄関わきの樹下に葉ワサビを植えたら、1年後には掘られてなくなった。風呂場の前の花壇に植えたジンチョウゲの苗木も消えた。

犯人は? 若い世代ではない。タラボがそこにあるというだけで、他人の庭であることを忘れてしまう神経の持ち主のうえに、鎌で幹をばっさり斜めに切り倒し、幹を折れば折ったでそのまま放置する容赦のなさからして、“山菜プシコーゼ(病)”の中年男にちがいない。

四本足で歩行する生きものに荒らされたとしたら、生きものの領域に人間が間借りしているのだからと、あきらめがつく。が、二足歩行の生きものが犯人となると、そうはいかない。善悪のブレーキが壊れて欲望に走る度し難さ。ヒトはある意味でイノシシより始末におえない。

2014年4月28日月曜日

ふるさとから来た男性

 今月(4月)は6、13、20、27日と毎日曜日、夏井川渓谷の隠居(無量庵)へ出かけた。山峡に春を告げるアカヤシオ(イワツツジ)が咲きだす、満開になる、色が落ちる、姿を消す――1週間ごとの変化が鮮やかだった。
 
 アカヤシオから少し遅れて木の芽が吹き、ヤマザクラが咲き始めると、冬枯れた斜面は若緑や臙脂(えんじ)色に染まる。きのう27日は、パステルカラーの斜面にシロヤシオ(ゴヨウツツジ)の花が咲いていた=写真。逆光のなか、そこだけ朝日に輝いていた。今年は少し開花が早い。

 菜園の土おこしを少しして、隠居の前の道路に立って辺りをながめていると、見も知らぬ男性が隣の「錦展望台」の方からやって来てあいさつした。「ここに常葉出身の人間がいると聞いたんだけど……」「私ですが……」。なぜ知っているのだろう。それに、話が唐突ですぐには理由が飲みこめない。要は次のようなことだったらしい。

 彼は私のふるさと、田村市常葉町の人間だ。船引町に近い西向(にしむき)の板橋というところに住んでいる。1週間前にも渓谷へやって来た。そのとき、私の中学校の同級生でいわきに住む板橋出身の女性にばったり会った。彼女から私と隠居のことを聞いたという。

 一度、いわきに住む同級生が集まって、無量庵でアカヤシオの花見をしたことがある。彼女も参加した。今年はたぶん家族でアカヤシオの花を見に来たのだろう。隠居へ顔を出せばよかったのに……。

 男性は私の実家の兄を知っていた。聞けば、兄より1歳上、私よりは4歳上だ。小学校は別でも、中学校では先輩に当たる。髪の毛が黒々としている。思わず「若い」と叫んでしまった。

 2週続けて渓谷を訪れたのにはわけがある。「ミツバツツジを見に来たんだが、咲いてるかなぁ」「ああ、トウゴクミツバツツジですね。この道(県道小野四倉線)ののり面に咲いてましたよ」

 アカヤシオでも、シロヤシオでもない。トウゴクミツバツツジが狙いとは。写真撮影が趣味かどうかはともかく、こうしてふるさとの人間にばったり会い、親しく話したのは初めてだ。あきずに夏井川渓谷へ通っているからこその、うれしい偶然ではあった。

2014年4月27日日曜日

山里の売り家

 カミサンの同級生の家がいわきの山里(三和町)=写真=にある。本人は首都圏に住む。うしろの山と畑付きで売りに出した。引き合いはある。足を運ぶ人もいる。建物や自然環境は申し分ない。が、職場のあるふもとのまちまで遠い、不便だ――という理由で、まだ成約には至っていない。

 平のまちから好間川沿いに山を駆け上がり、脇道に入って峠を越えると小盆地に出る。田んぼを囲むようにして家が散在している。前にも訪ねたことがあるので、迷わずに着いた。

 庭のカーポートの屋根がおじぎをしていた。2月の大雪で2本の支柱が根元で折れたのだという。あのときは、平地でも除雪車が出た。
 
 敷地内におばさんの家がある。ここも空き家だ。中のものを始末していい、ということになって、カミサンに声がかかった。カミサンは衣類のリサイクルに慣れている。仕分けが始まれば「運転手」の出番はない。家の周りをぶらついて時間をつぶすことにした。

 県道からの進入路のそば、山に続く土手の上にクリ林がある。元は畑だった。イノシシのラッセル跡があった。空からかすかにタカの声が降ってきた。2羽が空を舞っている。すぐ写真を撮り、あとでパソコンで拡大したらノスリだった。敷地に沿う小さな水路の土手には、摘みごろのクサソテツ(方言名コゴミ)が茎を伸ばしていた。

 その夜、BSプレミアムで「まるごと知りたい!AtoZ さあ行こう!里山ワンダーランド」を見た。舞台を三和へ移していうと、カミサンの同級生の実家は里山の資源に満ちた山里にある。

 仕事に疲れたら散歩に出る。クサソテツを摘んで、ゆでて食べるのもいい。ノスリを仰ぎ見ながら、食物連鎖や自然の生態系に思いをめぐらせるのもいい。インターネットを利用して「在宅ワーク」ができる若者こそ、山里暮らしをしてほしい。そう思った。

 山里の西方の稜線には、東電広野火力発電所の送電鉄塔が立つ。それもまた、人間を鍛えるリアルな風景の一部だ。

2014年4月26日土曜日

俳誌「浜通り」の特集

 浜通り俳句協会(結城良一代表)が結成されたのは昭和44(1969)年2月、会員の作品発表の場である俳誌「浜通り」が創刊されたのは同年5月25日だったという。

 年4回発行の季刊誌で、おととい(4月24日)届いた152号に、「45周年記念号」とあった=写真。そのための特集が組まれているわけではない。東日本大震災直後に始まった特集は今号で12回目。ほかに去年(2013年)暮れに亡くなった俳人仲間の武川一夫さんの特集記事が載る。

 私は、たまたま旧知の代表に頼まれて、「いわきの大正ロマン・昭和モダン――書物の森をめぐる旅」というタイトルで読書感想文を載せている。今号で17回、ということは連載5年目に入ったわけだ。

 実生活上のコミュニティがある。それとは別に、ある共通の目的で結ばれたコミュニティがある。私の場合だと、いわきキノコ同好会、いわき地域学會がそれだ。デッサン、押し花、レッドワーク、カラオケ、健康運動サークル、その他なんでもいい。人はさまざまなコミュニティに所属して生きている。

 とりわけ俳人は、俳号を介して風流の世界に遊び、年齢や地域、性別を超えて、対等に、強いきずなで結ばれていく。それを裏づけるように、武川さんの人となりや作品、エピソードが17ページにわたって載る。なんとうるわしい友情だろう。ここまで俳人として生きたあかしをつづってもらえれば、死者も彼岸で満足しているにちがいない。
 
 実生活では、こうはいかない。「浜通り」が届いた日の前後に、2人の訃報に接した。用があって電話をかけたばかりの女性が2日後に急死し、知人と話した何時間かあとに、知人のお父さんが交通事故死をした。新聞折り込みの「お悔み」チラシや記事で知った。此岸から彼岸への、突然の旅立ち。ずしりと重い死が胸のなかで残響している。

2014年4月25日金曜日

子ども見守り隊

 子ども見守り隊の総会が先日、小学校で開かれた。休眠状態だったのが、子どもに声をかける不審者が現れ、問題となったことから、再結成がはかられた。

 学区内には8つの行政区がある。住宅の密集する区があれば、田園・山野の広がる区もある。総会では、イノシシが出没している、サルも現れた、という声が出た。子どもの視点で地域を点検すれば、注意を要するモノ・コトが少なからずある。

 山際を巡る江筋(農業用水路)も、田植え時期を迎えて大量に水が流れるようになった。切れた外灯、これも要注意。

 総会のあと、体育館で見守り隊員と全児童の顔合わせ会が行われた。児童たちはこのあと、警察官の指導で交通安全教室に臨んだ=写真。1年生は黄色い帽子をかぶっているので、すぐわかる。

 わが家の前の歩道が通学路になっている。朝は7時15分ごろに子どもたちが通っていく。午後は2時50分ごろ、ワイワイ言いながら帰ってくる。それで、毎日「2:46」になったことを知る。
 
 きのう(4月24日)、用事があって隣の学区にある店へ出かけた。子どもたちが下校してくるところだった。黄色い帽子はいなかった。小1のわが孫の通学路だという。もっと時間が早ければピカピカのランドセル姿を見られたかもしれない。孫も、よその子も、同じ地域の子ども、地域の未来、地域の宝――見守り隊員の原点がここにある。

2014年4月24日木曜日

古巣コレクション

 座敷と風呂場の間の坪庭にアシナガバチの古巣が落ちていた。キイロスズメバチの巣、鳥の巣、そしてアシナガバチの巣。“古巣コレクション”がひとつ増えた。夏井川渓谷の隠居(無量庵)での話だ。

 隠居は、ふだんは雨戸を閉めたままだ。週末だけ少し人の気配がする。生きものにとっては雨風をしのぐ格好の場所なのだろう。すきまからノネズミが入り込む。鳥が庭木に、キイロスズメバチが軒下に巣をつくる。

 わが隠居に飾ってあるキイロスズメバチの古巣はサッカーボール大。坪庭の軒下に営巣したのを、もぬけの殻になった初冬に回収した。外観は陶芸の世界でいう「練り込み」。形は大きいのに軽い。隠居の「家宝」になった。

 鳥の巣は、たぶんヒヨドリが製作者だ。隠居の庭は石垣で土留めがされている。その石垣と庭の接点から1本、クワの木が枝を広げている。カミサンがこの木を剪定中に「空き巣」を発見した。巣材に人工的な高分子化合物(ビニール片など)は含まれていなかった。

 そして、今度コレクションに加わったのがアシナガバチの古巣。坪庭に落ちていたが、そこの軒下で巣を見た記憶はない。どこかにあったものが風で吹き飛ばされてきたのだろう。正六角形の巣房(すぼう)=写真=は美しい。いわゆる「ハニカム構造」をしている。軽く、強い。

 私は研究者でもなんでもないから、こうした自然界の形や色は楽しむだけだが、工学者には興味深い対象にちがいない。

なかでも気になるのがロボット開発だ。四つ足、尺取虫、蛇、……。なんでもいい。生きものの動きや構造から、原発廃炉に役立つロボットを早く開発してほしい。アシナガバチの古巣を見ながら、ついついそんなことまで考えた。

2014年4月23日水曜日

シダレザクラ

 夏井川渓谷のアカヤシオ(イワツツジ)が満開になる前後から、わが隠居(無量庵)の庭でも、野草や園芸種が花を咲かせる。オオイヌノフグリ。これは外来種だ。スイセン。菜園と天然芝の庭の境にカミサンが植えた。ほかに、次から次へと名も知らない草たちが芽生え、花を咲かせる。それはしかし、去年の春までのこと。

 Ⅴ字谷でも、そこだけ傾斜が緩やかな小集落の一角。庭の除染が行われて、地表から5センチ前後にひしめいている植物たちが、種を含めて根こそぎ消えた。それでも残っていた種や地下茎がある。分校の校庭のようになった庭に、ぽつりぽつりと緑が芽生えてきた。
 
 庭木は除染の対象外だった。菜園のそばに植えた高田梅とシダレザクラが“公園木”のように立つ。まず梅の花が咲いて散り、次いでシダレザクラが花をつけた=写真。日曜日(4月20日)がちょうど見ごろだった。
 
 対岸の斜面にはアカヤシオ(イワツツジ)、道路わきの庭にはシダレザクラ。淡いピンク色が人の目を引きつける。庭で土いじりをしていると、道を行き来する行楽客から次々に声がかかった。「これは桜ですか」「そうです」「向こうにあるのは」「アカヤシオ、イワツツジです」。意外とアカヤシオは知られていない。
 
 庭に入り込む行楽客も後を絶たなかった。あいさつされれば「どうぞ、どうぞ」となるのだが、だいたいは黙ったままだ。自由に出入りできる広場とでも思っているのだろう。
 
 言葉を交わせば意外な展開になる。押し花を教えているという女性は、カミサンとしばらく満開のシダレザクラの下で話をしていた。同じ街の米屋が実家と知って、話がはずんだ。連れの男性は米屋仲間の集まりで、昔、この隠居(無量庵)に来たことがあるという。義父が健在だったころにちがいない。
 
「あのう、ここは何をやっているところですか」。ためらいがちに声をかけてきたアマチュアカメラマンもいる。「そば屋です」といいたいところだが、「ただの民家です、どうぞうどうぞ」。そこからしばらく花の話が続いた。

 知らない人とのおしゃべりが面白いのに、黙ったまま、あいさつもなしでは、「ここは民家です」とお引き取り願うほかない。それもこれも、花があってこそのこと。一緒に眺めれば、花はいっそう美しい。

2014年4月22日火曜日

菜園づくり再開

 夏井川渓谷の隠居(無量庵)で菜園を再開することにした。2013年初冬に庭の全面除染が行われ、山砂が一面に敷き詰められた。一角にあった菜園も消えて、学校の校庭のようになった。

 意地でも「三春ネギ」の栽培を続ける、そう決めている。三春ネギは秋に種をまく。その種まきを、去年、除染作業を控えて中止した。春になったので、まいてみようかと思ったが、三春ネギの生活環をこわすことになる。種は冷蔵庫のなかで眠ったままだ。

 初夏に種を採り、秋にまく。余った種を翌年秋にまいたら、半分くらいは芽生えた。これまでの経験から、2年くらいは種も生きている。ただし、芽生えてもそのまま育つとはかぎらない。手入れが悪かったせいもあって、去年、2年目の種の苗はあらかた姿を消した。

 菜園を再開するとしても、三春ネギは秋の種まきまですることがない。まずはラディッシュ(二十日大根)、カブの種まきだ。すぐ収穫できるし、失敗もほとんどない。市販されている種袋の半分の量をイメージしながら、苦土石灰をまき、「畑おこすべ~」でうねづくりを始めた=写真

 小さな菜園なのに、年々、土おこしがきつくなる。クワやスキを長時間握っていると、息が切れる。年齢的な衰え、持病が原因だ。
 
 それでも家庭菜園用の耕耘機を買うほどではない。なにかいい道具はないものかと探していたら、スコップとスキを合体させたような「畑おこすべ~」があった。握りその他はアルミ製、5本ある刃は鉄製で「焼き」が入っている。ぐっと足で刃を踏み、取っ手を手前に下げる。すると土が起きる。これもしかし、長くやっているときつくなった。
 
 カミサンは、野菜ではなく園芸(花)に関心がある。妹の家から余ったスイセンの苗をもらってきた。それをせっせと土手に植えた。
 
 土手はササダケが密生していた。除染作業できれいに刈り払われた。道路との境を兼ねる“生け垣”が消えたので、新たに柵を設けた。とはいえ、ササダケの地下茎はそのまま残っている。その芽が出始めた。土手の手入れは大変だが、スイセンを植えた以上はカミサンがやることになる。
 
 こちらは手抜きができる、と思いつつも、やはり気になるのは三春ネギのことだ。いざとなったら、集落の住民に手を合わせて苗を分けてもらうか、余ったネギ坊主をもらうか、するしかない。これまでにも2、3回、そうしてきた。
 
 種はちょっとしたことで途絶える。途絶えさせないためには、とにかく栽培し続けることだ。自然と人間の営みがうまくいってこそ種は維持される。今さらながらに、それを壊すものには腹が立つ。

2014年4月21日月曜日

西行の桜

 いわき市小川町の扇状地、夏井川右岸の県道を山に向かって進んでいたときのこと。いつもの左岸の県道より二ツ箭山が大きく、広く見えてきた。中腹まで山桜が咲き競っている。遠目にもそれがわかる。

 西行の桜――ということばが思い浮かんだ。800年以上前に西行が見たのも、こんな天然の美だったのだ。

 きのう(4月20日)朝、夏井川渓谷へ出かけた。アカヤシオ(イワツツジ)は散らずに残っていた。1週間前に比べると、山桜の花が咲きだし、木の芽も吹きはじめている。間もなく山峡は赤ちゃんの産毛のような、淡いパステルカラーに染まる。山峡もまた、1年のうちでもっとも心躍る時期を迎えた。
 
 午後はいわき市立草野心平記念文学館で、土曜日(4月19日)に始まった企画展「草野心平の詩 富士山編」を見た。その前に、文学館の上手にある小玉ダムへ足をのばした。夏井川を軸にして見ると、二ツ箭山は左岸にそびえ、文学館は右岸の丘陵に立つ。

 土地の人に、小玉ダムの桜も見事だと教えられて以来、新年度最初の企画展とセットでダム湖の山桜を見に行く=写真。私のなかでは、ダム湖の山々は「いわきの吉野」だ。近代のソメイヨシノではなく、古代から、いやそのずっと前からある山桜の点描画に、西行でなくとも心を奪われる。
 
 人間の社会と違って、天然の造形にははやりすたりがない。いのちを更新しながら自分の居場所を定め、周囲の木々や草花、動物、鳥類などとつながりあって生きている。そのことを、一瞬の花が教えてくれる。共生の安定感、多様性、……。そういったものも自然の美を裏打ちしているのだろう。

2014年4月20日日曜日

ギョウジャニンニク

 第一印象は、スズランの葉に似てるなぁ、だった。野草図鑑や山菜図鑑ではなじんでいたが、現物を見るのは初めてだ。ギョウジャニンニク=写真。一度は食べたいと思っていた山菜だ。

 近所に原発事故で双葉郡から避難してきた老夫婦がいる。奥さんがわが家(米屋)へ買い物に来て、いつのまにかカミサンと仲良くなった。このごろは、「これ、つくったから」と煮物や漬物を持ってくる。近くの直売所で買った野菜も持ってくる。パック入りのギョウジャニンニクも、きんぴらごぼうと一緒に届いた。

 老いれば食が細くなる。塩ザケは切り身の半分でいい。2人分の料理のつもりでも、余ることが多くなった。それと同じ理由で、こちらにおかずが回ってくるようになったのだろう。

 まるで高度経済成長前、昭和30年代前半の世界に戻ったような感じだ。隣人関係が濃密で、醤油の貸し借り、もらい風呂が普通だった半世紀前の光景がよみがえる。
 
 そうそう、去年の秋には「あれば、一かけらを」と、カミサンがニンニクをもらいに走った。カツオの刺し身を買ってきたのはいいが、ニンニクを切らしていた。

 ギョウジャニンニクは、いわきには自生しない。栽培物だろう。おひたしとてんぷらにした。まず、おひたし。ニラの味、食感に似る。てんぷらも同じだ。

 ギョウジャニンニクとニラを交配させた「行者菜」というものがある。ネット上の写真を見るかぎりでは、ニラそっくりだ。目の前のギョウジャニンニクは根元が白く、茎が赤い。行者菜ではない。

 ギョウジャニンニクは、彼女と出会わなかったら、たぶん永久に食べられなかった。その意味では、新しい“口福”をもたらしてくれる隣人だ。早朝、こちらがまだパジャマでいるころ、「おはようございます」と玄関の戸が開く。これだけは“想定外”だったが。

2014年4月19日土曜日

小1の死

 郡山市の阿武隈川で子ども3人がおぼれ、2人が意識不明――4月16日夜、ローカルテレビが速報した。「小1ではないだろうな」。とっさにそう思った。なんの根拠もない。ただ、孫が小学校に入って2週間目。その孫の顔が思い浮かんだだけだ。

 翌日、新聞が小1男児の死亡と3歳女児の重体を報じていた=写真。なんともいたましい。
 
 新聞に載った事故現場の地図から、阿武隈川の記憶を探る。南の国道49号と北の国道288号の間だ。郡山市立美術館へ行ったり、美術館の近くの阿久津町を巡ったりしたときに、阿武隈川は視界に入っていた。わがふるさの山の大滝根山を水源とする大滝根川も、事故現場の北(下流)で合流している。

 中通りの阿武隈高地を離れて、浜通りのいわき市(当時平市)に移り住むまでは、大滝根川に沿って郡山市へ出かけるのが大きな楽しみだった。列車で阿武隈川の鉄橋を渡ると郡山のまち――子供心にも期待と緊張が広がった。今は大滝根川と同じ山を水源とする夏井川を見て暮らしている。

 きのう(4月18日)の事故の続報に、また胸が熱くなった。子どもたちが何人か、コンクリート護岸で遊んでいるうちに3歳の女児が川に転落した。それを見て、小1男児が助けようと川に入った。男児の姉(小3)も続いた。3人が流された。小1であっても身の危険を顧みずに川に入っていく、その愛他のこころに打たれた。

 たまたまおととい午後、父親と小1生がやって来た。小学校の様子をいろいろ聞いた。まだ緊張がほぐれないながらも、学校へ行くのが楽しそうだった。この孫が郡山市の子と同じように……、いやいや、そんなことは考えまい。その男の子も楽しみながら学校へ通い始めたばかりのはず……。あらためて哀悼の思いを深くした。

2014年4月18日金曜日

松ケ岡公園へ

「ハサミを研ぎに行かなくちゃ」というので、カミサンを車に乗せて街へ出かけた。いわき駅に近い本町通りの刃物店(仮設店舗)に着くと、もぬけの殻だった。震災後、近所から南の通りへ移って、コンテナハウスで営業を続けていた。移転・再開の紙が張ってあったという。オープンが翌日ではそこへ行っても空振りだ。
 
 本町通りは磐城平藩時代にできた。城下町の目抜き通りで、東西にまっすぐ延びている。そのまま家に帰るのもシャクなので、同じ通りの西端、スカイストア内に移転した交流スペース「ぶらっと」へ寄った。

 ちょうど昼時。「ぶらっと」のスタッフに会ったあと、ストアで弁当を買い、近くの松ケ岡公園へ車を走らせた。

 公園下の駐車場のわき、JR常磐線沿いにある明治の歌僧天田愚庵邸前の小園庭で弁当を広げた。ベンチにすわってもぐもぐやっていると、スーパーひたちが通り過ぎていった。シダレヤナギが芽ぶいている=写真。どこからかウグイスのさえずりが聞こえた。

 小学校の低学年のころ、バスではなく自分の足で出かけるほんとうの「遠足」があった。なんだかそのときのことを思い出した。遠足気分と言いたいところだが、顔を見合わせれば現実に戻る。カミサンも、私も、ん十歳だ。日だまりの猫のように過ごす時間が増えた。

 腹を満たしたあと、うながされて急坂を上った。丘の上に公園がある。平の桜の名所で、満開の時期は過ぎていたが、花見の宴を開いている若いグループや、園内を散策する母子連れがいた。安藤信正公の銅像を見上げていると、さっと風が吹いて花吹雪が舞った。

公園を訪れるのは震災後初めてだ。遊具が取り払われて、中央がぽっかり空いていた。桜の花に代わって、初夏にはツツジが咲く。そこでまた弁当を開くのもいいか。

2014年4月17日木曜日

58年前の大火事

 1年のなかで最も厳粛な気持ちになる日がある。むろん、個人的にだが。4月17日。58年前のこの日、夜。東西にのびる一筋町があらかた燃えて灰となった。昭和31(1956)年の「常葉大火」=写真(『常葉町史』から)=だ。

 自分の誕生日や結婚記念日は忘れても、この日だけは大火事の記憶がよみがえる。たぶん、生死にかかわることだったからだ。半世紀余りあとの還暦同級会で、共に避難した幼なじみがしみじみと言っていた。「あのとき、焼け死んでいたかも」。それぞれが荒れ狂う炎に追われ、着の身着のまま、家族バラバラになって避難したのだった。

 乾燥注意報が出ているなか、一筋町の西の方で火災が発生した。火の粉は折からの強風にあおられて屋根すれすれに飛んで来る。そうこうしているうちに紅蓮の炎が立ち昇り、かやぶき屋根のあちこちから火の手が上がる。町はたちまち火の海と化した。

 一夜明けると、見慣れた通りは焼け野原になっていた。住家・非住家約500棟が焼失した。少し心身が不自由だった隣家(親類)のおばさんが、近所の家に入り込んで焼死した。それがたぶん、一番ショックだった。

 いつからか自分を振り返るとき、あの大火事の一夜を境にして、それぞれの家の暮らし向きが変わった。それぞれの人間の生き方・考え方が変わった、あるいはいやおうなく定まった――そう思うようになった。私がこうしていわきで暮らしているのも、大火事がもたらした結果だと。
 
 7歳では泣かなかった「こころ」が、46歳のとき、阪神・淡路大震災の被災者を思って泣いた。東日本大震災では、泣くだけでなく震えた。
 
 大火事のあと、全国から救援物資や義援金が届いた。いわきからも、双葉郡からも。そのときの恩を町民は(いわきに移り住んだ人間も)忘れない。3・11後、近所に住むようになった被災者・避難者に、そのときの恩をかえさなくては――そんな思いで接している。

「やっと家のローンを払い終わった」。大火事から30年余が過ぎていたように思う。ぽつりともらした亡母のことばが今も耳に残る。大災害からの再生にはそのくらいの時間がかかる。ところが、放射能はどうだ。1世代、いや次の世代、その次の世代になっても帰れない、というところがあるかもしれない。

 きょうは、わが4・17から、阪神・淡路の1・17を思い、東日本の3・11を振り返る日にする。

2014年4月16日水曜日

“シダレアカヤシオ”

 夏井川渓谷の春告げ花はアカヤシオ(イワツツジ)。まだ木の芽がふかないうちに、V字谷がピンク色に染まる。これはもう「神様の点描画」というほかない。

 日曜日(4月13日)、その花に合わせて、溪谷の小集落でささやかな春祭りが行われた。斜面に張りつく家々の裏山に「春日神社」が鎮座する。そこへ詣でるほんの少し前、集落に住むKさんが「『天狗の重ね石』に行ったかい?」と聞く。「行ってない」というと、「そこのアカヤシオを見に行こう」。Kさんが車を出した。

「天狗の重ね石」は、集落の一角で本流の夏井川に合流する支流の中川沿いにある。中川の水源は神楽山(808メートル)。谷をうがって流れてきた中川は、「天狗の重ね石」で鋭く屈曲する。水のヘアピンカーブだ。

「重ね石」を正面から見ると、巨艦のへさきのようにとがっている。側面は何段も岩を重ねたように、横に筋が入っている。まさに人知を超えた「天狗の所業」だが、私には全体がゴリラの横顔のように見える。

 急流の右岸、「スーパー林道」(広域基幹林道上高部線)に立てば、アカヤシオはすぐわきの対岸、人間の目と同じ高さにある。そこに1本、「天狗の重ね石」の近くに、びっしり花をつけたアカヤシオがある=写真。Kさんはそれを見せたかったのだ。花が多すぎて、重くて枝が垂れている。「“シダレアカヤシオ”だね」。私が言うと、Kさんがうなずいた。

“シダレアカヤシオ”を見て帰りかけたら、三脚をかついだアマチュアカメラマンが歩いてやって来た。Kさんが車を止め、助手席越しに話を始める。撮影ポイントはどこがいいとか、撮影木はどれがいいとか言っている。カメラマンも先刻承知のようだった。

 再び車が動き出してから聞いた。「知ってる人?」「知らない」「ええッ!」。そうか、私を案内したのも、車を止めてカメラマンに情報を伝えたのも、狙いはひとつ。自分の住む集落の、自然の美しさを知ってほしい、きれいに撮ってほしい、伝えてほしい――それだったのだ。

2014年4月15日火曜日

カネはもらえません

 今夜は絶対、刺し身――。日曜日の夜は「刺し身で一杯」と決めているのだが、用事があって2週続けて口にしなかった。

 4月13日、夏井川渓谷の小集落・牛小川で「春日様」の祭りが行われた。週末だけ隠居(無量庵)で過ごす“半住民”の私にも連絡がきて、祭りに参加した。谷間のアカヤシオ(イワツツジ)が満開だった。参拝後のなおらいは、昼には終わった。
 
 午後からいわきに住む中学校の同級生や、津波被害に遭ったハマの友人、内陸部に住む疑似孫とその両親が、アカヤシオの花見にやって来た。夕方、山峡の隠居を離れ、魚屋さんへ直行した。
 
 刺し身はカツオに限る。阿武隈の山中で生まれ育った人間がいわきに移り住み、カツ刺しのうまさを発見して根を生やした。オフシーズンは刺し身なしでもかまわない。そう決めて、冬は魚屋さん通いを中断していた。
 
 冬には冬の刺し身がある、と知ったのは3・11後だ。いわきの海の北方に事故をおこした福島第一原発がある。新鮮な近海魚が揚がらなくなった。でも、刺し身好きのいわき市民のために、よそからいろんな魚が入ってくる。
 
 サンマはもちろん、ヒラメ、タイ、タコ、イカのほか、ホウボウ、メバチマグロ、ブリ。震災後はかえって1年をとおして通うようになった。
 
 大型魚、あるいは大量捕獲魚が中心のスーパーでは、ホウボウのような小さな魚の刺し身は、効率が悪すぎて出せないのだろう。まず見たことがない。それを行きつけの魚屋さんは、入荷すれば教えて刺し身にしてくれる。アラ汁がまた上品でうまい。
 
 で、冬場は「なにがあるの?」が、あいさつ代わりになった。おとといは「カツオが……」と言ったようだった。まさかカツオがあるとは思っていないから、「盛り合わせで」というと、やはりカツオだった。
 
 そこからが面白かった。若だんなの歯切れが悪い。九州から空輸されてきた大型カツオである。「きのう(土曜日=4月12日)は胸を張って売れたのに、きょう見ると悪くなってたんです……」「新鮮だから生臭くはないし、食べられるんですが……」
 
 私にとっては今年の「初ガツオ」だ。とにかく食べたい、となって、つくってもらったら、「カネはもらえません」。ならば――と、カミサンが「復興わかめ」とこんにゃくを買った。こちらの値段は500円にもならないだろう。

 帰宅してすぐ、「笑点」を見ながら晩酌を始め、カツ刺し=写真=をつついた。「カネはもらえません」という理由がわかった。南のカツオだから脂は少ない。それは当然だが、身がぼそぼそしている。なんといったらいいのだろう。「ほどよい味の死」をとっくに過ぎている。ハシでつまむと、身が切れるものもあった。
 
 その魚屋さんへ通い続けて30年余。先代から若だんなへと、地域で生きる魚屋の良心が引き継がれていることを再確認するような“事件”ではあった。

2014年4月14日月曜日

春日様の祭り

 夏井川渓谷の小集落・牛小川できのう(4月13日)、「春日様」(春日神社)の祭りが行われた。週末だけの半住民である私にも毎年、声がかかる。常住の8世帯を含む10世帯から10人が参加した。

 午前10時、山中の神社を詣でたあと、集落内にあるヤド(宿)の旅館に移って“なおらい”をした。お昼過ぎには解散した。

 神主が来るわけでもない。獅子舞があるわけでもない。集落の中央の交差点に「春日神社」ののぼりが立つだけ=写真。それが唯一、ハレの日を示す。

 本来は陰暦3月15日が例祭日だそうだ。前にそのことを聞いた記憶がある。今度も聞いた。それが、住民の誇りでもあるアカヤシオ(イワツツジ)の開花時期と重なっているため、花に合わせて4月上・中旬の日曜日に開催されるようになった。

 春日様の本家本元、奈良の春日大社では3月15日に御田植祭が行われる。それにからめて、豊作と集落の無事を祈る祭りになったのだろうか。もちろんこれは当て推量にすぎない。今年の陰暦3月15日はきょう、4月14日だ。一日早い例祭となった。アカヤシオの花が見事だった。

 春日様の祭りは、私にとっては得がたい情報交換の場だ。聞きたいことが次から次にわいてくる。キノコのこと、動植物のこと、昔の暮らしのこと……。

「マツタケのみそ漬けはどうなの」「生のまま漬ける」「うまくねぇ」(マツタケをいっぱい採って食べあきたあと、なんとか保存食にできないかと創意がはたらいたにちがいない。味までは聞いていなかったので)

「昔はよく山火事が起きた」「たばこの投げ捨て?」「違う、SL(蒸気機関車)の炭かす。線路沿いの枯れ草から山に燃え移った」「国鉄が原因だったんだ」「そう」(渓谷の山かげ、三和町下永井で12日夕方山火事が発生し、深夜になっても鎮火せず、という新聞記事を読んだばかり。小川の消防車がうろうろしていた、という目撃談を受けて)

 みんなに報告しようと思っていたことがある。昨年(2013年)7月、京都・奈良を旧友たちと旅行した。春日大社も訪ねた。そのときの様子、神社の規模の大きさを伝えたかったのだが、それぞれの近況を聞いているうちに忘れてお開きとなった。

2014年4月13日日曜日

「みみたす」石住篇

 きのう(4月12日)、FMいわきからPR誌「みみたす」4・5・6月号=写真=が届いた。いわきの中山間地を探訪するカバーストーリーがおもしろいので、昨秋、「設置場所大募集」の記事を見て手をあげた。今回はいわき市田人町・石住地区だ。鮫川渓谷にある小集落の、石住小・中学校の校歌にまつわる「物語」をつづる。
 
 田人地区の小・中学校はこの春、田人小・中学校に集約された。消える学校へのレクイエムといってもいいものだが、石住の自然環境は単純な感傷を許さない。
 
 3年前の4月11日、東北地方太平洋沖地震の巨大余震(直下型地震)で学校東側の山が崩れ、車で通行中の若者を含む4人が亡くなった。先日は雨の影響で、その近くののり面が崩れた。唯一の幹線道路である御斉所街道(県道いわき石川線)が再び通行止めになった。全線復旧には1年以上かかるという。前回は鮫川に仮橋を架け、対岸に仮道路を設けて迂回路とした。今回もそうなるのだろう。
 
 浜通りと中通りを結ぶ大動脈だ。日に3000台以上、車が行き来する。住民が「オイルロード」と呼ぶくらいに、小名浜からのタンクローリーが目立つ。産業の血液であるオイルが、中通りへスムーズに供給できなくなった。
 
 そうしたことを頭に入れて、「石住散歩ひゃくよん」を読む。共鳴するキーワードが3つあった。校歌に出てくる「にりん草」、校歌の作詞者「高橋新二」、午後3時前には山に隠れる「太陽」だ。
 
 ある年の4月上旬、石住で鮫川に合流する対岸の戸草川渓谷へ、カタクリの大群落を見に行ったことがある。ニリンソウも、それはそれは見事だった。カタクリの紫、ニリンソウの白――「いわきにも自然の大花園がある」と感動したものだ。
 
 高橋新二(1906~97年)は全国に知られた、福島県を代表する詩人の一人。先日、ネット古書店を営む若い仲間が新二の詩集『鬱悒(うつゆう)の山を行く』(昭和4=1929年刊)を持ってきた。「買え」とも「あげる」とも言わないのをいいことに、手元に置いて、ときどきパラパラやる。
 
 そのなかの1篇「松」は山峡の詩だ。「谷がまがる 岩がまがる/その向ふの古生代の地層の頭に/冷たい思想の松がかヽる//松は崖の上で横になる。/松は水の上の姫になる/松は頂の空と地の煙になる。/煙はあの心 この心/谷の深い概きとなる。(以下略)」
 
 青年新二の内面にあった山峡の風景と、中年新二が見た石住の風景とが重なる。「山から谷から元気よく/貝屋へ通うよい子ども/あかるい窓が迎えてる/なかよい友が待っている/田人石住みんなの学校」(校歌1番)。貝屋は、学校があるところの地名だ。
 
 昭和38(1963)年1月25日の、新二の創作ノート。石住では「二時半には山に太陽がかくれる」。私が定期的に出かける夏井川渓谷は冬、3時になると太陽が山に隠れる。鮫川渓谷は夏井川渓谷よりも山が深いのだと知る。
 
 さてさて、「ひゃくよん」とは? メトロノームの104、つまり「1分間で104拍」の、校歌のテンポのことだった。「歩くのが当たり前だった時代には、歩くのなんてなんともなかった時代には、それに寄り添ったテンポがあったはずです」と記者は書く。

「となりのトトロ」の<さんぽ>は、いかにも歩きだしたくなるような、軽快なテンポの曲だ。検索にかけたら、1分間に120拍という数値が出てきた。石住小中の校歌は、それよりは少しゆるやかな曲らしい。

2014年4月12日土曜日

テレビのホトトギス

 庭の柿の木に鳥がやって来る。常連はスズメ、ヒヨドリ=写真、ムクドリ、カラス。たまにメジロ、シジュウカラ、アオジ。この前はウグイスが現れた。今年初めてのさえずりに、すぐ茶の間からカメラを向けたが、枝が邪魔してすべてがピンボケだった。

 木曜日(4月10日)午後、BSプレミアムで映画「眠狂四郎勝負」を見ながら、「老侍の加藤嘉、昔から老け役だったなぁ、この悪役だれだっけ」などと思っているうちに、まぶたがくっついてしまった。

 カミサンの話だと、軽くいびきをかいていたらしい。そのうち突然、ガバリと起きて窓の方を見た。「トッキョキョカキョク……」。庭の木にホトトギスが来て、一声鋭く鳴いた。そう思った。「にしても、今は4月。ずいぶん早いな」と、瞬時にいぶかしんでもいた。

「ホトトギスが……」というと、「テレビ!」。テレビには広い野原が映っていた。その情景の効果音としてホトトギスの声が流れたのだ。それを、夢うつつのなかで庭の柿の木に来て鳴いたと、錯覚したのだった。わきで大笑いがおきた。村野四郎の詩「霊魂の朝」を思い出した。

 …「霊魂を食べて ふとるのよ」
 というこえが どこかでしたので
 急に胸が悪くなって目が覚めた
 
 厨房の扉があいていた
 母親が痩せたむすこに もういちど
 …「ベーコンを食べて ふとるのよ」
 と言っているところであった
 
 まこと肉と霊とのだんだら模様の春だ
 ユスラウメが咲いている
 
 ベーコンと霊魂。テレビと庭を行き交うホトトギス。わが心のなかでは、確かに庭の柿の木に来て鳴いたのだ。うれしくなって、目が覚めたのだった。

2014年4月11日金曜日

置き薬ネットワーク

 先に薬を使い、代金はあとで払う――「越中富山の薬屋さん」の置き薬は、江戸時代、薬効と「先用後利」の信用で全国に広まった。わが家にその薬箱=写真=が二つある。

 一つは越中富山の流れを汲むもので、先代は昔ながらに薬の入った行李(こうり)を風呂敷に包み、自転車でやって来たという。子どもには定番の紙風船をおみやげにくれた。2代目は車でやって来る。いわきに住む。

 もう一つは、システムだけまねたものらしい。きのう(4月10日)、薬のチェックに来たので聞いてみた。「富山出身?」「いいえ、宮城県です、白石です」「白石には松窓乙二(しょうそう・おつに)という俳人がいるけど、知ってる?」「知りません」。反応が早い。話の接ぎ穂がないくらいにけろっとしている。

 江戸時代のSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)に興味がある。極めつけは、乙二などが加わっていた俳諧ネットワークだろう。士農工商と幕藩体制下、身分・上下を超え、地域を超えて俳人が一座し、5・7・5の長句と7・7の短句を詠みつなぐ。この「付け合い」を今風に表現すると、「約束事に基づくチャット」、「俳号」は「ハンドルネーム」か。

「先用後利」のしたたかな戦略で築いた置き薬ネットワークも、江戸時代に端を発したSNSではないのか――そんな視点で検索したら、富山には置き薬を含む「3大ネットワーク」があることがわかった。立山信仰(立山曼荼羅を使った全国出張レクチャー)、北前船(北海道から沖縄・東南アジアまで結ぶ交流貿易ネット)、そして売薬(全国に薬を配置する売薬ネット)がそれだ。
 
 物の本によると、江戸時代、北前船によって蝦夷地~富山~琉球~清国の「昆布ロード」ができた。富山の売薬商・蜜田家は北前船の船主でもあった。西の物資が北へ行き、北の昆布が薩摩に渡り、琉球で「唐物」の薬品などと交換された。その薬品は薩摩経由で富山に流入した。

 置き薬は立山信仰とも結びつきがあった。修験者が全国の得意先に、護符とともに、立山産の熊の胆(い)を配ったという。その伝統を基盤にして置き薬ネットができたらしい。富山の三大ネットワークは互いにつながりあい、連関しあいながら強化・発展してきたことが読みとれる。

 それだけではない、富山では売薬人教育が重視された。寺子屋では読み・書き・そろばんのほかに、行商地の地理や歴史、薬の知識を身につけさせたという。
 
 売薬さんのなかには俳句をたしなむ人間もいたことだろう。須賀川の、江戸時代後期の俳人市原多代女と交流した富山の俳人がいる。富山の研究者は、売薬さんだったのではと推測する。俳句ではないが、阿久津曲がりネギ(郡山)は明治時代、その売薬さんが「加賀ネギ群」の種をもたらしたのが始まりだとか。今年はこのあたりを少し調べてみようかなと思っている。

2014年4月10日木曜日

スモモの白い花

 庭のスモモ(プラム)は、今年はみごとなほど白い花=写真=をまとっている。夏には赤黄色い実がいっぱいなるに違いない。それはしかし、ちっともいいことではない。

 梨農家の例でいえば、春には芽かき・摘蕾・摘花、初夏には摘果がある。収穫に追われたあとの晩秋~冬には剪定が待つ。

 スモモも摘蕾・摘花が必要なのに、素人の浅はかさで、ほかの庭木と同様、放置したままだ。同じ庭にある柿の木も、何年かに一度、近所の庭師さんにばっさりやってもらうだけ。肥料もやらない。そもそも果樹の手入れの仕方がわからないのだ。

 スモモは長男の小学校卒業を記念して植えた。チラシを見て苗木を購入した記憶がある。子どものころ、夏になると仲間と連れ立って近所のスモモを食べた。夏の味の思い出を息子たちにも――という親心と、スモモへの食欲が、「実のなる木」に興味を持つきっかけになった。
 
 初めのころは実のなるのが面白くて、せっせと収穫した。が、夫婦2人だけになった今は、スモモの実がなってももてあましてしまう。

 阿武隈の山里で生まれ育ったので、小学校より早く「山学校」に入った。雑木林が遊び場だった。秋にはクリの実を拾い、アケビをもぎって食べた。その延長で山菜やキノコを採る楽しみを覚え、野菜も栽培するようになった。が、樹木は今もってわからない。園芸種になるとなおさらだ。

 義弟が桜(ソメイヨシノ?)の苗木を買ってきた。小学校に入学した私の孫の入学記念だという。それはそれとしてありがたいのだが、どこに植えたものやら。何十年かあとの、見上げるような姿を思うと、孫の家の庭にも、わが家の庭にもスペースはない。

 日清戦争、日露戦争と勝つたびにソメイヨシノが日本各地に植えられた。「戦勝桜」だ。その桜は今、どうしたろう。病気にやられていないか。孫にはやはり、ヤマザクラのような生命力を身につけてほしいものだ。

2014年4月9日水曜日

シロイキジ

 昔は夏井川をはさんで、街と向き合う農村だった。それが、昭和30年代からの高度経済成長とともに、ベッドタウンと化した=写真(2011年1月22日撮影)。今、その一角に住む。

 三十数年前、子どもが地元の小学校に入学した。幼稚園は街の中にあった。当初は、まわりに友達がいない1年生だった。その小学校で月曜日(4月7日)、入学式が行われた。来賓として区長と民生委員らが出席した。午後にはその区長と民生委員の合同懇親会が開かれた。

 懇親会に参加するのは、去年に続いて2回目だ。この1年で他地区の区長さんはもちろん、民生委員さんとも顔なじみになった。ふだんの暮らしの延長で話ができるようになった。

 ひとつ丘の向こう、純農村の民生委員さんはイノシシが出没して困る、丘の手前の区長さんは日曜日(4月6日)にサルが現れた――そんな話をして、住宅が密集する地区の人間を驚かせた。

 宴もたけなわになって、恒例の自己紹介が始まった。よそから嫁いで長いが、いまひとつ地域にとけこめないでいた、地域のため何か役立ちたい、それで民生委員を引き受けたという女性がいた。拍手がわいた。

 地域のお年寄りの生きがい対策を兼ねてそばを栽培し、試食会を開いた区がある。雨にたたられ、収量は思ったより少なかったが、つてを頼ってそば粉を調達し、そばを打ったら喜ばれた。別の区では、高齢者の見守り隊が発足するという。なんだか、少し元気になるような話が続いた。
 
 区長になって、顔と名前の一致する人が増えた。新聞記者をやっていたときと違って、地域の情報が深いレベルで入ってくる。今、記者をやればいい記事が書けるかもしれない――などと語ったら、すかさずイノシシの民生委員さんが反応した。
 
 ざっと30年前のことだ。PTA役員をしていたその人が白いキジを生け捕りにして、小学校に寄贈した。記事にした。その話を、彼はきのうのことのように披露した。
 
 そこからまた、座が盛りあがった。「シロイキジってよくわからないんですが……。新聞に白い記事、つまり空白ができたってことですか」「いやいや、鳥のキジが白かったので新聞記事になった、ということです」
 
 日本では大化の改新のあと、元号が白雉(はくち=650~54年)に変わった。白いキジが献上されたのを瑞兆として改元したとされる。現代の白いキジは間もなく、中通りの鳥獣保護センターへ送られた、と民生委員さん。
 
 イノシシ、サル、キジ。イノシシの代わりにイヌの話が出たら……。鬼退治に出かける桃太郎の物語になったか。

2014年4月8日火曜日

小学校の入学式

 きのう(4月7日)は小学校の入学式に来賓の一人として出席した。時間がきて出かけると、保護者と手をつなぎながら歩いて登校する女の子がいた。わが行政区に住む新1年生にちがいない。スキップ気味に先を急ぐ姿がほほえましかった。

 卒業式のときにも感じたことだが、このごろは子どものハレの日になると、「人の子」ながら「地域の子」ということばが思い浮かぶ。

 学校敷地の境界にあるソメイヨシノはほぼ満開だった。校庭には保護者の車が並んでいた=写真。少子化が進んで、いっときよりはだいぶ少なくなったらしい。

 去年(2013年)、区長兼務の行政嘱託員を引き受けた。初仕事が小学校入学式への出席だった。生活のリズムががらりと変わった。記者稼業をしていたときのように、傍観者ではすまされない。当事者意識を持ってコトにあたらねば――自分に言い聞かせながら、よちよち歩きの1年が過ぎた。

 区長1年生だった去年は、学校の教職員も、保護者も、ほかの来賓もほとんど知らなかった。この1年で8行政区対抗の体育祭や球技大会、それぞれの区の事業を通して知り合った区役員・保護者がいる。それで、新入児の顔と名簿、保護者の顔を重ねあわせて、<ああ、あの子か>とわかる子もいた。

 入学式の日に合わせて、午後3時から民生児童委員と区長らの懇親会が開かれた。それまでの間、わが家で仕事をしていると、両親と一緒に孫がランドセルを背負ってやって来た。保育園児の顔から、ちょっぴり成長した小学1年生の顔になっていた。
 
 ランドセルを持ち上げると、結構な重さだ。こんな重いものを毎日背負って通うのか。いやいや、教科書が全部入っているからだろうと思いながらも、このランドセルが6年後には窮屈なくらいに小さく見えるんだろうな――などと、勝手な感慨にふけった。

2014年4月7日月曜日

谷を彩るアカヤシオ

 4月2日に見たときにはほんの2、3本がピンクに染まっているだけだった。それから4日後のきのう(4月6日)。夏井川渓谷のアカヤシオ(イワツツジ)は満開に近かった=写真。標高の高い奥山はまだだが、谷筋の前山は一気にピンクで彩られた。
 
 花は花として――。いわき地方は3日から4日にかけて大雨に見舞われた。その影響が山砂を敷き詰めた隠居(無量庵)の庭に現れているはず。庭が少し斜めになっているので、あちこちに小さな“雨の道”ができている。また少し山砂が流され、溝が深くなったに違いない。行って見ると、その通りだった。えぐられて元の地面がむき出しになっているところもあった。
 
 除染で庭の表土をはぐ前、井戸のモーター用の電線ケーブルは庭に埋まっていた。山砂を投入したあとは一部がむき出しになったままだ。この電線ケーブルも大雨に洗われて、ところどころむき出しになっていた。
 
 雨は洗い、うがつ。川も水量があって少し荒々しい。それよりなにより、風が強くて冷たかった。朝のうちに雨がやみ、晴れたのはいいが、西高東低の冬型の気圧配置になった。早々と花の渓谷から退散した。
 
 平地から山峡に入るまで、道沿いのソメイヨシノはほぼ満開だった。白っぽいソメイヨシノ、ピンクがかったソメイヨシノと、木によって微妙に色が違う。江田の手前では、ヤマザクラが咲いていた。
 
 きょうは小学校の入学式。学校から招待状がきたので、9時半にはソメイヨシノが満開の小学校へ向かう。
 
 それを祝うかのように、今朝は庭からウグイスのさえずりが聞こえてきた。「ホー、ホケチョロ」とまだぎこちない。「梅にウグイス」ならぬ「カエデにウグイス」の初鳴きを、茶の間にいながらにして聞けるとは。こちらもかわいい1年生だ。

2014年4月6日日曜日

温水器復活

 夏井川渓谷の小集落・牛小川の区長さんから夜、電話がかかってきた。木曜日(4月3日)のことだ。「今月の13日…」というので、「春日様ですね」「うん」「参加しますよ」。
 
 戸数10戸ほどの小集落の山中に、ほこら(春日神社)がある。通称「春日様」。アカヤシオの花が満開に近い日曜日に参拝・なおらいをする。どこからか神主さんが来るわけではない。各家から1人が出てお参りをするだけだ。
 
 集落の一角に義父母が隠居(無量庵)を建てた。その管理人になったのが阪神・淡路大震災のおきた1995年初夏。以来19年、週末だけの「半住民」として通い続けている。アカヤシオ(イワツツジ)が満開になるころには、連絡がきて、春日様の祭りに参加する。

 去年(2013年)7月、旧友たちと京都・奈良に遊んだ。奈良では興福寺、東大寺、春日大社を巡った。奈良と牛小川はつながっている――春日大社では、広い境内を夏井川渓谷の守り神を思い浮かべながら歩いた。

 牛小川がらみの電話がもう一つ。4月2日夜に、知り合いの建築士から無量庵の温水器=写真=がなおった、という連絡が入った。業者を連れていったら、部品が凍結・破損していた。部品を交換した。お湯が復活した。
 
 実は前からお湯が出なくて困っていた。水圧が低いとガスに火がつかないという人がいた。それにしては、普通に水が出ている。そして、真冬。水抜きをしたつもりだったのが、十分ではなかった。懸案がひとつ消えた。
 
 きょう(4月6日)は朝のうちに小雨がやんだ。これから渓谷へ出かけてアカヤシオの花を眺め、ささくれだった気持ちを鎮める。

2014年4月5日土曜日

春の大雨

 チリの巨大地震の影響で4月3日未明、津波注意報が発令された。NHKが通常番組を津波報道の特番に切り替えた。テレビをかけながら、遅れに遅れた仕事をしていると、雨が縁側のスレート屋根をたたきはじめた。夜には雨脚が強まった。目が覚めても雨が降っていた。
 
 4日、朝。ツイッターで夏井川の増水を知る。水位は台風並みだ。大雨だったらしい。いわき市水防本部のまとめによると、夏井川流域では、3日の降りはじめから4日午後4時までの総雨量が、平地の平で126.5ミリ、山地の川前で133.5ミリ、その中間の小川で162.5ミリだった。平はこのあと、4日夕方に雷雨に襲われた。
 
 夏井川渓谷は小川にある。とはいえ、川前に近い山峡だ。4日、始発から運休していたJR磐越東線が、午前11時前には再開した。県道も通行止めにはならなかった。
 
 実は、大雨になる前日(4月2日)の午後、春の花の様子を見に溪谷の隠居(無量庵)へ出かけた。アカヤシオ(イワツツジ)が咲きだしていた。
 
 いわき市原子力災害対策課から封書が届いていた。除染が完了し、事後モニタリングの結果がまとまった=写真。結果配付まで時間がかかったことをおわびする――とあった。
 
 除染によって、敷地内の空間線量率の平均値(0.24マイクロシーベルト/時)が、環境省が定める長期的な目標値である0.23未満(0.17)になった。
 
 それはいいのだが、はぎとった表土の代わりに投入された山砂がまだ固まりきっていない。庭が少し斜めになっているせいか、あちこちに“雨の道”ができている。この大雨でまた少し山砂が流されたことだろう。
 
 以前は庭に埋まっていた井戸のモーター用の電線ケーブルが一部むき出しになっている。この電線ケーブルも雨にたたかれて、さらにむき出しになっているにちがいない。あした(4月6日)また、アカヤシオの花見を兼ねて庭の様子を見に行かないと――。

2014年4月4日金曜日

山砂の庭のスイセン

 夏井川渓谷にある、わが隠居(無量庵)の敷地が全面除染の対象になり、昨2013年12月、庭の表土が5センチほどはぎとられ、山砂が投入された。それで、猫の額ほどの菜園がいったん“更地”になった。菜園と天然芝の庭の境目に並べた角材と、それに沿って植えられたスイセンの鱗茎も消えた。むろん、天然芝も。

「目を喜ばせる草」(園芸)はカミサン、「舌を喜ばせる草」(畑作)は私――いつの間にか、そんな役割分担ができた。どちらにしても、新規蒔き直しだ、ゼロからの再出発だ、と思っていたら……。ゼロではなかった。

 おととい(4月2日)、様子を見に行くとL字型にざっと50株、“更地”からスイセンの葉が伸びていた=写真。除染の際にあらかたかきとられたが、5センチより深く眠っていた鱗茎があったのだ。うち一つはつぼみがふくらみ、黄色い花が開きそうになっていた。

 たまたま前日(4月1日)に、いわき民報の「美術批評2014」で読んだ佐々木吉晴いわき市立美術館長の文章を思い出した。彼の自宅の庭も同じように除染が行われ、長年手入れをしてきた草花が取り除かれた。

 やむをえない、今年の春は新たに苗を買って植えつけよう――。館長氏の頭の中に新しい花壇の設計図ができあがったころ、なじみの草花の新芽が山砂の表層を突き破り、緑も鮮やかにでてきた、という。けなげな植物の生命力だ。

「佐々木さんの庭と同じだね」。カミサンが校庭のような庭から芽生えた緑を見て言う。それはそうだ。原発事故のせいで放射能が細部に降りそそいだ。かわいそうに、庭の野草も、微生物もすみかを奪われた。怒りと喪失感を、山砂を突き破って出てきたスイセンの葉が、いっとき癒してくれた。

 館長氏は新芽の感動を哲学的な自己反省にまで深める。「復興再生には、まずそこにあったものや生きてきたものを最優先で尊重する態度こそが必要だった」と。

 館長氏にならって、深層的な想像力をはたらかせてみる。すると、やがてヤマノイモが芽を出し、どこからか種が飛んできて、ニワゼキショウが芽生えるかもしれない。菌類のツチグリも、ホコリタケも庭のどこかに眠っているかもしれない。厄介者のクズも、チンアナゴのように山砂からつるを出している。しかし、クズもまた新しい庭づくりの協力者だ。

 山砂の庭のスイセンはもう、最初の花が開いたことだろう。

2014年4月3日木曜日

渓谷の花見

 春が南風に乗ってやってきた。3月の終わりに街路樹のハクモクレンが咲き、ツバメが姿を見せた。4月の声を聞くと同時に、桜前線がいわきに到着した。旧小名浜測候所の標本木(ソメイヨシノ)が2日開花したと、同日のいわき民報が報じた。昨年よりは4日遅く、平年よりは4日早いという。

 小学校の入学式は7日・月曜日。平地の学校では、新1年生が満開の桜に迎えられて校門をくぐる。ハレの日、桜の花――7~6歳の子には強烈な印象となって記憶に刻まれることだろう。

 きのう(4月2日)、平地から山地の夏井川渓谷へ駆け上がると――。梅が満開だった。アセビはもちろん、ヤシャブシやアブラチャン、ヤブツバキが花をつけていた。日当たりのいい小流れのかたわらにはキクザキイチゲの花が風に揺れていた。何年か前に新種と確認されたハルトラノオの仲間のアブクマトラノオはまだだった。

 目当てのアカヤシオ(イワツツジ)は――JR磐越東線の江田駅付近から、渓谷右岸の斜面に一つ、二つ、ピンクの花群が遠望できた。江田の隣・椚平を過ぎ、籠場の滝を過ぎ、牛小川に着く。午後の太陽に照らされる尾根にピンクの花が点々と咲いていた=写真。籠場の滝付近は特にピンクの量が多かった。

 いわきの平地でソメイヨシノが咲きだすと、夏井川渓谷ではアカヤシオの花が咲きだす。経験則のとおりになった。自然はうそをつかない。わが家の庭のプラムも白い花をつけた。この週末にはどこでも花見が楽しめる。

 3月まではゆっくりしていた春の足取りが、ここにきて急に駆け足になった。きょうはそれでも一服して、昼すぎから雨になるらしい。チリの大地震の影響で、太平洋沿岸には津波注意報が発令された。けさは花より津波、注意報の解除が待たれる。

2014年4月2日水曜日

都路の避難指示解除

 田村市都路町=写真=は、合併したからこそ「町」になったが、もとは「田村郡都路村」だ。南北に縦断する阿武隈高地の中央部、分水嶺の東側に位置する。その一角に母の実家がある。離れて祖父母の隠居もあった。生まれ故郷の同市常葉町の次に、幼いときの記憶が詰まった山里だ。
 
 その都路の東部、避難指示解除準備区域の「避難指示」がきのう(4月1日)解除された。事故をおこした福島第一原発から20キロ圏内にある旧警戒区域だ。避難指示解除報道に接して、2年前の夏に出会ったおばあさんの顔が思い浮かんだ。

 お盆の前、実家の床屋で散髪をしたときのこと。80歳を超えるおばあさんが染髪と顔そりを終え、義姉と雑談を始めた。ざっと60年前の結婚のいきさつを語った。結婚披露宴の後に、初めてご主人の顔を見た。「割りばしのような人だった」という比喩にふきだした。

 おばあさんの自宅は都路にある。双葉郡大熊町に接する旧警戒区域だ。原発事故がおきて、まず常葉町の雇用促進住宅に避難した。最上階だった。上がり下りがこたえたので、次に常葉の隣の船引町の仮設住宅に移った。ご主人はそこで亡くなった。新盆は、都路の自宅ではなく仮設住宅で行われた。

 息子さんが自宅内外の線量を測った。「線量があって(高くて)住めねぞっていうんだ」。淡々とした口調に、かえって厳しい現実がうかがえた。その後、都路では国直轄の除染作業が行われた。

 おばあさんは指定解除を受けてどうしたろう。帰宅したのだろうか。仮設住宅にとどまっているのだろうか。