2014年5月2日金曜日

「全電源喪失の記憶」

 共同通信の配信で福島民報と福島民友新聞に、「全電源喪失の記憶――証言福島第一原発/第2章 1号機爆発」が載った。4月15日に始まり、29日に終わった。全国ではどのくらいの地方紙が掲載したのだろう。

 2011年3月11日午後2時46分、東北地方太平洋沖地震が発生する。巨大地震と津波で東電福島第一原発の全電源が喪失し、翌12日午後3時36分、1号機の建屋が爆発する。

 炉心溶融が進む中、菅首相がヘリで第一原発のグラウンドに降り立ち、やがて建屋爆発に至るまでのほぼ24時間を、関係者の証言でつづった。
 
 ただちに郡山市の自衛隊から消防車が出動する、福島の自衛隊からも消防車が出る――そのへんは、門田隆将著『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』(PHP研究所、2012年12月刊)に詳しい。今回はその検証作業をマスメディアがやった。老若男女が目を通す新聞に記事が載った意義は大きい。

 4月24日付の10回目。原発の立地町である大熊町の原発担当課長の証言が載った=写真。3月12日午後3時半。全町民の避難がほぼ完了し、残っていた役場の職員も避難することになった。課長が車に乗り込み、役場を出ようとしていたそのとき、1号機の建屋が爆発した。「原子炉が止まりさえすれば、何とかなると思っていた…」。学校の後輩の悔しさ、無念さが伝わってきた。

 2012年5月。大熊町民を対象に、いわき市文化センターで政府主催の説明会が開かれた。たまたま道路向かいの市立美術館を訪ねて開催を知った。後輩が来ているにちがいない。文化センターに入ると、大ホール入り口付近にいた。黙って近づき、左手で背中をポンポンたたいた。後輩も同じようにした。それで十分だった。
 
 それから1年後の2013年5月初旬、定年退職あいさつの封書が届いた。「県内はもとより日本全国に影響を与え、大変なご迷惑をお掛けしたこと、今も継続中であることに重ねてお詫びいたします」

 発災直後、吉田所長以下、東電社員、自衛隊員らが命がけで原子炉の暴走を止めようと闘った。同時に、双葉郡の役場の職員たちは住民避難に奮闘した。

 門田本にこうある。「入れつづけた水が、最後の最後でついに原子炉の暴走を止めた――福島県とその周辺の人々に多大な被害をもたらしながら、現場の愚直なまでの活動が、最後にそれ以上の犠牲が払われることを回避させたのかもしれない」。その愚直な活動を展開したのは、地元福島の人間だ。

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