2014年5月26日月曜日

ラジオの家

 夏井川渓谷の隠居(無量庵)にはテレビがない。代わりにラジカセで放送を聞いたり、CDやカセットテープをかけたりする。

 きのう(5月25日)の日曜日は、朝起きるとすぐ家を出て7時すぎに隠居に着いた。NHK第一をかけた。「ラジオあさいちばん」から「音楽の泉」「日曜討論」「歌の日曜散歩」「のど自慢」と進んで、「日曜バラエティー」が終わるころ、隠居を離れた。午後3時すぎ、冬なら太陽が谷の尾根に隠れる時刻だ。

 朝めし前に土いじりを終えた。あとは自由時間だ。ラジオを聞きながら、竹山昭子『ラジオの時代 ラジオは茶の間の主役だった』(世界思想社、2002年刊)=写真=を読む。たまたま図書館から借りてきた1冊だ。走り読みしていると、大正~昭和初期の詩人多田不二(1893~1968年)の名前が目に留まった。
 
 ラジオは大正14(1925)年に放送が開始された。日本放送協会の前身、東京放送局がそれで、今のFMいわきと同じように新聞社がニュースを提供した。新聞記者経験のある多田が入局したのは、翌15年3月。
 
 その東京放送局が、大正天皇の容態悪化を受けて、宮内省から直接、情報を取るようになる。7日間で昭和元(1926)年は終わり、同2年2月に大葬が行われた。そのとき初めて実況放送を取り入れ、独自にニュース原稿をまとめた。その原稿を編集したのが、当時34歳の多田ら記事係だった、と著者は推測する。
 
 多田は茨城県生まれで、学生時代、磐城平に住む山村暮鳥と文通した。暮鳥の仲間の萩原朔太郎、室生犀星らとも交流があった。免疫学者で能作者の故多田富雄の大叔父でもある。終戦をはさんでNHK松山放送局長を務めた。
 
 暮鳥ネットワークにつらなる人間を調べている。そのネットワークは、いわきと茨城で、たがいに結ばれながら大きな房(クラスター)になっている。多田もまた茨城の房を構成する一粒の小さな実だ。
 
 最初は情報の断片にすぎなかったものが、また別の情報の断片とつながって、少し大きな実になる。「ラジオの家」だからこそ可能な<ながら読書>で、多田不二について思わぬ拾い物をした。

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