2014年7月31日木曜日

新型冷蔵庫

 冷蔵庫を買い替えた=写真。前の冷蔵庫と高さ・大きさはそう変わらない。が、省エネ度がアップし、製氷も自動化された。

 古い冷蔵庫は製造から17年がたって、4段あるうち一番上の冷蔵室が機能しなくなった。昔からつきあいのある「家電のホームドクター」に連絡すると、社員が来てチェックした。部品は8年でなくなる、という。

 7月の展示会で新型冷蔵庫を選ぶまで、小型の冷蔵庫を借りた。畳敷きの茶の間に置いた。冷蔵庫を利用するたびに膝をつく――なんだかそこだけ江戸時代にタイムスリップしたような感じだった。

 展示会では充電式の掃除機も買った。洗濯機もおかしくなっていたが、こちらはカミサンの同級生の実家から引き取ったものがある。冷蔵庫を交換したときに、洗濯機も取り替えてもらった。

 新しい冷蔵庫は、最初はがら空きだった。これが半月も過ぎると、モノでいっぱいになった。山形県でつくられた即席漬けの「だし」は、「収納忘れ」で賞味期限を一日過ぎていた。食べても大丈夫だったが、冷蔵庫にいろんなモノを詰めすぎると、こういうことがおきる。

 ともあれ、家はヒトが増えたり減ったり(今は2人暮らしだ)、モノが古くなったり新しくなったりしながら、歴史を刻んでいくものらしい。冷蔵庫と洗濯機は、たぶんもう買い替えることはない。

2014年7月30日水曜日

フランス産キノコ

 きのう(7月29日)の夕方、フランスから乾燥キノコが届いた=写真。送り主は若い女性写真家デルフィーヌ・パロディで、日本語(平仮名)で近況が書かれてあった。去年の晩秋に会ったときには、日本語での会話はままならなかった。ずいぶん努力したのだろう。

 プロヴァンス産のキノコだそうだ。水にさらしたあと、オムレツやグラタンの具にするとおいしいらしい。最後に「おくちにあえばいいのですが…」とあった。つつましさ、奥ゆかしさは日本人以上ではないか。

 ネットで調べると――。トロンペット・ド・ラ・モール(死者のトランペット=和名クロラッパタケ)といって、アンズタケの仲間だ。炊き込みごはんにした人もいる。さっそく、ぬるめのお湯につけて細かく刻んだあと、炊飯直前だった米に加えた。

 和名通り、全体に黒っぽい。湯につけてもどした感じが、裂いたコウタケに似る。味も、歯ざわりも「コウタケごはん」に近かった。ということは、日本のキノコと比較するまでもなく一級品だ。

 デルフィーヌは今年2月18日から3月28日まで、ドイツのベルリン日独センターでドイツ在住の芥川賞作家多和田葉子さんと、詩と写真展「アウト・オブ・サイト」を開いた。

 彼女とは震災1年後の2012年5月中旬、被災者のための交流スペース「ぶらっと」(当時はイトーヨーカドー平店2階にあった)で会った。「ぶらっと」のスタッフRさん、ボランティアのTさんとともに、われわれ夫婦も彼女と親しくなった。

 彼女が津波被災者や原発避難者の取材を重ねて1年が経過したころ。作家の多和田さんと、写真と詩のコラボレーションの企画が持ちあがった。多和田さん自身も昨年の8月、Tさんの案内でいわき・双葉郡、その他の土地を巡った。

 暮れにはTさん母娘と一緒に、デルフィーヌが夏井川渓谷のわが隠居(無量庵)へやって来た。落葉が進む渓谷林を巡った。そのなかで、私がキノコの話をしたのかもしれない。彼女の心遣いに感謝しつつ、久しぶりになんの心配もなくキノコの炊き込みごはんを食べた。うまかった。

2014年7月29日火曜日

宙づりの欄干

 ときどき、いわきの沿岸部を車で走る。生活圏でいえば、久之浜~四倉~平(沼ノ内・薄磯・豊間)~小名浜が中心で、南の勿来へは北茨城を含めて年に3~4回行く程度だろうか。

 3・11から3年4カ月余が過ぎて、道路沿いの風景はだいぶ変わった。道路が補修され、山のようなガレキが消え、家々のコンクリートの基礎がはがされた。海岸堤防のかさ上げや防災緑地の建設が始まったところもある。

 豊間の県道小名浜四倉線から海寄りに分岐した県道豊間四倉線の橋の欄干が一部、壊れて宙づりになっている=写真。片側にだけある歩道部分の鉄柵がはずれ、折れ曲がり、今にも川に落下しそうだ。応急処置としてロープが張られた。車道部分も道端にあるようなガードレールで仕切られている。

 小さな川で、すぐ先に太平洋が広がる。というより、家や木々が失われた結果、海が近くに感じられるようになった。3・11のときに大津波がこの川をさかのぼり、内陸部まで押し寄せた。

 橋は見るからに貧弱な“仮橋”のたたずまいだ。いずれ災害復興の事業のなかで永久橋に架け替えられるのだろう。県道分岐点の信号で止まるたびに、宙づりの欄干をながめる。今では3・11に直結する数少ない“遺品”のひとつ、か。

2014年7月28日月曜日

夏座敷を吹き抜ける谷風

 きのうの日曜日(7月27日)は早朝、小川のまちで用事をすませたあと、午後2時まで夏井川渓谷の隠居(無量庵)で過ごした。
 
 暑くて寝苦しい夜が明けて、またカンカン照りが始まった。車の窓を全開にして郊外の水田地帯を駆け抜けた。少しも涼しさを感じられなかった。渓谷に入れば、延々と緑陰が続く。空気がひんやりしている。

 隠居では外の作業を休んだ。草を引くとか、秋野菜用に石灰をまくとか、仕事はあるのだが、熱中症を避ける気持ちが勝った。カミサンの指示で部屋を「夏座敷」に替えた=写真=あとは、寝転んで本を読んだ。
 
 谷間の空気が太陽に熱せられる。と、次第に天然のエアコンが作動し、涼しい谷風が夏座敷を吹きぬけるようになる。タオルケットを掛けないと、背中が風邪を引きそうだ。この涼感は、わが家では得られない。
 
 日本の夏は熱帯並みの暑さになる。油照りが続くと、決まって昔読んだフランス文学の一節を思い出す。確か、エジプトの話だった。エジプトでは、人は日中あまり働かず、夜になって活発に動き出す。そういった気候・風土、社会を描いた紀行文学だった。昼間働かないからといって人は怠惰なわけではない、世界には夜型の国・地域もある――少年の心に暑い異国の夜が刻みつけられた。
 
 きのうは浜通りの中部、浪江町で最高気温が33・6度に達したと、今朝の新聞が報じている。原発事故をおこした「1F」での作業の苛烈さを思う。きょうも暑くなりそうだ。

2014年7月27日日曜日

夕方のアブラゼミ

 7月24日午後4時前。アブラゼミが今年初めて、庭で鳴いた。庭と私道の境に立つ電信柱に張りついていた=写真。むし暑い曇天の日。近所の家の庭からはミンミンゼミの鳴き声。これも今年初めて聞いた。

 真夏日になった翌25日は、セミは沈黙したままだった。きのう(7月26日)も日中はそうだった。夕方4時すぎになって、やっと思い出したようにささやいた。それっきりで中断し、たそがれるころになってまた鳴いた。25日はあんまり暑すぎて、セミもじっとしているしかなかったのか。

 きょう、日曜日は夕方から用事がある。きのう、一日早くいつもの魚屋さんへカツオの刺し身を買いに行ったら、若だんなが電話で話していた。「昼間は静かだったのに、夕方になると電話がいっぱいかかってきて……」「この暑さだもの、人間もじっとしているしかなかったんだよ」。
 
 私がそうだった。昼間はずっとカウチに横たわって本を読んでいた。エアコンなどはない。戸という戸、窓という窓を開け放ち、扇風機をかけても、室温は30度を超えている。ようやく動く気になったのは夕方4時すぎ。5時から顔を出さないといけない施設の祭りがあったからだ。暑さにうんざりという点では、アブラゼミも、人間も変わらない。
 
 祭りから帰ってすぐ晩酌となれば、5時前にカツ刺しを買ってきておかないといけない。そんな用事がなくても、きょうは暑くて料理を作りたくない――カツ刺し注文の電話が集中した裏には、そんな気分の人が多かったのだろう。
 
 きょうも暑くなりそうだという。なのに、東北地方の梅雨明けが発表されないのはどうしてか。週間天気予報を見ると、「曇り」のマークが多くなっている。まだまだ梅雨の晴れ間にすぎないのか。

2014年7月26日土曜日

朝から真夏日

 きのう(7月25日)、わが家のデジタル温度計は「猛暑日」寸前まで上がった。用事があって、朝、ネクタイを締めて出かけた。きっちり締めると、熱の逃げ場がなくなる。だらしない、ゆるゆるの締め方になった。
 
 午前10時前、国道6号常磐バイパスの進入路にある表示板が「32度」の気温を示していた。昼すぎに帰宅した。いつもは茶の間で“シェスタ”をするのだが、南向きのために熱気がこもっている。昼寝どころではない。夕方になっても、茶の間の温度計は30度を超えたままだった。
 
 テレビが伝えるいわきの“標準気温”は沿岸部の小名浜。きのうの最高気温は29.4度(朝8時)だった。朝から真夏日だろう、おい――平などの内陸部に住む人間は、体感より低い数値につい叫びたくなる。人が多く住んでいる地域の気温を反映させるべきではないか――こんな暑い日にはいつも違和感が残る。
 
 日が沈みかけるころ、近所に用事があって、汗をかきながら帰ってくると、「なだれが起きた」とカミサンが言う。階段の上り口が本で埋まっていた=写真。「地震?」「感じなかった」。風か。いや、空気は熱せられたままよどんでいる。風ではない。すると、家の前の道路を通る車の振動で階段に積み上げておいた本が崩れたか。
 
 2010年6月、局地的な豪雨に見舞われて家の前の歩道が冠水した。区として冠水防止策を市に要望した。年が明けた1月、側溝の壁に穴をあけ、車道中央の下にある下水道管と直結する方法が取られた。土を埋め戻し、アスファルトで路面を修復したが、これが次第にへこみ、大型車両が通ると家が振動するようになった。家の基礎がこわれた3・11の後遺症もあるのだろう。
 
 市にお願いすると、道路パトカーが来てアスファルトを補てんした。振動が収まった。これがまた始まった。
 
 3・11と1カ月後の余震で、さらにはおととし、去年と、余震や車の振動で階段の本がなだれ落ちた。今度で5回目だ。高い室温のなかで汗をにじませ、フーフー言いながら、また階段に本を積み上げた。カミサンはすでに暑さにげんなりしていて、全く手伝わなかった。

2014年7月25日金曜日

イノシシを待つ

 夏井川渓谷の“先住民”はむろん、野生の生きものたち。人間がすみつく前から、自然の生態系のなかで命をつないできた。いわき市に隣接する川内村の文献から類推して、昔はシカも、オオカミもいたと思われる。が、今は一番の大型獣といったらイノシシだ。ここ何年かの間に隣接地区でクマ出没の情報が飛び交ったものの、溪谷へは現れた気配はない。
 
 もともと生息していたうえに、東日本大震災に伴う原発事故の影響でイノシシの捕獲数が激減した。事故をおこした原発の所在地(双葉郡)では、放置されたブタと交配が進んで「イノブタ」まで現れた。イノシシは増える一方だ。その余波がいわきの平地にも及んでいる。水田に電気柵を張り巡らせる農家が増えた。
 
 イノシシの掘削力はすさまじい。破壊的といっていい。渓谷にあるわが隠居(無量庵)の隣、錦展望台の駐車場の一部が、重機で掘り起こされたように凸凹になっていた=写真。
 
 わが隠居の庭は除染されて、山砂が敷き詰められた。家庭菜園を再開したものの、クワやスコップでの深耕は容易ではない。駐車場を掘り起こすより、わが隠居の庭を掘り起こしてくれ――。体力の衰えた人間としては、今こそイノシシの力を借りたい、イノシシを待つ、といった心境だ。

2014年7月24日木曜日

鉢用チェアを買う

 いわき市のフラワーセンターは平の里山(石森山)にある。いわき駅前に広がる中心市街地から近い。センター周辺の林内には遊歩道が張りめぐらされている。若いころは昼休みによく車で出かけた。遊歩道のひとつを巡るだけでキノコや山野草の写真が撮れた。
 
 夏休みに入ってすぐの7月19~20日、同センターでサマーフェスティバルが開かれた。イベント情報にやたらと詳しいカミサンにうながされて、2日目の日曜日、夏井川渓谷にある隠居(無量庵)からの帰りに立ち寄った。混んでいた。

 フラワーライフ館の一番奥で鉢用の木製チェアづくりが行われていた。完成品は800円。何となく引かれて1脚を買った=写真。

 同館の前ではラベンダーのスティックづくりが行われていた。カミサンがつかつか近寄った。どうしたんだろうと見ると、旧知のMさんがいた。3・11後、フラワーセンターの園芸アドバイザーになった。ハーブの専門家だ。

 もともとは沿岸部の平・沼ノ内で「ハーブの里」を運営していた。週末にはハーブ園の一角で「土曜朝市」が開かれた。一時期、出勤前によく通った。

 沼ノ内も津波被害に遭った。災害公営住宅が「ハーブの里」の跡地に建った。ハーブの先生は“仕事場”を、ハマからマチの里山に変えた。前任者が原発事故を機に辞めたこともあって、Mさんに白羽の矢が立ったのだった。

 国際NGO「シャプラニール=市民による海外協力の会」がいわきへ支援に入り、交流スペース「ぶらっと」を開設した2011年10月、Mさんにオープニングイベントとして「ハーブのミニブーケづくり」の講師をお願いした。会うのはそれ以来だろうか。

 だれもが、いまだに東日本大震災と原発事故の影響を引きずっている。でも、引き続き活動の場を得たMさんは、私を見て「背後霊かと思った」と軽口をたたくほど元気だった。

2014年7月23日水曜日

カルガモの死

 朝、カミサンが店の雨戸(シャッターではない)を開けると、大きな鳥が死んでいた。たまたま近くで仕事を始めた人に教わったのだろう。「カモだって」。眉をひそめた顔が「片づけてほしい」といっている。夏、しかも人間界にいるカモは決まっている。カルガモだ。

 連休明けの火曜日(7月22日)、朝。集団登校の時間は終わったか――なんてことを一瞬、思った。子どもたちはとっくに夏休みに入っている。登校日であれば大騒ぎになっていただろう。なにせ歩道の側溝のふたの上にカルガモの死骸が横たわっていたのだから=写真。若鳥か。

 歩道も含めて公道だから、市役所に連絡すれば片づけに来る。しかし、「銘々自分の戸の前を掃け」というゲーテの言葉が頭をよぎる。火曜日は「缶・ビン・ペットボトル類」、きょう(水曜日)は「家電・容器包装プラスチック」。あすの「燃やすごみ」まで新聞にくるみ、ごみ袋に入れて保管することにした。

 街で、溪谷で、郊外で――。要するに、いたるところの道路で動物の死骸に遭遇する。大はタヌキ・ハクビシン、小はカエル・ミミズ。野鳥はフクロウ、コジュケイ、ツバメ、スズメ、……。これに犬猫の死骸を加えると、相当の数になる。

 若いころ、石森山(平)の絹谷富士で血にまみれて死んでいるレース鳩を見た。オオタカが食事中だったところへ、人間が顔を出したのだった。震災前には同じ山の遊歩道で、やはりタカのえじきになったレース鳩を見た。しかし、そういうのはまれで、おおかたは交通事故による死だろう。
 
 今度のカルガモはどうしたろう。病気か、事故か。首は折れてはいなかった。

2014年7月22日火曜日

ムラサキツユクサ

 ムラサキツユクサの花=写真=がきれいだったので、思わずカメラを向けた。夏井川渓谷にある隠居(無量庵)の玄関わきに咲いていた。去年(2013年)の師走に隠居の庭が全面除染された。庭木はそのまま残された。灌木の根元で眠っていたのだろう。

 3・11から最初の夏がきて、ムラサキツユクサの花が話題になったことがある。そのことを思い出してネットで検索した。

 それによると、ムラサキツユクサの花の雄しべには花弁と同じ青紫色の細い毛がたくさん生えている。放射能を浴びると、その毛の一部がピンク色になることがある。放射能汚染の指標植物としてムラサキツユクサがクローズアップされたのだった。

 老眼には雄しべの細い毛の変化がわからない。ましてや、顕微鏡などは持っていない。1年たち、2年たつうちに特異な現象は忘れて、ただのムラサキツユクサの花に戻った。撮った写真を拡大すると、確かに雄しべが細い毛で包まれている。不思議な構造に目を見張った。

 ネジバナのことも書いておこう。隠居の庭は土が5センチほどはぎとられ、代わって山砂が敷き詰められた。たくさんあったネジバナは、それで姿を消した。しばらく出てこないだろうとあきらめていたら、庭の真ん中にポツンと1本立ち上がり、花を咲かせていた。庭を行き来しているうちに、踏みつぶしそうになってわかった。「負けない」象徴だ。

2014年7月21日月曜日

ヤマユリ開花

 日曜日に用事がなければ、夏井川渓谷の隠居(無量庵)へ出かける。きのう(7月20日)は、朝9時半から午後2時半ごろまで、およそ5時間を“隠れ里”で過ごした。

 前週の日曜日はアリオスパークフェスに参加した。万緑の谷間に身を置くのは半月ぶりだ。ヤマユリの花=写真=が咲いているはず――期待した以上の花盛りだった。前週には咲きだしたにちがいない。
 
 ふだんは忘れているのに、フィールド(現場)に立つと、その時どきの記憶がよみがえる。車での道すがら、「今年も崖の上にヤマユリが咲いている」「去年もここに咲いていた」。森の中ではもっと鮮明だ。「この林床にタマゴタケが出た」「この倒木にヒラタケが生えていた」「この木の根元にマイタケが出た」……。フィールドで得た「情報」は、過ぎ去らずに体に蓄積される。
 
 渓谷の県道は先日、業者によって草刈りが行われた。ヤマユリは切られることなく残った。開花した時点でドライバーに手折られたヤマユリもあるのだろう。先日、ガードレールのそばにあったヤマユリのあおいつぼみを写真に撮った。そのつぼみは成熟して裂けたのか、まだなのか――ヤマユリの1本、1本が気になる。
 
 きのうは雨の予報だったが、曇天で風もなく、雲の切れ目から青空がのぞいていた。雨上がりの渓谷では早瀬が増水してゴンゴン音を出し、その音にかき消されそうになりながらも、ヒグラシの鳴き声が響いていた。ニイニイゼミのか細い鳴き声も聞こえた。
 
 ハマ(勿来、四倉両海水浴場)では海開きが行われた。ヤマ(夏井川渓谷)では万緑のピークを迎えた。帰りに、平のマチの裏山・石森山のフラワーセンターへ寄ると、フラワーフェスティバルが開かれていた。いわきは広い。夏休み最初の日曜日、子どもたちはそれぞれに思い出の1ページを記したことだろう。

2014年7月20日日曜日

カレンダーが同じ

 テレビの奥の壁に2011年3月のカレンダーが張ってある。ふすまを取り払った隣室の壁には、今年(2014年)のカレンダーがかかっている=写真。なにげなく2つのカレンダーを見ていたら、ン!となった。数字と曜日と祝日の配置がまったく同じではないか。

 2011年3月のカレンダーは、備忘録代わりに張った。第3月曜日の3月21日は祝日「春分の日」。20日の日曜日と合わせて2つ、赤い数字が続く。2014年7月のカレンダーも、20、21日と赤い数字が連なる。明21日は第3月曜日、祝日の「海の日」だ。
 
 単なる偶然だが、同じカレンダーだと知った以上は黙過できなくなった。40カ月後の7月の日々に、被災直後の日々が重なる。
 
 きょう(7月20日)は、3年4カ月前は3月20日の日曜日。避難先の西郷村・国立那須甲子(かし)青少年自然の家にいて、「あしたは彼岸の中日、墓参りができないなぁ」「空き巣に入られているかもしれない」「飼い猫はどうしたろう」などと、落ち着かない気持ちでいた。原発事故に関してはひとまず暴走にブレーキがかかり、それと引き換えに、いわきを離れた不安がふくらんできたのだった。

 その3日後、水曜日、23日。施設のスタッフにお礼を言って、まだ雪の残る甲子高原を下り、国道289号を利用して帰宅した。水道は25日に復旧した。翌26日早朝、車のガソリンをやっと満タンにすることができた。その日、いわき市社会福祉協議会の専務理事(現会長)から電話が入り、「あした、シャプラニールが来る」ことがわかった。一筋の光がさした。一日一日が新しいことの連続だった。

 現実に戻る。きょうは曇りだが、勿来海水浴場で海開きの行事が行われる。海水浴ができるのは、勿来のほかは四倉だけ。3・11前のにぎわいが戻るのはいつのことだろう。

2014年7月19日土曜日

雨が車に

 水、木曜とわが家にこもって仕事をした。きのう(7月18日)、金曜日の朝、車に乗ろうとしたら、運転席の窓が開いていて、ドアの内側が湿っている。座ると灰色のズボンがぬれて黒くなった。しまった。粗相したみたいではないか。

 先週は、台風8号の影響で梅雨前線が刺激されたり、沿岸部の小名浜で真夏日になったりと、天気が変動した。今週も安定しない。

夏場、車を運転するときにはエアコンをかけずに窓を開ける。その癖がマイナスに作用した。火曜日に運転したあと、窓を閉めるのを忘れたのだ。2日続けて夜に雨が降った。運転席は、見た目は変わらないが、雨をたっぷり吸った。

 梅雨前線が刺激されて一時強い雨が降ったとき、BS放送がモンドリアンの絵のようになった=写真。おもしろい。家にこもっている分には、大雨の障害を楽しむ余裕もあったが、きのうは仕事の時間が迫っていた。タオル!ごみ袋(ポリ袋)!と叫んでカミサンに持ってきてもらい、運転席に敷いた。そのどさくさで忘れ物までした。

 相当車内に湿気がこもっているらしい。閉め切っておくと窓ガラスが曇る。ごみ袋がずれると、ズボンがぬれる。晴れたら天日に干さないと、と思っても、運転席だけ取り出すわけにもいかない。しばらくもぞもぞしながら、自然に乾燥するのを待つしかなさそうだ。

2014年7月18日金曜日

学生プロレス

 7月13日(日曜日)のアリオスパークフェスで、初めて「学生プロレス」を見た=写真。IMWA、つまりいわき明星大のプロレス同好会のメンバーが出場した。

 物心づいたころは力道山、少し大きくなってからはジャイアント馬場、アントニオ猪木。茶の間に新しく鎮座したテレビが中継するプロレスに夢中になった。社会人になってからも、テレビ観戦は続いた。新日本プロレスが平競輪場の駐車場で興行を打ったときには、たしか会社がPRに協力したので、早い時間から会場へ出かけた。

 試合前のリングでジョージ高野が1人、入念にトレーニングをしていた。しなやかで強靭な筋肉質の若者だった。体が資本のレスラーにとっては、ケガが大敵。それを防ぐためにもふだんのトレーニングが欠かせない。レスラーの強さの秘密がわかったように感じた。

 学生プロレスとはいっても、多くはOBらしい。パフォーマンスにはちがいないが、そこは長年“対戦”してきた間柄だ、真剣に、呼吸を合わせて大技をかけあっていた。本物のレスラーのような体格の選手がいたり、実況アナウンスがあったりと、半分ハラハラしながら楽しんだ。

 リングはしかし、少々欠陥がある。パイプで組み立てた上に木枠を重ねて、マットを敷いたが、木枠が一部、練習中に折れ、本番中にまた折れた。一緒に練習を見ていた建築士が、横木の数が少ないから折れる、と言っていた。ケガを防ぐためにも修正が必要だろう。パイプの数を増やしてもいいのではないか。

2014年7月17日木曜日

地震・雷・…

 きのう(7月16日)の夕方5時24分、下から突き上げるような揺れがきた。揺れのタイプから直下型と感じたいわき市民が多かったようだ。震度は最大4と出たが、それはいわきのどこかであって、わがすまいのある平は3程度――そのくらいの違いはわかるようになった。

 気象庁の地震情報を見ると、震源は「浜通り」(東経140.7度、北緯37.0度)。2011年4月11、12日と連続した巨大余震のうち、12日の震源とまったく同じだ。11日は、そこから少し南隣で発生した。「浜通り」、具体的にはいわき市南部の山間地が震源ということは、これまでの経験から容易に想像できる。いわき市三和町の震度が4だったのも、震源のすぐ北に位置しているからだ。

 先週の土曜日(7月12日)は早朝4時22分に長い横揺れがきた。津波注意報が発令された。震源はいわき沖140キロ(東経142.6度、北緯37.0度)。NHKのテレビ画面に、赤地に白抜きの「すぐ避難を!」という文字が映し出された=写真。アナウンサーの声も切迫調だった。

 きのうは午後5時すぎから雨が降り出した。地震のあとに雷が鳴った。あの4月11日の余震を思い出した。

 時間も同じ夕方、5時16分。雷雨のさなかに、突き上げるような強い揺れがきた。震度6弱。外へ飛び出した。すぐ停電した。「地震・雷・火事・津波、そして原発」。少し先で火花を散らす落雷を初めて見た。この世の終わりのような“天変地異”に肝を冷やした。
 
 沿岸部から少し離れた内陸部に住む。地震の恐ろしさという点では、3・11よりも4・11の方が強烈な印象として残っている。大地の鳴動が収まらない。

2014年7月16日水曜日

40年前の写真

 これはもう「いわき市」ではなくて、「いわき中央市」とかなんとかいう架空の市役所広報課の話として読んでもらうしかない。

 昭和49(1974)年7月に撮影された写真が2枚=写真。1枚は、窓際の写真。3人の男がいる。向かって左、新聞を読んでいるのは広報課長、右は課長補佐。真ん中で補佐としゃべっているのが地域紙の若い記者。もう1枚は呻吟する係長のそばで、たばこを指にはさみ、煙を吐きながら何かを見ているその記者。25歳の私だった。朝の、いつものひとコマ。

 広報課(今は違った課名になっている)に属しながら、震災関係の記録づくりを手がけている市役所OB氏からEメールで問い合わせがきた。「データが出てきたのですが、似ているようで似ていなくて、わからないので確認方、よろしくお願いします」。99%はそうと思いつつも、裏を取りたかったのだろう。

 写真そのものは、広報課員が半分お遊びで撮影したものにちがいない。当時はむろん、フィルムカメラだから、あとで現像し、焼き付けた。それが40年ぶりにあらわれた。
 
 いわき市は昭和41年10月、14市町村が合併して誕生した。本庁舎はそれからざっと7年後の昭和48年3月、平・梅本に完成した。私が市役所担当の記者になったのは、その少し前だった。広報課で写真に撮られたのは翌49年夏の今ごろ。市長選が行われる2カ月前、ということになる。(撮影者は四倉・柳生のSさんか)

「似ているようで似ていなくて……」は、たぶん髪の毛のことをさしている。私自身がこの写真を見て、「昔、〇×(俳優の名前)、今、志村けん」とつい口にしてしまったくらいだから、40年の落差は大きい。なにはともあれ孫を驚かせるために、データをA4判のコピー用紙にプリントした。

2014年7月15日火曜日

アユ釣り

 夏井川のアユ釣りが6月28日(土曜日)、解禁された。小川町の夏井川渓谷に隠居(無量庵)があるので、自宅からの行き帰りに夏井川のそばを通る。川に釣り師がいた。それでアユ釣り解禁を知った。

 解禁2回目の日曜日、7月6日。隠居からの帰りに、たまたま対岸の道路を利用した。渓谷が終わり、水田が広がる平野へ出て、2番目の「両郡橋」を渡りかけたとき、川の中央にずらりと釣り師が並んでいるのが目に入った=写真。

 街へ戻るのに、橋を渡ることはない。往来する道からはところどころ河畔林で川が見えなくなる。橋を渡ったからこそアユ釣り師の存在がわかった。夏井川漁協(フェイスブック)によると、放射性物質は「検出せず」、天然アユも遡上しているという。

 釣りをしないので、その醍醐味は知らない。が、当たりがきて釣り上げるときの手ごたえは何ともいえないだろう、ということはわかる。マツタケやコウタケに出合ったときの喜びを、毎年、いわきキノコ同好会の仲間から聞いている。それからの類推だが。

「自然と人間のかかわり」を、阿武隈高地~いわきの平地~磐城海岸で考えるようにしてきた。

 なかでも、「川と人間のかかわり」は若いときから気になっていた。アユ釣りはそのための格好の被写体だ。そういえば、同じ日の早朝、ハクチョウが飛来する夏井川の「三島橋」上流右岸で地区民が何十人も出て草刈りに精を出していた。これも「川と人間のかかわり」のひとコマだ。写真に収めた。

「山と人間のかかわり」では、趣味のレベルでのキノコ採集がある。きょう(7月15日)の新聞折り込み(お悔み情報)に、旧知の奈良俊彦さんの訃報が載っていた。「福島きのこの会会長」とあった。享年68。

 いわきキノコ同好会の設立当初、採集会でいろいろ教えてもらった。栃木の「チチタケうどん」は奈良さん直伝でつくり方を知った。合掌。

2014年7月14日月曜日

アリオスパークフェス

 いわき芸術文化交流館「アリオス」の隣に平中央公園がある。アリオスが建設されるときに、施設と一体となるよう再整備された。

 その公園で4~11月の第2日曜日、アリオスパークフェスが開かれる。カミサンが6月、「フェアトレード&ブロカント(美しいガラクタ)」という名前で出店した。きのう13日の7月のフェス=写真=にも参加した。国際協力NGOシャプラニールのフェアトレード商品を中心に展示・販売した。

 園内の遊歩道を利用して物販テント、ケータリングカー(飲食)が並び、広い芝生やアリオスの通路でライブ、ストリートダンス、バスケなどのイベントが行われる。パークフェス参加は6月に続いて2回目だが、今回のにぎわいには目を見張った。物販のテントの数が多い。

 義妹やいわき駐在のシャプラのスタッフ、シャプラが運営している交流スペース「ぶらっと」のボランティアでもあるTさんが手伝いに駆けつけた。
 
 車乗り入れによる物販なので、パークフェスが終わるまで車は動かせない。6月はシャプラのスタッフの車で、今回は私の車で荷物を運んだ。車の前の芝生にテントを張って品物をそろえたあとは、一日、車の中で本を読んだり、園内をぶらぶらしたりして過ごした。

 パークフェスの特徴は――と、2回の経験しかないのに言うのだが、30、40代の親子連れが多いことだろう。

 公園で遊んでいる子どもはたいがい幼児から小学生だ。アリオスの2階に直結するよう盛り土された、斜面の多い芝生で、木陰も多い。トイレはアリオスのを利用すればいい。要するに、子どもを“野放し”にできる。
 
 物販についていえば、異なる世代の人間がいることでテントを訪れる客層は広がる。子育て世代のTさんの仲間が次々に訪れて、買い物をした。売り上げが伸びたのはそのおかげらしい。

2014年7月13日日曜日

庭にキノコが

 庭のプラム(スモモ)の赤い実が落果し、甘酸っぱい香りを発散している。手が届くところはとっくに収穫した。そばのブロック塀に上がれば、ずっと上まで摘むことができるが、完熟一歩手前の赤黄色い実は少ない。

 ブロック塀に手をかけて、上がったものかどうか思案していたら、塀の陰の地面にキノコのかたまりがあるのが見えた=写真。

 ブロック塀の向こう側は義弟の家の庭だ。わが家の庭の続きのようなものでもある。切り株からサマツモドキがびっしり生えていた。図鑑には食用、体質によっては中毒する、とある。食べたことはない。

 30代に平の石森山で見たのが最初だった。3・11後はさっぱり森を巡らなくなった。巡っても、そこにキノコがあっても、採ることを封印している。楽しみが消えた。

 庭の切り株の本体は確かカイヅカイブキだ。地球温暖化の影響か、台風や低気圧が凶暴化している。その影響で何年か前、カイヅカイブキの根が揺すられ、木が傾いた。近所の造園業者に頼んで根元から切ってもらった。

 キノコの胞子は、森だけではない、街にも飛び交っている。その胞子がたまたま切り株に定着した。年を追って切り株の分解が進み、今年はついにキノコが発生した。森を巡らなくなった人間の代わりに、森のキノコがわが家へやってきた。

2014年7月12日土曜日

古着リサイクル

 日曜日はなにもなければ夏井川渓谷の隠居(無量庵)で過ごす。わが家へ帰るのは夕方。

 あるとき、帰宅すると玄関をふさぐように洋服と紙袋が置いてあった=写真。洋服は、クリーニングをすませたのが何着か。紙袋に入っているのは食器その他。だれが持ってきたのだろう。カミサンが紙袋の走り書きを見て了解した。

 古着はいわきのNPO「ザ・ピープル」のリサイクルシステムにのせる。わが家がショップのひとつになっている。必要とする人が買いにくる。不要になったからと持ってくる人がいる。古本類は知り合いの若い古本屋へ。安くても引き取りに来る。それを、いわきで支援活動をしているNPOの「シャプラニール」に寄付する。

 震災から3年4カ月。なにか少しあわただしくなってきた。古着などのリサイクル品を持ってくる人が増えたような気がする。「家を売ったから」「引っ越すから」。理由はさまざまだ。
 
 日曜日、玄関にどさっと置いていった人は「引っ越し」組だった。ある日、夫が出勤したら解雇を申し渡された。定年退職にはまだ少しある。事故をおこした企業の再建計画の一環、退職勧奨というやつだろう。夫は双葉郡で生まれ育った。平のマンションを売って、千葉県の自宅へ戻ることにしたという。

 きょう(7月12日)は、午前4時22分の地震で目が覚めた。家がコロの上で行ったり来たりするように、長い時間、横揺れが続いた。津波注意報が発令された。震源はいわき沖140キロ、正断層型というから、「アウターライズ地震」だろう。人間界も、自然界も3・11の余震が収まらない。

2014年7月11日金曜日

歯科医とスズキ

 広野町の歯科医院が3年4カ月ぶりに再開した、というニュースに接したのは7月4日。会ったことはないが、奥さんとスズキの魚を介して縁ができた歯医者さんだ。カミサンも記事を読んでうれしくなったのか、さっそく奥さんに電話をした。
 
 それから2日後の日曜日、魚屋さんからスズキのあらをもらった。あら汁にした=写真。歯医者さんを思い出した。
 
 3年前の2011年7月、小欄で「広野へ」と題して次のようなことを書いた。

 3・11前、双葉郡の沖で歯科医のご主人が釣ったスズキを、奥さんが持ってくる――そんなことが何度かあった。奥さんとカミサンが「古裂れ」を介して知り合った。その縁で、今ごろになると旬のスズキが届いた。

 最初に魚をまるごと一匹持ってこられたときには、どうしていいかわからず魚屋さんに駆け込んだ。二度も、三度も甘えるわけにはいかないので、以後は悪戦苦闘の末、自分でスズキを三枚におろすようになった。

 歯科医院は自宅が「大規模半壊」になった。津波も床下まで襲った。原発事故の影響で広野が全町避難を余儀なくされた。家族全員が「避難民」になった。すると、空き巣に入られた。
 
 で、3・11から4カ月後、奥さんとカミサンが連絡を取って、捨てるしかないという古着をリサイクルするために、もらいに行った。私は運転手だ。

 ご主人は一度、東京に職を得たが、今は福島市で仕事をしている。単身赴任だ。残る家族(奥さんと子どもたち)は東京暮らしのまま――。
 
 去年(2013年)秋、少年時代をそこで過ごしたという後輩を車に乗せて、広野・楢葉町を巡った。除染作業が進み、国道6号沿いの田園風景が一変していた。

 広野での歯科診療は、当面は週一日、木曜日だけだという。福島から通うのはきついにちがいない。が、細くても、小さくても再び広野とのきずなが生まれた。次はスズキとのきずな、だが……。

2014年7月10日木曜日

雨の中の“お迎え”

 きのう(7月9日)、親が仕事で家を留守にしたため、初めて小1の孫を迎えに行った。待ち合わせ場所は通学路の途中にあるカレー料理店の前。
 
 あいにくの雨だ。ざっと200メートル先、子どもたちが利用する国道6号の歩道橋を見続けるが、予定の下校時間(午後2時15分ごろ)になっても姿を現さない。たたきつける雨でズボンのすそがぬれはじめたころ、やっと歩道橋に雨傘が見えた。大人が1人、黄色い帽子をかぶった1年生が5人、階段を下りてきた=写真。

 台風8号の影響で梅雨前線が刺激され、日本海の佐渡方面から太平洋のいわき方面へと次々に雨雲がわいてくる。それで、朝から降ったりやんだりを繰り返していた。雷も鳴った。さいわい風はなかった。
 
 孫を車に乗せてわが家へ帰る途中の会話。引率の先生は?「教頭先生」。最後に別れた女の子とは「いつも2人で帰る」という。
 
 わが家に着くとすぐ、ランドセルから連絡帳その他を出して宿題を始めた。カミサンが「待ってました」とばかりに、おやつを用意して、そばにつきっきりになる。
 
 連絡帳をパラパラやると、「さんぷり」とか「こくぷり」とかいう文字が目に入った。宿題のプリントのことだという。連絡帳の最初の方にはちゃんと「さんすうぷりんと」「こくごぷりんと」と書いてある。
 
 なるほど、入学から3カ月、子どもも学校生活に慣れてきたころだ。省略語でも通じると判断したのだろう。新聞だって、しょっちゅう省略語を生んでいる。「第3セクター」が「3セク」に短縮され、「パーソナルコンピューター」が「パソコン」に縮まったように。サ・ン・プ・リも、コ・ク・プ・リも、パ・ソ・コ・ンと同じ4音。落ち着きがいい。
 
 もうひとつ、きのうのブログの続きになるが――。「ホールボデイカウンタは……」と言うと、間、髪をいれずに「やった、ずっと前に」。「あの大きなトラックのような車で?」「うん」。いやはや、こんな会話が成り立つとは……。初めての「学童保育」は楽しくもあり、重くもあり、だった。

2014年7月9日水曜日

JAEA

 JAEA(ジャパン・アトミック・エネルギー・エージェンシー)。独立行政法人日本原子力研究開発機構の略称だ。3・11前は、いわきの人間には縁遠い組織だった(と思う)。

 春の夕方のいわき駅前。背中に「JAEA」の文字が入った作業服の人間が歩いていた。隣郡でおきた原発事故の収束作業と除染、それにいわきの復興作業に従事する人間がたくさんいわきに入っている。原子力関係の専門機関の人間がいても不思議ではない。

 双葉郡楢葉町に、廃炉に必要な研究開発の実証試験をしたり、事故をおこした原発内部の状態を“再現”したなかでロボット操作などを実験したりする、JAEAの「モックアップ(原寸模型)施設」ができるらしい。その関係だろうか。

 後日、別の件で再び「JAEA」が胸に刻まれた。6月下旬の日曜日、小学校の前を通ると、校庭に「体表面汚染自動測定機能付ホールボディカウンタ車」=写真=が止まっていた。側面に、JAEA、1号車、キャンベルジャパン株式会社などと書かれている。
 
 授業に使うのだろうか、実際に数値を測るのだろうか。なんとなく気になっていたので、別の小学校の保護者がわが家へ来たときに聞いてみた。子どもの数値を測っているのだという。学校を巡回しているのだ。今もどこかの学校にこの測定車が止まっているのではないか。
 
 いわきで「JAEA」の人間や名前を見たり、聞いたりするようになるとはなぁ――という思いを禁じ得ない。いや、工業集積のあるいわきだからこその、楢葉の「モックアップ施設」なのかもしれない。

2014年7月8日火曜日

カツオの宅配便

 週に1回、一筋(4分の1)ほどの分量を、染付の「マイ皿」(八寸)に盛ってもらう。春から秋遅くまで、カツオがあるうちはそうする。日曜日(7月6日)のカツオの刺し身=写真=は、魚屋さんが自慢するだけのことはあった。うまかった。

 夏、北上していわき沖に現れるころ、カツオは脂がのってくる。晩秋の下りガツオはもっと脂がのっている。“トロガツオ”に当たったときには、田村郡小野町出身の小泉武夫センセイではないが、“頬落舌躍(ほおらくぜつよう)”の境地になる。

 カツオはなんといっても生(なま)が一番だ。魚屋さんの店頭にクール宅配便の山ができていた。なにげなく数えたら、20以上あった。合計では30個以上発送することになる、ということだった。
 
 一日でそれだけの注文があったわけではない。前々から頼まれていた。「いいカツオのときに送ってほしい」。そのカツオがこの週末に手に入った。
 
 以前はまるごと1匹を送る例が多かったが、最近はすぐ食べられる状態で送る。皮つき、皮なし、ひやまだけ、半分ひやま、カツオの塩辛も、……。冷蔵運送の技術が進歩したこともあって、発泡スチロールの箱に氷を詰めて刺し身を送る――そこまできた。
 
 3・11直後は相手から宅配便の受け取りを拒否されることがあったという。3年4カ月近くたった今は、送る側も、受け取る側も了解のうえのことだろう。
 
 いいカツオが手に入るのはしかし、猛烈な勢いをもつ台風8号の接近前まで。台風が来たら休漁になる。これほどのカツオが再び揚がるかどうかはわからないという。台風の進路が気になる。

2014年7月7日月曜日

高田梅とプラム

 わが家のプラム(スモモ)も、夏井川渓谷の隠居(無量庵)にある高田梅も、今年は豊作だった。

 青いプラムの実が鈴なりになっているのに気づいたのは、夏至(6月21日)の朝だった。プラムは7月に入ると黄色くなりはじめ、やがて赤黄色から完熟して赤くなる。いい梅、いいプラムにするには開花後1カ月ごろに1回、それからさらに20~30日後にもう1回、摘果をする必要があるのだが、毎年考えるだけに終わってしまう。今年もなまけてしまった。

 ほうっておくと、7月中旬には落果が始まる。それを察してか、カミサンが土曜日(7月5日)の早朝、ザルに半分くらい収穫した。
 
 完熟一歩手前の赤黄色いプラム=写真=が好きだ。やや甘酸っぱくて、果肉がシャキシャキしている。そういうプラムなら、立て続けに10個くらいはいける。やはり、今度も食べ続けた。
 
 わが家の完熟果は、やわらかいのはいいのだが、水で薄めたような甘酸っぱさしか感じられない。肥料を施したことも、摘果をしたこともないので、栄養がゆきわたっていないのだろう。結局、完熟果がザルに残り、傷のあるところから傷みが広がるから、最後は庭へ戻すことになる。
 
 渓谷にある隠居の高田梅はジャムにするつもりで収穫した。家に持ち帰り、すぐ下ごしらえをすればよかったのに、「欲しいという人がいないともかぎらないので、ベクレルを測ってから」とちゅうちょしているうちに、これも全部ダメにした。隠居へ運んで土に返した。
 
 きのう(7月6日)、隠居の庭の草刈り中にのどが渇いたので、取り残しの高田梅をもぎって食べた。完熟一歩手前で赤黄色くなっている。甘い! アンズの味がする。梅とアンズの雑種である「豊後梅」に在来種の梅をかけあわせて改良を加えた――という説があることを思い出した。
 
 プラムであれ、高田梅であれ、生食はこの赤黄色いものが一番だ。「プラムはすっぱい」という思いこみは、子どものころ、我慢できずに黄色いものをつまみ食いしたからだろう。集団でプラムの木を囲んでいた記憶が残る。

2014年7月6日日曜日

無事であること

 一日一日が無事であることのありがたさ、大切さ――。それを、とりわけ3・11後は実感している。「地域の御用聞き」(行政区長)をおおせつかったことも大きい。

 ほとんどはささやかなことだ。側溝のふたが壊れた。道路にへこみができた。木の枝が歩道を覆っていて歩きづらい、見通しが悪い。草刈り程度のことは自分たちでもやれるが、側溝のふたの更新などは行政につなぐ。あとは緊急度による順番待ち、ということになる。
 
 6月に春のいわきのまちをきれいにする市民総ぐるみ運動が行われた。そのとき、住民から複数の要望を受け、うち1件については市役所に改善方を申し入れた。
 
 住宅に囲まれた狭い道路と庭木の土留めブロックの間に、かすかなすき間ができた。すき間が広がって陥没しないとも限らない。市に連絡すると、道路パトカーがやってきた。その時点ではまだ緊急性が薄いと判断したのか、様子を見ることにしたらしい。
 
 ところが、日を追ってすき間が拡大し、道路もへこんできた。再度連絡を受けて見に行くと、大人の足がすっぽり入るくらいに陥没している。昼はともかく、夜は歩行者が足をとられてけがをしかねない。市に電話したら、すぐ道路パトカーを回してくれた。アスファルトを盛って凹みを修繕した=写真。
 
 別の日には、またちがった情報が飛び込んできた。公園と集会所の間に張られたネットがずり落ちている――。
 
 子どもたちが公園でキャッチボールをしているうちに、ボールがそれて集会所のガラス戸を割るときがある。それを防ぐためにごみネットを張った。ごみネットは区が用意し、子どもを守る会が管理をする、ということにした。
 
 連絡のあった翌日、ネットの様子を見たうえで守る会の役員さんに事情を説明した。夕方にはネットが元通りになった。
 
 地域の問題の芽を小さいうちに摘むには、こうした住民間の連絡・相談が欠かせない。その積み重ねのなかで地域の無事が維持されている。ささやかだが、大事なことだ――と、これは悩ましい問題も抱えているからこその自戒。

2014年7月5日土曜日

新谷窯展

 いわき市大久町に工房を構える新谷夫妻の陶展がきのう(7月4日)、平・一町目の坂本紙店2階フリースペースで始まった。7日まで。

 新谷夫妻がいわきで最初に陶展を開いたのは、たしか昭和50年代前半だ。平・南町の草野美術ホールが会場だった。そこで個展を開いた作家の何人かとは、今もつきあいがある。新谷夫妻もそうだ。
 
 日用雑器に徹していて、値段が手ごろなために、作品展のたびになにかひとつは買い求めるようにしている。最初に呉須(ブルー)の馬上杯を買った。ぐい飲みを集めていたので、その延長で風変わりな酒器に手が出た。
 
 草野美術ホールが閉鎖されたあとは、いわき駅周辺の貸しスペースを会場に、毎年作品展を開いている(震災後は一時休止)。今年は坂本紙店が会場だ。震災後、解体・新築された同店にフリースペースができたことを、夫妻の案内状で初めて知った。
 
 このごろは、ぐい飲みより豆皿に興味がある。年齢とともに酒量が落ちた。一方で春~晩秋の日曜日、にんにく醤油でカツオの刺し身を食べる習慣は続いている。去年はそれで、刺し身の醤油皿に赤絵の角皿を買った。どの豆皿を使うか、選ぶ楽しみができた。
 
 新谷窯の特徴のひとつは呉須の塩釉(えんゆう)だろう。塩釉は文字通り、塩を釉薬に使う。窯で作品を焼き上げる過程で並塩を投入すると、ガス化したものが焼き物に付着して化学反応をおこし、ダークブルーの地にシルバーメタリックのような模様が生じる。その色合い、紋様が面白い。来展者の反応も同じらしく、欲しいと思った五寸皿、六寸皿すべてに「赤ポチ」がついていた。
 
 ならば――。糠漬けのキュウリやコカブを入れる小鉢を買い、早速キュウリと大根を盛ってみた=写真。色合いからしてキュウリが似合っている。なるほど、器もごちそうのうち、だ。

2014年7月4日金曜日

ナヤンデルタール人

 雨上がりの草木を見るのが好きだ。葉がつやつやしている。小さな葉先に小さな水滴ができている=写真。3・11前なら水滴を「甘露」にたとえただろう。が、今はそんな比喩は使えない。

 本物の「甘露」を飲みに、久しぶりに田町(いわき市平の飲み屋街)へ繰り出した。同じ場所で、同じ時間帯に別々の集まりがあり、酒友が示しあわせて2次会に合流した。
 
 60代が2人、50代が2人。スナックのカウンターの端と端に陣取り、世代ごとに相対するようなかたちで言葉を交わした。オヤジギャグがときどき出た。
 
 そのひとつが「ナヤンデルタール人」だった。「ネアンデルタール人」にひっかけたオヤジギャグだが、1人はわかってくれたようだ。少し黙考したあと、「クローマニョン人」と返ってきた。「いい、いい。すごくいい」。忘れないようにすぐメモした。
 
「ネアンデルタール人とクロマニョン人」に、「悩んでいる人間と苦労している人間」が重なる。人は、表向きは「アハハ、オホホ」とやっていても、内面にはそれぞれ屈託を抱えている。その“真実”の一端をつく対のオヤジギャグが完成した。
 
 池波正太郎の『鬼平犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』を読めばわかることだが、人間は矛盾を生きている。きょうの矛盾をしのいだとしても、あしたはまたあしたの矛盾が押し寄せる。「ナヤンデルタール人」と「クローマニョン人」に変わりはないのだ。われながらいいギャグができたと思うのだが、どうでしょう。

2014年7月3日木曜日

カネは内藤 下がり藤

 夏井川渓谷にある隠居(無量庵)の庭が全面除染され、山砂が敷き詰められたことで、植物の芽生えをゼロから観察できるようになった、と思えば楽しい。

 地下茎で増えるスギナが、猛烈な勢いで山砂の世界を緑に染めつつある。表土を5センチほどはぎとったくらいでは、スギナの地下茎はびくともしなかった。菜園には生えてほしくない。が、雨が降れば山砂が流される。スギナはそれを防ぐはたらきもする。

 ある日、東側の庭に黒い“碁石”がばらまかれていた。見ればフジの種子で、冬にさやがはじけたらしい。雪が積もり、雨が降って、“碁石”が半ば山砂に埋もれかけたあと、芽を出した。気づいたときには幼い羽状複葉が広がっていた=写真。

 無量庵の庭では、カエデがたくさん芽を出す。カミサンがときどき実生をポット苗にする。育ちが早い。本気になってポット苗づくりをしたら、「カエデの苗木屋」になれるかもしれない。

 フジもカエデ並みに繁殖力が強い。庭の一部に、集中的に芽が出ていた。実生をこのまま放置していたら、フジだらけになりそうだ。フジはやがて近くの木に巻きついて、木をしめ殺す。フジのジャングルになって自滅する、という図が浮かぶ。

「カネは内藤、下がり藤」といわれたのは、昔、磐城平藩を治めた内藤氏。「下がり藤」はその家紋からきている。幕末の殿様は、逆に「上がり藤」の安藤氏。そうそう、話題の映画「超高速!参勤交代」は磐城平藩内藤氏の分家、湯長谷藩が舞台。フジの実生から「下がり藤」を連想し、まだ見ていない映画のことを思い出した。

2014年7月2日水曜日

ネムノキとネジバナと

 7月になると、いわきではネムの花が咲く。きのう(7月1日)、国道6号常磐バイパスを利用したら、2カ所で満開だった。「おっ、ネムの花だ」。思わず叫ぶと、助手席から声がかかった。「前から咲いてるわよ」。何日か前、友人の車に同乗して気づいたのだという。
 
 平の市街地と夏井川溪谷を結ぶ県道沿いに何本かネムノキがある。日曜日(6月29日)には、花はなかった。バイパスのネムノキは、それに比べたらずいぶん早い。

 そのネムノキと同じくらいに驚いたのが、わが家の庭のネジバナだ。今年初めて花を見た=写真。こぼれ種が根づいたのだろう。
 
 2年前、となりのコインランドリーの駐車場で咲いているのを見た。近所のおじの家の庭でも咲くようになった。種が風に飛ばされてきたのでなければ、わが家の庭のネジバナは、夏井川渓谷の隠居(無量庵)の庭にこぼれた種が、靴かなにかについて運ばれてきたのだ。
 
 無量庵では年を追って数を増やしたが、除染で庭の表土がはがされたため、今年はネジバナがひとつも見えない。しかし、これもいずれ復活するはずだ。

そういえば、街路の花壇にネムの幼樹が生えていた。河原にも多い。野生植物の生命力はそのくらいすごい。

2014年7月1日火曜日

二十日大根から始める⑧

 この小シリーズも、今回が最後。5月の大型連休後半の4日(日曜日)、夏井川渓谷にある隠居(無量庵)の庭に、二十日大根とカブの種をまいた。6月8~22日に収穫した。二十日大根は、最後は「五十日大根」になった。
 
 無量庵の庭が除染されて山砂が敷き詰められた。その山砂と、下に眠っている「元菜園」の土を耕して、小菜園を再開した。おととい(6月29日)、未熟なままに終わったものを始末した。
 
 敵は虫だった。6月に入ると、体長が7ミリ前後のカメムシの仲間(ヒメナガメ)が葉にとりつき、カブラヤガの黒い幼虫も現れた=写真。ともに葉を食害する。写真から1週間後の6月29日には、二十日大根の葉も、カブの葉も消え、筋がとろけかかっていた。
 
 十何年も前になるが、春に一度カブの種をまいて収穫し、すぐまた種をまいたら、順調に芽が出た。が、その後すぐ、カブラヤガの幼虫とヒメナガメによって食害され、若葉がすべて消えた。
 
「虫の王国」である。週末に1~2時間、菜園に立つだけだから、虫の繁殖期にはえさを提供しているようなものだ。以来、梅雨にはカブや二十日大根の栽培をやめた。

 失敗が教訓になる。その記憶が、虫の繁殖期の播種(はしゅ)にブレーキをかける。種は余っているから途切れることなくまけばいい、のではなく、まいても全滅するるから秋まで待つ。我慢のときだ。