2014年9月23日火曜日

父の27回忌

 生きていれば、間もなく数え100歳。大正4(1915)年生まれの父親のことだ。きのう(9月22日)、1年半ぶりに田村市常葉町の実家へ帰り、兄弟だけで27回忌の墓参をした。そのあと家で食事をし、午後1時前には解散した。

 父親は昭和63(1988)年10月10日、誕生日に亡くなった。そのときの拙文――。

「夜10時前、実家から電話がかかってきた。連休を利用して泊まりに行き、わが家へ戻って5時間後のことである。『あのあと、じいちゃん(父親)の具合が急に悪くなって駄目だったの』と、義姉が沈んだ声で告げた」
 
 この年の春に発病した。「3カ月の入院生活を経て自宅療養を続けていた」「会うたびに父は小さくなっていった。いのちがしぼんでいくのが、手に取るようにわかった」
 
 いわきへ帰るために、父親にあいさつした。「『元気を出さなきゃ』というと、小学生みたいにコクリとうなずいた。それが最後だったが、死に目に会えなかった、という悔いはない。/そういえば、その日はおやじの誕生日。生まれた日に死ぬなんて」
 
 当時、私は40歳、父親は73歳。26年たった今、父親の年に近づいたこともあって、父親は体力の衰えとともに死を意識していたのではないか、という思いが強くなった。記録があるからこそ、読むたびに最期の記憶がよみがえる。
 
 墓は町の東はずれの小山にある。一見、雑木交じりの杉山だが、ふもとから上へと墓が増設された。本家の墓はふもとにあっても、分家の墓をつくる余裕はない。分家はついのすみかを求めて上へ、上へ、ということになる。

墓へ行く坂道から町が見える=写真。墓は日差しが遮られて薄暗い。そのおかげで雑草はほとんど生えていないが、ヤブカが一気に襲ってきた。
 
 墓石は、東日本大震災のときには無事だったが、一段上の墓石が落ちてきてぶつかり、角が一部欠けた。そばにある両親の法名碑を写真に撮った。帰宅してデータをパソコンに取り込み、法名碑を拡大したときに、<しまった、きょうが母親の命日だった。忘れていた>。母親は平成17(2005)年9月22日、満90歳で亡くなった。なんてことだ。
 
 兄はどうだろう、承知していたのか。実家は床屋で、月曜日が定休日だ。10月10日前後はウイークデー、ならば世間が連休になる合間に法事をしよう、となった。母親も生きていれば数え100歳。胸中、あわててわびながら、手を合わせた。
 
 墓があるからこそ、ふるさととつながっている。ふるさとへ帰れない人が墓を移転したら、ふるさととのきずなは切れる。ふるさとは死者とともにある――身近な死者と対話しながら、双葉郡の住民が抱えている葛藤にも思いがめぐった。

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